夏の幻

作yo1




 揺れるバスの窓から流れる、美しい景色を見つめる彼女、野生の動物を見つけたと、振り返っては僕に教える彼女の瞳が輝いている。
 僕の袖を引っ張っては「あそこ」と指差す仕草が可愛くて、無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔が眩しくて、自然と僕も笑顔になる。
 風景が林から茶畑に変わると、茶摘みをする女性達に興味を持った様子で「あれは…何をしてるの?」と不思議がっている。
「あれはね、お茶の葉を摘んで集めてるんだ」
「お茶の葉? 紅茶の材料になるの?」
 小首を傾げて、人差し指を唇に当てる仕草が可愛過ぎて、思わず抱きしめたくなる。
 彼女の新しい発見や驚きを、大切にしてあげたいと僕は思う。
「えっと、お茶の葉を発酵しない様に加熱処理したのが緑茶で、お茶の葉と芽を乾燥させて発酵させたのが紅茶なんだ」
「同じ材料から……面白いね」
 ニッコリ微笑む彼女は天使の様で、隣に座っているのが僕である事を神様に感謝した。
 もう直ぐ降車する停留所だ。
『まもなく……』







 その日の午後、僕達は夕食の材料を買いに近所の商店街に来ていた。欲しかった材料は全て買い終わったけど、急ぐ必要は無い、彼女と手を繋ぎ、ゆっくりとお店を冷やかして回る。丁度商店街の中央付近に人だかりが出来ていた。
「碇君、あれ何?」
「何だろう? 行ってみる?」
「うん」
 人の波を掻き分けて前に出ると『商店街大福引抽選会』の看板が目に入った。
「あ!福引だって」
「……福引?」
「さっき買い物した時に何か貰ったよ。えっと……福引券だ、三枚あるから一回チャレンジできるみたい、綾波してみない?」
「う、うん」
 僕達は福引券を係りの人に渡すと、大きなガラポンの前にやって来た。
「この把手を掴んで回すんだよ」
 彼女は把手に手を掛けると、僕に潤んだ瞳を向け『怖いよ〜』と言いたげな表情をする。
「さぁ! おもいっきり回してちょ〜だい!!」
 係りの人が叫んでる。
「綾波、リラックスして、適当でいいんだよ」
 僕は繋いでいた手をギュッと握り締めて応援した。
「うん……」
『ガラガラ、ガラガラ、ガラガラ、ポト』
「碇君! 回したわ!」
 思いのほか、面白かったのだろう、ニッコリ笑顔になって喜んでいる。僕もニッコリして「良かったね」と彼女の頭を撫でてあげた。
 ティッシュかな?タワシかな?と思っていると。
『カラン!カラン!』「大当たり〜!! おめでとうございます。特賞、伊豆長岡温泉ペア旅行チケット出ましたー!!」
「……え?」
「若奥さん!! やりましたね〜!!」

(―― 若奥さん……私の事?……碇君の奥さん?……ポッ ――)

 彼女が赤く染まった頬に手を当てて動かなくなったので、僕が目録を受け取った。







『まもなく長岡温泉、長岡温泉に止まります』
 僕達は降車すると、乗せてきてくれたバスが走り去るのを見送った。旅館やホテルへの送迎バスが並んでいたけど、宿までは温泉街を散策しながら歩いて行く事にした。彼女はお土産屋さんを巡って楽しそうにはしゃいでいる。
「碇君! ここ、ここ、お団子とお茶を頂けるんですって」
「そうなんだ、じゃー休憩しようか」
 彼女が見つけたのは、古い木造建屋の茶屋であった。のれんをくぐると香ばしいお茶の香りに包まれた。
「すみません、お団子とお茶をお願いします」
「はい、いらっしゃいませ。まー!お若い新婚さんねー。お待ち下さいね」
(―― 新婚さん……私達の事?……碇君と……ポッ ――)
(―― 新婚さん……僕達の事?……綾波と……ポッ ――)
 いろり端に座った僕達は、互いの顔を見れない位に赤面してしまった。でもしっかり手は繋いでいる。
「はい、お待たせしました。あらあら、初々しいわねー。ご両人共お顔が真っ赤ですよ」
「……」
「……」
 頂いたお茶は、お茶本来の渋味と甘味が上手に引き出されていて、とても美味しかった。お団子も本格手作りで、もち米を蒸篭で蒸して、臼と杵でついた極上の一品であった。
「綾波の目利きは凄いね。このお店は当たりだね」
「うん、とても美味しいわ。紅茶も良いけど、緑茶もとても素敵。帰りにお茶を買うわ」
「そうだね、毎日のお茶の時間の楽しみが増えるね」
「碇君、緑茶の淹れ方、教えてね」
「もちろんだよ」
 茶屋を出た後も、のんびりお店巡りを楽しんでいると、足湯を見つけた。誰でも自由に入れるらしいので、早速試してみる。
「碇君、足湯って何?」
「ん、足だけ入る温泉だよ。僕の真似してみて」
 僕は裸足になると、ジーンズの裾を捲くり上げ両足をお湯に入れた。それを見た彼女もスカートを膝までめくり裸足になって、その透けるように白い優美な足を恐る恐るお湯に入れた。
「気持ちいいわ。お空を眺めてお風呂するなんて始めて」
「そうだね、気持ちいいね。宿に行けば露天風呂も有るらしいから楽しみだね」
 僕は悪戯して、彼女のふくらはぎを、足でくすぐってみた。
「キャ!」
「あはは」
「碇君のエッチ!」
 彼女は、頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。
「あはは……綾波?」
 彼女は、まだ振り向いてくれない。
「……ご、ごめん」
「……」
「あ、綾波、ごめん!」
「クスクス」
 彼女が微笑みながら振り向いてくれた。天使の微笑で。
「特別に許してあげるわ」
 そよ風が彼女の髪を揺らし、澄んだ瞳が僕を見つめている。美しい……。
 足から伝わった熱で、彼女の頬が上気している。僕は思わず抱き寄せて唇を重ねていた。周りに居る観光客なんて関係ない、世界は僕達二人だけ、絡み合う舌と舌が全てだった。
「んっ」
「ふぅ」
 唇が離れてから恥ずかしさが込み上げて来た。彼女の紅い瞳は潤んで、頬がピンクに染まっている。
「綾波……綺麗だよ。愛してる」
「……うん」
 彼女は、小さな声で返事を返すと、コクリと頷いて、僕の胸におでこをトンと当てて来る。僕は、守るように、愛しむように、包み込むように、彼女の身体と心を抱きしめた。







 僕達の宿は全12部屋の小さな旅館、歴史が古いらしく、和を重んじた落ち着いた佇まいで僕達を迎えてくれた。玄関の戸をガラガラと開け、足を踏み入れると、木造建屋の独特の雰囲気と香りが漂い、時代を超えて時が止まっている様な錯覚を覚えた。
「ごめんください!」
 僕の声に、屋敷の奥から着物姿の女将らしき女性が静々と現れ、三つ指をついて迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました」
「予約していた碇です」
「はい。お待ちしておりました。どうぞお上がり下さい」
 僕達は、荷物を女将に預けると、宿泊する部屋へと案内された。入り口に『霧の間』と書かれた部屋に入ると、新しい畳の匂い、綺麗に磨かれた座卓、美しい生け花が、僕達を温かく迎えてくれた。
「どうぞごゆっくり」
「お世話になります」
 女将が退室したので、僕達は手荷物を片付けてから部屋中を見てまわった。窓からの眺めは素晴らしく、彼女は窓辺の椅子に座り見える風景を堪能している。僕はお茶を淹れ、お茶菓子と一緒に彼女の所に持っていった。
「綾波、はい、お茶だよ」
「あ、ごめんなさい。私……気が利かなくて……」
 ションボリしてしまった彼女に、僕はニッコリ微笑んだ。
「いいんだよ。折角旅行に来たんだから寛がないとね。綾波の笑顔が見たいな」
「……うん。私、旅行始めてだから……何も知らなくて……碇君、ありがとう」
 彼女が微笑んでくれた。
 暫くお茶を飲みながら景色を楽しむと、温泉に行く事にした。この宿には、大きな内湯と露天風呂と露天の家族風呂があって、全て源泉の掛け流しらしい、着替えの浴衣を持って部屋を出た。







 彼と手を繋いで廊下を歩いていると、中庭が見える縁側に出たの。日本庭園を小さくしたもの? 以前に雑誌で見たお庭に似ていて、とても綺麗。これを“風情がある”と言うのかしら? この旅館の好きな所が、また一つ増えて嬉しかった。
 お風呂場に着くと、大きなのれんに『男湯』『女湯』と書かれていて、入り口が分かれていたの。彼と離れ離れになるのがちょっと残念。中に入ると広い脱衣所があって、温泉特有?の匂いがする。篭に脱いだ衣服を入れ、バスタオルで身体を巻いて、内湯に続くドアを開けると、もわっと湯煙が私を包んだの。洗い場で身体を綺麗にして、まずは内湯に入ってみる。
「これが檜の香りなのね……いい匂い」
 お湯がちょっぴり熱かったけど、気持ちいい。目を瞑って、お湯が流れ落ちる音に耳を澄ます。緩やかに流れる時間、素敵な時間。
「ねー! 綾波―! 聞こえるー!?」
 突然、彼の声が聞こえたから、びっくりして慌てて胸を隠しちゃった。
「は、はい! 聞こえるわ!」
「いい香りがして! 気持ち良いお風呂だね!」
「うん!」
 何だか一緒のお風呂に入ってるみたいで、ドキドキする。顔が火照るのはお湯のせい?
「あのさ! 露天風呂に入ってみない!?」
「はーい!」
 またバスタオルで身体を巻いて、露天風呂に続くドアを開けると、サーッと外の涼しい空気が肌を撫でて、温まった身体に心地良い。頭上を見上げると、夕暮れ時の紅く染まった空がとても綺麗。バスタオルをそっと外して露天風呂に入ってみる。内湯ほど熱くなく、これなら長湯ができそう。肩までお湯に浸かって、また目を瞑る。耳を澄ますと、蜩がカナカナカナと鳴いているのが聞こえる。自然の中に居るような開放感に身をゆだねると、魂が身体という枷から外れて、大空に舞い上がる様な、そんな感じになる。
 ユラユラ、ユラユラ、何処までも渡ってゆく。







 浴衣に着替えて、お風呂場から出ると、彼がマッサージチェアーに座って揺られていた。クスクス、まるでオジサンみたい。彼の上気した顔が気持ち良さそうに微笑んでいる。
「碇君、おまたせ」
「ん! ちょっと待ってね、よっと!」
 彼は立ち上がると、頭に乗せていたタオルを取って首に掛け直した。浴衣姿の彼も素敵。私は変じゃない? 似合ってる?
「綾波の浴衣姿……と、とっても似合ってるよ。とっても素敵だよ……」
「あ、ありがとう……」
 湯上りで赤くなってる私の顔が、もっと赤くなった感じがする。恥ずかしい。彼が手を握ってくれて、部屋まで寄り添って歩いたの。
 部屋に帰ると、ご馳走が沢山並んでて、私達を待っていた。
「わー! 磯料理だね。海の幸が沢山あるよ!」
「磯料理?」
「えっと、海の磯場で獲れる魚介類を集めた料理の事だよ」
「海の磯場……魚介類……こんなに」
「さぁ、綾波、座って食べようよ」
「うん!」
 向かい合わせに座ると、お酒が付いているのに気付いたの、ちょっと考えて、彼の横に静々と近寄って、慣れないお酌をしてみた。
「え!? あ、あの……ありがとう。……でも僕達未成年だよ……ま、良いか」
 彼も私のグラスにお酌してくれた。
「乾杯!」「乾杯!」
 コクンと飲んでみる。お酒は辛いイメージがあったけど、これは甘口で飲めそう。私も席に戻って、お箸を持つと、目の前の大きな海老のお刺身を食べてみた。美味しい、身がプリプリしてて、甘味があって、これは何?
「碇君、この大きな海老は何? とっても美味しいの」
「たぶん伊勢海老だと思うよ。僕も……うん! 美味しいね!」
「この貝は何? コリコリして美味しい」
「アワビだね。随分大きいな〜」
 彼に聞きながら色々食べてみた。甘鯛、ハマチ、ウニ、ズワイガニ、ツブ貝……
「綾波、この天ぷら食べてごらん」
「うん……え!? お茶の香りと味がする?」
「お茶の葉の天ぷら。珍しいね」
「碇君、このお魚の塩焼き、海の風味がして美味しいわ」
「どれどれ、これはアイナメだよ。お刺身もあるね。この魚は磯の風味が濃いから、好き嫌いが、はっきり分かれるんだよ」
「私は好きみたい、碇君は?」
「僕も好きだよ。アイナメって地方によっては、お互いに舐める『相舐』って書いたりするんだ」

「はい、綾波、グラス空けて」
 私がグラスのお酒を飲み干すと、彼がお酌してくれる。なんだか身体がフワフワしてきたみたい。
「酔った綾波も素敵だよ」
「な、なにを言うの……」
 私の心臓がトクトク脈打つ、今にも彼の胸に飛び込みたい気持ち、お酒のせい?







 素敵な夕食を終えた僕達は、外に散歩に出かけた。じつは是非とも彼女に見せたい物があるのだ。腕を組んで、淡い提灯の明かりで足元を照らし、下駄をカラコロさせて、夜の温泉街を歩いて行く。町外れに向うと、段々と明かりが無くなり、静かな林道に変わってゆく。更に進むと、サラサラと清流の音が聞こえ始めた。
「綾波、目を瞑ってくれるかな?」
「え? はい」
「良いよって言うまで目を開けちゃダメだよ」
「うん」
 彼女の手を引いて、清流の川岸に歩いていく。辺りには明かりがなく、提灯だけが揺らめいている。
 この辺かな……。
 提灯の火を消して、その時が来るのを待った。

「綾波、目を開けて良いよ」
「うん…………!!」
 僕達の周りを無数の蛍が飛び交い、幻想的な世界へと誘う。蛍は飛び立ってから一週間から二週間しか生きられない。その短い生涯を精一杯謳歌しようと淡い光を点滅させ舞う。それは生命の儚さと強さ、生きると言う事の意味を僕達に伝えてくれた。ふと横に目を移すと彼女は涙を流し、命の灯火を見つめている。

 風が渡ると、驚いたのか蛍達の光が消えた。暗闇の中に僕達だけが居て、サラサラと清流の音だけが聞こえている。
 瞬間、一斉に蛍達が緑光を放った。それは、夏の幻か、彼女を囲んで無数の蛍が回り始めた。
 蛍の光に浮かぶ彼女を見ていると、その姿が淡く霞んで消えてしまいそうな不安に駆られ、僕は彼女を抱きしめた。
「碇君……ありがとう」
 僕達は何時までも、何時までも、蛍の舞いを見続けた。







 涙が溢れてくるのは何故? 目の前の光の演舞に涙が止まらないのは何故? そっと手を伸ばすと、光が一つユラユラと近づいて、私の指先にチョンと触れて、また舞い上がった。

 帰り道、彼に肩を抱いてもらって歩いたの。
(―― 碇君、私を離さないで……貴方無しで生きられるほど、私は強くないの……碇君……素敵な思い出……忘れない…… ――)

 宿に帰り着いた私達は、身体が冷えてしまったので、また温泉に入る事にしたの。女将さんに家族風呂を勧められたので、恥ずかしかったけど、二人で一緒に入るの。脱衣所では、先に彼が入るのを待ってから、浴衣を脱いでバスタオルで身体を巻いた。お風呂場に入ると湯煙の向こうで彼が湯に浸かっているのが見えたので、洗い場で掛け湯をしてから彼の所に入って行った。
「あ、綾波……ここから月が良く見えるよ」
「……うん」
 ドキドキしたけど、思い切って彼の隣に座ったの。本当に月が綺麗ね、虫達の囁きも聞こえてくる。暫く無言の時間が過ぎて、彼が手を握ってきたから、私も握り返したの。
「綾波……」
 彼が背中に手をまわして、そっと私を抱き寄せた。見つめ合う彼の瞳が優しさを湛えている。目を瞑って待つと、私の唇に彼の唇が重なった。もう頭の中は真っ白、何時の間にかバスタオルが外されていた。絡み合う舌が熱い、彼の手が、頬から首へ、首から胸へと移動して、私の身体を優しく撫でる。私は堪らず声を出してしまった。
「……い、いかりくん」
「愛してるよ……綾波……愛してる」

 彼がゆっくりと入ってくる。月明かりの下、私達は一つになった。彼が激しく動くたび、私の身体は痺れ、震え、歓喜した。そして私の中に、その証を残した。

「……綾波」
(―― 君があまりに素敵だから……我慢出来なくて……ごめん…… ――)

「……碇君」
(―― 家族風呂って……二人が愛し合う場所なのね…… ――)







 翌日、僕達は茶畑に来ていた。宿の女将さんから、茶摘の体験が出来ると聞いたからだ。
 彼女が、茶摘用の貸し衣装を身に着けて、更衣室から出てきた。
「綾波、とっても可愛いよ」
「な、なにを言うの……」
 彼女は、頬を染めて恥らったけど、でも、本当に可愛い。

 本職の女性から指導を受けて、お茶の葉を摘んでゆく。彼女の茶摘姿も、なかなか様になっていると思う。
 一時間程で、彼女の腰の小さな篭が、摘んだばかりのお茶の葉でいっぱいになった。彼女の額に薄っすらと汗が滲んでいる。
「綾波、お疲れ様」
 彼女に冷たいジュースを渡してあげた。
「ありがとう、碇君」
 休憩所で一緒にジュースを飲んだ後に、茶摘姿での記念写真を撮ってもらった。後日、郵送してくれるらしい。

 着替えてきた彼女と、お土産を買って回り、帰りのバスに乗った。
「碇君、とっても楽しかったわ」
 彼女は、満足そうに微笑んでいる。
「僕も楽しかった。綾波、また蛍に会いに来ようね」
「うん」

 バスに揺られると、彼女は僕に寄り掛かって眠ってしまった。この寝顔をずっと守っていくよ。綾波……愛してるよ。





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