絆 〜心の形〜





「綾波…」温もりが消え去った右手を、愛しむ様に胸にあてていた。
視界がねじれ、絡み合い、暗黒へとシンジを連れ去った。
「僕と綾波の心は…一緒なんだ…」《―――違う―――》
「綾波は死んじゃいない、僕の中に生きているんだ…」《―――違う―――》
「僕の中に居るんだ…」《―――違う―――》
「僕の中に居るんだ!」《―――違う―――》
「居るんだ…」《―――違う―――》

「うるさい! 綾波は僕のものだ!」

シンジの心は壊れたのかもしれない、歪んだ顔で笑いながら泣いた。

「はは、僕の…ものなんだ…綾波は」《―――違う―――》
「綾波、ずっと、ずっと一緒だよ…」《―――違う―――》
「いいじゃないか…僕が決めたんだ」《―――違う―――》



夕日が差し込む電車の中に少年が座っていた。
正面の席には少女が座っている。

《―――泣いているの?―――》「泣いてなんかいないよ…」
《―――悲しいの?―――》「悲しくなんかないよ…」
《―――嬉しいの?―――》「嬉しくなんかないよ…」
《―――私のせい?―――》「君は誰?…」
《―――思い出して―――》「…」
《―――思い出して―――》「…綾波」
《―――私は、綾波―――》「綾波…」

「僕は…シンジ…」《―――そうよ―――》
「僕は、知ってる」《―――そうよ―――》
「綾波は、死んだ」《―――そうよ―――》
「綾波は、居ない」《―――そうよ―――》

《―――帰りたい?―――》「何処へ…」
《―――私に会いたい?―――》「もちろんだよ!」
《―――会えるわ―――》「嘘だ! 綾波は…」
《―――そう、私は死んだ―――》「やだよ!」
《―――でも、会えるわ―――》「!」

「会える…綾波に…」

《―――帰りましょう―――》



シンジは夢から覚めた様に目を開いた。
ぼんやりと巨大な爆心地が見えた。
悲しみは続いているが、狂気は去っていた。
一緒に未来を歩みたかった彼女の死、涙が涸れることは無かった。
心の痛みは肉体をも切り刻む様であり、苦痛に意識が遠のく…



「初号機の機体及びパイロットの回収を急いで!」
「第31ルートを確保しました!」
「了解! 初号機との回線は!?」
「問題ありません!」
「シンジ君! 聞こえる? シンジ君!」
スピーカーからシンジの呟きが聞こえてくる。
「…綾波が…綾波…」
「シンジ君! しっかりして!」
「…」
「初号機パイロットのバイタル低下!」
モニターに映るシンジは、ぐったりとシートに座ったまま動かなかった。



窓から射す光に、真っ白な病室がまるで幻の様に霞んでいる。
シンジが目を覚ます。焦点の合わない目で天井を見つめるだけであった。
「僕は…」
突然、記憶がよみがえり、顔をゆがめる。
(綾波が死んでしまった…)
瞳から涙が流れ出す。身体がガクガク震え、くいしばっているが嗚咽が漏れてしまう。
「うっ…うっ…」
14才の少年には、余りに辛い現実である。愛する者を失った喪失感、寂しさ、悲しさ。



「シンジ君の意識が戻りました!」
「わかったわ、ここ宜しく」
ミサトは、シンジの病室へ急いだ、(シンジ君、今行くから…何を話そう)何も話せる事など無かった。
病室にミサトが入るが、シンジの反応は無かった。丸くうずくまり、壁を見つめている。
「シンジ君…」五度目の問いに、ようやくシンジが首をまわしミサトを見た。
シンジの目は真っ赤に腫れ窪んでいた。
「ミサトさん…」
「ミサトさん…綾波が…」
ミサトは目を逸らし、「救出作業は継続しているわ…」と言うのが精一杯だった。
「僕が…僕が死ねば良かったんだ…綾波が…」
シンジは叫んだ、「綾波!」「綾波!」「綾波!」「綾波!」「綾波――!」
「落ち着いてシンジ君! 落ち着いて!」
ミサトはシンジを強く抱きしめた。
どれ位の時間が経過したのだろう…シンジはミサトの胸の中で、泣き疲れ眠ってしまっていた。
ミサトはシンジの頭を撫でながら奇跡を願った。



エヴァのパイロット、いつ命を落とすかもしれない使徒との戦闘、私はわかっていた。いや、わかっていなかった。
14才の少年少女を死地に向かわせる自分、命令…命令だから仕方がない…言い訳ね…。
ミサトの思考は無限ループを続けていた。
奇跡をもたらしたのは、リツコであった。



シンジの病室のスピーカーからミサトの声が響いた。
「シンジ君! よく聞いて! レイが…レイが生きていたわ! シンジ君! レイが生きていたのよ!」
シンジは身体を硬直させた。(綾波が生きている…え!? 何…綾波!?)
シンジはベッドから飛び起きる、心臓がドキドキする、生気の無かった顔に希望の色がさす。
確かにあの時、綾波の機体は…信じられない…
でも、ミサトさんは生きてると言ってる、「綾波が生きている…」確かめるように呟いた。
「ミサトさん! 綾波は何処!?」
「第三外科病棟の301号室よ!」
シンジは走った。エレベータは…待ってられない! 階段か! 肩で息をしながら駆け上がった。
もう直ぐ、もう直ぐ、綾波に会える!
病室のドアの前で止まった。呼吸を整える。「この中に綾波が…」心臓が張り裂けそうだった。
ドアをノックし、静かに入る。シンジの病室と変わらないレイアウト、窓際にベッドがあり、ベッドの上には…
「綾波! い、生きていたんだね!」
シンジは涙でかすむ目で、ベッドに上体だけ起こして座っているレイを見つめ、声をかけた。
レイは、ゆっくりと首だけシンジの方を向き、「だれ?」と言った。
「何言ってるんだよ! 僕だよ! シンジだよ!」
シンジはレイのベッドに近づく。
レイはシンジをじっと見つめ、「シンジ…碇シンジ…碇司令の息子…」と呟く。
「綾波!? どこか怪我したの? 何があったの?」
「わからない…」
シンジは、レイが恐ろしい経験による一時的な記憶喪失なのだと解釈した。
「綾波、君は、第十六使徒アルミサエルとの戦闘で…でも…でも、生きていて良かった、良かった!」
シンジには、もう我慢の限界だった。気が付いたらベッドの中のレイを強く抱きしめていた。
「綾波! 綾波! 良かった! 良かった…」
レイは、目を大きく見開いて驚いている。
(碇君…生きる…私が…)
レイは、頬を薄らとピンクに染め、目を瞑りシンジに身を委ねた。
(なぜ…なぜ私はドキドキするの…なぜ…なぜ涙が出そうになるの…)
しばらくしてシンジは、レイから身体を放し、じっと顔を覗き込む。
「ごめん綾波、どこか痛くなかった?」
レイは、こくりと顔を縦にふる。
シンジは、ようやく落ち着いたのか、椅子に座った。レイの顔を見つめたままだ、いつの間にかレイの手を握っている。
(碇君の手…暖かい…)
「僕は、僕は凄く心配したんだよ…綾波が…で、でもいいんだ、生きていてくれたから…」
涙を流しながら、優しくほほ笑んだ。
そこへ、ミサトが入室してきた。
「レイ!無事で…」ミサトは声を詰まらせた。
「ミサトさん、綾波は一時的な記憶喪失かもしれないんです。」
「え!? そうなの? でも…何も聞いてないわよ…」
「いいんです。綾波が無事…それだけで…」
「シンジ君、あたし主治医に聞いてくるから…」ミサトは病室を出てナースステーションに向かった。
シンジは恐る恐る聞いた。
「綾波、どこまで覚えてるの?」
「…」
「僕の事はわかるよね?」
「…うん」
そこでシンジは、レイが指輪をしていない事に気が付いた。
「指輪、無くしちゃったんだね…」
「…違う」
「違う!?」
「…多分…私は三人目…私は…作られた存在…」
「な、何言ってるの!?」
「貴方が想っている綾波レイは…多分二人目…私とは違う…」
シンジは絶句した。レイの言っている事があまりにも非現実的で思考がついていかない。
「その通りよ、シンジ君…」突然、後ろから声が掛かった。
そこにはリツコが白衣姿で立っていた。



リツコの説明は理解しがたいものであった。
「そんな…綾波が…」
「事実よ…シンジ君…レイは…」
「やめてよ!…折角、綾波が生きてるって…助かったって…思ったのに…そんな…そんな!」
「ごめんなさい…」リツコは目を背けた。
シンジの目から又、涙が溢れてきた。
「ぼ、僕が、好きだった綾波は…もう…う、うう」
「ごめんなさい…」今度はレイが呟いた。
シンジは苦悶の表情で、レイを見た。
(目の前に居るのは綾波だよ…でも、違う綾波なんだ…)
(私の記憶は、与えられた物…でも、何かが…何かが心に…)
(僕には…区別なんて…できないよ)
いつの間にか、リツコは退室していた。
シンジは願った。(神様、綾波を…僕が愛した綾波を…返して…)
両手を握り締め何かを念じているシンジを、レイは見つめている。
突然、シンジの右手に温もりを感じ、ハッとして右手を開いた。
そこには、輝く小さな羽根が現れていた。
「これ…あの時の…」
シンジがそう思った瞬間、羽は、まるで意志を持っているかのように震え宙に舞った。
そしてゆっくりとレイに向って漂って行く。
レイは突然の光景に驚き、目を見張ったが、やがて何かを理解したのか、両手を広げて羽がやって来るのを待った。
輝く羽は、レイの胸へと吸い込まれた。
「うっ…くっ!」
「綾波! 大丈夫!? 綾波!」
レイが苦しげな声を漏らした様子にシンジは狼狽した。
レイの瞳がゆっくりと開いた。今まで無感情だった瞳に、明らかに感情の色が現れ、涙が頬をつたい落ちた。
「い…碇…君…」
「綾波!?」
「私よ…わかる?…碇君…私よ…」
奇跡…そう奇跡としか言い様が無かった。三人目のレイの身体に、シンジを愛したレイの心が、魂が宿ったのだ。
「あやなみ…!?」
レイが優しくほほ笑んだ。
「綾波!」
シンジはレイを抱きしめた。強く、強く、レイもシンジの背中に手をまわした。
「碇君…ただいま…」
「おかえりなさい…綾波」



今日はレイの退院の日である、シンジは病室の前でそわそわしていた。手にはお祝いの花束を握り締めている。
ドアが開いた、純白の病室を背景に、何時もの制服に着替えたレイが立っていた。
シンジはしばらくボーッと見とれてしまう…ハッ!
「あ、綾波…退院おめでとう」
シンジは照れながら花束をレイに渡す。
「ありがとう、碇君」
レイも頬を染めて俯く。
「い、行こうか…」
シンジが手を伸ばす、レイがそっと手を繋ぐ、シンジが優しく力をこめる、レイもそれに応じる。
本当はもっと沢山の人達がレイの退院を祝いに来たかった。皆が気を使い二人きりにしてくれたのだ。
寄り添いながら、歩き出す二人。これからはずっと、ずっと二人で一つの人生を歩んで行くだろう。
苦しい事も、二人なら乗り越えられる。楽しい事は、二人で分かち合える。
「綾波、また指輪プレゼントするね…」
「うん…」




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