のバレンタイン

written by タン塩


 綾波レイは燃えていた。燃え上がっていた。そう、まさに炎の如く。
 何ゆえに燃えていたかといえば、それは去年の今頃の出来事に端を発する。その日、レイは普段通りに登校した。
「……おはよう、碇くん」
 最近意識しなくても浮かべられるようになった笑顔でシンジに挨拶する。
「お、おはよう綾波」
 シンジの態度が何かおかしい。意味ありげな視線でレイをちらちら見る。
「……どうしたの、碇くん?」
「ななな、何でもないんだ!」
「……?」
 不思議に思ったレイが問い掛けると、シンジは顔を真っ赤にして叫ぶ。不審ながらも、レイは鉾を収めた。

「は、はい綾波、お弁当」
「ありがとう、碇くん」
 シンジのお弁当。うれしいお弁当。心が暖かくなるお弁当。レイはいつものように、極上の笑顔で受け取った。
 しかしその日はやはり違った。弁当を渡したシンジが、何か言いたそうな視線でレイを見るのだ。
「…どうしたの、碇くん? 今日はおかしいわ」
「な、何でもないよ」
「嘘。私に言いたいことがあるなら、言って」
「何でもないってば!」
 シンジの強い口調に黙り込むレイ。
(碇くんが怒ってる? ……なぜ? 私、碇くんを傷付けたの?)
 シンジは自席に戻って、黙々と弁当を食べはじめた。その態度にレイはまたショックを受ける。
(なぜ? なぜ今日はいつもみたいに『一緒に食べよう』と誘ってくれないの? 私が嫌いになったの?)
 レイはもう昼食どころではなくなった。弁当箱を胸に抱いたままシンジを見つめるレイ。だがシンジはレイに目を向けようとしない。
(碇くんが怒っている。だけど理由を教えてくれない……なぜ? 私、知らないうちに碇くんを傷付けているの?)
 食べ終えた弁当箱を片付けるシンジのもとに他のクラスの女子の一人が近寄る。
 彼女は綺麗にラッピングされた小さな箱を差し出した。
「あの、碇君! これ、受け取ってください!」
 反射的に手を出して小箱を受け取ったシンジ。女子は頬を染めて教室から駆け出して行った。呆然とするシンジ。
「…碇くん。それ、何?」
 顔を上げたシンジの目を、赤い瞳が真っ直ぐに見つめる。
「あ、あの、別にその……」
「……言えないの?」
「チ、チョコだと思う……」
「チョコ。チョコレート。カカオを原料とした菓子の一種。なぜ隠すの? 碇くんが誰かからチョコレートを受け取っても、隠す理由はないと思うわ」
「もういいよ!」
 教室から駆け出すシンジ。その後ろ姿を茫然と見送るレイ。
「碇くん……なぜ……なぜなの…?」
「綾波さん、ちょっといい?」
 半泣きになったレイに声をかけたのは、委員長こと洞木ヒカリであった。
「綾波さん、バレンタインデーって知ってる?」
「St.VALENTINE'S DAY……古代ローマ時代のキリスト教の聖人、聖バレンタインを記念する日……」
「その日に行われる風習は知ってる?」
「わからない……」
「日本では、その日に女の子が好きな男の子にチョコをあげる習慣があるのよ」
「チョコをあげる…? なら、碇くんは…」
「綾波さんがチョコをくれるのを待ってたんじゃないかしら」
「チョコ……私、知らなかった……」
「もし知ってたら、碇君にチョコをあげた?」
「……あげるわ。私、碇くんが好きだもの」
「ねえ綾波さん、放課後、うちに来ない? 一緒に手作りチョコを作りましょう」
「チョコを、作る…?」
「そう。バレンタインのチョコはやっぱり手作りでなきゃ。碇君、喜ぶわよ」
「碇くんが喜ぶの…? 私、碇くんを喜ばせたい…」
「決まりね」
 放課後にヒカリの指導のもと、悪戦苦闘して作り上げた手作りチョコを、レイは翌日朝一番でシンジに手渡した。
「碇くん……ごめんなさい。私、チョコをあげるなんて知らなかったの。一日遅れになってしまってごめんなさい。もらってくれる…?」
「え……て、手作りなの? 綾波が作ったの!?」
 シンジの溢れんばかりの笑顔がレイをほっとさせた。しかし同時に、レイは己の無知を悔やんだ。シンジの辛そうな顔が目に焼き付いてしまった。
(もう、碇くんにあんな顔はして欲しくない)
 あれから一年。あの頃曖昧だった関係も進展して恋人と言える仲になった今、いっそう去年のリベンジに燃えるレイであった。


「あの綾波さ、帰りに一緒に本屋に行かない?」
「ごめんなさい、洞木さんと約束があるの。また明日……」
「そ、そう。じゃ、またね」
 数日前からこんな調子のレイであった。
「なんやセンセ、綾波にフラれたんか?」
「ト、トウジだって人のこと言えないだろ!? ここ二、三日委員長と一緒に帰ってないじゃないか」
「そやからセンセはお子様やっちゅうねん。明日は何の日か知らんのかいな」
「明日? 明日って二月十四日………あ」
「ちぃと考えたらわかりそうなモンやろが」
「それってまさか、チョ、チョ……」
「みなまで言うなて。センセも男なら、彼女がチョコくれるんを堂々と待っとればエエんじゃ。なあケンスケ」
「……裏切ったんだ。シンジもトウジも、俺の気持ちを裏切ったんだ!」
 涙ぐみながら走り去るケンスケであった。

「ふう、やっと完成ね」
「ありがとう、洞木さん。あなたに教えてもらわなければ、私一人ではとても作れなかったわ」
「いいのよ。これを機会に、他の料理も覚えれば? 喜ぶわよ、碇君」
「碇くんが喜ぶ…? あの、迷惑でなければ料理を教えてくれる、洞木さん…?」
「迷惑じゃないわ。友達でしょ、綾波さん」
「あ、ありが、とう…」
「で、どうするの、これ? 持って帰る?」
「アイスボックスを用意したの。ドライアイスも…」
「用意いいのね」
「……碇くんに、おいしく食べてほしいから」


 そしていよいよバレンタインデー当日。普段通り登校したシンジが教室に入ると、すでにレイは席に座っていた。
「お、おはよう綾波」
「おはよう、碇くん。あの……」
「な、なに?」
「お昼休みに、碇くんに用事があるの。待っていてくれる?」
「う、うん、わかった」
 レイの決意に満ちた瞳に気圧されるシンジ。文庫本に目を戻しながらも、ページが進まないレイ。様々な想いをはらみつつ、四時間目の授業が終わった。
「きりーつ、れい、ちゃくせきー」
 ヒカリ委員長の号令が終わると、教室はたちまち喧騒に包まれる。級友と話し始める者、お弁当の包みを取り出す者、今日こそは人気のコロッケパンを買い逃すまいと購買部へと走る者……。
 シンジが顔を上げると、レイが立ち上がって教室の出入口に向かうのが見えた。
「あ、綾波?」
 どこへ行くのか。チョコをくれるのではないのか。その時レイが振り返って、シンジを眼光で威圧した。
 レイと付き合い始めて一年。鈍感の帝王、鈍感界の覇者、レジェンドオブ鈍感シンジといえどもさすがにわかる。あの目は『待ってて』というメッセージだと。
 やむなくシンジはレイと自分の二つの弁当を抱えて、レイが戻るのを待つ羽目になった。

 五分ほどで戻って来たレイは、釣りに使うようなアイスボックスを肩から下げていた。シンジの机までやってきて、下ろしたアイスボックスからなにかを取り出す。
「碇くん、これ……。私の気持ちだから」
 シンジの机の上に置かれたのはチョコレートケーキ。直径約25cm、10インチのホールサイズの堂々たるケーキであった。チョコでコーティングされた表面にはホワイトチョコで『Rei Loves Shinji』とでかでかと書いてあった。呆然として、しばらく声も出ないシンジ。
「あ、あの、これが……?」
「……バレンタインだから。私の気持ちなの」
「そ、そう……。あ、ありがとう、とってもうれしいよ」
「……よかった」
 今日初めて微笑むレイ。こぼれるような笑顔に見とれるシンジ。
「…はい」
「へ?」
 シンジの目の前に差し出される一本のフォーク。
「……食べて」
「え゛」
「チョコ、食べて」
「こ、ここで?」
「……嫌? 私の作ったのは、嫌?」
 淋しげな表情を浮かべるレイ。もはやシンジに逃げ場はなかった。
「そ、そんなことないよ。いただきます!」
 猛然とチョコレートケーキに挑むシンジ。
「あ、これ上手にできてるね。綾波って料理うまいんだ」
「そんなこと、ない。洞木さんに手伝ってもらったから……」
 そう言いながらもうれしそうなレイ。その表情を見て、ますます後に引けなくなるシンジ。
 そんな光景を眺めるもう一組のカップルがいた。
「綾波さん、まさか学校にケーキを持ってくるとは思わなかったわ」
「綾波らしいといえばらしいけどな。しかし食い切れるんかいな、センセ」
「……無理よ」
「あれ、イインチョん家で焼いたんか?」
「綾波さんが普通のチョコじゃいやだって言うから、ならチョコレートケーキにすればって言ったの。綾波さん、本当に一生懸命で……」
「こりゃ食い残すわけにはいかんなあセンセも」
「だから無理だって……」

 結局半分でギブアップしたシンジが、午後の体育の時間に鼻血を噴いて倒れたのも無理からぬ話。それを介抱しながらトウジが「漢や……漢やでセンセ」と呟いていたのは男の友情であろうか。


【終わり】

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