女っていうのも、時には本当に面倒くさい。
 鏡を前にしてメイクをきめながら、惣流・アスカ・ラングレーはアンニュイな溜息をつ
いた。
 腕時計で時刻を確認すると、既に待ち合わせの時間を大分過ぎている。戦況は全くもっ
て芳しくないが、かといって状況を打開するような秘策もない。これから顔を合わせる相
手からの攻撃は避けられそうにない状況だった。

「アスカ、そろそろ出ないと本当に遅れてしまうよ」
「わ〜かってるってば〜。あとちょっと〜」
「その台詞、もう何度聞いたことか」
「何か言った〜?」

 舶来品らしい上等なソファーに腰をおろし、渚カヲルは、先ほど自分で淹れたコーヒー
を啜っているようだった。
 首都の中心に店舗を構える高級ホテルだけあって、用意された調度品やサービスには文
句のつけようがない。
 折角の休暇、久方ぶりの日本。
 どうせだから奮発して、いい所に滞在したい。そんなささやかな望みを叶えたまではよ
かったが、柔らかなベッドの寝心地は予想以上に良かった。おかげで、大切な約束の時間
が迫っているというのに、アスカは未だ身支度を整えるのに時間を取られているのだった。

「それにしても、何故彼らに会うのにわざわざメイクをする必要があるんだい?」
「親しき仲にも礼儀ありよ」
「そういうものかな」
「そういうものよ」

 本当は、昨日飲みすぎて若干むくんだ顔をごまかすためでもあるのだが、無用の弱みは
見せないのがアスカの主義である。

(それにしても……)

 いつから自分はこんなにズボラになってしまったのだろう。昔はもう少し時間に正確だ
ったはずなのに。これも、昨日久しぶりに会ったかつての上司の影響だろうかと、アスカ
は内心で苦笑を漏らした。

(久しぶりにあの二人に会うのに、寝坊とはね)

 部屋のドアベルをカヲルが何度も鳴らし、まだ眠っていたアスカを夢の世界から呼び返
したのは、三十分程前のことだった。未だ寝ぼけ眼の中、状況を理解するのに数分。よう
やく目を覚ましたところで、何故もっと早く起こさなかったのかとカヲルを責めて、更に
数分。その後は、部屋の鏡とずっとにらめっこをしているアスカであった。

(そういえば、あの二人の披露宴の時もこんな感じだったわね)

 戦闘準備が完了しカヲルの待つリビングに行く間際、不意に過去の記憶が蘇り、アスカ
は喉の奥で声もなく笑った。

「おや、何か楽しいことでもあったのかい?」
「別に何も。さあ、無駄話をしている暇はないわよ。早く行きましょう」

 連れ立ってホテルのロビーに降りると、不本意ながら待たせてしまった二人の旧友が、
ソファーに腰掛けてこちらを見ていた。

「お、二人ともや〜っと降りてきたわね」
「三十分の遅刻ね。何があったの?」
「お早うございます、葛城さん、赤木博士。遅れて申し訳ありません。ただ僕の名誉のた
めに言いますが、遅かったのは彼女の方です」
「う、うっさいわねえ、わざわざそんなこと言わなくてもいいじゃない」
「呆れた。大方昨日ミサトと飲みすぎて、二日酔いで起きられなかったってところでしょ
う?」
「ぐ……」
「図星みたいね? ミサト、あなたも何をやっているのよ」
「え、え〜っと、ちょ〜っち二人の帰国祝いがね……」
「何が帰国祝いよ。貴女が欲しいのは飲む口実でしょう?」
「い〜じゃないの、アスカたちも久しぶりの日本なんだし。今日くらいは、そういうこと
は言いっこなしよ」

 そんな風にして、もう二十年来の付き合いになる二人が軽口をたたき合うが、戦いを長
期戦にするほどの時間的余裕はない。言葉のジャブ交換もそこそこに、四人はホテルの駐
車場に行くと、カヲルとアスカは前もって手配していたレンタカーに、ミサトとリツコは
ミサトの愛車へと乗りこんだ。予定では、目的地までは一時間ほどのドライブだが、多少
の短縮は可能だろう。カヲルが手慣れた仕草でエンジンに火を入れると、軽くタイヤを軋
ませて車を発進させる。
 今日は、いろいろな意味で楽しい一日になりそうだ。
 そんな予感と共に、アスカは助手席のシートベルトを締めるのだった。


Kimiの名は −Four Years Later−



 街の中心部から車で三十分ほども行くと、周囲の風景が一変した。数年前、日本の新た
な首都として遷都されただけあり、第四新東京市の中心部は、ハイテクの贅を尽くした高
層ビルが多い。だが少し郊外に出れば、稲の緑色が鮮やかな田んぼや、蛍が住んでいそう
な綺麗な川などが目に入ってくる。
 この街に住んで数年になるミサトやリツコに言わせれば、第四新東京自体まだ新しい街
であるため、開発されていない所がたくさんあるということらしい。
 だが緑も多く自然に囲まれた環境は、子供の成長にとってはいいに違いない。これから
会う二人も、もしかしたらそういうことを考えたのかもしれない、とアスカは一人ごちた。

「へー、結構いい感じじゃない」

 やがて車が目的地の前に停車すると、助手席から降りたアスカが感嘆の声を上げた。
 四人の目の前には、入母屋造りの二階建ての木造和風住宅が建っている。建物自体は取
り立てて大きなものではなかったが、伝統的な建築様式には古き良き風情があり、自然と
滲み出る趣が感じられるのだった。
 カヲルたち四人が玄関の前に立つと、アスカが代表してドアベルを鳴らす。すると、は
〜いという元気な子供の声が奥から聞こえ、それに、パタパタと廊下を走ってくる音が続
いた。

「は〜い、誰ですかぁ?」

 玄関を開くやいなや、飛び出るようにしてその場に現れたのは、碇家の長女、碇キミ嬢
だった。

「あ〜、アスカお姉ちゃんだあ!」

 蒼銀の髪を頭の両脇でまとめ、父親と同じ黒い瞳をくりくりさせるキミちゃんは、アス
カの姿を見ると途端に嬉しそうな声を上げる。数年ぶりに会うキミちゃんの昔と変わらな
い元気一杯な姿に、アスカは軽く目を細めた。

「久しぶり。相変わらず元気にしているみたいね」
「うん、あたし元気。アスカお姉ちゃんは?」
「もっちろん元気よ」
「ねえねえアスカお姉ちゃん、こっちのお兄ちゃんは誰?」
「あれ、前に会ったときは、カヲルは一緒じゃなかったっけ?」
「うん、一緒じゃなかったよ」

 好奇心ありありな様子でキミちゃんがカヲルを見上げると、カヲルは微笑みながら自己
紹介をした。

「やあ、初めまして。僕は渚カヲルっていうんだ」
「渚? じゃあお兄ちゃんが、アスカお姉ちゃんと結婚する人?」
「おや、どうしてそう思うんだい?」
「前にミサトおばちゃんがそう言ってたの」
「はは、そうだったのか」
「ミサト、子供の前で何言ってんのよ、馬鹿ね」

 照れからか羞恥からか、アスカが頬を赤くして抗議していると、廊下の奥から、かつて
の同僚であり今は親友である二人が姿を現した。

「アスカ、カヲル君、久しぶりだね。こんな所まで来てもらってありがとう」

 すらりとした長身、無造作にたらされた前髪、優しげに細められる黒い瞳。玄関先に出
てきた碇シンジは、久しぶりに会うアスカとカヲルを前にして、嬉しそうに微笑んだ。

「葛城さんとお義母さんも、今日はわざわざすみません」

 無駄のない細身の体に、肩まで伸びる蒼銀の髪、そして穏やかな光を湛える真紅の瞳。
夫の横に佇む碇レイは、ミサトとリツコに歓迎の言葉を述べた。

「とんでもないよ。僕たちも、今日はシンジ君たちに会うのを楽しみにしていたからね」
「そうよ、アンタたちがどんな風に“パパとママ”してるのか、見てみたかったしね」
「そう言われると、何か緊張しちゃうな」

 レイと顔を見合わせ、苦笑しながらシンジが頭を掻くと、すかさずミサトが横槍を入れ
る。

「渚君たちも、将来の参考にしたらいいんじゃないのん?」
「ふふ、そうですね。今日は勉強させてもらいますよ」
「あ〜もう、うっさいわねえ。何でそういう話になるのよ」
「照れない照れない。ところでレイ、今日はユリちゃんはどうしたの?」
「ユリは、ここに」

 そう言って、レイが自らの背後を覗き込む。
 その視線を追ったアスカは、そこで初めて、自分たちを見つめる視線がもう一つあるこ
とに気がついた。
 ショートボブにした黒髪に、母親譲りの紅い瞳。まだ三、四歳と思しき小さな少女は、
母親の後ろに隠れ、恐る恐るといった様子でアスカたちのことを窺っていた。

「ヘロー、あんたが二人目の子ね。アタシはアスカっていうの、よろしくね」
「ユリ、ちゃんと挨拶しなさい」

 アスカがその場にしゃがみ、子供と同じ目線で挨拶をする。だがレイが促したにも関わ
らず、ユリと呼ばれた女の子は、無言のまま再び母親の後ろに隠れてしまった。

「ごめんなさい。この子、最近人見知りするようになって」
「まだ小さいんだもの、仕方ないわ。その子は今いくつなんだっけ?」
「この間三歳になったばかり。この子も、もう少し積極的になればいいんだけど……」

 ユリちゃんの頭を撫でながらレイが軽い溜息を漏らす。
 姉妹といえども、結局は一つの個人。同じ両親を持っていても、こうも性格が違ってく
るのだ。そんな思いと共にアスカが姉と妹を見比べていると、その視線に気づいたキミち
ゃんが言った。

「ユリちゃんはね、ちょっぴり恥ずかしがり屋さんだから、知らない人が来るとこうなっ
ちゃうんだよ。だからアスカお姉ちゃん怒らないでね」
「怒ったりなんかしないわ。それにしても、アンタの妹なのに性格は全然反対なのね」
「リツコおばあちゃんがね、ユリちゃんはママの小さい頃にちょっと似てるって言ってた。
でもあたしは全然似てないんだって」
「ん〜、それは分からないでもないかも」
「でもユリちゃんはいい子だから、アスカお姉ちゃんも好きになると思うよ」
「そうね、じゃあ後でゆっくり話してみるわ。あ、そういえばこれ、お土産よ。あんた甘
いもの好きよね?」
「うん、好き〜」
「みんなの分のシュークリームを買ってきたからさ。後でおやつの時間に食べましょ」
「ほんと? やった〜! ママ、これ向こうに持っていっていい?」
「ええ、じゃあ冷蔵庫に入れてきて」
「は〜い。ユリちゃんもいこ?」

 アスカから紙袋を受け取ると、キミちゃんは妹と一緒に奥の方へと駆け出していった。

「あの、ここで立ち話もなんですし、中に入ってください。お昼ももう用意してますから」

 キミちゃんとユリちゃんの背中を見送った後、そんな言葉でホスト役に促され、アスカ
たちは碇家の中に入っていくのだった。





 昼食時に到着する旨を前もって知らせていたこともあり、碇邸では既に昼食の準備が整
っていた。
 久しぶりに日本を訪れるアスカとカヲルに配慮したのか、或いは暑い盛りの時期という
こともあってか、この日の昼食は夏の定番であるそうめんだった。八畳間の和室の中央に
は黒塗りの和卓がおかれ、その上に置かれたガラス皿の中には、既にたっぷりと麺が盛ら
れている。
 つるりとした喉越しや、氷で冷やされた麺が体内に入る感覚は心地よく、碇家お手製の
つゆの美味しさもあり、アスカたちの箸も進む。だが大人たちとは対照的に、碇家の子供
たちにとっては、滑る麺との格闘は一筋縄ではいかないようだった。   

「キミ、ちゃんとこぼさないで食べなさい」
「む〜、おつゆが飛んじゃうの」
「ユリも、お箸の持ち方は教えたでしょう」
「ママ、これ取れないの」
「レイ、ユリにはまだ難しいよ。ちょっと手伝ってあげたら?」
「そうね、じゃあこっちいらっしゃい」

 そんな風にして甲斐甲斐しく子供の世話をするレイ。かつての無口な少女の、母親とし
ての振る舞いを目の当たりにして、アスカはカヲルに対し感慨深そうに言った。

「なんかさ、あたしたちも年をとったんだなって思わされるわ」
「どうしたんだい、急に」
「だってさ、レイがこんなに立派にお母さんしてるんだもん。これを見ただけでも今日来
た価値はあったわ」

 アスカがしみじみと漏らすと、ユリちゃんの世話をしていたレイが顔を上げた。

「別に特別なことじゃないわ。親になれば、誰でもやることだもの」
「って、アンタが言ってること自体、変わったなって思うわけよ」
「そうかしら」

 不思議そうに自分を見つめるレイが微笑ましくもあり、いくら子供のころの話とはいえ、
昔人形呼ばわりしたことに軽い罪悪感すら覚えてしまう。

「ね、子供の世話って、やっぱり大変?」
「簡単ではないわ。でも苦にはならない」
「アンタのとこの場合、上の子もしっかりしてそうだもんね」
「ええ、キミには本当に助けられてる。ユリも、手のかかる子ではないし」
「旦那の世話の方がよっぽど大変だったりして」
「ふふ、そうね、そうかもしれない」

 含むようなアスカの言葉に、レイが楽しそうに目を細める。その横では、話のタネにさ
れた旦那が苦笑を浮かべていた。
 こんな風に、目の前の相手と示し合わせて笑うなんて、自分たちの関係も変わったもの
だ。レイとの無言の共感が嬉しくて、アスカは声を出して笑った。

「で、シンジとはうまくやってるの?」
「ええ、大事にしてもらってるわ」
「でも結婚して、子供もできて。やっぱり、独身時代のように何でも二人っきりってわけ
にはいかないでしょう?」
「そうね。最近は、仕事とか自分たちのことよりも、子供優先でものを考えているかもし
れない」
「仕事? アンタ仕事なんてしてたっけ?」
「仕事といっても、勤めに出ているわけではないの。あなたには言ってなかったかしら?」
「全く初耳。何してるのよ」
「……秘密」
「何でよ。そこまで言っといてそれはないじゃない」

 あの手この手でアスカが聞き出そうとしても、どういうわけなのか、レイは口を割ろう
としない。それがもどかしく、アスカの中でフラストレーションが溜まりかけたころ、見
かねたのかリツコが横から助け船を出した。

「レイ、別に教えてあげてもいいじゃない。悪いことをしているわけじゃないんだから」
「でも……」
「あなたから言うのが恥ずかしいなら、私が言うけれど?」

 レイは視線を下げ黙ったままだったが、その沈黙を了承の証と受け取ったリツコは、視
線をアスカに向けた。

「レイはね、絵本を描いているの」
「絵本!?」
「最近は随分名前も売れてきたみたいね。この間、母親向けの雑誌で紹介されているのを
見たわよ。大分好意的な記事だったわね」
「あれは……少し褒めすぎです」
「謙遜することじゃないわ。貴女の仕事が認められたということだもの。胸を張っていい
ことよ」

 海外にいたこともあり、そんなことになっているとは全く知らなかった。だがレイの成
功は、十年来の友人として本当に喜ばしいことだった。

「アンタの書いたもの、是非読んでみたいわね。カヲル、明日、少しは時間あるわよね?」
「問題ないさ。ホテルから近い本屋を調べておくよ」
「わざわざ本屋に行く必要ないわ。もし興味があるなら、帰る時に何冊か渡すから」
「いいのよ。アタシたちも、少しは本の売り上げに協力させてもらうから」
「でも……」
「いいの、そのくらいはさせてよ。それにしても、何でまた絵本を描こうと思ったの?」
「最初からそうしようと思ったわけじゃないの。結婚して子供ができて、自分が感じたこ
とを折に触れて書きとめていたら、それがたまたま葛城さんの目にとまって」
「で、あたしが知り合いの編集に紹介したというわけ」
「なるほどねえ」

 それにしても、あのレイが今は絵本作家とは。
 かつての姿を思えば、想像力の遥か及ばない職業ではあるが、それだけ家族や夫婦愛の
力は偉大ということなのだろうか。だがそれも全ては、レイの中に元々の才能があっての
成功なのだろう。

「アンタのママ、すごいわね」
「うん、ママの絵本おもしろいよ。アタシもね、ユリちゃんによく読んであげるの」
「ふ〜ん、偉いわね。アンタももうお姉ちゃんなんだもんね」
「そうだよ。パパとママがね、あたしはもうお姉ちゃんなんだから、ユリちゃんの面倒も
みなきゃだめだよって」
「そういえば、アンタもう小学生なのよね? 学校は面白い?」
「うん、面白い」
「友達もいっぱいできた?」
「できたよ。みんなでいっつも一緒に遊んでるの」

 そう言って屈託なく笑うキミちゃんは、本当に楽しそうである。
 自分が子供の頃とは違い、この子は普通の少女時代を送り、それを心から満喫している
のだろう。この子には、このまま子供らしく、純粋で大きな夢を持ってほしい。そんなこ
とをアスカは思うのだった。

「アンタはさ、大きくなったら何になりたいの?」
「あたし、かがくしゃになりたい」
「科学者? すごいのね」
「リツコおばあちゃんみたいな、立派なかがくしゃになるんだよ」
「あら、じゃあリツコも跡取りができて安泰ね」
「馬鹿言わないで。将来は共同研究者としてやっていくつもりよ」
「じゃあアンタもいっぱい勉強しないとね」
「うん、リツコおばあちゃんに教えてもらってるの」
「そうなんだ。リツコは厳しいから大変でしょう?」
「ううん、面白いからだいじょぶ」
「へえ、リツコの授業が面白いなんて、アンタ頭いいのね」

 かつて、伊吹マヤに対するリツコの姿勢は、公平ではあるが同時に厳しさも併せ持って
いた。キミちゃんが子供ということを差し引いても、リツコは自分の弟子を決して甘やか
したりはしないだろう。そんな関係を面白いといえるのだから、この子も大したものだ。
アスカがしきりに感心していると、ミサトが頬笑みを浮かべながら言った。

「アスカ、あなた知らないの?」
「知らないって、何が?」
「キミちゃんの知能指数はね、成人の平均値を軽く上回っているんですって。俗な言い方
をすれば、天才児ってやつね」
「へ、この子が?」
「そうよ。だからこの子が大人になるころには、リツコのことを軽く追い抜いているかも
しれないわよ」
「否定はしないわ。実に教えがいのある生徒ですもの」

 そう言われてみれば、確かに思い当たる節がある。
 昔出会ったキミちゃんは、三歳児にしては驚異的なボキャブラリーを持っていたし、携
帯電話のような、子供には難しい道具も難なく使いこなしていた。動物しりとりでゲンド
ウをあと一歩まで追い詰めたことからも、学習能力が非常に高いのだろうというのも推測
できる。

(にしては、なんでミサトのことを“おばちゃん”って呼び続けたのかしら……)

 と思わなくもないが、まあいいか、と考え直す。
 それにしても、しばらく日本を離れていると知らないことばかりで、変化の多さについ
ていけなくなる。アスカはそんなことを思った。 
 当たり前のことではあるが、それぞれにはそれぞれの時間があり、時の流れの中で人は
変わっていく。
 では今の自分は、昔と比べてどのように変わったのだろう。
 そして、これからどのように変わっていくのだろう。

(何にせよ、アタシも負けてらんないわね)

 またこの次に会う時に、胸を張ってみんなに会えるように、自分も頑張らなければ。
 その場に集まった面々の顔を順番に見詰めながら、アスカは未来へのモチベーションを
新たにするのだった。





 昼食が終わりおやつの時間が迫ってくると、シンジたちは昼食をとった和室から居間へ
と場所を変えた。
 そして子供たちのお待ちかね、お土産のシュークリームが満を持してテーブルに登場す
る。
 「あまりそういうことには詳しくないけれど」と前置きしたうえでカヲルが言うには、
ベルギー王室御用達ブランドの製品らしい。シュークリームの外皮はとても柔らかそうで、
中のカスタードクリームもとろけそうに鮮やかな黄色をしている。そして美味しそうな甘
いお菓子を目の前にし、子供たちの目は途端に輝くのだった。
 外交的で積極的なキミちゃんは、自分からおねだりして首尾よく目的のものをもらうこ
とができる。だが引っ込み思案なユリちゃんは、チラリチラリとお姉ちゃんの方を窺った
後で、もじもじしながら母親の洋服の裾を引っ張るのだった。

「ママ」
「何、ユリ?」
「あれ、ほしいの」

 そう言ってユリちゃんは、キミちゃんが美味しそうに頬張っているシュークリームを指
差した。

「じゃあアスカお姉さんのところに行って、食べてもいいか聞いてきなさい」
「や〜、ママきいて」
「駄目。自分でちゃんとお願いしてきなさい」

 レイが静かに諭すように言うと、ユリちゃんは困ったような視線をシンジに向けた。

「じゃあパパも行ってあげるから、一緒にお願いしよう」

 シンジはユリちゃんを抱き上げると、そのままアスカの前へと連れて行った。

「ほら、ユリ。お姉ちゃんにちょうだいって言いなさい」
「う〜、パパがお願いして」
「ユリ、自分のことは自分でできるようになりなさいって、パパいつも言ってるよね? 
だから、自分でちゃんとお願いしてごらん」

 それでもユリちゃんはしばしの間もじもじしていたが、やがてアスカを上目で見ながら
小さな小さな声で言った。

「あれ、食べていい?」

 恐る恐る、そして少し恥ずかしそうにお願いするユリちゃん。きっとこの子は、自分の
中のなけなしの勇気を振り絞って、こちらに話しかけてくれたのだろう。少しだけ相手と
の心の距離が縮まった気がして、アスカは微笑んだ。

「もっちろんよ、好きなだけ食べなさい」

 アスカがシュークリームを渡すと、それを受け取ったユリちゃんは嬉しそうに笑いなが
ら、トトトッと母親の元に駆け寄った。

「ママ、もらった」
「そう、良かったわね」
「自分でちゃんとお願いしたの」
「そうね、偉いわ」

 苦労して得た戦利品を母親に見せるユリちゃんは、どこか誇らしげに見える。そんな姿
を見たシンジは、さらに愛娘の成長を促そうというのか、シュークリームを頬張ろうとし
ていたユリちゃんに話しかけた。

「ねえユリ、それ、お姉さんのところにいって、二人で食べてきたら?」
「う?」
「お姉さんも、きっとユリと仲良くなりたいって思ってるよ。だから行っておいで」

 どうしていいのか分からないのか、ユリちゃんが判断を仰ぐように母親の方を見ると、
レイは頷いた。

「お姉ちゃんと一緒だったら、もっとシュークリーム食べていいわ。だから行ってきなさ
い」

 初対面の人の所にいく緊張感と、お菓子をくれた優しいお姉さんというイメージ。そし
て何といっても、シュークリーム食べ放題という魅力的な特典。最終的には後者の誘惑が
勝ったらしく、ユリちゃんはしばらくアスカとシュークリームを見比べた後、トコトコ歩
いてアスカの前に立った。

「いっしょ食べる?」
「ふふ、いいわ、一緒に食べましょ。ほら、こっちいらっしゃい」

 アスカはユリちゃんを抱き上げると、自分とカヲルの間に座らせた。

「おいしい?」
「うん」
「まだたくさんあるから、いっぱい食べなさい」
「もういっこ食べていい?」
「もちろん。好きなだけ食べなさい」

 ユリちゃんが手を伸ばしシュークリームを掴むと、二人の様子を見守っていたレイが言
った。

「ユリ、もらった時はなんていうの?」
「お姉ちゃん、ありがと」
「どういたしまして」

 優しく黒髪を撫でてやると、ユリちゃんはシュークリームを頬張ったままアスカを見上
げた。アスカが微笑むと、ユリちゃんも少し目を細める。

「ふふ、可愛いわね。こういう子を見てると、子供を持つのも悪くないかもって思うわね」
「あなたは、結婚はしないの?」
「どうかしら、そういう願望がないわけじゃないけどね」
「もう長い付き合いなのでしょう?」
「付き合いが長いからって、そうならなきゃいけないわけでもないでしょ?」
「でも、そうなっていくのが自然だと思うわ」
「それはそうなんだろうけど、でも……」

 お互い仕事も忙しいし。
 もう少し独身生活を楽しみたい気もするし。
 それに、アイツからそんな話を切り出されたこともないし。
 理由なら、いくらでもつけられそうなものだったが、やはり一番大きいのは……。

「何ていうのかな、今ひとつ家庭を持った自分の姿がイメージできないのよね」
「私もそうだったけれど、でもなんとかなるものよ」
「そうかもしれないけど、どうなのかしらね。いろいろ気を使わなきゃいけないことも多
そうだし、誰かとずっと一緒に暮らすって、言うほど簡単じゃないわよね」
「気を使うって?」
「そうね。例えば変な話だけどさ、アンタ、シンジが浮気してるんじゃないかとか、そん
なことって考えない?」
「浮気?」

 一言呟くと、レイの醸し出す雰囲気が固いものへと変わっていく。

「さあ、どうなのかしら……」
「ア、アスカやめてよ。僕が浮気なんかするわけないじゃないか」
「でも男なんて、外で何してるか分からないしね」

 ちらりと流し目を送ると、視線の先の人物は肩をすくめた。

「それはお互い様というやつさ。二十四時間ずっと一緒にいるのは不可能だし、第一、そ
んな関係は長続きしないよ」
「それはその通りなんだけどね」

 なんだけれど……。
 心の中でもう一度呟いてみる。
 何だかんだと理由をつけていても、結局は自信がないのだろう。
 破綻した結婚生活を送っていた自分の両親。その姿を目の当たりにしているだけに、ど
うしても確信がない。自分が良い家庭を築けるのか、良い母親になれるのか。
 良いものが作れないのなら、いっそ持たない方がいい。そんな風に無意識のリミッター
がかかっているのかもしれない。

(要は、ただ怖がっているだけ、なのかな……)

 思いきって一歩を踏み出してみれば、自分が思っていたのとは全く違う自分を、そこで
見つけるのかもしれない。本人が言う通り、あのレイにもできたのだから、自分にもでき
るのかもしれない。アスカの思いは風の中の羽毛のように、ふわふわと揺れ動く。
 求めるべきはベストよりもベター。良い家庭の定義など存在しないし、完全な夫婦関係
のモデルケースがあるわけでもない。自分は、初めから完璧なものを求めすぎているのか
もしれない。
 そんなことを漠然と考えたアスカだったが、少しだけ物思いにふけるうち、目の前の事
態は急展開しているようだった。

「レイ、僕は絶対浮気なんてないからね」
「……そう」
「僕が今まで浮気なんかしたことある?」
「……多分……ない」
「多分って、レイは僕のことが信じられないの?」
「……」
「そんな目しないでよ。それよりさ、お茶を入れにいくからレイも手伝って」

 レイは少しの間、嫉妬と不安が入り混じった目でシンジを見つめていたが、やがて立ち
上がると、夫と共にキッチンへと姿を消す。二人の姿が完全に見えなくなったのを確認し
たのち、カヲルは軽くアスカをたしなめた。

「アスカ、あまり変なことを言ってはいけないよ」
「悪かったわよ。でも、あそこまで敏感に反応するとは思わなかったわ」
「それだけシンジ君のことが大事ということだよ」
「でも、もう少しどっしり構えていてもいいような気もするんだけど」
「それができれば彼女も苦労しないさ。それにしても、後で喧嘩にならないといいのだけ
ど……」

 カヲルが申し訳なさそうに言うと、二人の会話を聞いていたキミちゃんがあっけらかん
と言った。

「パパとママ、喧嘩しないと思うよ」
「おや、どうしてだい?」
「きっとね、あっちでパパ、ママにチューしてあげてるの。そうするとママも嬉しいから、
絶対パパのこと許してあげるよ」
「チュ〜?」
「ママが怒るとね、パパ、いっつもそうするの。だからだいじょーぶだよ」

 そうしたことには慣れっこの様子で、キミちゃんがさらりと言ってのける。するとユリ
ちゃんも、アスカを見上げながら付け加えた。

「ママ、怒ると怖いの」
「ふ〜ん。じゃあアンタも、いい子にしてないとママに叱られちゃうわね」
「あたし、怒られないよ」
「あら、じゃあアンタのお姉ちゃんが怒られるの?」

 するとユリちゃんはふるふると首を振った。

「違うの? じゃあ誰が怒られるのかしら」
「パパ」
「ぷ、ママに怒られるのはパパだけなの?」
「そう」
「じゃあさ、あんたのパパはどうしてママに怒られるの?」
「分かんない」

 ユリちゃんが軽く首をかしげる。大人同士の感情のもつれや駆け引きは、この少女には
まだ少し難しすぎるらしい。すると、この手のネタが好きなミサトがすかさず会話に参戦
してきた。

「ねえキミちゃん、キミちゃんは、ママがどういう時に怒るのか分かる?」
「えっと、パパがテレビで女の人のこと見てると、ママ怒るよ」
「たはは、そうなんだ」
「それと、パパが誰かからチョコレートもらった時も怒ってた」
「あ〜、なるほどね」
「そういう時のママってね、こんな風になっちゃうの」

 そう言ってキミちゃんは、眉間にぐっと皺を寄せてみせた。

「じゃあ、キミちゃんの家で一番強いのはママなのね」
「ううん、ママもすごい甘えっ子なんだよ。パパに耳の掃除してもらったり、頭撫でても
らうのが好きだし、お風呂もいっつも一緒だし。だからママはパパがいないと駄目なの」

 それが何でもないことのように話し続けるキミちゃんに、周囲は笑いを堪えるのに必死
である。そうしたことは碇家では普通のことかもしれないが、碇家の常識必ずしも世間の
常識にあらずである。だがそんな周囲の様子を知ってか知らずか、キミちゃんは更に続け
た。

「ママが怒るのは、パパのことが好きだからだよってユイおばあちゃんが言ってた。こな
いだもね、パパがお仕事で遠くに行っちゃって、しばらくお家に帰ってこれなかったとき、
ママすごく寂しそうだったの」
「そうなんだ。じゃあ、パパが家に帰ってきたらママも嬉しかったんでしょうね」
「パパね、土曜日に帰ってくるはずだったのに、金曜日に帰ってきたんだよ。お仕事が早
く終わったから、ママをびっくりさせようと思ったんだって。でもママ、びっくりしすぎ
て泣いちゃったの。そしたらパパ、ママのこと、ぎゅ〜ってしてた」
「いやはや、シンちゃんも大人になったのねえ」
「生きるってことは、変わるってことよ」

 などと雑談をするうち、紅茶を乗せたトレイを持って、シンジが居間に戻ってきた。シ
ンジの後ろに続くレイは、春先の木漏れ日を思わせるような、柔らかで暖かい表情を浮か
べている。キッチンで何があったかは謎だが、キミちゃんの言った通り、二人の間の緊張
した雰囲気は跡形もなく消え去っていた。

「すいません、席を外しちゃって。紅茶入れてきましたから、みんなで飲みましょう」

 自分がいない間に碇家の秘密が多数暴露されたとも知らず、のんびりそんなことをいう
シンジ。そのギャップがおかしくて、ミサトやアスカは思わず吹き出してしまうのだった。

「あれ、何か楽しそうだけど、どうかしたんですか?」
「ふふ、何でもないわよ」
「って言われるとすごく気になるんだけど……。カヲル君、みんなで何話してたの?」
「大したことじゃないよ。シンジ君たちの仲の良い話を聞いていただけさ」
「仲の良いって……キミ、まさか変なこと言ってないよね?」
「変なことじゃないよ。あたし、ホントのことしか言ってないもん」
「ほ、本当のことって……」

 シンジが狼狽した声を上げる一方で、レイは頬を赤らめ、不自然にぱちぱちと瞬きを繰
り返す。どうやら二人にも、「変なこと」の心当たりはたくさんあるらしい。キミちゃん
に事情聴取するシンジの慌てぶりに、碇家の居間は笑い声に包まれるのだった。





 夕食をとった後、居間に戻ってきた面々は、再びくつろいだ時間を過ごし始めた。
 ミサトとリツコはビールを片手に昔話に花を咲かせ、カヲルや元チルドレンの三人組も
会話に加わる。
 ネルフ時代の話など良く分からないキミちゃんは、お土産の残りを食べたいらしかった
が、あえなくそれをレイに却下され、ちょっぴり不満げだった。
 一方ユリちゃんは、自分の部屋からお気に入りの絵本を持ってきて、それをアスカの隣
で読んでいる。いつもは引っ込み思案なのに、今日に限って自分からそんな事をする娘の
様子に、シンジは驚きを隠せない様子だった。

「すごいな、初対面の人にユリがこんなになつくなんて。アスカって、ひょっとして保母
さんとか向いてるんじゃないの?」
「保母さん? アタシが? あ〜無理無理。絶対無理ね」
「そうかなあ。アスカは意外にいいお母さんになりそうな気がするけどな」
「意外にってぇのはどういう意味よ」
「はは、ごめん。変な意味じゃないんだ」
「全く失礼しちゃうわね」

 シンジのちょっとした失言に、アスカはふいっとそっぽを向いて見せたが、腹を立てた
わけではなかった。自分が母親になる絵なんて、今はまだ想像できないし、何よりそうい
うのは照れくさくもあったのだ。 
 自分にとって少しだけ不利な話題を変えるべく、アスカは会話の矛先をユリちゃんに向
けた。

「ねえ、あんたは大きくなったら何になりたいの?」
「うんとね、パパのおよめさん」
「ふふ、そうなんだ。パパのこと好き?」
「すき。だからパパのおよめさんになるの」

 ちょっとおませなことを言うユリちゃんが可愛らしく、アスカが顔をほころばせている
と、二人の会話を聞いていたレイが横から口をはさんだ。

「ユリ、パパのお嫁さんは駄目」
「どして?」
「パパのお嫁さんはママだけ。だからあなたは駄目」
「でもあたしもなりたいの」
「駄目」
「ちょ、ちょっとアンタ、子供の言うことなんだから、そこまで本気にならなくても……」
「こういうことは、きちんと教えておかないと」

 レイは淡々とそんなことを言うが、その目は笑っていない。
 夫絡みのことになると、レイはいつもこうなのだろうか。少々呆れ気味のアスカがシン
ジの様子を窺うと、当のシンジは苦笑するだけで、レイを抑えようとしない。おそらくは
こういうことも初めてではないのだろう。馬鹿シンジもいろいろ苦労してるのね、とアス
カは軽く肩をすくめた。

「ユリ、ユリはお爺ちゃんのことだって好きでしょ? じゃあお爺ちゃんのお嫁さんにな
ったら?」
「うん、なる」

 うまくその場を誤魔化すシンジに便乗して、アスカも話題を変えることにした。

「そういえばシンジ、碇司令とユイ博士は元気なの?」
「元気だよ。月に二、三回くらいは子供たちを連れて遊びに行くようにしてるんだ」
「へえ、あの司令が孫と遊ぶ姿って、イマイチ想像できないけど……」

 アスカが軽く首を捻ると、ミサトが言った。

「あらアスカ、司令だって昔のままじゃないわよ」
「う〜ん、司令のそんな姿も見てみたい気もするけどね」

 ゲンドウが孫たちにじゃれつかれて頬を緩める姿。昔のイメージが強いだけに、そんな
光景を想像するのは簡単なことではない。だが時と共に変わっていくのは、ゲンドウとて
例外ではないのだろう。

「そういえばリツコ、キミちゃんが生まれた時のこと、覚えてる?」
「二人で病院に行った時のことでしょう。もちろん覚えているわ」

 それは八年前、キミちゃんが生まれた時のことだ。
 退院するレイを出迎えようと、ミサトとリツコは病院に向かったが、病院の待合室で見
た光景は、少なからぬインパクトを残していた。

『ほらあなた、もう赤ちゃんをレイちゃんに返してください』
『む、だがユイ、もう少しくらい良いではないか』
『駄目です。この子だって、お母さんに抱かれたほうが安心するに決まってるんですから』
『む、だが……』

 その会話を聞いただけで、二人は大体の前後関係を想像することが出来た。
 初めての孫を抱っこして、頬が些か緩み気味のゲンドウ。軽く眉に皺を寄せ、赤ん坊を
レイに返すように促すユイ。二人の後ろでは、新米の父親と母親が顔を見合わせ、苦笑を
浮かべていた。

『あなた、いい加減にしてください。今からそんなことでどうするんですか』
『む、む……』
『あの、お義母さん、私はいいですから』
『駄目よレイちゃん、ここで甘やかしたらつけあがるだけなんだから。何事も最初が肝心
よ。ほらあなた、早くしてください』
『む、むぅ……』

 ユイの再三の要請にもゲンドウが更に渋っていると、その腕の中の赤ん坊が元気な泣き
声を上げ始めた。

『お〜よちよち。ごめんなさいね、怖いおじさんに抱っこされて怖かったのよね。今ママ
のところに返してあげますからねえ』
『ユ、ユイ……』

 怖いおじさん扱いされトホホなゲンドウだが、泣く子には勝てず、渋々赤ん坊をレイに
返す。その表情がまた何ともいえず、ミサトとリツコは多少の苦労と共に笑いを堪えたの
だった。

「ネルフ時代はさ、司令室の前に立つだけで背筋がピっと伸びたもんだけど、司令も、今
じゃただのいいおじいちゃんって感じよね」
「楽しみにしていた初孫だもの。多少甘くなるのは仕方がないわ」

 ミサトとリツコがそれぞれの感慨を述べると、シンジが苦笑交じりに言った。

「でも、時々困っちゃうんですよね。僕たちに内緒で、子供たちにお菓子を買ってあげた
りするんですよ。せっかく買ってもらったものだから、簡単に取り上げるわけにもいかな
いし」
「親としては複雑なところね」
「この間も、一緒に買い物に行ったらそうなってて。あまり甘やかさないでくれって言っ
たら、これは自分で食べるために買った、それを持たせているだけだ、なんて言われて」

 あのゲンドウが、自分で食べるためにお菓子を買うなどありえない話である。孫のため
についた微笑ましい嘘に、その場にいた全員が顔をほころばせる。

「それも、司令が二人を可愛がってる証拠なんでしょうね」
「この間、キミとユリが父さんの絵を描いて持っていったら、すごく喜んでたみたいです
し、二人が来てくれると嬉しいのは確かなんですけどね」
「何だか話を聞いてるだけで面白そうね。今度、キミちゃんとユリちゃんと一緒に、司令
に会いに行ってみたいわ」

 ミサトが何気なく漏らした言葉に、その場のみんなが同意するように頷く。
 果たして自分たちが押し掛けたとしても、ゲンドウは普段の孫馬鹿ぶりを発揮してくれ
るのだろうか。或いは他人の目がある手前、表面的には素っ気ない態度を装うのではない
か。
 そんな想像の光景に思いを巡らすのは楽しく、アスカたちはそれを話のタネに、しばし
会話を続けるのだった。





 窓の外の夕焼けが、夜の闇へと変わっていく。
 古い友人との語らいは飽きることがなく、そして話題が尽きることもなく、いつまでも
続いていくかのようである。
 だがどんな時間であっても、それは永遠には続かない。
 ミサトとリツコは碇家に一泊滞在することになっていたが、アスカとカヲルはその日の
うちにホテルに戻ることにしていた。そして二人は、時計の短針が10を示そうかという
頃に、どちらからともなく目配せをするのだった。

「シンジ君、もう夜も更けてきたし、僕たちはそろそろお暇するよ」
「でもカヲル君、今日くらいは泊っていけばいいのに」
「そうしたいところだけど、明日の飛行機もあるのでね。また機会があったら、その時は
お邪魔させてもらうことにするよ」
「そう……残念だな」
「これからは、日本に来ることも多くなりそうなんだ。今日は少し慌ただしくなってしま
ったけれど、またゆっくり会う機会はいくらでもあるよ」

 ユリちゃんはアスカの隣で一緒に絵本を読んでいたが、周りの雰囲気を何となく感じ取
ったらしい。絵本から目を離しアスカを見上げると、ポツリと呟くようにして言った。

「お姉ちゃん帰っちゃうの?」
「ええ、ごめんね」
「もっと絵本読もうよ」
「ユリ、駄目よ。二人はもう帰らなければいけないの」
「やぁだぁ……」
「ユリ、わがまま言ってみんなを困らせないで」

 抑えた口調ながら、レイがはっきりと告げる。母親としての威厳に満ちた言葉に、ユリ
ちゃんも、自分のおねだりだけではどうにもならないと悟ったらしい。少女は顔をくしゃ
くしゃにすると、その目尻には光るものが溜まっていくのだった。

「……ぅ……ふぇ……ふぇぇん」
「ほら、泣くんじゃないわよ。また今度来た時に、一緒にたくさん絵本読みましょ、ね?」

 アスカが少女の頭を撫でながら、少しの間優しく言葉をかけ続ける。するとユリちゃん
は、まだ軽くしゃくりあげながらも、こくりと頷くのだった。

「ほら、じゃ玄関まで一緒に行きましょ」

 アスカがユリちゃんを抱き上げ、一緒に玄関まで出る。そこでユリちゃんを下ろすと、
アスカとカヲルは、見送りのためその場に出てきた面々と向き合った。

「シンジ、レイ。それにミサトとリツコも。今日は会えて嬉しかったわ」
「私たちも、すごく楽しかった」
「カヲル君も、また来てよね」
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
「アスカ、渚君と仲良くね」
「披露宴には、私たちも呼んでちょうだいね」
「あ〜、もう、何でそういう話になるのよ」

 ミサトとリツコの浮かべる微笑みに、アスカがたまらず抗議の声を上げる。

「アスカお姉ちゃん、カヲルお兄ちゃん、また来てね」
「そうだね、ありがとう」
「アンタもちゃんと勉強しなさいよ」
「うん!」

 一通り別れの挨拶が済んだところで、シンジは自分の傍らにいたユリちゃんを促した。

「ほらユリ、アスカとカヲル君にさよならしなさい」

 シンジに手をひかれたユリちゃんは、二人を見上げると、小さな手を振って別れを告げ
た。

「ばいばい、また来てね」
「ええ、絶対また来るから、アンタも元気でね」
「うん」

 ユリちゃんの頭を撫でた後で、もう一度別れを告げる。車に乗り込み、もうその場を離
れようとする時にも、ユリちゃんは小さな手を一生懸命振って、自分にさよならをしてく
れていた。その日初めて出会い、そして仲良しになった少女の姿に、アスカは少しだけ目
尻が熱くなるのを感じた。
 こんなことなら、もっと余裕のある日程をとればよかったかな。
 若干の後悔と、後ろ髪を引かれるような思い。
 けれど、これが永遠のお別れではない。自分たちが望みさえすれば、また会う機会はい
くらでも作れるはずだ。
 湿っぽくなりかけた気持ちを奮い立たせ、アスカは、一日楽しい時間を過ごした碇邸に
別れを告げるのだった。





 窓の外を街の灯りが流れていく。
 市街へと戻る車の中、アスカとカヲルはその日のことを話しながら、帰路へとついてい
た。

「今日は、本当にいろいろあった一日だったわ」
「そうだね。それにとても楽しかった」
「本当、あの二人幸せそうだったし、子供達も可愛かったし」
「ああいった家庭を持つのもいいものだね」
「そうね、今までは、あんまり深く考えたことなかったけど」
「人は一人で生きるに非ず、互いに支えあう存在も必要だ。それが良く分かったよ。そう
思わないかい?」
「ま、否定はしないわ」
「おや、今日は素直だね。アスカの心境にも少しは変化があったってことかな?」
「それって何が言いたいのかしら?」
「君が思っている通りのことさ」

 何か含むように微笑むカヲルに、アスカの心が少し緊張する。相手の言わんとするとこ
ろが何となく読めるだけに、自らの意志とは裏腹に声のトーンが上がる。

「アンタねえ、言いたいことがあるんなら、ハッキリ言ったらどうなのよ」
「言葉にしなければいけないかな?」
「そういう手順も大事だってことよ」

 敢えて正面を見据え、カヲルと視線を合わせないアスカ。
 隠そうとしても隠しきれない感情の波。

「つまりは、僕たちもそろそろどうかなってね」
「何よそれ、プロポーズでもしてるつもり?」
「それ以外に聞こえたかい?」
「ば、馬鹿ね……」

 真正面から自分を射抜く言葉の矢に、途端に揺さぶられる心が腹立たしい。

「それで、返事はもらえないのかい?」
「わざわざ返事しなければいけないのかしら?」
「そういう手順も大事、とは誰の言葉だったかな?」
「アンタって男は……」

 時々本当に憎たらしいわね。
 アスカは自分の中で毒づいた。
 ここで言葉を濁したとしても、隣にいるアイツは、自分のことを待ち続けるだろうか。
それともそれは、自分の自惚れにすぎないだろうか。
 きっと今、自分は人生の岐路に立っている。
 それがなんとなく分かる。
 迷い、怖れ、戸惑い。
 今日出会った二人もこんな瞬間を経験して、そしてそれを乗り越えてきたのだろうか。

(でも、アタシにだってできるわよね)

 そんな言葉で自分を叱咤する。
 ここから、勇気を出して一歩前へ踏み出してみよう。
 新たな未来へ進んでいくために。
 そしていつか、彼らと同じ立場、同じ視線から話ができたなら、それはとても素敵なこ
とではないだろうか。
 すうっと深呼吸をして、アスカは胸の想いを言葉にする。

 そして、カヲルが微笑んだ。




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