それは草木も眠る丑三つ時……とはいかぬまでも、日付がもうそろそろ変わろうかとい
う時間帯のことでした。

「おしっこ……」

 そんなことを呟いて、二段ベッドの下からもそもそと這い出したのは、御年6才、碇家
に君臨するお姫様の一人にして、小学校に入ったばかりの小さなレディ、碇ミカ嬢でした。

 上で眠っている双子のお姉ちゃんのセナちゃんに誘われて、寝る前に飲んだオレンジジ
ュースがよくなかったのでしょうか。真夜中にもかかわらず、何かむずむずする感触に目
が覚めてしまったミカちゃん。少々寝癖のついたパパ譲りの黒髪をそのままに、眠い目を
こすりつつ、トコトコとお手洗いに向かうその姿は、どこか微笑ましいものでした。

(ぁぅ……)

 ところが、目の前に広がる光景に、ミカちゃんの足がピタリと止まりました。おトイレ
に行くためには、電気のついていない薄暗い廊下を通って行かなければなりません。それ
は、ほんの数メートルの、普段なら何ということもない距離。でもその短い廊下も、この
日ばかりはミカちゃんにとって、とても長く、そしてひどく不気味なものに思えたのです。

 その日の夜、家族みんなで見た怪奇特集番組。甘えっ子で怖がりのミカちゃんは、ずっ
とパパにしがみついていたのですが、その内容はまだ鮮明に頭の中に残っていました。

 そう。電気をつける前のおトイレには、怖いおばけがいて自分を待っているのかもしれ
ない。おトイレに座っているときには、後ろの窓から誰かがにゅっと手を伸ばして、自分
をさらっていってしまうかもしれない。

 そんなことを考えてしまうと、もうたまりません。

(どうしよう……)

 一人では前に進むこともできないけれど、でもおトイレに行かないわけにもいきません。
ミカちゃんは途方にくれ、思わずその場に立ちすくんでしまいました。すると、そんな様
子を見て神様も可哀想に思ったのでしょうか、思いも寄らないところから助けの手が差し
伸べられました。

「……? あれ?」

 どこからか、聞いたことのある気がする微かな声が、ミカちゃんの耳の中に飛び込んで
きたのです。

「……ママ? パパ?」

 まるで吸い寄せられるようにして、その声のする方に歩いていくミカちゃん。どうやら
その声は、パパとママの寝室から聞こえてくるようでした。 

(そうだ。パパかママについてきてもらえばだいじょうぶ……)

 きょろきょろと不安げに辺りを伺いながら、ミカちゃんはようやくパパとママの寝室に
辿り着きました。ところが、部屋のドアをノックしようとして、ミカちゃんの手がピタリ
と止まりました。何故って、寝室の中から聞こえてきたパパとママの声は、それまでミカ
ちゃんが聞いたこともない種類のものだったからです。

 微かに漏れてくるパパのうめき声と、途切れ途切れに聞こえてくるママの高い声。しか
も、いや、いや、と時折ママが懇願するにも関わらず、パパにそれを止める気配は全くな
さそうです。

 まだ少々ボーっとしていたミカちゃんの目が、驚きに見開かれました。

「た、大変だ……」

 大好きなママが泣きそうな声をあげている。そして、いつもはとても優しいパパが、マ
マの拒絶の言葉にも関わらず、何かママの嫌がることをしている。その中で実際に何が起
こっているのか、6才のミカちゃんに分かるはずもありません。ただ、何か大変なことが
起こっているらしいという不安と恐怖に駆られたミカちゃんは、おトイレのこともお化け
のこともすっかり忘れ、子供部屋へと急いで戻りました。そして布団にくるまっている、
双子のお姉ちゃんを揺り起こします。

「ねえ、セナちゃん、セナちゃん、大変だよ。起きてよ」

「う〜ん、なぁにぃ? どうしたの、ミカちゃん?」

 折角見ていたいい夢を、無理矢理中断させられてしまったセナちゃん。少々不機嫌そう
な声を上げた後、自分を揺さぶっているのがミカちゃんだと気がつくと、むっくりと起き
上がります。そして、未だにまとわりついてくる眠気を覚まそうと、ママと同じ蒼銀の髪
をふるふると震わせました。

「セナちゃん、大変なの。早く起きて」

「ん〜、大変って、なにが?」

「ママが、パパにいじめられてるよぉ」

「……えぇ?」

「ママが泣きそうな声してるの」

「うそ。パパとママはあんなに仲がいいんだもん。ママがいじめられるわけないよ」

「ホントなのよぉ。だから一緒に来て」

 ちょっと引っ込み思案なミカちゃんと、おませで積極的なセナちゃん姉妹。おっかなび
っくり手を繋ぎ、向かいます先はパパとママの寝室。ドア越しにこっそり耳をすませる小
さなスパイが聞いたのは、押し殺すようなパパのうめきと、苦しそうなママの声。

 思わず二人は顔を見合わせました。

「ほ、ほんとうだ……」

「ど、どうしよう、どうしよう、セナちゃん……」

「ど、どうしようって言われたって……」

「このままじゃ、ママが大変だよ。ママ泣いちゃうよ」

「う、うん……。え、えと、え〜と……。と、とにかくママのことを助けなきゃ」

 心を決めたセナちゃんは、片方の手でドアノブを、そしてもう片方でミカちゃんの手を
しっかりと握りました。

 ガチャ

「こ、こらぁ、パパ! ママをいじめるなぁ!!」

「へ……?」

 哀れ。

 突然踏みこんできた小さな乱入者に、まさにその時最高潮へ達しようとしていたパパと
ママは、燃え上がるような情熱に身も凍らんばかりの冷水を浴びせられてしまったのです。

 が、しかし……。

「あ……ちょ……うぁ……くっ……」

「んぅ……」

 車は急に止まれない。

 暴れ馬だって急には止まれない。

 静まりかえるその部屋に、ちょっと情けない声が二つ響いたのでした。


Ikari's in the war



 そして翌朝。

「ねえ、セナ、ミカ、だから違うんだよ。パパは別にママをいじめてたわけじゃないんだ
よ」

 そんなパパの必死の弁解にも、セナちゃん毅然と言い放ちます。

「パパのうそつき。あたし見たもん。ママ苦しそうな顔してたもん」

 いつもはパパに甘えてばかりのミカちゃんさえ、その言葉は信じません。

「それに……ママ、目がうるうるしてた……。泣きそうだった……」

「い、いや、だからさ……。あのね、セナ、ミカ、あれはね……」

「「あれは?」」

「い、いや、その……」

 何故だか言葉に詰まるパパを尻目に、二人は無情な判決を下しました。

「とにかく、あたしとミカちゃんで話をして決めたの。あたしたちの前でママに謝って、
もうあんなことしませんって約束するまで、あたしたちパパとはお口をきかないからね」

「そ、そんなぁ……。レイ、レイも何とか言ってよ。大体昨日はレイが……」

「な、何を言うのよ……」

「あ……。ゴ、ゴメン」

 どういうわけか、タコのように赤くなってしまったパパとママ。そんな二人の様子にち
ょっと怪訝な顔をしつつも、多忙な小学生である二人は学校へと向かうのでした。



「あ、ハルノちゃ〜ん」

 学校へと向かう通学路の途中。大好きな友達の姿を見つけたセナちゃんが元気一杯に手
を振りました。そんなセナちゃんを見つけて手を振り返したのは、鈴原さんちのハルノち
ゃんです。

「セナちゃ〜ん、ミカちゃ〜ん、おはよう」

「おはよう、ハルノちゃん。ねえねえ、昨日の宿題やってきた?」

「うん。でもね、4番の計算がちょっと難しかったなあ」

「あ、そうだよねぇ。私もね、あそこはミカちゃんに教えてもらったんだ」

「あ、セナちゃん、ずる〜」

「違うよ〜。分からないことを聞くのは全然恥ずかしいことじゃないよって、パパが言っ
てたもん。……あ、しまった」

 突然両手で口を抑えるセナちゃん。それを不思議に思ったハルノちゃんは聞きました。

「あれ? どうしたの、セナちゃん?」

「えっとね、今、あたしたちパパと、てってーこーせん、っていうのをしてるの。だから
パパとはお口をきかないし、パパの話もしないって決めてるんだ」

「てってー……なに?」

「てってーこーせん。ミカちゃんが考えたんだよ。ね?」

 徹底抗戦。小学一年生が使うには、ちょっと難しいその言葉。それを思いついたミカち
ゃんのことを、まるで自分のことのように誇らしげに言うと、セナちゃんはミカちゃんに
ニッコリ微笑みかけました。

「うん。最後まで戦うって意味なんだよ」

 少し照れ気味に言葉の意味を説明するミカちゃんに、感心しきりのハルノちゃん。

「へ〜、なんかすごいねえ。ミカちゃんもその、てってーなんとかをしてるの?」

「うん。セナちゃんと二人で決めたの」

「すごいねえ、なんかかっこいいねえ。でもさ、何でそんなことしてるの?」

 その言葉に、それまでニコニコしていたセナちゃんの表情が、少しだけ曇りました。

「昨日ね、ママがパパにいじめられてるのを見つけちゃったの。なのにパパはごめんなさ
いも言わないんだよ」

「え〜、ほんと? シンジおじさんって、いつもやさしそうなのに」

「うん、いつもはやさしいんだけど、昨日はちがったの……。ママが苦しそうにして、い
やって言ってるのに、パパはそれをやめようとしないんだ」

「ふ〜ん、そっかぁ。それじゃあ家と逆だねえ」

「逆?」

「うん、家ではね、お父さんがお母さんにいじめられてるよ」

「え? そうなの?」

「うん、フライパンで頭をコツンとやられたり、お父さんだけご飯抜きになったり、チェ
ーンを下ろされて夜に家に入れてもらえなかったりするんだ」

「「ほ、ほんとうに?」」

 二人には、いつだってとっても優しいヒカリおばさん。でも自分たちの知らなかったそ
んな一面に、セナちゃんとミカちゃんは思わず唾を飲みこみました。

「うん、でもね、いつもお父さんが、すまんかった、すまんかったって小さくなって謝る
から、お母さんはお父さんを許してあげるの」

「そっかぁ。でも家の場合はパパがママに謝るべきだよね。だって、悪いのはパパだもん」

「シンジおじさんは謝らないの?」

「ぜ〜んぜん。ね、ミカちゃん」

「うん。パパはママをいじめてない、自分は悪いことはしていない、ってそれしか言わな
いの。ママは何も言わないけど、でも、私たちハッキリと見たんだもん」

「ホントだよね。パパがあんなに分からずやだなんて思わなかった」

 ポソポソと悲しげに呟くミカちゃんに、頬を膨らませプンプンしているセナちゃん。そ
んな二人の様子を見ていたハルノちゃんが、突然ポツリと言いました。

「ふーん、それってさ、ふーふのきき、ってやつかなあ」

「何それ?」

「よくは分からないんだけど、ふーふのきき、っていうのがくると、お父さんとお母さん
はケンカするようになって、それで離婚しちゃうの」

 どこからそんな知識を仕入れたというのか、何だかとても小学生らしくないことを言う
ハルノちゃん。でもその言葉を聞いたミカちゃんは途端に不安になってしまい、思わずセ
ナちゃんの服の裾を掴みました。

「セナちゃん……。パパとママが離婚なんて、私、そんなのやだよ……」

「う……。あ、あたしだってやだよ。で、でもミカちゃん、心配することないよ。家のパ
パとママはいつもは仲がいいんだから。だから、だいじょーぶだよ」

 自分も少し不安になりつつも、懸命にミカちゃんを安心させようとするセナちゃん。と
ころが、そんな二人の内心を知ってか知らずか、ハルノちゃんは何の邪気もなさそうに続
けました。

「う〜ん、でもね、このあいだ私んちでみんなでお昼を食べたでしょ。そのときアスカお
ばさんが言ってたんだ。ふーふのきき、っていうのは、知らないうちにやってきて、気が
ついたら手遅れになっているものなんだって。でもね、お父さんとお母さんは、そういう
のを子供にはあんまり見せないようにするらしいよ」

「ぁぅ……。セナちゃん……」

 とても悲しそうな顔をして、か細い声で、何か訴えるように見つめてくるミカちゃん。
そんな様子に、セナちゃんも段々心配になってきました。

「ぅ……。そ、そんな顔しないでよ、ミカちゃん」

 学校に行ってからも、二人は不安で不安でしかたがありませんでした。音楽の授業でも、
大きな声で歌を歌う気にはどうしてもなれません。放課後に遊ぼうと友達に誘われても、
二人は悲しそうに首を振るばかり。給食の時間にも、大好きな白桃のデザートでさえ喉を
通りませんでした。だから、やっと授業終了のチャイムが鳴り、お掃除と帰りの会がよう
やく終わると、二人は手を繋ぎ、家までの距離を一生懸命走りました。

「はあ、はあ、ただいま〜。ママ〜」

「おかえりなさい。どうしたの息を切らして? 何かあったの?」

 いつもと変わらない様子で二人を出迎えるママ。するとミカちゃんが、ひしっとママの
足に縋りつきました。

「ママ、私、いやだよ。パパとママが離婚するなんて、ぜったいにいやだよぉ」

 するとセナちゃんも、もう片方の足をしっかりと抱え込みます。

「そうだよ。パパもママもみんないっしょがいいよ。みんなでなかよくしなきゃダメだよ」

「え……?」

 事情がよく飲みこめていない様子のママに、更にミカちゃんが続けました。

「私、パパもママも大好きだもん。だから、そんなのやだよ。ぜったいにいやだよ……。
……ぅ……ふぇ……」

「あ、ミ、ミカちゃん、泣いちゃ……ダメだよ……。あたしだって……ぅ……我慢……し
てたのに……ぅ……うぇ……」

「ふぇぇぇん、ママぁ」

「う……うえぇぇん」

「ど、どうしたの、二人とも?」

 帰ってくるなり突然泣き出した二人に戸惑っている様子のママ。でも、家族がバラバラ
になってしまうかもしれないという想像に、セナちゃんとミカちゃんは悲しくて悲しくて
しょうがなくなってしまったのです。だから、涙の洪水を必死で抑えこんでいた堤防が一
旦決壊してしまうと、どうしても、零れる涙を止めることができなかったのでした。





「今日の朝は、時間がなくてきちんと説明できなかったけれど、別にパパはママをいじめ
ていたわけではないのよ」

 そんな風にしてママの話が始まりました。ソファに腰掛けたママの膝に、逆方向から仲
良く頭を横たえているセナちゃんとミカちゃん。自分たちの髪を撫でるママの優しい手の
感触に、ようやく二人はしゃくりあげるのを止めていました。

「……本当に違うの、ママ?」

「ええ。二人とも大きくなったら分かるわ。あれは、パパとママがお互いのことを大好き
だって、確かめ合っていたのよ」

「そうなの?」

「そうよ」

「……でも、ママ泣きそうにしてた」

 そんなミカちゃんの真剣な問いかけに、思わず苦笑するママ。

「そうじゃないの。どう……言ったらいいのかしら。……ねえ、二人とも少し考えてみて。
涙は悲しいときとか辛いときだけ零れるものかしら?」

「……ううん、うれしいときにも泣いちゃうことがある」

「あ、それに、ものすご〜くおかしいときにもでるよ」

 そんな二人らしい答えに、ママは思わず頬を緩めました。

「そうでしょう。だからママも、パパにいじめられて悲しかったから涙が出てきたわけじ
ゃないのよ」

「……そうなんだ。別にママは嫌じゃなかったんだ」

「そうよ。だってそれは、パパがママのこと好きでいてくれるって証拠なんですもの」

「そうだったんだ……」

「ええ。だから、二人ともパパのこと許してあげて。セナとミカに口をきいてもらえない
パパは、きっと、さっきのあなたたちと同じくらい悲しい思いをするはずよ」

「そっか、そうだよね……。パパに謝らなきゃ……」

「……ママも、ごめんなさい」

 素直に自分たちの非を認め、ごめんなさいを言う心優しい二人。そんな様子に、ママの
顔に嬉しそうな微笑みが浮かびました。

 やっぱりパパもママも自分たちも、いつでも幸せに笑っていたい。そんなママの様子を
見て幼心にそう思ったセナちゃんとミカちゃんは、その夜、帰ってきたパパの両足にしが
みつくと「てってーこーせん」の終了を宣言したのでした。

 そして数ヶ月後。

 二人は碇家に新たなメンバーが加わることを、笑顔のパパとママに教えられたのです。



「ねえ、セナちゃん、赤ちゃんは男の子かなぁ、女の子かなぁ」

「う〜ん、どっちだろうねぇ。ミカちゃんはどっちがいい?」

「私は弟がほしいなあ。セナちゃんは?」

「えへへ、あたしも同じなんだ」

 二人は顔を見合わせニッコリ微笑むと、ベッドの中に潜りこみました。電気が消され、
やがて安らかな寝息を立て始める二人。

 今二人はどんな夢を見ているのか。二人の様子を見に来たパパとママに、それを知る術
はありません。でも、その顔に浮かぶ天使のような微笑みに、二人は顔を見合わせると、
笑顔と共に静かに部屋を出るのでした。






ぜひあなたの感想をSeven Sistersさんまでお送りください >[lineker_no_10@hotmail.com]


【投稿作品の目次】   【HOME】