タッチ氏の文章は、ある意味で人を選ぶ文章である。一見して、文末に句点のないのが目に付く。そして、行間は一行あけであり、字下げもない。つまり、段落がないとも言える。
私はごく初期、氏に訊ねたことがある。
こういうスタイルはどこかで流行っているのか、それとも自分で編み出したのか、と――。
氏はいつもと変わらぬ調子で、こう答えた。自分で編み出しました。
であるならば、私はそれに対して何か言う必要はない。ディスプレイ上の文章は、紙の上の活字とは全く異なる読みにくさがある。手法には様々なメリットデメリットがあり、紙媒体と同様の手法のみが解ではない。もっと言えば、それではダメなのである。多くのウェブ上の作品を読み、その上で生み出されたスタイルであるならば、その完成を待ち望みたいと思う。
私は、氏はイマジネーション型の作風である、と評したことがある。これは、文章の外見的なスタイルとは直接の関連はない(と思う)。
イマジネーション型の作品というのは、ひとつは自分のイマジネーションを文章にした作品、と捉えて頂きたい。ストーリーやインスピレーションではないことに留意して欲しい。代表的な作品は何かと挙げるのは難しいが、作者自らが「これは実験的な作品で」などと言っているものに、このタイプの作品は多い。たいがいは異様に難解で、何やらさっぱり伝わらず、極論すれば失敗作である。私は、「THE END OF EVANGELION」もイマジネーション型の作品だと思っている。ただし、失敗作だとはあえて言わない。
もうひとつは、読者に多大な想像力を要求するタイプの作品である。作品中の情報量を限界まで削ぎ落とし、読者は想像力を働かせ、行間を読み、補完をしながら読み進めなければならない。表面だけ読んでも、それは読んでいることにはならないのである。
氏の作品は――誤解を恐れずに書くが――小説の体を成していない、とも言える。さらに言うと、無論ストーリーはあるが、それを描き切ることのみに汲々とはしてないように思える。ストーリーの面白さをさほど重視していないのかもしれない(逆に言えば、人物をどう描くかに腐心しているようにも思える)。それゆえに、これは小説じゃないよな、という批判をされることになる。
だが、良く考えて欲しい。文章で何かを表現するとき、それが旧態依然とした「いわゆる小説」のスタイルを持つ必要などどこにもないのである。
タッチ氏の作品は、上に書いたイマジネーション型の作品の二つの要素を兼ね備えているように、私には思える。
これは何か。イマジネーションを文字にし、かつ読者に想像力を要求する文章。つまり短歌や俳句、あるいは自由詩の拡張なのではないだろうか。
一般に、詩にはストーリーはないし、文末に句点もないが、それで文句を言われることはない。では、詩にストーリーを加えることは不可能なのか。そんなことはないだろう。
氏が意識しているのかどうかは分からないが、私にはこれが壮大な実験のように思える。実験中には批判にさらされるのは覚悟すべきで、それは受け止めなければならない。そして、結局は小説の形をとるのがベストなのかもしれないが、仮にそうであっても、最終的に氏の挑戦はナイストライだと称賛されるべきものであると思う。
そして、もし成功するとすれば、それは文章による表現方法に新たな地平を切り開くことになるだろう。
私はそれを見守って行きたいと思っている。
もうひとつ書き加えておく。このような挑戦は、いわゆる小説スタイルのどこに限界を感じているのかが問題になる。誰かが安易に氏のスタイルを真似たとしても、それは間違いなく失敗になるだろう。
タッチ氏には挑戦を続けて行くかたわらで、時には基本に返り、小説スタイルでも書いて欲しいと思っている。そうすれば自分の目指すものが、より明確になると思う。
白旗をあげて筆を折るなどと言わず、頑張って欲しい。