まえがき

まず最初に、この話は連作の最終話だということご了承ください。
「YOU ARE MY STAR」(Eternal Moment)
「FEVER」(エヴァに取り憑かれし心……その容れ物)
「世界は燃えている」(綾波展)
「Couple Days」(綾波展)
の四話がすでに公開されています。
現在Eternal Momentが消失しているため、tambさんのご好意でサルベージさせてもらうことになりました。感謝!

では、どうぞ。

















 大丈夫かなと思ったりもしたけど。

 だめなんだ。

 どうも君がいないと、だめみたいなんだ。



Let it snow! Let it snow! Let it snow!
                               Written By NONO



 暗い、異様な場所だった。
 見覚えがある。もう二度と行きたくない場所の一つだ。ネルフ本部の最深部は狭い縦のトンネルを抜けた先にある。そこは広大な空間で、血の臭いが充満している。大量のLCLが――それこそ海のように大量に貯えられている――静かに生臭さを放ち、そこから突き出る氷の柱はオレンジがかった色をしている。それとも、LCLの色を映し出しているだけかもしれないが、よくわからない。壁も天井も真っ黒く塗られ、大量のライトがその空間の説明をしていた。
 そこにはそれ以外のものはなかったが、長い横のトンネルで別の場所と繋がっていた。ネルフ本部から縦のトンネルを「落ちてきた」彼の乗る機体をもすっぽり通れるほど巨大なトンネルで、どこか別の場所に繋がっていた。トンネル内は足下に明かりがついているだけの暗い道で、その長い長い道をまっすぐ進んだ先には、黒い扉が鎮座していた。
 扉が開く音がした。
 少年は相対する深紅の巨人を相手に、トンネルを抜ける間中もとっくみ合いをつづけてきたが、まだ決着はついてない。巨人の喉に突き刺したナイフは、今や頭部に深々と突き刺さっているが、その動きに衰えはなかった。

 くそ!

 彼は焦り、そのせいで握っていたナイフを離されるだけの隙を作った。巨人がすかさずわずかな距離を取り、彼の乗る紫の巨人の腹に前蹴りを見舞った。両腕で防御したが、その威力は凄まじく、奥につづくトンネル近くまで吹っ飛ばされた。すかさず追い討ちをかけるべく迫る巨人の足音以外に、トンネルに近づいたせいでより明確に聞こえるようになった奥の扉の開く音がした。時間はない。少年は扉の奥になにがいるのか知っていた。少年の父がもう届かない場所に立っていることを思い知らされた「なにものか」が磔にされているのだ。
 少年は踏みつぶしにかかる巨人の一撃をかわし、その足をつかみながら立ち上がった。その動作で逆に巨人を俯せに転ばせる事に成功し、相手が体勢を整える前に拳を顔面に叩きつけた。赤い巨人が懸命に攻撃をかわそうと身体をねじったが、ちょうど仰向けになった顔に刺さったナイフに拳が叩き込まれると、赤い巨人はわずかなうめき声をあげ、動きを止めた。

 急がなきゃ――

 少年は操る機体に赤い巨人の足をつかませ、ひきずりながら走った。どうしてこんなことをしたんだよ、どうして――それを扉の奥に向かおうとしている「彼」に聞きたかったからだ。トンネルは随分長かったが、それでも十数秒で扉まで辿り着くことが出来た。しかしどう考えても「彼」が事を起こすには十分な時間を与えていた。遅かったか?
 扉をくぐると、「彼」がいた。宙に浮いたままこちらを見つめていたが、なぜか「彼」も「彼」の目の前にいる、赤い十字架に磔にされた白い巨人にも変化はみられなかった。
 それよりも、宙に浮かびこちらを振り向いている「彼」の両眼には、なんら戸惑いや悲しみといった、かすかに期待していた感情はなかったことに少年は腹を立て、その怒りにまかせて紫の巨人に「彼」を捕まえさせた。

「ありがとう、シンジ君」

 スピーカーから聞こえてくる声は、優しかった。
 モニターにクローズアップされた彼の顔は、いまや笑みさえ浮かべていた。

「弐号機は君にとめておいてもらいたかったんだ。そうしなければ、彼女と生きつづけたかもしれないからね」
 言っていることの意味はわからなかった。言いたいこともうまく言えそうになかった。シンジは、ただ訊ねた。
「カヲル君、どうして……!?」
 渚カヲル、彼はやはり笑ったままだ。
「僕が生きつづけることが、僕の運命だからだよ。結果、ヒトが滅びてもね」
「だが、このまま死ぬこともできる。生と死は等価値なんだ、僕にとってはね。自らの死。それが唯一の絶対的自由なんだよ」
「なにを……君がなにを言ってるのかわからないよ、カヲル君」
「遺言だよ」
 彼はそれを、ごく自然に言うのだった。そして、こうも。
「さあ、僕を消してくれ」
「!」
「そうしなければ、君らが消えることになる。滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれないんだ。そして、君は、死すべき存在ではない」
 やめろ、やめてくれ。
 この光景を俯瞰(ふかん)で見ている少年自身がいた。
 こんなの、見たくない。
「……」
「君たちには、未来が必要だ」
 やめろ。
「……」
「ありがとう、君に会えて、嬉しかったよ」
 やめろよ!



 しかしやがて、機体を操る右手に力がこもると嫌な感触が走り、LCLになにかがボシャリ、と音を立てて、落ちていった。
 落ちたそれは、笑みを浮かべつづけていた。



 場面が変わる。



 嵐が吹き荒れていた。
 風がぎゅるぎゅると唸りをあげ、少年――碇シンジの乗る初号機は、それよりはるかにカン高い声で叫んでいた。
 だが、シンジはそれよりもっと悲惨な声で、叫びつづけていた。
 彼の視界には吹きすさぶ突風の中、平然と空中を舞う白い巨人が目も鼻もない代わりとでも言うように異様に大きな口をにたにたと開け、両手に本来の半分以下の大きさになり、三分の一以下の重さになってしまっている、本来深紅のはずのエヴァ弐号機を掴んでいた。
 腰から下は既に無かった。背骨が露出し、内臓はほとんど食いちぎられている。四ツ目のうちの半分はかろうじてそこにあるだけの、ただぶらさがっているだけのものになっていた。
 それは紙くず同然に投げ捨てられ、やがて、初号機と正反対に低いうなり声を白い巨人――エヴァ量産機があげ、初号機とはある程度の距離を保ちつつ取り囲むと、それぞれ一本ずつ持っていた黒い槍のうち三本が、胸と両手にそれぞれわずかに突き刺さると、その途端に初号機は活動を停止した。
 ただでさえ高かった高度が、さらに上がっていく。自分の意志や期待とは反対の事態ばかりが発生している。勝手に、勝手に。操作不能、被包囲完了、同僚の喪失……頭が混乱するには十分すぎた。
 やがて、得体の知れない白い巨人が現れた。
 得体は知れないが、顔だけは、よく知っている少女の顔だった。
 再び、絶叫。





 目を開いても、閉じてみても、真っ暗な世界ばかりが広がっていた。
 ところがよく見ると、「黒いもの」は無数の影から成っているのだと知った。あらゆる人間の影が支配するところ。
 その闇に染まって、いつしか自身の姿も影しか見えなくなっていった。
 ああ、溶けていく。
 溶かされていく。
 このまま、暗いまま、楽になれるのかな……?波風のない、平穏な感覚……。
 消えかかる身体に反比例して影が濃くなり、溶けていく身体が赤信号を鳴らしはじめた。
 周りと一体化していって、どんどん楽になっていたのに。
 しかし、心にも波がなくなると、それが怖くなった。波風が立たない、無音、無風状態になればなるほど心は穏やかになっていくのに、残された心は危険だと叫んでいる。ここを離れまいとしている。


 そうだ、これじゃ駄目だ、誰か……助けて!


 すると突然、真上から光が差し込み、そこから白く細い腕がのびていた。手を伸ばせば届くくらいの距離。


 誰かの声がした。


 僕にはまぶしすぎるほどの光から聞こえるのは、彼女の声だ。


 綾波!






「碇くん!」






 手を掴んだ。






 場面が変わる。



 一転して、空が広がっていた。そして、その空の上に立っていた。空中に設置されたガラスの上に立っているかのようだった。
 真下には、街と、そこを歩く人々の姿があった。
 そしてさらにその下――街の光景が透けて奥が見える――には真っ赤な地球と、幾百億、幾千億もの淡く緑に光る十字架が地表に突き刺さっている光景、さらにそれを宇宙から見た様子が見えた。あれが事の結末かと思うと、あっけない気もした。少なくとも、シンジには。
「これが、人類補完計画?」
「そう、愚かな人類の、愚かな夢の、愚かな結末。僕からすればね」
 銀色の髪をした、長い首の上にちゃんと頭の乗った少年が言う。
「カヲル君……」
 その姿に胸が痛んだ。彼を潰したのは、他ならぬ自分自身だからだ。
「僕の目の前にいる、君たちはなんなの……?」
 最も素朴な疑問をぶつけてみた。
「そうだね……あえて言うならば――」
「希望、なのよ」
 カヲル君の隣に立つ綾波レイが言った。僕のことを良く知っているような表情で。
「希望?」
「そう……」






 そこで、夢から醒めた。






「!!」
 勢いよく起き上がると、今見ていたものが夢だったことを自覚した。高鳴る胸をおさえながら、すぐ横の窓に広がる景色をながめ、現実を確認する。落ち着け、今はもう大丈夫だ……。そう言い聞かせながら。外は暗く、部屋は嫌になるほどの寒さだった。汗をかかないだけ夏よりマシだろうか。そんなことを考えながら、ふたたび布団にもぐりこんだ。口の中は乾いていたが、それを潤そうと思うには冷蔵庫は遠く、部屋は寒かった。
 物音ひとつきこえなかった。外も部屋も静まりかえり、なんの音も聞こえやしない。自分の呼吸と、心臓の音だけで世界が成り立っているような気がしてしまう。それほどの静寂。文字通り寂しい世界だった。楽しいことなんてなにひとつない。さっきの夢と同じだ。あの夢は未だに彼を握りつぶした右手の感触や、彼女のことを思いださせ、こうしてはいられないという気にさせる。だからといってなにをするわけでもなく、ただ、今日もこのまま朝日を拝むまで眠れないだけだ。
 ひとりで静寂を噛みしめつづける。外が少しずつうるさくなり、やがて活発になるころ、ようやく何時間か浅い眠りを迎えることができるのだ。
「一人暮らしは寂しいよ」
 とはいえ、誰かと一緒にくらすような、そんな相手はいない。いたとしても、この過去を共に背負ってくれる人が、いったい世界中でどれほどいるというのだろう。
 窓を開けて、冷たい風を部屋に取りこんだ。街の色を単一化する雪化粧をながめ、白い息を何度か吐いてみた。白い色は嫌いだった。それでも、白に対する執心は消えそうにない。この色は、あるものを明確に思いださせてくれる色だからだ。それゆえに嫌うし、食い入るように見つめてしまうほどの執心もある。
 やがて、眠れないまま朝を迎えた。がたん、と扉の金属音が音をたてた。新聞屋だ。まだ早いがもう起きてしまおうと思い、部屋の明かりをつけ、ヤカンを火にかけ、郵便受けの中の新聞を抜き取った。それを脇にはさんだまま、机の上に放ったままだった安っぽい鎖を腕に巻いた。南北を意味する「S」と「N」のアルファベットが彫られたプレートがついてる二本の鎖を絡ませたヤツで、最近の流行ものだ。プレートの文字はいくつものパターンがある。「右」「左」だとか東西の「W」と「E」だとか。通常の値段からさらに千円払えば、自分のアルファベットを選ぶこともできた。といってもこれを買ってから一年近くたってるので、流行を先取りしたということになる。それはどうでもいいことだけど、これをいつもどおり右腕に巻くと、一日が始まるなと感じることができた。
 また、一日が始まると。

 二○一六年の夏がはじまる七月から僕――碇シンジ――は、日本海に面したある港町で生活をしていた。というより、させられていた。二○一五年も終わろうかというころ人類を襲った特務機関「ネルフ」の計画していた人類補完計画。サードインパクトと同義とされたその目論みを阻止すべく、戦略自衛隊は第3新東京市を襲撃したが、ネルフの決戦兵器の前に倒れた――そうして人類に平等に起こった現象「サードインパクト」は人類の三分の一を消滅させる結果となった。
 そんな筋書きが、当初の発表だった。
 ネルフとその手先に制裁を――と、世論は叫ぶ。
 二○一六年はこうしてはじまった。
 しかし、あまりに真実と異なっていた事実はあっさりと覆され、本格的に制裁がはじまる前に事実はさらに別の事実とすげ替えられた。人類補完計画によって起こった現象――人類がLCLへと液化したという物理的現象と、その際に現れた少女が人々の「望むかたち」に変形してそうさせたこと――を記憶している者は世界中探しても五人といなかったため、ネルフ側の人間にとって、都合のいい真実にすることはたやすかった。補完計画を目論み、実行したゼーレ(僕はこの組織ついて、当時は知らなかった)の人間が誰一人として戻ってこないのも好都合だった。
 要するに、真相は「ネルフはゼーレの目論んでいたサードインパクトを阻止しようとしていたが、それを防ぐことは敵わなかった――しかし、被害はネルフの決戦兵器によって軽減された」ということにされた。
 けれど、同時にネルフとエヴァンゲリオン、そして使徒という生命体も明らかになったため、世界を滅ぼす力を持つ使徒を倒すだけの力を持つエヴァンゲリオンのパイロットが、それぞれの国の田舎に軟禁されるのは当然といえば当然だという意見が多数だった。強すぎる力は封印せよという世の結論に飲み込まれ、僕は現在この街にいる。

 僕は時計を見て、八時をまわるのを確認すると掃除をはじめた。期末テストが終わったあとの学校に行く気はまったくなかった。それよりは今日訪れる客人のために掃除をしたほうがよっぽどいいと思った。狭い部屋――といっても居間と寝室二部屋あるので、高校生の一人暮らしとしては贅沢と言える――なので、たいして時間はかからない。そのあとようやく朝食をとり、読みかけの本を開いた。まるで主婦みたいだと思うと笑えるような、笑えないような心境になった。二年前のあの夏も、休みの日はこんな風に家事をしていたなと思ってしまったからだ。
 二年前。
 西暦二○一七年の世界を生きている人間にとって、この言葉がどれほど重いものかは推して知るべしというやつである。平等に訪れたある現象。しかしそれゆえに人々はその現象、つまりサードインパクトがなにをもたらしたか。人々にとっては「大量虐殺」でしかない。身の回りの人間が誰かしらいなくなっているのだから。まれに家族、友人すべているという場合もあるが、それは本当にまれなことだ。人々は自分ではどうすることもできない大きな力によって殺された(人々はそう認識している)ことに傷つき、その悲しみからまだ出られないでいる。
 しかし、僕のそれは違った。僕にとっての「二年前」の意味を理解できる人間は少ない。そのうえその過去を共有できる人間は二人しかいないと思うし、そのうちの一人はもはやこの世にはいないのだから。
 もう一人とは、物理的にも精神的にも溝を残したままずっと会っていない。それ以上に、距離どころか関係性そのものが、実は怪しい。
 だからといって、誰か支えてくれる人はもう世界中探しても見つからないのかと言えば、それはわからない。もしかしたら、僕の受けた傷口を見て、心から泣いて、傷が主張する痛みを共有したいと思う人が出てくるかもしれない。しかし、僕がその部分だけは他人に触れさせまいとしている以上は、たとえ誰であろうと、僕がささいなことひとつひとつに悲しんだり、後ろ向きに懐かしんだりするのを止められることはできないだろう。
 これから僕の部屋を訪れる客人も、こんな僕をなんとかしようと思ってくれた人の一人だ。今も最悪の日の夢をみて、眠れない夜をすごすことがあることを話し、あるひとつの秘密を除いたすべての心情を話した、ただ一人の大人でもあった。僕が今はもう無い街ですごしていた頃からの知り合いであり、今の街に来てからも月に一度は必ず会って僕の友人の現状報告をしてくれる。
 街を出られない僕にとって、あの戦いの街で知りあった友人たちの話が聞けるのはありがたいことだった。
 十時すぎにベルが鳴った。時間通りだ。
「いらっしゃい」
「こんにちは、シンジ君」
「ええ、あ、どうぞ」
「ありがとう。それにしても、すごい雪ね」
「そうですね……。あ、適当に座っててください、お茶いれますから」
 彼女は頷き、手慣れた仕草でクッションを背中にはさんだ。僕は湯を沸かし直し、ポットに注いだ。お盆にポットと二人の湯飲みを乗せて、居間に戻ると、彼女はまたお礼の言葉を口にした。
「マヤさんは、最近どうですか?」
「どういう意味?」
「いろいろ、ですよ。仕事とか、あるいは恋人とか」
 伊吹マヤの右手の薬指にはシンプルな指輪がはめられていた。だからといって恋人がいる証拠にはならないかもしれないが、しかしそこになにがしかの意図を感じる。
「どっちも、まあぼちぼちかしら」
「順調ってことですね」
「まあ、そうね」
「羨ましい話です」
「シンジ君こそ、どうなのよ?」
「僕ですか?なにもないですよ。ああ、でもこの間ちょっとあったな」
「え、なに、どんなこと?」
 思いだすと笑ってしまうような話だった。お茶を注ぎながら、思わず頭を掻いた。
「図書委員の子にね、告白されたんですよ」
「え!?」
「断りましたけどね」
「なに、なんて言われたの?」
「まあ月並みな感じで」
「その子はどんな子なの、かわいい?」
「まあ、かわいいのかな」
「じゃあ、なんで断ったの?」
「だって……」
 まったく、どうしようもないのだった。あの子のことに関しては、断るしかなかった。
「だって、なに?」
「僕はあの子が嫌いだったんですよ」
「あらまあ、どんなとこが?」
「ヒロイン気取りなとこが」
「よくわからないけど……それにしても、そういうことってあるのね」
「そういうことって?」
「ふつう、わかるじゃない?なんとなく。『あー、あの人私のこと好きなんだろうな』とか『嫌いなんだろうな』とか」
「それがわかってないからヒロイン気取りなんですよ。言ってることがいちいち真面目すぎて、僕とは合いません。全然落ち着かないんですよ、一緒にいても」
「ふうん……」
 マヤがいくらか意味深な視線をみせたのが気になったが、シンジは気づかないフリをしてお茶に口をつけた。
「それで、みんなはどうしてますか?元気ですか?」
「ええ、みんな」
「アスカは、どうしてます?」
 ある意味では、誰のことよりも彼女が気になった。あれほど明確に誰かを傷つけたことはない。あれほど傷ついた人を見たことも。なにもできず、それどころかそんな彼女に助けを求めたことは、いまでも痛恨の極みだった。
「元気よ。このあいだ、手紙に写真が入っててね、持ってきたわ」
 と言うとバッグから大きめの手帳を取り、そこにはさんだ一枚の写真を渡してくれた。写真の中には、笑顔の惣流・アスカ・ラングレーがいた。写真の中の彼女も、僕の住む町の人と同じくらい厚着をしていた。着ているものの質はずいぶん違うようだけど。公園で撮ったらしく、ベンチに座って笑っている彼女をみていると、肩の力が抜けるような感覚を味わった。
「元気そうですね」
「ええ……なにか、ご感想は?」
「…………安心、しました」
 それ以上の言葉は思い浮かばなかった。よかった――
「そう、よかったわ。そうそう、ちゃんと手紙持ってきてるわよ」
「ありがとうございます」
 鈴原トウジと、相田ケンスケ。この二人とは仲が良かったため、こうして手渡しで手紙を受け取る以外の連絡手段を断たれていた。仕方がないと言えば仕方がない。それでもこの二人にまで会えないというのはいくらかの理不尽さは感じている。しかしネルフと少しでも関係のあった者と無断で連絡することは固く禁じられているため、どうすることもできなかった。
 二人の手紙を両方読み終え――二人とも近況報告という感じで、それほど長くなかった――、二人のことですこし昔話をして、その話題が落ち着くと、マヤさんは姿勢をさりげなく整えた。なんだろうと思い、話しはじめるのを待った。わずかな時間、部屋がストーブの音だけになったが、意を決したとばかりに、彼女はゆっくり喋りだした。
「シンジ君、実は……ひとつ、ニュースがあるんだけど」
 という言葉に、まず誰かが殺されたのだろうと想像した。真実の一部を知るネルフ職員が「突然死」をとげることはすくなくないと以前から聞いている。誰だろうな、と頭をめぐらせてまず思い浮かんだのは、ここに訪れることもある日向マコトと青葉シゲルの二人だった。
「なんですか?言ってくださいよ」
 覚悟をして、次の言葉をうながした。



「レイの、ことなんだけど」



 予想外の言葉に心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚え、そして急激に高鳴った。態度は崩すまいと必死で平生をとりつくろったが、とても隠しきれていないだろう。
「綾波が……どうか、しましたか?」
「彼女の了承は得てあるから、あとはシンジ君次第なんだけど」
 なんの話なんだろうか。
「なんのことですか?」
「八日後の十二月十四日から十五日にかけて、彼女と会うことができるわ」
「ど、どういうことですか?なんでいきなり」
「時間がたった、っていうことになるのかしら……少しずつあなたたちが自由になっていく、その第一歩と思ってもらえればいいわ」
「……」
「どうする?」
「……彼女は、なんて言ってるんですか?」
「さっき言ったでしょ?あなた次第よ」
「……」
 迷うことはないはずだった。これを逃したら次に会う機会はいつになるかわからない。もしかしたらこれきりかもしれないのだから。

 しかし。

 しかし……。

「会いたいんでしょう?」
 迷っている僕のことを、マヤさんは理解不可能という顔をした。しかし、彼女が思っているほど単純な話では済まない。なにしろ、この街で暮らすようになってから一年半近くになるが、彼女の話を聞こうと、僕から話題にすることはまったくない。それがなぜなのかマヤさんには理解できないだろう。いや、できるはずがないのだった。
「会いたい……と言えば、会いたいですけど」
「じゃあ会えばいいじゃない」
「そう単純じゃあないんですよ。ある意味では、会いたくない」
「どうして?それに、なにが単純じゃないの?」
「ぼくらが」
「じゃあ会わないの?」
「……二元化して答えが出る関係じゃないんです。好きか嫌いかとか、イエスかノーかとか……」
「私には、わからないわ」
「そうだと思いますよ。あのときマヤさんを抱き返せなかったのも、結局はこうして割り切れないからなんでしょう。彼女のことが嫌いならもちろん、まっすぐ好きと言えてもあのとき僕はマヤさんを抱いてたと思うんです。寂しいと思う理由が明確だから」
「……」
「でも、そうじゃない。好きだけど、好きって言えない。嫌いじゃない。嫌いになれればラクかもしれないけど、嫌いになる理由が見当たらないんです。むこうには、あるかもしれないですけど。でも僕にも、好きになりきれない理由がある」
「それは、どうして?」
「言えません」
 語気が強くなったので、マヤさんが驚く。自分でもしまったと思ったけれど、もう遅い。
「……でも、それでも今は会うか会わないか、決めなくてならないわ」
「……そうですね」
 半年前、この部屋で抱きしめられたことを話してもマヤさんには動揺がないのは意外だったけれど、結局、そうやってさまざまなことを割り切れているからこそ、受け入れられなかったのかもしれないと、ふと思った。だとしたら一緒に泥沼にはまればいいのかと聞かれたら、それはちがうと言える。ならどうしてもらいたいのだろうと思っても、わからない。
 でも今回の件をもし断ったら、答を知る、もしかしたら最後の機会を逃すことになる。
「……行きます」
 気づいたら、答えていた。
「わかったわ」
 僕の語気に呼応するかのように、マヤさんも力強く頷いた。
 しかし口調ほどには、僕は強気ではなかった。






 三日後、日向さんが詳細を伝えにきてくれた。
「しかし、寒いなあこのへんは」
「ええ、豪雪地帯ですからね、港町でも」
「なにもこんなところじゃなくても、って思うよなさすがに」
「いつも思ってますよ」
「そうか」
「でも、街の人はやさしいから、いいですよ。中にはどう考えても「関係者」と繋がってるんだろうなっていう人がいますけど」
「わかるのか?」
「なんとなく。でも勘違いかもしれません」
「俺もそのへんのことはなにも知らされないから、なんとも言えないけど」
「わかってますよ」
「そうか」
「それで、その」
 思わず言いよどんだ。
「ああ、今度の件なんだけどな、詳細が決まったから知らせるよ」
「ぜひ」
 日向さんはトートバッグから書類入れを取りだして、テーブルの上に広げながら説明をはじめた。
「今回の件、最初の再会のわりには自由度はきわめて高いと思う。もっとも、こういう手順が必要っていう時点でおかしいんだけどね。とにかく、監視も最小限。一部を除けば君たちの視界にいることはない」
「安全の保証は?」
「これまでも無事だったことが、ということになる」
「ちょっと待ってくださいよ。これまでとは事情が違うんだ。僕ら二人が会うんですよ?」
「もちろん護衛はつくよ。君たちにはわからないようにね。この件は世界各国が注目している。君たちが傷ついて事態が複雑になることは誰も望んでいない。仮に君たちを傷つける組織がいたとしても、そいつらだって国中を敵に回すようなマネはしたくないだろう?」
「……危険な話なんですか?今回のことは」
「いや、それはないと思うよ。理由は今言った通りだ」
 それとも安全な理由はあっても言えないのか、知らないのか。安全ならそれでいい。日向さんもすべてを知らされないなら、わかっているところを十分に説明してくれればいい。要するに、ごちゃごちゃ言っても仕方がないということなんだろう。
「わかりました。それで?」
「場所は新潟県の中頚城大潟」
 ここからそう遠くない場所だ。
「なんでそんなところで?」
「政府ご用達というか、ほぼそれ専用の温泉旅館がある。そこですごしてもらうことになる」
「また、ずいぶんおかしな話ですね」
 この軽口を日向さんは無視して話をつづけた。それに少し腹が立ったけど、それはきっと僕がこの兼に関して動揺しているせいだと思い、話を聞くことにした。実際、会ったところでなにを話せばいいのか、この三日間考えたけど、そのすべてが嫌になるほど切りだしにくいことばかりで動揺し、辟易していた。
「シンジ君には、十四日の一五時一七分に上越を発車する信越本線に乗ってもらうことになる。レイちゃんはすでにその電車に乗っているから、そこからあとはひと駅のってもらって降りる。あとは迎えの車に乗ればいい。「故郷」という旅館が、「会談場所」ってことになる。タイム・リミットは翌朝10時34分発の信越本線に乗って、シンジ君が上越駅で下車するまで」
「わかりました」
「他のことはコレに書いてあるから」
 広げた書類を整え、渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いや、これくらいやらないとな……一番つらかったのはシンジ君たちなんだから」
「そうですね」
 謙遜するつもりはなかった。冗談で言っているわけではなくて、少なくとも二年前の僕は今思い返してもきわめて過酷な状況下のまっただ中にいたと思っている。それを逆手にとったり、卑屈な態度をとるつもりはないけれど、せめてそれくらいはきっぱり言うだけの権利があると思っている。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
 書類を渡されると、日向さんはさっさと立ち上がって玄関に向かってしまった。
「そうですか?」
 僕は座ったままだった。あなたよりも彼女とのつながりの可能性を握っている書類の方が大事だと示したくて、広げられた何枚かの紙を書類入れにしまう作業をやめるようなことはしなかった。
「ああ、やらなきゃいけない仕事も残ってるし」
 日向さんはまだネルフ解体の事後処理を行っている。それがすべて済んだあとどうなるか、聞いていない。聞くつもりもなかった。人の人生だ。幸せになってほしいとは思うけれど。
「じゃあ、また」
「ええ、青葉さん……あと、マヤさんにもよろしく言っておいてください」
「ん?ああ」
 少し「おや」という顔をされたけど、それは無視した。すこしのあいだだけ、視線がずぱっ、ずぱっと交差する。僕が「どうかしました?」と声をかけると、日向さんは少しだけ動きを硬くさせながら「いや、別に」と言うと振り返り、ドアを開け「じゃあまた」と言い残して出ていった。
「なにも、隠さなくてもね」
 同じ指輪してれば、誰だってわかる。
「あなたたちは会えるのに、なぜ僕らは会えないんだ」
 本当に自分の口から出たのかと疑いたくなるような、強く、搾り出したような声。もし今の声をマヤさんや日向さんが聞いたらきっと謝罪を述べ、僕と彼女がどう認識されていて、どれほど国々のトップから注目されているかを説くだろう。
 わかってる。
 これは八つ当たりだ。羨んで、嫉んでいるだけだ。
 それでも、わかってない。彼らはわかっちゃいない。
 僕がどれだけ彼女を想いつづけたか。
 忘れたくても、忘れられない。忘れるべきかもしれないのに。
 二年。二年という時間。
 遅い。遅すぎる。
 今まで一体なにをやっていた?乳繰り合う前に僕らにやることがあっただろう。
 どうしてもっと、早くしてくれなかった?どうして。
 もし、彼女の心が変わっていたら。もっと早ければ間に合っていたら。

 …………だが、それ以前に、もし…………。

「やめろ」
 考えても無駄だ。ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。
 けど、彼女に会ったらどんな顔をすればいいのかもわからないから、考えることで気を紛らわせているのかもしれない。気の小さいことだ、われながら……。
 けれど、どのみちもうじきわかることだ、わかってしまうことだ。僕はそれが恐い。結論が出てしまうことが。
「つまずきたくないんだ」
 もう、できる限りあの街のことで痛い思いをしたくない。だからといって怖がっていたら、いつまでも怖いままだ。期待外れの答えがかえってくるかもしれないけど、それより彼女のことが知りたくて、この二年生きてきたはずだ。だからこれは、迷っても行くべきなんだ。
 ひとりで何を想っても、伝えなきゃ意味がない。



「君は、ひとりで、なにを想うだろう」



 十四日。
 打ち合わせどおりの電車に乗るため、僕は十二時には駅に着いた。正午だというのに気温はいいとこ一〇度。まだ寒さに完全に慣れることはできてない僕には冗談みたいな気温だ。
 駅にはすでにネルフ職員がいた。おなじみのロゴが入ったファイルを持っているのですぐにわかる。なにも言わずに近づくと、なにも言われずにチケットだけ渡された。やれやれだ。あいかわらずの武骨さだと思ったけど、それを笑う余裕はない。改札を抜け、ホームに降りると、驚くべき人気のなさと静けさが待っていた。特急列車が止まるホームだから端から端まではかなりあるのに、水を打ったような静けさだ。これもまた冗談のよう。最後尾のベンチに座って、荷物を脇に置いた。耳が痛くなるような空気。無風だけに際立った。
 向かいのホームにも人は見当たらなかった。しかし、観光地に向かう列車やホームに人がいないのは当然の話だ。不景気だとかそうじゃないとかいうレベルを超えている世の中なんだから当たり前の話だ。
 二年前の変化を境に、いたはずの人がいなくなった。およそ四分の一の人口が失われたと聞いている。その責任の一部が僕というのを知っているのは、今や僕と彼女しかいない。本当はもうひとりいたけれど、今はもう僕らだけだ。
 そういう世の中でも、必死で生きている人たちがいる。
 じゃあ、ぼくは――?

 問いかける。
 遠くからがたんがたんという音が聞こえた。左腕の時計を見る。時間だ。

 ぼくはと言えば、何をしてきた――?
 心臓の高鳴りを聞きながら、それでも問う。

「息をするのにも、精一杯だ」
 荷物を抱えて立ち上がると同時に、列車が目の前を猛烈な勢いで通る。声は突風と轟音に木端微塵にされた。十一両目に彼女がいるはずだ。顔を伏せていたから、姿は見えなかった。十四両目のドアから入って、騒ぐ心に反応するように足が震えて、足取りは軽いのか重いのかわからなくなった。どく、どく、と耳障りな心臓の音。
 三つめのドアをくぐりぬけるとすぐに見つけた。後ろから四番目の窓際の席で、左側のホームを見つめている彼女を。
 電車が走りはじめる。
 すこし後ろにつんのめったせいで、彼女がかすかにこっちを向いた。

 ああ、まぎれもないや、姿形は。

 それが僕の、二年ぶりに会った彼女に対する印象だった。
 彼女は喜ぶわけでもなく、いつも通り(ぼくが知るかぎりでは)のマジメ顔のまま、赤い瞳をこっちに向けてきた。
「……」
「座れば?」
 先に口を開いたのは彼女だった。意外な気もするし、いつまでも突っ立ってるんだから当たり前のような気もした。
「うん」
 荷物と上着を上の棚に置き、静かに座った。あからさまに緊張している自分の仕草も、今は仕方ないと思うしかなかった。それ以外にどうしようもない。
 彼女は比較的薄手のセーターを着ていた。前よりのびた水色の髪に白い肌と薄桃色のそれは、抜群のコンビネーションを見せる。腕に巻いた細い飾りは二本の鎖を絡ませたもので、一枚ずつプレートがついていた。その片方ずつに左右を意味する「L」と「R」が刻まれていた。僕がしているものの別バージョンだ。それに彼女の私服なんて見たのははじめてだから、それはもう新鮮の一言に尽きるのだけど、まだそれをちゃんと噛みしめられるほど落ち着いてはいなかった。
 そもそも僕は、彼女とどういう距離でもって話せばいいのかすら、わからなかった。

 結局僕らは、どういう関係だ?

 それを明らかにするための再会のはずだ。
 しかし、二年前の時点で明らかになっていないのがそもそもおかしい。今になって確かめるもなにもあったもんじゃない。時間はあの日から止まったまま――そんな、映画のようにうまくはいかないのだから。
「久しぶり、だよね」
 景色を見ているような、窓に映っている僕を見ているような様子の彼女に、僕は話しかけた。窓に映る彼女に向けて。彼女は体の姿勢をととのえて、あまり僕の方を見ずに答えた。
「そうね」
「二年間、ずいぶんたったような気がするし――たった二年とも言えるかな」
「そう?」
「よくわからないんだ」
 わからない。
 そう、僕はわからない。
 なにをどうすればいいのか、わからなかった。
 かわらない。こういうところは、まるで。
「わたしは、長かったわ」
「そう?」
「色々、あったから」
「たとえば、どんなこと?」
 ようやく僕らはお互い少しだけ向き合った。彼女の態度が緊張からくるのか、ただそっけないだけなのか、判断がつかない。できればいい意味で前者であってほしいのだけど。
「すぐに言えることじゃないから」
「そう……そうだね」
 少し彼女は答えるのに時間をかけて、結局言うのをやめた。本当に、すぐには言えないんだろうということは簡単に想像できた。なんたって、綾波がこんな格好してる時点で二年前とは大違いだ。
 それから僕らに会話らしい会話はなかった。日向さんとマヤさんの関係がどうとか、青葉さんの奥さんの話だとか、そういう話こそできたけど、それは喋らない気まずさから出ただけの話であって、少なくとも僕がしたい話じゃない。
 僕には彼女の沈黙の意味がわからなかった。もし話すことはないと判断するなら、そもそも僕と会おうと思わないはずだろう。マヤさんの話しぶりからすれば今回の件は彼女の方が先に聞いて、そしてそれを了承したはずだ。なのに黙ったままなのがなんとも言えず怖い。もっとも、話をしないのはお互いさまだけど。
 綾波と会話らしい会話をしたのはもう二年も前で、しかも――結局僕らは少なくともあの時点で想いあっていたのかどうか、はっきりさせることはできなかった。僕を悩ませるのは結局、二人目だ三人目だという現実的な問題、それに加えて、今の綾波レイはそもそも、どういう存在なのかということだった。
 僕は、彼女と交わした最後の会話を思いだした。



「また会おうよ」

 手を差しだした。
 彼女が精一杯自分自身の思いだとか状況を口にしてくれたのだから、それに応えたかった。100点満点の結果が出るやり方じゃなくてもいい。全力で、今の自分に言えること。それを言えたと思った。

「……うん」

 彼女も手をのばしてくれた。
 別れ際が握手だなんて、なんてことだろうと思った。でも、今の自分には彼女を抱きしめるような資格がないのは事実だった。今はこんなことしかできないけれど、それでよかった。



 あのとき僕らは、確かに一歩を踏みだした。それが初めの一歩なのか、何歩目なのかはわからない。何歩目かかもしれないけど、あたらしいなにかが見えた一歩という意味でははじめでもあった。
 一緒に踏みだせた。確かにそう言えるだけのものだった。
 そして問題は、二○一七年のあと二週間で終わる今、僕の隣にいる綾波レイは、憶えているだろうか。学校の屋上で星を見たり、彼女が風邪をひいたときに一緒にいたことを。日記を交換しあった綾波レイなんだろうか。これらの思い出を、僕らは共有してるだろうか。

 綾波レイは綾波レイだ。

 確かにそうだけど、もし彼女が未だに僕と何かをしたことを憶えてないなら、それでも僕は綾波レイだと言えるだろうか。
 それが怖い。
 否定してしまうかもしれない自分が怖い。
 なぜなら、確かにこの世界を復活させてくれたあの綾波レイは、確かに綾波だった。

 でも、その代償に、僕は確かにあの時、彼と彼女に、別れを告げたはずだ。

 それを憶えているから、僕は迷い、戸惑い、進むのをためらう。訊ねるのをためらう。なにを求めてるのか、どこまで求めていいのか、なにを期待しているのか。判断がつかないまま、電車は目的地に着いた。






 レイは立ち上がって荷物をとろうとしたが、先に立っていた廊下側のシンジが彼女のぶんの荷物も下ろし、渡してくれた。レイは「ありがとう」と言い、白いコートとバッグを抱えた。コートを着なかったのは外の厳しそうな寒さを肌で感じ取りたかったからだ。
「ふうっ」
 電車を下りたシンジが思わずため息のようなものをこぼし、すぐそばのベンチに荷物を置いた。レイもそれにならって荷物を置き、鋭く肌を刺す空気を全身で感じ取った。レイの住んでいるところはまだ雪は降っていないし、降ってもあまり積もらない。だからホームから見える真っ白い景色と寒さは十分に新鮮だった。
 一方シンジがまだ暗い顔のままでいるのが、レイは気になった。
「寒いね、大丈夫?」
 と訊いてくるシンジだが、彼は自分ほどには気にしていない様だった。
 レイはそんなこと知らない(シンジがレイの住んでいる場所を知らないように、彼女も知らない)ため、コートこそ着ているが平気そうなシンジが不思議だったが、あえて訊きはしなかった。シンジの表情が、彼女に話しかけるのを躊躇させていた。
「このあと、どういうことになってるんだっけ」
「外に迎えが来てるわ」
 階段を登りながら、それだけ話すことはできた。レイはこの喋らない間を快く思えなかった。かと言って、まるで嬉しそうな素振りを見せないシンジを相手にするには、レイ自身まだまだ未熟だった。
 改札を出ると、駅の外には一台の車と、その前に姿勢のいい老人が立っていた。レイの目にもすぐにそれが案内役だとわかる。駅前にすら同世代の若者が好きそうな建物はあまり見当たらない。姿勢のいい初老の男性が笑顔を浮かべ、近づく二人に話しかけてきた。
「碇さんと、綾波さんですね?」
「はい、そうです」
 シンジが答える。
「私、この度お客様がお泊まりになる旅館「故郷」までお送りさせていただきます片岡と申します。早速ご案内しますので、さあ、どうぞ。寒いですからね」
「ええ」
 黒塗りの車に乗ると暖房が効いていて、それは外とのギャップに驚くほどだった。二人が乗ってから運転手も乗ると、二人に軽く頭を下げ、「それではいきます」と車を進めはじめた。雪ですべるため、慎重な運転だ。
「ゆっくり走ってますが、十分もすれば着きますから」
 二度三度と道を曲がると、ゆるやかなカーブがかかった一本道に入った。
「お二人はいとこか何かですか?」
「え?」
「いえ、どことなく似てらっしゃるので……ああ、すいません。旅館の方からは詮索するなと言われていたんですが、つい」
「いえ、かまいません」
 今度はレイが言った。
「血は繋がってません」
「そうですか、まあ年寄りの目なんてあんまり役に立つものじゃありませんからね」
「そんなことないですよ」
 バックミラー越しに目を合わせ、シンジと運転手はおたがい苦笑いのようなものを浮かべあった。自分には出来ないな、とレイは思う。
「窓、開けていいですか?」
 レイは運転手にバックミラー越しに声をかけた。車の中は暖かいが、もっとあの射すような冷気に触れたかった。
「別にかまいませんが、寒いですよ」
 運転手の言葉にうなずきながら窓を少しあけた。言われた通り吹き込む冷たい風に満足だった。
 運転手の言っていた通り、十分ちょうどで旅館に着いた。雪のせいで減速しながら走っていたのだから、雪が溶ければもっと早いだろう。シンジが素早く車を下りると、後ろに回って二人の荷物を持って、車を下りたレイに手渡ししてくれた。
「ありがとうございました」
 二人が言うと、彼は実に満足そうに笑って「いえいえ」とだけ言い、「では、ごゆっくり」と頭を下げた。VIP扱いの子供。おまけに詮索するなと上から言われているのだから、どんな人間か普通は探る目を向けてくるが、レイは彼からはそれを感じなかった。車中での質問も、ふと疑問に思ったからという感じだ。
 プロらしい姿勢を崩さない、それでいてやさしそうな老人に、レイは好感を抱いた。それはおそらくシンジもだろう、レイにも電車の中よりずっと普通の調子で「行こう」と話しかけてくれたし、レイもそんなシンジの表情にようやく安堵し、頷くことができた。






「では、ごゆっくりどうぞ。六時には食事ができるように準備させていただきますので、それまではどうぞごゆっくり、温泉にでも浸かっていてください。ですが、ただいま露天風呂でガラスが割れるという事故がございまして、しばらくは露天風呂は使えなくなっておりますので、申し訳ございませんが、ご了承ください」
 案内役の女性が下がって、部屋には僕たちだけになった。二階の一番奥のこの部屋は特別豪華というわけでもなく、和室の居間と寝室という、ありふれた旅館の部屋の一つ。建物自体はどちらかといえばホテルに近い造りのような気がしたけれど、家族旅行は一度か二度、おじさんとおばさんに連れられていったことがあるだけのうえ、それももうずいぶん前の話なので、この旅館がどうのこうのと言えるわけでもない。
 部屋の時計を見上げた。五時ちょっと前というところだった。
 ふすまで仕切られた部屋を覗いてみると、すでに布団が並べられていた。
 まて、おかしいぞ。僕はようやく気づいた。
(綾波と同じ部屋で一泊…………ってこと!?)
「ぼ、僕たち、同じ部屋、みたいだね」
 焦りながら努めて冷静を装ってみたけれど、その努力はまったく意味を成していないし、綾波が「そうね」のひとことで片づけて荷物を置き、窓の景色を眺めはじめてしまったので、僕は途方に暮れながら座椅子に腰かけた。
 綾波の立つ窓際には小さなガラスのテーブルと、ゆったりしたイスがあった。そこには彼女が置いた一泊ぶんの荷物が入ってる茶色い旅行カバンがある。ブリティッシュ・テイストのチェック柄ナイロンバッグ。高校生が使っても当然のもので、だからこそ、そのカバンを見てあらためて驚いてしまう。あの綾波レイが普通の服を着て、普通のカバンを持っている。いまの彼女がどんな風に成長したのか。興味は尽きないけれど、今はまともに話もできない状況の方が気にすべきことだと、首を振って雑念を払おうとした。
 それでも、二年ぶりの綾波レイが目の前にいるし、目を閉じても瞼の裏から現れて、とても払うことはできそうになかった。

(さんざん悩んでおいて、結局コレだもんな……最低だ)

「どうかした?」
 という声に体を震わせながら反応して、がばっと首を彼女へと向けた。綾波がすこし、訝しげな顔で振り返っていた。
「い、いや、なんでもない、なんでもないよ」
「そう」
 彼女の顔は納得したとは言い難く、かすかに肩を落としたような素振りすらみせた。僕にはそれの意図するところがわからない。ただこの気まずい空気に飲まれ、意味もなく立ち上がって、また座ったりした。挙動不審もいいところだ。
 それから五分ほどして、綾波が窓から離れ、カバンを開けた。タオルや旅行用の携帯シャンプーを取りだし、タンスから浴衣を見つけると、それも抱えた。
「お風呂、入ってくるから」
「え?ああ、うん」
「六時前に戻るわ」
「わかった」
「碇くんは?」
「僕は……どうしようかな」
 曖昧に笑ってみせると、綾波はかすかに眉をひそめ、部屋を出ていった。彼女にしてはドアの閉め方が強かった。
「やっぱり、僕とのことなんか、忘れてるのかな……」
 と言い、ため息をついて、また立ち上がった。さっきまでの彼女と同じように外の景色を眺めれば、なにか起こるのかもしれないと、自分自身馬鹿馬鹿しい考えとわかっていながらそうしてみた。
 真っ白く寒々しい木々と空だけの風景。いつもと大して変わらない。ため息をついて、イスに腰をかけた。目の前のテーブルにあるファイルが目に入る。開いてみた。自慢の露天風呂の効能がどうのこうの、と書いてあるところだけ読んで、早々に閉じた。そういう効能には別に用はない。しかし、外の真っ白い風景を見ながらの温泉というのは疲れた頭と体にはいいだろうと思って、自分の荷物から必要なものを出し、彼女にならって浴衣をタンスから出して、部屋を出た。カギをどうするか迷ったけれど、自分は長風呂ではないし、綾波がさっきの言っていたことを考えれば彼女より早く部屋に戻れるだろうと考え、カギをかけて階段を下りた。



 それから二十分で僕は部屋に戻ってきた。ロビーにも部屋の前にも綾波はいなかったため、自分の予想が当たってホッとしながら部屋のカギを開けた。火照る体を冷ますため、ほんのすこしだけ部屋の窓を開けた。風のない日なので、冷気は側まで近寄らないと感じられない。
「にしても、ツイてないなあ……」
 というのも、露天風呂が使用不可能だったからだ。
 二時間ちょっと前に男女両方の内風呂と外の露店風呂を隔てる大きな窓ガラスが割れてしまい(たしかにガラスがはめてあるはずのところにトタンのようなものが張ってあり、その理由が書かれてある張り紙もしてあった)、浴場に細かいガラス片が飛び散っている可能性があるという。内から外へ割れたこともあり、内湯を優先して片づけたが露天風呂の方が片づくのは夜になってからだということだ。どうしてそんなことになったかは僕には大した問題ではないので従業員に聞くことはしなかった。自分は怪我をしなかったが、彼女はどうだったか、すこし気になったけど。
 夕食まではまだ時間がある。でも外はもうずいぶん暗くなっていて、そのあたりも本格的に冬らしい感じがした。
 しばらく部屋でぼんやりしていて、やがて間がもたなくなって部屋の外に出た。上着のジャケットを着ただけであとは浴衣のままなのは無謀だとわかっていたけど、それでもロビーまで下りて、外に出た。
 強烈な寒さだった。風がなくて、音もほとんどしない。まだ六時前なのにこの静けさは、恐怖がこみあがってきそうなほどだった。旅館の明かりがなければ、それだけで肝試しになるだろう。
 遠くから目の前の一車線の通りの左端から人が現れた。その人がこっちに近づいてきて、お互い同じタイミングで誰かがわかった。
「おや、どうも」
「こんばんは」
 車の運転手の老人だった。昼間の姿とはちがって、今は履き慣れたズボンと厚手のジャケットに黒いニットキャップをかぶって、防寒対策万全といった出で立ちだ。
「どうかされたんですか」
「ええ、すこし。従業員の誕生日にみんなでケーキを買ったんですが、ローソクがなかったので、買ってきたんですよ。このあたりはコンビニが一件あるだけなのですが、幸いありました。仏壇用の味気ないやつしか置いてなかったらどうしようかと思いましたが」
「よかったですね」
「それより、碇さんはどうかされましたか……?」
 立ち話にも姿勢と品の良さを崩さない老人に、好感を抱いた。こういう人の子供は立派に育ちそうだな、と考える。サードインパクト後のいつからかはわからないが、子供がいそうな年齢の大人や老人を見るとそんなことを考えてしまう癖がついていた。
「いえ、べつに。ヒマ潰しですよ。部屋にいてもすることないし」
「お連れの方は……」
「まだ風呂に入ってると思いますよ」
「そうですか」
 そこで会話が途切れた。ふと、この人ならいい相談相手になってくれそうだと思った。思ってすぐ、そこまで追い込まれている自分に嫌気がさす。綾波レイのことでこんなにも立ち往生しているなんて、なんて馬鹿なことなんだろうと思ったのだ。
 老人も動かない。本来ならここで中に入るタイミングだけど、僕の雰囲気からなにかを察してくれているのかもしれない。こっちを見つめて、すこしだけ笑みを浮かべて立っていた。
「あの」
「なんでしょう」
「ちょっと、お聞きしたいことっていうか……聞いてほしいことがあるんですが」
「はあ……しかし、まず中に入りませんか?ここは寒いですよ」
 老人に促されて、ロビーの一角の、誰もいないソファに腰かけた。ガラスのテーブルをはさんで向かい合ってすぐ、僕は口を開いた。
「彼女の……今日、一緒に来た子のことなんですけど」
「はい、そのことですが、すこし、よろしいですか?」
「え?あ、はい」
「今日は私、VIPのお客様が二名来られるので、不快に思われることが決してないようにと仰せつかっております。詮索は厳禁だとも」
「はあ……」
 老人は話を終えようとしているのだろうか。半分あきらめて、半分がっかりしながら話を聞いた。
「ですから、なにかわけがおありなのでしょう。お年ごろから言っても、察しはつきますが。お話を聞くのが私程度でよろしいのですか?」
「かまいません」
「わかりました、あなたの方から持ちかけた話です、乗らないわけにはいきません。ところで最後に、お願いがあります」
「なんですか?」
「話が終わって私のことを不愉快に思っても、支配人に私のせいで傷ついた、というのは勘弁していただけますか、いっぺんに首が吹っ飛んでしまいます」
 そこで老人はあらためて笑みを浮かべた。おかげで僕もようやく笑うことができた。うなずいて、約束します、と言った。
「といっても、特に個人の耳に入れて危険な話ではないんです。個人的な話だから。僕は……今日、二年ぶりにあの子に会ったんです」
「そうですか」
「ええ。二年前……病室の窓越しに彼女と目を合わせたのが最後でした。サードインパクトが起きて三週間ほどたったあとです。その日、僕は街を離れました。今住んでいるところを彼女に教えることは、事情があってできなかった。いや、そんなことより……とにかく、あの日を境に僕たちは離れ離れになった」
 一緒に保護下にあったら、今はもうすこしマシな関係でいられたかもしれない。彼女といれば、いつかサードインパクトの話、それに彼女自身の記憶の話になって、それがどんな形であろうと、決着はつけられたはずなのだから。
「サードインパクトが起こるすこし前に、彼女は記憶喪失になってしまったんです」
 本当はもっと色んな事があったけれど、本当のことを言うわけにもいかないので、そういうことにした。大きく間違った言い方だとも思えない。
「そのころはべつに、特別な関係ということではなかったけど――今もそうですけど――、周囲の状況が色々と慌ただしくなる中で、彼女だけはいつもどおりの顔をしてくれてたから、僕は幸せだった。でも……記憶を失って、ちょっとたったら、すこし、戻ったきざしはあったんです。それなのに、あのサードインパクトがおこって……」
 どんどん人々の影と一体化していく中で、彼女が声をかけてくれた。僕には眩しすぎるほどの光の中で手を差し伸べてくれた。ギリギリのところでその手を握って、ぼくは助けられ、彼女に戻る決意を告げた。一緒にいた彼と同じタイミングで頷いて、世界を、人間を元通りにしてくれた。そしてそのために消えゆく自分たちのことを悲しみもせず、笑ってくれた。
 そのことを、思いだした。



「好きだ、っていう思いは消えないよ。僕が思ったことだ、消えはしない。君が憶えていてくれれば、もっと確かなものになる」
 
「忘れるわけ、ないよ……。カヲル君のことは、一生忘れないよ!」

「ありがとう」

 さしのべられた手を、握った。すると、僕たちの立っている場所の遥か真下に広がる真っ赤な海に突き刺さった幾百億、幾千億の十字架がみるみるうちに消えていった。目を合わせていられなかった僕を、彼が抱きしめた。抱き返すと、溢れた涙がこらえきれず、こぼれた。
 あの涙は現実にはなかったかもしれないけど、確かに在ったんだと、今でも思っている。

「さ、君もシンジ君に言いたいこと、あるだろ?」
 笑顔を保ったままのカヲル君が片手を僕の肩に乗せたまま振り返った。綾波レイはさっきよりずっと近くにいた。カヲル君が脇にずれて、僕らは否応なく向き合った。でも見つめあうことはできなかった。綾波が俯いていたから。
 僕は不安だった。目の前にいる綾波レイは、確かに僕の知っている綾波なんだろうか。確かに溶けていく僕を捕まえてくれたのは彼女だ。でもそれでもまだ、僕には確信がなかった。彼女の口から聞きたかった。

「碇くん」

 彼女の言葉を待った。綾波はまだ俯いたままだ。脇にいるカヲル君の肩がかすかに動いた気がしたけど、すぐ意識を彼女に戻した。

「わたし、碇くんと、一緒に……」

「一緒に……」


 声の質が変わった。


「一緒に……」


 震えていた。


「一緒に……………………星を見たこと、風邪をひいたときに、いてくれたこと、忘れないわ」



 彼女の温もりが直に伝わる。僕はそれをなくさないように抱きとめた。


 なのに同時に、大きな力に引き剥がされた。
 真下に広がっていた世界が、気がついたら僕たちの立つ場所の遥か彼方に見えるようになっていて、僕はどんどんそっちに引き寄せられていた。彼女たちとは背中合わせの格好で。
 もう姿を見ることはかなわないのだと、僕を引き寄せる力が告げているかのようだった。


 なんとか後ろを振り向いた。振り向いて、戻ろうとした。


「綾波、カヲル君!!」
 振り向いて、叫んだ。



 確かに、僕は願った。誰もが一緒に世界じゃなく、不自由にも独立した世界を。


 でもその代償に、大切な人をふたり、失った。












 なのに、彼女は最後の生還者として、還ってきた。
























 アレは、「誰」だ。























 そうだ、僕にはわからない、彼女が誰なのか。
 僕らは離れ離れになったはずだ、永遠に。
 震えた声が演技のはずがないし、意味がない。
 ぬぐい去れない違和感。
 別れを決意した僕らは、どうしてこうやって会うことができてるんだ?
 アレは、誰、だ?

 もちろん、それをそのまま老人に伝えるわけにはいかない。
「詳しくは教えられませんけど、サードインパクト……あのとき確かに僕らはお別れしたんです。意識がなくなって、溶けるような感覚は、誰もが体験してるはずです」
「ええ」
「そのなかで、僕らは確かにやりとりがあった。彼女は戻れないと。僕は戻ると。なのに、彼女はいる。記憶を失ったままの彼女か?憶えてる彼女か?それとも、まったく別の彼女なのか……僕にはわからない」
 ためいきをついた。吐きだして楽になれたわけではなかった。嘘を混ぜているのだから当たり前だ。うな垂れる僕に、老人が尋ねる。
「それで、碇さんはどうしたいのですか?」
「僕、ですか」
「もちろんです」
「僕は……楽になりたい。この問題から。彼女が別人でもいいから、なんでもいいから」
 これは、半分嘘だ。別人であってほしくはない。
「では、楽になるにはどうすればよいのだと思いますか?」
「…………」
「私は勧めることも提案もできませんが――それに、なにが一番よいかというのは大体わかっているものですしね――心に思ったことを、すべきと思いますよ」
「そう思いますか?やっぱり逃げちゃ駄目ですか?」
「逃げることも選択の一つです、後悔しないならそれもいいでしょう」
「つまずくのが、怖いんですよ。もう嫌なんだ、僕は」
「つまずこうと構わないと思いますよ」
「え?」
「少なくとも、その先を見ることはできます。怖れることも、後悔することも間違っていません。選択を誤ることすら自分の選択ですから間違っているとは言い切れない。しかし、しかし選択することすら拒否してしまっては、前に進むことも戻ることもできない」
 声に熱を帯びはじめていたのを自覚した老人は、姿勢を正すと(さっきも正しかったけれど)、照れ笑いのようなものを浮かべた。
「少しでしゃばってしまいましたが……私に言えることはこれくらいです」
「いえ、十分です……ありがとうございます」
「そうですか、おや、もう六時近い。お食事の準備ももうすぐ終わりますし、お連れ様も、お見えになりましたよ」
 ロビー奥の角を曲がって、彼女が現れた。そういえば風呂から部屋は一度ここを通らなければいけなかったことを思いだして、急いで立ち上がった。急ぐこともないのだけど。
「じゃあ、行きます」
「はい、どうぞごゆっくり。あなたの決断の結果が幸せに結びつくことを祈ってます」
「……はい」



 二人で部屋に戻ると、二人の仲居さんがすでに準備をはじめていた。脇でそれを待っていると、メニューについて必要最小限の解説をしてくれた。二人は僕らに対して少し興味深そうな視線を送ってくる。料理の解説を聞いてると、どうやらこの旅館で一番高いメニューらしく、だとしたら確かにどう考えていても僕たちは怪しいだろう。ただでさえ高校生二人が温泉旅館で一泊するのだから、好奇心は当たり前だ。
 どう見ても未成年の僕たちだけど、テーブルの端にビールが置いてあるのが不思議だった。
「あの、なんでお酒が置いてあるんですか?」
「一応、メニューの内なので……年齢を窺ってなかったものですから。もし未成年様でしたら、お手をつけないで結構です。片づけのときに同時に引き取りますから」
「はあ、わかりました」
 ここで下げてもらってもいいんだろうけど、別にどうせ飲まないのだからあっても関係ない。わざわざむこうの予定を変える意味もないので、それ以上はなにも言わなかった。
「では、どうぞごゆっくり」
 支度を終えると、深くお辞儀をして仲居さんが出ていった。
 向かい合って、広げられた料理と彼女を交互に見比べた。結局まだロクに口をきいてない。
「食べましょう」
「え?」
「冷めるわ」
「ああ、うん、そうだね」
「いただきます」
「……いただきます」
 カチャカチャと、食器と箸の音が聞こえる。彼女は正しい箸の使い方で、行儀良く食べる。僕は食べ方こそ普通だけど、向かいの彼女の様子ばかり気になって、食べてるものの味がまるでわからない。酢の物は「強い」味がして、お吸い物は「弱い」味がした。それくらいのことしかわからない。
 この気まずさは、二年前の時と同じだ。彼女がうちにきて夕飯を一緒に食べた、あの時と繰り返し。驚くほどの進歩のなさ、進展のなさだ。今日何度目かの落胆に肩を落とした。

 それから五分くらい、たっただろうか。十分程度はたっただろうか。彼女がゆっくり、箸を置いた。それに気づいて、僕は顔を上げた。
「どうか、した?」
「……」
 彼女は俯いているので、表情を知ることはできない。一体なんだっていうんだろうか、この綾波は。
 心の中で小さくこぼした自分の言葉にがっかりした。「この綾波」だと?よくもまあ、そんな失礼なことを言えたものだ。
「……」
「……碇くん」
 綾波が顔を上げる。いつもの無表情のまま。今日はこれ以外の顔を見ていなかった。
「わたしに聞きたいこと、沢山あるでしょう?」
 息を飲んだ。
「わたしも、沢山あるわ」
「そ、そう……」
 綾波は浴衣の袖に気をつけながら、テーブルの端に滴に覆われた瓶を取り、その脇のきれいなコップをふたつ、自分の前に並べると、器用な手つきで瓶のフタを外し、黄金色の飲み物を注いだ。ミサトさんの好物だ。綾波はそれを僕に渡し、自分も手に取った。
「でも綾波、これは」
「話したいことが、話しにくいことなのはわかってるわ。でも、このままだったら、なにも変わらない。なにかの力を借りないと、わたしは――多分、碇くんも――なにも話せないまま、終わってしまう。それは嫌」
「そうかもしれないけど……でもやっぱり」
「それなら、どうして私たちはずっと黙ったままだったの?」
「それは……」
 何も言えなくなった。彼女の言うことはもっともだった。
「乾杯しましょう――何にする?」
 彼女に訊かれ、少し考えて、「再会に」
「そうね……再会に、乾杯」
 カチン、とグラスを鳴らし、一気に飲み干した。
 それから三十分は、僕たちにとっては冗談みたいなペースで、飲みつづけた。ぐわり、ぐわりと頭が回る。正常な思考ができるかぎり飲むつもりだった。彼女もそうだろう。だから僕らはあんなやりとりのあとも、なんの話もせずに飲みつづけた。僕はまったく顔に出ないタイプだけど、彼女は真っ白い肌に、少し赤みがさしていた。二人で大瓶を一本づつ空けても、お互い姿勢を崩さず、向き合った。
 ここで話さなきゃ、もう一生話をする勇気がなくなる。
 自分を奮い立たせて、酒がその勢いを助けてくれて、ようやく僕は口を開いた。



「怖かったんだ、ずっと」
 物事を順序立って話すことはできそうになかった。でも、今はそれでいいと思う。自分の思いを吐きだせれば、それでいい。綾波の赤い瞳から目をそらさないように意識して、つづけた。
「あの時から二年間、綾波のことが怖かった、いつも。綾波のことを考えることも怖かった。考えつづけてたけど。どうしてるかなとか、元気でいてくれればいいなと思ってたけど、どこかで誰かが僕の知らない綾波の表情を見ていると思うのも怖かった。怖いんだ、今だって怖い」
「わたしの、なにが怖いの」
 彼女の口調は、聞いたことがないほど強かった。それに気圧され、誤魔化すまいと拳を握って、口げんかのように歯を食いしばって彼女の声を聞いて、つづけた。

「全部だ、全部だよ!嫌なんだ、こんなの。怖いんだ、こういうのは」

「今も綾波はきっと不愉快な気持ちで聞いてる。それも怖い。僕のことなんか、特別どうとも思ってないかもしれないのも怖い。もう綾波にとって「過去の人」になってしまってるかもしれないのが怖いんだ」

「そして、なにより、なによりその根拠。なんでそんなこと考えるのか。サードインパクトの時、僕らは確かに別れを済ませたはずなんだ。それはもう、圧倒的に決定的な別れだったはずだ。それなのに、綾波はこの世界に戻ってきた」
 恐ろしい。口にしてしまった。今までは僕の中でだけで渦巻いていた事を口にして、公にしてしまった。口にしてみて改めてわかった。なんて汚らわしい考えなんだろう。僕はずっとこんなことを考えてきたのだ。そして汚らわしいと思いはしても、今もその疑念は少しも消えてはいない。

「僕は考えてしまったんだ、怖いことを。もしかしたら、この世界にいる綾波レイは、僕の知ってる綾波レイじゃないのかもしれない。いつかみたいに身体は綾波でも心は変わってしまったも同然の、僕の知らない、僕との思い出を共有していない綾波レイなのかもしれない…………」
 そこにいながら、そこにいない。
 あの空虚。あの淋しさ。
 目の前にいながら別人であるという感覚。



「こんなことを言ってる自分自身も怖い。考えてる事自体怖い」



 僕の声は、ほとんど呻き声に近くなっていた。表情はたぶん冗談みたいに歪んでいる。まばたきをすると涙が零れてしまいそうなので、必死で堪えた。それでも勝手に涙が流れて、両手で顔を覆った。嗚咽さえ垂れ流して、頭を掻きむしる。衝動を抑えられない。
 どれくらい、そうしていただろう。それほど長い時間ではなかった気がする。黒い衝動を一気に吐きだしたせいで少し、楽になれた気はしたが、ぶつけた相手が相手だ。



「ごめん……」
 彼女の顔を見ることはできなかった。溢れた感情と酒とが相まって、頭の中はテレビのノイズのように嵐が巻き起こっていた。



「でも、まだ、聞いてほしいんだ」
「……なに?」
 僕はようやく泣きやんで、おしぼりで顔をふいて、できるだけ表情を整えた。そして、大きく息を吸い込んで、綾波を見た。綾波の顔は、すこし、形容しがたい表情を作っていた。右半分は怒っていて、左半分は泣き顔のような。そんな綾波と目を合わせる。
 さっきまで言ったことは、自分でも目を背けたくなるような、しかし避けようもない僕自身の想いでもある。
 そして、これから言うこともまた、避けようのない、僕の想いだ。



「好きなんだ、綾波のことが。勝手なんだ、勝手だって事はわかってる。でも、それでも僕は好きなんだ。どうしようもないんだ。忘れられれば楽だった。でも忘れられないんだ。引っかかるどころか、目を開いてても閉じてても目の前にその問題があった。僕は君を好きなんだよ。だから忘れられないし、そして最悪ばっかり考えていた。忘れてくれてれば楽だなんて、少しも思えなかった。忘れられたら最悪も最悪だ。忘れようと思ったことだってある。それでも大丈夫かなと思った。でも、駄目だ。駄目みたいなんだ。僕は綾波を好きでいないと、綾波がいないと、駄目なんだ」



 これだ。



 これが、僕が言いたかったことだ。



 最悪の考えや、怖かったこと。それを踏まえたうえで、そんなことを考えてしまうほどに忘れられなかったんだ、綾波のことを。



 何千、何万回綾波のことを考えたかわからないほど好きで。



 そして、どうなんだろう――真実は。






「わたしは……ずっと、わからなかった。どうして、自分がこの世界にいるのか」
 綾波は、赤い瞳から涙を流しながら、口からさらさらと零れていくように話を始めた。

「わたしは確かに、消えていったはず。それを望みもした。わからないの、自分でも。フィフスが何かをしてくれたとか、碇くんのお母さんがこうしてくれたとか、推測はしてみたけれど、まったく憶えてないの。世界を再構築し、意識がなくなって――目覚めたら、わたしは世界で最後の生還者として、この世界にいた」
「そう、だったんだ」
「ええ、だから半年以上、自分がここにいる意味がわからなくて、何をした記憶もない。ただ街を離れて、普通の人の生活習慣や感覚を、無理矢理に味わわされていった、という印象があるくらいで。生きる意味が見出せないから、人と接することもなくて、第三新東京市にいたころと同じ生活していたの。でもある日、伊吹マヤさん――ああ、あの人、来年結婚するそうよ」
「……日向さんと?」
「ええ」
「まあ、だろうなとは思ったけど……それでマヤさんがどうかしたの?」
「あの人が、碇くんの事を教えてくれたの。碇くんが遠いところで生活しているけど、ちゃんと元気でいること。それまでは、わたしは碇くんのことすらほとんど頭に入らなくて、本当に真っ白な状態だった。そんなわたしに、マヤさんが「碇くんと会ったときにそんなんじゃ、恥ずかしいわよ」って言った。碇くんに会えるなんて、考えてもいなかった。実際会うまで、時間はかかったけど。でもその日から、わたしは、ようやく自分の目で世界を見て、聞いて、触れるようになった。わたしだけ成長のないままだったら、恥ずかしいもの……碇くん」
「?」
「わたし、なにか、変わったかしら」
「……わからない」
 それが正直なところだった。
「だって僕は、今日、綾波のことをちゃんと見たっていう記憶さえない。今ようやく、っていう感じだから」
「そう……わたし、碇くんに言いたいことがあった。ずっと言えなかった……」
 と言ってから、綾波は熱いのか、右頬と目を覆うように手をあてた。それから口惜しそうに「こっちを、先に言わなくてはならないのに。ごめんなさい」
「いいよ、べつに」
 順序立てて話せなかったのは、僕だって同じだ。
「ありがとう……碇くん、わたしは、わたしにもどうしてここで生きているのか、わからなかった」
「それは、さっきも聞いた」
「そうね。そして、それは今でもわからない。どういう作用でここにいて、わたしが生きているせいで、この世界になにか影響を及ぼしてしまうかもしれないと、いつも思ってる。再構築は本当につづくのか、わからない」
「……」
 綾波と目が合う。僕はまだなにも言うべきではないだろうと思って黙ったままだ。綾波は目を少し泳がせて、言葉をさがした。
「…………半年以上空っぽだったわたしだけど、今は生きたいと思ってる」
「碇くんと星を見たことや、一緒に食事をしたことが、一度で終わる思い出ではなくて、もっと……」
 綾波レイの口から、僕だけのものになってしまったと思っていた思い出が、語られた。思い出が、また僕らのものになっていたんだと知った。




「一度失ってしまったけれど、今度こそ…………。これが、わたしの心…………碇くんと、一緒に、なりたい」



「綾波……」
 彼女の目から、涙がこぼれて、頬を伝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、一度でもしてはいけないのに、忘れてしまって、なくしてしまって」
 とうとう両手で顔を覆い、綾波が静かに泣く。

 なんだっていうんだ、なんだっていうことなんだろう、これは。

 僕は、まったく馬鹿だ。僕のせいじゃないか、全部。僕にもっと勇気があれば、もっと早い段階でわかりあえたはずだ。それなのに、こんな、悲しませるようなことを言って、泣かせるようなことをして。

「なに言ってるんだよ、泣くことないんだ、泣くこと、ないんだよ」
 たまらず立ち上がって、彼女の隣にしゃがみこんで、彼女の腕を強く握った。

「ごめんなさい、わたし……碇くんに、悲しい思いをさせてたのね、ずっと」

「ちがう、ちがうよ、ちがう――そうじゃないんだ、そんなんじゃ」
 もう、それしか言えなかった。

「僕が勝手に考えただけだ、綾波のせいじゃない、僕が馬鹿だったんだ、それだけのことだ。綾波が泣くことなんてないんだよ。だから、ねえ……顔を上げてよ」

 綾波が、ゆっくり、顔を上げる。
 瞳の周りまで赤くさせていた。


 彼女が、自分の腕を掴んでいた僕の腕をゆっくり下ろさせて、自分の両腕を僕の首にまわした。
 その動作はすべてゆっくりで、彼女は顔を俯かせていた。自分の顔を僕の肩に押しつけるように埋めてきて、温もりが伝わってくる。



 僕の腕も、自然に彼女の背中に回っていた。






 温かかった。






 涙がこぼれた。






「熱い」
「そ……うだね」
 湯気で周りが白んでいる。そうでなくとも真っ白い景色だ、本当にすべてが真っ白だった。
 使えるようになった露天風呂に、僕らだけが入っていた。もっとも、客は僕らだけなので当たり前だけど。
 当然、彼女は身体に白いバスタオルを巻いているし、僕も腰に巻いている。
 あれから、食事を下げに来た仲居さん(酒については苦笑いで流してくれた)が露天風呂が使えるようになったと教えてくれたので、入ることにした。まさか一緒に入ることになるとは、思わなかったけど。
「やっぱり恥ずかしいよ、こういうの」
 不満ではないけど(当たり前だ)、いちおう意見として彼女に告げると、「わたしも恥ずかしいわ」とだけ返ってきた。彼女の口から恥ずかしいという言葉が出るのは少し意外で、そして良いことだと思う。ひとに裸を見せていつまでも平気でいられても困る。特にこれからは。

 風が吹いた。ほとんど無風だけど、たまに吹く冷たい風は、むしろ心地よい。露天風呂の醍醐味だとも思う。

 僕たちは、少し、距離をとっていた。体半分くらいの間隔が空いて湯につかっている。もっと近寄るのは、恥ずかしくてできなかった。できるのなら、したいけれど。
「星が、たくさん出ているわ……」
 綾波は、空を見上げていた。湯気の奥で輝く星は、またたき、輝いていた。
「……きれい」
 空を見上げたまま、綾波が言う。そんな彼女にすこし、視線を移した。
「うん……きれいだね」
 もう一度、空を見上げた。
「碇くん」
「ん?」
 綾波は顔を下げ、湯につかっていた両手を自分の口元で組んだ。まるで、祈るような姿勢。
「震えが、止まらないの」
「え?」
「胸の奥が、震えて……」
 そう言うと、彼女の下ろした手が、僕の左手を覆った。
 少し驚いて、白濁した湯の中の見えない手を見、はっとして顔を上げると、綾波の顔が湯に沈みそうなほど俯いていた。
 こんな時に、どんなことを言ってあげるのが一番いいのだろう。
 多分、いやきっと、考えていることは同じだ。
 まるで夢みたいな空間。白い空間の中、満点の星の下、ふたり。
 でも、夢は終わる。夜が明ける。夜の終わりは、夢の終わりだ。現実は、夢の終わり。だからこれは、夢じゃない。
 それなら僕の夢は――やっぱり、現実のつづきだ。どこまでいっても、そういうものだ。

「ずっと、こうしていたいね」
 湯の中の左手を返し、手を握り返した。
「……うん」
 彼女が頷き、体半分の距離が、縮まる。

「淋しくなるね、また明日から」
「……うん」
 一度手を離して、湯をすくって顔にかけてみた。顔を拭って、また、手を握る。

「でも、笑っていてほしいんだ。そうすれば、こっちも笑っていられるんだ」
「……うん」
 それでも僕らは、汗でも湯気でもなく、頬を濡らしていた。今日はお互い、ずいぶんと泣き虫だ。

「碇くん」
 なに?と目顔で伝える。
「また……今度」
 別れ際に言うと、また泣いてしまうから、とつけ加えて、綾波は笑った。



「そうだね、……また、今度」














 明くる朝、朝食を済ませ、僕らは帰り支度をはじめた。昨日は、というより四時間くらい前まで起きて、話をしていたのでさすがに眠いし、動きも緩慢だったけど、不満はなかった。
 着替えを済ませ、持参していたヘアワックスで、適当に髪を整えた。その少し後に隣の部屋から綾波も着替えや身支度を済ませて出てきた。茶色い厚手のズボン、黒いタートルネックの薄手のセーター。そういうものひとつひとつがまだ、いちいち新鮮に見える。二年前よりのびた髪はちゃんとした美容師に整えられていて、きれいだった。
 僕が見つめていると、彼女は少し笑顔を見せて――照れ笑いみたいなものを――手に持っていた携帯電話をすこしそれを掲げると、
「携帯電話の番号は、教えてはいけないって言われてるの」
「僕もだ。たぶん、かけて三秒で強制終了だろうね」
 頷いた綾波は、窓の前にあるイスにカバンを置き、そこから白い表紙の手帳とペンを取り出した。
 その手帳のメーカーはなじみのものだったので、思わず声をあげてしまいそうになった。
 それから、当然、嬉しくなった。
 綾波は後ろのほうのページを一枚破ると、テーブルの脇にしゃがんでボールペンでなにかを書いて、渡してくれた。
「でも、手紙は構わないって言ってたわ」
「それは初耳だけど、本当?」
 そんな重要な話、なぜ僕には教えてくれなかったんだろうか。まあ、今はもういいけど。
「ええ、でも、検閲は入ると思うわ」
「まあそれくらいは仕方ない、ってことにしなきゃね」
「だから、これ」
「必ず書くよ。帰ったらすぐにでも。話したいこと、まだまだたくさんあるんだ」
 僕もカバンから手帳を出して、手渡された紙をはさんだ。この手帳は、綾波と同じメーカーのものだ。テーブルで少しわざとらしくそれを扱い、彼女にならって後ろのページを破ったとき、薄い水色の表紙を見た彼女が隣にしゃがんだ。
「それ……」
「うん」
「わたしも使ってるわ」
「うん」
 頷いて、振り向く。彼女が自分の手帳を手に取った。白い表紙に金色の字で「Pocket Book」とだけ書かれた、シンプルな手帳。
 笑みを浮かべ、頷く。それだけで十分通じ合えた。

 住所と郵便番号を書いて渡す。彼女はそれを読み上げると、この県内なのね、と小さくこぼした。
「ありがとう。手紙、すぐ返事を出すから」
「うん――ええと、いつごろここを出ればいいんだっけ」
 綾波が素早く腕時計を見て、時間を確認してくれた。「まだ九時半だから、あと三十分くらい」
「んー……もう、出ない?」
「することないわ、別に」
「そうだけど、ベンチで電車待ってればいいよ、話すこと、まだあるしさ」
「……そうね。いいわ、それで」
 という言葉が合図になって、いつの間にか座っていた僕たちは、眠気と戦いながら立ち上がった。
「荷物、持とうか?」
「いい、重くないから」
 部屋を出て、ロビーで挨拶を済ませ、旅館を出た。すると、左に見覚えのある人影。
「おはようございます」
 例の老人だ。昨日の昼、はじめて会ったときと同じくスーツ姿で、背筋を自然にのばしながら車の前に立っていた。
「昨日はよく眠れましたか」
「いえ、そうでもない、ですね……」
 話ながら老人は僕らから荷物を受け取り、車に詰め込んだ。
「ではきっと、私が起きたころに眠ったんでしょうな、ここ十年近く、私もすっかり早起きじいさんになってしまいましたから」
「そうですね、五時くらいまで起きてました」
「そうですか、眠そうなお顔も納得です。では、どうぞ」
 ドアを開けてくれたので、綾波を促すと、僕は反対側に回った。老人がそっちのドアも開けてくれる。目が合って、言葉ではない、なにかを交わした。僕はちょっとだけ唇を上げて、頷いた。彼は頷いて、にっこり笑ってくれた。
 こんな人が父親だったら、幸せなんだけどなあ。
 自分の父親を思い浮かべながら、老人が運転席に乗り込むのを見届ける。チェーンを巻いていない車は昨日と同じように穏やかに走り始め、人気のない道を走った。信号の関係か、昨日より少しだけ早く到着した。
 僕は車を下りて、後ろから荷物を出して、振り返った。
「お世話になりました」
 綾波も同時に頭を下げた。
「いえいえ、また、いらしてください。今度はきっと、もっと楽しいですよ。春や秋は、木々が美しいんです」
「また、お邪魔します。その時にまた、お会いしたいですね」
「はい、お待ちしております」
 老人が、お手本のようなお辞儀をする。僕はまた頭を下げた。
「行こう」
 見せつけるわけではないけれど、綾波の手を取った。少しまばたきをした綾波は、笑顔で握り返してくれた。どちらかというと、あの老人にこの姿を見せたかったので振り返ると、老人はまだ背筋を伸ばして立っていて、車に乗ったときと同じように頷いてくれた。
 本当に、また来たいと思った。



 駅の改札では、明らかにこちらを見て待っている男がいて、その人から二枚分のチケットをもらった。そのやりとりに会話はない。改札を通って振り返ってみると、男の姿は既になかった。
 僕はホームの売店で温かいお茶を二本買って、一本を彼女に渡し、ベンチに座った。昨日の昼、電車を待っているときもこうして座っていた。ただしあのときは一人で、今は二人だ。この差は大きい。
 僕らは自分の生活や、住んでいるところの話をした。僕の住んでいる港町はどんな魚が取れるだとか、海と雪しか見えなくなる景色だとか。綾波も似たようなことを話した。彼女は第二東京に住んでいた。まったく不公平な話だ。なんで僕が田舎で彼女が都会なのだろう。聞けば、要するに様々な検査の結果、100%人間の肉体、性質、機能だけども、定期検診があるためそっちに住んでいるということだ。
 電車が来て、指定席に座ると同時に発車した。それから、会話がなくなった。現実の続きが間近に迫っていた。夢の終わりが見えていた。そのことに愕然となって、言葉を失った。ただでさえ、一晩中話をして、言葉だってくたびれている。

 ごとん、ごとん。

 ごとん、ごとん。

 トンネルの中に入った。音が変わる。

 ぐわああああん、ぐわああああん。

 ごとん、ごとん。

 ごとん、ごとん……。


 電車は走り続ける。僕は次の駅で僕は降りなくてはならなかった。夢の終わりまで、あと五分。


「ねえ、綾波」
「……なに」
「もうすぐだね」
「わかってるわ」
「それで、お願いがあるんだけど」
 僕は自分の腕に巻いていた鎖を外し、簡単に取り外しが出きるようになっているプレートの片方を迷うことなく外して、渡した。
「碇くんも、してたのね」
「気づかなかった?」
「ええ」
「うん、それで、コレ、受け取ってくれる?都合がいい、「N」と「S」の、Sの方。このままさよならできるほど、強くないんだ。だから……」
 綾波は、ゆっくりと、無言でそれを受け取った。自分のプレートを見て、目顔で訴えてくる。「そういうこと?」
「うん」
「いいわ」
 綾波は自分のプレートを外し、渡してくれた。「L」と「R」の、もちろん「R」の方を。
「わたしの、代わり」
「うん」
「それと、わたしたちの一日が、たとえ夢でも嘘ではなかったことの、証明」
「わかってる」
 アナウンスが駅名を告げ、電車が減速をはじめる。僕らは見つめあっていたけど、僕は荷物を上から下ろさなくてはならなかった。立ち上がって荷物を取る。それからまた、見つめ合って。
 それから、目だけで言葉を交わした。いや、言葉以上のものを。好きだとか、そういう言葉は、あまり当てにならなかった。僕らにとって必要なものは、交流であり、共にいる時間だ。そして、僕らにとって確かなものは、温もりだけだ。
 僕は電車を下りて、窓越しに手を振った。彼女も、手を振った。
 足りない。
 僕らにはもっと、たくさん時間が必要だ。無限でも足りないほどの時間をすごせるだろう僕らに与えられた一日という時間は、あまりに足りない。
 伝えても、伝えても、いくら触れ合ってもまだ足りない。もっと、もっと伝えたいし、届けたい。触れ合っていたいのに。


 僕は彼女の名前を叫んだ。同時に発車のベルが鳴る。



 自分の胸を叩いた。列車が動きだす。



 小走りになりながら、胸を手で叩いた。彼女を指して、また自分の胸を叩いた。何度も何度も繰り返した。



 彼女が、何度も、何度も頷いて、やがて僕が追いつけなくなるころには、窓に手をおしつけ、うな垂れる姿が見えた。



 電車に連れていかれた彼女は、すぐに見えなくなった。
















 ……僕が改札を抜けると、日向マコトが立っていた。心配そうな顔をして手を振っている。
「どうも」
 僕は言い、日向さんはそのつづきを待った。しかし、僕は何も言わなかった。
「どうか、したのか?」
 顔を覗き混むような仕草をみせた彼の言葉の無神経さに腹が立って、彼の顔を押しのけた。
「当たり前だろう!」
 早足で駅を去りはじめた僕に、後ろの彼は驚いていた。
「お、おい――」
 追いかけてはこなかった。今の僕に何を言おうとも、励ましにはならないことはわかったんだろう。
「マヤから聞いてもらうしかないか――」
 彼が小さくこぼした言葉はよく聞こえなかったけど、察しはつく。駅が降りしきる雪にかき消されるそうな距離になって振り向くと、駅の中へ消えていく日向さんが見えた。
 そして僕は、人気のなくなった通りを歩いて帰ることにした。バスに乗ればすぐに家に帰れるけれど、バス停に着くまでには歩いて帰る気になっていた。温泉宿とちがって、こっちはまだ分厚い雲が空を埋め尽くしている。遠くの山や家屋の屋根はとうに雪化粧を施しているうえ、強い雪が今も降っている。なにもかも、まっ白だった。
 駅を出たころはかすかに残っていた、やわらかい唇の温もりも今は消え、残っているのは感触だけだ。雪に消されてしまった――と呟いてみたが、意味はなかった。淋しいだけで。
 同年代のカップルとすれちがった。暗い顔をした僕を見てぎょっとして、またすぐあってないような話を再開する。
「ああ、そうだよな」
 呟いた。


 そうだ、肝心なのは、道を行くことだ。いくつかある選択の一つを、選んだ上で。


 選択は、すでに果たされた。


 想いはぶつけることができた。


 僕の望んでいたような彼女の想いは、すでに僕と共にある。


 さっきのカップルは、並んで歩いていた。僕はひとり。



 でも、今や僕は、一人ではない。



 なんてことだろう。僕は君を得た。君は、僕を得た。



 再会がいつになるかは、わからない。でも、必ず果たす。選択は終わっているのだから。



 だから、今はもう次の選択の時だ。僕が選んだ次の選択は――



 「歩く」ことだ。再会したときに恥ずかしくないために、歩き続けることだ。



 どこまでもつづいていく道を、休みながらでも、歩いていく。



 そして、その道の途中の交差点で、いつか君と再会するだろう。



 そうしたら、また、触れ合って、キスをしよう。






 君の温もりを確かめながら、改めて話がしたい。






 改めて、話をしよう。



























 レイは、自分の暮らす街に下りたって、手首を軽く振った。チャラチャラ、と鎖の音がする。「L」と「S」の、不自然で、大切な組み合わせ。


「碇くん」


 彼女は呟いた。何歩毎にかはわからないが、家まで徒歩で十分間、それまでに何度呟くのかわからないほどの頻繁さで。



「碇くん」



 一歩、一歩踏みしめながら歩く。目的を持って、歩くこと。それはとても大切なこと、と彼女は想う。



「わたし、生きてる」



 なんのために?



 それは、わからない。たぶんずっと、わからない。どうしてこの世界にいるのか、わからない以上は。



 しかし、生きることに理由が必要なのか、甚だ疑わしい。確かに、昔の自分は目的があって「造られた」から、そのために生きる必要があった。
 でも、今はもうない。
 理由の要らない生――「それを生ききること」のために、生きているのかもしれない。彼女は彼女の想い人の名を呼びながら、そんなことを考える。



「わたし、生きてるわ」



「碇くん、わたしたち、生きてるわ」



 それは、とても大切なこと。



 「共に生きる」ことができる。それがいつになるかは、まだわからないけれど。



 涙をすこしだけこぼした。でも、笑顔もこぼれた。



 みぞれが降ったの後の水たまりを、ジャンプして避けてみる。



 楽しい。そんなことすら、楽しい。



 いつか、碇くんと一緒に楽しいことをしよう。



 いつ会えるのかわからなくても、きっと彼は前を向いて歩いている。



 だから、わたしも前を向いて歩いていれば、時々現れる選択を大切にして、彼に近づけるように歩き続ければ、きっと、また会える。






 どこかの交差点で、きっと。






 そうしたら、今度はもっとたくさんの話を、時間をかけて語り尽くそう。






 触れ合って、お互いの存在を確かめあって、キスをして。












 あなたの隣に座り込んで、話がしたい。












 温もりを感じながら、ゆっくりと話がしたい。

















































あとがき

日記シリーズ最終話「Let it snow! Let it snow! Let it snow!」でした。
これでようやく終わります。
当初は半年で終わらせるつもりが、一年半近くかかってしまいました。
すべては最終話が前作から11ヶ月空いてしまったせいだ。なんてことだ。
でも、どうにか完結できてよかった。

この最終話はかつて存在していた「ぴぐの部屋」で行われた競作企画を思いだしながら、その設定を使っています。
「温泉」「混浴」「酒を飲む」。
他にも確か特定のセリフを言わせるはずなんだけど、忘れた。「熱い」だったっけ。
僕は、かのサイトでシンレイものにどっぷりつかった人間なので、リスペクトの意味で実践してみました。言わなきゃ気づかないでしょうけども。


このシリーズの掲載を快く引き受けてくれた管理人の皆様方、ありがとうございます。
そして、なにより感想を送ってくれた方、期待(してたのか)以上の数でびっくりしました。
本当に励みになりました。ありがとうございました。


では、またどこかで。



追伸:感想や意見があったら遠慮なくどうぞ。ていうか、お願いします、なんか一言ください(爆)


Special thanks:『Let it snow! Let it snow! Let it snow!』 Illustrated by tama


ぜひあなたの感想をののさんまでお送りください >[nono0203@po1.dti2.ne.jp]


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