先生と少年

written by タン塩


 第三新東京市郊外。緑豊かな住宅地。カッターシャツに制服ズボンの少年が一人、家路に就いていた。黒い髪、黒い瞳。背中にデイパック。片手に買い物袋。
 九月になってもまだまだ暑い空を見上げる。ひとつ溜息。
「……あれから少し平均気温が下がったっていうけど、本当かなあ」
 ひとつ愚痴をこぼして、瀟洒なマンションへと入って行く。
 エレベーターは最上階の八階へ上る。その一室のドアをカードキーで開ける。
 プシュー
 ドアを開けた途端、廊下に流れ出す冷気。少年は少し首をかしげて室内へ。
「先生、お帰りでしたか」
 先生と呼ばれたのは七十絡みの男性。しかし、老人と呼ぶには些か躊躇うほど背筋が伸び、目に光がある。
「ああ、今日は早く終わってな」
「お茶でも入れましょうか」
「いや、自分で入れたよ……レイは?」
「それが彼女、女友達に捕まっちゃって、お茶してウィンドウショッピングだそうです」
「……そうか、レイがな。友達か」
 先生は感慨深げに頷いた。
「彼女には言ってるんです。僕より友達を優先しろって。女の子には、女同士の付き合いが必要だと思って」
「それは間違いないな。男が教えられない事は山ほどある」
「面白いですよ。何も知らなかった女の子が、ファッションとか化粧とか、女の子らしいことを覚えていくのを見ていると」
 少年は、買い物の食料品を冷蔵庫に入れながら、楽しげに呟いた。
「ちょっとした光源氏かな」
「そんなのじゃないですよ。彼女には、自分らしさを自分で見つけてほしいし、僕自身もまだまだ成長しないといけないし」
「……君もずいぶん成長したよ、シンジ君」
「そうですかねぇ。自分じゃ、中学時代と全然変わってない気がするんですけど」
「そうかな。『自分より友達を優先しろ』などとは、成長しないと言えないぞ、自分の恋人には」
「い、いや、恋人って……」
「隠すことはあるまい。私のいない時に、レイとよろしくやっているのだろう? 気付いていないと思ったかね」
「あちゃー……た、確かに彼女と付き合ってますけど、なぜ判ったんですか?」
「レイを見れば判るさ。素っ気ないそぶりをしても、いつも目でシンジ君を追っているしな。女の目は嘘をつけないものだよ」
「はあ……」
「それに、最近のレイは綺麗になった。あの美しさは内面から来るものだ。愛され、心身両面で充たされている『女』の美しさだよ。男を知らない少女には出せない美しさだな」
「す、すいません」
「謝る必要はない。年頃の男女には、むしろ自然なことだ。もっと堂々と付き合ったらどうかね」
「そうですね……」
「……ひとつ聞きたいんだが、レイとの交際はどこまで進んでいるのかね」
 少年は、ぎょっとして先生の顔を見た。そして、その顔にからかいの色などかけらもないのを見て、観念して答えた。
「どこまでって……あの、一応彼女には『将来、君とのことはきちんとするから』って言ったんですけど……」
「プロポーズ済み、というわけだ」
「そ、そんな、プロポーズだなんて……でも、そういうことになるのかな……」
「そういうことなら話は早い。君の誕生日は六月六日だったな?」
 唐突な質問に、少年は困惑しながら答える。
「そ、そうです」
「今度の六月六日に、満十八歳になるんだね?」
「ええ」
「ではシンジ君、君が十八歳になったら、レイと入籍したまえ」
「にゅ、入籍って!?……それってつまり、僕が綾波と結婚……?」
「そうだ。いずれそういうつもりなら、早い方が良かろう。とりあえず籍だけ入れて、挙式や披露宴は、成人してから二人で相談してやればいいだろう」
「でも、まだ高校生なのに結婚なんて……」
「いくつか理由があるのだよ。まず第一に遺産相続の問題だ」
「父さんの遺産って、そんなにあるんですか?」
「ユイ君は碇財閥の令嬢だったが、その遺産は、ゲヒルン時代に碇がエヴァ開発に注ぎ込んでしまったのだ。なにしろエヴァは金食い虫だったし、使徒襲来に間に合わなければ何にもならん。やむを得なかったのだよ。その結果、碇の個人資産はエヴァそのものと、その開発、運用技術だけになった。ユイ君の遺産とゼーレからの裏資金を合わせた巨額の個人資産も、皆エヴァに喰われてしまったわけだ」
「エヴァが個人資産なんですか?」
「そこが碇の抜け目のない所だな。開発中は金食い虫だったエヴァだが、使徒襲来が現実の危機になると、逆に『金の成る木』になったのだ。なにせ人類滅亡の危機だ。金の出所はいくらでもあったからな。碇は出張ばかりしていたろう? あれは使徒戦をネタにあちこちから予算をもぎ取るためさ。エヴァを握っていれば金はいくらでも入ってきた。だから零号機と初号機を個人資産にしたのだよ」
「でも、もう零号機も初号機も無いじゃないですか」
「そうだ。有り体に言えば、遺産はほとんど無い。サードインパクトの後に金を残しておいても仕方ないからな。だが、エヴァの基礎技術の特許権の一部が碇の名義になっているから、NERVで特許権を買い取る形で、君達二人が大学に通えるぐらいの金額は出せると思う。その後は自力で生活したまえ」
「分かりました」
「そこで、碇の残した二人の遺児――レイもそう言って構わんだろう――が夫婦になって、一つの法的人格に纏まってくれれば何かと都合がいい。それに、未成年でも、結婚して戸籍が独立すると法的に成人扱いになる。この二点が手続き上の利点だな」
「はい……」
「しかしもっと重要なことがある。君達の将来の問題だ。君は、セカンドチルドレンがなぜドイツに帰ったか知っているかね」
「アスカが? いいえ」
「……世界には、元チルドレン同士が接触するのを快く思わない連中がいるという事さ。まあ一面、彼女に取ってはチャンスでもあった。彼女は欧米の一流の研究機関に所属できるチャンスを選択したわけだ。だが、君やレイは彼女とは違う。特にレイはな」
「綾波が……?」
「レイは各国の研究機関から狙われている。彼女を研究すれば、人造生命体の作り方が分かると思っている連中が未だにいるわけだ。実際、使徒戦役後各国間でレイの争奪戦が起きた。人身保護の美名に隠れて、彼女を研究材料にしようとしたのだ。
 私が君達を引き取ったのも、そうした動きに先手を打つためだ。碇亡き後、君達の保護者は私だ。保護者と被保護者が同居するのに口出しはできんからな。私はいわば中継ぎ役だ。レイを君に引き継ぐためのな」
「綾波を、引き継ぐ……?」
「彼女には保護者が必要だ。かつては碇であり、将来は君だ。そして碇の死後、君が責任を取れる年齢になるまでの中継ぎ役は、私の務めだろう」
「僕と綾波は、引き離されるところだったんですか……」
「そのための入籍だ。夫婦になれば、人道を口実に君達を引き離すことは出来ないからな」
「でも、綾波に戸籍ってあるんですか?」
「あるさ。むろん偽造だがな。レイが中学に入学する時に碇が裏から手を回して作らせた。架空の両親までそれらしくデッチ上げた、なかなか凝った代物だよ」
「でも、戸籍が偽造だと知れたら?」
「欧米系の研究機関相手なら問題ない。向こうでは、男女が結婚という契約を交わした事実が重視されるからな。聖書にあるだろう。『結婚とは神が男女を結び付けるもので、それを人が離してはならぬ』と」
「そうですか……でも、綾波にはどう言えば……」
「フフフ……そんなことは自分で考えたまえ。私や君の思惑がどうであれ、レイにとっては惚れた男との結婚だ。気の利いたセリフの一つもひねり出してみたまえ」
「そうか……そうですよね。綾波には、そういう世間的な都合とか手続きとか関係ないですもんね。彼女はホントに……普通の女の子になりましたから」
「好きな男の子との結婚を夢見る普通の女の子……かね?」
 初めて混じるからかいの色に、少年は困惑して顔を伏せる。
「い、いや、そんな意味じゃ……」
「最近、レイも家事が上達したな。自ら進んで家事に取り組んでいる。例えば、君が茶を入れに立ち上がろうとすると、レイが先に立って茶を入れてしまったりするな。あれは誰のためかね」
「……あれって、やっぱりそういう意味なんでしょうか? 僕が食事当番の日でも、僕より早起きして、黙って朝食を作ってくれてたりするんです」
「いじらしいじゃないか。いつでも嫁入りOKというわけだ」
「や、やっぱりそういう……」
「なあシンジ君。結婚にはタイミングというものがある。結婚への気持ちが盛り上がったタイミングを外すと、好き合っていても気まずくなって別れてしまったりするものだ。特に女性は、あまり待たせると逃げ出すぞ」
「で、でも、まだ高校生ですし」
「年齢は関係ないさ。特にレイはな。彼女は世間の常識には囚われない。ただ心の欲するままに求める。最近綺麗になったのは『準備OK』という、彼女の心と身体からのサインだよ。君も薄々感じててるんじゃないかね?」
「……そういえば最近、綾波の雰囲気が柔らかいというか、しっとりした感じになって来た気がします。まだ十七歳なのに『お母さん』て感じが……何言ってるんだろ、僕……」
「なら『お母さん』にしてやったらどうかね」
「せ、先生!? 無茶言わないで下さいよ」
「覚悟を決めたまえ、シンジ君。彼女はどんどん先に進んでいるのだ。君が立ち止まったら、置いて行かれるぞ」
「そう……そうですね。頑張ってみます」

 ピンポーン
「レイではないか?」
「そうですね」
 少年は玄関に向かう。ドアの向こうに立つのは蒼銀の少女。
「……ただいま」
「おかえり。早かったね」
 見交わす目と目。一瞬、重なる唇。それが二人のいつもの儀式。
「夕飯の支度するから」
「手伝うわ」
 リビングに入る二人。少女は先生に少し笑みを見せる。
「……ただいま帰りました、冬月先生」
「おかえり、レイ」
 少年はキッチンに入る。少女は、その後ろ姿を愛しげに見送ってから自室に入り、しばしして普段着に着替えて出て来る。
「……ああ、レイ。シンジ君が大事な話があるらしいぞ」
「大事な話、ですか……?」
 先生の一言に怪訝な表情を浮かべ、少女はキッチンに向かう。
「いかり、くん……」
「ああ綾波、ピーマンを刻んでくれる?」
 少女はまな板に向かい、野菜を刻む。包丁の音だけが響く。
「……碇くん」
「なに、綾波?」
 少年は鍋から顔を上げ、少女に微笑む。少女は、少年の笑顔に少し見惚れてから問うた。
「……大事な話って、なに?」
「……え?」
「冬月先生が言っていたわ。碇くんが私に大事な話があるって」
 彫像のように硬直する少年。不思議そうに小首を傾げる少女。夕日の差し込む
 キッチンに包丁の音は途絶え、ただ静寂だけが支配した。


【終わり】

この作品の感想は、感想掲示板にお願いします。

【投稿作品の目次】   【HOME】