永遠よりも遠い。
零よりも近い。
その訪れは。
身の丈に合わない袈裟を着ている
Written By NONO
この日のために仕立てたスーツを着て、待ち合わせの場所に向かうために市の外れにある自宅を出た。今の住まいは周辺は田畑が多く中心部まで距離があるが、一ブロック向こう側は幹線道路なので利便性は低くない。何より高速道路のICの側であり、第3新東京市までのアクセスが最も良い。もっとも、2014年に第二東京との間にアウトバーンが造設されたとは言え第3新東京市まで片道二時間の道のりは決して近いとは言えない。それでもこの街に居を構えていることは、今日の待ち合わせ相手や息子に対する自分なりの誠意のつもりだった。
タクシーを予約しておくのを忘れていたことに思い当たり、約束の時間に着くかどうか多少不安になった。一軒家の維持のための家政婦と護衛こそいるものの、プライベートの世話までしてくれるような秘書はいない。仕事で雇っている秘書に依頼すれば用意してくれるが、彼が自ら気を利かせることはない。それは私自身が望んだことなので文句は言えないが、こういう時には今のような契約を結んだことを少し後悔してしまう。
冠婚葬祭ではないからと履き慣れた革靴で幹線道路へ出ると、運良く流しを捕まえることができた。幸先はいい。運転手は白髪の男性で、髪の色と同じく白い手袋をはめている。ゆっくりとした動きでバックミラー越しに目を合わせてきたので行き先を告げると、私の服装と様子から状況を察したらしい老運転手はゆっくり頷き、シフトレバーをカタンと押し込んだ。絶滅危惧種のマニュアル車。維持費も馬鹿にならないはずのそれを軽やかに操る運転手は、人馬一体ならぬ人車一体と言わんばかりに軽やかにカーブし、減速の反動を感じさせない老練な操縦を見せた。
「卒業式ですか」
最初の交差点を超え、幾分速度を上げたタイミングでバックミラー越しに運転手が尋ねてきた。
「ええ、息子と……息子の恋人の」
丸眼鏡に変えたばかりで、まだ最適な視界を無意識で処理できない。座り直す仕草で一旦運転手との距離を測り直し、改めて顔を上げると、彼の目つきはひと目でわかるほど柔和なものだった。このご時世、苦労知らずということもあるまいに。
「そうですか、いいですね。私のところは孫がもうじき大学生です」
「そうですか」
こういう雑談は苦手なので、未だにどんな顔で話せばいいのかよくわからない。よく知らない誰かとの、目的地が設定されていない会話はすぐに断ち切りたくなってしまう。窓の外を眺めていると、中央分離帯に咲く花を見つけた。その花が長く生い茂る景色を眺めながら、花の名前が自然と頭に思い浮かぶ。花に関心を持つような人生ではなかったはずなのに。眺めているうちに、花の匂いが記憶の引き出しから鼻孔をくすぐった。記憶を司る海馬を刺激し呼び覚ます、匂いならではの記憶の蘇り方。
妻と本格的に付き合い初めてから二ヶ月ほどが経っていただろうか。春先の、蛇が蠢き草木が芽吹く時季に行った生駒で、彼女と木々を眺めながら山頂に向かって歩いていた。話題は主に頂上の遊園地では何に乗ろうかというものだった。私は学校行事以外で遊園地に行ったことはなく、そういうことに詳しくないことを言うのが怖かったので、知ったかぶりして話を合わせるのに必死だった。
『あ。ねえ、この花は知ってるでしょう?』
楽しそうに話す彼女をカメラに収めた直後、彼女が山頂までの道すがらを彩る花を指さして言った。
『いや……』
『えー、ホント?ゲンドウ君、こないだ食べてたよ、学食で』
『花を食べた覚えはない』
『我らが母校の日替わり定食の小鉢のバリエーション、舐めちゃあダメよ。酢味噌和えで出てました。わたし、あなたと一緒に食べたもの』
『…………ああ、アレか』
『思い出した?』
『ああ。飯より酒の肴に良さそうだったな。でも、花の名前は知らない』
『私、言いました!』
『……仕方ないだろ、覚えてないんだ。君はここぞという時、迷いなく大きな声を出すんだな』
『もー。じゃあ改めて教えてあげる。あれはね……』
「……菜の花」
思わず口に出してしまったので、運転手が視線を中央分離帯に移したのが見えた。
「綺麗なものですね」
運転手はそれだけ言った。
花の名前。こんなことですら、自分は彼女が注いでくれた栄養でできている。微に入り細に入り、彼女の成分が入っている。だからこそ彼女を失ったことを、いなくなった世界を認めることができなかった。
今はそのことを考えず、生き残った時間を償いに費やしている。それが私に残った唯一の役割だと信じて。
追い越し車線から急角度で前方に入ってきた車のせいで、これまでの滑らかな運転では考えられないブレーキでタクシーが揺れた。運転手はただブレーキを踏み、嫌な顔ひとつせず運転を続ける。
「失礼しました」
「冷静ですね」
そう声をかけると、運転手はでんでん太鼓のような笑い声を車内で響かせた。
「これくらいで苛立っていたら、務まりませんから。疲れるだけですし」
「私だったら、舌打ちしています」
「まあ、向こうの方にも何か事情があるのかもしれません。イライラしていて、それは仕事で理不尽な思いをしているからかもしれない。であれば、あの割り込みは結果ですからね。結果に右往左往してると疲れますから」
大したものだと思うと同時に、自分のストレス耐性の低さに今更げんなりする。もうじき還暦にもなろうというのに、その程度でいちいち腹を立て得るのだから、あっという間に胃癌になってしまってもおかしくない。
三月下旬の第二東京市内は寒さこそ残るものの、雪はもうない。もちろん遠くの山々は白い冠をその頂に乗せているが、市内にはもう残っていない。風の冷たさは老骨になりかかった身にはいささか滲みるが、しかし、それはそれで悪くない。窓をかすかに開けて引き締まった冷気を車内に取り入れる。そうすればこの後の待ち合わせの約束も油断せずに挑めるような気がした。
ずっと鞄に偲ばせている写真を取り出してみた。たった一枚だけ手元に残しておいた彼女の写真。仕事から戻った時に、おもちゃで散らかった居間の真ん中で寝ている母子の写真だ。二人とも涙の痕を残して眠るその寝顔と周囲の散らかりようで、自分が帰ってくるまでの間に壮絶な激闘が繰り広げられていたことを知る。そんな時だというのに、思わずカメラを取り出し撮った写真。その写真を撮った時、彼女との出会いと、結婚と、子供が生まれたことに、心から幸せに感じた。
胸の奥から核心の花が芽吹くあの感覚は、一生忘れることはないだろう。
実際には、この頃は少し遅めのイヤイヤ期真っ盛りで、一度スイッチが入ると如何ともし難く、自分も彼女も正しく手を焼いた。成長した息子の内向的な性格からは信じられないほどだ。
今思えば、自分に反抗する素質は、あの時十分あったということかもしれない。それは思い込みなのだろうが、そういう見方もできる。
写真を撮った時には、ついこんなことを空想してしまったものだ。
『もう一人子供ができたら……女の子が生まれたら、名前はやっぱり……。』
実際には、その翌週には彼女は私を、私たちを残してこの世界から消え、その夢は跡形もなく消え去った。
タクシーの中にびゅうっと吹き込んだ風が連れてきた塵が眼鏡の間を抜けて目に入った。まばたきをしても違和感を拭えず、眼鏡を外す。最近特に老眼が進んだ。またすぐレンズを入れ替えなければいけないかもしれない。そうして、いつの間にかどんどん時が過ぎていく。そしてどんどん、歳を取っていく。
「息子さんと待ち合わせですか?」
運転手の不意の質問に、反射的に答える。
「いえ、息子の、息子の恋人とです」
へえ、と運転手が素直な声を上げた。
「珍しいですね。もう、婚約なさっていたりするんですか?」
「まあ、そんなところです。春休みのうちに指輪も買いに行くと言ってますよ」
「そうなんですか、なるほど。いいですね。私の子供はちょうど結婚とセカンドインパクトが同じ時期で、結婚指輪も買わずじまいでしたよ、結局」
「ああ…………私もそうでしたよ。妻は金属アレルギーでしたし……チタンの指輪を買うヒマや余裕があるなら、もっと必要なところに回すべきだと言ってました。結局……たぶん、オモチャのような指輪を渡したきりです」
「そうですねえ、あの世代はそういう意識になりますよ。そう思うと、いい時代になった」
「そうですね」
「息子さんの恋人とは、もうご面識があるんですか?」
「ええ、まあ…………彼女のことは、幼い頃からよく知っています」
それはそれは、と頷いた彼が理解したような関係ではないのだが、訂正のしようがない。これから息子の、シンジの婚約者の少女――成人済みの女性に対して使う言葉ではないが、自分にとってはいつまでもそういうものだ――は、妻を失った自分が暴走し、許されざる罪だと承知の上で計画した『人類補完計画』の要として私が生み出した少女だった。人類補完計画遂行までに倒すべき使徒と戦うためのパイロット適性も兼ね備えていたのも、人型機動兵器である人造人間エヴァンゲリオンとの適性が極めて高かった妻の遺伝子をベースにしていたためだ。妻に会う、ただそれだけのために生み出された存在。
少女は私が定めた役割を果たし消滅するはずだったが、彼女自身の意思と息子の願いによってこの世界に留まった。
そういう出自故に、一人の人間として生きるようになったその少女と会うと、その度に自分が如何に罪深いことをしたのかを改めて思い知らされる。もちろん、息子は私を咎めるために彼女をこの世界に留めたのではない。ただ他者との関わりを望み、その中でもとりわけ少女の生を願った。ただそれだけのことなのだ。
だが、意図とは別の意味を持つこともある。成長して大人の輪郭を帯びた少女の横顔は、妻を思い出さずにはいられない。まるで生き写しの、複製品……。少女は、綾波レイは、この世界に生き続ける私の罪の象徴となった。
今日はそんな二人の大学の卒業式に出る。果たして二人を心から祝福したいという気持ちになれるだろうか。臓腑に鉛を詰め込んだような気持ちになってしまうだけではないだろうか。
咳が出た。昨年から発症した花粉症のせいで、咽に痒みを覚えるようになった。眼や鼻にほとんど影響はないのだが、咽がむず痒くなってふとした拍子に咳き込む。その姿が窓ガラスに映ると、まるで子供の頃に見た父の姿のようで、思わずため息が零れた。
「お子さんとは一緒じゃないってことは、息子さんはひとり暮らしですか?」
「ええ、随分長く一緒に暮らしていません。色々あったもので」
「そうですか。確かに、こんな世の中ですからね。それなら今日は、息子さんたちの晴れ姿、楽しみですね」
「……そうですね」
「このくらいの歳になると、親の方が寂しい思いをしますから。晴れ着姿の学生さんを見るだけでこみ上げるものがありますよ」
「……寂しいと感じる暇もありませんでした。やるべきことを……やらなくてはならなかったのでね」
よりにもよって、あまりにも罪深い自分がこの世界に生き残ってしまったならば、壊した世界の後始末をしなくてはならない。いくら自己と他者の境界が元に戻ったとしても壊滅した街は元には戻らないし、ミサイルの雨が降り注ぎ、今は封印されたジオフロントは今でも超古代文明の遺産と今の人類にとっては驚異的技術の塊で、管理には細心の注意を払う必要がある。遺棄することなどもってのほか、軽々に扱うことも無論論外。そして封印は人類の歴史が続く限りなくならない。或いは人類の認知能力と科学力が黒き月とその周辺技術を犠牲なく行使できると判断されるまでは。今でも世界中から援助という名の軍事介入が行われかねないところを、彼の地を平和の象徴とし、かつ各国の利害を調整し、あの『驚異的空間』を誰にも触れさせないようにするのが、今自分ができる精一杯の仕事だった。
そうは言っても、自分は所詮研究肌の職人だ。腹黒な政治家達との対話は得意でもなんでもない。黒き月とエヴァンゲリオンの管理運用を行う特務機関ネルフの司令官など、身に合わぬ袈裟を着ているとしか言いようがない。
更に昨年、大学時代の恩人で、二十年来の相棒でもあった冬月が引退した。ステージ2の胃癌とのことだった。幸い経過は順調だが、無理をさせて死なれては困るので、今後はアドバイザーとしての役割に留まることになった。自分はせめてあと十年、前線で踏ん張らなくてはならない。
幸い、後継者となってくれる腹心の部下もいる。彼らが自分の後を継ぐ前に、できる限りのことはしておかなくてはならない。彼ら自身がコネクションを持ち、政治的な振る舞いを自律的にできるようになる支援も必要だ。未だ髪を後ろに結んだスタイルを崩さないあの男と、銀灰色の少年には、まだまだ多くを学んでもらう必要がある。と言っても、心配はしていない。本人たちがその気でいてくれる限り、自分よりよっぽどうまくやってくれるだろう。
例えば、人間への洞察と理解だ。今日の約束を交わすことを躊躇していることを先の腹心の部下二人に話すと、彼らはこう言った。
『人間は、公人である前に私人ですよ』
『あなたは今も昔も私的な理由で世界に関わっている。明日も今日の貴方と同じように、私的なあなたのままで会えばいい』
一部始終を話したわけではないのに、何故こうもこちらの心情や躊躇を慮った言葉が出てくるのだろうか。
それにしても、レイと待ち合わせするなどおよそ何年ぶりになるだろう。サードインパクト以降、顔を合わせるのは年に数回。それも大抵はシンジや冬月もいる中で会っているので、二人きりで会うというのは記憶にない。その申し出を受けた一昨日からずっと、今日の約束の理由を考えている。何かしら、彼女なりの気遣いではあるのだろう。しかし、それ以上のことはよくわからない。
「このあたりは桜はまだ先ですが、春らしい風ですねえ」
「そうですか……?私には少し肌寒く感じます」
「まあ元々ココはそういう土地ですから。それでも陽気は春ですよ」
わき見運転は決してしない運転手の言葉につられて空を見上げた。
「……そうですね」
◆
待ち合わせ場所はレイからの指定で、会場からはやや離れた喫茶店だった。会場のアリーナから距離があるため卒業生や彼らを送り出す後輩達が集う場所としては若干不向きで、また、若者がたむろするのはあまりそぐわない、物静かな雰囲気だった。店に入ってすぐ目に入った和装の女性客は、おそらく同じ大学の卒業生なのだろう。
「いらっしゃいませ」
先ほどの運転手と同い年くらいだろうか、白髪のマスターがカウンターから微かに微笑んだ。白いシャツにベスト姿で、背筋の伸びた姿勢からして誠実であろうとする姿勢が伝わる。おそらく、彼にはこの店でそう振る舞おうとする信念のようなものがあり、それが彼の背骨を補強しているのだろう。カウンター席を促されたが、じきに連れ合いが来ることを伝えると彼の一瞬目が細まった。それではこちらへどうぞ、と窓際の席を案内された。二人席だが椅子にもテーブルにもゆとりがあり、居心地の良さを覚えた。
メニューを渡されしばらく考え、マスターに向かって手を挙げるタイミングで、カランと鈴の音が鳴った。
「おはようございます」
「おはようございます、綾波さん。よくお似合いですね」
「ありがとうございます。あの、今日は約束していて……」
「ああ……お父様ですね。あちらでお待ちですよ」
お父様ではありませんよ、という言葉を思い浮かべながら、上げかけた手を下ろしレイを見上げる。振袖姿を見るのは初めてのはずだが、その着物には覚えがあった。
「待ちましたか?」
「いや、まだ注文もしていない……レイ、その着物は」
はい、という返事の代わりにレイが頷いた。
「冬月先生から頂戴しました」
「なぜ冬月が……」
「司令が、家のものをすべて処分する際に、いくらか引き取っていたそうです」
だからと言って、なぜ冬月が妻の、ユイの振袖を取っておこうなどと思うのか、どうにも理解に苦しむ。レイが着ているのは、ユイが卒業式で着ていた振袖だった。青を基調にしている服をユイが着るのは珍しかったので、印象に残っている。裾にあしらった梅の花がアクセントとしてこれ以上ないほど映えていた。違うのは、レイは頭にリボンをつけているところだろうか。
「彼に会う前に、司令にお見せしたかったんです」
はにかむレイの表情に戸惑いながら、マスターが水とおしぼりを運んでくる。
アールグレイとルイボスティーを頼んでメニューを返し、改めて姿を見る。
瓜二つではない。よくよく見れば、顔つきは少しずつ異なる。それでも、面影はたっぷり残っていた。思わず少しだけ視線を外す。
罪の徴として目を背けてしまうのか、眩しすぎて見られないのか、どちらだろうか?
「なぜだ?」
自分の声は、随分弱くなったと思う。彼女を従わせていた頃ほど強くない。
「わたしは、司令のおかげで存在しています」
熱量の高い声に、意外な一面を垣間見た。気づかない間に、静かではあるが、成人した女性の力強い声を出すようになっていた。
「父親のような気持ちになっては、いけませんか」
「……私はそれほどいいものではない」
「いい父親だとは、言いません」
はっきりと言い切るその口調に、奇妙な既視感を覚える。
「けれど、因果を捨てたり忘れたりする必要もないと思っています」
「……ありがとう」
ひとまず礼を述べて会話を区切った。胸ポケットのチーフに目を落とした。黄金色のチーフが秋の色のようで、季節に不似合いな可能性に気がついた。
沈黙自体は苦手ではないが、今ここでは具合が悪い。視線を落とし気を落とした様子を見せるレイは、十四歳までの彼女と比べたらほとんど別人のように思える。それは素晴らしいことだ。だからこそ、尚更私との因果など断ち切ってしまう方がいいのではないか。何故彼女が自分との関係を再定義しようとしているのか、発せられた言葉の動機が分からず、怖さを覚えた。
沈黙の空気の間を茶器が運ばれる音が割り込んだ。絶妙なタイミングだった。
サービスのビスケットから口に運び、自分の口が乾いていたことを知る。飲み込み損ねたビスケットの粉が咽に引っかかり、思わず咳き込んだ。
「大丈夫ですか」
「ああ、平気だ。花粉症で咽が少し、な」
「……彼も、今年からなってました。アルバイト先の建物の隣に杉の木だらけの公園があって、そのせいかもしれないって。最近鼻声です、ずっと」
「……似なくていいところばかり似てしまうな」
「きっと……きっと、そういうものです」
ぎこちない笑みを浮かべるレイに、思わず笑いかけた。
「気にするな。私のことは。もちろんお前が……君がさっき言った通りでいい。因果を捨てたり忘れたりするのは……必要ないかどうかはわからないが」
ないものねだりをするつもりはない。成人し精神的にも自立した今、私だからこそしてやれることなど残っていない。公人として世界の均衡を保つことも、私である必要はない。あるとすれば、二人の邪魔にならないようにすることだ。下手に近づかず、傷つけあわない距離感を保つことが、これから先最も大切になっていくのだろう。
それからは互いの近況を話し合った。レイが就職するのは食品会社の水質保全部門で、研究職の待遇や雰囲気について訊ねられたので、研究職というものの経験を語った。レイからは卒業旅行で東南アジアを周遊した話を聞いた。セカンドインパクトでシンガポールが沈んでしまったが、地殻変動によってスマトラ島からレアメタルが産出されるようになったことから空前の好景気が訪れ、それによって野生動物が減少している現状などを聞いて回る旅だったという。観光というよりはフィールドワークのようなその旅路に、もっと楽しいところに行けばよかったのではないかと感想を述べると、友人たちが冒険心旺盛なんです、と彼女は嬉しそうに――どこか誇らしそうに答えた。
「私としては、お前には苦労などしてほしくないのだがな」
春の陽射しが背中を照りつけ続けていたので、次第に暑さを感じはじめた。喫茶店は少しずつ賑わい始め、一人で切り盛りしているマスターの動きがすこしずつ忙しくなっている。
「ここはよく来てるのか?」
「はい、彼とも。だからマスター、すぐにわかったみたいです、司令のこと」
「なにがだ」
「わたし、誰と待ち合わせするかは話してないのに、彼の父親だって、言ってましたから」
そういうことだったか……苦笑なのか、失笑なのか。とにかく笑みがこぼれてしまう。
「シンジとは何時に待ち合わせだ?」
「もうすぐです。時間には正確だから……あ、あそこ」
視線の先、道路の向こうにブルーのスーツを着た青年が立っている。会う頻度が少ないと言っても、さすがにひと目で判別できた。
二人で動きを追っていると、窓の手前で息子もコチラに気がつき、軽く手を振ってドアをくぐった。そう言えば二人席に座ってしまっているのは良くなかったと気がついたが、元々待ち合わせだけのつもりだったらしく、レイが立ち上がった。店に入ってシンジは店主に挨拶をすると慣れない履物と着物でゆっくり歩くレイの手を取った。伝票を持って、誰の目にも仲睦まじい二人を外へ促し、会計を済ませた。
「本日は、おめでとうございます」
マスターが控えめな笑顔と共に言った。予想していなかった言葉に会釈を返し振り返る。店の分厚い木扉にはめこまれたガラスの先に、外に出ていた二人が談笑しているのが見えた。
春の風が吹いてレイの髪が揺れ、頬を撫でていく。それを追うようにシンジの指がレイの髪を整え、その去り際に指でそっと頬を撫でた。それをレイがくすぐったそうに目を瞑り、開くと同時に微笑んだ。
おもちゃが散乱した中で眠る二人を見つけた、あの時と同じ確信が胸に咲く。
普段とは違う装いでめかし込んだ二人が、普段通りの柔らかい表情で笑い合っている。
カメラがあれば……。
「ご馳走様でした」
「父さん、久しぶり。来てくれてありがとう」
「ん……このくらいはな。私だって……いや、高校の時は、行かなかったからな」
「ああ……まあ、今いるし。って言っても僕たちそろそろ行かなきゃいけないし、終わったら友達と会うから、会えないと思うけど」
「わかっている。そんなものだ」
会場に向かってレイを挟んで歩きながら、シンジと会話をしはじめる。じわじわと温かくなる春の陽気につられて会話が弾むにつれ、ふいに我に帰った。この過分な夢としか思えない時間から目覚めるために空を見上げた。生まれ育った町よりずっと澄んで晴れ渡った空は、目の前の若者たちのように希望に満ちて見えた。
レイの電話が鳴った。和柄のハンドバッグから携帯を出す。
「ハルからだ」
「なんだろう?」
「遅刻とか。あ、もしもし……?」
会話の様子を聞いていると、共通の友人が待ち合わせ場所を決めてなかったことを懸念して電話してきてくれたらしい。待ち合わせ場所を決めて会話を終える頃、レイの視線が固定されてひとつの場所を見つめていることに気がついた。正確には、そのことに気がついたシンジの様子を見て、私もそれを理解した。
電話を終えたレイに、会話から内容を理解していたシンジが頷いた上で訊ねた。
「どうかしたの?」
「あの木、白い花がたくさん」
レイが花を指さした。
「街路樹で、たまに見かけるかな?」
『「そうね。なんて言ったかしら。あれ……思い出せない……」』
さっきは空を見上げたが、それでは目を覚まし損ねた。私はまだ、夢の中にいるのだろうか。
『「あれは、ニオイコブシだな」』
時間のなくなった、夢の中の世界で答えた。
『あ、そうそうそうだった。度忘れしちゃった。やるじゃない、ゲンドウ君!』
夢の中で、ユイの声がリフレインする。
「あ、そうだ、どうして忘れたのかしら……司令、お詳しいんですか?」
この世界で生きる、彼女とよく似た、しかし少し異なる声質のレイが訊ねる。
「父さんのイメージっぽくないや」
「詳しいわけじゃない……だが、そうだな……秋には実が赤くついて、それはそれで中々見ものだ」
「いいですね」
「秋、山とかに行って見に行ってもいいかもね。そういうの、あんまりしてないし」
「うん。あ、でも仕事でそういうところにたくさん行くだろうから、休みの日に行くのはうんざりするかも……」
色づく世界の中で歩く二人を眺めながら上り坂の並木道を渡り切り、会場へ着いた。賑わう学生と保護者は入口が分かれている。旧友たちに手を振る二人に、挨拶もそこそこにほどなくして別れた。まだ開始までは時間があるが、二人は学友たちといくらでも時間を潰せるだろう。しかし、この先の人生がまだまだ長い彼らの学生生活も今日で終わる。もしかしたら、終わった時初めて気がつくのかもしれない。心のどこかで、今がずっと続くと思っていたことに。
二階の保護者席への階段を上りコンコースから会場を見渡すと、会場をぐるりと並木道が囲み、東側には城跡が見えた。その周囲は公園になっている。そこでは春の木々が我先にと芽吹き、蕾をつけ始めているだろう。
腕時計を睨み、階段を降りて公園へ足を向けた。会場を振り向くと、少し離れたところに友人達と合流した二人が目に入った。立ち止まっていたせいか、二人も私に気がついた。軽く手を上げ振り返る。
「お義父さん!」
レイのはっきりとした声が届く。
ここぞという時の、迷いのない大声で。
「すぐ戻る」
娘がいたら、こんな声も出るのだろうか。自分の声とは思えないほど優しい声だった。
こんな声では、とても届いてはいないだろう。
それなのに、遠くのレイは何故か安心したような素振りを見せる。
どうして伝わったのだろうか。
微笑み手を振るレイの顔は、ユイによく似ていた。
娘はユイの複製品などではなく、もう一人の忘れ形見だった。
レイの後ろに控えるシンジは、レイのことばかり見ていた。愛した人のことしか見えなくなるその姿が誰に似ているかは、言うまでもない。
あんな二人の父親であるとは。
私は本当に、身の丈に合わない袈裟を着ている。
散歩道を歩きながら思い出す。色々なことを、出会いと別れと悲しみを。
そして、確かにあったあの美しい日々を。
『ねえ、あの木は知ってる?』
美しい白木と垂れ下がった長い雄花が特徴的な木を、ユイが指さしていた。
今日はやけにユイを思い出す。だがこれからはきっと、こうして思い出し続けて生きていくだろう。
かつては近いようで遠く、今は宇宙の果てへ向かう遥か遠くの君が、今は目を閉じなくてもすぐ近くにいる。
「そうだなユイ、あの木は確か……」
了
◆あとがき
こんにちは、ののです。
綾幸では一年ちょっとぶりですね。
この度、初めて碇ゲンドウ視点のお話を書きました。
ことの経緯は、2023年3月17日、Twitterで募ったお題より執筆する際、彼の視点が必要不可欠となったことから、この話を書くことを決めました。
この話は、自分自身が人の親になったことで書けるようになった話だと思います。
また、僕が旧劇・新劇にゲンドウに思い至って欲しかった心境を投影させた話にもなっています。
LRSではあるものの、そのための話ではないので人によっては物足りなかったかもしれませんが、いかがでしたでしょうか。
ひとつの可能性として、面白がっていただけたら幸いです。
長いセルフレビューは『四人目の掲示板』にて書くと思いますので、ぜひそちらも覗いてみてくい。
そちらに感想も残していただけると、その感想より長い返信で喋くり倒しますので、ぜひぜひ!お待ちしております。
では、また。
いただいたお題:
父の日(すずさん)
春の待ち合わせ(れいさん)
意外な一面(お魚徹甲さん)
あなたに微笑む(アールグレイさん)
大切な距離感(ADZさん)
柔らかな頬(ハルさん)
風が頬を撫でる(史燕さん)
白樺(スマトラさん)
菜の花(春日希望さん)
ないものねだり(はるさきのへびさん)
※ADZさん、お魚徹甲さん以外の8名はお題のお礼として、皆様のお名前を入れさせていただきました。その都合上、拙作の登場人物が一名出てきておりますが、同じ世界線ではありません。