――鏡なんて一秒見れば充分。
何度見ても、いつもの変わらない私が映っているだけ。
それに自分の姿・形に興味などない。かといってぼさぼさで汚らしい恰好では、居るだけで周りのモノに不快感を与えてしまう。
だから、最低限の身だしなみだけ整っていればいい。
一秒もあれば十分だ。
今日もレイはそう思いながら、鏡を見つめる。
例えこれから、パーティがあろうとも。
1
「どうしたんだろう」
シンジの見た時計は、開始三十分前を示していた。
事の始まりは、第9の使徒「マトリエル」との決戦後だった。
「暗い! クライ・くらい・暗い! どうしてアンタ達そんなに暗いの!? 使徒を倒して、しかも五体満足で生きているのよ。少しぐらい喜んだらどうなの?」
エヴァ三機による初の同時作戦展開。アドリブだが、まるで示し合わせたかのような息のあった行動により、敵を完全沈黙させた。
しかし、シンジとレイはいつも通りノーリアクション。それが、一人張り切っているアスカのしゃくに障ったのだろう。
「わかったわ、のっぺらなアンタ達のために祝いましょ」
「祝う?」
「そう、使徒を倒した暁にパーティをするの」
「でも……」
「いいわね、絶対よ!」
と意見の声を瞬殺され、パーティをする事となった。
だが、当日。
会場である葛城ミサトの家は、がらんとしていた。
壁には飾り付けなど一切なく、普段通り質素なカレンダーが飾ってあるのみ。テーブルの上には料理どころか皿も並んでいない。
部屋の中は午前の柔らかい日差しでかろうじて明るさを保っていた。
「みんな、何しているのかな」
今日の参加者であり装飾担当であるトウジとケンスケがまだ来ない。それどころか、ミサトとアスカは買い出しに行ったまま帰ってこないのだ。
結局、部屋にいるのはシンジとレイ二人のみ。
そして、シンジは窮地に立たされていた。
「遅いね、みんな」
シンジはレイの顔色を伺いながら尋ねた。
「そうね」
レイは目を合わせようとせず、素っ気ない返事をする。
「どこへ、行ったのかな」
「知らない」
「……」
「……」
こんな息の詰まる会話を、もう二時間もしている。
シンジもレイほどではないが人付き合いや会話を得意としていない。かといって、二人きりの沈黙に耐えきれるほどの肝が据わっている器もない。
何とかして会話を振って場を繋げたかった。
この間に少しでも綾波と親しくなってみようとしてみた。
だから、
「みんな『シンジ』で呼んでいるから、綾波も『シンジ』でいいよ」
と云ったのだ。だが返ってきたのは、
「わかったわ、『碇君』」
もう手を尽くしたシンジは、ただただ薄ら笑いを浮かべる以外なかった。
そんなシンジの心境にレイは気を利かせたのか、
「いいの、無理して話さなくとも。私は大丈夫だから」
静かに持ってきた小説を読み始める。
ぽつんと一人、空間を持て余したシンジは仕方なしにテレビでもつけてみる。
モニターに映し出されたのは、赤や青・黄やオレンジなど七色の服を各々来た小人達。彼らは、突然の来訪者に画面中を所狭しとあわただしく動き回っていた。
どうやら「白雪姫」だ。
誰もが知っている何度も耳にする女の子向けのおとぎ話。だから、見ていても面白くも何ともない。かといって他のチャンネルを回して暗い話題に重くなったり、難しい論争に考えさせられたりするよりはよっぽど楽だ。
そのままシンジはぼうっと筋書きを先読みしながらテレビを見ていた。
画面はシンジが思ったとおり物語を進めていく。
ふと横目で見ると、いつの間にかレイも小説から画像へ視線を動かしていた。
綾波も女の子だもんな、意外にこういう話が好きだったりして。そんなことを頭の隅でちらっと考えながらシンジも白雪姫を見続けた。
そして、それがシンジに余計な緊張を生ませてしまった。
TVは丁度、白馬に乗った王子様が登場したシーン。そう、これからクライマックスである白雪姫目覚めの「キスシーン」となる。
童話とはいえ、シンジにとってレイと二人でキスシーンを見るのはなんとも気恥ずかしい。だからといって、今更チャンネルを変えてしまうと自分の気の小ささを露呈してしまい、余計居場所がなくなる。
地震か何かの緊急中継で、この緊張感を和らげてくれないだろうか。
でも映像はシンジの祈りに聞く耳持たず、無事王子と白雪姫のキスシーンをむかえた。
キスシーンは味わい深さを出させるため、過剰な演出と音楽でゆっくりと流れる。
シンジは身体に力を入れ、覚悟を決める。
1、2、3、4…… たかが、ほんの数秒間だ。
しかし、緊張の糸に絡まったシンジにとってそれは数時間にも感じられ、スタッフロールが流れる頃には、もう息も絶え絶えだった。
「はあ」
なんでこんなに綾波のことを意識するんだろう。
シンジは一気に、余分な力と息を抜いた。
普段の会話やさっきのキスシーンなんてアスカとだったら多分、今よりさらりと流せると思うのだが……
そして、レイをそっと見つめる。
「アルビノ」。突然変異によって、紫外線から守るメラニン色素を作りだす働きをもたない。故に身体の色が全体的に薄くなり、虚弱体質となる。
レイは静かに小説と向き合い、文学少女となっていた。
神秘的な赤い瞳、透き通った白い肌、さらさらした水色の髪が日の光を反射し、ガラス細工のようにほんのり輝いてみえる。
触れると壊れそうなはかなさ。
しかし、そのはかなさに魅力を感じる。
灯台もと暮らしとはこの事か。身近にいたのだから意識しなかったのかもしれないし、もしかしたらあえて意識しなかったのかもしれない。
綾波って、綺麗――
「うわっ!」
シンジは、いたずらが見つかった子供の様な悲鳴を上げた。
不意の電話音に驚いたのだ。慌てて受話器を取ると、
「あ、シンジ君?」
活発で意志の強さが伺える女性の声が聞こえた。
「ごめん!」
ミサトからだ。
「どうしたんですか? いきなり謝って」
「アスカと一緒にドイツへ行くことになったの」
「なんで、そんないきなり」
「急にドイツ支部で起動実験と対使徒戦をシミュレートすることになってね」
ミサトはネルフ本部戦術作戦部作戦局第一課の三佐であり、アスカはドイツ出身の弐号機パイロットだ。事情が事情だけに二人が行くしかあるまい。
「そうなんですか」
「悪いけど、みんなに宜しくね」
だだをこねるアスカの声を残しながら電話は切れた。
受話器を置いた瞬間、再び待っていたかのように電話が鳴った。
「はい、葛城ですが」
「あ、シンジか」
あくの強い関西訛り、今度はトウジからだ。
「え!? トウジも来られないの?」
話によると、中間テストが相当悪く追試授業を受けなければならないそうだ。逃げだそうとしても、お目付役の委員長が見張っていて動けないとの事。
「せっかくの日曜日なのになあ。かなわんわ」
ちなみにケンスケも同様で一緒にいるらしい。
「すまんなシンジ。この穴埋めは絶対するからな」
「と言うことは……」
頭の中で参加者を思い浮かべ、次々に消していく。そして残ったのは……
シンジは自分を指さし、レイに視線を向けた。
飾り付けもなければ料理もない。しかも居るのは受け身的な二人。これではパーティどころか遊ぶ事さえままならない。
レイは場の空気が読めたらしく、鞄に小説を入れ帰り支度を始めた。
時計を見るともう昼前。シンジはエプロンを着け、
「せっかくだから、ご飯でも食べてく?」
「遠慮するわ」
だが、レイのおなかは正直だ。
「カレーでいいかな」
「……私も手伝う」
恥ずかしかったのか顔を俯かせながら、レイもエプロンを着け台所に立った。
それは、完璧なリズムだった。些細なズレさえなく、均等に与えられた力によってか同音量が打ち出される。
まるで一つの音楽、もしくはマシン音。
思わずシンジは手を止め見とれてしまう。
レイは、正確な包丁さばきで人参やジャガイモを見事に切り刻んでいった。
シンジの視線に気付き、
「なに」
「いや、驚いた」
「なにが」
質問しながらも、手を止めずジャガイモの皮を剥き始める。もちろん皮に身をつけず、かつ千切らずに剥いていく。
「料理が得意なんだね」
「別に」
誉められることではない。一人暮らしのレイに誰も料理を作ってくれるものなどいない。だから、調理は出来て当たり前の事だ。
しかしシンジの一言に、レイの「当たり前」が狂った。
「きっと、いいお嫁さんになれるね」
それはCDやレコードが針飛びしたような包丁のリズム。
「可愛いんだろうな、綾波の花嫁姿」
思わぬ発言にレイは顔を赤くさせ、
「変なこといわないで……」
「あ、ごめん」
逃げるようにシンジは、鍋を持ち調理に戻った。
「でも――」
丁度、鍋が温まり野菜を炒めようとしたところ。
シンジは手を止め、
「――その頃、僕は何をしているのかな……」
窓から空を見つめる。
遠い空には、行き先の分からない旅客機が一機飛んでいた。
「ねえ、綾波」
「なに」
「綾波には、夢がある?」
「……碇君にはあるの」
「よく分からない」
蛇口を捻り、シンジは手を洗いながら、
「ここに来るまで、夢とか希望とか考えたことなかった。毎日、なるようになっていたし、これからもずっとそうだろうって」
流れ出る水の中に昔を映しだす。
「だから、何かの事故やなんかで死んでもべつにかまわないと思っていた」
「今は、違うの?」
「うん」
力強くシンジは頷いた。
「エヴァに乗って、ミサトさんやアスカ・トウジにケンスケ、それに――」
シンジは振り返り、
「――綾波と会って」
見つめる先にはレイがいた。
ドクン、今まで感じたことのない強い胸の高鳴り。レイは無意識に包丁を止めてしてしまった。
「――明日を考えるようになった」
「あした……」
「それが夢かどうかわからないけれど、ただ前より楽になったんだ」
レイは剥きかけ途中のジャガイモを残し、
「夢は私もみない」
包丁を置いて静かに語り始める。
「でも、私も碇君と会って――、変わった」
想い出す。
あの日、闇の中に浮かぶ満月の夜。
出会うモノすべてが「さようなら」だと感じていた。繋がりはないと思っていた。
でも、
――笑えばいいと思うよ
碇君がくれた一言。
「目の前しか見えなかった」
それが私の殻を壊し、新しい何かを芽生えさせた。
「でも、周りが、ほかのモノが、見えるようになった」
そして、レイもシンジを見つめる。
夏。セカンドインパクトによって日本の季節は夏しかなくなってしまった。だが、いつの世も夏の経験は人を大きく変えるのだろうか。
天気は快晴。時折通る雲が夏の日差しを弱らせ、二人に涼やかな空間を送る。 外から聞こえてくるのは、蝉の鳴き声のみ。
シンジは素直に、
「綾波……」
突然、まるで大地の底が抜けたような音と同時に、地震が襲ってきた。棚の時計や人形、テレビのリモコンなど次々と落ちていく事が揺れの凄さを物語る。
だから、レイの頭上に置いてあるボウルや鍋が落ちるのも当然だった。
「危ない!」
躊躇なしに、シンジは覆い被さりレイをかばった。ボウルや鍋は見事シンジの背中に落ちていく。
揺れが治まった頃、レイが声をかけてきた。
「大丈夫?」
表情はいつも通り冷静だが、声から感情が伺える。
「このくらい、何ともないよ」
倒れながらも、見つめ合う二人。
今までにない、相手の息が肌で感じ取れるほどの至近距離。互いの鼻先がぶつかりそうで、そして唇さえも……
恥ずかしい。だが、なぜか互いに目をそらすことが出来ない。意識すればするほど胸の鼓動が高まり、頭の芯が熱くなる。
そして……
脳を打つような激しいサイレン。
「只今、東海地方を中心に非常事態宣言が発令されました。住民の皆様は速やかに指定のシェルターへ非難して下さい」
使徒襲来だ。
2
ネルフ本部は、師走と化していた。
総員第一種戦闘配置に付き、「日常」から「非常」へと切り替わっていく。
「いつも、使徒はいきなりね」
赤木リツコは、巨大スクリーンに映る使徒を見つめながら云った。
「女性にもてないタイプですね」
まじめな顔しながらも伊吹マヤは軽く冗談を飛ばす。
「全く、こちらの都合も考えて欲しいわ」
現在、作戦本部所属葛城三佐はドイツに出張、碇司令・冬月副司令はネルフ国際会議に出席。よって、赤木博士が作戦指揮をとることとなった。
「戦況はどう?」
「最悪です」
日向はキーボードを叩き、先程あった国連軍との戦闘結果をスクリーンに映し出す。
「重戦闘機によって使徒へ与えたダメージはゼロ。しかも……」
「N2爆弾によるダメージも皆無なのね」
N2爆弾。国連軍最後の切り札であり、地図をも書き換えなければならない程の爆発力を持つ。それが足止めにもならないとは。
「現在地は?」
「北東から、戦闘エリアまで約二キロを時速五十キロで移動中」
「初号機と零号機は?」
「シンクロ率安定。パイロット・機体、共に問題なし」
「シンジ君に、レイ」
「はい」
スクリーンにプラグスーツ姿の二人が映る。
「情報収集のため相手の出方を見るわ。なるべく近距離戦は避けて」
「了解」
ピー、と使徒の動きをあらわすモニターからアラームが鳴った。
「使徒戦闘エリアに入りました」
リツコは周りを見渡し、総員戦闘準備完了を確認する。
そして眉をきっと引き締め、
「エヴァンゲリオン発進!」
二体のエヴァは、弾丸のごとく射出口から一気に千メートル先の地上へ運ばれた。
そこは、静寂が広がっていた。
本来、移動・流通等で使う道路には自動車どころか猫の子一匹おらず、人が住むべき家に誰もいない。どこからでも見える街の印であった超高層ビルは地下に収納された。
使徒撃退のため開発された要塞都市「第三新東京市」。
無機質な空間が、これから起こる戦いへの緊迫をあらわしている。
「綾波」
シンジ乗る初号機は、バレットライフルを持ちながらビルの影に待機。
「なに」
その後ろレイ乗る零号機は、初号機を支援するためポジトロンライフルを構える。
「使徒を倒したら、何したい?」
「碇君は何をしたいの」
「……僕は、カレーの続きを作りたいな」
「カレー……」
「うん。綾波は?」
「来たわ」
レイの返答に、シンジは口を締める。それから零号機示す方向に向いた。
エヴァの身長は40メートル。ざっと、ビル十階建ての高さだ。それより一回り大きいだろうか。
綺麗に切り取られた水銀色の長方形、厚さはブロック塀ぐらいしかない。
一言で云えば、巨大な鏡。
だが、沈黙を保ったまま地面を滑るように近づいてくる鏡に、誰もが威圧を感じずにはいられない。
「使徒の攻撃方法は、荷電粒子による広範囲熱エネルギー波よ。面に対して垂直のみ放つことしか出来ないから、対面しなければまずあたる事はないわ」
コクピットモニターにウインドが開き、リツコが映される。
「シンジ君飛び出して、かく乱による攻撃。レイは援護」
「了解!」
二人の返事を皮切りに、初号機は弾かれたようにビル影から飛び出した。
それにあわせ、鏡は転回し初号機の姿を追う。
時速百六十キロ以上、旋風を巻き起こし全速力でビルの間を駆け抜ける。だが、鏡の面は次第に初号機を端から映し出していく。
コクピット内ではロックオンセンサーが脈拍計のような音を断続的に鳴らし始めた。
このままだと、使徒に捕らえられるのは時間の問題だ。
「それならっ」
初号機は使徒に揺さぶりをかけた。
足首にひねりを加え、ジグザグのステップでビルをきわどく避けながら翻弄する。
それでも、相手の処理反応は早い。まるでミラーボールのごとく細やかに転回し初号機の動きに軌道修正する。
センサー音は上昇。シンジの心拍数を示すかのように断続的なテンポから段々と早めていき、そして初号機すべてが鏡に映し出された時。
長方形のエネルギー波が発射。狂った太陽のごとき光は瞬時に街を切り抜ける。
ビル溶ける光の道筋に、初号機の姿は無かった。
溶けてしまった、のではない。身体のひねりによってよけた初号機は、
「このぉ!」
そのまま流れに乗ってバレットライフルで射撃を開始した。
弾丸は、まるで吸い込まれるように使徒へ見事打ち込まれる。
いや、本当に吸い込まれていた。
オイルのような表面に波紋を広げ、弾丸は抜けず吸収されていく。しかも、鏡には傷一つない新品同様の状態だ。
誰もが言葉を失ってしまった。もちろん、シンジも例外ではない。
そして、
「!」
その驚きが鏡と初号機を向かい合わせてしまった。
深みのある青紫のボディ、相手を威嚇するシンボルマークの角、ロボットではなく「人造人間」であることを納得できるスマートなフォルム。
エヴァの視線から初めてみる初号機。恐怖より先にシンジは興味に心奪われた。
鏡よ鏡
鏡には魔力がある。
この世でもっとも美しいのは
なぜなら、鏡は自分の心を映してくれるから。
だれ……
心のバランスによって、自分を悪魔にも天使にも映す事が出来るから。
そして、初号機は光の中に埋もれていく。
光は先程の高熱エネルギー波ではない。蛍光灯のように青白く、熱より寂しさを感じさせる。
本部に映し出された初号機のシンクログラフが揺らぎ始めた。
「神経パルスに外部から侵入。逆流してきます!」
と同時に、
「うわああああああああああ!!!」
「シンジ君!」
初号機は、痛み狂った。
そのもがき方はまるで銃弾を幾つもくらったような動きだ。
一人キーボードを目にもとまらぬ速さで打ち込み、
「速度・衝撃・範囲……」
日向は侵入してきたデータを解析する。
「これは、バレットライフルが与えるダメージと同じですよ」
「使徒が痛みの共有を求めるの!?」
白い光を放つ鏡と苦しむ初号機に、駆け足で近づく音がする。
零号機の全体重をかけたショルダータックルが、鏡にぶつかった。
当たったのだ。
当たらないはずが。
表面にひびを入れた使徒は、無造作に転がっていく。だが、同じように初号機も吹っ飛び、街中に砂煙を上げながら倒れ込んだ。
「心開いた時、モノは一番無防備になる」
リツコはゆっくりと語り始めた。
「自己は苦しみ悲しみを抱えた時、他己と共有し和らげようとするわ。特に自分と向かい合ってくれるモノに対してね」
皆、現状に追われながらも聞き耳を立てる。
「指向性精神波である蒼白い光、それは使徒の受けた苦しみや悲しみの訴え。つまり、私たちが仕掛けた使徒への攻撃よ」
「だから、あの光を受けるとダメージをもらうんですね」
「そして、放出中に攻撃を受けると外傷する。誰だって、心開いている時に裏切られたら傷つかずにはいられないわ」
誰もリツコの意見に反論しようとしなかった。
「もし、私の推測が正しいのであれば、小さな心の傷ならば――」
リツコは使徒の映るスクリーンを見つめる。
「――時が癒してくれる」
鏡のヒビはまるで消しゴムで消すかのように跡形もなくなってしまう。
「どうすればいいんですか?」
「指向性精神波を放出中に、支えきれないほどの大きな傷を与える」
「でも、そしたら共有された相手は」
マヤの問いかけに、リツコはためらい無く云った。
「死ぬわ」
戦えば戦うほど、こちらの痛みが増す。
かといって動かなければ、高熱エネルギー波で攻撃してくる。
「一体、どうすれば……」
シンジは頭の中に考えをめぐらせる。だが、考えれば考えれるほど手に背中に汗をかき、口の中が渇いてくる。
鏡は起きあがり、再びエヴァと向き合おうとする。
いきなり、シンジの視界が真っ白となった。
初号機のポジションが悪く、鏡に反射した太陽の光をまともに見てしまったのだ。
焦り、目を擦り、視界よ戻れと心の中で何度も叫ぶ。
そして視界が色づいてきたとき。
前にいたはずの使徒はいない。なぜなら、初号機の裏側に回っていたから。
「シンジ君!」
リツコの声で気付いたとき、時すでに遅し。鏡は薄く輝き始めていた。
やられる! シンジは思わず、身体を丸めた。
だが、黒い影が自分を覆った。
「綾波!」
零号機が、初号機を覆うように立っていた。
蒼白い光を浴びた零号機は苦しみ始める。
「このダメージパターンは、VTOL重戦闘機のASM―3ミサイル」
レイは歯を食いしばりながら、耐える。
――私には変わりがいるから
「今度は、74式戦車改の120ミリ滑腔砲」
――だから死は怖くない。
だが、レイは震えていた。
「次のパターンは……」
――怖い? なぜ怖がるの? 本当は死が怖いから?
違う。
「まずい、N2爆弾だ!」
「逃げろ綾波!」
薄れゆく意識の中、レイはモニターに映ったシンジを見つめる。
――碇君に会えなくなるのが怖いから
そして、悲しい巨大な光が街すべてを覆った。
3
必ず、パーティは断っていた。人と騒ぐのも話をするのも余り好きではない。人と関わりなんて持ちたくなかった。
でも、私は参加した。
なぜだろう……
「ギリギリだったわ」
白い静寂が広がるネルフ本部の医学部。
「後少し遅れていたら、ここにはいなかったかもしれない」
リツコは、脳神経外科の病室で話していた。
「現状、本人には大きな外傷はないわ」
目の前のベットで、ひとが一人静かに眠っている。
「ただ、もう三日も眠りっぱなし」
眠っているのは、
「何か変化はあった? レイ」
「ないわ」
シンジだった。
すべては、レイが気を失ってからだった。
初号機が自らを鏡に映して、零号機から精神波をかばったのだ。
それから素早くプログレッシブナイフを取り出し、ダメージを感じさせない動きで使徒へ突進する。
ナイフは鏡に突き刺さり大きなヒビが入る。と同時に、シンジの胸にも鋭い痛みが走り、生命維持活動数値も減少する。
だが、シンジは堪えた。
「うぐぐぐぅ……、ぐぎああぁぁ……!!」
声にならない悲鳴を上げながら。
痛みからくる怒りを、ナイフを押し込む力に変えて。
生命維持活動限界寸前、リツコは早急に初号機の神経回路をすべて切断する。
すると、まるで砕け散ったガラスのように光を反射させ。
使徒は粉々となり完全沈黙した。
「精神波を受けたままナイフで刺し続けるなんて。普通ならば、痛みでショック死しているわ」
だが、シンジは生きてここにいる。
「人間っていうのは、ホント不思議ね。何らかのきっかけで、本来持つ以上の能力をだすことができるのだから。何がそこまで彼を支えたのかしら」
リツコはレイを見つめながら、
「恋するモノは、強いというけれど……」
皮肉っぽい口調で、
「もしかして、その人への『想い』が原因かしらね」
レイは何も答えずシンジを見つめていた。
自ら云った事に鼻で一蹴して、リツコは病室を退散する。
「恋……」
変わらずシンジを見つめながらレイは、リツコの言葉を呟く。
「想い……」
呟けば呟く程心の中で言葉がこだまし、そしてそれが身体全体まで広がっていく。
レイは、無意識にシンジの頬に手で触れた。
あの時と同じ、台所で見つめ合った強い気持ちが蘇ってくる。
シンジは変わらずやさしい寝顔のままだ。
――眠ってしまった白雪姫
思い出す。二人で見た白雪姫。
――起こす方法はただ一つ
レイの心に自制心という壁が立ちはだかる。
――それは
だが、それは気付かぬ「想い」に壊され、そして……
――口づけ
次の日の朝。
天気は快晴。蝉は鳴き、変わらぬ夏の青空が広がっていた。
「どうだった、ドイツ実験」
シンジとアスカは、いつも通り二人そろって学校に向かう。
「三日間、ただずうっとつまらない実験をしているだけ。まったく、何で私がドイツに行かなきゃいけないのよ」
「しょうがないよ、アスカはドイツの生まれなんだから」
「だいたいあんなくだらない実験、アンタみたいな小物チルドレンが行くべきよ。スーパーエリートである私が本部に残るべきだわ」
「小物ってどういうことだよ!」
「あんたが、小物以外なんなのよ」
校門の前でシンジとアスカが口げんかを始めると、
「おうおう、朝から夫婦喧嘩か?」
「見せつけてくれるねぇ」
ケンスケとトウジが冷やかしてきた。
「何ですって!? どこをどう見たらそうなるのよ? あんた達のセンス、猿以下ね」
「なんやと! もういっぺんいってみい!」
「猿サルさーる」
と、いつもと変わらぬ展開が繰り広げられる。
そして、いつも通りレイも登校してきた。
いや、いつも通りではなかった。
違っているのはどこだと指摘されると答えられないが、何かいつもより綺麗……
シンジは何となく恥ずかしくなり頬を赤らめながら、声をかけた。
「おはよう綾波」
「おはよう」
そして、シンジは一瞬、耳を疑った。
「今、何かいわなかった?」
だが、レイは黙ったまま首を振る。
気のせいか。
シンジは再びいつも通りの日常に戻る。
本当は、いったのだ。それは心の中でとても小さな声でレイは、
「――シンジ君」
と。
なぜだろう。なぜなんだろう。
レイは心の中に浮かぶ疑問に尋ねる。
どうして、パーティに参加したのだろう。なぜ、碇君と呼ばなかったのだろう。
始めて感じる疑問が心の中に熱を持たせる。
理由は分からない。でも、解決する方法をレイは知っている。
――使徒を倒した後、何をしたい?
あの時使徒が現れ、返せなかった答え。
それが、レイの疑問を解くたった一つの方法。
「……私も、一緒にカレーの続きを作りたい」
その「夢」が、今日レイをいつもより長く鏡の前に立たせたのかもしれない。