大切な瞬間

作:yo1




 「ご馳走様でした。綾波、美味しかったよ」

 シンジは、ニッコリしながら箸を置いた。

 「うん」

 レイは、澄んだ紅い瞳を少し細め、頬を薄っすらとピンクに染めながらシンジに微笑み返した。

 ここは、レイのマンションである。夕飯は二人で一緒に食べると約束したのは、もう随分前の事である。順番は特に決めていない、その日の気分で、シンジかレイのどちらかの部屋で夕飯を一緒に食べて、二人きりの時間を楽しむのが日課になっていた。一緒に食器を台所に運んで、並んで後片付けをするのも、二人のささやかな楽しみなのである。今日は、レイが食器を洗い、シンジが布巾で拭いて水切りトレイに片付けてゆく。二人は、どんな些細な事でも一緒にやる事に喜びを感じていた。

 ふとシンジが呟いた。

 「洗い物をしてる綾波を見てると、いいお嫁さんになれるって思うよ」

 シンジは何の気なしに言ったつもりだった。だったのだが、それを聞いた瞬間からレイの食器を洗うリズムが乱れ始め、しまいには手が止まり俯いてしまった。

 「ん?…綾波?どうしたの?」

 「…」 (…お嫁さん…私が…お嫁さん…碇君…私…)

 シンジは不思議に思い、屈んでレイの顔を覗き込むと、瞳を大きく開いて頬が真っ赤に染まっていた。

 「大丈夫?」
 「…え、えぇ…ごめんなさい」
 「疲れてるなら、残りは全部僕が片付けるけど…」
 「いいの」 (…碇君の…バカ…)

 レイは、シンジに気づかれない様に、その愛くるしい唇から小さなため息を漏らすと、何事も無かったかの様に食器を洗い始めた。

 食事の後片付けが終わると、シンジが「今日は僕が淹れるよ」言い、食後のお茶の準備を始めた。レイは、コクンと頷いて部屋に戻り、自分の席のクッションにペタンと腰を下ろすと、ミニスカートの前を気にして両手を添えた。程なく部屋中に紅茶の良い香りが広がり、シンジがトレイを持って部屋に入ってきた。シンジは、テーブルにトレイを置くと自分の席に座ろうとした…。

 「あれ?…僕のクッション…」

 シンジは、座ろうとして自分のクッションが無くなっている事に気が付いた。キョロキョロと見回すと……あった……レイの隣に…。

 「綾波…?」

 レイは、シンジの顔を見上げてニッコリ微笑むと、「碇君…こっちよ」と、隣に置いたクッションを指差す。それを見たシンジの顔がみるみる赤くなる。シンジは、染まった頬を誤魔化す様にポリポリと掻きながらレイの隣に座ると、ティーカップをレイと自分の前に置いて、「の、飲もうか」と自分のティーカップを手にした。

 「碇君…紅茶…美味しい」

 レイは、隣のシンジにだけ聞こえる程度の声で囁いた。

 「うん、美味しいね」

 シンジは、ティーカップを置くと隣のレイに視線を移した。淡い黄色のブラウスとチェックのミニスカートが良く似合っていると思った。肌は絹の様にきめ細やかで白く美しく、手元を見ている紅い瞳は、水晶の様に澄んでいて神秘的で、吸い込まれそうな感じを覚える。そして蒼く揺れる綺麗な髪からは、シャンプーの素敵な香りが鼻腔を擽り、永遠に見つめていたい、そんな気持にさせられる。シンジの瞳にはレイだけが映り、恍惚とした表情から言葉を紡いだ。

 「綾波…とっても綺麗だよ」

 シンジの言葉に驚いたレイは、瞳を大きく開き、震える手でティーカップを置くと、ゆっくりとシンジの顔を見つめた。徐々に頬がピンクに染まる。潤んだ唇をキュっと結び、数秒。

 「…そんな…恥ずかし…」

 消え入りそうな声で言葉を返すと、みるみる瞳が潤み始め、頬はピンクから赤へと変わり、両手を一度ギュっと握ると、頭をシンジの肩にコトンと置いた。

 (碇君…私…好きよ…碇君の事大好き)

 (綾波…好きだよ…世界中の誰よりも、君が好きだよ)

 シンジは、レイの蒼い髪に顔を埋めて目を瞑った。静かな時間が流れ、レイが顔を上げると、二人は見つめ合った。ゆっくりと、ゆっくりと近づく。互いの鼻先が触れ合った瞬間、レイの身体がピクンと反応した。シンジは優しく微笑むと、鼻先の感触を楽しむかの様にサスサスと動いた。レイは、気持ちよい感触に目を細めながらサスサスと動いた。暫くこの感触を楽しんだ二人は、更に、ゆっくりと、ゆっくりと近づく。レイは瞳を閉じると、潤んだ桜色の唇をキュっと結んで待った。

 (胸がドキドキする…碇君…)

 レイの唇から熱い吐息が漏れ、無意識に腰をモジモジさせる。

 シンジもレイも、期待と不安が入り混じった気持で、その時を待った。徐々に、徐々に…互いの吐息が感じられる距離に近づいた。

 (綾波…)(碇君…)

 そして次の瞬間………







 突然シンジの携帯から着信音が響き渡り、二人は驚きのあまり硬直してしまう。

 シンジが「ごめん」と短く言って遠ざかる。

 レイの唇から、「…ぁ…」と切ない声が零れ落ちた。開いた瞳は涙で潤み、目じりで小さな雫が悲しく光った。両手をギュっと握り唇あてると、じっとシンジを見つめる。



 「はい、碇です」

 シンジが電話に出ると、「よ、センセ、今な〜おもろいテレ」プツ! ツーツーツー
 シンジは、左手を握り締め、携帯を持った右手の親指が『切』ボタンを壊れるかと思うほど、強く押していた。

 (…大切な…大切な時だったのに…)

 「…碇君…」

 レイが不安そうに声をかける。

 シンジは、すっと立ち上がると、「あ、綾波…ご、ごめんね…こんな遅くまで…」バツが悪そうに謝った。

 レイも立ち上がり、シンジのシャツの裾を控えめに摘んだ。

 (嫌、碇君…帰らないで…おねがい…)

 レイの願いも空しく、玄関へ向かうシンジ。悲しげな表情で後ろを付いていくレイ。

 シンジは無理やり笑顔を作ると、振り返って、「今日は楽しかったよ、また明日ね、綾波…」と言った。

 (…悲しい顔じゃダメ…)

 レイも健気に微笑んで、「うん…碇君、おやすみなさい…」とだけ言えた。

 「うん、おやすみ」そう言って、玄関の外へと出てゆくシンジ。

 閉じられたドアをじっと見つめるレイの瞳から、涙が流れて落ちた。





 紅茶のセットの後片付けを終えて、フラフラとベッドに近づくレイは、そのままパフっとうつ伏せに倒れこんだ。唇を指でそっとなぞってみる。

 (…あの時…碇君の唇と…キス?…まだ胸がドキドキする…)





 翌日の夕刻、シンジの部屋にレイが来ていた。シンジは鼻歌を歌いながら、創意工夫したレイの為の料理に腕を振るっている。ちょっぴり離れて。邪魔にならない様に立って見ているレイが、「碇君、そんなに食べれないわ」と言って微笑んだ。シンジがご機嫌な理由がもう一つあった。今日のレイは、白のワンピースを着て、クロスのシルバーネックレスを身に着けている。全て、シンジがプレゼントしたものであった。

 「ん?そうかな…じゃーこれが最後ね」

 シンジは最後の料理を盛り付けながら、レイに向かってニッコリした。

 二人でテーブルに茶碗やお箸、色々なおかずを運ぶと、向かい合わせに座った。

 「それじゃ食べようか」

 「うん」

 二人はニッコリと微笑みあうと、お箸を取った。

 今日観てきた映画の事や、帰りに寄った雑貨屋の事など、おしゃべりしていると、レイがモジモジを始めた。レイは、今まで中々出来なかった、ある作戦を考えてきていたのだ。

 (…どうしよう…碇君、嫌がらないかしら?…)

 意を決したレイは、ボイルされたブロッコリーをお箸で摘むと、シンジに向かって「碇君…あ、あ〜ん…して…」と震える声で言って手を伸ばした。
 シンジは瞬間ポカンとしたが、一気に顔を真っ赤にしてうろたえた。しかし、握った左手を口元に添えた、潤んだ瞳のレイを見てしまったシンジは、恥ずかしさを我慢して、パクっと食べた。レイの顔が、ぱっと明るくなり、頬を染めながら微笑む。

 「ご馳走様でした」
 「はい、お粗末さまでした」

 レイがお箸を置いて、シンジを見ると、「ぁ」と言って、シンジの顔に手を伸ばした。
 「碇君、お米が付いてる」、シンジの口元から米粒を摘んだレイは、パクっとそれを食べてニッコリした。

 「あ、あ、綾波…」再び赤面するシンジ。

 また、二人一緒に後片付けを始める。お揃いのエプロンを身に着けて、台所に並んで立つと、まるで新婚夫婦の様であった。シンジが、「今日も僕が淹れるね」と言ったので、レイはコクンと頷くと部屋に戻り、エプロンを脱ぐとベッドに座って待った。コーヒーの香ばしい香りが漂ってくると、シンジがトレイを持って部屋に入ってきた。シンジは、ウサギさんのマグカップをレイに手渡し、自分の分はテーブルに置くと、CDデッキに向かった。

 「綾波、チャイコフスキーでいいかな?」

 シンジの様子を見ていたレイは、嬉しそうに微笑むと、「うん」と言った。

 シンジはCDをセットして、レイの隣に座ろうとテーブルの横を通った時に、テーブルの足に躓いてしまった。

 「うわ!」

 「キャ!」

 「う〜ん…綾波…ご…!」

 シンジは自分の体制を認識すると驚いた。この体制は………誰がどう見てみも、レイをベッドに押し倒した状態であった。目の前に頬を染めたレイの顔がアップで見えている。あと数センチ顔が下がっていたら…。

 (あ、綾波…)

 (…碇君…これって…私なら…)

 見つめ合う二人。
 レイは、急激に早くなった鼓動に息苦しさを覚え、みるみる瞳が潤み、可愛い唇からは熱い吐息が零れた。
 シンジは、小さく深呼吸すると真剣な顔になり、ずっと言いたかった言葉を紡いだ。

「綾波…す、好きだよ」

 レイの瞳から一筋の涙が流れ、嬉しさに目を細めた。

 「うん…わたしも…碇君が…好き…」

 レイが、ゆっくりと瞳を閉じ、顎を上げ待った。シンジは、レイの唇に自分の唇を…。

 (綾波…)(碇君…)

 そして次の瞬間………







 突然玄関の呼び鈴が響き渡り、二人は驚きのあまり硬直してしまう。

 またも、シンジが「ごめん」と短く言って遠ざかる。

 レイの唇から、「…ぁ…」と切ない声が零れ落ちた。胸の鼓動を抑えられない。上気したレイの表情に、寂しさが加わった。

 シンジが、玄関のドアをあけると…「よぉ!碇〜遅くに悪いんだけどさ、ゲームの攻…」バタン!

 シンジは、ドアをおもいっきり強く締めて鍵を掛けた。左手を握り締め、穴が開くのではないかと思える程ドアを睨み付けていた。

 (…大切な…大切な時だったのに…)

 「…碇君…」

 レイが不安そうに声をかける。

 (…碇君…わたし…もう…どうにか、なっちゃいそうなの…)

 「あ、綾波…ごめん」

 レイの瞳から涙が溢れ、細い肩が震えている。「綾波!?」シンジが声を掛けたのと同時に、レイはシンジに抱きついていた。

 「碇君、もう、もう昨日みたいになるの…いやなの…」

 レイは、震える声で言った。

 (綾波…そうだよね…僕がもっとしっかりしないと…綾波を受け止めないと…)

 シンジの瞳に決意が宿り、優しく微笑むと、レイを抱きしめた。そして、震えているレイの唇に、そっと自分の唇を重ねた。

 満たされてゆく、心と心。深まってゆく愛。

 (綾波…ずっと、ずっと君を守っていくよ…愛してる)

 (碇君…碇君…あたし離れない…好き、好き!大好き!)

 重なった唇から、互いの思いが通じ合い、溶け合い、一つになった。

 まだ若いシンジとレイ、二人で一つの運命の階段を、ようやく一歩上ったのであった。




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