砂時計

作yo1




 病院へ向う道すがら甘い香りが僕の鼻を擽った。そこは洒落た雰囲気の洋菓子店で、彼女は此処のチーズケーキが大のお気に入りなのだ、僕は寄り道する事にした。お店に入ると、濃厚なスイーツの香りが僕を出迎え、綺麗に並んだ洋菓子達が、『私はここよ』と誘ってくる。
「ケインズベリーのチーズケーキを二つお願いします。」
 迷わずオーダーすると、可愛い赤いリボンでラッピングしてくれた。
 持っているバスケットには、紅茶のセットが入っているので丁度良い感じだ、それにもう一品、イカリソウのブーケも入っている、花言葉は『君を離さない』なのだが、少し照れくさいかな、彼女は喜んでくれるだろうか。


 病室の前で深呼吸し、僕はゆっくりと二回ノックをした。
「はい」
 控えめな彼女の声が返ってきた。僕の心臓がエドワード・エルガーのチェロ協奏曲を奏で始める。旋律がドアを抜けて彼女に聞こえてしまいそうで、でも僕達の愛は揺ぎ無いから、この想いはそのままに、僕はそっとドアを開けた。
「僕だよ、綾波」
 入室すると、そこは清潔で白が支配する世界、君はそこに咲く一輪の花、花は蒼い髪を揺らし、花は紅い瞳を輝かせていた。
「碇君、来てくれたのね」
 頬をピンクに染めて、毛布で胸元を隠す仕草は、とても可愛いと思った。
 僕は、バスケットを手近なテーブルに置いて椅子に座る。
「身体の具合はどう? 無理しないで横になっていいから、ね?」
 顔を覗き込む様に訊ねると、首をフリフリして「大丈夫だから……碇君が来てくれて嬉しいから、これでいいの」と、頬をピンクから赤に変えて答えてくれた。
「うん、元気そうで良かった」



 何故、綾波が入院したのか、それは昨日の午後、僕が彼女の部屋を訪ねた時だった。
 何時もと違って元気が無く、おでこに手をあてると熱があったので、慌ててNERVの病院に連れてくると、診断の結果『風邪』と分かり、大事を取って数日入院する事になったのだ。



「これ、お見舞いのお花だよ」と、イカリソウのブーケを彼女に手渡すと、目を細めて微笑んで「ありがとう」と喜んでくれた。胸元でブーケを握り締めて喜んでいる君は、とても可憐で可愛くて、思わず抱きしめたくなるのを誤魔化すために「花瓶に水を入れるね」と立ち上がった。きっと僕の顔は真っ赤だったと思う。
「それからね、綾波の大好きなものを買ってきたんだよ。何だと思う?」と、ちょっぴり悪戯してみると、小首を傾げて「なにかしら?」って考えている。そんな仕草も一段と可愛いから僕の負け、バスケットから赤いリボンの箱を取り出して彼女に渡す。ブーケは花瓶に生けてあげた。彼女は赤いリボンをそっと外すと、丁寧にたたんで花瓶の横に置いた。そして蓋を開けると病室いっぱいに甘い香りが躍り出た。
「ケインズベリーのチーズケーキ。私、大好き」と目を丸くして喜んでいる君の笑顔に、僕の顔もほころんでしまう。
「うん、知っているよ。お茶にしようね」
 ベッドの上に簡易テーブルをセットして、バスケットから紅茶のセットを取り出す。二組のソーサーとティーカップを並べ、アールグレイのティーパックを入れて水筒のお湯を注ぐと独特の清清しい香りが立ち昇る。
 椅子に座って「さぁ綾波。準備できたよ」と彼女の顔を見ると少し涙ぐんでいた。「あ、綾波! 気分が悪いの? どこか痛いの?」と狼狽すると、涙を拭きながら「違うの!……違うの、碇君の優しさが嬉しくて……それで私」と涙目で微笑んだ。僕は胸を撫で下ろし彼女の手をそっと握り締めると、立ち上がり彼女の唇に口づけをした。「当然だよ、僕は君を愛しているんだから」甘い時間が過ぎて、ゆっくりと僕達は離れた。
「さぁ、綾波。お茶が冷めちゃうよ」それから僕達はお茶を楽しんだ。緩やかな時が流れてゆく、ずっと手を繋いだまま。

「とっても美味しかったわ、碇君、ありがとう」彼女の笑みがとても嬉しかった。
「明日には退院だね、唯の風邪で良かった。僕ね、本当に心配で、心配で……」僕は下唇を噛み締めた。
「うん……心配かけて御免なさい。この後に検査をして何も無かったら、明日には退院できるから、碇君、笑顔を見せて、お願い」
 彼女は伏せた瞳を潤ませて、お祈りする様に両手を結んで哀願している。
 僕が元気付けないでどうする。
「そうだよね、綾波、明日が待ち遠しいね」僕は笑顔で答えた。

 そろそろ検査の時間だ、僕は荷物を片付けて「綾波、明日迎えに来るからね。検査頑張って」と帰ろうとすると、彼女が何かモジモジしている。何だろう「綾波?」僕が不思議そうな顔をすると「もう一度……キス……して欲しいの」と真っ赤な顔でおねだりする彼女、そんな彼女がいじらしくて愛しくて僕は、彼女を抱きしめて口づけをした。少し強引だったかもしれない、でも彼女は全身を僕に委ね安心している。僕は心の中で叫んだ『愛している』と、この気持ち唇から伝わって欲しい、そう強く想った。







 彼が帰り紅茶の香りが残った。「碇君の唇……」無意識に自分の唇を指でなぞる。彼が来てくれて嬉しかった。彼とのお茶の時間が楽しかった。彼が帰ってしまうのが切なかった。でも……でも明日になれば。
 看護婦さんが検査の時間だと迎えに来た。車椅子に乗せられ検査室に向う途中、身体が強張っているのに気付く、怖いの、唯の風邪なのに、『頑張って』彼の言葉を思い出す、私頑張るから、明日貴方の元に帰るから。
 主治医の赤木博士から検査の説明が行われた。
「貴方の身体はね、普通の人より弱いのよ、たとえ風邪だとしても安心出来ないの、その為の検査よ、分かるわね」
 小さな声で「はい」とだけ答えると、検査が始まった。

 1時間程で全ての検査が終わり、病室に返された私は、不安な気持で結果を待っていた。
 程なくして赤木博士がやって来て検査結果を告げられた。
「レイ、結果から言うわね、貴方には暫く入院してもらいます」
「え……どうして……だって……私……風邪だと……」そんな、そんな筈じゃ、目眩がしたので、私は硬く目を瞑る。
「風邪なのは確かよ、でもね、検査データに気になる所があるの、これ以上は推測だから話せないわ」ようやく落ち着きを取り戻し、目を開けると、赤木博士は退室した後だった。
「碇君、碇君、私……」涙が止め処なく溢れ頬を伝い、冷たい雫となって落ちる。


《砂時計の砂が静かに落ち始めた》







 今日は彼女の退院の日だ、お祝いをして沢山甘えさせてあげよう、そんな事を考えながら病院へ入りナースステーションの前を過ぎ様とした時だった。
「ちょっと待って! シンジ君! シンジ君! 待ちなさい!」急に呼び止められて僕は驚いた。
「あ! リツコさん、綾波がお世話になりました」と笑顔で挨拶するのと対照的に、赤木博士は難しい顔をしている。何だろう、僕何かしたかなと考えるが何も思い当たらなかった。
「シンジ君、レイの事で話があるの、談話室に行きましょう」と促され、後ろを着いて行きながら不安になる、彼女に何かあったのだろうか、心臓が嫌な音を立て始めた。

 談話室に入るとコーヒーを勧められたが、そんな物はどうでもいい「綾波に何かあったんですか?」僕は不安な気持ちを言葉にした。
「ええ。レイには暫く入院して貰います」と宣告され、少し考えて「風邪が酷くなったんですか!?」僕の知識ではそれ位しか思いつかない。
「いいえ、風邪の方はもう大丈夫よ。検査結果に気になる点があるの、1ヶ月後にはっきりすると思うわ」
 ハンマーで頭を殴られた様な衝撃を受けて僕はよろめいた。

「綾波は……知っているんですか」なんとか言葉を絞り出す。
「彼女には、入院が長引くとだけ話しているわ。出来るだけ優しくしてあげなさい」そう言い残し博士は退室し、残された僕は力なく椅子に座り込んだ。自動販売機の音が耳障りに鳴っていた。

「嘘だろ……綾波……そんな……そんな……残り1ヶ月だなんて……嘘だ!」狂ったように叫び、壁を殴った。皮が剥け血が飛び散るまで殴り続けた。僕の最愛の人、一生涯をかけて幸せにしてあげると誓った人、彼女が、綾波が、酷いよ、酷すぎるよ。
「うっ……うぅぅぁ」涙が流れ出るままに深い悲しみに沈んでいった。


《砂時計の砂は勢いを増し落ち続ける。残っている砂は1ヶ月分》


『出来るだけ優しくしてあげなさい』その言葉が突然よみがえる。
「そうだ! 僕は、泣いてる場合じゃない、綾波に少しでも」泣き腫らした目に強い光がやどると、急いで洗面所に行き顔を洗い、身なりを整えると彼女の待つ病室へと向った。


 病室の前で深呼吸し、僕はゆっくりと二回ノックをした。
「はい」
 元気の無い声が返ってきた。悟られちゃダメだ、そう誓ってドアを開けた。
「綾波、入るね」
 僕は努めて明るい声を掛け病室に入ると、彼女は気丈にも笑顔で出迎えてくれた。頬に涙の跡が、先程まで泣いていたのだろう。
「入院が延びちゃって残念だね、でもしっかり療養して元気になろうね、僕、毎日来るから、寂しい思いさせないから」
 そんな僕の言葉に、彼女は「うん」と笑顔で答えてくれて嬉しくて悲しかった。

「碇君! 両手に怪我してる! 早く手当てしないと!」彼女は慌ててナースコールを押した。
「え!?」僕は今更になって両手が痛いのに気が付いた。
「あの……こ、これは……」慌てて取り繕うとしていううちに看護婦さんが来てしまった。
「綾波さん、どうされました?」彼女の病室から呼んだのだ、当然、彼女に何かあったのかと心配したのだろう。
「い、いえ、違うの、私じゃなくて、碇君の、彼の両手が」指差しされた僕の手からは、血が滴っている。
「まぁ! どうされたんですか? 直ぐに診察室に行きましょう」
「綾波、ごめん、直ぐに戻るから」『僕が心配されてどうするんだ』と自分の不甲斐なさを悔やんだ。

 程なくして戻った僕の両手は、包帯でグルグル巻きにされていた。物を掴める程度には動かせそうだ。
「碇君……痛そう、大丈夫?」彼女が、痛々しそうに包帯の両手を見つめている。「心配掛けてごめん、大丈夫だよ」誤魔化す様に両手をブンブンと振って見せた。おどけた僕の仕草に彼女は笑顔になってくれた。
「ねぇ綾波、散歩しようか」誘ってみると「うん、お散歩行きたい」と微笑んでくれた。
「車椅子で行こうね」と早速車椅子の準備をして、彼女をそっと座らせて毛布を掛けてあげた。彼女の乗る車椅子を押して中庭に出ると、そこは綺麗に手入れされていて、噴水などもあった。暫く暖かな陽射しを満喫していると「碇君、自分の足で歩きたいの、だめ?」と上目遣いでおねだりされたら断れないよ。「無理しないなら良いと思うよ」それから腕を組んで広い中庭を散策した。

「ねぇ碇君」
「ん?」
「あのね、初めて二人でお買い物に行った時の事……覚えてる?」瞳がキラキラしている。
「えーっと……覚えてないなー」わざと嘘をつくと「そう……」彼女はションボリして呟いてしまう。
「嘘! うそうそ! 勿論覚えてるよ、だって僕達が初めて結ばれた日だよ」彼女はパッと顔を輝かせた。
「もう! 嘘つかないで!」と言うとプイっと拗ねてしまった。
「ごめん! ごめんよ、綾波、機嫌直して、ね?」僕が必死に謝ると。
「クスクス、明日も一緒にお散歩してくれるなら、許してあげる」
「勿論だよ! 約束する!」

 その後も、おしゃべりをしたり、芝生に寝転んだり、木陰でこっそりキスをしたり、彼女は楽しんでくれた様子だ、僕は嬉しかった。
 あまり長く風にあたるのは良くないと思い「そろそろ病室に戻ろうね」と優しく囁くと、彼女は少し残念そうに頷いた。







 僕は毎日欠かさず、彼女の病室を訪れていた。

「綾波、果物食べる?」バスケットいっぱいに色々な果物を持ってきていた。彼女に見せると少し驚いた後に、「クスクス」と笑っている。
「碇君、そんなに沢山食べきれないわ、ふふ、でもとっても嬉しい」と微笑む彼女。
「えっと、何が良いかな? リンゴ? 梨?」僕が迷っていると「リンゴがいいな」と、彼女が選んでくれたので、早速リンゴの皮を剥き始めながら「あのさ……綾波……プレゼントがあるんだけど……貰ってくれるかな?」何気なく聞いてみる。「プレゼント?」彼女は唇にひと指し指をあてて小首を傾げる。
 食べやすく切ったリンゴを小皿にのせて彼女に手渡すと、美味しそうに食べ始めたので、僕はコッソリとバスケットの奥から小箱を取り出した。
「こ、これなんだけど……」さり気無く彼女に差し出す。
「ありがとう」大事そうに両手で持っている彼女に「開けてみて」と促すと、彼女はそっと小箱を開いた。
 中には、婚約指輪が輝いていた。彼女は言葉を失った。
 僕は照れながら「綾波を、一生大切にする、一生幸せにする、その証だよ」とプロポーズの言葉を言ってから顔を真っ赤にして俯いた。
「……嬉しい……碇君、私……うっぅぅ」大粒の涙が零れ落ちる。僕はそっと彼女を抱きしめた。


《砂時計の砂は落ち続ける。残っている砂は僅か》







 約束の時。赤木博士が病室にやって来た。
 緊張と不安から僕らは手を握って互いを支えあった。

「二人とも落ち着いて」赤木博士の真剣な表情に、絶望感が押し寄せてくる。
「は、はい」落ち着くなんて無理だよ。

「レイ、シンジ君、……………………おめでとう」赤木博士の言葉に「「え!?」」と驚きの声を上げる。
「おめでとうって……何が?……私……病気じゃ?」彼女が訝しげにと訊ねる。
「あら、私は病気だなって言ってないわよ」と赤木博士がさらっと答える。
「あ、あの、綾波って、1ヶ月の命じゃ?」僕も恐る恐ると訊ねる。
「何の言っているのかしら?」と呆れた顔をする赤木博士。

 赤木博士は「ふ〜」とため息を付くと、暖かな眼差しと口調で説明を始めた。
「あのね、レイは、おめでたよ、妊娠しているって事、貴方達は若いパパとママなのよ」
「……」
「最初の検査の時にね、妊娠検査も行ったのよ、結果、hCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)ホルモンが検出されて妊娠と分かったわ」
「だ、だったら、初めから、そう言ってもらえれば……こんなに心配しなくても……」僕は頭の中は真っ白で無意識に言葉が出た。
「ケミカルアポーションつまり化学的な流産の可能性があったのよ、普通は、それも含めて妊娠初期に告知するけれど、貴方達は若すぎるから、もしケミカルアポーションだった場合、その精神的負担を危惧したのよ、特にレイはね……」

「じゃあ僕は……パパに……やった! 綾波! 良かった、良かった! 僕らの子供が綾波のお腹に……綾波!」
 彼女を抱きしめて、僕は喜びに我を忘れてはしゃいでしまった。
「……」
「あ、綾波……どうしたの?……も、もしかして……嬉しくなかった?」僕が不安な顔で彼女を見つめると。
「……私がママ……赤ちゃん……私のお腹に碇君の赤ちゃん……嬉しい……嬉しいの……うぅぅぅぁ」彼女は喜びの涙を流した。
 僕は彼女のお腹にそっと手をあてると、彼女はくすぐったそうにする。
「碇君……」「綾波……」互いの瞳を見つめて幸せを噛み締め、そして僕達は唇をかさねた。

「オホン!」赤木博士の咳払いで我にかえる僕達。
「ここは病室! 続きは自宅に帰ってからにしてちょうだい」
「「すみません」」
「まだ問題が残っているのよ。貴方達は学生……妊娠は早すぎると思わないの?」
 病室が沈黙に包まれた。

 僕は考えた、確かに僕らはまだ子供だ、小さな命を守るには力不足には違いない、でも、愛する人と結ばれて得られた宝物、どんな犠牲を払っても……この子は、僕と綾波の間に産まれたこの子は、守る! 守ってみせる。僕は決意した目で彼女の目を見た。彼女は真剣な眼差しで、僕と同じ決意だと伝えてくれた。

「赤木博士、僕達はこの子を、二人で大切に育てる覚悟です」僕は凛として告げた。

「ふっ、そう言うと思ったわ。とにかく頑張りない。」赤木博士は、暖かな眼差しで僕達を見つめた。


 病院を出た僕達は、寄り添って歩き始めた。彼女は穏やかな表情で、それは既に母親の顔になっていた。
「碇君、私、幸せよ、だって碇君の子が、私のお腹の中で生きているんですもの。私、変わった気がするの、強くなれた気がする。」
「そうだね、僕も強くなるよ、強くなって必ず幸せにする、綾波もお腹の中の赤ちゃんも」

 僕達の進む先には、幾多の困難があるだろう。でも、必ず乗り越える。乗り越えてみせる。君と産まれてくる子の為に。







《砂時計は、逆さになり新たに砂が落ち始める。そうして永遠に繰り返される》




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