LOVE IS HERE TO STAY
written by タン塩
ここ二週間ほど、彼女の帰りが遅い。
彼女の勤める研究所の命運を賭けた一大プロジェクトが追い込みとかで、彼女も大車輪の忙しさ。連日の残業で、帰るのは毎日九時十時だ。
僕は七時には帰って来て夕飯の支度をして、もう九時だけど、彼女はまだ帰らない。ため息をついてリビングに座り、つまらない番組ばかりのテレビを消した。
結婚して三年、とりあえず子供が出来るまで、といって続けてきた共働き。子供はいっこうに出来ず、有能な彼女はどんどん昇進し、今は生命工学部門の主任研究員という地位になり、数人の部下を持つ身になった。当然仕事も増え、二人の時間はどんどん減っていく。
おかしなものだ。僕は自嘲の笑いを漏らした。あの頃は、彼女に普通の女性になってほしいと思っていた。普通な彼女と一生暮らしたいと思っていた。だけど、いざ彼女が普通になると、僕は不安だらけになった。
かつての彼女は、間違いなく僕を必要としてくれていた。私には何もない、と言った彼女を充たしてあげられるのは自分だけだと思い込んでいた。でも、今は……
彼女には社会的に認められる職業があり、それに相応しい収入があり、女性研究者として充実した生活を送っている。そこから僕がいなくなっても、彼女の人生には支障にならないはずだ。
最近、彼女の研究が高く評価され、世界中の複数の研究機関から彼女に招聘が来ていることは知っている。むしろ僕がいない方が、家庭や夫に縛られずにどこの研究機関にでも行けて、彼女のためにはいいかもしれない。
もちろん、彼女の才気と美貌なら、寄ってくる男性は星の数ほどいるだろうし、その中には、僕より気の利いた男も、僕より優しい男も、そして僕より彼女の心を見てあげられる男もいるだろう。
もともと彼女は僕には過ぎた女性だった。付き合い始めた時から、それは感じていた。彼女は美しく、優しく、真っ直ぐな心を持った魅力的な女の子だったし、僕はと言えば、自分の長所は何かと聞かれて、しばらく考え込んでしまうような男だ。不釣り合いなのは最初から分かり切ったことだった。
彼女には、僕は必要ないんじゃないか。むしろ僕のいない未来の方が、彼女のためになるんじゃないか。僕はずっとそんなことを考えていた。
ピンポーン
呼び鈴が鳴る。僕は慌てて玄関に出る。
「お帰り、レイ」
「…ただいま、シンジさん」
疲れ切った彼女が帰宅した。僕は彼女のバッグを受け取って、聞く。
「ご飯? お風呂?」
「お腹ペコペコなの」
「用意できてるから、着替えてきて」
僕が夕飯を温め直す間に、部屋着に着替えた彼女がダイニングテーブルにつく。
椅子に座って、一つため息をつく彼女。
「仕事、大変そうだね」
テーブルに料理を並べながら尋ねると、彼女はもう一度ため息をついて言う。
「…なかなか思った通りの結果が出ないの。今日もデータの洗い直し。疲れたわ…」
「そうか。大変だね研究者は。さあ召し上がれ」
「いただきます」
そう言って食べ始めた彼女。本当に腹ぺこらしく、いつも上品な彼女がガツガツと掻き込む。僕も箸を取ったけど、あまり食欲がない。
「ごちそうさま。おいしかった」
「はい、お茶」
「ありがとう。ごめんなさい、シンジさん」
「ごめんって?」
「…私、最近少しも奥さんらしいこと、してあげてない」
「そんなこと。僕だって旦那らしいこと、何一つできないから」
「そんなこと、ない」
彼女の優しさ。だけど今はその優しさが、つらい。
「……なぜ、そんな顔するの、シンジさん?」
顔を上げると、僕をじっと見つめる赤い瞳。
「何でもないよ」
「嘘。辛そうな顔してた」
「何でもないって」
「嘘」
赤い瞳。嘘もごまかしも許さない、真っ直ぐな瞳。
「…君の仕事が一段落して時間ができたら、少し二人で話そう」
「今、話したいの」
やめて。今はまだ、気持ちの整理ができてない。
「話して」
やめて、やめて。今話したら、恐ろしいことを言ってしまう。
「話して」
やめて。
「………別れよう」
彼女の表情が強張る。僕の口は、僕の意に逆らって動く。
「昔の君は、何もなく、何も知らなかった。だから、僕みたいな男でも、君の側にいる意味があったかもしれない。
でも、君は変わった。今の君は何でも出来る。どこへでも行ける。君一人の力でどんな夢でも叶えられる。君はそろそろ、過去から解き放たれて、自由になっていいと思うんだ。もう僕に縛られる意味はない。
……僕の役割は、もう終わったと思うんだ。過去と僕から飛び立って、この世界を自由に飛び回るのが、君にふさわしい未来だと思うんだ。
それに、僕なんかより、気が利いて、優しくて、君の心を見てくれる男性はいっぱいいると思うんだ。僕に縛られるなんて、無意味だよ」
凍り付いた視線。昔みたいな無表情。冷えた沈黙。
「………それがあなたの気持ちなの?」
静かな声が、氷の刃になって僕の胸を貫く。
「……………うん」
「……そう」
長い沈黙。
「………わかったわ。それがあなたの気持ちなら、お別れしましょう」
おかしいね。自分で言ったことなのに、辛くて悲しくて、叫び出しそうな僕。
「……そのかわり、私の気持ちも聞いてくれる?」
「……………うん」
ひとつ大きく息を吸う彼女。
「碇シンジさん、私と結婚してください」
真っ白になった僕の頭。
「………けっこん?」
「三年前、あなたがプロポーズしてくれて、私が承諾して、結婚したわ。そしてたった今、あなたが別れようと言ったから、私は承諾した。だから今度は、私がプロポーズするの。あなたが必要だから。あなたの側にいたいから。あなたが欲しいから」
「いや、えーと、その…」
事態が飲み込めない。わけがわからない。
「返事は?」
「え?」
「返事を、聞かせて」
真っ直ぐな視線。最上質のルビーが僕を見つめる。
「………ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「ばか」
そう言って笑い出す彼女。
「でも、これで決心がついたわ」
「何の決心?」
「私、仕事辞める」
「えっ!? 辞めてどうするの?」
「家庭に入るわ。専業主婦になるの」
「な、なんでそんな」
「…実は今日、研究所長と喧嘩したの。今のプロジェクトも片付かないのに、次のプロジェクトの話を持ち出してきて、責任者をやれって言うの。そんなの引き受けたら、ますます家に帰れなくなるわ。私にも家庭がありますからって言ったのにしつこくて、とうとう喧嘩になってしまって。いい機会だから、辞める」
「で、でも、そんな」
「…実はここ一年ぐらい、ずっと考えていたの。責任と勤務時間ばかり増えて自分のやりたい研究もできないし、何よりあなたと過ごす時間が減るのが我慢できなかった。昇進するのも考えものね。人を使うのも苦手だし、辞め時を探していたの。今のプロジェクトが片付いたら辞めるわ」
「でも、勿体ないよ」
「あなたを失う方が勿体ないわ。研究しなくても死なないけど、あなたがいなくなったら私、死んじゃうもの」
「でも、専業主婦って」
「家のことをあなたに頼りっぱなしなのも心苦しかったし、それに…」
「それに?」
「いつも側にいて構ってあげないと、あなた、すぐにいじけて落ち込むから」
「い、いじけてって、ひどいよレイ…」
「だってあなた、自分がどんなに素敵な男性なのか、気付いてないんだもの」
「そ、そうなの?」
「シンジさん」
「え」
僕の胸に飛び込んでくる空色の頭。重なる唇。お互いの頭に回る手。長い長いキス。
「んっ」
「ふう…」
やっと離れる唇。見つめ合う目と目。
「もう一度。今度はあなたから…」
「うん」
改めて彼女を抱き寄せてキス。さっきより余裕を持って、ゆっくりと、お互いを味わうように。つまらない猜疑心やひがみや自己不信が消えていく。
「…レイ!」
「だめ」
一気に押し倒そうとした僕の腕をすり抜けて、彼女はちょっと意地悪く笑う。
「シャワー浴びてくるわ。そのあともう一度キスしましょ」
「キスだけ?」
「素敵なキスをしてくれたら考えてもいいわ」
「よし、頑張ろう」
「ばか」
そう言いながら微笑む彼女。バスルームに向かいかけて、ふと振り返る。
「そうだ。私、最近発見したの。シンジさんの落ち込みの法則」
「ほ、法則って、そんなのあるの?」
「とても単純なことだったの。どちらかが忙しくて一次接触の頻度が落ちると、頻度に反比例して落ち込み度が上がるの。わかりやすいわ、あなたって」
「そ、そんなの嘘だよ! 何かの間違いだよ」
「間違いないわ。だって私、生命工学だと何番目かわからないけど…」
彼女が悪戯っぽく目を輝かせる。
「碇シンジ研究の分野では、第一人者だもの」
【オマケ】
「本当にいいの? 辞めちゃって。せっかく高く評価されているのに」
「……私は、赤木博士を見ているから」
「リツコさんを?」
「赤木博士は科学者としてはとても優秀だったわ。私なんか及びもつかないほど。でも、女としては不幸だった。彼女も、その母親も」
「レイ、その話は止そうよ」
「いいの。昔の話だわ、一人目のことなんて。今なら私も分かるの。『婆さんは用済み』なんて言われたら、その子供を絞め殺したくなるわ、私だって。フフフ」
「まあ、そうだね」
「……だから、最初から決めていたの。研究者としての成功や名誉と、女の幸せが両立しない時は、迷わず女の幸せを選ぼうって」
「……ごめん」
「なぜ謝るの?」
「両立できなかったのは、僕が駄目な夫だからだよね……」
「違うわ。私だって、最近イライラしていたの。キスの回数が減ったなって。だから所長と喧嘩しちゃったのね、きっと」
「喧嘩してるレイって想像つかないなぁ」
「それに、おいしいご飯を作ってくれて、奥さんの帰りが遅くなっても食べずに待っていてくれる旦那様は、ダメじゃないわ」
「僕の取り柄はそれぐらいだもん」
「だから今度は、私がおいしいご飯を作ってあなたを待つわ」
「……いいなあ、それ。毎日レイがご飯を作って僕の帰りを待っててくれるって。それなら張り切って仕事して、レイを養っちゃうなあ僕」
「あ、思い出した。ちょっと待ってて、あなた」
「なに?」
「はい、これ」
「通帳? ……ってなんだよこの残高は!?」
「それだけあれば、頭金になるでしょう?」
「頭金ってまさか」
「夢の一戸建て♪」
「いっこ、だて……」
「実は目を付けてる物件がいくつかあるの。休みが取れたら見に行きましょう」
「そうか……僕もローンおじさんの仲間入りか……」
「張り切って仕事するんでしょう? 私は張り切って節約するわ」
「完全にその気だね、レイ……」
「やっぱり子供は、庭のある家で育てたいもの」
「え? も、もしかして…?」
「遅れてるだけかもしれないけど……」
「だ、だめだよ! 出来てたらどうするの!? 残業なんかしちゃだめ!」
「そうね」
「あ……いけない! 妊娠初期はエッチもいけないんだよね? どうしよう、しちゃった……」
「過敏になりすぎだわ、あなた。激しくしなければいいの。優しくしてくれれば。それに、まだ出来たと決まったわけじゃないし」
「でで、でもさ」
「……あなた、子煩悩なパパになるわね」
「君は躾に厳しいママになりそうだね」
「心配だわ。あなた、子供を甘やかしそうで」
「……自分でも、そんな気がする」
「仕方ないわ。私、優しい人だから好きになったのだもの。でも、甘やかすことばかりが優しさではないのよ。わかってる?」
「はい、わかっております」
「よろしい」
「でも、出来てたらいいな……覚えてる?『お母さんて感じがした』って」
「忘れるわけないわ」
「あの時からずっと、お母さんになった綾波を見てみたいと思ってたんだよね」
「久しぶりだわ、綾波って呼ばれるのは」
「あ、いやその、つい……」
「今日は許してあげるわ、『碇くん』。私たちの、二度目の結婚の記念日だから」
「い、いや、二度目って……ごめん」
「そうだわ、また指輪を買ってもらおうかしら。二度目だもの」
「い、いじわる……」
「ウフフ、指輪は勘弁してあげる。その代わり家を建ててもらうから」
「……………はい」
「ねえ、もう一度……」
「えっ? だ、だって、妊……」
「や・さ・し・く・してね」
「はい……」
【終わり】