ネルフ本部での待機、模擬練習、シンクロ率データ解析。
 トウジやケンスケからの遊びの誘い。
 アスカの買い物の付き合いや、家での留守番。
 その他に何の予定もない日。
 シンジは、誰もいない中学校の屋上で寝っ転がっていた。
 何かしなくてはならない、何かしたい事があるわけでもない。だからといって家に帰ってもテレビ番組はつまらないし、暇を持て余したアスカにからかわれるだけだ。
 ――それに
 何気なくシンジは空を眺める。
 建物や電線で切り取られてしまった地上からとは違い、屋上では見渡す限り何処までも青は広がり、雲は果てまで流れている。
 ここにいると自分が空の一部になったような気分になる。頭の中が空っぽになり、何も考えずに済む。
 少しでも忘れていられる。
 戦いを。
 終わりのみえない「使徒」との戦闘を。
 振り返れば振り返るほど良く無事だったなと思う。
 想像を遙かに超えた正体不明の生命体「使徒」。いつ現れるか分からず、また現れるたびに姿形・攻撃を変え、こちら側は常に翻弄される。
 無傷の勝利なんて一度もない。いつも、死神に背を預けている状態だ。
 もし、一つでも選択を間違っていたらタイミングがずれていたら、きっと今頃は……
 黒く重いものがシンジの頭の中で膨らみ、胸を酷く締め付ける。
 本当は逃げ出したい。
 でも、逃げ出せない。
 だから何もない日は、ただ、ぼうっと空を見ることにしている。
 空は移り変わる。
 雲は絶え間なく変化し、透き通った白い月は視界から消えていき、青は次第に果物が熟すように赤みがかっていく。その頃には夏独特の暖かな日差しはもう弱まっており、涼やかな風が感じられるようになる。
 シンジは立ち上がり西の空を見つめた。
 色様々だった第三新東京市まで赤一色に染めて、夕陽は沈んでいた。
 誰にも邪魔されず逆らわずに。
 それはとても雄大で、そして何故か悲しかった。
 オレンジ色の日差しが心の透き間に入り込む。お腹からじんわりと身体中へ染み込んでいく。
 涙が出そうになる。
 夕陽は、シンジの影を当てもなく遠くまで伸ばしていった。

 そして校庭に降り立ったその影を一人、見つめる者がいた。



夕陽の向こう側

Written by OCHI


      1

 明らかに己のキャラならぬ爽やかさ爆発させて、
「おっはよう!」
 シンジは大きな声で挨拶した。
 しかし、寝起き姿の相手は目も合わさず、
「おはよう」
 冷静な態度で目の前を通り過ぎる。
「きょ、今日は、天気がいいね」
 天気の話題からしか入れないボキャブラリーの無い自分に呆れる。
 だが、つべこべ言ってはいられない。この現状を打破しなければ。
「蒲団とか干したら、ふかふかになって気持ちよさそうだね」
 向こうはちらっとこちらをみて、
「午後0時から3時の降水確率は80パーセントよ」
 椅子に座り、黙々と朝食を片づける。
「そ、そうなんだ……」
 もう、シンジはハニワみたく固まって笑うしかなかった。
 ユニゾンシンクロ。
 それはいわゆる、右脳と左脳・陰と陽・凹と凸・ピッチャーとキャッチャーである。
 各々の役割を理解分担し行動する。歯車一つで回すより二つで回した方が効率は良い。
「つまり、エヴァ一体を2人で動かすということですか?」
「そういうことよ」
 アスカの質問にリツコは答えた。
「第六使徒時にアスカ・シンジ君搭乗する弐号機のシンクロ率記録更新や、第七使徒に対して同両パイロットのユニゾンによる攻撃。この時も平均値よりシンクロ率が上がっていたわ」
 リツコはデータ報告書に目を通しながら話す。
「憶測ではあるけれど、互いの意志の疎通がシンクロ率に影響を与えていると思うの」
「でも、どうやって?」
 前回は、音楽というリズムがあり使徒せん滅という目的が立っていたからこそ、うまく合わせられた。
 酷く苦労したけれど。
「なに? なんかいった?」
 アスカに心を読まれぬよう、シンジは目をそらす。
「確かに、今回はより深く互いを知る必要があるわ。何を求め、何を願っているのか、言葉を交わさず理解し合えるよう、全てアドリブで対応できるように。よって――」
 リツコはポケットから鍵を取り出した。
「当分の間、2人だけで生活してもらうことになるわ」
「ええっ!」
 レイ以外の2人は、声を上げて顔を引きつらせた。
「現在、シンクロ率はアスカが一番高い。また、零号機は今もなお復旧作業中」
 ということは――
「よって、シンジ君と」
 シンジは自分を指さし、
「レイに決定したわ」
 普通の女の子ならば困惑したり恥ずかしがったりするはずだ。アスカの時なんて散々もっぱら貶されて嫌がられたのだ。
 でもレイは有無も云わさず、
「はい」
 返事をしたので、なぜかシンジが恥ずかしくなってしまった。
「丁度良いじゃない、あんた達はアタシと違って半人前なんだから、しっかり仲良くなって一人前になってきなさい!」
 アスカは嬉しそうにかつイヤラしく笑いながら、シンジの肩をがつがつ叩く。
 こうしてレイとシンジが1DKの部屋で暮らす、つまり同棲生活の幕が上がったのだった。
 
  
「で、あれか? もう、こう――」
 雲一つない、青春を謳歌したくなるような夏空。
 その下でトウジは抱きしめるようなジェスチャーをしながら、口をタコにして、
「ちゅーはしたんか? チューは」
「いやいや、トウジさん」
 隣のケンスケがトウジに耳打ちし、
「ここだけの話、最近の中学生は大人ですからねえ」
「あっちゃー! この裏切りモンの非国民が!」
「惣流の次に綾波とは。もう、僕たちとは別次元の生き物だね」
 2人はあっち行けといわんばかり、足で境界線を引く。
「いや、だから、これは命令であって……」
 シンジは言葉を探しながら真面目に話す。
 他の生徒達は教室だけに留まらず校庭や屋上にいる。中には、食後の運動にバレーボールやサッカーなどしている者もいる。
 今は昼時。シンジ・トウジ・ケンスケの三馬鹿トリオは、いつも通り購買のパンなどを買って、学校の屋上で食事を取っていた。
「ああ! 哀れな閑古鳥はもう、ワシらだけにしか鳴かんようになってしもうた」
「幸せの青い鳥よ、早く来て!」
 青空に輝く一番星に祈りを込める2人の前に、とうとうシンジは俯いたまま何も云わなくなってしまった。
「なんや、その様子だと余りうまくいっとらんようやな」
 シンジは力無く頷いた。
 全く緊張の日々だ。
 アスカの時はアスカで大変だったが、感情むき出しで向こうが一方的に動いてくれたのでまだ対応しやすかった。
 しかし、綾波は違う。
「まあ、確かに綾波じゃあね。オレも何話し掛けていいか、わからないもんな」
 綾波レイ。赤い瞳、白い肌、水色の髪。
 身体のメラニン色素が少ない「アルビノ」と云う特異体質のため、まるでガラス細工のような繊細なイメージを持たせ、また、それが氷のような冷静さも兼ね備えているようにもみえる。
 実際、クラスでは誰とも接せず一匹狼と化しており、体育の時間なんか汗を掻き息を切らして全力で動き回っているところなんぞ、一辺たりとも見た事がない。というか、一日のトータルバランスを算出し現状での必要最低限の体力のみを消費させている、そんな感じだ。
「奥手で口べたのシンジには、ちと荷が重いやろうな」
 感情を表に出さない、人と戯れる事を望もうとしない、まるで機械のような女性。
 だけど、
「じゃあ一週間経っても何もなしって訳か」
 それは今朝のこと、
「よくわからないんだ……」

 洗面所で何度も何度も顔を洗う。
 しかし一向に目が覚めない。眠気が瞼の裏に張りついて、嫌に重い。おまけになぜか身体まで怠い。
「疲れているな、僕」
 ここ一週間、自分のもてる限りの力を振り絞ってきたつもりだ。あらゆる話題を振ってみたり、買い物に誘ってみたり、豪華な料理を出してみたり。だがどれも空回りで、逆にこっちがいつも謝ってしまう。
 では、綾波の方に変化があったかというと――
 変わらない。
 全然、と言い切ってしまうほどに。
 もう万策尽きた。最近は自分までがよく分からなくなってきている。このまま進展せず、綾波とはずっとこんな距離のままで終わってしまうんだろうか。
 腹の底からシンジは黒い溜息を吐いた。
 そして、水道を止めようと蛇口に手を伸ばしたとき、ふと気に掛かるものがあった。
 手を裏返し、じっと見つめる。
 そこにはまるで溶けたプラスチックのようなヤケドの痕が、まだ痛々しく残っていた。
 加熱したエントリープラグのハッチを無理矢理開けようとした際に負ったのだ。
 綾波を助けようとして。
 現在、零号機が復旧中なのは、シンジ搭乗する初号機をかばって第五使徒の加粒子ビームを受けたからである。
 今考えれば不思議だ。
 なぜ、僕はヤケドを負ってまで助けようとしたんだろう。救護班が駆けつけるのを待っていても問題はなかったはずだ。またはモニターで通信確認、もしくは本部へ問い合わせることだって出来たはずだ。
 でも、あの時は身体が勝手に動いてしまった。ヤケドの痛みなんて気付かなかった。
「どうしてだろう……」
 分からない。それが分かれば、今、このどうしようもない生活を変えることが出来るのだろうか。
 シンジはタオルに顔を埋めながら、再び思いっきり溜息をつく。
 それから顔を上げたとき。
 一瞬、シンジの時が止まった。
「あ! え、う、い、お、おっはようございます!」
 その場をごまかそうと、シンジはオーバーアクションで挨拶する。
 制服に着替えたレイと丁度、目が合ってしまった。
 レイには狼狽える様子もなく、いつもの何もない表情でぽつりと、
「なぜ、そんなに気を使うの」
 云って欲しくはない、でも待ち望んではいた一言だった。
 シンジはとうとうレイの前で、肩の力を思いっきり抜いた。
「苦手なんだ。ふたりっきりは」
「なぜ、苦手なの」
「どうしたら喜んでくれるか、機嫌悪くさせないで済むのか」
 目を合わせずシンジは俯きながら、
「どうしたら仲良く出来るのか、考え過ぎちゃって」 
「命令だから?」
「違う」   
 強い口調でシンジは否定した。そして、レイの目を真っ直ぐ見つめ、
「命令だけで、仲良くなんてなれないよ」
 普段表情を崩さない彼女でも、この時ばかりはさすがに驚いた顔をしていた。
 シンジもそんなことを発した自分に驚き、
「あ、ごめん……」
 再びいつもの謝り癖を出してしまう。
 レイは何事もなかったかのように元へ戻り、玄関前で靴を履き始める。
 ただ、ドアノブに手をかけたときだった。
「碇君」
「何?」
「それは、私も同じ」
「同じ?」
 レイはなぜかこちらに振り向かず、
「ただ、あなたと私は違う」
 そのままドアを開け、そして、
「あなたは変えようとしているわ」
 すっとまるで消えるように、玄関の向こう側へ行ってしまった。

――あれは、どういう事だったんだろう。
「まあ、リラックスせい」
 トウジはシンジの頭を軽くはたいた。
「綾波は嫌だといってないんだろう?」
「うん」
「なら大丈夫。あいつだったらきっと、嫌だって面と向かっていうよ」
 ケンスケはいつもの見慣れた顔でシンジに笑いかける。
「まあワイから云えることは――」
 腕を組み仁王立ちしてトウジは、云った。
「オマエだけが出来ることをしてやれ」
 僕だけが出来ること……
「偉そうに。女の子と付き合ったことがないくせに」
「じゃかあしい! 茶化すな!」 
「ちなみに碇は、綾波に何をしたの?」
 シンジは眉間にしわを寄せながらしばし考え、
「紅茶が好きなのかなって、食後に出してた」
「お、上出来やないか」
「うん。そう思って、いつも出してたんだ」
「いつも!?」
 何の疑いもなくシンジは頷いた。
「碇!」
「シンジ!」
 2人はシンジの両肩をがっしり掴む。
「オマエもやっぱり閑古鳥だなあ」
 そして、先程引いた境界線内に引き入れ、強く抱きしめた。
 青空はいつまでも青空だった。

    2

 私はだれ。
 私の名は綾波レイ。性別・女、年齢十四歳。
 エヴァンゲリオン零号機の専属操縦者であり、ファーストチルドレン。
 そして、それ以上でも以下でもない。
 他には何もない。
 もし、私がこの世界からいなくなってもさほど問題はないだろう。
 替わりが用意され、時は流れ、日は昇り、世界は動く。
 次第に人々の記憶から薄れていき、そして私はこの世から忘れ去れてしまう。
 そう、それは変わることのない事実。
 いつも出会うものすべてに、さようなら。
 なのに――

 呼びかけのブザー音がエントリープラグ内に響いた。
 プラグスーツ姿のレイは目を開ける。
「レイ、あがっていいわよ」
「了解」  
 きっと塵一つのズレも見逃さないだろう。ずらりと最新鋭の解析機器が壁に沿って並ぶネルフ第三実験棟管理室。
 その真ん中で強化ガラスの向こうを眺めながらミサトは、リツコに声をかけた。
「どう、調子は?」
「左腕・右足の動力修正、胸部装甲板の再構築、機能中枢のデータ処理、その他諸々のインターフェイス不良から全構成のバランス設定」
「つまり、ユニゾンシンクロの実験は続行って事ね」
 ガラスの向こうに見えるもの。そこには全長四十メールの人型タイプ、オレンジからスカイブルーにカラー変更された零号機があった。
「シンジ君がいなくて、さみしい?」
「食生活が偏っちゃってね」
 ミサト自身あまり料理が得意ではなく、アスカはアスカで「女が料理できなければならないなんて前時代的だ」といい料理は作らない。
 おかげでコンビニ弁当ばっかりだ。
「煮物やお吸い物みたいな料理が上手なのよね、シンジ君」
「もしかしたら、もう帰ってこないかもよ」
 リツコは今日のシンクロユニゾン実験結果データを、ミサトに手渡す。
「へえ、いいわねえ。仲が良さそうで」
 折れ線グラフはシンクロユニゾンの向上を表していた。
「羨ましいなあ、私も早く新しいカレをみつけようっと」
「あら、加持君がいるじゃない」
「誰があんなヤツ!」
 ミサトは明らかなむくれ顔をして口を尖らせた。
「こないだなんて、アイツが夢に出て最悪だったわ」
「どんなの?」
「いきなり、加持が蛇持って私を追いかけ回してくるの。しかもどこかから沢山の加持が湧いてきて、そして、そのまま押し倉饅頭でつぶされたところで、目が覚めたわ」
「蛇は幸運、抑えつけられると云うのは災難の意」
「へ?」
 間の抜けた表情でミサトは、リツコに視線を向けた。
「夢判断よ。心理学において夢は潜在意識の処理・願望充足の表現だとされているの」
「ふーん。で、カウンセリングの結果はどうなんですか? リツコ先生」
「ミサトにとって加持君は幸運の存在で、かつ悩みの種という事を示しているわね」
「幸運の存在はともかく、悩みの種は大当たりね」
 『悩み』の部分を強く強調するミサトを、リツコは鼻でわらった。
「しかし」
 リツコもシンクロユニゾンの分析結果を眺めながら口走る。
「シンジ君はともかく、あのレイに変化が起きるとは……」


 制服に着替えたレイは、一人ラウンジで椅子に座り紅茶を飲んでいた。
 誰かと待ち合わせをしていた。それはシンジ、ではない。彼はシンクロユニゾンの実験が終わった後、足早に帰ってしまった。
 紙コップに入った紅茶をすすり、一息つく。
 そして、耳では拾うことが出来ない小さな声で呟いた。
「――なぜ?」
 わからない。
 なぜ、今朝あんな事を言ったんだろう。すぐに部屋から出ていってしまったんだろう。
 一体、何が後ろめたく恥ずかしいというの。
 レイは胸に手を当てる。普段よりも鼓動が早くなっているのを感じる。
 こんな事は今まで無かった。
 日々、碇君との接触により自分の中の何かが変わろうとしている。勝手に言葉を発している自分に驚いている。
 それは、予想も想像もしなかった事態。
 どうすればいいというの。
「待たせたな」
 いつの間にかレイの背後に、シンジの父・碇司令の姿があった。
「どうだ、生活は」
「特に何も」
 いつもの物静かな表情で答え、レイは立ち上がる。だが、碇司令は気付いていた。
「レイ」
 普段ならミネラルウオーターしかレイは口にしない。
「何も変わることはない。今以上は必要ないのだよ」
「必要ない……」
「そうだ。必要ない」
 碇司令はレイの肩に手を添え、
「いくぞ、レイ」
 まだ紅茶の残っていたコップをゴミ箱へ投げ捨てた。


 他に何が出来るかシンジは考えてみたけれど、余り思い浮かばなかった。
 決して恰好いいわけでもなく、会話が面白いわけでもなく、何か目を引く特別な芸を持っているわけでもない。エヴァの操縦者以外は中学に通う普通の十四歳だ。
 とりあえず、出来ることだけやってみようと思った。
 しかし、綾波の帰りが遅い。
 外は外灯や家の窓からこぼれる明かりがハッキリするほど、暗くなってしまった。辺りは流石に人が出歩いていないのか静かだ。
 時刻はもう晩飯時を過ぎている。
 綾波の性格なら遅くなる場合、連絡をしそうなのだが。シンジは心配になって見回りに行こうと玄関に向かう。
 すると丁度玄関のノブがくるりと回り、目と鼻の先程の距離に、
「あ、お帰り」
「ただいま」
 綾波の顔があらわれた。
 吸い込まれるような赤い瞳、つぶらな唇、なめらかな艶のある白い頬。 
「きょ、今日は遅かったね」
 一瞬見とれてしまった事を悟られぬようシンジはすぐさまきびすを返し、招き入れた。
「ごめんなさい、連――」
 ――絡できなくて。
 と、一言謝ろうとレイは口を開ける。
 だが、テーブルを見た途端、レイの口を開けたままにした。
「どうしたの?」
 シンジの表情が心なしかいつもより柔らかい気がする。
「なにも」
 レイは鞄を置き、すぐさまテーブルについた。
 同棲生活が始まってからシンジがテーブルにあげるものは、なぜかフランス料理やステーキ・イタリア料理など、高級レストラン並の豪華な献立だった。
 だから、今日も派手な食事だと構えていたのだけれども。
 本日の晩ご飯。
 鯖の味噌煮・漬け物・みそ汁と、今までとは反対の随分と落ち着いた献立だった。
 ただ、味噌煮はレイを苦しめた。箸を持ったまま、云うか云うまいか悩む。
「大丈夫だよ」
 シンジはにっこりしながら、味噌煮を勧める。その笑みに負けてレイは味噌煮に箸を出してしまう。
 基本的にレイは魚や肉類が苦手だった。独特の生臭さや血の臭いが「死」を連想させ気持ち悪くなってまう。
 だが、口に入れて、気が付いたら言葉を発している自分がいた。
「――おいしい」
「良かったあ」
 急にシンジが糸の切れた人形のごとくだらけた。
「綾波はさかな嫌いでしょ?」
 脅かされた猫のように、レイはシンジに視線を向けた。
「食卓を囲んでいたらね、気付いたんだ」
 今回レイはレイなりに気を使って、嫌いなことを云わなかった。なのに……
「なんとなく今日は味噌煮が作りたくなって。多分、綾波は魚独特の生臭さが苦手なんだろうなって思って、鯖に一工夫を加えてみたんだけれど……」
 シンジは安堵の息を吐き、
「よかった、喜んでくれて」
 その嬉しそうな表情に、レイはなぜか恥ずかしくなり俯きながらも食事を続ける。
 黙々と食べるレイにどうして良いか分からず、シンジもとりあえず黙って食べ始めた。
「放課後」
 そして、皿から味噌煮が無くなる頃、沈黙を破ったのはレイだった。
「なぜ、屋上にいるの」
「なんだ、見られてたんだ」
 食後の紅茶をテーブルに出したシンジは、恥ずかしそうに頭を掻いた。
 レイも非番の日は学校に遅くまで残っていた。彼女も特別何かしなければならない事はなく、図書館で本を物色しながら時間が流れていくのを待っていた。
「なんて云えばいいんだろう」
 スプーンで小さな渦を巻いた紅茶を見つめながらシンジはしばし沈黙し、
「エヴァに乗るため、かなあ」
「乗るため?」
「――うん」
 シンジは味を確認するためかゆっくりとティーカップを口の上で傾ける。
 紅茶のすする音が、静寂な部屋の中に響く。
 そして、ティーカップを受け皿に戻した後、
「正直、今でもエヴァに乗るのは怖いんだ」
 一つ一つ丁寧に言葉を摘むように話し始めた。
「僕はアスカのようにエヴァのパイロットを誇りに持てないし、綾波みたくエヴァに乗るために生まれてきたと割り切ることが出来ない。だから、待機中はずっと緊張していて、使徒との戦闘までなんてどうやっても震えが止まらない。何もない日でも、ふと不安が頭の中で膨らんで苦しくなることがある」
 レイはティーカップを手で包みながら、静かに聞いていた。
「そんなときは、夕陽を見るんだ」
「ゆうひ……」
「夕陽は必ず沈む。例えどんなに面白くて楽しかった日でも終わらせてしまう。それは嫌がっても抵抗しても避けられない、僕だけでなく全てに訪れてしまうことであって、どうしようもないことであって――」
 一瞬ためらうように言葉を詰まらせた後、
「――仕方のない現実なんだなって。そう思うと寂しいけど、今を素直に受け止められて楽になるんだ」
 深い海の底のような目でシンジは遠くを見つめる。その顔は、夕陽を見つめているときと一緒だった。
「どうして、エヴァを降りないの」
「いつか綾波は云ったよね。『エヴァは私の絆だ』って」
 レイは黙って頷く。
「僕もそう、エヴァしか浮かばないんだ。だから、乗るしかないんだよ」
 鼓動は正常。呼吸に乱れはなく、感情に起伏は感じられない。
 周りには、私の動作を妨げる障害は見あたらない。
「今の私もそう」
 レイは自分自身を確かめる。
「それは変わらなく、それ以外に他はない」
 声の大きさもトーンも普段との変化はなし。私はいつも通り落ち着いている。
 しかし、
「ただ」
 そう自分を確認しようとしている事自体が、冷静ではなかった。
「時々、私の中で知らない私に出会うことがある」
 ――私が私の意志とは異なる事を話している。
「だから、あなたも自分の知らない夕陽に出会えるかもしれない」
 ――私は今、碇君を見つめている。碇君の手にはまだあの時のヤケドが残っている。
「碇君なら、きっと」
 ――私はあなたの前では私であって、私ではない。
「どうして僕が?」
「それは――」
 ――あなたが私に、

 レイ、何も変わることはない。今以上は必要ないのだよ。

 頭の中で碇司令の言葉が響いた。
「それは?」
「いえ、別に。ただ、そう思うの」
 そういってレイは静かに紅茶をすする。
「知らない夕陽か……」
 ふと、時計を見るとだいぶ時間が経っていた。
 シンジは食器を片づけようと立ち上がる。
 レイはそのまま座っていた。そして、普段の自分を取り戻そうとしていた。

 ただ、紅茶を手放そうとはしなかった。

    3

 入道雲がハッキリ見て取れる青空に、非常事態宣言のサイレンが響き渡った。
 第三新東京市に立ち止まるモノなど無く、全てが一つの目的ために血流のごとく動きだす。
 それは、ネルフ本部も例外ではない。
「まったく、たまには予告状でも出しなさいよ」
 ミサトは巨大なメインスクリーンを見つめながら愚痴を吐いた。
 作戦行動の立案・分析・指示が行われる中央作戦室発令所は、大規模な展示会を開けるぐらいの規模がある。だが、今はその広さを狭く感じさせるほど騒がしくなっていた。
「きっと恥ずかしがり屋なんですよ」
 日向がせわしなくキーボードを打ちながらも相づちを打つ。
「にしては派手な登場じゃない」
 サブスクリーンには、先程地形を変えるくらいの戦闘を行った国連軍の映像がダイジェストで流れている。結果、0勝100敗ぐらいの大差で国連軍は白旗を揚げていた。
「これじゃあ、ATフィールドの確認も出来ないわね。何か他にデータとなるものは?」
「ある一定の周波数を確認しています」
 待っていたかのように青葉が声を上げた。
「一秒間に八回から十三回の微細な波で内部から放出されています。検証した結果――」
 青葉がリターンキーを押すとモニターに大きく、
「『レム睡眠』?」
「人間を含め哺乳動物の眠りは、ノンレム睡眠とレム睡眠の繰り返しで出来ているの」
 ミサトの大きなクエッションに間髪、リツコが注訳を入れた。
「そしてこのレム睡眠状態時に夢をみるといわれているわ」
「じゃあ、対策として布団と枕でも用意しようかしら」
「うちの『紫布団』と『赤枕』なら準備が整っているわよ」
 リツコは伊吹に確認の声をかける。
「初号機・弐号機、パイロット共にオールグリーン。シンクロ率やハーモニクスも全て正常値です」
「大丈夫なの? 初号機」
 ミサトは皆に心配させないようリツコにささやく。
「まだ14日間と付け焼き刃だけれども、ユニゾンシンクロ率は安定しているし個人値よりも数値は高いわ」
「なら、使わない手はないわね」
 発令所の最上階に位置する司令室へミサトは顔を向ける。そこには、碇司令と冬月副司令がいた。
「碇司令、碇シンジ・綾波レイ両パイロットのユニゾンシンクロによる初号機の投入許可をお願いします」
「最全力を出さなければ勝てる相手ではない。許可する」
「ありがとうございます!」
 云って、ミサトの視線が司令室から発令所全体へ映る。
 それを待っていたかのようなタイミングで、
「碇」
 冬月副司令は声をかけた。
「いいのか、レイへの干渉が大きくなりつつある。手から離れていってしまうぞ」
「何、もうこれ以上変化はあるまい。例えあったとしても――」
 碇司令のメガネが鋭く光る。
「――戻らせるだけだ」
 と同時に。
 ネルフ本部全体に一つの信号音が広がった。
「目標、山中湖方面から戦闘エリア内に侵入しました」
 ミサトは大きく息を吸い、全身に新たな空気を染み込ませる。辺りを見回し問題が無いことを確認する。
 そして芯の通った声で、
「エヴァンゲリオン発進!」
 弾丸のごとく、両機は射出口から地上まで約一キロをカタパルト発射にて、一気に打ち上げられた。
「シンジ君にレイ」
 初号機のエントリープラグ内にミサトの声が響く。
 エントリープラグ・ユニゾンシンクロタイプは、戦闘機のように後部座席が設置されている。前には初号機の主パイロットであるシンジが、後部座席にはレイが座っていた。
「シンクロ率が高いからといって、実戦は初。よって、弐号機のバックアップに回って」
「了解」
「アンタ達!」
 ミサトの声に割り込んでくるように、アスカの通信が入った。
「2人で動かしてるんだから、ちゃんとアタシに付いてきなさいよね!」
 云うだけいって、プッツリと切られてしまう。2人は、相手にするのも面倒なのでそのまま流しておいた。
 降り立った第三新東京市。
 高層ビル群は地下に収納されており、避難完了されたのか人っ子一人見あたらない。
 静寂以外は何も存在しなかった。
 シンジは、この静寂が嫌いだった。歯医者の待合室にいる感覚といえばいいだろうか。いや、それよりももっと深い「生」と「死」の狭間に立たされている。
 自分たちは何もせず、ただじっと使徒を待たなければならない。もちろん、気を紛らわすものなど何もない。世界の存亡をかけた戦いに、そんなモノあってはいけない。
 だから、頭の中でこれからの戦闘をシュミレートしてしまう。
 そして、どうしても不安と恐怖が導いた結末を何度も何度も浮かべてしまう。
 アスカならきっと武者震いでもしながら、自分の活躍する想像に酔いしれてるだろう。けれども、シンジにはそんな自信はない。
 負の結末が次第に聴覚・視覚・触覚・嗅覚・味覚の五感の動きを狭めていき、終いには思うように身動きをとれなくする。
 暗く窮屈な箱に閉じこまれたような感覚に陥る。
 しかし。
 不思議と落ちついた自分がいる。 
 手の先から足のつま先まで血がよく通っている。喉の乾きもなく、エントリープラグ内で鳴る機械音も外の風音もクリアに聞こえ、目の前に広がる景色が隅々まで見渡せる。
 波紋のない湖のような静けさが身体の中にある。
 今日はいつもと違っていた。
 どうしてだろう。
「綾波?」
「何」
 レイはスクリーンにウインドを開き、使徒の動向やデータを確認していた。
「零号機の方は、どう?」
「後は最終調整だけ」
「そっか、じゃあもうそろそろ一緒に暮らすのも終わりだね」
「そうね」
 しばし沈黙が流れる。
 そして、いきなりシンジは声を上げた。
「きっと綾波のおかげだよ」
 急な展開に思わずレイはモニターからシンジへ視線をした。
 シンジは、正面を見つめたままなぜか恥ずかしがっていた。
「どうして私のおかげなの」
「覚えてる? 綾波が云った『知らない夕陽』」
「覚えてるわ」
「次の日、僕はそれを確かめに屋上へ行ってみた」
「出会えたの」 
「いや、結局、駄目だった」
 弱々しい声を出しシンジはうなだれる。
「そう……」
「ただ一つだけ、分かったことがあった」
 云い、シンジは顔を空に向けた。
 レイもつられて、空を見つめる。
 夏の空。深く何処までも吸い込まれる青が広がる。山のような入道雲が風任せに流れている。誰もいない邪魔はない、広大な自由がそこにはあった。
「もしかしたら――」
一息、シンジはおく。そして、耳を赤くさせながらも、云った。
「――綾波と一緒なら出会えるかもしれない」
 瞬間、レイの鼓動が高鳴なる。
「そう思ったら、エヴァへの気持ちが楽になった」
 再び、知らない自分が外へ出ようとする。
 それを自制心で繋ぎ止めようとする自分もいる。
「おかげで、今僕はこうして乗っていられる」
 今までずっとこの繋がりで私は支えられてきた。だから、きっと大丈夫なはずだ。
 レイは爪跡が付くくらい拳を握りしめ、自分を抑え込む。
 胸の鼓動は段々早く大きくなっていく。手に汗を握り、意識を内側へ集中している自分がいる。
 そして、口を勝手に動かそうとしている自分もいた。
「それはわたしも……」
 いきなり。
 メインモニターにカーソルが浮かび上がった。カーソルの中には夏の空を背景にこちらへ向かってくる使徒の姿があった。
 同時にメインモニター右下にミサト映し出すウインドウが開き、 
「目標がエヴァ戦闘エリア内に入ったわ。両機、戦闘開始!」
「了解」
 一瞬にしてエントリープラグ内は、神経が張り巡らされた空間となる。
 ただ初号機可動際に、
「綾波」
 シンジは小声ながらも耳で聞き取れるはっきりとした声で、
「――ありがとう」
 そして、使徒との戦闘が始まった。

     ◎
 
 わたしが私に語りかける。
『どうして、そんなに苦しむの?』 
 変わるのが怖かった。
 私がどんな風に変化していくのか予想が付かなく不安だった。
 だから、何も云わず現状を維持しようとした。
『でも、わたしは現れた』
 意志とは異なる事を話すわたしがいる。胸の鼓動が高まり、気付かない感情に左右されているときがある。
『わたしになりたいの?』
 ――あなたも自分の知らない夕陽に出会えるかもしれない
『それとも今の自分のままでいいの?』
 ――レイ、何も変わることはない。今以上は必要ないのだよ
 希望・不安、期待・落胆、喜び・怖れ……
 ジレンマが繋がり、鎖となって私の身体を締め付ける。身動きが出来ない、息が苦しい、身体が重い。
『疲れたの?』
 疲れたわ。
『諦めれば?』
 そうすれば考えずに済む。鎖の締め付けに苦しまなくていい。ただ、私は全てを流れに任せているだけでいい。
『そう、楽になるわ』 
 なのに、どうして。
 ――綾波、ありがとう
 わたしの心はざわめく。鎖が軋み始める。
 そして、ある一つの言葉が私を鎖から解き放った。

「笑えばいいと思うよ」

 白い天井と蛍光灯。
 レイが目を覚ました瞬間、目に入ってきたのはそれだけだった。周りを見回すと壁からカーテン、ベットもシーツも白一色で統一されている。
 どうやら、ここはネルフ本部専属病院らしい。
 その証拠に、レイはいつの間にかプラグスーツからネルフマーク入りの患者服へ着替えさせられていた。
 起きあがり再度辺りを見回す。誰一人おらずまた廊下にも人の気配すら感じられない。
 どうして、こんな所にいるんだろう。レイは記憶をたぐり寄せる。
 確か、今回の目標は――

「そんな! 確か倒したはずじゃ……」
 シンジが驚きの余り大声を出した。
「あんた馬鹿じゃないの!? 色が違うでしょ、色が!」
 アスカは獲物を狩るオオカミのような目つきで、目標を見つめた。
 目の前に映る目標、「使徒」。
 それは全身漆黒に覆われている以外は首のない両肩の張った人型タイプ、つまり第三使徒サキエルと同じものだった。
「身長・体型・質量、全く酷似している。ただし、第三使徒特有の熱光線や槍系の攻撃パターンは一切みられない。別モノと判断していいわ」
 レイはサブウインドウで使徒のデータを確認する。
「どう騒ごうが目の前に敵がいることは変わらない、やるしかないって事か」
「降りかかる火の粉は払う。ぐずぐずいってると……」
 長刀・ソニックグレイヴ装備の弐号機は、スプリングのように身体を沈ませてつま先に全体重を乗せる。
 そして、ふくらはぎに意識を集中させた後、
「置いていくわよ!」
 一気に、防護壁ビルの影から飛び出した。
 漆黒の使徒は弐号機の存在に気付き、攻撃体勢へと入っていた。
 もちろん、攻撃はさせない。初号機はパレットライフルのトリガーを引き、使徒を攻撃体勢のままで爆煙に包ませる。
「うおおおりゃああああ!」
 短距離走のごとく一直線に使徒の元へ弐号機は突っ込んだ。
 目標は確かゴムのように腕を伸縮させて攻撃してくる。威力も、ビルを貫通させるほどだ。しかし今は、爆煙で正面は見えていない。
 そして、こちらは3D感知システムで暗闇でも爆煙でも安心。使徒の攻撃モーションがハッキリと確認できる。
 一発目は足首にひねりを加えたフットワークで、二発目はソニックグレイヴで払う。これで使徒は二本しかない腕を使い切ってしまった。
「楽勝!」
 一瞬、弐号機の頬に何かがかする。そして、それが使徒の攻撃と気が付いたときには、もうすでにアスカの視界は真っ暗になっていた。
 使徒の攻撃は確かに打撃系だ。しかし、もう一つ特徴があった。
 それは来たと気付いた時は既に戻っている、目で捉えるのは不可能な速さ。 
 使徒の攻撃速度に、更に弐号機の突進速度が上乗せされる。距離は段々と縮んでいくのだから、避ける間など無くなってしまう。もちろん、急停止など出来ない。
 互いにすれ違うはずの列車が、実は同じ線路を走っていた。
 つまり、直撃は必然的だった。
 それがどういう結果を生むのか理解する前に、本能による条件反射がアスカの目を一瞬閉じさせてしまう。
 使徒の攻撃は、
「さすが。ユニゾンシンクロは伊達じゃないわね」
 スクリーン越しで、発令所から戦闘を見守っているミサトは感心した。 
 当たらなかった。
 ビリヤードのごとく。初号機の放ったパレットライフルの弾丸が使徒の拳を明後日の方向に跳ね返させた。
 おかげで、弐号機は完全に己の攻撃間合いに入ることが出来た。
 ソニックグレイヴは、何モノにも邪魔されることなく、斜めに振り落とされる。
 使徒の上半身は滑るように地面へ落ち、
「一生おねんねしてなさい!」
 後には地響きだけが残った。
 見守っていた人々は皆、安堵の息を吐く。今夜飲みに行こうと話し出す人もいる。
 緊張の糸はあっという間に緩み、そして、
「何ですって!?」
 すぐに張り詰める。
 血相変えてミサトはオペレーターに確認を取る。
「分析パターン青、目標は健在です!」
「周波数にも変化はありません!」
 スクリーンに映った真っ二つの使徒は粘土のような黒い一塊りとなり、そこから再び第三使徒サキエルを形作っていく。
「攻撃が利いてない!?」
 シンジの疑問にすぐさまアスカが噛み付き、
「形状記憶合金シャツだって、何度も洗えばいつかは崩れる!」
 何度も何度もソニックグレイヴで切り裂く。
 刃先にモノの切れた感覚はあるのだ。だが、使徒は何事もなかったように切り口を黒で塗りつぶしてしまう。
「はあはあ……」
 疲れのためか次第に弐号機の振りが鈍くなっていく。それに反比例して、使徒の輪郭がハッキリしていく。
 そして遂に、
「セカンド、一旦引いて」
 レイの援護によりアスカは距離を置く。
 使徒は完全復活し、攻撃まで再開した。しかも、威力やスピードは全く衰えていない。
「ミサトさん、何か手はないんですか!」
 攻撃を避けながら叫ぶシンジを尻目に、ミサトはある一点だけを見つめていた。
 それはサブスクリーンに映された微弱なパターン。
 ――確か、これは哺乳動物のレム睡眠時に発する時のものと同じ
 シンジだけでなく、アスカの怒鳴り声までが発令所に響く。
 ――レム睡眠時に夢を見る
 オペレーターからの様々な情報が飛び交う。
 ――夢、それは願望充足の表現または潜在意識の処理
 メインスクリーンに映された防戦一方の両機、
 ――漆黒の使徒
 そして、街を削ってまで攻撃を続ける使徒。
「もしや……」
 ミサトは目を見開き、
「初号機、使徒の影を狙って!」
 身体のひねりと、足首のステップで。
 攻撃を何とかくぐりながら、ぶれるモニター内の照準カーソルを使徒の影に合わせる。
「このお!」
 弾丸は空を切り、一直線へ使徒の影へ吸い込まれる。
 その弾丸が、使徒の攻撃を止めた。
「ありがと、リツコ」
「え!?」
 いきなりミサトに名を呼ばれたので、リツコは面をくらった。
「アンタの雑学が役に立ったわ」
 使徒は苦しむように一瞬、己の形を崩す。
「使徒の本体は影。目の前に映るのは、使徒の生みだした夢でしかないわ」
 
 そう、ここまでは問題なかった。レイ自身もこれで、決着が付くと思っていた。
 しかし流石は未知の生命体。
 レイはベットから降り身体に異常がないことを確かめると、現状況を確認するため廊下に出た。
 ――使徒が、増えたのだ。
 初号機のプログレッシブナイフでコアを破壊された、イカ型・第四使徒シャムシエル。
 ポジトロンスナイパーライフルにより狙撃された菱形立方体・第五使徒ラミエル。
 戦艦二隻の零距離射撃により体内コアを破壊された巨大な口と尾鰭を持つ魚類型・六使徒ガギエル。
 あちこちの影がまるで急成長する木のように置きあがり、姿を形成した。
 あまりにも予想出来ないことに、レイ自身も思わず声を上げてしまったぐらいだ。
 そして、使徒の一斉攻撃が行われた。攻撃パターンは、最初のモノと余り変わらない。やはり身体の一部分を伸縮させての打撃系だ。
 だが、数が半端ではない。それはまさに雨降るほどだ。
 レイ・シンジ同乗する初号機はハンドガンとプログレッシブナイフで応戦した。
 ユニゾンシンクロのおかげで、まるで三百六十度に目があるように周りがよく見え、何より自分の思い描いたように動ける。こちらがどんな姿勢をしていても、引き金を引けば必ず弾は命中し、ナイフを振れば必ず切り裂いている。見ているものは、まるで使徒が自ら進んで攻撃を与えられに来ているような錯覚に陥るだろう。
 だが、弐号機が防戦のみとなっていた。そして、レイはあることに気が付いた。
 人型・第七使徒イスラフェルの姿が誕生していないと。
 それが今、弐号機の影から起きあがろうとしているのを。
 ハンドガンにもう弾はない、プログレッシブナイフも切れ味が悪くなってきている。手に届く武器もない。シンジもきっと同じ事を思ったのだろう。
 今作戦の初号機の使命は、二号機の援護である。
 身を挺して弐号機を助けた。
 その変わり、初号機が使徒の餌食となった。いきなり羽交い締めにされ身動きできなくなったところで、足の先から染み込むように影が初号機を登ってくる。
 そして、それに合わせるようにレイの意識が段々と薄れてきた。
 まるで夢の世界へ引きずり込まれるような感覚だった。
 その夢の世界にもう一人のわたしがいた。
 彼女は話し掛けてきたのだ。
『どうして、そんなに苦しむの?』と……

 胸騒ぎがする。
 病院内で現状況を確認できる場所は一つしかない。行き先の決まったレイの足は廊下の歩く速度を徐々に上げていく。 
 目に付く赤色のツナギを身に纏った人々が集い、いつでも出動できるよう自動ドアはなく、現状況をモニターで確認することが出来る場所。
 第一救急控え室に、レイが足音と共に現れた。
 じっとモニターを見つめた後、
「行かなきゃ」
 一言だけ残して、すぐさま足音を遠ざけていった。
 ネルフに携わるモノならば、レイの存在を知らない者はいない。何度か起動実験失敗の際で面識があったので救急隊員も、どんな性格の持ち主かまで、もちろん知っていた。
 だが、あえて一人の救急隊員が確認した。
「今のは、確かファーストチルドレンの、綾波レイだったよなあ?」
 皆も自分に納得させるような口振りで返事をする。
 なぜなら、誰もが思いも寄らなかったからだ。
 まさか、綾波レイがあんなに感情を表に出すとは……
 第一救急控え室のモニターに映っていたもの。
 それは、影の浸食によって苦しむ初号機の姿だった。

    4

「よかった。命に問題は無いんですね」
 弐号機の影を見つめながら、初号機内でシンジはレイの安否を確認した。
 リツコの話によるとこうだ。
 今回の使徒は、影しか存在せず実体となるモノを求めている「型」だ。
 レイが意識を失った原因は、使徒が神経パルスから侵入し初号機を浸食しようとしたからである。
 初号機はシンジがメインであるので、侵入への防御工作は複雑となっている。しかしレイはサブであり防御工作が甘いため、先にレイが侵入の影響を受けてしまった。
 使徒は侵入後、ラジオのチューニングのように他の脳波パターンと自分のそれを一旦合わさせ、そこからレム睡眠時のパターンへ変化させていく。
「夢の世界に引きずり込み、相手をそこで操作すると考えられる」
 よって、レイが昏睡状態に陥ってしまった。
「幸い浸食が浅く、一般的な睡眠状態となっているわ」
「じゃあ、もし浸食が深かったら?」
 アスカも初号機の影に神経を集中している。
「ずっと、夢の中よ」
「死んでると一緒って事ね」
 現在、非常事態宣言発令は続行中であり、従って街に猫の気配すら感じられない。
 ただ大きく変わったことがある。
 それは、第三新東京市にエヴァ以上の高く大きい建物は存在しなくなっていた。
 偶然に助けられた。
 レイへの浸食開始時になぜか使徒の力が弱まったのだ。その隙をついて、意識のあるシンジは自力で脱出し、レイの救出と作戦立て直しのため一旦ネルフ本部へ帰還した。
 分析の結果、どうやら今回の使徒は影の大きさに比例して能力が変化するらしい。つまり、太陽が真上にあるときは使徒の能力が一番下がるときで、偶然にも初号機へ浸食開始が丁度その時だった。
 また半径十キロ以内で、かつての使徒と同じかそれ以上の質量をもった物体の影にゴーストを生みだす事も分かった。
 よって、作戦はそれに該当する建物を地下へ収納と撤去。そして、両機の影を囮にして目標をおびき寄せる。
「限界時刻は、18時38分」
 ミサトは2人に伝えた。
「その時刻は?」
「日没の時間よ」
 つまり、影の塊である夜が来る時間である。
 作戦はすぐさま決行された。建物の収納と爆破による撤去を行うと、使徒のゴーストは次々と姿を消していき、残り一体となったところで初号機と弐号機を地上へ射出する。
 最後の建物を収納した後は、二機の影をじっと監視していればいいだけだ。
 最初は動きがあった。まるでモグラたたきのように初号機と弐号機の影から出たり引っ込んだりした。
 だが、急に沈黙をし始める。
「夜を待っているの……?」
 腕を組みながら、ミサトはモニターを見つめる。
 もうどのくらいたっただろうか。
 相変わらず夏の日差しは強い。太陽はさんさんと輝いており、おかげで影はくっきりと浮き出ている。
 沈黙が沈黙を呼び、いつの間にかエヴァ両機もネルフ本部も黙ってしまった。
 時折、涼しい風が吹く。しかし川に垂らした釣り糸をじっと見つめるように意識を影へ集中しているので、気にしない。
 誰かが云っていた。
「釣りの極意とは川の流れだけでなく、天候も理解することだ」
 だから、逃してしまった。
 何も使徒同等かそれ以上の影を持つのは、ビルやエヴァばかりではない。
 そう、それは。
 目を休めるためシンジは一瞬空を見上げる。そして、思わず声を上げた。
「ミサトさん!」
 風とは反対方向に流れる巨大な黒い雲が、太陽を覆い始めていた。
「反則よ、雲にも浸食できるなんて!」
 気付いたときは既に遅し。雲と一緒に巨大な影は第三新東京市に近づいており、そして最初に呑まれたのが、
「神経パルスに異常あり! 浸食を開始しています!」
 発令所内に警報が走る。画面狭しと「緊急事態」の赤い文字が激しく点滅する。
「アスカ、援護を!」
「分かってるわよ!」
 影の中へ引きずり込むように。
 蔓草のような漆黒の物体が、初号機の足下へ絡みついてきた。
「くそう!」
 初号機は足を引き上げ、ハンドガンとプログレッシブナイフで何度も何度も刈り切ろうと試みる。しかし黒い蔓草の成長は早く、段々と足の自由を奪っていく。
 弐号機の援護は絶望的だった。
「意気地なし! 一対一で勝負しなさいよ!」
 五体のゴースト全てが弐号機へ攻撃を向けていた。 
 雲による影は、すでに北は山中湖から南は熱海まで、第三新東京市中心に覆っていた。
 蔓草の進行は止まらない。初号機の両足はもう真っ黒になり自由は失われていた。
 長時間の緊張と集中力による極度の疲れに、不安と恐怖と焦りが入り交じる。今、シンジの精神はもっとも不安定になっていた。
「シンクロ率低下! 浸食率が増加しています!」
 そこに追い打ちをかけるように、もう一人の「僕」が頭の中に現れる。
 そして、語りかけてきた。

 ――『戦うのは嫌?』
 嫌に決まってるじゃないか。
 なぜこんなに苦労しなければならないんだよ。どうして戦うのは僕なんだよ。他の人でも良いじゃないか。ケンスケやトウジや委員長やクラスの誰だって。
『みんなと同じがいいの?』
 同じ十四歳なのに僕だけがこんな目にあってる。ずるいよ、不公平だよ。なんで、僕が世界の運命を背負わなきゃならないんだ。
『背負いたくないの?』
 そうだよ、僕は嫌だよ。本人の意思なんか無視して。
 僕は僕のことで精一杯なんだ。
『誰かの事なんて考えられないんだ』
 明日のことだって考えられないよ。
 未来のことだって考えられないよ――

「まずい、脳波パターンにまで変化が現れています!」
「初号機停止、エントリープラグ緊急射出!」
 ミサトが言い終わる前に日向はプログラミングを打ち込むが、
「駄目です! 停止信号及びプラグ排出コードが認識されません!」
「そんな、完全に乗っ取られてしまうの!?」
 急に。
 発令所内に一つの警告音が鳴った。
「パターンオレンジ、初号機に近づくモノがあります」
「今度は何?」
「映像をキャッチ。モニターに転送します」 
 皆、一瞬目を疑った。誰もが言葉を失った。そんな事態を誰が想像できようか。
 そして、最初に言葉を発したのは碇司令だった。
「レイ!」
 病院に運ばれたはずの彼女が、走っていた。
 しかも、プラグスーツにも制服にも着替えず白い患者服のままで。
「一体、なぜ――」
 それはレイ自身も理解していなかった。
 喉が熱く、背中は汗でびっしょり、足に疲労が蓄積し始め重くなってきている。更に酸素吸入が追いつかなく、頭が痛む。
 自分はどうして走っているのだろう。無理してまで急いでいるのだろう。
 疲労がとうとう全身に達し、もたつき、転んでしまう。
 砂利の感覚が頬に伝わる。膝を擦ったらしく痛みを持った熱がじんじん身体に響く。
 だが、地面の冷たさが心地よかった。動かないことがこんなに楽だとは思わなかった。
 今ならまだ間に合う。このままずっと倒れていれば、後は時間が処理してくれる。
 なのに。
 どうしても頭を上げてしまう。
 身体を起きあがらせてしまう。
 そして見つめてしまう。
「碇君……」
 見つめる先には、影に引きずり込まれ今にも倒れかかっている初号機があった。
 再び、壁にもたれながらも立ち上がり、走り始める。
 それから、いきなり、レイは足を止めてしまった。
 ここが使徒の領域だというのをすっかり忘れていた。だから、現れるのも当然だ。
 まるで鉄格子で囲むように、幾多の黒い手がレイの周りから生え伸びてきた。
 幾多の黒い手は最初、レイの様子を確認しているらしく、吹く風に揺れていた。 
 体力は限界寸前、武器など装備しておらず、もちろん周りには助けを呼ぶ人や武器の変わりになるモノなどもない。
 勝算を理解した瞬間、黒い手は我先へと、一斉にレイの元へ飛びかかってきた。
 レイはどうすることも出来ず、ただ目をつぶり身を固めるしか方法はない。
 そして、一斉に無くなってしまった。
 レイではない。黒い影の手がだ。
「借りは返したからね」
 喧嘩を売ってるような真紅なカラーリングに、制式モデルである一切無駄を排除したシンプルかつスマートなフォルム。
 洗練された女性をイメージさせる弐号機が、レイの前に立っていた。
「そんなところに立ってると邪魔なのよ! さっさとシンジのところへ行った行った!」
 再び次々と伸び生えてくる黒い手を正確な射撃でアスカは倒していく。その隙をついてレイは走りだす。
 一瞬、弐号機の引き金を引く指が止まった。アスカが自分の耳を疑ったからだ。
「まさか、そんな事はね……」
 弐号機のエントリープラグ内に衝撃が走る。周りを見回すと、振り切ったと思ったゴースト共が弐号機を囲み戦闘態勢を取っていた。
「レディには準備ってモノがあるのよ!」
 レイの安全確保が出来た後、弐号機は右手にパレットライフル・左手にハンドバズーカを装備する。
 アスカが空耳として流したモノ、それは紛れもない事実だった。
 レイは云ったのだ。
 ――無事で、と。
「そんなに慌てると、モテないわよ!」
 再び弐号機は、五体のゴーストに立ち向かっていく。
 ゴースト達も迎え撃とうと、弐号機に構えを取る。
 第三新東京市は依然として、厚い雲によって影に覆われていた。使徒の攻撃力に衰えを感じさせない。いや、それどころか陽が傾き始めたらしく、強くなってきている。
 だから。
 やっとの思いで辿り着いたレイは膝に手を当てながら、倒れそうな身体を支える。
 そして、目の前を見上げた。
 初号機はもうすでに、胴体まで漆黒の影に覆われていた。
 しかし、こうして改めて確認してみると、なんて大きな機体なのだろう。
 エヴァは全長40メートルつまり約ビル十階建ての高さもある。それが浸食のせいで片膝を付き、今にも崩れそうになっている。
 まるで自分に倒れかかってくるような錯覚をレイは覚える。
 正気に戻るため乱れた呼吸を整えようとする。が、うまくいかず、それどころか、もう唾を飲み込むのさえままならなくなっている。
 でも、まだだ。倒れるには早すぎる。
 レイは膝から手を離し、再び動きだした。
「シンクロ率限界です。脈拍・脳波共にレム睡眠状態へ移行しつつあります」
 ミサトは、もうただ発令所で見守るだけしかなかった。
 何をするのか分からない。だが、もうレイにかけるしかない。
「シンジ君、持ちこたえて……」

 ――ぼくが僕に語りかける声がハッキリしてくる。
『すべておわったらどうするの?』
 夕陽が沈むように、一日が必ず終わるように、使徒もいずれ全部倒すだろう。
 その時、僕はどうなるんだ?
『何もないんじゃない?』
 そう何もない――

 レイは初号機を登りエントリープラグ挿入口に辿り着いた。
 だが、一瞬頭の中が真っ白になる。手動装置が黒い蔓草に覆われていた。

 ――ミサトさん、リツコさん、加持さん、アスカ、トウジにケンスケ、父さん。
 そして綾波。
 エヴァが無くなれば、僕は昔に戻ってしまう。
 また、ひとりぼっちだ。

 がむしゃらに影をむしり取り、スイッチを入れる。
 射出は不完全だった。既にエントリープラグ周辺まで影が浸透しており、上部に完備されている緊急脱出用のハッチのところまでしか飛び出していない。
 このままでは、保護プログラミングで再び自動挿入されてしまう。

 ――『寂しいね』
 嫌だ、ひとりぼっちは。
『エヴァに乗るのは?』
 それも嫌なんだ。

 レイは自分の両手を見つめる。何度か握ったり開いたりする。
 まだ、力は残っている。 
 ハッチの取っ手を握った。加熱した取っ手は、レイに熱よりも先に激痛を与える。
 だが、レイは回し始めた。歯を食いしばり、痛みを額の汗に変えて。

 ――ぼくは僕に悪魔のような微笑みでこういった。
『じゃあ、全部やめちゃえば?』

「初号機、シンクロ率0パーセント。パイロット、脳波・脈拍共にレム睡眠に入ります!」
「シンジ君!」

 ――そうか、そうすれば何も考えずに済む。苦しまなくていい。
 楽になるのか……

 シンジの頭上から、何かが開きLCLに飛び込む音がする。
 
 そして、時が止まった。
 
 ミサト・リツコ・碇司令のみならずネルフ本部のモノは皆口を開けたまま、アスカは五体のゴーストに取り押さえられたまま、トウジとケンスケは己の恋愛論に話を咲かせたまま、委員長はクラス全員の様子に気を使ったまま、皆、明日がどうなるんだろうと考えたまま。
 完全に、初号機は漆黒に染められてしまった。
 ただ、一つだけ動いているモノがあった。浸食から解き放された雲が再び風に流され、切れ目を作る。かなりの間、戦闘を行っていたのだろう。
 切れ目からこぼれた日の光はもう、オレンジ色となっていた。
 それがスポットライトのように、初号機のみを照らす。
 そして。
「パルス再反転! 神経回路が急速に接続されていきます!」
 初号機が再起動する。漆黒のまま、ゆっくりと中腰姿勢から立ち上がる。
 獣のような雄叫びを上げた。
 ミサトの顔にはもう絶望しか無かった。
「だめなの……?」
 立ち上がった初号機は縮こまった身体を一気に解放させた。
 瞬間。
 闇の衣に亀裂が駆け抜けていき、一気に剥がれ落ちる。
 そこに現れたもの。
 マシンのデザイン美の配色を考慮された青紫中心のカラー、相手を威嚇するシンボルマークの角、ロボットではなく「人造人間」である事を納得させるスマートなフォルム。
 夕陽に照らされながら、初号機は、復活した。
 それは、ただの復活ではなかった。
 重力と時を無視した驚愕な運動能力だった。
 弐号機を抑え込む人型の第三使徒と第七使徒を、初号機の目が捉える。  
途端地面が爆発したような音が聞こえたと思ったら、いつの間にか両使徒の胸部をめり込むほど鷲掴みし、押し飛ばしていた。
「ユニゾンシンクロ率が急激に上昇! 両者とも今だレム睡眠状態です」
「どうなってるの?!」
 街に二本の砂煙が登り、その砂煙をついて初号機の裏に立方体の第5使徒がまわる。ふわりと、いつの間にか使徒は宙へ打ち上げられていた。
 なぜなら初号機が、前転倒立のような空中回転をし、後ろから右かかとで真上へ蹴りあげたから。
 初号機の回転は止まらない。着地した瞬間、遠心力を今度は左足かかとに乗せ、起動を縦から斜めに流し、丁度落ちてきた使徒へ。
 後ろ上段かかと左蹴りを使徒の横角に喰らわした。
 鈍い音と共に、菱形立方体がブーメランの様な形状になる。
 そして、そのまま先程倒れている人型使徒にまるでボーリング玉のように飛んでいき、ぶつかってピンアクションをさせる。
 皆、見とれてしまった。好戦的なアスカでさえ動かずにいた。プロレスや格闘技などに興味の全くない、伊吹マヤが云った。
「カッコいい……」
 残りのイカ型第四使徒と魚類型第六使徒は、初号機を中心にぐるぐると回り円を書いていた。ときおり触手などで威嚇し、隙をうかがってくる。
 初号機はじっと動かない。まるでゼンマイの切れた人形のようだ。
 警戒しながらも、二体は円を段々と小さくしていく。それでも、ぴくりとも動かない。
 初号機と使徒との距離が縮まるにつれて、見守る者の緊張が高まってくる。
「初号機の活動状況は!?」
 たまらずミサトは日向に声をかけた。
「変わらずレム睡眠状態、シンクロ率不明です」
 円は最小に縮まり、もう初号機と使徒との距離はまさに目と鼻の先だ。
 ミサトは生唾を飲む。
「いくらなんでも、あんな至近距離で攻撃されたら……」
 どこかで、建物の崩れる音がした。
 それを合図に二体の使徒が触手を湾曲させ、四方から一気に初号機へ向ける。
 明らかに使徒の初動作が早い。
 なのにだ。
 今度は独楽のような横回転で初号機は触手を腕に絡みつけて掴み、そのまま一本にまとめ、背負い投げで二体を地面へ叩きつける。
「日没に近ければ近いほど影が大きくなるのだから、使徒の能力も上昇するはず」
 だが、どのゴーストも初号機に歯が立たなかった。
 リツコは持てる知識を総動員して分析を試みる。
「パイロットだって、現在レム睡眠のまま」
 モニターに映しだされた初号機は更に追い打ちをかける。今度はゴーストの影へ直に手を突っ込み鷲掴みする。それから無理矢理引っぱり出そうとし、
「この実力差、2人に一体何が起きているというの?」
 肉の引き千切れるような音が第三東京市に響き渡った。
 影を千切られたゴーストは地面でのたうち回っていた。その様、見ている方まで痛みが伝わってく程だ。
 雲は段々と薄れていき、次第にいつもの空を取り戻す。それに合わせ、ゴースト達の姿が地面に吸い込まれるように消えていき、一つに集まる。
「日没まで後5分です!」
 使徒と初号機の実力は歴然、天と地ほどの差がある。だから賭けに出たのだろう。
 目標はとうとう実体化した。
 黒い八頭身の男性体型の人型タイプ、胸部の中心に赤いコアが見える。
 セカンドインパクトを起こした第一使徒アダムと同じ姿だった。
 しかも現れた場所が、ゴーストの集合した場所ではいない。
 ミサトが叫んだ。
「初号機、後ろ!」
 振り返ろうとした時、もうすでに使徒は初号機の首に掴みかかろうとしている。
 何も戦闘が出来るのは初号機だけではない。
 使徒の横っ腹にバズーカの弾がめり込んでいた。爆発し、使徒が吹っ飛ぶ。
「これで、シンジの借りもかえしたからね!」
 ハンドバズーカを構えた弐号機の姿があった。
「とどめを!」
 弐号機投げるソニックブレイブを見ずに取り、初号機は使徒に突進する。体勢を立て直した使徒はマシンガン並の打撃を繰り出す。
 当たっているのか、いや避けているのか。初号機のスピードは落ちるどころかどんどん加速していき、そして。
 ソニックグレイブの刃が、使徒の胸部にある赤いコアに刺さる。
 ヒビが入った。
 更にソニックブレイブにひねりをくわえた瞬間、コアはガラス細工のように砕ける。
 と同時に、使徒は溶けるように形を崩していき、
「18時38分、使徒完全沈黙しました」 
 第三新東京市の静かな夜が始まった。

   5

 ネルフ本部での待機、模擬練習、シンクロ率データ解析。
 トウジやケンスケからの遊びの誘い。
 アスカの買い物の付き合いや、家での留守番。
 その他に何の予定もない日。
 シンジは、誰もいない中学校の屋上で寝っ転がっていた。
 何かしなくてはならない、何かしたい事があるわけでもない。だからといって家に帰ってもテレビ番組はつまらないし、暇を持て余したアスカにからかわれるだけだ。
 ――それに
 シンジは何気なく空を眺める。
 建物や電線で切り取られてしまった地上からとは違い、屋上では見渡す限り何処までも青は広がり、雲は果てまで流れている。
 どうしても、考えたい事があった。
 皆から聞いて驚いた。一瞬、嘘かとまで思った。だって、冷静沈着で最も効率の良い手段を選ぶあの人がそこまでするなんて。
 レイが手にヤケドを負ってまで自分を救出しようとしたのだ。
 不思議と変な恥ずかしさが入り交じりながら、そのことでレイに謝ったら、
「いいのよ」
 別段何も変わってない、自分の知っているレイだった。
 そして、そのまま何の進展もなく同棲生活の幕は閉じた。影の使徒せん滅後、待っていたかのように零号機復旧作業が終了したのだ。
 つまりユニゾンシンクロの実験も終了となる。
 結局、ユニゾンシンクロって何だったんだろう。ミサトからの話だと、使徒から浸食後にユニゾンシンクロ率が最高潮に達したらしい。しかも、まるでアクション映画のような動きで使徒を倒したという話だ。。
 全く記憶に残っていない。気が付いたらネルフ専属病院のベットで横たわっていた。リツコは何か夢をみたかって質問してきたけれど、本当に全く覚えていない。寝て気が付いたら朝だった。そんな感じだ。
 ――ただ  
 空は移り変わる。雲は絶え間なく変化し、透き通った白い月は視界から消えていき、青は次第に果物が熟すように赤みがかっていく。
 それが俗に言う虫の知らせというのだろうか。
 なぜかシンジは立ち上がり、校庭に目をやった。
 そこにはレイがいた。
 制服姿で、こちらを向いて立ち止まっている。  
 ――感覚的なものだけは残っている
 シンジは、静かにレイを見つめながら心の中で云う。
 ――誰かのために、エヴァに乗りたいって思ったんだ


「なぜ、使徒の本体が影だと分かったの?」
 ネルフ本部の第二研究室で、ミサトとリツコはお茶をしていた。
 知識の面でリツコを上回ったのが嬉しいのか、もったいぶった口調でミサトはいった。
「影は夢よ」
「願望充足の表現・潜在意識の処理は、人間の影ということでしょ」
 ミサトが解釈を説明する前に、リツコが勝手に話し始めた。
「さっすが、リツコ博士」
「潜在意識、それは知らぬ間に生みだされた意識であり、最も素直な感情つまり願望。そして、それは自制心や社会によって押し込まれる感情」
「押し込まれる感情、それは己の影」
「だから、夢でカウンセリングが出来るのよ」
「夢、それは寝るときに見るものであり、そして望む将来でもある」 
「なるほどね……」
 リツコは珈琲をすすりながら、ちらりとミサトを見つめ、
「いい加減、素直になんなさい」
「はい?」
「加持君の事」
 いきなり、ミサトはユニゾンシンクロの資料を引っぱり出し、無理矢理話題を変えた。
「しかし2人共、一体どんな夢を見たのかしらねぇ」


 ――もう、いい。楽になりたい。
 このまま、そっと一人にして欲しい。
『本当にそうなの?』
 いきなり、ぼくではない別の声が割り込んできた。
 それは、音ではなく頭に直接語りかけてくる。
『死ぬのが怖いの?』
 怖い。
『世界に良いことはない?』
 ない。
『嘘』
 嘘?
『死を恐れると云うことは、生きたいと云う事。生きたい、それは明日に希望を持っている事』
 僕が希望を持っている?
『ただ、見えていないだけ』
 何が?
『目をつぶって……』
 ヤケドの傷跡が残るシンジの両手から、温もりとそして鼓動を感じる。
 目を開ける。
 そこには、手を両手で包んでくれている、レイの姿があった。
 死を覚悟したとき、全てを捨てたとき、一人ぼっちだと思った。
 けれども、教えてくれた笑顔の仕方。
 人がいるから笑顔になれる。
 誰かがいるから、笑える。笑顔になれたとき、もうひとりぼっちではない。
 支え合える人がいる。好意を寄せる人がいる。
 私はもう一人ではない。
 あなたが笑うと、私も笑える。
 あなたがいれば、私は変われる。
 レイは祈るように俯く。
 ――だから、碇君
 それから顔を上げ、静かに微笑えんで、
 ――笑って


 レイは視線を移す。シンジはその視線を追った。
 夕陽が沈んでいた。
 色様々だった第三新東京市まで赤一色に染めて、誰にも邪魔されず逆らわずに。
 シンジは夕陽をみつめる。
 目の向こうに悲しみも苦しみもなく、ただ、優しい温もりだけがそこにあった。
 レイもまた、同じ夕陽を静かにみつめていた。
 校庭と屋上。
 距離はあるけれど、2人の影は共にヤケド負った手を重ねるように並ぶ。

 そして、明日が来る東へと伸びていった。




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