潰す前、叫ぶ前。

 替わる前、晒される前。

 壊れていく前の、貴重な時間に気づかない時間。



その水曜日、8時58分

Written By NONO  



 いつもより早い時間から夕飯を食べ始めていた。食卓には二人、ビールを取りたいがために冷蔵庫に一
番近い席を陣取る家主はいない。だから食卓には、姉妹ではない中学生の二人だけが座っていた。
「ごちそーさまでした」
 惣流アスカの流暢な日本語は来日当初、ひとつひとつの発音がはっきりしすぎており、やや柔らかさに
欠ける、という印象を与えていたが、それは今や過去のものだ、ということを確信したシンジは、彼独特
の微笑を浮かべた。
「よく食べました」
 どういたしまして、でもないし、そうかと言って律儀に「お粗末さまでした」なんて堅苦しいから言わ
なくていい、と葛城ミサト――言うまでもないことだが、ビールのために冷蔵から一番近い席を陣取るだ
けでなく、粗雑と端麗と繊細を併せ持つ彼と彼女の家主――に言われて行き着いたのが今の返事だった。
最初のうちこそアスカは「バカにしてンの?」と文句を言っていたが、今は慣れたのかそれとも諦めたの
か、食って掛かるようなことはなくなった。
 シンジがアスカより食べ終えるのが遅いのには、いくつか理由がある。なにより食べ始めたのが彼女よ
り遅かった。原因は、食事を作っているのは彼であり、こまごました支度が終わる前にアスカには先に食
べてもらっていたからだ。また、アスカは同世代の女の子としては食べるのが早かったり、その割におか
わりはしない――理由はもちろん、思春期の女性の大半が気にかける、電気屋や脱衣場にある、あの益体
もない数字を叩き出す機械との絶え間ない激闘のため――といった理由が挙げられる。また、華奢な身体
だが、シンジは二杯目のご飯だった。彼は卓上の小魚のふりかけを取り、御飯茶碗に半分ほど残ったご飯
に控えめにかけ、少し急ぎめに口に運んだ。アスカが二杯目の麦茶を注ぎ、それもひといきに飲み干し、
ふーっと息を吐いた。注意深く彼女を観察すれば、その動作の中でも出来る限り彼が視界に入るように動
いているのがわかるだろう。同じく彼を見つめる人間なら容易く見破れるだろう。仮に、そんな人間がい
るならば。
「麦茶はエラい。でも今日のメニューならウーロン茶がベストかしらね、やっぱり」
 何も聞いていないような顔を維持したままシンジは味噌汁をすすった。
「今日のホイコーローは、ちょっと薄味だったわね」
 チンジャオロースについては「味が濃くて咽喉が渇く」と評した事についてはセカンドインパクト以前
の話になってしまうのか、実際にはそれがつい先々週であってもまったくお構いなし、当たり前にそんな
感想を述べるのは彼女の特技である。アスカは言い終えてから、やや探る目つきで、彼女の唇の端に甜麺
醤がついているのを指摘すべきかどうか悩むシンジの瞳を見つめた。食べ終わるとさっさと部屋に戻るか
居間のソファを占領してしまっていたのは、ユニゾン訓練の最初までだっただろうか。シンジの記憶が定
かなら、皿を片付けずに待ってくれるようになったのはここひと月といったところだ。先日の機体交換試
験の事故で入院し、戻った頃には今のようなスタイルが出来上がっていたように思える。
 食べ終わったシンジは箸を置いて手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「よく食べました……遅いわよ、ったく」
 アスカがまるで仕返しとばかりに合いの手を返し、シンジは照れ笑いをいつもの微笑で隠しながら、彼
女の皿を引き寄せて重ねた。待ってくれるから下げてくれるとも限らないのがこの世の難しいところだ、
とシンジはスケールの大きな悟りを開いたフリをして、彼女の帯とも襷とも言えない態度に首をかしげた。
「シュークリーム出そっか」
 麦茶やドレッシングを片付けるために開けた冷蔵庫を指さしながら振り返る。アスカはううむと真剣に
悩み始めた。悩む時に腕を組んだために、年齢の割には豊かと言える彼女の胸が競り上がるので、シンジ
はすぐさま麦茶のポットを持ったままだった利点を活かして再度振り返り、片付けというお題目で彼女か
ら眼を逸らした。眼だけは逸らすことができた。
「九時前に出してよ。ドラマ見ながら食べる」
「はいはい」
 しれっと指示が出来るのは、ここまで来れば立派な才能と言わねばなるまい。さらに彼女は名案とばか
りに手を叩た。
「面倒じゃなければでいいけど、アイスティ淹れて」
「……はいはい」
 最近になって使われ始めた日本人らしい一応の断り文句がただの装飾にすぎず、実際にはその願いを叶
えない場合に襲い来る罵声と暴力を考えれば、従わないのは聖なる騎士どころか蛮勇とすら呼べない愚行
である、という事は熟知している。シンジは曖昧に頷き、皿洗いに取りかかった。こんなシーン、ドラマ
でよく見ることをシンジは知っていた。土曜の昼に再放送されている、ベタなドラマだ。無能な上司の指
示に従う庶務の図式。無能ではない分、現実のほうがより厳しい。

「さーて、その前に昨日のを見ておかなくちゃ。今日のヒカリの口を縛るの、大変だったんだから」
 アスカの言うドラマとは、月曜から五夜連続で放送している特別ドラマのことだ。通好みの若手俳優が
主演に抜擢され、その他豪華なだけではないバランスの取れた役者陣とストーリーが評判で、原作小説を
上回る出来、との評価も出ているほどだった。
 その原作は三年前に刊行され、当時大ベストセラーになった推理小説で、寡作な作者にしては全三巻と
いうボリュームも話題を呼んでいた。シンジは題名しか知らないが、アスカはドイツにいた頃からこの小
説のファンで、今でも彼女の携帯端末にはその小説の電子版が保存されている程であると聞いた時、小学
生のうちから分厚い本を読んでいたアスカに感心したものだ。ところが感心された当のアスカは不満気味
で「あたし、大学出てんのよ?本くらい読むわよ。それより未だに読み返すってところにこの小説の破壊
力があることに驚きなさいってえの」とぶつくさ文句を言われてしまった。それほどのお薦めならという
ことで読もうと思った矢先のドラマ化だったので、あえて読まずにおいてある。それもアスカにとっては
もどかしいらしく、続きのシーンをどう演出するか、といった話が家の中で出来ないのが不満で、ここ数
日はシンジを「サボり魔」呼ばわりすることもあった。

 昨日はアスカだけ遅くまで試験があったため、今から録画を見るらしく、確かに食事中からいつもより
そわそわしていた彼女はすでにソファに陣取りリモコンを操っていた。いつもは「コマーシャルが面白い」
と言って録画した番組も飛ばさずに見ている彼女だが、さすがに今夜は本編から見始めているようだ。シ
ンジは時計を確認した。6時45分だから、CMを飛ばして8時半には終わるだろう。自分のことはいい
からドラマを見れば良かったのに、相手の食事中には席を立たないと一度決めたら変えようとしない彼女
の頑固さが今の慌しさを生んでいると考えたシンジはその頑固さが可笑しくなって、密やかに笑った。
 少し手を休めていると、手から落ちる滴の音が、居間で王様然と座っているアスカとはまったくもって
正反対の性格であろう綾波レイが昨日の掃除の時間しぼっていた雑巾の滴を思い起こさせ、再びレバーを
跳ね上げて水を出すのをためらってしまった。二人分の皿洗いを速やかに片付け、布巾をしぼるとき、意
識的に青い髪の少女を真似て逆手でしぼってみた。彼女の細く白い腕がブラウスの袖から伸び、それを太
陽が照らす様子は、控えめに言っても美術の本にも出ていそうなほど、現実でありながらどこかで神秘的
だった。もっとも、それに気づいた(かどうかは定かではないが、少なくとも彼の未発達で未熟であるが
故に敏感な神経は感じ取った)のは教室の中でシンジだけだったかもしれず、それならばひょっとしたら
その佇まいは彼自身の感受性が生み出した幻想の可能性も同様に存在する。また、言うまでもないが「ど
う映ったのか」というのは個々の判断に委ねられ、もしかすると、同じものを見た彼の同級生が神経症気
味であったり、あるいは特定の人物以外を殊更酷評したがる類の人間であったらば、雑巾を絞る彼女の腕
は白骨を思わせる細さと長さにすぎないと判断するかもしれない。
 実際、居間にいる惣流アスカを熱狂的妄信的偏執的に見つめる男子からすれば、綾波レイのある種希薄
な――しかし誰もが一度見たら暫くは、ふとした時に思い出してしまうほどの器量を持つ――容姿は格好
の比較材料となり、結果酷評の嵐をかの少女に降らせることもある。体育の授業の後など、熱気のこもっ
た更衣室でクラスメートがそんな話をしていたのを耳にした憶えがある。シンジは以前、遠回しにそんな
話をアスカ本人にしたことがあった。彼女を賞賛する余り他人を罵る姿について、彼女自身もそういった
行いについては存分に聞き及んでいたのだろう、驚きも喜びもせず、ただシンジに向けて一言「全員バカ
よ、あんた含めて」と放ったのみであった。
 それから数日間のワガママぶりは目に、というより身体に負担がかかるほどで、やれコンビニでアイス
を買って来い、お弁当が貧相だ、宿題くらいちゃんとやれ、と生活に次々と侵食してきたのだった。
 それ以来、一度入り込んだ棘が抜きにくいのと同様、一度まかり通ったワガママをあばよとさらりと引
っ込める彼女でもないので、そのワガママの一部は生き残り、今もシンジの生活を左右している。おかげ
で彼は毎朝6時半には起きて弁当作りに励まなければならない。本屋で弁当作りの本を立ち読みしたのも
二度や三度ではない。ソーセージは冷めたら美味しくないから入れるな、野菜の水切りが甘くてご飯に染
みて不愉快だ、ハンバーグは牛肉100%でなくちゃ嫌だ、フルーツはちゃんとアルミカップに入れろ云
々といった具合で、わずか数ヶ月間でいくつものハードルをクリアしてきた今、ようやく文句を言われる
ようなこともなくなった。それでも今晩のように薄い濃いといった話はいつもされるし、結局のところど
ちらでも良かったりする場合もあるからそれなりに始末が悪い面もある。しかし概ね彼女の味覚や好みが
不自然だとも言えず、今日まですごしてしまっており、それがシンジにとってそれほど苦でもない、とい
うのもまた事実であった。

 テーブルを拭き終え、億劫にならないうちにお湯を火にかけた。使い古されたコーヒーのポットにパッ
クの紅茶を二つ入れる。ペットボトルの紅茶は嫌いだからあまり飲まない、と言ったアスカに先日作って
あげたのがきっかけで、以来わざわざこうしてアイスティを淹れることがある。これだと味も手間もまっ
たく段違いだ。間もなく沸いたお湯を注ぎ、砂糖を三杯入れてフタをした。使い古されたポットのフタは
一部ヒビが入っている。あのミサトが、こんな風になるまで道具を使い込んでいる、というのは不思議だ
った。ガラスについた細かな傷といい、ずいぶん長く使っているようだ。もしかしたら、生家にあったも
のを持ってきたとか、そういう事情かもしれないと思うといつから使っているかは安易に訊きづらく、こ
れを使うたびに可能性を考えている。もしかしたら加持なら知っていたりするかもしれない、昔からの知
り合いだから、その頃から持っていたかどうかくらいなら。シンジはこれまでと違う新しい着地点に辿り
着いた自分に満足しながらポットを揺すった。パックから抽出されてゆく紅茶の深い色を見て、小ぶりの
グラスにたっぷりの氷を入れ、紅茶を注ぐ。ぱきぱきとひび割れる氷の音が心地良く響いた。
 お盆に載せてアスカの脇に置くと、彼女はまったく微動だに眼を逸らさず「ありがと」とだけ言った。

「そういえば、明日のデートどうするの?」
 唐突な質問だとは思ったがつい出た質問に、アスカがぐりんと首を向けた。彼女の背後のガラステーブ
ルに両腕を乗せ、携帯ゲーム機の電源をオンにしたシンジにとっては大した意図のない、普段の会話とな
んら変わる事のない質問にすぎない。
「どうって何よ」
「え、ごめん」
「ごめんじゃなくて、そんなぼんやりした質問されてもわかんないっつってんの」
「……ごめん、よくわかんないから、デートとか」
 アスカの声には迫力があったので、思わぬ襲撃、または不容易に藪をつついてしまったための焦りがシ
ンジの顔色に現われた。セーブデータの読み込み速度を遅く感じてしまうほどに。
「どうもこうもないわよ。遊園地だって言うし……早起きがめんどくさいってだけよ。あたしだってそん
なに沢山そういうところで遊んだことないんだから。平日の休みなら、だらっとしたいくらい」
「そうなの?」
「そりゃそうでしょ、そんなヒマあるわけないじゃない、バーカ」
「そっか……そうだよね、やっぱり」
「あんたこそ、どーすんのよ、明日。碇司令とお墓参りでしょ」
「……うん」
 頷いたと同時にゲームの画面が始まった。もっと遅くてもいい、と思い始めたところにわざわざ。
「うん、じゃなくて」
「よく、わからない」
「やっぱり。でもアレね、思ったより暗くないから、安心したわ」
「え、あ、そうかな……ありがとう」
 それは、夕方会ったレイの言葉のお陰かもしれない。彼女は驚くほど普遍的なことを言った。その時彼
女は火傷した手を濡らしたまま組んでいたせいで、水滴が肘まで伝っていた。あっけなく落ちることなく、
彼女の肘をくすぐっていた。それに触れたい衝動を思い出していたシンジを、凛とした声が妨げた。
「……礼はいいっつの、ったく。そう、それより、シュークリームは?」
 アスカの横顔がかすかに覗いた。彼女の青く深い眼は、レイの髪の色ともまた違う。はっきりとした意
思の強そうな瞳だと、誰もが思うようにシンジも思っていたが、今ちらりと見える瞳は深く、静かだった。
少なくとも主観的にそう映った。皆がどう見るかはさておいて。
「九時前に出せって言ったじゃないか」
「……わあってるわよ、うっさいわね。忘れずに出してよね」
 シンジはアスカの妨げになると判断し、部屋へ戻ってからゲーム機の音量をオンにした。トウジから借
りたRPGゲームで、中盤のヤマ場を迎えているが、もう没頭できないことはわかっていた。明日の憂鬱
さやら綾波レイの、あまりにも透き通りすぎているせいで、手を伸ばさずにはいられない姿が頭にちらつ
き、満腹の胃とそれまでに交わされたが会話がもたらすものが、更に画面への没入を妨げる。彼は早々に
見切りをつけ、壁にもたれかかった。枕元に置き忘れた古びたDATの再生機に目をやったが、イヤホン
ひとつで今日の出来事を切り離す行為を試すために再生ボタンだけ押してみる。15曲目の途中で止めた
ところだったらしく、放り出されたままのイヤホンから、膨大な音圧を持ったサビが聞こえる。再びテー
プを切って、目を閉じた。
 ちらつく言葉が再生される。
『会って、話せばいいのよ。そうしなければ……なにも始まらないわ』
 つい数時間前のことだ。正確に言うと三時間ほど前に綾波レイが発した、ぎょっとするほどはっきりと
した声だった。
 彼女の白い肌と白い寝間着が眼に痛いほどだった。あんな風にまっすぐ見つめられたのは、熱のこもっ
たエントリープラグの中で笑ってくれた、あの日以来かもしれない。あの日から、もう少しだけ頑張ろう
という気になった自分の単純さも思い出した。
 そうこうしているうちにうとうとしてしまい、閉じた目を開けたときには8時半になっていた。レイが
わざわざ紅茶を淹れてくれようとしたために火傷した、あの白い右手はどうしただろうか、と気にしてい
る夢を見ていた。夢というより、思い出しているだけの夢だった。思い出したら、それだけで夢のように
思えるのに、わざわざ。
 シンジは居間に戻ると、ソファの隅に陣取っていたアスカがちょうどドラマを見終えたところだと知り、
ずいぶん眠ってしまっていたことを知った。
「ずいぶん静かだったわね」
「うん……ちょっと寝てた」
 洗面所で顔を洗い、屈んで、眠っていたせいで固まった背中を伸ばした。半日後には墓参りに行くとは
思えないような緩やかな夜のすごし方に、我ながら拍子抜けしてしまう。結局のところ、やれることはレ
イの助言に従う他はないのだという事実がまた、かえって気分を楽にしているような、または重すぎて考
えるのを止めてしまっているだけなのか、自分自身でも判断がついていないのだが、ともかくシンジは部
屋に戻ってアスカの横に座ることを選んだ。真ん中に座るアスカが今日のようにソファの隅に居たのは彼
の記憶にない。アスカが引っ越してきて以来、テレビを観る時はいつも、ソファはアスカとミサトに占領
されてしまっていたので、ミサトがそろそろ替えたいとぼやいているカーペットの上に座っていたのだっ
た。何やら不思議な高揚感が背中から広がってくるのを感じ、脇目でアスカを観てみたが、甲殻類の様に
長い足が目に飛び込んで、慌てて視線をテレビに戻した。
「……あんた、背伸びた?」
 出し抜けの指摘に緊張を憶えたが、事実なので頷いた。
「アスカと会った時より、3センチくらい」
「ま、あたしは、あんまりでかいのは好きじゃないけど。加持さんくらいがちょうどいいのよ。わかる?」
 口を開いたと思ったら、成長を非難する内容であるというのはアスカらしい。それを今更気にしても仕
方がないのだから、仕方がない。
「いや、だって……」
「わかんないわよね、そりゃ」
「男だからね、僕は、申し訳ないけど」
 芝居がかった低姿勢に、アスカが笑った。その笑顔がそのまま更につり上がり、彼女にしては珍しく、
ずるそうな笑顔になった。
「ねえ、ちょっと早いけどシュークリーム食べちゃわない?」
 唐突に、しかしその閃き自体はずいぶん前から暖めていた、という顔でアスカがにんまりと唇を吊り上
げた。
「考えてみりゃ、昨夜からミサト泊り込みで帰ってきてないから、あれの存在自体知らないでしょ?」
「アスカ……でもさ」
 彼女の計画を察したシンジは玄関に思わず視線が動いた。いつ帰ってくるかどうかもわかないのに危険
ではないか、という彼の防衛機能とアスカの攻撃性能ではどちらが上かと言えば、普段の生活が示す通り
であり、提案は命令に等しい事もまた、お互い承知している。しかしそれでも良心の呵責が通常の十四歳
を遥かに上回るラインで設定されているシンジには、簡単に頷ける内容ではない。
「バレやしないわよ。いいから箱ごと持ってきてってば」
 肩を小突かれ、その痛みと暴力の正当性のなさに驚くより早く立ち上がり、冷蔵庫の一番下で眠る『近
江屋』の名物とアイスティのポットを抱えて帰ってくる頃にはシンジもすっかり「一人一つ半」の魅力に
押し負けた弱い人間であることを認め、ともかく食べて箱も潰してしまおうという段取りを決めた。
「ていうかコレ、アスカは誰からもらったの?買ってきたんじゃないんだろ?」
「1コ上の男子と一緒に帰ったら買ってくれたわよ。なんとかとハサミってのはとにかく使えばいいのよ、
使える範囲内で」
「酷くないかな、それ」
「良いのよ、あいつらは使われる喜びを味わってるんだから。それはそれで特権でしょ」
 平然と二百年前の貴族のような思想を持ち出すアスカのしてやったりの笑顔に、自分は絶対に逆らわな
いようにしよう、と心に決めてアスカに彼女の拳より大きなシュークリームを渡した。食事を控えめにし
た効果はこれで帳消しになってしまうが、思えばそもそも最初からそのつもりで食べる量が少なめだった
のかもしれない事にようやく思い当たり、頬張りながらも緩むアスカの表情に、見入ればいいのか背けれ
ばいいのかわからなくなり、それとなくテレビとアスカを同時に見るという折衷案に着地した。
「バニラビーンズがいい味出してんのよ、ココのは。卵っぽい味も優しいし……日本サイコーって感じね、
このへんのバランス感覚」
「そうなんだ」
「そうよ。んで、しかも大好きな本の見事なドラマ化でしょ?ったく、もう……」
 にやにやと笑うアスカは時計を見上げた。「ん、三分前」
「コレ、手で割っていい?」
「いいわよ、ただし等分しなさいよちゃんと」
 一々余計な一言がアスカは多い。でもそれが失われたら、もしかしたらそれはそれで淋しく思ってしま
うものかもしれない。そう思うと、この余計な一言なんてなんでもないことだ。シンジはまた、彼独特の
微笑で密かに感情を納め、シュークリームを掴んだ。
 割ったシュークリームを渡す。受け取るアスカの指は、こんなにも細く長かっただろうか、とシンジは
考える。ありがとうも言わずにアスカは受け取り、当然のように頬張った。
「あたしは、今日くらいの味つけが良いかな」
 彼女は最近強要しない。事実上の命令であることがほとんどであるのは事実だが、頭ごなしに言う回数
は減った。ただし、彼女の言葉の意図を汲まなければ即罵詈雑言の雨が降る。彼女の言葉は、語らない綾
波レイとはまた別の難しさがある。シンジは何の話かを思い出すために得たばかりの糖分で脳を急速回転
させた。
 今の言葉の意図は判断に困った。要望か、それとも。
 言葉の意味を考えあぐねて首をひねる碇シンジについて、彼は他人の感情を察する能力に長けていると
評されることが多いが、それは不正確な批評である。それを知らないからか、それとも知っているからな
のか、アスカは一見何の脈絡もなく「バーカ」と言って、時報直前のテレビに視線を戻した。ドラマの予
告と同時に流れる天気予報によれば、明日は晴れだった。
「良かった、今週ずっと晴れだって」
 顔を上げたシンジも予報を見て頷いた。
「良かったね、遊園地」
 彼女は朝早いのだという。急に雨が降り出したら、彼女の機嫌はどうなるかわかったものじゃない。大
体デートで雨が降ったら何かと差し支えるくらいシンジだってわかっている。そのくらいの事はわかって
いるが、そこまでしかわかっていなかった。アスカはため息をついて、シンジの黒い髪と眼をぼんやり見
つめた後で、緩やかな声で言った。
「……あんたバカね」
「なにが?」
 首をかしげるシンジを小突いてやろうというつもりか彼女は空いている左手を振り上げかけたが、直ち
に下ろし、ため息をついた。そして彼女はそっと呟いた。ドラマが始まる直前の、ミサトの分であってい
いはずのシュークリームをまたひと口頬張って。それがどれほど幸せな時間なのかも知らずに。



「……ほんとにバカね」



































あとがき(これ自体ひさびさ)

どうも、ずいぶんひさしぶりです。ののです。いかがでしたでしょうか。
連載を書いている途中にいきなり思いついて、半日で書いてしまったお話。
ほんとはショートショートのつもりでしたが、結構な量になったので正式投稿です。
正味4時間くらいの一発勝負なので、色々アラはあるやもしれぬというのも本音。

実は連載中の『Growing Comedian』には漏れてしまうであろう「15.5」という話でもある。
けどそれはわりと結果論で、ちゃんと書いたら繋がっちゃったって感じです。

くどいけど食べ終わったら案外イケちゃった、という風に思ってもらえれば大満足。

なんと初の(ちょっとした・ちょっとだけ)LASなお話でした。
連載がすべてレイの話なので、その反動かと思います。
でも、雰囲気としてはLARSの一節、くらいの感じかな。

ではまた、近いうちに。

タイトルは’07年のシドニー・ルメット監督作品『その土曜日、7時58分』より。

ぜひあなたの感想を

【投稿作品の目次】   【HOME】