夕暮れのラッシュアワーがようやく一段落しかけた時間帯。プラットホームに佇む僕は、
電話越しに聞くレイの言葉に思わず声をあげてしまった。
「ちょっと待ってよ……。あのレストラン、予約を取るのも大変なんだよ。だから今日だ
って何週間も前から予約してたのに……。それを当日になって突然キャンセルだなんて、
そんなのってないよ」
『ごめんなさい。でも、セナもミカもむずがってしまって、どうしても泣き止まないから』
「でも、そのために今日はベビーシッターの人に来てもらおうって決めたんじゃないか。
頼んでいた人はもう来てるんでしょ?」
『……ベビーシッターの人には帰ってもらったの。二人の様子を見ていたら、どうしても
他の人にはまかせておけなくて……』
「そんな……。今日の食事には、レイもいつも育児で大変だからたまには息抜きしてもら
おうって、そういう意味もあるのに……。それに僕だって、久しぶりに二人だけの時間を
過ごせるって、そう思ってたんだよ……」
『でも泣いているこの子たちを放っておいて、自分たちだけで楽しもうなんてできないわ』
「でも今日一日だけだし、それにレイだって、前から楽しみにしていた日じゃないか……」
『……』
「ねえ、レイ。今日はほんの少しだけ、セナとミカの事は忘れてもいいんじゃないかな。
まだ時間も間に合うしさ、もう一度頼んでいた人に来てもらって、それでレイはこっちに
おいでよ。僕、待ってるからさ。だって、覚えてるでしょ、今日は僕たちの……」
『シンジは、子供たちよりも自分の方が大切なの?』
更に説得の言葉を続けようとする僕を遮り発されたその声。あまり感情を露にしないレ
イにしては珍しく、そこからは、彼女が感じていると思しき苛立ちを確かに読み取ること
ができた。
『シンジは、自分が楽しければ、子供たちが泣いていてもいいの?』
「そんな……何もそういう言い方しなくてもいいじゃないか」
『……でも、シンジが言っているのはそういうことだわ』
「ち、違うよ。僕は別に、そんなことが言いたいんじゃなくて……」
『違わないわ。私には、シンジがそう言ってるようにしか取れない』
「そうじゃないよ。僕はただ、レイがいつも一生懸命頑張ってるから。だから、たまには
ご褒美としてリラックスした時間を過ごしてもいいんじゃないかって……」
『シンジ分かってない。私、別にご褒美なんてほしいと思ってないわ。育児は仕事でも、
義務からするものでもない。他の誰でもない私たちの子供だもの。親として愛情を注いで
上げるのは当然のことだわ』
「……そ、そんなこと……僕だって……」
特に深い考えもなく使ったご褒美という言葉。そしてそれに対するレイの反論。痛いと
ころを突かれているという自覚がある故に、言い返す言葉もつい弱々しいものになってし
まう。そして咄嗟に言葉を続けることが出来ず黙り込んでしまう僕に対し、レイは更に続
けた。
『……本当は、今日という日を一番楽しみたいのはあなたなんだわ』
「な、何だよ、それ……」
『私、別に外に出て食事がしたいわけじゃない……』
そう言い放つレイの、あまり抑揚のない声が酷く冷たいものに聞こえた。そしてそれと
は対照的に、自分の中では何かがカッと熱く迸る。それはレイの心ない一言に対する怒り
か、独り善がりになっていたことに対する羞恥の心か。
『私はただ……』
「もう、いいよ!」
もう、たくさんだった。その会話にも、自分にも、レイにも、それ以上耐えきれなかっ
た。だから僕はレイの言葉を無理矢理に遮ると、吐き捨てるように続けた。
「分かったよ、もういいよ。そっか、じゃあレイは僕よりも子供たちの方がずっと大切な
んだね。よく分かりました。なら勝手にすればいいだろ。悪かったね、無理に誘ったりし
て。じゃあね!」
結婚して1年。双子の女の子にも恵まれ、夫婦仲も良好。僕たちはそれまで、どこから
みても順調な結婚生活というやつを過ごしていた。だからそれが、結婚以来口論すること
もほとんどなかった僕たちにとっての、初めて経験する大きな喧嘩の始まりだった。
レストランにキャンセルの電話を入れた後、暗い気持ちのまま馴染みのバーへ行き、も
う何杯目か思い出せないカクテルを一気に呷る。何の気なしにミント・ジュレップを注文
してしまった後で、ジュレップの元々の使用用途を思い出し、僕は軽く顔を顰めた。
本当なら、今頃は二人で楽しい時間を過ごしているはずなのに。そんな思いで時計を見
ると、まだ店に入って三十分も経っていないのに気づく。まったく、楽しい時間は矢のよ
うな早さで過ぎていくというのに、こうした時間はどうして鉛のような重さでいつまでも
そこに澱みつづけるのだろう。
流れていかない時間と、思い描いていたのとは全く違う展開になってしまった今日とい
う日。自分ではどうすることもできない事柄に、思わず溜息が漏れる。
(今日は、僕たちの初めての結婚記念日なのに……)
ささやかながら二人でお祝いをしようと、柄にもなく雑誌で高級レストランのリストを
眺め、慣れないテーブルマナーを本で確認する。食事の後でレイを驚かせようと、いろい
ろなプレゼントの候補を頭の中で思い描く。そんなことをしていると時間が経つのも忘れ
てしまうくらい、今晩のことは待ちわびていた。それに、一週間ほど前にレイにその話を
した時は、レイだって嬉しそうに顔をほころばせていた。それなのに……。
「……ふう」
普段よりもずっと早いペースでグラスを空にしていき、その都度次の一杯を即座に注文
する。でも、いくら飲んでも全く酔うことが出来ない。それどころか、胃の中を伝ってい
くアルコールの量に比例するかのように、僕の中にどこか暗くモヤモヤしたものが溜まっ
ていくようだった。
(ずっと、楽しみにしていたのに……)
今回のささやかなデートは、僕自身ずっと心待ちにしていたイベントだった。何故って、
子供が生まれてからというもの、レイと二人っきりで過ごせる時間は、ほとんどないと言
っていいくらいに少ないものだったから。
日中はレイが家で育児をする一方で、僕は外に仕事に出る。家に帰ってからは、子供に
哺乳ビンでミルクを与えたり、おしめを取り替えたり。時には、夜泣きをする子供たちを
あやすレイを、眠い目をこすりながら助けたりすることもある。
子供が生まれて以来、僕たちはいつもあの子たちの父親と母親で在り続けることを求め
られていた。でも結婚記念日という特別な日くらいには、育児に追われる日常の中で見失
いかけた、夫と妻としての自分たちを再確認してもいいのではないか。そう思っていた。
(でも、レイは違うのかな……)
グラスの中で、氷がカランと澄んだ音を立てる。
(子供たちより自分の方が大切なの、か……)
育児はおままごとではない。楽しいこと、心温まることももちろんあるけれど、その裏
にはそれと同じくらい辛いこと、苦しいことが確かに存在する。
僕だって人間だから、そんな時間が全く苦痛ではないといったら嘘になる。けれど、そ
れを嫌だとか煩わしいとか、そんな風に思っていたわけでは決してない。レイが言った通
り、あの子たちは僕たち二人の子供なのだ。自分の子供たちを愛していないわけがない。
優劣をつけるものではないけれど、その気持ちは実際にお腹を痛めたレイにだって負けな
い。
そう、思っていた。それだけに、あの一言は堪えた。
(でも、結局はレイの言った通りなのかな……)
本当は、レイにかこつけてその日を一番楽しみたかったのは自分なのだろうか。育児と
いう現実から一時的にでも逃れたかったのは僕自身なのだろうか。レイはそれを鋭く見破
ったから、普段の彼女からは信じられないような強い言葉を口にしたのだろうか。
(……でも、だからって、あんな言い方しなくてもいいじゃないか)
その事実を認めつつある反面で、そんな思いをどうしても捨てきれない。
『私、別に外に出て食事がしたいわけじゃない……』
あの一言が、鋭い棘と共に僕の心に重くのしかかり、ジンジンと鈍い痛みを絶え間なく
送り続ける。
昔からそういうところがあったけれど、時としてレイは自分の思ったことを素直に口に
出しすぎる。そしてそれらは彼女の純粋な思いから発された言葉であるが故に、その鋭い
切っ先で人の心の触れてほしくない部分を残酷に抉り出すのだ。
昔に比べればずいぶんと周りに気を使うようになったレイ。けれど、そうした言葉をス
トレートに発してしまうことが完全になくなってしまったわけではない。特に、最も近い
関係にある僕に対しては度々そうしたことがあり、それが軽い喧嘩の火種になることもあ
った。
でも、それまでそうした火種が本格的な火事へと発展してしまったことは一度もなかっ
たというのも事実。言い過ぎた自分に気づくと、レイは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口
にしたし、僕はそんなレイをそっと抱きしめて、軽いキスをして、それで今まで全てがう
まくいっていたから。
(今、レイはどんな気持ちなんだろう……)
レイも、あんなこと言って悪かったと思っているだろうか。僕と同じように、相手に謝
りたいと思っているだろうか。
(……そう、だよ。きっとそうに違いないよ。今までだってそうだったじゃないか。喧嘩
になりかけたことは何度もあったけど、その度に、どちらかが必ず謝って、それでもう一
方も言い過ぎたって謝って、それで何の問題もなかったじゃないか。今度だって、きっと
そうなるよ)
一旦そう思い始めると、いてもたってもいられない。そうだ、一人で暗く酒なんか飲ん
でいる場合じゃないぞ。僕はさっさと会計を済ませると、飛びこむようにして電車に乗り
こみ、降りた駅からの少しの距離を走り家路を急いだ。普段はそんなことを感じないのに、
今日はエレベーターが上昇するのがやけに遅く感じられる。ようやく目的階に辿りつくと、
小走りで廊下を進み、部屋のドアの前で焦りながらポケットをまさぐり、手にしたキーを
差し込む。
「ただいま……」
「あ、シンジ……」
ドアを開くと奥の方でそんな声がし、玄関のランプがついた。
リビングからパタパタと出てきたレイにどう声をかけたものか、どんな言葉で会話を始
めたらいいのか。それが分からなかったのは、きっとレイも同じだったのだろう。お互い、
つい先程のやり取りがあったが故に咄嗟に言葉が出てこず、僕たち二人は視線をあらぬ方
向へと彷徨わせながら玄関先に佇む。その結果漂うぎこちない沈黙が不快なものへと変化
しかけた頃、先に口を開いたのはレイの方だった。
「……あの……食事にする? お風呂にする?」
「……」
どうしてその何でもない一言が、それほどまでに深く僕の心に突き刺さったというのか。
どうしてその言葉が、僕の心に一瞬の空白と、言いようもない寂しさと虚しさを巻き起こ
したのか。
ただ僕は、レイのその言葉に対し視線を上げ、少し戸惑ったような困ったような色を湛
えている彼女の深紅の瞳を見つめた。するとそんな僕の反応に対し、一瞬の間があってか
らレイは、彼女にしては珍しく、しまったという感情をはっきりと表情に出した。
「あ……。あの、私……」
結婚前から、そんな普通の夫婦の会話というやつに憧れていたレイは、僕が帰るといつ
もそれを尋ねるのが常だった。だから今日も、ついいつもの習慣でその言葉を発してしま
ったのかもしれない。おそらくそこには、意図的な悪意があるわけではない。
心の片隅ではそのことに気づいている自分がいた。けれど、いつもは僕の顔に微笑を運
んでくるその問いかけも、その日ばかりは僕の心を頑なにするものだった。あれだけ楽し
みにしていた食事をキャンセルしたのは君じゃないか。それなのに、出会い頭の言葉は謝
罪のそれではなく、“食事にする?”だって?
バーで一人で過ごした時間に溜まっていった、あの暗くドロドロとした澱み。それが僕
の中で一気に蘇り、心の中が急激に覆われていくような感覚を覚えた。
「……食事は一人で取ってきたからいい。お風呂もいらない。もう……寝るから……」
わざわざ、一人で、という言葉を使った自分は酷く嫌な言い方をしている。自分でもそ
の自覚はあった。でもだからといって、そんな自分の非を認める気にはとてもなれなかっ
たし、レイに謝ろうという気持ちもどこかに吹き飛んでいた。
僕は僕なりに、レイの言葉に傷ついていたから。
「あ、あの……」
そんな僕の後ろを、何か言いたげな様子でレイは付いてきたけれど、僕はそれを無視し
て手早く着替えると、さっさとベッドに潜りこんだ。なんだか自分が情けなかった。あん
なに楽しみにして、あんなにいろいろと準備をしたというのに、それが水泡に帰するのは、
ほんの数分の会話で、いとも簡単に済んでしまう。何より、あんなにあっさり今日という
日を諦められるレイと、自分の間の温度差がひどく悲しかった。
しばらくしてレイも布団の中に入ってきたけれど、僕は一晩中背を向けたままで、寝返
りを打つことは一度もなかった。僕が眠りに落ちるまでの間、レイはずっと僕の背中を見
つめていたように思う。例え実際に目にはしていなくても、気配というものでなんとなく
それが分かる。けれど、自分の心に突き刺さったままの、数々の棘のある言葉をどうして
も抜き取ることが出来なかった僕は、とてもそれに応える気にはなれなかった。
一人で過ごしたバーでの時間と同じで、そうした夜が、酷く長く感じられてしょうがな
いのはどうしてなんだろう。
それから数日間、僕たちの会話は氷点下の日の吹きすさぶ風を思わせるほどに凍てつい
ていた。
「おかえりなさい、シンジ。ご飯にする? お風呂にする?」
「どっちもいらない。もう寝る」
「シンジ、今日はシンジの好きな……」
「外で食べてきたから、必要ないよ」
「あの、夕飯……」
「明日仕事早いんだ。軽く食べてきたし、今日はシャワーだけ浴びて寝る」
「……あ、それと、今度の土曜はちょっと外に出てくる。夕飯は外で済ませるつもりだか
ら、用意する必要ないからね」
「……そう」
数ヶ月前から僕たちの間では、レイの負担を少しでも軽減するために、基本的に朝食は
僕が作るという取り決めがなされていた。元々レイは朝が弱いというのもあるし、加えて
家の子は夜泣きが激しいため、ほとんど毎晩のようにそれをあやすレイにとって、朝早く
に起きるのは簡単なことではないからだ。だから用意された朝食をレイが取るのは、大抵
僕が家を出た後になる。そんな状況では、二人がきちんと顔を合わせ、僕がレイの作った
ものを食べる機会は当然夕飯の時しかないということになる。でも僕は、自らその機会を
絶ち切ったのだ。
僕が拒絶の言葉を口にする度、レイはひどく悲しげな表情を浮かべたけれど、僕はそれ
にすら気づかない振りをした。自分でもそんな自分が嫌だったし、普段ならこんなに執念
深くなることもなかっただろう。けれど、あの約束は僕自身本当に楽しみにしていたもの
だったこと、そしてその後のレイとのやりとりもあったから、どうしても簡単に水に流す
ことができなかった。あの時僕が味わった思いをレイも少しは経験すればいい。そんな醜
い思いに僕の心は支配されていた。
「それでや、土曜にずっと家にいるのは気まずいからて、嘘ついてまで外に出て、ワシん
とこに転がりこんどるっちゅうんかい」
「ゴメン。夕食までご馳走になっちゃって、おまけにこんなに遅い時間まで居座って……。
やっぱり、急にこんなこと話されても迷惑だったかな。……でも、トウジと委員長以外に
こういう愚痴が言えそうな友達がいなくて……」
そう言って、テーブルの向かいのトウジと、その脇に座る委員長の様子を伺う。
僕とレイよりも少し早く結婚し、今は生後十ヶ月になる女の子がいる二人。昔からの縁、
そして置かれている状況がよく似ていることもあり、トウジ夫婦とは家族ぐるみの付き合
いだった。お茶に呼ばれて相手の家にお邪魔したり、そのお返しに招待したり。育児や結
婚後のことについて委員長から受けたアドバイスはとても有効なものだったし、また、ト
ウジと二人で飲みに出かけ、お互いパートナーの前では言いにくい事を言って笑ったこと
もある。
そんな経緯があるから、一日中一人で街をブラブラしたあげく、結局この二人のところ
にやってきたのは、僕にとって当然の帰結だったのかもしれない。
「まあ、そう言うなや。別に家に来るんはええんや。愚痴を言うのもかまへん。迷える子
羊を救ったるんは、結婚生活の先輩としてもやぶさかやないからな」
「トウジの言う通りよ。そんなことよりも、気にしなきゃいけないのは碇君とレイさんが
喧嘩中ってことじゃない」
冗談めかした口調だけれど、その目にはひどく真剣な光を宿らせているトウジ。そして、
本当に心配しているのがよく分かる表情で、トウジの言葉をフォローする委員長。
二人とも、まるで自分のことのような真剣さで話を聞いてくれている。それがよく分か
るから、僕も自然と本心を曝け出すことができる。
「うん、でも、ほんのちょっとした喧嘩だからさ。そんなに心配することもないのかもし
れないよね。ただ、こういうのって僕たち初めてだからさ……」
「あかんあかん。どんな夫婦でも最初の亀裂は何でもない喧嘩から始まるもんやで。それ
が時が経つに連れて段々大きくなりよって、気がついた時にはもう手遅れ。ジ・エンドや」
「お、脅かさないでよ」
「脅かしやないで。夫婦にしろ友達にしろ、相手のことが気遣えなくなったら、そら人間
関係黄色信号や。特にシンジんとこは、夜泣きやら何やらで一番ストレス溜まる時期やな
いか。そんな時におまえが綾波の気持ち考えて、しっかりと支えてやらんでどないすんね
ん」
「……そんなの……分かってるよ……」
トウジのやや責めるような口調に、つい視線を逸らしてそんなことをブツブツと呟く僕。
それに対し、委員長が会話に入ってくる。
「でも碇君。今回のことは、もちろん碇君も楽しみにしてたんだろうけど、それ以上に、
レイさんが楽しみにしてなかったはずはないと思うんだけど」
「……でも、約束を断ってきたのはレイの方なんだよ……」
「そら、綾波かて何か事情があったのかも知れへんやないか。おまえその辺の話は聞いた
んか?」
「……いや、子供がぐずってるって言ってたけど、詳しくは……。その一件以来、ほとん
どレイと口きいてないし……」
「ああ、そらあかん。おまえが悪い。問題外や」
「で、でも、納得いかないのはさ、なんで、あんな傷つくようなことまで言われなきゃい
けないんだってことなんだ。自分と子供たちとどっちを大事に思ってるかなんて、そんな
こと言わなくたって……。それに“食事にする?”はあんまりだよ……」
あの電話越しの、何かに苛立ったようなレイの口調。そして、外に出て食事がしたいわ
けじゃないと言い放つその冷たさ。そうした事柄を思いだし、二人の前にもかかわらず僕
は軽く眉を顰めた。
そんな僕に対し、少しトウジと顔を見合わせた後で、委員長がゆっくりと語り始める。
「どういう事情があってレイさんがそんなことを言ったのか、はっきりとは分からないけ
れど……。でもね、碇君。私は思うんだけど、レイさんの感じている苦労の中には、やっ
ぱり碇君には分からない部分があると思うの。だって、考えてもみて。男の人って、仕事
だとか付き合いとかで外に出る機会もたくさんあると思うけれど、女性の場合はそうもい
かないでしょう。基本的にずっと家の中にいて、子供の世話にかかりっきりで。いくら自
分の子供だっていっても、それってすごくストレスが溜まることなのよ。特に碇君のとこ
ろは双子でしょう。レイさんの苦労は並大抵じゃないはずよ」
「……」
「私も少しだけ経験あるんだけど……。軽い育児ノイローゼっていうのかな。育児期間中
って、どうしてもイライラが溜まってしまって、ついつい周りに当たってしまうことがあ
るの。何でもないことがキッカケで、後から考えてみればほんの些細なことなのに、どう
して自分はあんなこと言ったんだろうって思うようなことを言ってしまうのよね。後です
ごく後悔するんだけど、でもいざその場にいると、中々自分がコントロールできないのよ」
「せやせや、そんな時のヒカリのヒステリーときたら、通常時に比べて当社比2.5倍や
ったな。なはははは」
「うるさい! 真面目な話してるときに茶化さないでよ、あなたは!!」
「ぬあ……。す、すまん……」
バンッとテーブルを叩き大きな声を上げる委員長の剣幕に、ビクッと震え、本気で驚く
トウジと僕。でもすぐに委員長の表情には笑みが戻り、少し照れたような口調で続ける。
「……なんていう風に、何でもない冗談にも過敏に反応したりね。やっぱり自分の旦那だ
からかな。どっかで甘えと期待があるのかもしれない。そんな自分のイライラも、この人
なら受けとめてくれるんじゃないか、理解してくれるんじゃないかって……。あまり表に
は出さないのかもしれないけれど、レイさんもストレスが溜まっている部分が絶対にある
と思う。だって、普段のレイさんって絶対にそういうことを言う人じゃないでしょう」
「うん……それは、僕も変だなとは思ってたんだけど……」
「ね、そうでしょう。ねえ、碇君。そういう不安定な時期に一番大切なことって何だか分
かる?」
「……夫の理解とサポート……だよね」
「そう、これは本当にそうなのよ。初めての出産、未体験の育児ってとっても不安になっ
てしまうものなの。だから、そういうとき傍にいてくれる人、甘えられる人がいるってい
うのは、すごく大きなことなのよ。別にのろけるわけじゃないけれど、私も精神的に辛い
時期にはこの人にいろいろ支えてもらって、それがどれだけ助けになったことか」
「む……。なんや、人前でそないなこと言わんでもええんや」
そう呟いて照れたようにそっぽを向くトウジを横目でチラリと見つめると、微かな微笑
を浮かべた委員長が更に話を続ける。
「もちろん私には、レイさんの気持ちが完全に分かるわけじゃないわ。それに私は碇君の
視点からの話を聞いただけだから、ひょっとしたら私の言っていることは全然的外れなの
かもしれない。でも、碇君の方ももう少しレイさんに理解を示してあげてもいいんじゃな
いかなって、そんな気がする。碇君が帰ってきてからの一言だって、レイさんきっと謝り
たかったんだけど、どう切り出したらいいのか分からなくて、キッカケを探す内につい口
から滑り出てしまったのかもしれないじゃない。レイさんに悪意があったわけじゃないっ
ていうのは、碇君も分かっているんでしょう?」
「……うん……それは……まあ……」
「しかしなんやなあ、さっきからシンジの話聞いとると、おまえらの問題は、ちょっとし
たボタンの掛け違いから始まったことに思えてしゃあないわ。……けどなシンジ。それも
そのままほっといたら、どんどん歯車狂っていくだけやで。気づいたらどうにもならんこ
とになっとった。そないことになったら、悔やんでも悔やみきれんやろが」
「……うん……そうだよね……」
「せやろ。それが分かったんやったら、おまえが今いるべき場所はここやないっちゅうの
も分かるはずやな?」
「……うん」
「……ま、結局はキッカケなんやな。シンジかて、綾波が謝りたい思うとるのには気づい
とるし、綾波に悪いことしとるっちゅう気持ちも本当は持っとるんや。せやけど、シンジ
はこれで意外に意地っ張りやからな。素直にすまんが言えんかったんやろ。そんな中で、
何か謝るキッカケがほしかった。せやからここに来た。そうやないか?」
「……そう……かもしれない……」
「うん、きっとそうよ。だって、一番大事な人と暮らす場所が、そんなギスギスした雰囲
気のままでいいはずがないもの。やっぱり自分が帰っていく所には幸せが溢れる場所であ
ってほしいじゃない。レイさんはそう望んでいるはずだし、それは碇君だって同じのはず
だもの」
そう言って優しい笑顔を僕に向ける委員長と、その脇で穏やかな笑みを浮かべるトウジ
の姿を正視できなくて、僕はつい視線を落としてしまった。
「……はぁ、なんか僕ってダメな奴だね。僕がもうちょっと広い心を持っていれば、きっ
とすぐに解決できたはずの問題なのに。それなのに僕は自分のことばかりで、そのせいで
変にムキになって、お互い嫌な思いをして……」
「あ〜、あかんあかん。シンジ、それはあかんで。そうやってどんどん暗い方にはまって
いくんはシンジの悪い癖や。難しいことガタガタ考えんと、はよう綾波のところに帰って、
すまんかった言うて頭下げんかい。一人で反省会やるんはそれからやろが」
「うん……。そうだね、ゴメン」
「もう、トウジは少し黙りなさいよ。碇君やレイさんは、私たちと違って繊細でデリカシ
ーがある人たちなんだから。碇君があなたみたいに土下座して平謝りすればいいってもん
じゃないのよ」
「ワ、ワシがいつそないなことしたっちゅうんや! シンジの前で妙なこと言うなや」
「あら、碇君の前で先週の話をしてもいいの?」
「ぐ……。お、おまえはそういう家庭の内情をばらすんやない」
「あ〜うるさい、今はあなたの相手してる場合じゃないの。ごめんなさいね、バカなトウ
ジで。それはそうと碇君、レイさんによろしくね。もう少ししたら家で食事会でも開きま
しょう。実はね、碇君の家の子供たちが家の子の友達になってくれたら素敵だろうなって、
トウジとも話していたの。だから、そのときはレイさんと一緒に、ね? 待ってるから」
「うん、ありがとう。約束する」
「お、やっと笑うたなシンジ。まあ、礼なんて言わんでもええんや。ワシらの話が少しで
も参考になったらそれが一番嬉しいことやからな。ほなら綾波によろしくな」
「うん、今日は本当にありがとう、トウジ、委員長」
玄関先まで見送りに出てくれた二人に笑顔で手を振ると、僕は自分の部屋へと歩み出す。
家へと向かうその道すがら、トウジには止めろと言われていたけれど、僕はどうしても
今回のことについて考えずにはいられなかった。
トウジの言った通り、今回の事の起こりは、ほんの少しの気持ちのすれ違いからだった
のかもしれない。もしレイがもう少し言葉を選んでいたならば、僕の反応も違ったものに
なっていただろう。そして僕が変に意地を張らずに、レイと言葉を交わすのを拒否しなか
ったなら、こんなにまで状況がこじれることもなかっただろう。
きっとレイは、あの電話での会話で僕を傷つけたということに気がついていた。そして
トウジのいう通り、僕はレイのその気持ちに気がついていた。気がついていて、その上で
レイと向き合うのを拒否し、その心を傷つけた。
その結果として、いつもそこへ帰るのを心待ちにしていたはずの我が家が、ここ数日は、
墓場のような陰気さに覆われ、独房に閉じ込められているかのような圧迫感に息が詰まり
そうな場所へと変貌していたのだ。
(僕は……バカだ……)
他人を思いやる心。相手の立場になって考えるということ。ほんのちょっとしたこと、
小さな子供でも知っていること。けれどそれだけに大事なことであり、忘れてはならない
こと。でもどうしてそうした事柄は、時として簡単に人の心から抜け落ちてしまうのだろ
う。
あのレイの悲しげな顔が鮮明なイメージと共に脳裏に蘇る。
そんな当たり前のことを忘れてしまう僕を、あんなひどいやり方で彼女を傷つけた僕を、
レイは許してくれるだろうか。あの部屋は、僕たちがまた一緒に笑いあえる幸せな場所に
戻るだろうか……。
「ただいま……」
一声かけて部屋に入った僕は、すぐにその異変に気がついた。もうとっくに日も暮れた
というのに、リビングにもダイニングにも明かりは灯されていなかったのだ。
(あれ……? レイはどこかに出かけたのかな?)
でも、特に外出するという話は聞いていないし、子供たちを置いてレイがどこかに行け
るはずもない。一瞬“子供を連れて実家に帰らせていただきます”というありがちなパタ
ーンが思い浮かんだけれど、レイにも僕にも帰る家はここ以外にない。それに何より、玄
関先にはレイの靴が確かにあった。
(一体どうしたんだろう……)
何か嬉しくないことでもあったのだろうかと、加速度的にこみ上げてくる不安と共に、
僕は真っ暗な部屋の中、手探りでリビングの電灯のスイッチを入れた。
「わ! な、なんだレイ、いるんじゃないか」
すぐ脇のテーブルに突っ伏すようにしてうずくまっている何かに、思わず驚きの声をあ
げてしまう。けれど、落ち着いてよく見てみるとそれはレイだった。
「ん? レイ、お酒飲んでたの?」
テーブルにはウイスキーのボトルにグラス、そして、もう水しか入っていない氷入れ。
自分で買ってきてから四分の一程度しか飲んでいなかったそのボトルも、今では、底の方
に単褐色の液体がほんの少し残っているだけだった。
「ん〜? シンジ帰ったのぉ?」
むっくりと起き上がってそう言うレイは、明らかに呂律が回っていない。頬は真っ赤に
紅潮し、僕を見つめる充血した目の焦点も全く合っていなかった。
「帰ったのぉじゃないよ。一体どうしたんだよ。こんなになるまで飲んで」
「……ほっといて」
「え?」
「シンジは私のことなんてどうでもいいの。だから私もシンジのことなんか知らない。シ
ンジにはもう夕飯なんか……絶対に作ってあげない……。それで、私……これからも……
ぅ……ずっと独りで……うぇ……」
「ちょ、ちょっと泣かないでよ」
お酒は弱いくせに、僕がいない間ずっとストレートで飲んでいたとおぼしきレイ。その
せいでレイは、その時にはもう、これ以上ないくらい完全に出来あがっていた。
「取りあえず、ほら、ちょっと横になろうよ」
そんな風に声をかけて、まだぐずっているレイを立たせて寝室まで連れていこうと、震
える肩に手を置く。するとその体がビクッと反応した。
「……ぐしゅ……触らないで……」
「え?」
「シンジ、大嫌い……」
「レ、レイ……」
「シンジなんか、大嫌い……」
「な、何言ってるんだよ。ほら、いいからおいで」
そう言って半ば無理矢理にその体を抱えて連れて行こうとすると、レイはイヤイヤをす
るように体を捩り激しく抵抗した。
「や、触らないで。シンジのバカ、あっちに行って」
「ちょ、ちょっとレイ。そんなに腕を振りまわさないでよ」
どうあってもその指図には従わないとばかりに、僕の手から逃れようとするレイ。でも
しばし揉み合っている内に、暴れまわるレイの動きが徐々に収まっていき、今度は不自然
なくらいにピタリとその動きを止めてしまう。
「あ、あれ、レイ?」
「……ぅ……シンジ……気持ち……悪い……」
右手で口を抑えるレイに気づくのと、大急ぎでその体を抱えあげてトイレに駆けこむの
はほぼ同時だった。
自分の手の中で、拭かれている食器がキュッキュッとリズミカルな音を立てる。そうい
えば、結婚してからは台所に立ってこんな風に食器を片付けることもあまりなかったと思
い出す。家事をするのは昔から嫌いではなかったけれど、二人で暮らすようになってから
は、レイがそうした台所でのことを積極的にやりたがったこともあり、こうした仕事とは
長い間ご無沙汰だったのだ。
「よし、終わり」
最後の一枚を洗い終わりそれを食器棚に入れてしまった後、誰にともなくそんな掛け声
をかけた。戸締りをチェックしてリビングの電気を消し、ベビーベッドの中でセナとミカ
がすやすやと眠っているのを確認してから、自分もベッドへと潜りこむ。すぐ脇で僕に背
を向けるようにして眠るレイは、先程までの取り乱し方が信じられないくらいに、安らか
な寝息を立てていた。
「……ゴメンね、レイ」
レイと一緒になって横になった僕は、そっとその蒼銀の髪を撫でる。ひとしきり吐いて
しまってから、まだグッタリしているレイを抱き上げ、パジャマへと着替えさせた後にベ
ッドへ横たえたのは先程のことだった。
さして抵抗することもなく僕に布団を掛けられたレイは、吐いた後特有のやや青ざめた
顔で、ポツリポツリと語り出した。
レイ自身、内心あの日はとても楽しみにしていたこと。だから、断りの電話を入れるの
はずいぶん迷ったし辛かったこと。でもやってきたベビーシッターが、どうにもがさつそ
うで、どうしても子供たちを預けるのが不安だったこと。
本当は自分でも楽しみにしていたのだから、それを断りたいなどと思うはずもない。け
れど、どうにか泣き止んでくれないかと必死になって子供をあやしても全く効果はなく、
約束の時間は迫りくるばかり。そんな切迫感と下がることのない泣き声のボリュームに、
レイの目には涙が滲んできたらしい。
そんなことがあった後だったから、あの電話でレイは、理不尽だとは思いつつも、自分
が置かれたそうした事情と辛い思いをどうして分かってくれないのかという思いが、自ら
の中から沸きあがってくるのを止められなかった。それに加えて、日頃から積もりに積も
った育児のストレスも相俟ってのことだろう。あんな、普段のレイからは考えられないキ
ツイ物の言い方になってしまったのだ。
僕との会話の後で、レイはすぐに後悔したらしい。ただ、謝るにもタイミングというや
つがあるわけで。自らの失言でそれを逃してしまったレイは、へそを曲げてしまった僕の
様子と、初めて経験する大きな夫婦喧嘩に、どうしていいのか分からなかったのだ。
「レイは僕と同じで内に篭っちゃうタイプだものね……」
だから少し辛いことがあっても、グッと我慢して、自分の中に溜め込んで。でも、僕の
素っ気無い態度はあまりにも辛かったから。だから飲めもしないお酒を飲んで。
いくら酔っ払っていたとはいえ、あまり感情を表に出さないレイがあんなことを言うな
んて、よっぽどストレスが溜まっていたに違いない。
そしてあの、少し充血して、腫れぼったくなっていた瞳。僕がいない間に零れ落ちてい
たであろう涙とその痕は、レイが感じていた孤独と悲しみを、何よりも雄弁に物語ってい
るように思えた。
きっと委員長の言う通りなんだ。レイは、僕が仕事に出ている間、ずっと子供たちの世
話に追われて、気分転換もあまりできずに、かといって誰にもそのストレスをぶつけるこ
とができなくて。
そんなレイにとっては、僕との食事の時間はとても心安らぐ一時だったに違いない。で
もそんな束の間の休息すらもレイは奪われてしまった。いや、僕がそれを奪ってしまった。
そんな時、レイはリビングのテーブルでたった一人で夕飯を食べて、そして眠りにつく
までの長い夜を、一体どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。
そっと、その蒼銀の髪を指に絡めてみる。
「ダメだよね。そんなことも気づいてあげられないなんて……。ううん、本当は気づいて
いたんだ。気づいていたけれど、僕はレイを気遣う心を忘れて、自分の中の感情の流れに
身を任せてしまったんだ……。ゴメンね、辛い思いをさせて……。レイには他にどこにも
行くところがないのに、僕はこの家を、レイにとってそこにいること自体辛い場所にして
しまったんだね。何だか自分が嫌になるよ。僕はレイのパートナーとして失格だよね」
「……そんなことない」
突然ポツリとそう呟くと、レイはゆっくりと寝返りを打ち僕のほうへとその顔を向けた。
「レイ……。ゴメン、起こしちゃったかな」
「……いい」
「あのね、レイ……。僕レイに言わなきゃならないことが……」
「いいの……」
「……え?」
「シンジ、謝らないで……」
「でも、レイ……」
「シンジは悪くないわ……」
「……! そんなこと……」
思わず声のトーンを上げ反論しようとする僕の口を、レイは自らの手でそっと塞いだ。
「きっと、誰が悪いわけじゃない……。ただ、誰かを想う心が少しすれ違ってしまっただ
け……」
「レイ……」
「だから、謝らないで、シンジ……」
「でも……僕、レイにひどいこと……」
「いいの……。私、シンジがこうして私と話をしてくれるだけでいい。シンジが、一緒に
食事をしてくれるだけでいいの……」
ささやくような声でそう言うレイ。そしてその紅い瞳から、すっと一筋涙が零れ落ちた。
「……レイ……僕……」
自らの胸から溢れ出る想いをどう表現したらいいのか、どんな言葉を使ってそれを彼女
に伝えたらいいのか。それが分からないまま、ただ何か言葉を口にしようとして、自らの
内からこみあげるものに喉がすっかり馬鹿になってしまっているのに気がついた僕は、結
局何も言えず、ただレイを抱きしめた。
何故自分は泣いているのだろう。僕にはそれがよく分からなかった。ただ早くレイに会
いたくて、ゴメンが言いたくて、それだけを胸に家までの道を走ってきたというのに。い
ざレイとこうして向き合ってみれば、押し寄せてくるのは、後悔と悲しみとどうしようも
なく溢れ出すばかりの涙で。そしてそれに翻弄されるばかりの僕は、自分の気持ちをどう
しても言葉にできなくて。
そんな中で僕は、自分の首に回された、包み込まれるように柔かなレイの腕の感触に、
何の脈絡もなくそれに気がついた。
(ああ、きっとそうなんだ……)
『私、別に外に出て食事がしたいわけじゃない……』
『私はただ……』
あの時のレイの言葉。きっとレイはこう言いたかったに違いない。
私はただ、あなたと一緒に食事を取ることができれば、それがどこであろうと十分幸せ
なんだ、って。
(そうだね、そうだよね、レイ……)
例え高級レストランになんか行かなくても、少し気取った衣装で身を包まなくても、あ
のさして広くもないリビングの、大して大きくもないテーブルで二人で取る食事のほうが、
僕たちにとってはずっとずっと大切なものなんだから。
「ねえ、本当にいいの、シンジ?」
「いいの、いいの。レイはのんびりしてなよ。それに結婚してからこういう風に本格的な
料理したのは久しぶりだったから、何だか僕も楽しかったよ。ちょっとミサトさんの部屋
にいた頃を思い出すな」
後ろ手にエプロンを解きながら笑顔で返す。
毎週日曜は子供の世話と家事全般を僕がやるから、その日はレイが主婦を休む日にしよ
う。突然そんなことを申し出た僕に対し、レイは多少戸惑いつつも大人しくソファーに腰
掛けていた。
ひどく場当たり的な発想だと自分でも思う。仕事の都合でそうもいかないときもあるだ
ろうし、レイだって子供の世話を全くしないというわけにもいかないだろう。けれど、レ
イにもう少し余裕ができるまでは、事情が許す限りそれを続けていこう。僕はそう提案し
たのだ。
レイを支えていく。言葉にすればたった一言だけれど、それにはいろいろな形があるの
だと思う。今回の件でよく分かったように、それは必ずしもレイの負担を減らすというこ
とを意味するわけではないし、“相手のためになっている”と自分では気づかないような
ことでも、実はそれが相手にとっては大事なことだったりもする。
けれど、心配性で少し不器用な僕は、こうした目に見えやすい形でもレイを助けていき
たいと、そう感じたのだ。
「ねえ、レイ。今日は天気がいいからさ。後でみんなで散歩に行こう。お日様の光が暖か
そうだし、風もあるからきっと気持ちいいよ」
一瞬キョトンと僕を見つめたレイの顔に、すぐに幸せそうな微笑みが浮かぶ。
そんな様子を見ながら、ふと僕は思った。結婚生活を乗りきる羅針盤というやつはまだ
誰も見つけていないらしい。けれど、羅針盤で示せるようなハッキリとした目的地など、
結婚生活には存在しないのではないだろうか。
時折迷子になることもあるだろう。進んでいく道が見えなくなることもあるだろう。で
もそんなときは、長い道程を二人で歩み始めたその出発点に戻り、また新たな道を二人で
探し始めればいいのではないだろうか。
そして、僕にとっての出発点であり、何かに思い悩んだとき帰ってくる場所。きっとそ
れは、ドアを開けたときの淡いランプの光、奥のほうから漂ってくる美味しそうな匂い、
そして、笑顔と共に僕を出迎える君。そんな幸せが一杯につまっている我が家ではないの
だろうか。
だから僕は、玄関先で僕を出迎えるレイに、これからも笑顔で言おうと思うのだ。
「シンジ、おかえりなさい。夕飯にする? お風呂にする?」
「ん〜、そうだなあ、今日は……」
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