おそらく今日こそが好機だった。 連日行われてきた戦闘シミュレーションが今日はない。私達パイロットにとって久しぶりの、用務のない日。 だから、今日は好機。 何日も前からこの日を待っていた。次はいつ機会が巡ってくるかも分からない。今日のこの日に賭けていた。 電話かメールで約束を取り付けておけば、話は簡単だったかもしれない。でも警戒され、忌避されてしまうことも 考えられて、身動きが取れなかった。 事ここに至ってはもう、期待をかけるより他にない。 彼がいてくれるように、と。 一人でいてくれるように、と。 通路を進み、その場所が近くなるにつれて、耳に届く喧騒が大きくなる。 時間は19時少し前。ちょうど人が集まる頃。この時間なら、いる可能性は高いはず。 その場所に辿り着く。 ネルフ本部内食堂。たくさんの職員で賑わっている。 この中にきっといる。いるはず。いてくれないと。……いてほしい。 祈るような気持ちとは、おそらくこんな気持ち。 不安を抑えながら人込みに視線を走らせる。 ――いた。 トレーを手に、順番待ちの列に並んでいる。見知った顔は傍にいない。 安堵の息が口をつく。いつの間にか強張っていた肩からも力が抜けた。 引き寄せられるように、足が真っ直ぐそちらへ向かう。食券の購入は後回しでいい。今はとにかく、彼に私の存在 を認識してもらうのが先だった。 込み合う中でも気配を感じたのか、彼がこちらを振り返った。私の姿に、軽く目を見張る。 「……一緒に食べてもいい?」 ますます意外そうにする。だけどそれはすぐ笑顔に変わって、 「勿論。喜んで御一緒させてもらうよ、ファースト」 快くフィフスは応じてくれた。 未触領域
「君が来ると分かっていたら、別のメニューにしたんだけどな……」 フィフスのトレーの上には生姜焼き定食が載っている。 「火が通った物だし、生姜の匂いの方が強いから平気」 「そう? それならいいんだけど」 きつねうどんを載せたトレーを手に、私は彼の先に立って歩く。 夕食時とあって食堂内は込み合っていたけれど、入り口から遠ざかるにつれて空席も徐々に増え出す。最奥のテー ブルの端の席が空いていた。周囲に人がいなくて干渉を受ける恐れのない、その席に腰を下ろす。フィフスも向かい 側に座った。 「本部に用事があったのかい?」 「定期のメディカルチェックが入っていたから」 「異常はないみたいだった?」 「ええ」 「それはよかった」 食べながらフィフスが話し掛けてくる。私も食べながら受け答えをする。 セカンドのように立て板に水で喋るわけでもなければ、碇君のように一つ一つ話題を選び出して喋るわけでもない 彼との会話は、いつも通り滑らかに、淡々と進む。 「でも、せっかくシミュレーションが休みだったのに大変だね」 「別に。これも必要なことだもの」 4号機が戦線に加わり、エヴァ四機での同時行動が可能となった現在、戦術の根本的な見直しが求められていた。 そのための連日の戦闘シミュレーション。今日は収集したデータを元に、作戦部が戦術会議を開いている。 「確かに、疲れが溜まっていそうな今だからこそ診てもらった方がいいのかもね。ところでファースト」 うどんに注いでいた視線を上げると、フィフスは柔和な笑みを浮かべたまま、ほんの少しだけ目を細くして、 「用件は何だい?」 ――出し抜けに切り込んできた。 喧騒が消える。 食堂内はさっきまでと何も変わりがない。食事に伴う雑音と雑談の声が、入り混じってさざめいているだけ。変わっ たのは――私。私が変わった。唾を呑み込む音がやけにはっきりと聞こえる。全身を巡る血液の存在が急に強く意識 される。 緊張……している。 コップの水を一口飲み、喉を湿らせる。……何も身構えることなんてない。向こうから振ってくれたのは話が早く てむしろ好都合。後はただ、何度も自問してきたことを口に出して問えばいい。 そう自分に言い聞かせても。 テーブルに無造作に置かれているフィフスの手より上へは、私の視線は上がらなかった。 「……訊きたいことがあるの」 「何かな?」 彼の口調は普段と変わらない気安いもので、内心は全く窺えない。 「あなたは以前、私とあなたは同じだと言った」 「言ったね」 息苦しい。 ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打っている。 「私もあなたから、私と同じものを感じた」 「そうなんだ」 「そしてあなたは、――だった」 「うん」 「それなら、私は……?」 ドクン、ドクンと音がして。 「私も……そうなの……?」 自分の声さえよく聞こえない――。 一分。 二分。 あるいは数秒。 時間はどれだけ経ったのか。 つと、フィフスの手が動いた。縫い付けられていた私の視線も一緒に動き、その手が碗を持ち上げて、味噌汁を口 に運ぶ様を見届ける。 「実を言うとね」 いつの間にか笑みを消していた彼は抑揚もなく告げる。 「いずれ訊かれるかもしれないとは思っていたよ。君は自分のことをあまり知らないみたいだから」 「……知る必要のないことは、教えてもらっていないもの」 あの人も赤木博士も、私の知る必要のないことは話さない。 「だからあなたに訊くの。私が一体、何なのか――」 ヒトではないことは知っている。エヴァから生まれたことも知っている。 二人目なことも、代わりがいることも。あの人の願いを叶えるためにいることも、あの人に誰かと重ねられている ことも。みんな知っている。 だけどそれ以外を、私は知らない。 「あなたは……知っているんでしょう?」 「『知らない』よ。僕の知っていることや感じたことから、君についてある程度察しをつけさせてもらっているだけ さ」 「それでいいから話してちょうだい」 語気が荒くなった。頭の中で抑止がかかる。お願いをする態度じゃない、と。 でも止まらない。鼓動が私を煽り立てる。 「私は何? あなたと同じモノなの? 違うの? 私の知らないことを話して」 私が息巻くのと対照的に、フィフスは冷静な態度を崩さなかった。詰問じみた物言いに感情を害した様子もなく、 ただ黙って私を見ている。それがとても居心地の悪い気分にさせる。 赤木博士の、観察、分析する目とは違う。あの人の、遠い何かを追う目とも違う。 私の心底を見通す目だった。 「……思いつめているところを悪いんだけどね」 続く言葉が予想され、胸の内側がざらつく。 「僕は何も話す気はないよ」 「何故――?」 「聞いてどうするの?」 追及を制するように、落ち着いた口調で問い返してくる。 「僕の話を聞いたとして、それで君はどうしたいの?」 「どう……って……」 どうしたいのか、は…… 言葉が続かない。 ……何も出てこない。 「今話したとしても、君はただそれに振り回されるだけだろう」 言い返せない……。 「だから今は、何も話す気はないよ」 頭を垂れる。 絶望に似た想いが押し寄せてくる。 今日のこの機をずっと待っていたのに。セカンドや碇君の前で話せることじゃないから、フィフスと一対一で話せ るだろう今日のこの機を、ずっとずっと待っていたのに―― こんな問いへの答えすら……私は確立出来ていなかった。 ……情けなかった。自分自身が、とても情けなかった。 熱くなるだけ熱くなって、私は何をしているのか。今すぐこの場から消えてしまいたかった。 それでも。 救いを残しておいてもらえたことには気付いていた。 「……いつかは、話してくれることもあり得るの?」 「君次第ではね。もっとも――」 軽い口振りはほんの一瞬。 「……知った方がいいのかは分からないけれど」 かろうじて耳に届く程度の独り言めいた呟きに、思わず顔を上げる。 「知らない方がいい、ということ……?」 「知ることで生まれる苦しみもある――ということだよ」 目と目が合う。 そこに、はぐらかす色はなく、確かな誠実さが覗いていて、彼自身の経験からくる言葉だろうことが窺えた。 「……知らないということは、不安を生むわ」 「そうだね……世界はとても残酷だ」 私と同じ赤い瞳。血潮を透かした、同じ瞳。 彼の瞳が私を捉え、私の瞳が彼を捉える。 鏡を見ているような感覚。 顔立ちはまるで違うのに。 私は確かにここにいるのに。 ――そこにいるのも“私”だった。 知ることで生まれる苦しみを私は知らない。 知らないことで生まれる不安を彼はきっと知らない。 だけど―― 知ることから苦しみが生まれることを。 知らないことから不安が生まれることを。 私達は、知っている。 「――さっき、今日はメディカルチェックがあったと言ったけれど」 食事を再開させながら、私の口は自然と言葉を紡ぐ。 「本当はそれだけじゃなかったの。この体を維持するために必要な注射を受けてきたの」 「……そうか」 驚くでも疑問を挟むでもなく、フィフスはただ、声に僅かにいたわりを混ぜる。 「注射し続けたところで、いつまで持つかは分からないらしいけれど。……あなたは、そういうことはないの?」 「一応S2機関を宿しているものでね」 「そう……いいわね」 無意識に漏らした一言は、けれど無神経な発言だったかもしれない。 「そうでもないよ。S2機関を破壊しない限り、永久に生き続けてしまう可能性もあるから」 「……それ、セカンドや碇君には言ったの?」 「……いや」 従容としていた彼が初めて苦渋を滲ませる。 「いつかは言うべきなんだろうけれど……言い出しにくくてね……」 理由は……分かる気がする。 そんな話を聞かされたところで、セカンドも碇君も離れていったりはしないはず。彼自身、きっとそれくらい承知 している。怖いのはもっと別のこと。 自分はヒトとは違うのだと、あらためて意識し、意識させることが。 氷のナイフで全身を切り刻むような、その冷たい痛みが。 ……怖くて、悲しい。 先に食べ終わったフィフスは、少し横を向くようにしてお茶を飲む。私も油揚げを食べることで彼から視線をそっ と外した。 気が付くと食堂内は随分静かになっていた。食べ終わった人達が次々と出て行ったからで、今では空席の方が目立っ ている。 最奥のテーブルの端の席。周りにはもう誰もいない。まるで離れ小島のよう。 ヒトの世界における私と彼が、そっくりそのまま重なった。 「……私達は何故、ヒトではないのかしら」 最後のうどんを胃に収め、言っても仕方のないことを言ってみる。 「自分が何者なのかということは、一番大事なことではないよ」 フィフスが静かな声で応える。 「大事なのは、自分が何を望むのかということさ。……そう思えるようになったのはつい最近だけどね」 「あなたは見つけられたのね。でも私は……私には、見つからない。何がしたいかなんて分からない……」 「今はそうでも、これからも見つけられないとは限らない。いつか君にも見つかることを願っているよ、心から」 暗澹とした気分は晴れなかったけれど、話が一区切りついた感はある。私がお茶で喉を潤すと、フィフスも時計に 目をやった。 「続きは、喫茶室にでも行って話そうか?」 「……いえ、いいわ」 正直なところを言えば、もう少し話がしたかった。私の知りたいことは教えてくれないのだろうし、特に何を話し たいというわけでもないのだけれど、もう少し彼に何かを聞いてもらいたいような気がした。 だけど、そうもいかない。いつまでも話し込むわけにはいかない。 だから私はかぶりを振った。 「いずれにしても、何かあったらいつでも相談に乗るよ。一人で思い悩まなくていい。それだけは覚えておいて」 頷いて立ち上がるとフィフスも続いた。 「もう遅い時間だね。家まで送るよ」 「必要ないわ。ガードがいるのだし」 それに、 「セカンドが怒る」 ――ピタリと静止すること数瞬ののち。 いきなりフィフスは笑い出した。手に持つトレーを落としかねないくらい、激しく。俗に大笑いと呼ばれる笑い方。 「何……?」 「いや、まさかそんなことを言われるとは思わなかったから……」 答えながらも笑っている。 何? 何か間違っていた? だって洞木さんが言っていた。 女子とフィフスが話しているとセカンドの機嫌が悪くなる、と。 彼に話し掛ける時には気を使ってならない、と。 セカンドが席を外している間に私にそう語った。 だから私も洞木さんに倣うべきだと思ったのに。フィフスと二人で話しても注目を浴びないよう、ひいてはセカン ドの耳に入らないよう、無駄に機嫌を損ねさせなくて済むよう、夕食時に狙いを定めたのに。ひとまず話が終わった 以上は速やかに撤収するべきだと判断したのに。 私――何か間違っていた? 考察する間もフィフスは笑い続けている。 笑い続けている。 笑い続けている。 ……段々と腹立たしくなってきた。いいかげんにしてほしい。 「あぁ、ごめんごめん。……変わったよね、君」 「何が?」 「自覚していないんだ? まぁ、そのうち分かるよ」 「自分だけで納得しないで」 「睨まないでよ、怖いな」 「睨んでなんかいないわ」 「それが睨んでいる目じゃないなら、本気で睨んだ時にはどんな目になるのやら」 今度はからかうような含み笑いになった。付き合っていられない。私はさっさと食器置き場へと歩き出す。 「綾波さん」 まだ何か言う気? 首から上だけで振り向くと、思いがけず優しい表情が目に飛び込んでくる。 ふと気付く。 彼が学校以外の場で私を「綾波さん」と呼んだのは初めてだった。 「一つ、訂正しておくよ。君と僕は同じじゃない。よく似てはいても同じじゃない。そしてそれはきっと、僕達にとっ て幸せなことなんだよ」 ……私には、分からない。 部屋に帰り着き、鏡の前に立ってみる。 血潮を透かした赤い瞳。 私の瞳。 ここに立っているのは私。鏡の中にいるのも私。 私は私で、彼は彼。それは当たり前のこと。 だけどあの時私は、彼の中に“私”を見た。 彼の中には確かに私と同じものがある。おそらく私の中にも彼と同じものがある。 どこまでが同じで、どこからが違うの? 同じ。同じもの。 私と同じモノ。同じ存在。 水槽の中の彼女達。 ……同じ? 本当に? 肉体は同じ。全く同じ。 彼より遥かに私に近い彼女達。 でも、彼女達より彼の方が私に近い感じもする。 それなら彼女達もまた、私とは違う存在ということ? いつか「私」になるかもしれない彼女達。 いつか生まれるかもしれない「私」は私と同じ? 二人目の私は一人目と同じ? 同じだとしたら私は何? 違うとしたら何が私? 私というのは一体、何……? ベッドに入っても寝付けなかった。 思考は留まるところを知らず、ずっとさ迷い続けている。迷路の中を、ずっと。 出口は見えない。フィフスも教えてくれなかった。それも当然のこと。 何が出口なのかさえ、本当に出口を探しているのかさえ、私は分かっていない。 私は、何がしたかったの……? 彼と同様、――ではないかという推測。 当たってほしかった? それとも外れてほしかった? どっち? 何て答えてほしかったの? 本当に答えてほしかったの? 『君はどうしたいの?』 したいこと。したかったこと。すること。するべきこと。 ……決まっている。あの人の願いを叶えること。 私の存在する理由。私に求められている役目。私が何者であってもそれは変わらない。 答えを求める必要はない。 でも、それなら何故知りたいと思ったの? ――不安だから。 何故不安になるの? するべきことは決まっているのに。 私にはあの人がいる。私を必要としてくれるあの人がいる。私が何者かは関係ない。あの人にとって必要な存在、 それで充分。充分なはず。 なのに何故私は不安になるの? 私は何を求めているの……? 『何を望むのかということさ』 望み…… 私は……何を望むの? あの人の願いを叶えること。 それが望み? あの人の、だけではない、私自身の望み? ……分からない。 私は何を望んでいるの……? 何を…… 「で? 何で一時間目に来なかったのよ?」 「……目が覚めたのが8時22分だったから」 「あんたが寝坊だなんて、めっずらしいの。明日は雷かしらね〜」 「自分が寝過ごしたら碇君のせいにするアスカには、綾波さんをからかう資格はないと思うわ」 「ぐっ……ヒカリ、あんた最近、きつくない?」 「だってパイロットの仕事が忙しくなっても、碇君の家事負担はそのままなんでしょう? もう少し、自分のことは 自分で責任を持つべきよ。綾波さんも疲れているんじゃない? 私には何も出来ないけど……どうか無理はしないで ね」 「肉体的な不調はないわ」 昨夜寝付けなかったことと疲労とは関係がない。 でも、 「……ありがとう」 洞木さんは少しはにかみながら微笑した。 ありがとう。感謝の言葉。 自然と口から出てきた言葉。 教室で洞木さんとセカンドと一緒に昼食を取るようになって、ちょうど一週間。 彼女達が何を思って誘いをかけてきたのかは、未だによく分からない。 『綾波さん、よかったら一緒に食べましょうよ。その方がきっと楽しいわ』 『わ、私は別にどうでもいいんだけどさ、ヒカリがどーしてもって言うから……』 『綾波さんのこと、気にしていたくせに』 『してないわよっ!!』 一緒に食べることが何故「きっと楽し」くて、どんなメリットを生むのか。 一緒に食べることで、この栄養補助食品が何か変わったりはしない。彼女達のお弁当だって、二人で食べていた頃 と私が加わってからとで変化があったようには見えない。 ただ、デメリットもなさそうだったから、誘いを断ることもなく今日まで至っている。 「そうだ、綾波さん、お弁当作ってこようか? 毎日そんな食事じゃ、やっぱり良くないわよ。どうせ毎日四人分の お弁当を作っているから、五人分になっても手間は大して変わらないもの」 「この食事で必要栄養素は摂取出来ている。問題ないわ」 「でも――」 「ほっときなさいよ、ヒカリ。言ったって聞きやしないわよ」 珍しくセカンドが洞木さんの方を制する。 「大体、手間が変わらないわけないでしょ? 肉嫌いな奴用のお弁当だなんてさ」 「それは……だけど……」 「ファーストは好きでこういうのを食べてるんだから、あんたがそこまでしてやることないわよ」 その通りだわ。あまりにその通りで……洞木さんに負担を掛けないためにしても、少しばかり気持ち悪い。 まだ納得しかねている洞木さんに、かまわずセカンドは昨日のテレビ番組らしき話題を振った。たちまち、私の知 らない単語が飛び交い始める。 大人気の番組だとか、売り出し中のタレントだとか、二人が単語の説明をしてくれるけれど、生憎興味は持てない。 覚える必要も感じない。 必要――必要性――。 ……必要性の薄いことを私はしている。 今こうして学校に来ている、ということ。 目が覚めたのは8時22分。HRは勿論、一時間目の開始にだって間に合わなかった。 だけど登校の必要性そのものが薄かった。 履修を必須とされた授業もなければ、提出しなければいけない書類もない。今日私に義務付けられている事項は、 午後からの戦闘シミュレーションへの参加のみ。午前中は自宅での休養に充てても問題なかった。実際、去年同じよ うな状況に陥った時にはそうしている。 なのに私は、二時間目の開始に合わせて登校した。 ――何故? 自分の行動を説明出来ない。 何故学校に来たのか。何のために学校に来たのか。 学校でしたこと。授業。教科書をただなぞったり、雑談に終始したりの授業。そんなものを求めて登校したはずは ない。 休み時間。本を読んだり、お手洗いに立ったりしただけ。そんなことなら家でも出来る。 他にしたこと。していること。セカンド、洞木さんとの昼食。……これは学校でなければ出来ない。 でも彼女達と一緒に食べる必要性はない。中学生としての義務にも当たらない。必要性がなく、義務でもないよう なことが、学校に来る理由となる。……そんなことがあり得るの? 私の疑問を知る由もなく、二人はなおも話し掛けてくる。 「それでね、来週の『歌パラ』にゲストで出るのよ。滅多にテレビに出ない歌手だから楽しみだわ」 「そう」 聞いたこともない単語。 「あんたも、名前は知らなくたって曲は知ってるでしょ? 今あちこちで流れてるんだからさ。〜〜〜♪っていう、 あれよ、あれ」 「知らない」 興味を持てない話題。 内容は耳から耳へと抜けていくのに、二人のくるくる変わる表情は私の頭の中に残る。 くるくる、くるくる、表情を変えて、二人は話し掛けてくる。だから私も返事をせずにいられない。 「あんた、疎いってもんじゃないわよ!! いいかげん、テレビくらい買いなさいよね!!」 「買っても多分、見ないもの」 「でもドキュメンタリー番組なら綾波さんも気に入るんじゃないかな? 珍しい自然現象とか、動物の生態とか。本 で読むのと映像で見るのとじゃ、やっぱり違うわよ」 「……そうね」 二人は話し掛けてくる。私はそれに返事をする。 そうして今日も昼休みが過ぎていく。 「――と、もうこんな時間ね」 セカンドがお弁当を片付け始める。私もごみを一つにまとめる。屋上で食べていたらしい碇君とフィフスも戻って きた。 それぞれの荷物を手にし、教室の出口へと向かう私達に、クラスメートから「お疲れー」「頑張れよー」といった 声が掛かる。 「じゃあね、ヒカリ。また明日ー」 「うん、お疲れさま。また明日ね、みんな」 洞木さんはにこやかに手を振って見送ってくれた。 碇君はいつも、天気の話から始める。 「今日も暑いね」 「そうね」 ネルフ本部へと通じる道。私は彼と並んで歩いていた。後ろからは時々、セカンドの怒鳴るような声やフィフスの 上げる笑い声が聞こえてくる。 「綾波、どうして一時間目に来なかったの?」 「……目が覚めたのが8時22分だったから」 「あ、そうだったんだ……。でもミサトさんよりはいいよ。夜勤で17時出勤だって言ってたのに、僕が16時過ぎ に帰って来たらまだ寝てたってことがあったから。あの時は本当にどうしようかと……。アスカはアスカで、寝過ご したら僕の起こし方が足りなかったせいにして怒るし」 「洞木さんの言う通りね」 「え? 何が?」 説明すると碇君は笑った。 「アハハッ、そうかぁ、委員長は分かってくれてるんだ。僕と同じような苦労をしてるのかな」 うんうんと一人で頷いてから、温かみのある眼差しを私に向けてくる。 「……綾波、アスカや委員長と随分仲良くなったよね」 「そう?」 「うん」 彼女達と接する時間が増えたのは事実だけど、仲良くなったとまで言えるのかは判断しかねた。 「アスカもね、家でよく綾波の話をするよ」 「不満を漏らしているの?」 彼女の私に対する態度からして、てっきりそういうことだと思ったのに、碇君は慌てて否定する。 「違うよ! 綾波がこういうことを言ってたとか、こういうことをしてたとか……『今日のファースト』みたいな感 じで……」 「……よく分からない」 「うん、ごめん、僕も自分で言っててよく分からない……。とりあえず、アスカが綾波のことを気にしているのは確 かだから。嫌っていたら毎日話題にしたりなんかしないよ。まぁ、カヲルく……じゃない、カヲルのことはほとんど 話さないけどね。あれはあれで本当に分かりやすいっていうか」 碇君とフィフスは互いの呼称を変更した。順応性の差なのか、フィフスの方はとうに「シンジ」と呼び慣れてしまっ たようなのに、碇君は未だに元の呼称を使っては、そのたびに律儀に言い直している。呼びにくいのならやめればい いのに。 そもそもこの呼称変更のきっかけをつくったのは本人達ではなく、相田君と鈴原君だったらしい。「カノジョは呼 び捨てで俺らは『君』付けか……」「男の友情なんて所詮そんなもんやな……」といった言に対し、さすがのフィフ スも釈明の言葉を持たなかった――と、碇君はさも愉快そうに語ってくれたものだけど、その因果関係が私にはよく 理解出来なかった。 自分達が話題にされているとも知らず、セカンドとフィフスは相変わらず賑やかに話している。 ……逆にあの二人が、私の知らないところで私を話題にすることもあるのかしら。 「そういえば、今日のシミュレーションって長引く……よね?」 「多分」 これまでのデータを元に、作戦部が新たな戦術パターンを考案してくるはずだから。 私がそう答えると、碇君は暗い表情で溜息をつく。 「何でこんな時に英語の宿題なんか出るのかなぁ……。五ページも和訳しろだなんて、先生も僕達の都合を考えて言っ てほしいよ。宿題くらい免除してくれてもいいのに……」 面倒な作業だということには同意する。 「綾波、英語は好き?」 「別に」 学校の勉強は、中学生という社会的身分に付随する義務。私にとってそれ以上でも以下でもない。好きか嫌いかで 測る対象では―― ……いえ、違う。 例外が一つあった。 「調理実習……」 「え? あぁ、明日だよね。エプロンと三角巾を忘れないようにしないと」 そう。明日は調理実習がある。 義務であることが疎ましくてならないくらい、「嫌い」な授業が。 「……受けたくない」 私の口からも溜息が出る。 明日の献立のメインは鯖の味噌煮。魚は肉よりはましだけど、やはり生の状態だと臭くてならない。火が通ったと ころで好んで食べたいとも思えない。 なのに調理を強いられ、食べることを強いられる。 ……気が重い。 「大丈夫だよ、鯖は僕達でやるから。綾波はお吸い物やおひたしの方を担当してくれればいいよ」 「……そう?」 「あと、マスクをすれば匂いも多少は気にならなくなるんじゃないかな。マスク持ってる?」 「確か、救急箱の中にはなかった」 「じゃあ、帰りに買おう」 事もなげに言ってもらえると、不安が幾分薄れる。私の嗜好をよく知っている彼が同じ班でよかった。名簿順の班 分けに感謝しなければいけない。 なのに、この気持ちを裏切るように、碇君は少し考える素振りをしてから思いがけないことを口にした。 「鯖、さ……食べてみない?」 「――何故?」 私の視線にビクリと体を震わせ、後ずさる。 「ご、ごご、ごめん! ただ、ちょっとくらい食べてみる気はないかなぁって……」 「ないわ」 「う、うん……そうだろうけど……」 語尾を弱めながらも彼にしては珍しく、引き下がらずに押し返してくる。 「……調理次第では魚の臭みってだいぶ消せるんだよ。自慢じゃないけど僕、ミサトさんやアスカの好みに合うよう、 随分鍛えられたからさ……本当に自慢にならないけど。とにかく、綾波でも食べられそうな物を頑張って作ってみる から、試しにちょっと食べてみない?」 余計なお世話――そう切り捨てるのを、彼の訴えるような表情が躊躇させる。 肉も魚も、食べなくても何ら問題ない。栄養素は他の食物やサプリメントで補える。わざわざ嫌いな物を食べる必 要なんてない。 でもそれなら、彼にとっては何ら必要のない労力を割いて、私でも食べられそうな鯖の味噌煮を作ってみるという 碇君の申し出は、無下に断ってもいいの? 「……考えさせて」 一時保留が最大限の譲歩だったのだけど、この場で却下しなかっただけでも色よい返事と受け取ったのかもしれな い。 「うん、明日の出来次第で考えてくれればいいから」 碇君はホッとしたように顔を綻ばせていた。 予想通り、シミュレーションは長引いて。着替えを終え、全員で食堂に移動する途中、人一倍堪え性のないセカン ドは「お腹すいたー!」とぼやき通しだった。 「ったく、ロッカールームから食堂って遠すぎるのよ。今度からパンでも持ち込もうかしら。っていうか、パイロッ トの食事くらい用意するのがフツーじゃないの? 出前の一つもないなんて、ミサトも本当に気が利かないわ!」 「出前って……途中で絶対に冷めるよ、それ」 「一般人に本部内を歩かせるわけにもいかないから、搬入口に置いていってもらうことになるのかな。そこまで取り に行き、持ち帰ってくるのは大変だね。素直に食堂を利用する方が良さそうだ」 「ゴチャゴチャうるさいわよ、そこの二人っ! 私が言ってんのは気持ちの問題! パイロットをねぎらってやろう というサービス精神が……あ、新メニューが出てるじゃないのよ。ニラ玉ラーメンかぁ、よし、これにしようっと!」 食堂入り口の貼り紙を見るや、もう出前もサービス精神も忘れたような顔で食券売り場へ駆け出すセカンド。この 切り替えの早さにはついていけない。 昨日より遅い時間とあって、列をつくるほどの混雑はない。私もメニュー表や日替わり定食の展示の前を素通りし、 食券販売機にIDカードを差し込む。 「ファースト、あんたが今日何を食べるか当ててみせよっか? ズバリ、きつねうどん!」 「それは昨日食べた」 「チッ。じゃあ、ラーメンのチャーシュー抜きね? 同じ物ばっかりで、見てる方が飽きるわよ」 「私は別に飽きていない」 かまわずラーメンのボタンを押そうとしたその瞬間、横合いから電光の速さで伸ばされてきた手があった。 押されるボタン。出てくる食券。 「…………」 「……フッ」 ニラ玉ラーメンの食券と、してやったりとばかりに勝ち誇った表情のセカンドとを交互に見遣る。 「……どうしてこういうことするの?」 「まずかったら嫌だもの。あんたも付き合いなさいよ。ニラも卵も平気でしょ?」 確かに食べることに支障はない。でも、 「勝手に人のメニューを決めないで」 「何よ、チャーシューもないただのラーメンでスタミナがつくと――」 そこで急にセカンドは言葉を詰まらせ、焦りの色を浮かべた。 「……スタミナ?」 「い、いいからあんたはそれを食べなさいよっ!」 「スタミナ、栄養という点で言えば、ラーメンのチャーシュー抜きよりニラ玉ラーメンに軍配が上がるとは思うわ。 だけどそれが、他人の食べる物を勝手に決めていいという理由にはならない」 「うるさいわね、文句があるなら相手になって――」 「ほらほら、こんなところで喧嘩をしたら周りに迷惑だよ。お腹がすいているんだろう? 早く食べなくていいのか い?」 フィフスが割って入ってくると同時に、碇君がトレーを二つ差し出してくる。それを反射的に受け取って、私とセ カンドは顔を見合わせた。互いに毒気が抜かれてしまったことを無言の内に察し、おとなしく肩を並べて注文口へと 向かう。振り返ってみると、フィフスと碇君は何事もなかったかのように食券を買っていた。……何となく、連携プ レーという言葉が頭をよぎった。 やがて注文品が出来上がり、私達はテーブルを囲む。メニューはくしくも全員麺類。私とセカンドがニラ玉ラーメ ン。フィフスは冷やし中華。そして碇君は―― 正面の席にあるそれをしばし凝視してから、私は視線を90度動かし、セカンドの上にひたりと据えた。 「な、何よ……」 「どうしてざるそばはいいの?」 「えっと……あの、綾波、こっちが食べたいなら取り替――」 「そんなことは言ってない。――セカンド。あなたはさっき、ラーメンのチャーシュー抜きは栄養価が低いと批判し たわね? 冷やし中華はいいとして、何故碇君のざるそばには文句を言わないの?」 「シンジはいいのよ、朝昼ちゃんと食べてるから! でもあんたは――」 そこでセカンドは言葉を途切らせ、口をただパクパク動かす。さっきの焼き直しのようだった。 「何が言いたいの?」 「だ、だから……」 「要するに」 それまで口を挟まず冷やし中華を食べていたフィフスが彼女へ、落ち着き払った微笑を向ける。 「心配なんだね? 最初からそう言えば誤解を生まないのに」 「べ、別に心配なんか……大体言ったって聞きやしないし……」 「だからつい強引な手段に訴えてしまったんだ? うん、よく分かったよ」 「うるさい、うるさい、うるさーーーいっ!!」 顔が真っ赤になっている。 二人の間では会話が成立しているみたいだけど、主語などがだいぶ省略されているため、私には内容がまるで掴め ない。 「……何なの?」 「さぁ、何なんだろうね」 笑いを堪えているところを見ると碇君は理解出来ているらしい。なのに説明してはくれない。そういえば、昨日も 似たようなことがあった。 ……二日分の不可解さと不愉快さが込み上げてくる。こんな時、何て言えばいいのかしら。表現力の乏しさが恨め しい。 仕方なく、物を言う代わりにニラ玉ラーメンに口をつける。……悪くはない。 人を食った笑顔でからかうフィフス、ムキになって言い返すセカンド、堪え切れずに笑い出してセカンドに怒鳴ら れる碇君――という構図がしばらく続いたけれど、それもひと段落ついたのか、単に空腹感が勝ったのか、やがて彼 女達も食べる方に集中し出す。再び会話が始まった時には話題は変わっていた。 「ニラ玉ラーメンの味はどうだい?」 「ん〜、もうちょっと濃い味の方が好みだけど、これはこれで結構イケるわ。シンジ、今度家でも作ってよ」 「自分で作ればいいじゃないか……」 「ちょっと、聞こえてるわよっ!」 「いや、シンジの言う通りだと思うな。食べたい物は自分で作る。実に合理的だ」 「あんただって料理なんかしないくせにっ!」 「興味はあるんだけどね。スーパーの袋を提げて本部まで帰ってくるわけにもいかないし」 「うん、ちょっと……シュールだね……」 想像を巡らす。生鮮食料品の詰まった袋を両手に提げた主婦の姿、フィフス、本部施設の内観と雰囲気。この三つ を頭の中で融合させてみる。 ……確かにそぐわない。全面的に二人の見解を支持する。 「理由が何だろうと、料理経験は私と同じ程度でしょ? それでお説教だなんて図々しいわ。言っとくけど、私は料 理が出来ないんじゃなくてしないだけなんだから。明日の調理実習では実力を見せ付けてやるわよ」 「君の作った物を食べさせてくれるんだ? それは嬉しいな」 「え……ちょっ、ち、違うわよっ! 鑑定人はシンジ!」 「何だ、残念」 「僕が毒見するの? ……あ、あああ、ごめんっ、今のなしっ! なしだからっ、ねっ!?」 時既に遅く、セカンドの瞳は炯々とした光を放ち、口元は不気味な弧を描いている。フィフスが憐れみに満ちた表 情で瞑目し、首を振った。 失言したわね、碇君。 「シ〜ン〜ジ〜〜〜? 後で覚えていなさいよ〜〜〜?」 「ごごごごめん、ちゃんと食べるからっ! で、でも、調理実習は班ごとにやるものだから、アスカ一人で頑張らな くてもいいんじゃないかな、うんっ!」 危機回避に必死ね。 「い、一応授業なんだからさ、チームワークが第一っていうか……」 「あ〜ら、心配してくれなくてもいいわよ。単位がどうなろうと問題ないし」 「アスカはそうだろうけど、他のみんなが……い、いや、アスカの腕前がどうこうじゃなくて、協調性というか助け 合いというか……た、食べるよっ、食べるからっ! ただ、僕の班で作った物も食べなきゃ……そ、そうだ、綾波か らも何か――」 助けを求めるように私の方を向いて、そのまま碇君はポカンと口を開けた。 「……?」 気が付けばセカンドとフィフスも私を見ている。目を丸くして、あるいは物珍しそうにしげしげと。 三人分の視線が私の顔に注がれている。 「何?」 「いや、綾波が……笑ってるから……」 笑ってる? ……私が? 「あんたの笑った顔って初めて見た……」 初めて。 ……そうかもしれない。 「楽しかったのかい? それはよかった」 楽しかった。 ……そうなの? 「だぁーっ、何でそこでしかめっ面して考え込むわけ!? 笑いたかったんなら笑ってりゃいいじゃないのよ!!」 セカンドは怒ったように告げてそっぽを向いた。 私には分からないことが多すぎる。 つくづくそれを思い知る。 「シンジ、家に帰ったら明日の予行演習をするわよっ! 絶対にあんたとカヲルを見返してやるんだからっ!」 碇君に対して本気で怒っているとも思えないのに。フィフスと別れる際には、いつものように私達を先に行かせて 二人でしばらく話していたのに。 何故セカンドは口を開くと悪態ばかりつくのか。 「もうこんな時間だし、やめようよ……。あ、そうだ、途中でコンビニに寄るよ。綾波のマスクを買わないと」 何故私自身も忘れていたようなことを碇君は覚えていられたのか。 「じゃあ、ついでにオレンジジュースとコーヒーシュガーも買っていきましょ。そろそろ切れるわよ」 「う〜ん……また今度でいい? コンビニで買うと高いんだよね」 「ちょっとくらい多めにミサトに請求してもバレやしないって」 「いや、今月から僕が生活費を預かることにしたんだ。ミサトさんに管理させておくとすぐに使い込むから」 「それって、大人としてどうなのよ……」 こんなたわいもない会話に、何故私は耳を傾けるのか。 分からないことが多すぎる。 マンションに着いて二人と別れ、部屋に帰ると、昨夜のように鏡を見てみた。 変わりのない私の顔。 笑ってなんていない、私の顔。 シャワーを浴びながら鏡を見る。 タオルで髪を拭きながら鏡を見る。 そこに映るのはやっぱり、笑ってなんていない私の顔。 本当に私、笑ったの? 口の両端を上に動かしてみる。 変な顔。 笑っているようには見えない。 どんな顔で私は笑うの? そんなことさえ私は知らない。 『君は自分のことをあまり知らないみたいだから』 ……ええ、知らないの。 知らなくても問題なかった。 知ってどうしたいのかも分からない。 それでも私は、知ることが出来る? 何かが分かる時が来る……? 『何を望むのかということさ』 私の望み…… 私が……望むこと…… 私……は…… ……鯖の味噌煮。 碇君が言っていた。 頑張って、臭みを取って、私でも食べられそうな物を作ってみると。明日の調理実習で作ってみると、そう言って いた。 ……一口くらい、食べてみよう。 どんな味かは分からない。 好きになれるかも分からない。 だけど。 美味しかったら。美味しいと言ったら。碇君はきっと嬉しがる。 美味しくなかったら。美味しくないと言ったら。碇君はきっと何が悪かったか考える。 どちらにしてもセカンドがきっと何かを言う。 フィフスがきっと笑って茶々を入れてくる。 きっと騒がしくなって、洞木さんがみんなを叱責して…… そう、それはきっと―― きっと、楽しい。 鏡の中の私が変わる。 目が少し細くなり、口の端が少し上がる。 私……笑ってる? そう、私、こんな顔をして笑うのね。 鏡の前を離れて、コンビニの袋からマスクを取り出す。引き出しからはエプロンと三角巾。まとめてカバンの横に 置く。その行為を終えて何故か頷く。 どこか満たされたような心地がする。満ちた。満ち足りた。満足。満足感。……満足感? ベッドに入って目を閉じても、昨夜と違う意味で寝付けない。 胸の奥が騒いでいる。 早く明日が来てほしい――。 それはささやかな、だけど確かな、私の望み。 必要性もなければするべきことでもない――ただの望み。 手探りで進む、思考の迷路。 出口はやっぱり見えないけれど、もしかしたら、伸ばした手のほんの1m先かもしれない。 そんな可能性もあると気付かずにいた。 瞼がようやく重くなる。 眠りの淵へいざなわれ、緩やかに私は落ちていった。 ……あ。 英語の宿題、やってない。 |