長引いた友達からの電話を最後は叩き付けるようにして切ると、僕は戸締まりもそこそこに家を飛び出した。
彼女は時間に厳しい。というのはあまり正しくない。彼女は自分が遅れてくる分にはあまり気にしない。昔はもっと気にしていたようにも思うのだが、長い付き合いの僕相手には最近、遅れても数分なら大して気にしていないようだ。親しき仲にも礼儀あり、という言葉を知らないのだろうか。
ただそれよりはるかにやっかいなことに、僕が少しでも遅れて来ようものならすぐ怒ったり、拗ねたり。だから本当は遅れる訳にはいかないのだ。
後で呪ってやる、とさっきまで電話していた友達に心の中で呟きながら、僕は大粒の汗を零して走った。それでも彼女の姿を見かけた時には待ち合わせの時間を優に20分は過ぎていたから、やっぱり「ごめん」と謝る羽目になった。
「遅いわ」
彼女は怒った顔をしてはいなかった。ただ、それが逆に怖かった。彼女は笑っていたからだ。何故笑ってるのが怖いか、と訊かれればそれは決まっているだろう。定番だ。笑っているとはいってもそれはいつもの美しい微笑ではなく──尤も美しいのは美しいのだが──どこか作り笑いのようにも見える笑い。しかも目が笑っていない。
「ちょっと出際に電話が入ってさ、ごめん」
言い訳をしてはみたが彼女は聞いてもいなかった。代わりに彼女はふと、道の向かいの喫茶店を見た。
その視線を追った僕に、彼女は一言、「ミルフィーユ」。
遅れたのは確かだからしょうがないといえばしょうがないか、と僕は自分に言い聞かせつつ横断歩道を渡った。彼女は無論僕より先に渡っていた。
「お客様、2名様でしょうか?」
「はい」
「ご注文は?」
「ミルフィーユと、紅茶を一つ」
「ミルフィーユと紅茶でございますね。そちらの方は?」
「碇くん、どうするの?」
気がつくと彼女は既に自分の分を注文していた。仕方ないか。
「ホットコーヒーを一つ」
「かしこまりました」
ウェイトレスが行ったところで、改めて僕は頭を下げた。
「ごめん」
「もういいわ」
返事は分かっていた。だいたいいつもこんなものだ。どちらかといえば今の彼女は僕の遅刻よりもミルフィーユの方に関心があるようだ。少し複雑な気分。
「ミルフィーユと紅茶でございます」
「どうも」
「コーヒーでございます」
「あ、はい」
ケーキを食べる彼女はどことなく嬉しそうだった。そんな笑顔を見ているうちに、僕はなんだかどうでも良くなってきた。
「すみません」
「はい?」
「ミルフィーユを一つ、追加で」
「かしこまりました」
僕もミルフィーユを食べた。ほんのり甘いのがやっぱりいい。
「で、これからどうする?」僕は訊いた。
「どうするって、碇くん決めてないの?」
「今日は綾波が誘ったんじゃないか」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
最近は天然まで入っているような気がする。別に嫌ではないけれど、あのころの神秘的な彼女を思うと少し考えさせられるものがある。
「だいたい」それでも僕の口は止まらない。「なんで3時なんて時間に待ち合わせたわけ?」
「なんで?」
「中途半端だし、暑いし。もっと他の時間とか」
「冷たい物、奢って貰おうと思ってたから」
「僕が遅れなくても?」
「ええ」
僕がため息をついたところでしばらく落ち着いた。
精算を終えて店の外に出たら、やっぱり暑かった。僕は彼女にあてつけるように「暑い」。でも当の本人は別に気にしていないようで、無造作に「本当、暑いわね」と返された。
「ねえ」
「なに?」
「あれからもう2年よね」
昔こそ気にしていたけれど、最近二人ともあのころのことを思い出として笑って思い返したりもできるようになった。そこらへんは進歩だろう。
「もう2年?まだ2年?」
「あと2年ね」
彼女は直接僕の質問には答えなかった。僕はその真意が一瞬つかめず、「『あと』2年?」と訊き返した。
「碇くん、今16でしょ?」
彼女は立ち止まった。僕は彼女がなにを言いたいかだいたい分かったので、少し恥ずかしくなって上を見上げた。彼女も空を見た。
空は青かった。