捨てようとした。
捨てようとしたのに。
どうすれば?
箱の名前
Written By NONO
地軸が曲がって常夏に近くなって十五年。しかし、数千年かけて形成されたサイクルが何もかも変わってしまうわけではない。だから、蝉が鳴くにも時季がある。とは言え、曲がった地軸に認知を歪められ、タイミングを間違えた蝉が羽化してしまうこともある。見当外れの時季に、調子っ外れの鳴き声が聞こえるのはそういう理由からだった。そういった蝉の鳴き声は、いつからか『狂い鳴き』と呼ばれるようになっていた。
そんな蝉が鳴くのも一段落した九月、中秋の名月が訪れた翌朝、まだ浮かんだままの月の下で、綾波レイはゴミ捨て場に使い切った紅茶の缶を捨てようと思い、鞄に空き缶を入れて家を出た。扉の外は湿度が高く、学校に着く頃には汗をじっとりかいていた。いつも通り、クラスメートたちより少し早く到着すると、窓際の席に着く前に窓を開け、自席に座ると上を向いて目を閉じた。吹いた風が少し伸びた癖っ毛を揺らした。
今日は水曜日で、少し早く授業が終わる。そのため、所属先の特務機関NERVでは毎週水曜日は同じ十四歳のパイロット同士の合同訓練が組まれ、複雑なコンビネーション訓練や、戦術シミュレーションを組まれている。しかし、今日に限っては訓練施設の設備点検で合同訓練が金曜日に変更されたため、予定がなくなっていた。頭の中に、図書室と図書館という選択肢が思い浮かぶ。
目を閉じたままでいると、二人の男子のクラスメートから声をかけられた。それらに返事をしたことはなかったが、無視されることをわかっても話しかけてくる。二年のある時から、必ず話しかけられ、そしてその返答をしないでいると、彼らはいつものように紙より薄い笑みを浮かべ、顔を見合わせて去っていく。今朝のレイは目を瞑ったまま返事をしなかったので、その顔を見ることはなかったが、頭の中ではその顔が再生されていた。
八時すぎから続々と教室に入ってくるクラスメートたちは、特定の集団で固まる傾向が強い。しかしその構成員が変わることもあるし、ある日を境にどのグループにも属さなくなる人もいる。特にクラスの女子の中で一番背の高い相川カナメはそれが顕著で、出席番号2番の彼女はある時期まで特定の女子グループの中でも大きな声で話をする人物だった。それが、ある時期を境に女の子らしいロングヘアをばっさり切り落とし、ショートボブとウルフヘアの中間のような髪型に変えたと思うと、明らかにそれまでの集団から距離を置き、孤立していった。ちょうどその頃入院していたレイはその前後を知らず、学校に再び行くようになる頃には、もう彼女はひとりぼっちになっていた。出席番号3番のレイは必然的になにかと絡むことの多い彼女の変化を理解していたが、元から話すことがあるわけではないので、その変化について特に思うこともなかった。
彼女は今日も入り口近くの後ろの席で机に腰掛け、片方の足を机にかけて、もう片方の長い足を壁掛け時計のようにぶらぶらと左右に揺らしながら、片手で文庫本を読み始めていることだろう。スカートが捲り上がる姿勢になってもいいようになのか、いつも体育着のハーフパンツを穿いていた。昔話に出てくる妖怪のように切長の目とその不遜な態度が相まって、男子からも女子からも評判は良くない。むしろそうした評価を作り上げ、好んで一人になるよう振る舞っているように見えた。
八時十分になって、廊下の奥から小走りの足音と喧騒が聞こえ始め、目覚まし時計に起こされたようにレイは目を開けた。声はたちまち大きくなって、今やこの教室の新たな中心となった赤い髪の少女が、同い年と比べても幾分幼さの残る顔立ちの少年を鞄持ちとして従えて入ってきた。
「だから、アンタがちんたらしてっから!」
「んなこと言ったって……アスカだって夜中までゲームしてるから早起きできないんだろ」
っさいわね!嘶くアスカに、かつての中心だったカナメが声をかけたらしく、アスカがそれを聞きつけて、うっせーよと返す。カナメがそれに中指を立てて応じるところも含めて、それは珍しい光景ではなかった。切長の目で、ほとんどアスカを睨むような目つきで話をするカナメをアスカが無視することはない。
「相川さん、あんまりアスカを刺激しないでよ」
シンジのほとほと困ったその声が、レイの耳孔によく響く。
「やっぱり忠犬としちゃ、姫様のために言うだけ言っとかないとヤバい、みたいな感じあんの?」
立てた膝に顔を乗せて横目でシンジを見るその顔つきを視界に捉え、レイは反対側の窓の外を見上げた。今日は曇天模様が広がっており、遠く山の奥には一段と重そうな灰色の雲が控えており、午後からは雨が降りそうだった。天気予報は確認していないが、毎日見る空がそう告げている。
授業が始まる。今学期は水曜日の一時間目、二時間目に国語の授業が並んでおり、たちまち教室に気だるさが充満した。日本語のルーツとして学習する漢文の単元が始まり、規則性の異なる言語を習う面白さと、現代を生きる中学生にとっての退屈さが戦いを繰り広げ始めた。明らかに分が悪い勝負だったが、それでも今日は、誰もが知る『井の中の蛙』の原文が出てきたので、まだ少し生徒たちの興味が持続していた。レイは教師に指され、初めて聞くその原文を読み上げはじめた。
「井の中の蛙、大海を知らずーー」
その先の全文まで読み上げ、着席し、窓の空を見上げた。多くの生徒が思わず自分と同じ動きをしているのがわかった。
午前中の中休みになり、レイは鞄から水筒を取り出した。学校が水質検査のために午前中のみ水飲み場が使用不可となっており、今日だけは必ず水筒を持参せよ、という学校からの指示だった。元々、いまの気候になってから水筒持参は推奨されていて、レイを含めた誰にとってもいつも通りの景色がそこにあるだけだった。水筒を出すために開けたスクールバッグの底に行き場を失った空の缶を見つけ、わずかの間動きを止めた。
水筒を取り出して、淹れてきたアイスティをふた口飲んだ。登校時に汗をかいたのも相まって、いつもより勢いよく飲むと、いつもより少し多めに茶葉を入れてしまったためか、鼻に抜ける強い香り以外に舌にはかすかに渋味が広がり、いつかの記憶を蘇らせる。水筒に入った紅茶に視線を落とし、真っ暗の中では色の見えない液体を見つめ、蓋をする。日直だったカナメが長い手足で悠々と黒板を消し終え、自分の前を通り過ぎていったかと思うと、洞木ヒカリが
「相田君、カメラ持ってきちゃダメってあれほど言ってるでしょ」
「固いこと言うなよー、おれ、写真部よ?ユニフォーム持ってこない野球部員いる?」
「授業の合間にユニフォーム着てる部員はいないでしょ」
「なんで素振りが許されて、写真は許されんのだ」
「あなたはスナップが多すぎるの!そこまでやったら校則違反よ!」
校則違反、という言葉を聞いて、レイは水筒を入れた鞄とその中身のことを思い出した。
「いや、空撮ってんのよ、空。教室の窓から見える青空なんて、学生の醍醐味ってもんよ。なあ、シンジ?」
「え、そう?」
「ほれ、見ろよこの空を!」
「いや、空ならそこから……」
なぜかシンジの言葉はそこで途切れ、会話の後をケンスケが『言葉を失うほどの青春の一枚』として語り、ヒカリを煙に巻き続けた。レイの脇を通りすぎたカナメが「相田ぁ、私にも見せて」
了承も拒否の声もないうちに数歩分のリズミカルな足音が聞こえると、
「これは見事だわ、相田、やるじゃん。碇君が言葉を失うのも、わかるわあ」
「……だろ?」
ああもう、とか、そういう声がヒカリから漏れる。カナメとヒカリのやりとりにはこうした会話が多いことをレイは覚えていた。大抵、誰かしらの悪ノリに軽い足取りで加わると、それを肯定して去っていく。それを注意する立場のヒカリとは必然的に噛み合わないのだが、とりわけカナメはヒカリが何かしら注意しているときに間に入ることが多く、今日がそうであるように、彼女はヒカリの言葉を相対化してしまうのだった。
昼休み、レイは持参してきたゼリー飲料、野菜ジュースにエネルギーバーの食事を済ませる。たまにサンドイッチを持参することもあるが、パンの買い置きがなかった今日は、常備品のみで構成されていた。食事という自己管理のための行為にかける時間は短く、それを済ませ、レイは机に突っ伏してひと眠りした。いつもの習慣を済ませて起き上がり、また紅茶をふた口飲む。余ってしまいそうだったので、授業が終わったら飲み干すようにしようと考え、鞄にしまった。出した時にも見えていた、鞄の底のゴミ捨て場行きのはずのそれを見つけた。
掃除の合図のチャイムが鳴った。レイはいつも通りに雑巾がけを行い、それを終えてバケツの水でゆすいでいると、毎朝話しかけてくる男子二人がバケツのところに立って「ご苦労だったね」と声をかけてきた。あまり見られないパターンに耳が慣れていなかったが、いつも通りの対応をしていると、彼らは掃除道具のモップにもたれかかり、掃除をせず、ただ笑ってレイを見下ろしていた。
「綾波、いつも雑巾がけだね」
真っ黒になった雑巾をバケツに入れたシンジがやってきて、同じ視線で雑巾をゆすぎはじめた。彼の頭上に名前も知らない二人の影が落ちているので、レイは初めて顔を見上げた。
「おい、そこのクソ男子、クールなつもりだろうけど、クソダサいから今すぐの私目の前から消えてくんない?」
レイが見上げた時には、男子たちは呼ばれて顔を振り返っていて、顔が見えなかった。雑巾を絞っていたままの手の甲を指先でノックされ、顔を戻すと、シンジがいつも雑巾を干してある窓際の欄干を指差していた。レイは頷き、立ち上がってその場を離れた。シンジとふたりで会話のないまま雑巾を干すと、教室で一番背の高い女子に凄まれ、すでに廊下に出て行ってしまっていた。二人のところへ戻ろうと歩き出すと、その一部始終を見ていたらしいアスカが近づいてきて、
「戦いなさいよ、アンタ、少しは。でないとああいう手合いは調子に乗るだけなんだから。一発カマしてやらないと」
「え?一発ヤラしてくれたら?」
廊下の用具入れにモップを入れて戻ってきた男子が通り側に放った一言が、目の前のアスカの瞳に火を入れ、彼女は振り向き様に男子の頬に平手を叩きつけた。
「いってええな!」
「吠えんな、エテ公!」
前髪を掴んだアスカが長い脚を畳んで膝を鳩尾に入れると、男子が悶絶して倒れ込む。たじろぐもう一人の男子はカナメに胸を突き飛ばされ、壁際に追い詰められた。それから何事か囁き声で話しかけられると、より一層怯んだ目になった。それからカナメが廊下を指さすと、彼らは自分たちの住みかであるはずの教室から出て、どこかへと消えて行った。
「ありがとう、助かった」
隣のシンジが、時折見せる柔らかい笑みで二人をねぎらった。
「アンタから礼言われんの、微妙」
「なんだよ、それ」
「まあ、アイスで手を打つわ」
「……わかったよ」
「さすが忠犬。惣流はいい彼氏いんねー」
「だ、誰がよ!」
「勘弁してよ相川さん、そんなことあるわけないだろ」
ため息混じりのその言葉に、赤毛の少女がにじり寄る。
「それはそれで、ム・カ・ツ・ク!」
「だめだよそりゃー、女心と惣流は秋の空だぜ」
「うっさい。とにかくファースト、アンタこそお礼言いなさいよ」
「……どうして?」
その言葉で、周りの三人が動きをぴたりと止めた。自分の言葉にそういう影響力があるとは思っていなかったので、何かしらの意味をもたらしてしまったことに思わず目を伏せた。綾波、二人はさーー言いかけたシンジをカナメが制し、レイの目の前に顔を寄せた。
「んじゃ、綾波さん、お礼はいいからさ、今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
今日の予定を思い出し、断る理由がないことを思い出した。提案を受ける理由を考えると、考えている自分に苛立った様子の赤毛の少女と、それらの様子を見守る少年の顔を見る。そして、少し屈んでじっと自分を覗き込むカナメの瞳に自分が映っているのを見つけた。
「……べつに、構わないわ」
「ありがたき幸せ。んじゃ、HR終わったらすぐ行こう」
「どこへ?」
「とりあえず、ヒミツ」
突然の約束が交わされた以外は、さほど変わり映えのない一日が流れ続け、5時間目の理科の授業を終え、帰りのHRを終えた。例の二人組がそそくさと教室を後にしていったことは、いつもと違う景色と言えば景色だが、印象に残るほどではなく、レイは荷物をまとめて相川カナメの席に行く。
「OK、じゃあ行こう」
校則を無視したリュックを背負った教室を出たカナメと、スクールバッグを肩にかけたレイは玄関で靴を履替えたとき、カナメの靴がスニーカーであることを知った。校門を出て、いきなり普段の登下校の道筋とは逆方向に向かうことになった。
「どこへ行くの」
半歩前を進むカナメが振り返りながら言う。
「いいところ……かどうかわかんないけど、一人じゃちょっと不安でさ」
行き先の明言を避ける言葉で、少し迷いが含まれていたことはレイにもわかった。最初の交差点が大きく、かつ歩道橋でしか向かい側へ渡れない道なので階段を上ると、今にも降り出しそうな灰色の雲に少しだけ近づいた。
「わたしと一緒だと、不安じゃなくなるの?」
「今日、紅茶飲んでたでしょ、水筒」
誰に知られるようなことでもないことを指摘されたので、足が止まりかけた。
「どうして」
「前通った時に香りがしたんだよ。あと、出し入れしてる時に紅茶の缶が見えた。今も水筒と当たってカタカタしてんじゃん」
鞄の底にそっと手を当て、金属同士がぶつかる音を小さくすると、脇目でそれを見ていたカナメが笑った。
「いや、校則違反についてはどうでもよくってさ。でもさ、紅茶の缶ってどういうこと?わざわざ持ってこないでしょ、学校に」
「……今朝、捨てようと思って」
「忘れたの?」
首を横に振った。
「捨てられなかったんだ。紅茶の缶、かわいいの多いもんね」
「別に、そういう理由じゃない」
「あ、そうなの……なんか、捨てられなかったんだ?」
首を縦に振ると、カナメが自分とは違って小刻みに頷いた。どうやら彼女にとって悪い話ではなかったらしい。
歩道橋で向かいの通りに渡って歩くこと十分、街道沿いの古いビルの一階にある店の前で彼女が止まった。
「……紅茶専門店?」
白いペンキが塗られた木板に琥珀色の字で書かれた看板を見上げた。
「そう、ちょっと行ってみたくてさ」
重そうに見えた扉は軽く、カナメが思い切りよく引っ張るとドアは勢いよく開き、内側に付いていたベルが勢いよく鳴った。二人でそっと足を踏み入れると、外から見えるガラス窓に沿って、売り物ではなく装飾品として、見たことのない色や名前が書かれた缶がずらりと並んでいた。店内中央のテーブルには売り物の紅茶の缶が置かれ、その手前には同じ茶葉が入った小瓶が置かれ、香りを確認することができるようになっている。
「いらっしゃいませ」
店の奥のカウンターでは、袋に入った焼き菓子にリボンを巻いている女性が手の素早い動きに反比例してゆっくりとした表情で二人を迎え入れた。ギンガムチェックのリボンを素早く巻き、結ぶ動きはいかにも手慣れており、この店または彼女自身の年季が伺えた。店内は涼しく、空調の風を受けたドアベルが微かに揺れている。店の窓側の外は駐車場なので、午後の陽射しを受けさえすればもっと明るく映るだろう店内は、ミントグリーンの戸棚や色とりどりの焼き菓子が置かれたアンティーク調からは想像しにくい、流行りのリズム音楽が流れていた。
「あの、紅茶買いに来たんですけど、ちょっとよくわかんなくて」
普段、動くとなるときびきびしている長い手足が今はなぜかふわふわとしているカナメが店員に話しかける傍らで、それに付き合う道理を見出せないレイは店内をゆっくり巡り始めた。入口脇の椅子に置かれた店のパンフレットを開く。オリジナルブレンドを売りにした紅茶を出しているようで、火曜日・木曜日の夜は紅茶教室なる催しを定期開催しているらしい。
茶色い紙袋の真ん中に動物の絵が描かれた何種類もの紅茶は茶葉の種類やフレーバーによって味や香りが分かれているらしい。レイは蜂が描かれたものと象が描かれたものを見比べて、この二つの絵から何の味を想像すればよいのかわからず、首をかしげた。
「なにしてんの」
声をかけられたので二つの絵が書かれた茶色い袋を渡すと、彼女はすぐに袋を裏返し、成分表示表を見ると、ハニーとチャイだってさ。ねえ、くれるってよ、と小さな紙コップに注がれた琥珀を渡してきた。受け取ったそれをひと口飲んでみると、爽やかで、どこか青々とした味が広がった。
「無農薬のヤツだって」
「これだけ、すぐ近くで作っているものをこのお店用に卸してもらったんです。普段はそこでは、その方が自分で出しているお店でしか飲めない・買えないんですけど、今週まで期間限定で売らせてもらってるんです。あちらのお店にも、うちのオリジナルを置いてもらって」
「これ、なんか……番茶とかに近いような」
「そうですね『外国のお茶』という雰囲気はあまりないかもしれません」
「でもおいしい。ね」
振り向かれたので、首を縦に振った。
「それと、こっちがうちの定番です」
コップを乗せた花柄のトレイを持って店員がカウンターから出てきた。差し出されたコップを飲んでみて、二人で顔を見合わせた。
「んー、こっちの方が紅茶って感じします。美味しい!」
店員のはにかんだ顔を見ながらレイは残りを一気に飲み干してトレイに戻す。
「こっちの方が、おいしい」
「私もそう思った!これにしよう……あ、缶入りでのティーバッグもあるんですね」
「はい、ひと手間かけられるお客様ばかりじゃないですからね。ティーバッグでも十分美味しいですよ」
「じゃあ私、これにしよ。綾波さん、なんか買う?」
頷いて、同じものと、蜂の絵と象の絵が描かれたものを掴んだ。
「これ、ください」
「すご、お小遣いいっぱいあるの?」
「……一人暮らしで、生活費から出すから」
「え、まじ。いいんだっけ、一人で住むとか」
支払いを終えて店を出ると、いつの間にか降り始めた小糠雨が、音もなく地面をまだら模様に染め上げつつあった。急激に立ち上る雨の匂いに合わせるように景色に靄がかかり始め、町は急激にその正体を眩ませつつあった。
「どしゃ降りになる前に、帰らなきゃね」
その言葉に同意すると、早足で来た道を戻りながら、寄り道したことがバレないようにしなきゃだ、という彼女の言葉に従い、遠回りして帰ることにした。普段歩かない道は靄のせいかより不確かで、地面は揺らいでいるように見え、普段よりたった十分の遠回りが、より遠くに感じられた。カナメの家はレイの家からも比較的近くだが、彼女は足を止めて反対側の通りにある大型スーパーの看板を指さした。
「綾波さん、私、あそこで買い物してから帰らなきゃだ。さっきのお店でお茶請け、買い忘れちゃった。ここでバイバイしよ」
「ええ、さようなら」
「今日はゴメンね、無理くり付き合わせちゃって。せっかくの機会だからって、ついさ」
街の景色の奥に見えていた山のように目立つはずの彼女の声は、街の景色の奥の山のように靄がかかったような語尾で笑った。
「ほんと、ゴメンね。次からは無理には誘わないよ」
彼女が浮かべた一見屈託のない笑顔はしかし、どこか見覚えがあるような気がした。そういう笑顔を作り慣れている人間の笑顔だと、理解できた。レイはとある少年の笑顔を幻視したが、それはすぐに地面を濡らした雨粒を噛み潰し、騒々しさを増し始めていた車の音にかき消された。街灯が灯るにはまだ早い時間帯ではあるものの、本来明るいはずの空は、分厚い雲に覆われたことによって明度を損ない、本来の明るさとの落差によってより一層暗く感じられた。
「んじゃまたね、また明日」
小走りでスーパーへ向かった細長い手足は、躍動するというより、大袈裟に動いて何かを振り解こうとしているように見えた。レイはその後ろ姿を見届け、一人になってから、鞄にいつも入れてある折り畳み傘を差して帰路についた。
部屋に戻って水気を含んだ服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて、水滴の付いたビニール袋から買った商品を取り出した。裏に書かれた淹れ方を確認して、缶の紅茶を開いた。真空パックになっていた紅茶の袋を缶に空け、ポットに入れて一人分の湯を注ぐ。色の変化を見つめながら雨の音を聞き、頃合いをみて、先日まで使われることのなかったカップに紅茶を注ぎ、口をつけた。カップを持っているうちに温まった手で、エアコンが効き始めて冷え始めた足を摩った。
ベッドに腰かけ、紅茶を飲みながら読みかけの本を開く。
そこでは親子と兄弟の物語が描かれている。自分には縁のない世界が頭の中で宇宙となって広がって、その周りを雨の音と紅茶の香りが包み込んでいる。雨の音は平等に世界を塗りつぶして外界を遮断し、紅茶の香りは部屋から雨の匂いを取り除き、身体を温める。
誰もいない部屋で、ひとり。
雨の中をふたりで歩いて買い物をして、いま、ひとり。
また、ひとり。
いつもの時間に眠り、いつもの時間に起き上がる。起き上がると最初に目に入る、チェストの上を見つめ、ベッドから出た。壁の脇に置きっぱなしにしていた鞄の中を探って、入れっぱなしにしていた空の紅茶の缶を取り出す。資源ごみの日は過ぎた。捨てられるのは、次の水曜日。レイは手に持った缶の蓋を開け、香りを嗅いだ。頭の中にしまってあった記憶が宇宙に散らばり輝いた。それらを拾い上げて抱きしめる。
缶に蓋をし、チェストの上に置いた。
こうすれば。
いつもの時間に家を出る。雨が降った後の朝の陽ざしは暑く、狂い鳴きする蝉の声が遠くで聞こえる。湿気の残る空は色が薄く、どこか気だるげのようにも見えるし、休みの日の寝ぼけ眼の気分のようにも見える。どのようにでも見えると、レイは思う。
いつものように少し早く教室に着いて、窓際の席に座って目をつぶる。風が首を撫でる気持ちよさを誰が知っているだろうか。もしかしたら、朝の風が、汗ばむ身体を撫でていく心地よさを知っているのは、自分だけなのかもしれない。
今日はいつも話しかけてくる二人が、いつものタイミングでも話しかけてこなかった。思い当たる節はある。だから、ずっとこの風のことだけを考えて、風の音をだけを聞いていられた。昨日のアスカの言葉に、こういうことかと、今更得心し、思い浮かんだ言葉をいつ言えばいいのか考えた。
八時すぎから、続々と教室に入ってくるクラスメートたち。レイの後ろの席の女子はいつも来るのがギリギリなので、まだ顔を上げて目をつぶっていても邪魔にはならない。そう思っていたところ、ガタンと机が動いたので目を開けると、机に腰掛けた、手足の長いショートボブの彼女が目に入った。
「おはよう」
返事はせずに顔の向きを戻し、横に座り直した。他人の机に、彼女は改めて机に座り直した。
「昨日はありがとう。あれ、紅茶好きな叔母さんが来るからそのために買ったんだ。でもなんか『これからはノンカフェインの時代だ』とか言うから、ぶったまげたけど」
「喜んでもらえなかったの?」
「なんか流行りがある人なんだ。でも、いつも貰うお小遣いが五千円にパワーアップしてたから、たぶん、喜んでもらえたんだと思う」
文脈はどうあれ、最後の言葉の意味はわかったので首を縦に振った。
「一人じゃもったいないって、あげたものなのにおすそ分けされちゃってさ。つっても私普段飲まねーし、と思ったから……実は綾波さんの真似して、校則違反してきたんだ」
持っていた黒い水筒を掲げて振ってみせる。レイは机のフックに掛けていたスクールバッグから水筒を出し、自分も掲げて見せた。カナメが笑って、乾杯しようぜ、と差し出してきた。その言葉の引力に逆らえず、自分の持っていた水筒を差し出して、カチンと金属の音を響かせる。昨日飲ませてもらったものより苦く、渋く、きっと濃すぎる色の紅茶がレイの喉も潤していった。
「うわ、私の苦いわ。お店の味と全然違うんだけど」
「わたしも、苦かった」
前の紅茶とつい同じやり方と量で淹れたら、それが間違いの元だったのだろう。
「お互いまだまだだねー。そうそう、んで、その叔母さんなんだけどさ、ミニマリストなもんで、中のティーバッグだけ受け取って『缶はアンタにあげるわ』とか言うんだよ。なんかひどくない?」
グレーのカーディガンを着て、口をとがらせ小刻みに揺れながら喋るカナメの顔は、いつかどこかで見た気がする、巣で餌をせがむカモメの子供に似ていた。
「このやろーと思ってさ、捨てようかと思ったけど、やっぱ捨てらんなかった。なんか、なんとなく、その……まあ、思い出の記念ってことで」
「わたしも、捨てられなかった」
まだ教室には半分程度のクラスメートしか登校していない。いつもに比べて集まりが悪いが、時間は時計の針が示す通りに進み続けている。いくらカナメの座る机の主が来るのが遅かろうと、来なかろうと、この会話がもうじき終わることは確定している未来だった。その未来に向かってレイは進み出す。
「使い切ったら、何も残っていないはずなのに」
本当は、残った紅茶の香りを嗅いで捨てようと思っていたことを思い出す。それで蘇ったもののこと。毎朝起き上がったら見られる場所に置いたこと。もうじきここに来る、彼のこと。小さく頷くと、カナメが目を閉じて顔を見上げながら言った。
「なのに、ね……子供の頃さ、ああいう綺麗な缶って宝箱にしてなかった?」
彼女の眼の奥では幼少期に親から貰った色とりどりの丈夫な缶が思い浮かんでいるのかもしれない。そのことを思いながら首を横に振ると、その様子を察したのか、目を開いた彼女はレイの返答に意外そうな顔つきになったので、レイはその回答が珍しいものなのだと知った。普通の人との会話で思い知らされる普通でなさ。あの少年との会話の様だった。
「じゃあ、初めてだ。大事にしなよ、大切なものとか入れてさ」
彼女が狐のような目をもっと細めて笑う。安らかに眠る猫にも似たその表情は朝の陽射しを受けて眩しく映った。しかし言っていることは矛盾しているはずだったので、レイは反射的に口を開いた。
「もう、いっぱいになっているから」
「……だね」
彼女の顔を見て、さっき浮かんだ言葉を思い出した。
「昨日は、ありがとう」
「なにがよ」
「掃除のとき」
どういたしまして。言った後も口元が緩んだまま紅茶を飲むカナメにつられて、ひと口飲んだ。
「ねえ、ひと口、ちょうだい。そんでもっかい乾杯しようぜ」
狐のような猫のような、カモメのような彼女と、昨日の授業で習った漢文が、昨晩読んだ小説の冒頭の言葉を思い起こさせる。
違う色のボトル同士がぶつかり合って、金属同士の音が鈍く響く。
飲む前から、互いの口元が緩むのは紅茶の味への期待のためか。
自分の左手と彼女の右手には、紅茶があった。
自分の右手側、彼女の左手側には、空が浮かぶ。
紅茶を口に含むと、さっきと同じくらいの苦味と渋味が広がり、思わず天を仰いで目を見開いた。つられたのか、向かいの彼女も同じ仕草で天を仰ぐ。
空だ。
青い空が、広がっていた。
そして、一緒に笑った。
了
◆あとがき
ども、ののです。
現在、2022年1月に同人誌を発刊するために書き進めているお話とは別軸にて短編を書いてみました。
最近TwitterでGAITZさんが思いついたハッシュタグ企画『#貞シンレイ強化月間』に何か一本短いやつ書こうと思いはしたものの、中々イメージできずふわふわしていたところ、紅茶の缶を再利用する、というよくある話から膨らませていきました。GAITZさん、感謝です!
というか、振り返ってみると、20周年企画に参加してくれたB市さんの書いた『周回遅れのランナー』、触発されたデーテさんとtambさんの書いたモブ小説、自作で出した最上ハルちゃんといったオリジナルキャラクター、ヨシヲさんの欲望丸出しの『貞シンレイくれよ〜』の呼びかけ、それに応じた皆さんの作品といった様々な要素が絡み合って錬成されたのがこのお話です。完全に2021年11月になった今でしか書くことのなかったお話です。
きっかけになったすべての出会いに感謝感謝。
おかげさまでいつも楽しいです。どうもありがとう。
aba-m.a-kkvさんが新作公開してるので、僕も定宿のこちらに投稿した次第です。
読んでもらえたら幸いです。