そこにあるものは確かに在った。かつては在った。

 今だって「もしや」って期待をして、ただそれだけで。

 相変わらずの絶望、その都度墓石を殴りつけた。




Life Work

Written By のの





 セカンドインパクトは地軸をへし曲げて、氷を溶かした。地球で一番大きな氷を、至極
あっさりと。真相は僕も実のところあまりよくわからない。アダムを幼体にまで還元する
ための作業過程で力が漏れてしまったとミサトさんから聞いたが、なぜアダムがそこに居
て、そしてそう易々と人間に押さえ込まれたのか。考えてみたらわからないことがある。
 しかし、それは僕にはどうしようもないことだ。
 洗濯機の音がかすかに聞こえる。今日もよく晴れていた。洗濯物はぱりっと、新鮮なキ
ャベツのようになってくれることだろう。もっとも、瑞々しくても困る。
『君には絶えず監視がついている。すまないが、覚悟していてくれ』
 国連の職員が、包帯まみれの僕とアスカに向って、実に済まなさそうに頭を下げた。し
かしど素人の僕には一体誰が監視役なのは解らないし、どこにいるかも知らない。だから
不自由は感じていない。せいぜい利き腕の包帯が取れずに暮らしが不便だって事ぐらいだ
ということと、ネルフで何度も見た、大人の謝罪、をこれからも度々受けることになるだ
ろうということくらいだった。
 右腕には不自由が残るかもしれない。医者にはそう言われた。リバビリ次第だとも。え
えそうですか、と僕は自分でも笑ってしまいそうになるくらい他人事のように返事をした。
それだけで済んだんだからもうけものだ。あれだけ地形を変えるほどの戦いを終えて怪我
がその程度ならラッキーもいいとこ。

 そして、僕は高校に入って、ボクシングを始めた。
 理由は大したことじゃない。とにかく、実に非力だった僕はそれをなんとかしたくて始
めた。もっとも、その決断は二年ほど遅い。なぜもっと早く強くありたいと思わなかった
のか。そうすればなんとかなったんじゃないか、と今でも思う。
 それは一生思い続けるだろう。そうしないと、誰よりも僕自身が許せない。
「おい碇、文化祭の打ち上げなんだけどさあ…」
 友人が話しかけてくる。どうやら僕は根っから世話役らしく、高校生になってもこうい
う雑務が多々ある。ぼくは全く変わっちゃいないんだよ、綾波、と、空色の空を、当たり
前の空を見上げて、僕は話しかけた。
 僕の腕も首も二年前に比べて太くなっている。胸板も厚くなった…外見上なら、ぼくは
立派な格闘技の選手だろう。指の皮はちがうモノじゃないかと思えるほどゴツくなってい
た。
 肺を鍛えるために水泳もやるようにした。今なら何分も潜っていられる。

 それでも僕は、変わっちゃいなかった。

 17になった。全てが終わり、再生された世界から二年半。二年半…思ったより時間は
たっているし、思ったほどたっていない。ただ言えることは、体つきはともかく、僕は何
も変わっていないということ。



 だって僕は、今でも毎日、彼女の夢を見る。



 家に帰っても誰もいない。本当に、誰も。偽りの家族も、動物も。それが日常になった
のも二年半。僕を除いたなにもかも二年半で変わってしまった。
 牛乳を飲んでみた。コップに残った牛乳は白く、この二年半で国連が一番てこずった事
後処理の対象とよく似た色だった。彼女は、焼かれた。一部分から、時間をかけて焼却場
に運ばれていった。
 僕はそれを見ていた。何度もやめろと言ったのに。解体作業なんて言うんじゃない、と
何度も怒鳴った。あれほど地獄に近い日々はない。そうだろう?
 好きな人が毎日毎日少しずつ「処理」されてゆく日々。
 今でも瞼の裏にも眼球の裏にもべったり張り付いたままの光景を振り払えることを願っ
てシャワーを浴びて、眠りについた。
 舌にはまだ牛乳の味がまとわりついている。
 今日もやはり、夢を見た。
 彼女の夢を。彼女が立ち尽くしていて、遠すぎるほど遠くはなく、でも、近くない場所
から僕と彼女は見つめあっている。周りには赤い海。
 度々彼女は喋った。そのおかげで声を忘れずにいられた。なにを喋っていたかは何故か
思い出せなかった。おかしな話だ。それは少し悔しいし、少し安心する。



 人を殴るプロになった。
 僕は高校三年になっていた。
 夜明けと同時に起きた。夢の中の彼女が口語訳されていない「枕草子」を読んでいたの
でびっくりしたのを思い出す。春はあけぼの、か。確かに悪くない。
 グラスになみなみと注がれた水を一気に飲み干した。これから月に一度の小旅行に出る
のだから。
 僕はリュックサックを用意した。登山にトートバッグもないだろう。
 水、カロリーメイト、文庫本、タオルを入れた。そのあとでビール、タバコ、ネコの置
き物、それと線香。花束は向こうについたら買えばいい。そうして、シャツにハーフパン
ツで外に出た。
 これは僕にとって、ボクシングと同じくらいの、いやそれ以上の、それ以上に大切なラ
イフワークだった。
 始発の、その次の電車は空いていた。しかし、ある程度人がいるのが不思議だ。朝帰り
のサラリーマンはともかく。
 一時間半も電車に揺られる中、ひまだから文庫本を読もうと思った。それは毎度のこと
だ。だからきちんと荷物に入れてある。でも、僕は決して読まなかった。それもいつもの
ことだ。









 エヴァ初号機から帰ってきてから、ネルフからの帰りの電車は、いつも隣に、綾波レイ
がいた。気がつけばそういうことになっていた。はじめは確か、帰りにばったり会っただ
けだった。
「一緒に帰ろうか」
 と疲れたぼくはある時するっとその言葉を言った。我ながら、あんなに臆病だったのに
どうしてあの時は平気だったのか、不思議だ。
 彼女は、少しだけ逡巡した様子を見せて、頷いた。
 ぼくは平生に戻って、ようやく焦った。
 その日の電車は僕ら以外誰も乗っていなかった。いつもそうだ。この時間帯、ジオフロ
ントから地上に出るまでの十数分、ほとんど人に会わない。なぜかは知らない。
 彼女と喋ることなんて、何一つなかった。訊きたいことはいくつかあったけど、それは
こんな時に喋るものではないと思ったし、僭越すぎて言えなかった。
 だからぼくは片方だけイヤホンをして、でもスイッチはつけなかった。なにか彼女が話
しかけてくるかもしれないから。そんなことを期待して、いつもが過ぎ去った。
 彼女も、状況は似たようなものだったかもしれない。彼女の開いていた文庫本はほとん
どめくられることはなく、ただ二人ともそれぞれのことをしているようで、二人で過ごし
ていた、あの十数分。
 あれは、はじめに二人で帰るようになってから数日たってのことだ。
 彼女がはじめて口を開いた。

「碇くん」

 聞き間違えるはずはなかった。その車両には彼女と僕しかいないのだから。
「え?」
「碇くんは……どうして、私といつもこうしているの?」
 責められていると思った。どうして何も言わないのかと言っているのだと思って、ひど
く焦った。なにを話せばいいか、ここまで来てもわからなかった。



「どうして…私といてくれるの?」



 予想していたニュアンスではなかった。



「綾波が、好きだったから」
 体格が変わった現在の僕なら迷わずそう言える。今まで何度も言ってきた。彼女にだけ
言ってきたのだ。もうとっくにいなくなってしまったのに。
 でも、当時のぼくは言えなかった。恥ずかしくて、照れ臭くて、恐かった。だからぼく
は何も言えなかった。
 でも、ぼくらはそれでも一緒に帰った。



 2019年の僕は、目的地の駅を降りてから少し時間をつぶして、早くから開いている
花屋で一万円分の花束を包んでもらって、山道に入った。その山の頂上からは第三芦ノ湖
が一望できる。絶望も喜びも嫌悪も怒りも、すべてがそこにある、あの場所がよく見える。
 山道はかなり厳しい。中学生だったぼくはまる半日かけて登りきって、翌日から何日も
筋肉痛に悩まされた。思えばあの時の痛みがボクシングをはじめたきっかけだったのかも
しれない。



「綾波」
 ある時ぼくは言った。その頃はもう加持さんはいなかったし、アスカはぼろぼろになっ
ていた。つまり、16番目の使徒が来るまでの数週間の間のことだ。
「綾波は、どうしてぼくといつもこうしているの?」
 彼女の返事は、驚くほど素早かった。
「絆だから」
「そ、そう……」
 綾波は、ぼくを見つめていた。返事を待っている気配は読めた。
 ……どうして何も言えなかったんだ。昔とはいえ自分に腹が立つ。あの頃の弱さに。そ
して、未だにその弱さを抱えている今の自分に。



 鍛えたと言っても、長い草はときおり皮膚を傷つけた。いまさらそんな傷は何でもない。
こっちはろっ骨が折れるほどの試合をやってきているんだ。
 痛みは悪くなかった。質は違えど、あの頃体験した、少年が体験するにはふさわしくな
い痛みをわずかながら思い出させてくれるから。
 自分を責めるのと同じだけ、僕は僕を傷つける。そうしないと気が済まない。アレを絶
対に忘れちゃいけないんだ。死んでいった人たち、生きて苦しんでいる人たち、少しずつ
焼かれていった彼女……その痛みを少しでも共有できるように。
 日が昇りきる前には山頂に着いた。自分で十字架をいくつも作った。墓石は重すぎてこ
こまではとても運べない。別にそれらしい形ならなんでもよかった。それを見れば墓だと
判るようなものなら、なんでもよかった。
 僕は四つの十字架を前に、左からビール、タバコを墓前に置いて、真ん中に花束を置い
た。彼女にあげるものは持っていなかった。あげたいものは決まっていたけど、ぼくには
手のでない代物だった。だから、なにもあげられない。
 ぼんやりと粗末な十字架を眺め、缶ビールを一本空け、何本かタバコを吸った。右から
二番目の十字架の前では小型のMDプレーヤーでクラシックを小一時間聞いた。そういう
行動は、それらをあげた人たちの前でやる。
 なにも置いてあげられない十字架の前で、ぼくは喋った。クラスメートのこと、ボクシ
ングのこと……話は不思議と尽きなかった。
 夕暮れ前に僕は立ち上がって、四つの十字架を見つめる。視界の奥に芦ノ湖が見えた。
かつて暮した街があったところ。
 いつか、自分の手でこの十字架を引き抜けるだろうか?
 決着がつくだろうか。
 それは途方もない作業のような気がした。忘れてはいけないと思ってこうしているとい
うのに、決着をつけなくてはと思っている。矛盾じゃないか。
 悩みも痛みも変わらないまま、今日もそこをあとにした。



 それが僕の、ライフワーク。



「なあ、お前、受験すんのか?プロなんだろ?」
 そのワリにはそういう様子が見えねえよ、という言葉が含まれているのは判っていた。
「料理の専門学校行くんだ」
 それは前々から決めていたことだ。大学行ってもどうすることもないし、できることな
んてそれくらいしか思い浮かばないから。
「へえ……ボクシングは?」
「やめるよ」
 プロなんてどうでもよかった。ただ、肉体を苛める作業は続けるだろう。
「なあ、今日、遊ばねえ?」
 三年生は人によっては授業に空きがあるのだ。
「ごめん、今日は用事があるんだ」
 大切な小旅行の日だ。



「零号機、自爆システム作動しました!」
「なんですって!?レイ、機体は捨てて逃げなさい!」
「綾波…!?なにやってるんだっ」
「わたしがいなくなったらATフィールドがなくなってしまうから…」
「あやなみ!」
「……碇くん」
「やめろ、やめろよ!」
「碇くん……」
 最後の映像。彼女は笑っていた。泣いてただろ、泣いていたくせに。



「全てを、戻さなくてはいけないわ」
「僕らがやらなくては、君が生きていけないんだ」

 それじゃ意味ないよと、何度叫んだことか。

「碇くん、別れは誰にだって来る。わたしたちはそれが早かっただけ」
「それに、僕らはいつも君のそばにいる」

 いやだ、いやなんだ。君達に支えられたぼくが、どうして君達ぬきで生きていけるの?

「大丈夫さ」
「碇くん……ありがとう」
 彼はぼくの手を握り、消えてった。
 彼女は、ぼくを抱きしめた。ぼくは、迷わず彼女を抱きしめた。消えて無くならないよ
うに。
 彼女はぼくに優しくキスをして、そして消えてった。

 僕らは、君達のおかげで生きている。
 僕だけ幸せになる権利なんて、あるはずない。
 だから僕は身体を苛め、こうして山に登る。
 今日も相変わらず彼女へのプレゼントはなかった。
 頂上に辿り着くと、そこに十字架はなかった。
 誰かが抜いたのか、動物が荒らしていったのかわからない。
 けれど、僕の立てた十字架は引き抜かれ、散らばり、数も足りていなかった。
 いつか自分の意志で抜かなければと思っていたものが。
 今は、ない。



 僕に選択の余地はなかった。訣別さえも奪われた。決着さえもつけられない。



 …………叫んでいた。







 好きだ。




 大好きだったと、二人に向けて叫んだ。








 気がつけば、本当に、忘れられない人になっていた。過去の人になっていた。









 嗚咽さえも垂れ流して、十字架があった場所にひざまづいて、








 君が好きだったと、とても助けられたと、彼に叫んだ。








 君にふれていたい。



 ふれていたかったと、








 彼女に、空色の空に、空色の彼女に、







 ずっとため込んできた想いを、いま、こんな状況になって、今更。











 まったく、今更だ。












 彼女はもう、









 ずっと向こうの空に浮かぶ星になっているのに。




















あとがき
ども、ののです。
所要時間一時間半ってとこでしょうか。
けっこう怒濤のイキオイです。どばーっと書いてしまいました。

これはd.i.VIRUSというホームページの作者さまの短編の数々に感動して、書いたも
のです。思いっきり似てるものがあります。

そこにある短編は本当にすばらしいです。
忘れかけたあの夏の味を思い出させてくれます。


タイトルはGRAPEVINEの2ndアルバム「Life Time」の同名曲より。
曲は明るいですが、この話は暗い……。



感想待っています。








※再掲載にあたって
 このSSは、確か2002年の6月ごろに、今は亡き『ETERNAL MOMENT』に投稿した短
編です。
 当時の僕は同サイトで連載していた『ヒトと異質なるモノとの狭間で』というSS以外
にはほとんどエヴァのSSを書いたことがなく、コレは書いててすごく新鮮でした。
 あとがきにある通り、『d.i.virus』のdoc-Itohさんの短編群がとても素敵で、個性的
なものでした。それの影響で書いたもので、文字の色等、踏襲させてあります。そのサイ
トも今はもうありませんが、だからこそ、レイアウトはそのままにしておきました。
 このSSのシニカルな感じというか『届かない』距離感は、僕のSSでは大なり小なり
含まれていると思いますが、これはその処女作で、個人的にも非常に思い入れのあるSS
です。
 時の流れで消滅してしまいましたが、tambさんに甘えてこのたびもうひとつの短編
『1 1秒97』とともにサルベージしていただきました。感謝です。


ぜひあなたの感想を までお送りください >

【投稿作品の目次】   【HOME】