新生

written by タン塩


「あの、碇くん…」
「なに、綾波?」
「あの、私…妊娠したみたいなの」
 普段通りの二人きりの朝食のテーブル。おずおずと切り出した彼女の話に、僕はかじりかけのトーストを床に落としてしまった。
「ほ、ほ、本当!?」
 絨毯にバターをつけずに済んだことにほっとしながら(綾波に怒られるからね)トーストを拾い上げつつ彼女を問いただすと、今まで一日の狂いもなく、28日周期で来ていた生理が来ないので妊娠検査薬を使ってみたら陽性だったと言う。僕は慌てて会社に休みの電話を入れ、彼女を車に乗せてNERVの診療所に飛んで行った。

 案の定、診療所でもちょっとした騒動になり、彼女は結局ほとんど丸一日検査責めになった。その結果『間違いなく妊娠。受精卵はすでに子宮に着床し、安定している』と診断された。
 僕らが結婚する時、リツコさんから『彼女は子供を産めない』と宣告されていた。僕の母の遺伝子を持つ彼女との結婚が黙認された理由の一つはそれだった。僕は、いずれは養子でも取ろうかと考えていた。
 僕の精子を受精した彼女の卵子は、細胞分裂を開始せずに死滅するはずだった。しかし、なぜかその受精卵は細胞分裂を開始して、元気に発育中だという。

 NERV内部でも議論が持ち上がった。リリスの欠片を持つ彼女がどんな子供を産むのか。人類にとって危険な存在になる可能性があるのではないかと。
 議論は紛糾したが、作戦部長の葛城二佐が『リリスの欠片を持つ綾波レイは人類の味方だった。ならばその子も、人類の味方になりうる』『どんな理由であれ、新しい生命を殺す権利が我々にあるのか』の二点を主張して突っ張り通してくれたらしい。ミサトさんにはいつまで経っても世話になりっ放しだ。

 その後も綾波は検査責めだった。出て来る検査結果は、胎児は順調に発育中、懸念された先天的異常も皆無、母子共にきわめて健康というものだった。ただ、検診したリツコさんの顔に微かな陰りがあるのに気づいたけど、リツコさんは何も言わなかった。
 もう臨月。綾波のお腹は、はっきりそれと分かるほど大きくなった。
 僕も正直、迷いがなかったと言えば嘘になる。使徒云々というより、綾波が母さんの遺伝子を持つ、という事実が僕を迷わせた。だけど、彼女の迷いのない態度が僕を勇気付けた。妊娠の診断を聞いた綾波は、僕に軽やかな笑顔を向けて言った。
「私、産むわ。あなたの子供だもの」
 その笑顔を見て、僕も覚悟を決めた。たとえどんな子が生まれようとも、その結果を全て引き受けようと。何が何でも彼女と子供を守るのが僕の義務だと。


 予定日の数日前から入院していた綾波に陣痛が始まった。僕は彼女の手をずっと握っていた。陣痛の間隔がだんだん狭まる。
「そろそろ分娩室に行きましょうか」
 看護師さんが声を掛ける。
「待ってるから」
「……碇くん」
「なに?」
「私、頑張るから」
「……うん。僕も頑張るよ。父ちゃんだから」
「……私は母ちゃん?」
「そうだよ、レイ母ちゃん」
「そう、そうね……」
 僕も立ち会いを申し込んでいたのだけど、彼女は骨盤が小さくて帝王切開の可能性もあるということで、分娩室前で待機になった。


「…どう、シンジ君?」
「あ、リツコさん。ずいぶん時間がかかってます。難産みたいですね」
「そう…」
 隣に座ったリツコさんが、僕のほうをチラリと見る。
「どうしました?」
「シンジ君……ひとつ、あなたに言わなきゃいけないことがあったの。でも、なかなか言えなくて…」
「……綾波のことですか?」
「結論から言うわ。妊娠したのは、レイの中のリリスよ」
「! ……それって」
「結婚前に言った通り、碇ユイのクローンに受胎能力はないわ。ならば妊娠したのはリリス。すぐ出る結論ね」
「……それって、どういう…」
「分からないわ。単体生物である使徒が子供を産むなんて。しかも、ヒトであるあなたの子。使徒とヒトの子供なんて、想像もつかない」
「そんな!」
「……ごめんなさい。言えなかったの。シンジ君とレイの笑顔を見たら、とても言えなくて。それに、使徒そのものの子供なんて、表沙汰になったら世界中が大騒ぎになるわ」
「そんな…そんな」

オギャー オギャー

 元気な産声。僕と、使徒リリスの子。
 ドアが開いて、看護師さんが手招きする。僕は覚束ない足取りで分娩室に入る。
「自然分娩で生まれました。可愛い女の子ですよ」
 赤くてしわくちゃ。微妙に青みを帯びた産毛を除けば、まるで普通の新生児。
 抱かされた赤ん坊をリツコさんにも見せたけど、無言。僕は子供を看護師さんに渡すと、綾波に歩み寄った。
「お疲れ様。大変だったね」
「…大変だったわ」
そう言って微笑む彼女。今までの中で、最高の笑顔かもしれない。その笑顔に勇気付けられて、言おうと思っていた言葉がすらすらと出た。
「ありがとう、綾波。君を奥さんにしてよかったよ」
「…ありがとう。私を奥さんにしてくれて」


「普通の赤ん坊でしたね」
「…そうね」
 僕とリツコさんは、一足先に病室で綾波を待った。
「あの子が、使徒の子だなんて、僕にはとても…」
「私にもわからないわ、シンジ君。他の使徒ならともかく、リリスは万物の母。人類リリンはリリスの子孫。あの赤ちゃんは100%人間の可能性も有り得るわ」
「あの…綾波にはどう言えばいいんでしょう」
「…たぶん何も言う必要はないわ。おそらくレイ自身は気付いてる」
「綾波が…?」
「だって、彼女はリリスだもの。碇ユイの遺伝子を使って再構成された肉体は仮のもの。彼女の本体はリリスだもの」
「でも僕には、綾波がそんなとてつもないものだとは、どうしても思えなくて。純粋で、甘えん坊で、ちょっとヤキモチ焼きで。とても可愛い奥さんの彼女が使徒リリスだなんて……」
「渚君も純粋だったわね」
「!」
「……純粋でない生き物って、人間だけなのかもしれないわ」
「………」
「ねぇシンジ君。こんなこと言っておいて何なんだけれど、レイには今まで通りに接してあげて。だってあの子は、今日突然リリスになった訳じゃないし」
「…もちろんです。彼女の正体が何であれ受け入れると決めて、彼女と付き合い始めたんですから。さっきも、彼女の笑顔を見たらとても幸せそうで、あの笑顔を守りたい、とつくづく思いました」


 出産後一ヶ月もすると、使徒がどうしたなんて話は正直どうでもよくなった。新米ママの彼女の奮闘ぶりと、何より娘の可愛さ、自分の血を引いた子供の愛しさを実感した僕は、出来る限り家事を手伝うようになった。
 娘のアイをあやす彼女の笑顔を見ていると、この二人は僕が守る、という強い決意と自負を覚える。彼女がリリスなら、それでもいい。使徒であろうと僕の妻。
 僕はただ、妻と娘を守りたいだけ。

「こんにちわ、レイ。赤ちゃんは元気?」
「いらっしゃい赤木博士。アイは手の掛からない子なんです。丈夫だし、泣かないし」
 ある日曜日、リツコさんが訪ねて来た。早速アイを抱いてもらう。
「可愛い子ね。美人になるわよ」
 ひとしきり子供をあやした後、お茶をいれてお話。無口だったのも昔のこと、最近かなり喋るようになったレイは、古い知り合いを迎えて絶口調。子育ての話から、昔話に花が咲く。
「その時シンジさんが言ってくれたんです。『笑えばいいと思うよ』って。でも私、うまく笑えなくて…」
 二人の馴れ初めのノロケ話まで、子育てのストレス解消とばかりに喋りまくる彼女。リツコさんもニコニコしながら聞いてくれる。
「あなた達、下の名前で呼び合うようになったのね」
「ええ。パパとママになったのに、いつまでも姓で呼び合うのはおかしいからって。でも、今でも時々『碇くん』『綾波』って口に出ちゃうんです」
「そう。でも普通は、結婚した時に変えるものじゃない?」
「シンジさんが『もうしばらく綾波って呼びたい』って言うから。どうして? シンジさん」
「うーん…綾波って、綺麗な名前じゃない?」
「嘘。レイって呼ぶのが恥ずかしかったんでしょ」
「まあ、それもあったかな」
「でも、あなた達らしいと思ったわ。慌てずに、少しずつ変わって行くのが。さてと、ずいぶん話し込んじゃったわね。そろそろ失礼するわ」
 そう言って立ち上がるリツコさん。
「えっ、もうですか?」
「もう、いい時間じゃない。そろそろアイちゃんが目を覚ますんじゃない?」
「そうですか…また来て下さいね、赤木博士」
「ええ、来るわ。そうだ、一つだけ聞きたいことがあったの、レイ」
「はい?」
「アイちゃんは、普通の子?」
 意味ありげにレイの目をじっと見るリツコさん。レイも、その目を真っ直ぐに見つめ返す。一瞬の沈黙。
「もちろんです、赤木博士」
「そう、よかった。それだけ聞きたかったの。子育て頑張って」


 リツコさんが帰ると、間もなくアイがお腹を空かして愚図り出した。レイがアイにおっぱいをやる間に、僕は夕飯の支度を始めた。子供を母乳で育てるのも、レイのこだわりのひとつ。
「シンジさん、手伝うわ」
 授乳を終えたレイがキッチンに来た。
「座っててよ。土日は僕が家事当番なんだから」
「…いつもごめんなさい」
「いいから気を遣わないでゆっくりしてて。疲れてるんでしょ?」
「……ありがとう、あなた」

 椅子に座って一息ついた彼女が、やがてポツリと切り出す。
「……赤木博士から、何か聞いてるの?」
「……うん。みんな聞いたよ。君が分娩室に入ってた時にね」
 僕はまな板に向かい、葱を刻みながら答えた。
「いいの? 私は……」
「あのさ、どう言えばいいか分からないけど…」
 不安げなレイの声。彼女の視線が僕の背中に痛いほど突き刺さるのが分かる。
「こう言えば分かってもらえるかな? ……二人目は男の子が欲しいね」
 ふわり、と何かが背中に当たる感触。妊娠以来、見違えるほど大きくなった、彼女の胸。
「……ありがとう、シンジさん」
 細い腕が、僕のお腹に回る。
「……私、あなたのそばにいていいのね」
「いなきゃ駄目だよ。ずっと」
「……うれしい」
 僕の背中に顔を埋める彼女。吐息で背中が温かい。
「…二人目は、男の子でいいのね?」
「えっ!? できるの?」
 慌てて包丁を置いて振り返ろうとしたけど、彼女は僕に回した腕を離さない。
「ちょっとレイ、顔を見せてよ!」
「いや♪」
「意地悪だよ、レイ!」
「キスしてくれるなら」
 腕を離す彼女。僕は急いで振り返り、彼女を抱きしめてキスをした。


【終わり】

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