「はぁ〜。」

 シンジはどんよりした空に向かって、小さくため息をついた。
 教壇に立っている老教師は相変わらず20世紀の昔話を続け、誰も耳を貸そうとしていない。
 近くの席の友人と話す者、ビデオカメラを回す者、惰眠を貪る者、何もしない者。
 そうしたなかではシンジのため息一つ、誰も気に留めないと思うのだが、それでも彼の律儀な性格故にだいぶ控えめなため息をもう一度つくと、時計を見上げ後わずかな授業時間、何をしてすごそうかと考えていた。

「…でしたねぇ。
 あのころは…」

 と、ちょうど話が終わりに向かった頃にチャイムが鳴り、待ちかねたようにヒカリが号令をかける。
 真面目なヒカリはちゃんと聞いていたのだろうか。
 それとも、彼女も寝ていたのだろうか。
 授業中に眠るヒカリの姿を思い浮かべたシンジは、少し可笑しくなった。

「起立、礼!」

 空はわずかに雨を降らせ、そして止もうとしていた。

虹の刻んだもの


 授業が終わり、今皆はいそいそと帰る準備を始めていた。
 この時はシンジにとって、毎日心を悩ます非常に重大な決断を迫られるときだった。
 気に懸けている彼女に声をかけるか否か。
 ここしばらく、悩んで悩んで悩み抜いて、そして結局結論が出る前に彼女はすでに帰ってしまっているという、きわめて空しい日々が続いていた。
 今日も悩むのか、そう自分自身でも自嘲気味に思い顔を上げたそのとき、目の前に意外なものがあった。

 蒼銀の髪。
 白磁のように白い肌。
 ルビーを埋め込んだかのような真紅の瞳。

 シンジは一瞬、心臓が飛び上がるかと思った。
 しかし、その次の瞬間には彼の頭はフルスピードで回転していた。
 今まで出なかった答えが、ここでまさに出ようとしていた。

「あの、綾波?」
「なに?」

 レイは特有の無表情のままでシンジに答えたが、その無表情な彼女が見せる表情は、ここ最近で増えてきていることをシンジは知っている。
 ほかには誰も知らない、自分だけの秘密。
 そんな甘美な言葉がシンジの頭の隅にはあったが、誰か一人ぐらいは知っているだろう、と思っていたから、それは現実的ではないものとして頭の隅に追いやっていた。
 それより、今目の前にいるレイに話しかけたのだ。その後をどう繋ぐのかの方が重要だ。

「用、無いのなら…」
「あ、待ってよ。」

 そのまま立ち去ってしまったレイを、あわててシンジは荷物をまとめ追いかけた。
 彼の頭の中には、寄ってきたのはレイからだという、きわめて重要なことは抜け落ちていた。


 立ち去ったとはいっても、別に走っていったわけではない。
 ほどなくしてシンジはレイに追いついた。
 それとなく、レイの隣に立つようにして歩く。
 並ぶのを待っていたかのように、レイが口を開いた。

「なぜ、声をかけたの?」
「え……それは……」

 レイにそう言われて、シンジは言葉に詰まった。
 「気に懸けている」とは面と向かって言えたものではないし、第一よく考えれば、声をかけた後どうするつもりだったのだろう。
 ただ、当たり障りのないセリフで逃げようと思ったが、それすらも浮かばない。
 狭い道を並んでいく故に、時折触れる肩。そして、髪。
 そのたびにシンジの思考は停止し、結局何も言えぬままにレイの家とシンジの家へとの分かれ道へと着いてしまった。

「あ、その…ごめん……」
「何が?」

 ようやく言葉がシンジの口からでたが、それは彼の口癖というか、逃げ口上だけだった。
 当たり前の反論をされて、シンジはまた焦った。
 こんなチャンスなのに。綾波には嫌われてしまうんだろうか。

「いや、こんな風に、横並んで帰って。」
「どうして?」
「いや、どうしてって…」

 悪循環にシンジは陥りつつあったが、そこで空を仰いだとき、彼は意外なものを見つけた。
 そのまま固まったシンジを見て、不思議そうにレイも顔を見上げた。

「虹……」
「ホントだ……」

 空には、先ほどまでのわずかな雨のせいで、大輪の虹ができていた。
 鮮やかな色をした、赤から青へのグラデーション。

「きれいだね……」
「綺麗……
 でも、やがて消えてしまう。」
「え?」
「虹はやがて消えてしまう、儚い物。消えてしまう。それは悲しいこと。」
「そうかな?
 僕は、命ある物いつか消えてしまうのだから、それは仕方がないと思うよ。
 確かに、虹はやがて消えてしまうけれど、それまでのわずかな間に、精一杯鮮やかな色を見せてくれる。
 その自分に課せられた間を、一生懸命生きてるんじゃないかと思うよ。」

 言っているシンジ自身も不思議だった。
 普段の自分からは考えられないほどの饒舌。
 それは、やはり綾波の前で良い格好をしようとしているからだろうか。
 そう思うと若干悲しくなったが、その悲しさを一瞬で振り切った。

「課せられた間、一生懸命生きて、自分のすべてを出し尽くせるのが、僕には羨ましいと思う。
 僕はここに来る前、叔父さんのところにいたけど、あのころのままじゃ自分のすべてを出し尽くすことなんてできなかった。
 そんなふうに生きられるのが、僕は一番だと思う。」

 そこまで一息に言うと、シンジはレイの方をちらっと見た。
 綾波はどう思っているのだろうか。僕の話を。僕のことを。
 レイは今まで考えていたのか、それともタイミングを伺っていたのかはどうかは分からないが、小さく呟いた。

「碇君は、そう生きたいの?」
「よく……分からないけれど。
 そう…生きていけたらいいなと思う。」

 虹は、いつの間にか薄くなりつつあった。
 一生懸命に生きたその虹は、まさに果て行くところだった。

あとがき

 今日、実際に虹が見えたんですが、それがとても綺麗だったのでこのような作品執筆の運びとなりました。
 今回は実験的に、普段より意識的に視点を変えてみたつもりです。
 ですが結果は……(汗


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