あれはいつのことだっただろう。どの使徒の後だったか。季節はずっと夏だったし、僕らの周りは代わり映えがなかった。トウジと話した帰りだったから、参号機云々の前ではあるだろう。アスカがいたかは……覚えていない。本人に言ったら怒られるだろう。
僕らはネルフの帰り道、なんとなく並んで帰っていた。折角並んでいたのに何も話せないことに僕はたぶん苛立っていたのだろう、苦し紛れにつぶやいたのが発端だった。
「ねえ、ネルフのロゴに英文入ってるけど、あれってどんな意味なのかな?」
「分からない」彼女は最初表情ひとつ変えずに言った。「気に留めたこともなかったから」
しかしふと止まると僕のほうを向いて、「なんて、書いてあった?」
僕は慌てて鞄からIDカードを出した。
「えっと…God's in his heaven. All's right with the world.…だって」
彼女はしばらく考えているようだった。やがて言った。
「聖書の一節かもしれないわ。“神は天に在り。世は全て事も無し”」
「ふうん」彼女が聖書を知っているのは少し驚きだった。しかしよく考えればよく本を読んでいるのだから知っていてもいいのか、と自分にあきれてから、まるで彼女が人形かロボットかとでも思っていた事に少し嫌悪感のようなものを感じた。
「要するに」彼女がまた口を開いた。僕らは完全に立ち止まっていた。彼女が僕のほうを向いていることにいまさら気づいた。「神が天にいるから、この世界は平穏だ、ということだわ」
「なんか皮肉だね」それだけ言うとどちらからともなくまた歩き出した。少し僕らの影も伸びてきたのを感じた。もう夕方だ。
「今は、神がいないのかもしれないわ」
僕らは並んで歩いている。あのときより幾らか近い距離で、そしてあのときより軽い空気で僕らは歩いている。
「夏休み明けって、何でこんなに疲れるんだろう」
「夏休みに怠けてたからじゃないの」
「まさか」
「図星ね」
「綾波こそ最後の授業はほとんど寝てたじゃない」
「見てたの」
当たり障りの無い会話をしばらく続けるうちに、ようやく思い出した。
「そうそう」言いながら僕は鞄を開けた。
「今日部屋の掃除してたら、出てきたんだけどさ」
僕は彼女にそれを渡した。彼女は一瞬、目を丸くした。
「どうして、碇くんが?」
「なんか紛れてたみたい。やっぱり返したほうがいいかな、って思って」
ネルフのIDカードだった。彼女のが僕の荷物に紛れていたのはやはりサードインパクトの後荷物の整理とかで紛れこんだんだろう。
「ありがとう」彼女はまだなんとなく不審そうだった。その不審を押さえつけるように僕は言った。
「覚えてる?」
「何を?」
「神は天に在り」彼女はそれね、といった感じで頷くと続けた。
「世は全て事も無し」
「なんかようやく、それが実感できるような感じでさ」
「そうね」
彼女が僕の手に触れた。自分でも分かるほどぎこちなく、僕はその手を握り返した。
神は天に在り、世は全て事も無し