日が沈み、夕食も終わり、湯船に浸かり、後は寝るだけ。 そんなひとときをくつろぐ女性の前に、一杯のカフェラテが程よい温かさでティーカップに注がれていた。 「ん…」 カップを手にとって口をつける。もちろん泡を上唇に付けるようなマヌケはしない。 「おいしい…」 琥珀色の液体はカップを離れ、その心の篭ったおいしさが舌を充たす。 「それに…あたたかい」 それもきっとただ暖かいというものではなく、きっと彼の暖かさなのだろう。彼の誕生日なのに、こういう事をやってもらって気が引けなくもない。 (煎れる練習したのに……) 「え、なーに?」 そんな彼女の考えを知ってか知らずか、台所から聞こえてくる疑問。 「なんでもない」 「あ…そう」 何でもない他愛のない会話。愛想も無いと思うけど、元々口数が少ない彼女にとっては充分な心遣い。 「ん…」 もう一度、カップに口をつける。カフェラテなんて飲むのは何年振りだろうか (もしかしてあの時以来?) 記憶を辿る……甘い記憶だったのか彼女はそのまま追憶の底に潜っていった。 |
「それだけ……なの?」 碇シンジは食の太い方ではない。どちらかと言えば細い方ではあるが、それでも食事になればスパゲティにサラダと飲み物一杯くらいは食す。 「問題ないわ」 対して彼の前に座る彼女、綾波レイの目の前にはお茶がコップ一杯に注がれているだけ。氷が入ってるから結構冷たいのだろう。 「そ、そう?」 どう考えても問題だらけだと思うが、シンジもそれ以上聞くことが出来ず黙々と食事に手をつけ始めた。 「………」 モグモグ… 「………」 ムシャムシャ… 「………」 ズッ…ズズズ…… 「………」 「ねぇ」 「何?」 「見てて……楽しい?」 シンジが食べる目の前で、レイは特にどうする事もなく、ただシンジを見つめていた。まぁもしかしたら単にシンジの姿が視界の中に在るだけで何も見てないのかもしれないが……。 「いいえ、別に」 「そ、そう」 素っ気無い返答に、これまた素っ気無い言葉を返してシンジはまた食事を口に運ぶ。 ムシャムシャ… 「………」 モグモグ…… 「………」 ………… 「………」 「何かな、綾波?」 「碇君、楽しい?」 今度はレイが問う。問われたシンジは返答に詰まりひとしきり唸った後、 「それって……食事が、だよね?」 「ええ。碇君、食事は楽しい?」 どう答えるか。迷った挙句シンジはこんな答えを返した。 「食事そのものが楽しいんじゃないと思うよ。多分、それ以外の色々を含めて始めて楽しいかどうか決まってくると思う」 「……よく、判らないわ」 シンジは内心溜め息をついたが、彼自身も何でこんな答えを返したのか良く判らなかったのでこんな事を言ってみた。 「じゃあさ、綾波も食事を摂ってみたら?」 思いつきみたいな提案にレイは俯く。その瞳はお茶の入ったコップに注がれてるようでその実何も映してない。 「綾波?」 反応はない。仕方ないのでシンジは残りの食事を片付けにかかる。 モグモグ… 「………」 ムシャムシャ… 「………」 ズッ…ズズズ…… 「………」 モグモグ…ムシャムシャ… 「………」 ズッ…ズズズズズズッ… 「ごちそうさま」 シンジは食器をカウンターに返すとそのまま食堂を出ていった。 「うん」 しばらくしてレイが何か納得したように頷いた。目の前のコップを取りお茶を一気に飲む。 コクッ、コクッ、コクッ、コクッ お茶はすっかりぬるくなっていた。 『それだけ……なの?』 (碇君……驚いてた) レイは自室のベッドに座ると、コンビニで買ってきた幕の内弁当を開ける。 (碇君) その脳裏に浮かぶのはその彼の食べる姿。 モグモグ… ムシャムシャ… ズッ…ズズズ…… 『見てて楽しい?』 楽しそうだったのは碇君だった。少なくとも私はそう思った。 『そう』 碇君は素っ気無く締めくくると食事を再開した。 ムシャムシャ… モグモグ… 碇君……私と居るのはイヤ? 『何かな、綾波?』 え? 『碇君、楽しい?』 無意識に、そんな声が出た。碇君は一生懸命考えてくれた。 『食事そのものが楽しいんじゃないと思うよ。多分、それ以外の色々を含めて始めて楽しいかどうか決まってくると思う』 ……色々。ごめんなさい、わからないの。 『じゃあさ、綾波も食事を摂ってみたら?』 食事、私が? (そんなの…考えた事もなかった) 意識が現実に向く。彼女の目に映るのは無機質なコンクリートの部屋と冷めた幕の内弁当。 (楽しい? これは楽しいの?) 箸を手に取りご飯を口に運ぶ。ゴマが振りかかった白いご飯は淡々と彼女の口の中に消える。 ……ング…ングング…………コクン ゆっくり咀嚼して飲みこむ。 (楽しく、ない) 何度食べても、彼女の心に広がるのは寂しさだった。 数日後、ネルフ食堂にてシンジが食事を摂ってると、 「ここ、いい?」 そんな声に顔を上げるとレイが食器トレイを持って佇んでいた。 「うん、いいよ」 シンジはそう言ってレイが座る間、彼女の持ってきたトレイを見て驚いた。 (ちゃんとした……食事だ) 乗ってたのはサンドイッチに少量のサラダにお茶だけだったが、普段の彼女を知ってる人間からすれば十分食事に値するだろう。 「今日はちゃんと食べるんだ」 「ええ」 レイがそう言って食べ始めると、シンジも食事を再開した。 モグモグ… …パク……パク… ムシャムシャ… ……コクコク… 食卓にはただ食べる音だけが響く。元々ふたりとも口数は少なく割と自然な光景だ。 ムシャムシャ…… …パク………… ……モグモグ… …………コク… ただ時折、片方の手が止まりもう片方を見つめている。 (やっぱり……碇君は楽しそう) そんな事を考えてる間にシンジの食事は終わってしまう。 (あ……) レイがその事に内心、残念そうな声を上げるが、当のシンジは何が不服なのか少々顔をしかめてお腹に手を当ててる。 「……うん」 シンジは立ち上がると何も言わず立ち去ってしまう。 (………) レイはシンジに特に声をかけることなく俯いてしまう。目の前には食べ掛けのサンドイッチとサラダ。 (やっぱり…楽しくない) そんな事が心を占めたまま俯いてると、 「綾波?」 「碇君!?」 思わず掛けられた声に顔を上げたレイの目の前には、コーヒーカップを手にとって座るシンジが居た。 「大丈夫?」 「え?」 「……あ、いや、何か落ち込んでたように見えたから」 レイは慌てて首を振ると、シンジはそれで納得したのかカップに手を付ける。 「………」 「………」 「…綾波?」 手を付けたのはいいが、視線が気になってシンジはついカップを下ろしてしまう。 「食べないの?」 「…いえ、食べるわ」 その言葉に取り敢えず納得してカップに手を付けるが、やっぱりシンジに視線が刺さる。 「飲む?」 (え…) 思わず出てきた問いかけに、レイは迷う事すら忘れてしまう。 「綾波……?」 シンジの呼びかけも届かず彼女の思考は纏まらない。 「綾波?」 でも届かない。彼女は相変わらず混乱したまま。 「綾波!!?」 「……っ!!」 それでも3度目の正直か返さずとも気が付いたようだ。が、 「飲むの!?」 「え、ええ」 続いて出た問いに思わず応えてしまう。 「じゃあ、はい」 で、差し出されたカップには茶色い液体が泡立ちながら並々と注がれていた。 「……これ」 少なくとも紅茶ではない。これは…… 「カフェラテ、だけど?」 初めて見る飲み物にレイはまじまじと眺めると、恐る恐るカップに口を当てる。 「………」 躊躇も一瞬でカップを勢い良く傾ける。 「あ」 シンジはそれがもたらす結果に声を上げるが、レイは気にした風もなくカップを戻す。 「…碇君?」 笑顔…というより苦笑に近い笑みを浮かべてこちらを見るシンジにレイは怪訝な顔をするが、 「ちょっとだけジッとしてて」 との言葉に仕方なくジッとしてるとシンジは左手をレイの顔に添える。 「あ……」 「じっとして」 思わず声を上げたレイが動くのをシンジの手がやさしく押さえると右手に取り出したハンカチで優しく口周りを優しく拭き取る。 「………」 「ほら、カフェラテってさ泡があるからあんまりカップを傾けると泡が付いちゃうんだ」 「………」 「綾波?」 「………」 「あの…綾波?」 彼女の心を楽しさが占めていたのは、彼女だけの話。 ふと気がつくと、 「綾波…」 何故か笑顔を浮かべてこちらを見ているシンジと目が合った。 「じっとして」 その言葉に動けずにいるとシンジの顔はゆっくりとレイの顔に近づいていき、 チュッ…ペロッ… 唇の上を丹念に舐めとっていく。 「な…なん…で、いか…り君」 「カフェラテの泡」 (そっか……さっきの…) 思考も纏まらぬまま、シンジの舌は泡の在った処を這っていき、 クチュ…クチャ…… そのままキスに移行し、舌は咥内に侵入する。 (ん…あ…) 何時の間にか自分自身が誕生日プレゼントになりそうな雰囲気。 (プレゼント……用意し…た…のに) 彼女の思考も散り散りになり、それを見越したかのようにシンジが唇から舌を抜き出す。 「じゃ寝室に。ね」 (もう……いい…や) レイは無言で頷くとフラフラと立ち上がり、シンジにもたれ掛かりながら一緒に寝室に向かう。 「たん……じょ…う……び」 そこで寝室の扉が閉じられる。その後、中から甘い声が聞こえてきたのは別の話。 (お…め…で…と…う) 今は彼の誕生日とふたりの縁を祝って…… 終わる |