「レイ、脱出して!」
「ダメ、私がいなくなるとATフィールドが……」
「綾波ィィィィ!」
最期のこんな時になって、自分の気持ちに気付くなんて
私には代わりがいる
でも、できるならば、今の私でもう一度、碇くんと……
そして私は、消滅した。
再会
written by タン塩
暖かい。無明の闇を漂いながら、私はそう感じていた。いつまでも身を委ねていたい、身も心も蕩ける暖かさ。
心地良い闇の中に一条の光が射す。私は、その光の中に吸い込まれて行った。
胸板。それほど筋肉質ではないが幅広い、大人の男性の胸板。それが、私の目に飛び込んだ最初のもの。
(ここは……)
置かれた状況の唐突さに、私は些か混乱していた。でも、少しづつ冷静さを取り戻すと、自分の置かれた状況を見極めることにした。
私の下には、薄青いシーツ。私の上にはタオルケット。ベッドの中? 私の頭の下の枕が、ピクリ、と動いた。私はベッドで寝ている……未知の男性の腕の中で。
LCLの水槽に浮かんでいる自分、という私の想像とは掛け離れた事態。ここは何処? この男性は誰? 私は起き上がろうとしたが、起き上がれない。理由はすぐわかった。……その男性に肩を抱かれていたから。
男性と私の素肌が擦れ合う。その時初めて、自分が裸である事に気づいた。
私が体を動かしたせいか、男性が目を覚ました。ゆっくりと開いた目が、腕の中の私を見つめ、微笑んだ。
「……おはよう、綾波」
その微笑み。私の心を蕩かす、魂に刻まれた微笑み。私は思わずその名を口にしてしまった。
「……いかり、くん?」
彼は私の髪を撫でると、枕元の目覚まし時計に目をやる。
「まだ六時か。もう少し寝てようか」
声が違う。男性の声は低い、大人の声。碇くんの声とは違う。なら、あの微笑みは……? 考え込む私を彼は抱き寄せ、私の背中に手を回す。私は彼の首筋に頬を寄せる形になった。匂い……この匂い。忘れもしない。
いかりくんの、におい。
間違いない。この人は、碇くん。
「どうしたの?」
「……あの、碇くん……ここ、どこ?」
「どこって……部屋だよ」
「……どこの、部屋?」
「……僕らの部屋。どうしたの? 変だよ綾波」
そういって彼は私の顔を見つめる。顔も、違う。中学生の幼い顔ではない、大人の男の顔。でも、面影がありありと残る、碇くんの顔。その顔が近付き、やがて私の顔と重なる。私の心臓が高鳴り、脈拍が早くなる。これが、キス……?
彼のぬくもりに包まれ、彼のにおいに包まれ、彼と唇を重ねる。私の中の『碇くんを求める心』が喜びの声を上げている。つい先程、第十六使徒戦で自覚したばかりの私の心はたちまち満たされた。
でも、なぜ。なぜ私は碇くんの腕の中にいるのか。なぜ彼は大人なのか。
彼に聞きたい。でも、ダメ。頭の芯が痺れ、意識が混濁していく。彼の執拗なキスが私を捉えて離さない。私の唇が割られ、口内に彼の舌が侵入している。
何の抵抗もなく口を開き、彼の舌を受け入れる自分に驚く。その舌が私の舌を翻弄するたび、頭の中が空白になる。私が消えていく。これが、私の望み?
いかりくんと、ひとつになる。
私のその望みを、彼はたやすく叶えてくれた。私は彼の下で泣き、叫び、歌い、狂い、そして突然真っ白になった。
「朝ご飯作るからさ。シャワー浴びておいでよ」
彼が言う。思考能力の回復しない私は素直に立ち上がり、浴室と推定される小部屋に向かった。
洗面所で鏡を見る。そして凍り付く。そこに映る私。髪が少し長い。胸が大きい。背も伸びた気がする。私も、違う。どうすればいい?
少し考えて、まずシャワーを浴びようと決めた。差し当たり身に危険はなさそうだし、体が彼と自分の体液で汚れている。それに…………
いかりくんと、いっしょ。
シャワーを浴びながら考えた。ここは平行世界? タイムスリップ? いずれにしろ現状では判断材料に乏しい。材料無しでの推測は無意味だろう。やはり彼に聞くしかない。でも、聞いていいのだろうか。この世界の綾波レイは、おそらく彼の恋人。その中身が『違うモノ』に変わっているのを知ったら彼はどうするだろう。
スポンジにボディソープを泡立てて、体を洗う。洗いながら、先程を思い出す。この体に触れた、彼の指を。彼の唇を。彼の肌を。彼の吐息を。彼の鼓動を。
私のものでない、借り物のこの体。でも、あの歓喜は、あの愉悦は私のもの。
ふと可笑しくなった。私の体は元々借り物。本当の体など、私にはないのに。
初めての性交では痛みがあると聞いていた。でも、先程碇くんに抱かれた時、痛みはなかった。あったのは底無しの快美感。果ての無い浮遊感。どうやらこの体は、既に何度も彼を受け入れているらしい。羨ましいと思った。妬ましいと思った。この世界の綾波レイが憎いと思った。
「わっ!? あっ綾波、裸はやめてって言ったじゃないか!?」
そう言って彼はタンスを開け、下着類を取り出して私に渡す。
「早く着て!」
失敗だった。彼はこういうのを嫌がる人だった。起きた時から裸だったから、着替えの用意など失念していた。とりあえず、彼に渡された着衣を着ける。
「……綾波、どうしたの? おかしいよ、朝から」
彼の心配そうな目。このままなら、やがてそれが不審の目に変わるだろう。
その前に言うべきか。
「……碇くん、ここ、何処?」
「えっ!?」
「私、さっきまで零号機に乗っていたの。第十六使徒に侵食されて、自爆装置のレバーを引いて、気が付いたら、ここのベッドであなたと寝ていたの」
碇くんが目を見開く。硬直する。
「……綾波!」
私は強く抱きしめられた。
「二人目!? 君は、二人目なの!?」
「……ええ」
彼の腕にますます力がこもる。少し苦しい。でも、嫌じゃない。
「……綾波……二人目の君に会いたかったんだ……」
「いかり、くん」
「……君が死んじゃって、辛かった。悲しかった。双子山の時みたいに、もう一度笑って欲しかった。会いたかった……」
私の頬に雫が落ちる。涙? 碇くんの涙? こういう気持ちを何と呼ぶのだろう。
胸が締め付けられて苦しい。でも嫌じゃない。
碇くんの腕から力が抜けてくる。息苦しさが消える。目と目が合う。
「あの、碇くん……ここ、どこ?」
「……今は2021年だよ。僕らは大学生で、一緒に住んでるんだ」
「2021年……あの、この体は?」
「ああ、つまりその、三人目の君と一緒に暮らしてるんだ」
「そう……次の私。私は無に帰らなかったの……?」
「一度無に帰ったんだ。でも戻って来てくれた。僕が望んだから。そして君自身が望んだから」
「私自身が……そう、そうなの……」
彼はさまざまなことを話してくれた。ダミープラグのこと。量産機のこと。リリスのこと。サードインパクトのこと。赤い海のこと。ひとつになったこと。
「ど、どうしたの、綾波。泣いてるの?」
「……碇くん。あなたは全てを知って、それでも私を受け入れてくれたの?」
「うん……というか、全てを知ったからこそ、綾波を選んだんじゃないかな。僕を見てくれたのは綾波だけだったから。要らない僕を顧みてくれたのは君だけだったから」
私は彼の胸で泣いた。つい先程、初めて泣くことを覚えた私は、その感情をとどめるすべを知らなかった。体中の水分が無くなりはしないかと思うほど泣いた。
「碇くん……私、ここに居たい。あなたと一緒に居たい」
「居ていいよ。いつまでもずっと」
「本当に?」
「本当さ」
また新たな涙が溢れ出る。私は泣いて、泣いて、泣き尽くした。
「綾波、お腹すいたろ?ご飯にしようよ」
私が泣き疲れた頃、彼が言った。私は頷いた。
食卓に並んだのは、ご飯・みそ汁・目玉焼き・きんぴらゴボウ・ポテトサラダ・漬物など。豪華なものは一つもなかったけれど、私には食べる機会のなかった家庭料理。碇くんの心がこもった料理。温かい。嬉しい。
「……美味しい」
「そのポテトサラダ、君が作ったんだよ。その、三人目の君が……」
途端に私の心に影が射す。私の出来ないことが出来る、三人目の私。
遅い朝食の後、彼が出掛けようと誘ったけど、私は断った。思いもしない展開に私は混乱していたし、疲れていた。ここまでの出来事を整理する時間が欲しかった。それに、碇くんのぬくもりが欲しかった。そのぬくもりを体の芯に染み込ませる時間が欲しかった。
結局私は一日中、彼に寄り添って過ごした。彼が立てば共に立ち、彼が座れば隣に座ってその肩にもたれ、彼が寝転べば、その胸に頬を寄せて寝転んだ。
そして夕食の後、私は再び彼に抱かれた。夢のようなひと時の後、目覚めた時と同じく、彼の胸を枕にして、彼に髪を撫でられながら眠った。
そして私は夢を見た。
私は赤い海にいた。目の前には白いプラグスーツを着た蒼銀の髪の少女。
その唇の端が、笑う形に吊り上がった。そして言う。
「……私とひとつにならない?」
いつか見た光景。いつか聞いた問い。私はいつかと同じ返答をする。
「いいえ、私は私。あなたじゃないもの」
「そう。でも遅いわ。あなたは愛される喜びを知ってしまった」
私と同じ姿形の少女が、同じ声で言う。
「私の心を分けてあげる。私の気持ちをあなたにも分けてあげる。痛いでしょう? ほら、心が痛いでしょう?」
「痛い? いいえ、暖かい。あなたの心、暖かい」
「だって、あなたは私、私はあなた」
「そう……今わかったわ。あなたが、サードレイ」
「未来へようこそ、セカンドレイ」
この体の本来の持ち主、次の私。三人目がそこにいた。
「私を呼んだのはあなた? サード」
「そうよ。あなたを捜すのは大変だったわ、セカンド。でも、とうとう見つけた。NERVに保管されていた第十六使徒アルミサエルの残骸の中に、あなたの記憶と人格が転写されているのを見つけたの」
「そう……第十六使徒。私を侵食した使徒。私と共に滅びた使徒。でも、なぜ? なぜそこまでして私を呼ぶの?」
「あなたが憎かったから」
「憎い? なぜ私を憎むの? この世界にいない、死んだ私を憎むの?」
三人目は私をじっと見つめた。しばしの沈黙。
「……碇くんの目が、時々私を見ていないことがある。遠い目で私を見ていることがある。最初はわからなかった。でも、知ってしまった。彼は、二人目のあなたを見ていた」
「碇くんが、私を……」
「彼に押し倒されたあなた。月夜の双子山で微笑んだあなた。雑巾を絞るあなた。彼は時々、私の向こうにあなたを見ていた。それを知った私は、あなたを憎んだ。彼の全てが私のもののはずなのに、そうじゃない。私は、あなたが憎い」
「そう。私もあなたが憎い。彼に毎日抱きしめられ、口づけされ、愛されているあなたが憎い。私が命をかけて求めたものを、手安く手に入れられるあなたが憎い」
「知っているわ。だってあなたは私。私はあなた」
「私は私。あなたじゃないわ」
「嘘。知っているくせに。あなたは過去の私。私は未来のあなた。あなたと私は、引き裂かれた一人の私」
「そう……そうかもしれない」
「だから、私とひとつになりましょう。あなたは未来が欲しい。碇くんと共に歩む未来が。私は過去が欲しい。碇くんと出会い、共に戦った過去が」
「そう、ひとつになるの」
「知っているでしょう? 綾波レイは欲が深いの。碇くんとの過去、現在、未来。全てを自分のものにしたいの。だからひとつになるの」
白いプラグスーツの少女は私に手を差し延べる。私は少女に手を差し延べる。
手と手が触れ合った瞬間、未来の記憶が私に流れ込む。彼と共に笑う私。彼と共に泣く私。彼と共に歩く私。私の知らない彼。私の知らない私。
そして私たちは、ひとつになった。
【翌朝】
僕が目覚めると、隣に彼女がいなかった。キッチンから音がする。
トントントン
「おはよー……あれ? 綾波?」
「おはよう、碇くん。もうすぐご飯が出来るわ。早く顔を洗って来て」
「あ、朝ご飯作ってくれたの?」
「今日の当番は私だもの」
確かに奇数日は彼女が食事当番だけど、それを知ってるということは……
「……あ、あのさ綾波、今の君は、何人目なの?」
「私は私。たったひとりの綾波レイ。変な碇くん」
「??? ……とりあえず、顔洗って来よう……」
「いただきます!」
「はい、召し上がれ」
モグモグ ムシャムシャ
「……美味しい!綾波って最近、料理上手くなったよね」
「昔、誰かさんに言われたわ。主婦が似合うって」
「えっ!? なぜ知ってるの?」
それを知ってるのは二人目だけのはずだけど……でも、二人目の彼女に料理が出来るとは思えないし。
「もう言ったわ。私はたったひとりの綾波レイ。包帯だらけだった綾波レイ。双子山であなたに微笑んだ綾波レイ。碇司令を捨ててあなたを選んだ綾波レイ。赤い海から還った綾波レイ。全て私。あなたの知っている綾波レイは私だけ」
「ってまさか……両方なの!?」
「どう? 二人目と会えてうれしかった?」
「うん……もう会えないと思っていたからね。彼女も僕が好きだったと知ってうれしかったよ」
「なら問題無いわ。たったひとりの綾波レイはここにいる。そして碇シンジを愛している。それで十分でしょう?」
「そうだね。ごめん、キスしていいかな」
「そんなこと、いちいち聞かないで。黙って抱きしめてキスしてくれればいいの」
「そうするよ」
僕は彼女を抱きしめてキスをした。唇を離すと、赤い瞳から一筋の雫が溢れた。
「……なぜ泣くの? 綾波……」
「……わからない。ごめんなさい」
「大丈夫。これからも、何千回も何万回もキスしてあげる。だから泣かないで」
「うん……もう少し、こうしていていい?」
「わかった。ずっと抱いててあげるから、いっぱい泣いていいよ」
「……ありがとう……」
だけど彼女の涙は止まらない。結局僕らは二日続けて講義をサボった。
【終わり】