〜プロローグ〜


私が生まれたのはいつ?


この世に誕生した日。

実験動物ではなくなった日。

生まれ変わった日。

感情を覚えた日。


私、一体何者?

自分がなんのか、今でも理解できない。

なぜ生きているのか、なんのために生まれてきたのか、存在意義も、あの人の言うように私は人間なのか、そんなことも分からない。



人間は、どうして自然に反することをしたがるのだろう。
天寿に逆らって命を延ばして、それが本当にその人が望んでることなのかもわからないのに。

そして自然の摂理に逆らって、生まれてくるはずもない生命を生み出そうとする。

人間は、神様にでもなりたいのかもしれない。

頭脳、技術、名声そんなものに自己満足して、その対象となる命のことなど、なにひとつ考えてもいない。

本当ならこの世に生まれてくることができなかった私は、彼らに感謝するべきなのだろうか、それとも恨むべきなのだろうか。


私が自分の名前を覚えた頃、私は自分が人間ではないことが分かってた。
自分の周りにいる人間は、自分と姿形はよく似ているけれど、でも彼らと私は全く違う存在なのだということを、感覚的に理解していたから。

私の目の前にはいつも私の失敗作が何体も転がって、そして命を全うすることもできずに燃やされていった。
人間と同じ音を立てながら心臓は鼓動していたのに、燃やされていった。

お父さん、お母さん、……この世に生まれて来た赤ちゃんには、人間だけではなくて、すべての動物、植物にだって、必ず存在するもの。
お父さん、お母さんというものが、人には必ず存在するという当たり前のことを知ったのは、私が生まれて10年くらい経った頃だった。

そして、人はお母さんのお腹の中から生まれてくることを知ったのは、もう少し先。

でも、何にも感じなかった。
私は人間ではないから、お父さんお母さんがいないことを疑問にも思わなかった。

試験管の中で生まれて、試験管の中で育つ、実験室が私の世界のすべて。

それが私の常識だったから。

自分が人間ではないことにはじめて傷ついたのは、私を取り巻く環境が変わってしばらく経った頃のことだった。


ある日、私が世界だと思っていた空間から、すべての人間が消えた。
そこに残されたのは、使い方の分からない機材と、私の失敗作たちと、私。

理由は分からない。


そして、私の前に新しい人間が現れた。
男と女が一人ずつ。それまで私の周りにいた人間に、姿形はよく似ていた。

この二人に出会えたことが、私の実験動物としての運命を変えてくれた。


『怖がらなくて大丈夫よ、私たちはあなたになにもしないから。………さぁ、私たちと一緒にいらっしゃい』


吸い込まれそうな笑顔でそう言いながら、私に向かって伸ばされる女の腕、…その手を取ったあの日が私の生まれた日。

小さな実験室が世界の広さだと思ってたあの日。
赤ちゃんがお母さんのお腹の中から外に出るみたいに、私は実験室から外に出た。

実験室から外に出たこの日、人間ではない私の人生が始まった。


私のこれまでの人生は幸せだった。

けれど私の幸せは、何人もの人間の幸せを犠牲にしたもの。


本当なら彼が手に掴むはずだった幸せも、なにもかも奪ってしまった私。

そのことが私の胸に突き刺さったまま、抜くこともできない。


それを抜いてしまえば、きっと想いが溢れ出て、またひとつ彼の心に傷をつけてしまいそうな気がするから。








T.邂逅


ふと、窓の外を眺めた。

もう夜だというのに、外はやけに明るい。
赤、黄色、緑、白、いろいろな光が夜の闇を照らしている。

正面の家の庭の大きなツリーには、イルミネーションと星型の飾り、そして雪を模倣した綿がちりばめられている。
右隣の家のフェンスには複雑に点滅するイルミネーションが一面に飾られ、ごく普通の一戸建ての家が、まるでどこかの国のお城のようだ。
左隣の家の玄関には、最近人気の子供向けキャラクターを模した形が、闇夜に浮き出ている。

クリスマスになると、こうして電飾を飾ることが習慣になったのは、いつ頃のことなんだろう。

クリスマスに雪が降ることがなくなって幾年たち、この国の人は人工的なもので雪を模そうとする。
それはとても綺麗だけど、でも本物にはかなわない。

作り物からは、優しさも温かさも柔らかさも、なにも伝わってこないからだと僕は思う。


だけど、まれに作り物が本物になることを僕は知ってる。

作り物にありったけの思いを込めれば、それは自分だけの本物になるからだ。


そして、それって奇跡なんだと、僕は思うんだ。



「パパ、なに見てるの?」


イブの夜、子供を寝かしつけるために、僕はこの部屋にいる。
子供は諦めていた僕らの間に生まれた、大切な命。

とても大切だけれど、ただ一つ子供に恨みがあるとすれば、それは彼女の愛情の半分を僕から奪ってしまったことだろうか。


「ねえパパ、パパが若い頃は雪がまだ降ってたの?」

「ううん、パパが生まれたときには、もう冬でも温かかったからね」


残念そうな子供の顔。

この街に、雪が降ることはあり得ない。
温暖化が進んで、異常気象が異常じゃなくなって、春夏秋冬という日本の風情も、今となっては昔なつかしきよき時代の産物。

冬でもマフラーも手袋も、コートも必要なくなった日本。
雪は、遠い異国の地だけに見られるものとなっている。


「……でもね、何度か見たことがあるよ…。雪っていっても、積もらないんだけどね」

「…積もらない雪?」


この街に最後に雪が降ったのは、何年前のことだっただろう。


「話すと長いから、また今度聞かせてあげるよ」


そんな暖かい気候の中で、この街に雪が降ったことがあった。
世間ではその異常気象に大騒ぎだったけれど、僕はなぜ雪が降ったのか知ってる。

その理由は、きっとこの世でたった二人しか知らないこと。

お互いにしか分からない、僕たち二人だけの約束事。


「やだ、今聞きたい。お願い、パパ」


子供の目は爛々と輝きを増す。
好奇心旺盛な子供に『早く寝ないとサンタクロースが来てくれないよ』なんてありきたりな言葉をかけたって、あまり意味のないことに違いない。


「……仕方がないな、…少しだけだよ」


まだ未熟だった僕の、忘れられない思い出。
楽しくて、悲しくて、幸せで、辛くて、僕の心に塞がることのない傷として残り、でも時にはその傷を癒してくれる、大切な思い出。

自分のために、大切な人のために、急いで大人になろうとしていた自分。
結局大切な人を傷つけ、悲しい現実から一人も守ることのできなかったあの時。

瞳を閉じると、瞼の奥にあの頃の色々な想い出が鮮明によみがえる。


数年前、突然僕の前に現れた不思議な女の子。

彼女とともに過ごしたあの日々を。







SNOW WORLD     writting by 大丸






U.水色少女


僕は第三東京市の私立中学に通っている。
分不相応だとは思うけれど、一学期の末に行われた学内選挙で生徒会長に推薦されてしまい、その結果、生徒会長の座に付くことになってしまっている。
一学期が終わるまでに前生徒会から引継ぎをすませて、例年よりは忙しく夏休みを過ごし、そして先日、2学期になったところだ。

正直言って、生徒会長というのは面倒くさい。

僕としては、人の上に立てるような人間ではないと自分のことを思ってるし、他人のことを考えていられるほど自分に余裕がないんだけど、でもそれが他者の目には違って映るらしい。
ただ人から良く思われたいために、自分を飾ってきたことも分かってるから、これも自業自得かなと思って、諦めている。

僕の学校は、生徒の自主性を重んじる校風で、制服はあるんだけど私服で通っても良いことになっていて、ファッションにこだわりのある人は私服、面倒だと言う人は制服、制服も面倒だと言う人はジャージと、服装に関して自由が認められている。
服装だけじゃなくて、生徒会の運営とか部活動などに対してもそうだ。

ただ、その分だけ生徒会にかかる責任は重く、あまりにも風紀を乱す生徒に対しては注意をしないといけないし、かと言って自由を奪いすぎるのもいけない。そのバランスを保つのに、どこまでが悪くて、どこまでが認められるのか、そういう基準を自分の中に持っていなければ、生徒に対して不公平が生じてしまう。
権力を得たからと言っても、何かにつけ自分の思い通りに運ぶことができるわけでもなく、むしろ全く逆で、顔も名前も知らないような人にまで気を使わなければならないという、非常に精神的に辛い状況に僕は置かれている。

神経をすり減らす立場になってしまったことに、僕は早速疲れを感じてしまっているのだ。
生徒会長としての学校生活に慣れるのに、どのくらい時間がかかるだろう。


でも、僕が生徒会長になったことで両親が喜んでいたことを思い出すと、忙しくなったけど悪いことでもなかったと思ってる。


「あれ、珍しいな。二人とも帰ってきてる」


家の右端にある駐車スペースに車が2台、止めてあった。
父さんの車と、母さんの車。
ここに車が2台揃うのは滅多にないことだ。

僕の両親は日本でも屈指の技術者で、スーパーコンピューターを開発したことで名を知られている。
親がどんな仕事をしているのかよく分からないのだけど、なんでも元来コンピューターが持つ機能に、人間の数パターンの思考を組み込んだとか。
どういう仕組みになってるのかは僕には到底理解できるものではないようだ。
このスーパーコンピューターが開発されたことで、SF映画やアニメのように、感情を持つロボットが登場するのも時間の問題だと言われている。

今最も注目されている分野で成功し、その名を世界に広めた父さんと母さんだけど、二人は少し変わり者で、これからって時にコンピューターの分野から手を引いた。もう満足したらしいんだ。
で、今はもうひとつの顔である化学者として活躍している。
動物のクローン実験ってことらしいけれど、具体的にどういうことをしているのかは僕は聞かされていない。
実験が成功すれば、今まで不治の病だった病気を治すこともできるようになるとかって言われてるみたいだけど、でもまあ、凡人の僕には今のところ無縁な話だ。

なにかの研究とかで、ほとんど家に帰ってこない父さん。
帰ってきても寝るだけで、顔を合わせない事も多い。
父さんほどではないけれど、あまり帰ってこない母さん。

二人とも趣味を仕事にしているようなものだから、毎日好きなことをしているわけで、あまり忙しさとか疲れとかストレスとか、そういうのはあまりないようだ。
もしストレスがあったとしても、そういう弱い部分を僕に見せるような親ではないことも、本当だ。

家庭のことを省みるような人ではないから、父親としては少し近寄りがたい存在だけど、ひとつのことを成し遂げることができた父さんは、同じ男として格好いい。
飾ることのない性格の母さんのことも僕は好きだ。

でも、時々淋しくなることがある。

僕の家は、名声とそれに伴うお金が比例していない。僕のことをお金持ちという人が多いけど、両親はお金をことごとく実験用機材だとかコンピューターだとか、そんなものに使ってるようで、実際に家に残るお金というのは、ごく一般的な家庭よりは少し多いのかな……、という程度だと思う。
食べることに困ることはないけれど、何万円もするものを買うときは財布と相談しなければならないし、先日母さんが新車を買うと言ってたときは、ローンがどうのこうのと悩んでいたことも記憶に新しい。

稼ごうと思えばいくらでも稼げるのだろうけど、両親はお金に執着がほとんどないらしいのだ。
もっとも、忙しい父さんと母さんに、お金を使う暇があるのかどうかも疑問だ。

この家も、100坪くらいの敷地に建てられた、2階建ての家。
他の民家からは少し離れたところに、ポツンと建てられている。
庭が広めではあるけど、家自体は住宅街に建てられている家と比べてもあまり変わらない、ごくごく一般的なものだと思う。

ただ、毎日一人暮らし状態な僕にとっては、この家も広すぎる。


今日は数週間後に控えた文化祭の打ち合わせが長引き、時間はすでに22時をさしていた。
電気が消えてるからもう眠ってるのだろうけど、今日のように二人が一緒に家に帰っていることはとても珍しくて、だから僕の顔は自然に綻ぶ。


「ただいま」


出迎えてくれる人は誰もいないけど、それでもいつもとは気分が違った。
僕は疲れた体を引きずって、お風呂は明日の朝にしてもう寝ようと考えながら、二階にある自分の部屋へと向かった。


「ふぅ、…面倒だから洗濯も明日でいいか」


いつもお風呂に入ったあとで全自動の洗濯機を回しておいて、朝起きたら干すというのが習慣になっている僕だけど、今日はあまりの疲労感に、その辺に脱いだ服を放り投げるとパンツだけ新しいのに履き替えて、ベッドへと転がり込もうとした。
幸い明日は土曜日で休みだし、お風呂も洗濯も明日の朝すればいいだろうと思いながら。

体をベッドにあずけ、肌布団を頭からかぶる。


そのとき、僕ははじめて自分の部屋の異変に気がついた。


肌を露出した僕のからだ全体が、異常にさわさわして、くすぐったい。
猫じゃらしのようなもので、全身をくすぐられているような感覚がする。

僕の部屋のベッドに、いつもないはずのものがある。


異変に気がついた僕はがばっと跳ね起き、さわさわする物体の正体を確かめようと、月明かりを頼りに目を凝らした。

僕のすぐ横に、巨大な物体がある。

それは、銀色の物体で、柔らかそうな毛に覆われて、月明かりに反射して鈍く発光していた。


疲労のせいで、幻覚でも見えているのかと、ゴシゴシと目をこすってみる。
しかし、それは相変わらずそこにあり、ピクリともしない。


僕は恐る恐る手を伸ばし、毛に触れてみた。
そうしたら、その物体が動いたんだ。

この世のものとも思えない、その銀色の毛に覆われた物体が、もぞもぞとベッドから体を起こした。


「う、…うわ〜〜〜〜!!」


僕は、転げるように部屋を出て、父さんと母さんに助けを求めようと、一階の寝室へと駆け込もうとした。
そして階段を踏み外して、思いっきりダイブした。


「うわっ!!」


着地にはかろうじて成功したものの、階段の下に敷いてあったマットに着地してしまい、マットが前方にすべるのにあわせて、僕は後ろに滑りこける。
勢いよく尻餅をついて、おまけに背中を階段のかどにぶつけてしまった。


「い、いてててて」


あまりの痛みに、僕はその場でうずくまる。


「…どうしたの? 何の騒ぎ?」


3日ぶりくらいに聞いた声。
その声とともに、あたりに電気がともった。


「シンジ、なにしてるの?」


なにしてるもなにも、見てのとおり、滑ってこけたのだ。

声の主を見上げて、そののんきな母親の顔を恨めしげに見た。
いつになく仕事が忙しいとかで、しばらく見なかった母さんは、思ったより元気で、疲れた様子もないようだった。
もともと、年齢の割りに見た目が若くて、それでいて体力も年齢以上にあるはずと自負する母さんが、僕に疲れた顔を見せることはほとんどないんだけど。

そのとき、母さんの顔を床にうずくまったまま見上げていた僕の視界のすみに、さっきの銀色の物体が鈍く光りながら動いているのが見えた。
電気の下でよく見ると、その物体は銀色ではなかった。どちらかと言うと水色に近くて、水色に少しだけ銀色を混ぜたような独特な色合いを放っている。
そして自分がこの痛みと戦わなければならなかった元凶を思い出した。


「か、母さん、……僕の部屋にお化けが…お化け」


母さんに知らせなきゃと、僕は水色の物体を指差した。
母さんは僕の指差す方向を見るけれど、別段驚いた様子も怯える様子もない。


「お化け? ああ、……私てっきり、シンジは今日帰ってこないものだと思ってたの。ごめんなさい」


帰ってきた返答は、相変わらずのんきで、そして話がかみ合ってなかった。
確かに今日は目の前に迫る文化祭の打ち合わせで家に帰るのが遅くなったのは間違いないけど、帰らないとは言ってない。

親がほとんど家にいないことを良いことに、まさか僕が夜遊びでもしてると思ってるのだろうか。

そして、お化けはゆっくりと僕らに近づいてくる。
もしかしてこのまま取り憑かれるのでは、僕は言い知れぬ恐怖に身を縮まらせた。


「うわっ、お化けが近づいてくるよ! 母さん!」


この醜態を学校でさらしたら、きっと100年の恋も冷めるだろう。
でも、僕はこういうオカルト的な出来事にはめっぽう弱いのだ。


「シンジ、あなた年頃の女の子に向かって、『お化け』って、それはないんじゃない?」


あきれたような母さんの口調。
あれが『年頃の女の子』とは、いったいどういうことなのか。


「レイちゃん、こっちに来て。紹介するから」


水色で全身毛むくじゃらのその生き物は、名を『レイ』と言うらしい。
階段というものに慣れていないのか、おぼつかない足取りで手すりにつかまって一段ずつゆっくりと降りてくると、母さんの隣に立った。

まじまじと見つめて、お化けにはないはずの"足"があるのを確認して安堵し、僕は背中からお尻にかけて手でさすりながら立ち上がった。


「ちょっと訳があって、今日から家族の一員になったの。レイちゃん、13歳よ。早生まれだから、学年はシンジと同じになるはずなんだけど。…仲良くしてあげてね」


あまりにも突拍子もないことを、あっさりと言ってのける母さん。
この場に父さんはいないけれど、恐らく夫婦の間の決定事項なのだろう。

その『レイちゃん』と呼ばれる彼女は、うんともすんとも言わない。

もちろん、『じゃあ仲良くします』と納得できるほど、僕は物分りのいい息子ではない。


「仲良くしてって、…この子は一体なんなの? この伸び放題の水色の毛は髪の毛?」


まじまじと見てみると、水色の毛の向こうに、顔らしき部分が覗いて見える。
平安時代のお姫様?とでも勘違いしそうな髪の毛の長さ、でも少し癖毛があるのと、手入れをしてないのとで、髪の毛が横に膨張している。
一応僕の方を向いてるようではあるけれど、でも本当に僕の顔がちゃんと見れているのかは、体を覆っている髪の毛から考えても、否、だと思う。

見てるこっちが鬱陶しいけれど、でも顔の前を覆っている髪の毛を手で払いのけるとか、かきあげるとか、そういう仕草は見られない。

僕はじりじりと近寄ると、無遠慮に髪の毛をひと房掴んで、上に持ち上げる。そして手の中からそれらを開放する。
複雑にからまってしまっている毛は、僕の手によって余計に横に膨張し、体を覆い隠す。

その膨張した髪の毛が全身を覆っていて、わずかに体の一部分が覗いているとは言え、僕にはそれが大きな毛のかたまり、いわゆる、"毛玉"にしか見えなかった。

お世辞にも、まともな成長をしてきた女の子とは思えない。
同学年って言うけど、僕の同級生にこんな感じの子はいないし、町を歩いてたってこんな子に会ったことがない。


「だから"訳あり"なのよ」


訳ありなのは、見ただけでも分かる。
でも"訳あり"の一言で済まされては、僕としては納得がいかない。
いったいどこからこの子を拾ってきたのか、なぜ家で引き取らないといけないのか。

まして、ほとんど家に帰ってこない両親だ。
この家でこの子の面倒を見ることのできる人間が、僕以外に誰がいる?

納得のいく説明が欲しかった。


「あら、嫌だって言うの?」

「嫌ってわけじゃないけど、でもどうしたら……」

「大丈夫、なるようになるわよ」


実際は『なるようになる』んじゃなくて、僕が『なるようにする』ことになると思うんだけど…。

なおも渋る僕に対して、母さんは言った。


「この子、血の繋がった人間がこの世に一人もいないの。私たちが見つけたとき、一人ぼっちだったのよ? あのままじゃ飢え死にしてたわ。シンジは、そんな子をほっとける?」


こうやって僕の良心をつつかれては、僕も嫌だとは言えない。
母さんは分かっているのだ。
僕という人間は、人からの頼まれごとに滅法弱いということを。
そんな性格が災いして、生徒会長なんかに立候補することになったわけだし、優柔不断といえばそれまでだけど、僕は人から頼まれると嫌とは言えないのだ。


「……分かった」


僕はしぶしぶ了解した。
だけど、その子にどうやって接すれば良いのか全然分からない。


「そうと決まれば、さっそくで申し訳ないけど、レイちゃんの服がないから明日買いに行ってあげてくれない?」

「え!? 僕が?」

「当たり前じゃない、私もあの人も仕事があるから」


にべもない。
でも、明日の土曜日は友達と遊びに行く予定になってる。
幼馴染で、アスカという同級生。
僕が心許せる、数少ない人間の一人だ。

僕も久しぶりに息抜きができると思って楽しみにしてたのに。


「そ、そんな、…明日は………」

「こんなに可愛い子をほっといて、友達と遊びに行くって言うわけ?」


『こんなに可愛い』っていわれても、どこからどう見ても"毛玉"にしか見えないわけで。


「い、いや…だけど…」


僕がなんとか拒否しようとさらに言いつのろうとしたのに、母さんは僕の言葉を遮るように、


「じゃ、明日よろしくね」


と言って、寝室へと戻っていった。
僕はその背中を呆然と見送った。

あまりにも自分の意思を無視された急展開、この親は息子がまだ14歳の思春期だということを理解してるのだろうか。
一歩間違えれば、僕はいつグレてもおかしくない、いつ"少年A"とテレビのワイドショーで騒がれてもおかしくない、そんな育てられ方をしていると言うことに、自分たちは気がついているんだろうか。

本当に腹立たしい。
そして、それでも母さんのことがが好きな自分が、もっと腹立たしい。

今更ああだこうだ言っても仕方がない、僕がどうこう言ったって、両親は一度言い出したことはよほどのことでもない限り曲げない。
だから、前向きに考えるほかなかった。



諦めの付いた僕は、部屋に戻って休もうと踵を返した。

そこにポツンと立ってる毛玉がいることに気がつく。


「あ、別に君のことが嫌だとか、そんなんじゃないんだよ……、えっと、僕たち親子のコミュニケーションのようなものだから、気にしないで」

「…………」


わずかに頭が動いたような気がしたけど、毛玉は特に反応を見せなかった。


「そんなこと聞いてないよね、ごめん。もう遅いから寝ようか?……って、そっか、僕の部屋で寝てたんだっけ」


どうしてまた僕の部屋に寝かされていたのか、別に母さんの部屋でもいいじゃないかと思った。
『シンジは今日帰ってこないものだと思ってたの』、この大きな勘違いがもたらしたものだとは思うけれど、この先彼女がここに住むのなら、ずーっと僕と一緒の部屋というわけにもいかない。

今は物置状態になってるけど、ひとつだけ誰も使ってない部屋がある。
どうせなら、その部屋を片付けてそこに寝させてあげればよかったのにと思うけれど、きっと僕がやってくれるとでも思ったんだろう。
事実そうなるのだから、母さんは正しい。


とりあえず僕のベッドに"毛玉"を寝かせた後、僕は部屋のすみに置いてある2人がけのソファーに横になった。
体を丸めなければ収まらないソファーに、いつもならきっと寝苦しさを感じるのだろうけど、そんなことを感じることもなく、僕は眠りに落ちた。

母さんの話では同い年くらいだそうなのだけど、まさかその"毛玉"に僕が発情するわけもなくて、一緒の部屋に眠ることになんの後ろめたさも感じなかった。


後で、少しだけ後悔をした。






V.雨天の水遣り


翌朝目覚めた僕は、"毛玉"がまだ眠っているのを確認して、とりあえず今日会うことを約束していたアスカの家に電話をした。
アスカはまだ寝てるってことだったので、『申し訳ないけど、急用ができて遊ぶのはまた今度にしたい』という旨をことづけておいた。

外に出てみると、気持ちのよい晴天だ。
遠くの方にモクモクとした入道雲がひとつあるだけで、空は真っ青。肌に触れる柔らかな風は心地よく、芝生の朝露が緑をいっそう際立たせている。
もう数時間もすれば刺すような日差しに辟易するのだろうけど、このつかの間の時はとても気持ちの良いものだった。

で、毎朝の日課である水遣りに取り掛かったわけだけど、いつの間にか"毛玉"も起きてきたみたいで、相変わらずの膨張した水色の毛に覆われた彼女は、はだしで僕の数メートル後ろにボーっと立っていた。


「おはよう」

「…………」


(おはようとも言ってくれない。言葉が分からないのかな)

朝の挨拶に対する返事は何もなくて、僕は正直言って困った。
学校生活も大変で、家に帰ったらこの子の相手をしなくちゃいけない。

誰もいない家に帰ってくるのは淋しかったけど、この子のいる家に帰ってくるのはなんだか余計に疲れそうだと思った。

といっても、そう思ったのはほんの数時間のことだったんだけど。


プルルルル、プルルルル


「電話だ、…ごめん、ちょっとこれ持っててくれる?」


僕はホースを彼女に託すと、リビングに置いてある自分の携帯電話に出るべく家の中に駆け込んだ。




『シンジ、今日行けないってどういうことよ!』


やや語気の荒い声が、携帯電話から響く。
人一倍気が強くてプライドの高い彼女のこと、約束を一方的に断ったら怒ること、それをなだめるのに時間を有すること、これまでの人生の中で何度となく体験している。

僕は思わずら耳を離すのだけど、『ちょっと聞いてんの!?』と怒号が聞こえて再び耳に当てた。


「ごめん、ちょっと急用ができちゃって、どうしても今日は無理なんだ」

『急用ってなによ』

「なにっていうか、家庭の事情」

『あたしには言えないってわけ?』

「そういうわけじゃないけど、どう言っていいのかわからないし、……もう良いじゃないか、忙しいから、また今度説明するよ」


『ちょっ!……


ピッ


『ちょっと待ちなさいよ!』とアスカが言いかけたところで、やや強引に電話を切る。
そして電源までも切っておいた。
次に会ったときにすごく怒られるのは分かりきったことだけど、彼女は自分の思い通りにことが運ばないと、納得のいく説明でもしないと諦めてくれない。

今回のことは、当事者の僕ですらまだ事情がつかめてないのに、まして他人に納得の行くように説明しろなんて無理な話だ。

今度会ったときに言い訳をすれば良い、僕はそう思って庭へと戻ろうと後ろを振り返った。



(…え?)



一瞬目を疑った。

瞬きを何度もしたり、目をこすったりしてみても、その光景は変わらない。


その僕の目にうつったものは、空から降っている大粒の雨。土砂降り。

先ほど水やりを始めたときは、確か雲ひとつない快晴だったはずだ。



雨? 


……じゃない。

正面を向いてると、それは紛れもなく雨なんだけど。

空を見上げると、やっぱり雲ひとつない青空で、太陽が草花を照らしている。
ねずみの嫁入り、でもない。

空に向かって、円を描くように水が迸っている。
それはスプリンクラーのようでもあるけれど、でも違う。

水の出所を視線でたどると、それは"毛玉"の手の中にあり、さっきまで僕がこの手に握っていたホースだ。
水の迸るホースを持つ彼女の視線は、空高くあおいでいるように思える。

ホースの先から、水が空に向かって舞い上がり、屋根の高さくらいまで上がると、それがあらゆる方向に向かって迸る。
とどまることのない水の奔流が、絶え間なく空から庭に降り注ぐ。

太陽に照らされて、七色に光る水の雫。
突然我が家の庭に出現した、異空間。
その中心に空を見上げてたたずんでいる彼女の姿は、無意味に長く伸びた水色にも銀色にも見える髪の毛を輝かせて、とても綺麗で、この世に存在してるのが不思議なほど非現実的なものだった。

普通の人間ができるようなことではない。

僕の目の前で水を全身に浴びている彼女は、僕とは異質な生き物に思えた。
この世に存在するはずのない人間だと、そんな風にも思った。

だけど、その不思議な力を、何故だか怖いとは感じなかった。

ただ、なんの前触れもなく僕の前に現れて、なりゆきのままに僕の家族として迎えられたこの少女がいったい何者であるのか、そのことが無性に気になって、だけどそれを聞いてしまったら、彼女の心に大きな傷を刻んでしまうんじゃないかと、僕にはそれが怖かった。

しばらくその光景に見とれて、そんな僕に気がついたのか、"毛玉"は僕を振り返った。


パチン

頭の中で音がして、催眠術が解けたような感覚。
そして振り返った彼女に、別の催眠術をかけられたような、…僕はその場を一歩も動くことができなかった。

視線をはずすことができないのだ。

雨に濡れて、膨張していた彼女の髪の毛は体にぴったりと張り付き、その姿はもう『毛玉』とは言えなかった。

水と太陽の光を浴びて、これ以上ないほど明るく輝く黄緑色の芝生。
その中心に、水色にも銀色にも輝くひとりの不思議な少女。

非現実的な光景が僕の心と頭、それぞれの一番奥深くに刻まれた。

そして、雨はやみ、ホースから出る水はそのまま下に流れ出て、地面に水溜りを作っていた。
彼女の手から離れたホースが、地面の上でうねうねと蛇のようにうごめく現実的な光景に、僕にかけられた催眠術は解けた。

不思議な力を僕に見られて、彼女がどういう反応をするのか気になったけど、さほどうろたえた様子もなくて、表情は長く伸びた髪の毛に隠れてしまって、確認はできない。

あたりを見渡すと、深緑の木々、植えられた花々が、葉や花びらから水滴を落とし、太陽に反射している。

水はこれ以上なく、植物たちに行き届いているようだった。


「ありがとう、手伝ってくれて助かったよ」

「………」

「そこで待ってて、タオル持ってくるから」


髪の毛を鬱陶しそうにかきあげながら、僕の持ってきたバスタオルで拭いている。
そのとき僕は初めて、彼女の顔をちらりと垣間見ることができた。

とても整った顔をしていて、瞳が驚くほど真っ赤で透き通っていた。

水の跳ね返りで、泥だらけになっている真っ白な足と少し大きめのハーフパンツ。
よく見ると、どうやら僕の服を着せられていたようだ。

『お風呂に入ろうか、案内するよ』と、手を取って家の中に招き入れる。


「今日さ、一番に美容院に行こうね」

「………。」

「お風呂から上がったら、髪をといてあげるよ」


彼女の髪の毛を乾かすのと梳くのとで、軽く一時間以上格闘ことになったけど、母さんの服をとりあえず着てもらって、僕たちは美容院へと向かった。
美容院でどんな髪型にするか、彼女に希望がある様子でもなくて、それは僕も予想された事態だったから、それは美容師さんにお任せすることにした。

美容師さんは、まず彼女の髪の毛の色に驚いた。
ほぼ同時に、髪の毛の長さにも驚いた。

その次に、彼女の隠れていた素顔に驚いていた。

美容院にいるお客さん、美容師さん、誰もが彼女に対して同じ印象を持ったようだった。
髪の毛の色とか、長さとか、瞳の色とか、肌の色とか、すべてが『非現実的』だと。


「髪の毛で隠れてたから分からなかったけど、随分綺麗な顔立ちしてるわねぇ。これだけ美形なら、ショートにしたら似合うかも」


あれだけ伸ばした髪を、ばっさりと切ってしまうのは勿体無いような気もするけれど、……と僕は思う。

なにも答えない彼女に、僕は代わりに答えた。『お任せします』と。
ついでに僕の髪の毛も切ってもらったことは、たんなるおまけの出来事。

先に切り終えた僕は、待合室でウトウトとした。


そして、一時間が経った頃だろうか。
声をかけられて、


「はい、完成よ。どう?」


僕は、あまりの変貌振りに目を疑った。
寝ぼけているのかと、パチパチと強く瞬きをする。

水遣りのときにちらりと覗いた顔を見て整ってるとは思ったけれど、髪の毛を短く切って露になったその顔は、目鼻がくっきりと際立って、色の白さも際立って、体の細さとか、小さい顔とか、すべてがバランスが取れていて、異様とも思える髪の毛や瞳の色も、彼女のものだと思えばとても自然で、非の打ち所がないように思えた。

ひとつだけ残念なのは、彼女には表情がないということだ。


「…あ、あの、可愛いと思います」


あまりの変貌振りに動揺して、僕はまともに返事をすることができなかった。


「あなたはどう? 彼氏、男前になったでしょう?」


彼女は、ただ僕をじーっと見つめるだけだった。
自分の顔がひどいとは思ってないけれど、でもどんな男前でも、彼女に釣り合う人間なんているわけがなかった。


「へ、変なこと言わないでくださいよ」


現金なもので、姿が"毛玉"から"美人な女の子"に変わったことで、僕は急に彼女を意識する羽目になった。
なにしろ、昨晩は一緒の部屋で眠ってしまって、しかも僕はトランクス一枚だけで。そして、今朝は全身ずぶ濡れで、そしてお風呂上りの彼女の髪の毛を僕は梳かしたのだ。

なんとも、大胆なことをしてしまったと、僕は少し後悔をした。

彼女のほうがなんとも思っていない様子なのが、少し救いだった。

美容室を出るとき、彼女の身長ほどもある髪の毛をほんの少しもらって帰ることにした。
ここまで伸ばした髪の毛を、むざむざ捨ててしまうのも勿体無いような気がしたし、色が綺麗だったし。

そして、これからが母さんに与えられた課題。
朝起きたらもう母さんも父さんも仕事に出た後で、キッチンのテーブルの上に一枚のメモ紙が置いてあった。


「えっと、なになに? 下着、パジャマ、部屋着、普段着…、適当に買って来い。って、下着なんて僕にどうしろって、……君、一人で買えないかな……」


表情を伺ってみるけど、無表情のままピクリともしない。


「無理そうだよなぁ」


今まで14歳なりにいろんな難問にぶつかったけど、これが一番難問だと僕は思った。
女性の下着売り場なんて、そこにいるだけでも男の僕にとっては恥ずかしい。

女の購買意欲をそそるためか、通路側にはレースをふんだんに使ったブラだとかパンツだとか、そんな類の下着が所狭しと並んでいて、レースの下着だけ着せられたマネキンがライトを浴びている。
選ぶために中に入ろうにも、恥ずかしくて入ることができない。

まして、彼女のサイズなんて分かるはずもない僕が、どうやって選んだら良いものか。

少し悩んだけれど、すぐに解決策は見つかった。


「……、あのすいません」

「いらっしゃいませ」


僕は近くにいた店員さんに声をかけた。


「あの、彼女に合う下着を選んで欲しいんですけど、……とりあえず、上下5枚づつくらい……、地味なのでかまいませんから」


これだけでも、相当恥ずかしかった。
店員さんは少し訝しげな顔をしたけど、そこは客商売、すぐに笑顔を取り戻して『かしこまりました』と。


「あ、あとはお店の人に任せておけばいいから、……僕、あっちで待ってるから、選び終わったら呼んでくれる?」
「…………。」

「じゃあお願いします」
「まずサイズを計りますので、あちらに」


とりあえず、これで一つ目の関門クリアだ。
僕はエスカレーターのそばに設置してあるベンチに腰掛けると、ほっと胸を撫で下ろした。

今まで、同世代の女の子と買い物に来たことがないわけじゃない。
アスカの洋服を買うのに付き合ったことなんて、数え切れないほどある。
他の女の子と二人で買い物に来ることはないけれど、グループでなら女子との買い物も経験してる。

でもアスカは、ちゃんと自分の好みを持ってるし、僕が横から口を挟まなくても、買いたいものは自分で決めるタイプだった。
自分で決めてくれるから、僕は『いいんじゃない?』と言うだけ。
他の女の子の時も同じで、似合うかと問われれば『いいと思う』と答える。

僕に聞く前に、彼女たちの中ではすでに買うことが決まっているのだから、僕は頷くだけでよかった。
そして、買い終えた荷物を持ってあげることで、彼女たちはある程度満足してくれるのだ。

だから、僕が女の子の服を選ぶということは、今まで経験したことがない。
洋服どころか、下着すらも持っていないらしい彼女。これまでの十数年は、一体どうしてきたのだろう。

まだ会って数時間しか経っていないけれど、あの不思議な少女は、どうも洋服に無頓着な気がする。
男物の服を着せられても平然としていたし、今朝どういう服を着たいか尋ねたときも、なにも言わず、僕が適当に選んだ服をただ言われるがままに着ていた。たぶん、彼女には『好み』というものが存在しない。

その彼女の着る服を、すべて僕が選ばなければいけないと言うのだから大変だ。



「バカシンジ!」



頭の上のほうから、聞きなれた声で僕の名前が呼ばれた。
僕を『バカシンジ』と呼ぶ、ただひとりの人物。

上の方を見ると、下りのエスカレーターから僕のよく知る人間が降りて来ている。


「え? げっ!」


アスカだ!
とたんに、脂汗が流れそうだった。

こんなところにいるのを知り合いに見られるなんて、しかも、アスカと洞木さん。
洞木さんとは、アスカの友達の一人だ。クラス委員長で、少しブラウンがかった髪の毛をおさげにくくっている。
そして今朝、強引に電話を切った挙句に、電源までオフにしていたことを思い出す。


「なによ、『げっ』て、あんた女の下着売り場でなにしてんの?」

「見てのとおり、座ってるんだけど」


男一人で、下着売り場のフロアに座っている中学生。
限りなく、怪しい。


「あんた家庭の事情があるとか言ってたけど、本当は下着売り場に来るのが目的だったんじゃない?」

「変な言いがかりやめてよ、ちょっと休憩してたんだ」


ありのままを話せばいいのに、なぜか彼女の存在を隠そうとする僕。
そのせいで、事態は悪くなる一方だった。

洞木さんには変態でも見るような視線を送られるし、アスカには問い詰められるし。

これで学校では真面目な生徒会長で通ってる僕だ、その僕が下着売り場に一人でいるところを見られた日には、次の日には学校中の噂になりかねない。
学校が休みの日に、こんなに近くのデパートに来たら知り合いに会うのは当たり前だということに、遅ればせながら僕は気がついた。


「そういえば、あんた電話の後、電源切ったでしょ! バカシンジのくせに!」

「だから、事情があって」


今朝の電話のことを思い出して、アスカは怒りを爆発させる。
あまりの威圧感に、僕は仰け反りながら一筋の汗を額から流す。
座ってる僕の頭上から次々にまくし立てられる言葉は、いつも以上に迫力をまし、思わず耳をふさぎたくなるほど耳の奥にキンキンと響く。

おさまりそうにないアスカに、『悪かったってば』と何度も言っていると、突然、言葉が止んだ。
あれ?と、表情を伺ってみる。


「……………。」


アスカが驚愕の瞳で僕の背後を見ていた。
それまで、困ったような顔で僕たちのやり取りを静観していた洞木さんも、同じところを向いている。

『なんだろう』と思って、後ろを振り返ると、何枚かの下着を持って立っている彼女の姿があった。


「……これ…」


僕の目の前に下着が差し出される。
『これ』…たった二文字。初めて聞いた、彼女の声だった。

(こんな声してたんだ、綺麗な声してるな)

抑揚がなくて、感情が感じられなくて、小さいけど、でも通る声に、僕は感慨深いものを覚えた。


「あ、うん。…お金払ってくるからここで待ってて」


手の中に抱えられた下着の類を受け取ると、僕は猛スピードで支払いを済ませた。
基本的に白を貴重とした地味目のものが多いようだったけど、中に一組だけ中学生にしては過激なものがあったような気がして、でもそんなにまじまじとみるのも恥ずかしいから、僕は視線を宙に浮かせて、母さんから預かっているカードで支払いの手続きを終えた。

支払い後に僕に向けられた、店員さんの意味ありげな笑みがとてつもなく嫌らしかったのは、僕の気のせいだろうか。



その後、僕が支払いを済ませるのを彼女だけじゃなくアスカと洞木さんも待っていて、どういうことなのかと矢継ぎ早に問い詰められて、なんとか説明して納得してもらって、それ以降、彼女の服は二人に選んでもらうことに決まった。

どうせなら、アスカとの約束を断らず、事情を話して最初から4人で来れば良かったと思った。
女の買い物は女の子に任せるのが一番良い。

助かったのが洞木さんの存在で、彼女に似合うものを的確に選んでくれた。
アスカは選ぶ服が派手で、原色系だとか、カラフルなものだとか、とても彼女に似合うとは思えないものをことごとく選んでいた。

『それはアスカに似合うものでしょ』と僕からも洞木さんからも責められて、やや不機嫌ではあったけど、それでも彼女に似合うものをとアスカなりに悩んでくれたようだ。

こうして女の子と買い物に来るたびに思うことだけど、女の子と言うものは服を選ぶ行為そのものを楽しむものなのか、彼女はまるで着せ替え人形で、何種類かの服を何度も繰り返し着せさせられたり、結局買うのをやめたり、待たされる僕は少し疲れた。

彼女はと言うと、相変わらず無表情でなにを考えてるのか分からず、言葉も発さず、女二人のされるがままだった。

選び終わる頃にはもう日が沈んでいて、夕飯でも奢ろうかと思ってたんだけど、二人とも家に帰らないといけないらしく、僕たちも家路につくことにした。

家で軽く夕食を食べてお風呂に入ったあと、僕たちは少し早いけど休むことにした。
彼女のための部屋は、結局片付けることができなくて、明日の日曜日に行うことにした。

彼女に僕のベッドで寝るようにと伝え、僕はリビングのソファーに今晩は眠った。


とても不思議な出来事からはじまった一日を思い返しながら、僕は眠った。





W.積もらない雪


それから、一週間、2週間と時間が経つにつれて、彼女に少しずつ言葉が増えた。
と言っても、なにか用事があるときに、『シンジ』と僕の名を呼ぶこと。『それ』『あれ』『これ』『分からない』くらいで、しゃべり方は単語的で、抑揚もほとんどない。
おはよう、おやすみ、いただきます、ごちそうさま、ありがとう…この類の言葉は、まだ一度も聞くことはできなかった。

ひとつ気になったのは、彼女には"自分の意思"がほとんどないということだった。

僕も最初の頃は名前で呼ぶことが恥ずかしかったけど、いつまでも『君』じゃあ他人行儀だから、『レイ』と意識的に呼ぶように心がけた。
家族の一員として受け入れるのは早くて、小さい頃『妹が欲しい』なんて母さんに駄々をこねたことを思い出したり、なによりも学校から帰ったときに誰かが待っててくれることが僕にとっては嬉しいことだった。

帰ってきてなにをするわけでもない。
ただ一緒にご飯を食べ、時々テレビを見る、音楽を聴く。
会話らしい会話はまったくなかった。。


この日お風呂からあがった僕は、リビングでテレビを見ているレイの隣に座った。


「なにを見てるの?」

「………。」


テレビを見てみると、北の方の国のドキュメンタリーだ。


「雪?…寒い国に降るんだって。父さんや母さんが小さかった頃はまだ日本でも降ってたみたいだけど、僕は見たことないんだ。一生に一度は見れるといいな」


僕の独り言のようなものだった。
彼女がテレビを見るとき、それは興味を示したからだとは限らないことを、ここ数日で僕には良く分かっていたし、レイが雪に興味があるのだとは思わなかった。

テレビに映る雪と、レイの姿がオーバーラップした。

雪の降りそそぐ中に立つレイの姿は、きっと絵になるだろうなって、僕は思った。



〜翌朝〜


「ふぁぁ〜〜、よく寝た」

目を覚まして一階に降りると、まだレイの姿はない。
僕の起きる時間が早いのもあるだろうけど、レイは随分と朝が弱いようで、僕より早く目覚めたことはまだ一度もなかった。

昨夜全自動で脱水まで済ませておいた洗濯物を、洗濯機の中から籠に移すと、僕は庭へ出て洗濯物を干した。
少しは慣れてきたとは言うものの、こうして同年代の女の子の下着を干しているときは、少し変な気分になる。
レイのことを女の子として意識していないからって、やっぱりこれは男として意識せざるをえないもので………、……あまり見ないように素早い動作で洗濯バサミでパンツ端を挟む。

こうして女の子の下着を干さなきゃいけない自分の立場も、なんだか虚しい。
せめて、自分の下着くらいは洗って干してもらえないかと思うけれど、そんなことを頼んで、『意識してる』と思われるのも恥ずかしい。

女の子の下着を干すのは恥ずかしいけれど、『恥ずかしいから自分で干してよ』と言うのも恥ずかしいのだ。
もっとも、レイのことだからそういう複雑な男心なんてまったく分からないに違いないけど。

そんなことを思いながら、次の恥ずかしいアイテム、ブラジャーを取るために腰をかがめると、後ろの方で自分を見ている気配に気が付いた。
振り返って、僕は赤面する。

手に持ったブラジャーを素早く洗濯バサミではさむと、僕は動揺しているのを必死で隠しながら、いつものことを頼んだ。


「あ、…えっと、…水やりお願いできる?」

「………」

「あ、ちょっと待ってね。傘をさすから」


僕は、彼女の降らす雨が好きだった。
特に今日のような晴れた日は特に。

いつものように水が空中に舞い上がり始めた。
空に上った水の奔流は、ある地点で水の粒と変わり、いろんな方向に拡散して落ちてくる。
どうやってコントロールするのか、洗濯物を濡らすことは決してない。

二人でひとつの傘におさまり、目を閉じて傘にぶつかる水の音を心地よく聞いた。


次第に、音が小さくなった。


そのことに気付いた僕は、ゆっくりと瞳を開けた。

水は変わることなく空に向かって流れ出している。


僕は傘を閉じた。


空に舞い上がった水は、落ちてくるところで氷の結晶と変わり、そしてあたり一面に降り注いでいる。
勢いよく降って来るはずの雨が、氷の結晶となったことでスピードをゆるめ、柔らかく落ちてくる。

白くふわふわとした、生まれてはじめて見る光景。

ひとつひとつの結晶達が、まるで僕らを優しく包んでくれるようだ。

それはテレビで見るものとは違うけれど、紛れもなく雪だった。


僕の差し出す手のひらに落ちる頃には、柔らかい日差しが結晶たちをまた溶かし、再び雨に変わる。

手のひらに落ちる雪の残骸は、とても冷たかった。


世界で一番、命の短い雪。


どんなに降っても、決して積もることがない雪を見ることができるのは、きっと僕とレイの二人だけ。

この幻想的な世界も、僕たち二人だけのもの。

そう思うだけで、僕はとても嬉しかった。



「レイはすごいな」

「………」

「こんなのが見られるなんて、レイの家族である僕の特権だね」



こんな時間がいつまでも続けば良いのにと、僕は心の底から思った。








X.学校



レイが僕の家に来てから一ヶ月ほど経った頃だろうか、彼女が僕と同じ学校に通うことが決まった。
いつもこの家で何時間も一人でいるのを気にしていたし、お昼ご飯はちゃんと食べてるだろうかと心配していたこともあって、僕は少しだけ安堵した。

ただ、その反面、彼女が学校生活に溶け込めるのかという不安は大きかった。

こればっかりは試してみなければ分からないけど、僕は彼女の学校生活が楽しいものになるとは思えなかった。
だって、まだ僕たち家族にすら『おはよう』『おやすみ』の一言も返してくれない彼女が、クラスメイトから話しかけられてもまともに返事をするとは思えないし、まして、彼女が自分からクラスメイトに話しかけるなんて可能性は、まず皆無だった。

そしてもうひとつ心配があって、彼女には不思議な力がある。
僕が思うに、彼女は力を使うことになんのためらいもない。

今のところ、庭の水遣りをするときくらいしか力を使っていないようだけど、もし力が必要な場面があれば、深く考えることもなく力を発揮するだろう。
ほんの少しの力で、水滴を氷の結晶に変えてしまうことができる。
彼女がやろうと思えば、きっともっと凄いことができるはずだ。

僕は自然にその不思議な力を受け入れることができたけど、学校ではそう簡単にいかない。
なんとか力を使わないようにしてもらわなきゃいけないし、万が一力を使ってしまった場合は、僕がどうにかして誤魔化さなければならない。


生徒会長という立場上、特に文化祭前の忙しい学校で一つのことにかかりきりになることはできないけれど、しばらくの間は彼女のそばから離れないようにしなければと、そう思う。

今までも息を抜くことがほとんどできなかった学校生活だったけど、これから一体どうなるのか、『もっと大変になる』くらいは分かるけど、その大変さは漠然としていて、見当も付かなかった。


そして、僕の不安はことごとく的中していくのだった。


転校初日から、彼女は遅刻した。
もちろん、一緒に登校する僕も遅刻した。

無遅刻無欠席、僕のちょっとした自慢はこの日破られた。


転校初日の朝、彼女はいつもの日課とばかりに、庭で水遣りをしていた。
緊張、不安、期待、そんな感情でドキドキしているのは僕ばかり。転校生本人は、マイペースでいつもどおりだ。

僕はいそいそとレイの鞄の中に教科書を詰めたり、書類の確認をしたり、上履き、運動靴、生徒手帳、忘れ物はないかと荷物と格闘しているあいだに、気がついたら彼女は真新しい制服を着たまま、空から大粒のシャワーを浴びていたのだ。
足には靴を履いてなくて、泥だらけ。

予備の制服を用意して、シャワーを浴びてもらって、……学校に到着したのは、一時間目が半分をすぎている、そんな頃だった。

僕が遅刻したこと自体が珍しくて注目を浴びる、転校生が初日から遅刻したことで注目を浴びる。
その2人が一緒に遅刻したのだから、目立たないわけがなかった。

彼女は先生に促されても自己紹介をすることもなく、代わりに僕が『えっと彼女、"碇レイ"って言うんだ。みんなよろしく』と紹介をして、
『なぜ僕と一緒に登校してきたのか』とか『僕と苗字が一緒なのはどうしてなのか』とか『髪の毛染めてるの? カラーコンタクト?』とかいろいろと詮索してくるクラスメイトに囲まれて、それでも一言もしゃべらないどころか、ピクリとも表情を動かさないレイのことを僕がかばうようにするわけで、

これで目立つなという方が無茶な話だ。

生徒会長で、この街で一番の有名人の息子、…僕だけでも目立つ存在なのに、容姿も性格も雰囲気も、すべてにおいて一癖も二癖もある彼女が一緒となると、目立つのも今までの2倍、いやそれ以上。

昼休みが来る頃には、僕はどっと疲れてしまって、……そして、四方八方から注がれる視線に耐えながら、学食で彼女と一緒にご飯を食べて、なにを考えてるのかさっぱり分からないレイの顔を見てため息をつく。

こんな日々がしばらく続くのかと思うと、僕は気が遠くなるような想いがした。


そんな僕を見て、彼女はなにか感じていたのだろうか。

この頃、彼女は僕に対してなんの思いも感じてなかったように思う。
僕を見る目は、相変わらず無表情で、その顔はちっとも動くことがなかった。

僕がどんなにあれやこれやと世話を焼いても鬱陶しがることもなく、かと言って、僕のことを無視しているわけではない。
ちゃんと僕の話を聞いてるようだし、なにか用事を頼んだとき、彼女にできることであれば、驚くほど従順だったりもする。

一体僕は、レイにとってどういう存在なのだろう。
レイは僕のことをどう思っているのだろう。

一月近くたっても、挨拶もまともに交わせない関係。

彼女はそういう子だからと、自分に言い聞かせているけど、でも、少し淋しく感じることがないわけではなかった。


新しくできた僕の家族。

その存在は僕の気持ちを暖かくしてくれるけど、その逆もよくあった。



「碇君、ちょっといい?」

「うん、なに?」
「えっと、ちょっと彼女の前じゃ……」


レイは、クラスに溶け込むどころか、ひどく敬遠される存在となった。
その原因の半分は、やはり僕が予想していた通り、レイの誰も寄せ付けない雰囲気にあった。

そしてもう半分は、"僕がレイに構いすぎる"ってところにあったらしい。

僕がそれを知ったのは、しばらく後のことだ。
なにか起こらなければ気がつかない僕は、やっぱり自分のことしか見えていない子供で、人を本当に守れるほど強くない人間で、そのことをとても歯がゆくも思う。


「…レイ、ここで待っててくれる?」


レイが僕の前に現れるまで、クラスメイトの女の子に遊ぼうと誘われることは時々あって、僕も特に用事がなければ誘いに乗ることもあった。
女の子と遊ぶことを楽しいと思ったことはあまりない。むしろ、苦手な方だ。

それでも僕が誘いに乗るのは、一人であの家にいるのが寂しかった、それが理由だったと思う。


「ねえ、今度遊びに行かない? 前はよくみんなで、遊びに行ってたでしょう? また一緒に遊ぼうよ」
「ごめん、生徒会とか忙しいから」

「休みの日まで忙しいって訳じゃないでしょう?」
「…ごめん、本当に忙しいんだ。また今度誘ってよ。じゃ、仕事があるから!」


僕が断る理由はひとつしかない。
休みの日は、レイと一緒にいることにしてるからだ。

あの家に一人でいる寂しさは、僕が一番よく知ってる。

おせっかいかもしれないけど、レイに、僕と同じような思いはさせたくないって、そう思ったから。




レイがクラスに溶け込むこともなく、学校は2週間後に迫る文化祭の準備に本格的に取り掛かった。

生徒会長をしてる僕は今まで以上に忙しくなって、彼女に四六時中付きっきりという学校生活が送れなくなった。

各クラス、各部活動、それぞれ展示・ステージ・アトラクション・ゲームなどなど、やりたいものを用紙に書いて僕に提出する。
出し物をチェックして許可か不許可を決める。

決まったら、体育館・運動場など使用する場所をふりわけていかなければいけないし、ステージの場合は細かいスケジュールも決めなければいけない。
それが決まれば、パンフレット作成の準備。
看板作り、地域に貼るポスターの製作。

クラス・部活動によっては、急遽変更なんてことも出てくるし、質問はほとんど僕にやってくる。

文化祭の日までに、各委員会を集めて、美化係、受付係、駐車場係、放送係など、当日の役員を決め、そして細かい話し合い。

もちろん、僕もクラスに所属しているわけで、そっちの準備も手伝わなければいけない。

すべてを僕一人でやるわけはないんだけど、それでも文化祭が終わるまで、重労働であることは間違いなかった。



この期間、僕はレイのことを洞木さんに頼んでたんだ。

彼女はクラス委員長だし、面倒見も良い。
なによりも、レイの服を選んでもらったあの出来事は大きかった。

てっきり、僕はうまくいってるものだと思ってた。

ある日、彼女の手に小さくて青いあざができていたことに気が付いた。

どうしたのか問いただしても、本人は答えなくて、代わりに他のクラスメイトがこう答えた。
『さっき、床に敷いてた新聞紙を踏んで転んだの、机で手を打ったみたい』

僕は疑わなかった。

だから、洞木さんから言われたことは、僕には晴天の霹靂だった。


「いじめられてると思う」


『え?』と目を丸くして、僕は手に持っていたシャーペンをぽろっと机の上に落とす。
外はもう日が沈み、文化祭の準備をしていたクラスや部活の生徒達が、そろそろ帰り支度を始める、そんなころのことだった。


「碇君は気がつかないかもしれないけど、最近、痣が増えてるような気がするの。…体育の授業で着替えるときに見えるんだけど、…レイちゃんって、色が白いから少し青くなっても目立つから」
「そんな、…でも誰が……」

「碇君のこと好きな人多いから、…あなたに大切にされてるレイちゃんを快く思わない人が多いみたいで、………今までは、ほとんど碇君が付っきりだったからよかったんだけど、文化祭の準備がはじまってレイちゃんが一人でいることも増えたから、溜まってた鬱憤が一気に噴出したみたい。アスカや他の友達にも見つけたら止めてって、頼んであるんだけど……」
「…僕が好きって、……だからって、どうしてレイがいじめられないといけないんだよ。そんなのふざけてる。だいたい、レイは僕の家族じゃないか」


語気が、少し荒っぽくなる。
僕の心の中で、ふつふつと怒りが込み上げてくるようだった。
僕のどこを好きなのか知らないけど、その気持ちの矛先をどうしてレイに向けなければならないのか、それが歯がゆくてならない。


「家族って言っても、血は繋がってないでしょう? 碇君が一人っ子だってこと、この学校に知らない人なんていないわ。一緒に住んでることも含めて、学校でも家でも碇君を独占してるレイちゃんが許せないんだと思う」


握った拳が、小刻みに震えた。
洞木さんに怒りをぶつけたって、彼女になんの非もないのに。
むしろ、こうして僕を助けてくれようとしているのに。

心を落ち着けるように一度大きく深呼吸をして、


「…ありがとう、教えてくれて。……気をつけてみる。…もし、なにかあったらすぐに僕に言って」


『役に立たなくてごめんなさい』とあやまる彼女に、もう一度お礼を言うと、僕はレイを見つけて家路についた。

並んで歩いているレイの様子からは、洞木さんが言っていたようなことは何も感じられなくて、僕は『なにか嫌なことがあったら、真っ先に僕に言うんだよ』と、そう言うことしかできなかった。


そして数日後、事件は起こった。


生徒会室で、刷り上ったパンフレットを冊子にしている最中、ガラスが割れる大きな音と、女子数人の悲鳴が、遠くの方から聞こえた。
作業をしていた生徒全員が手を止めて、『今のはなんだ?』と顔を見合す。
『ちょっと見てきます』と生徒会役員が出て行って3分ほど後、入れ替わるようにその知らせは届いた。


「碇君! 校舎裏でレイちゃんが!


聞き終わる前に、僕は部屋から飛び出していた。
その場は騒然としていて、すでに野次馬たちが何人も集まっていた。
僕は人をかきわけて、その中心へと入っていった。

異常な光景だった。

一階、二階、あたりの窓ガラスがすべてが粉々に砕け散っている。
砕けたガラスが降り積もって、一箇所だけ盛り上がり、その下に、血を流しながら倒れているレイがいた。


「レイ、レイ!」


降り積もったガラスを跳ね除けて、ガラスの破片で僕の手からも血が流れ出す。

どんなに大きな声で呼びかけても、目を瞑ったままピクリとも動かず、レイの意識は戻ってこない。

レイの顔は真っ青で、血の気がない。もう死んでいるのかと思えた。
足とか、手とか、額とか、今も体から血が流れ出していて、僕は上半身だけ抱き起こした。

レイの体から、ガラスの破片がパラパラと零れ落ち、無機質な音を立てる。

ピクリとも動かないレイに、僕は必死で呼びかける。


「…レイ、…起きて、…ねぇ起きてよ」


僕の瞳から涙が零れ落ちて、レイの額を流れていった。

レイの瞼が少し震えた。


そして、彼女の瞳からも、涙がひとつこぼれた。

僕の涙がレイの瞳に零れ落ちたのかと、一瞬目を疑ったのだけど、それは間違いなく彼女の涙だった。


僕の声が届いたのだろうか。

それとも、僕と出会う前の、悲しかったことでも思い出したのだろうか。



たったひとつの涙は、僕が始めて見た、彼女の感情だった。


僕の涙腺は、決壊した。



すぐに救急車が駆けつけ、手術室へと運ばれた。
手術自体はすぐに終わった。
ストレッチャーに乗せられて出てきた彼女は、顔から足の先まで全身を包帯とガーゼに包まれていた。

全身に傷があるけれど、幸い深い傷はひとつもないと言うことだった。
傷はひと月もすれば跡形もなく癒えるだろうと。

数日入院させてもらうことができ、個室へと運ばれた。

麻酔を打ってるわけでもないのに、レイはまだ目覚めようとしない。
安らかな寝顔は、このまま醒めないのではないかと、僕にそう錯覚させた。

部屋に置かれているパイプ椅子をベッド脇に寄せて座ると、僕はベッドにひじを付いて、そしてレイの手を両手で優しく包み込んだ。

そして冷静にこの出来事を考えてみようと試みる。

窓ガラスが割れたのは、レイの力に他ならないと僕は思っている。
一階だけじゃなく、レイがいた場所の上の2階の窓ガラスまで割れていた。
一度にあれだけの窓ガラスが粉々に割れる理由が、他に思い当たらない。

僕との約束を守って、学校では絶対に使わなかった力が、なにかのキッカケで暴発したのではないかと思う。
いじめられたことが原因なのかもしれない。あの場所に、洞木さんが知らせてくれたクラスメイトの女子が何人かいたのを見たし、傷の手当てのとき、打撲あとが数箇所あったと医者の先生は言ってた。
だけど、それが原因ならレイの力の矛先は、いじめていた相手に向かうはずだ。
自分の身を守るためだとすれば、力が自分に向かってくるはずがない。

なぜ力が暴走したのか、なぜレイの体めがけてガラスが降ってきたのか、たいした傷ではなかったのになぜ意識を失ったのか、僕には分かる由もなかった。


意識を失いながら、なぜレイが涙を流したのか、それすらも分からないのだから。


一番近くにいたのに、僕は彼女のことを何も知らない。

レイが頼れる人間は僕だけなのに、僕はレイが頼りたいと思えるような人間ではないのかもしれない。

それが悔しい。

分かっていて何もできなかった自分が頼られるわけないのは仕方のないことだけれど、でも僕は悔しかった。


思わず、手を思いっきり握り締めてしまった。


そして眠りから目が覚め、ゆっくりと赤い瞳が開いた。


彼女の視界に入るように、僕は少しだけ身を乗り出した。
僕の顔を見て、2,3回まばたきをする。
相変わらず無表情のその顔は、眠りを妨げられた不快感を表すこともなく、知った顔が突然ドアップで目の前に現れたことに対する驚きを表すでもなく、全身にできてしまった痛々しい傷に対する苦痛を表すわけでもなく、なにごともなかったようにピクリとも動かない。


「ごめん、起こしちゃって」

「…………。」


僕の言うことを聞いてるのか聞いてないのか、表情からはうかがい知れないけれど、彼女は僕の手に繋がれた右の腕をゆっくりと持ち上げた。
握っていた手を離すと、彼女は手を広げて目の前にかざす。

ガーゼと包帯で覆われたそれは、とても痛々しく思える。


「校舎裏で倒れたんだ。ガラスの破片で体中傷だらけだよ」

「……そう…」


相変わらず右腕を見つめたまま、レイはつぶやいた。
全身傷だらけになったことに、何かを感じた様子はなかった。


「なにがあったの?」

「…………。」


僕の問いかけに、視線を右腕から僕の方に移動させる。
答えることもなく、レイは目を閉じると再び眠り始めた。

きっと、ことの真相が僕に分かる日は来ないのだろうと、眠るレイを見ながら思う。

この時の僕は、レイと僕の間には、越えることのできない壁があることを、痛いくらい感じていた。
僕がどんなにレイのことを思っても、彼女にとって僕は取るに足らない存在であること。

淋しいのと、悲しいのと、悔しいのと、いろいろな想いが溢れ出しそうだった。

もっと僕のことを見て欲しかった。


「あ、母さん? 今病院にいるんだけど、レイが怪我しちゃって……、…怪我自体はたいしたことないみたいなんだけど、全身包帯だらけでミイラみたいだよ、……一週間くらいは入院させてもらえるって、…うん、分かったよ。大丈夫だよ、僕がついてるから心配しないで、…、うん、これから必要なものとか取りに帰って、今日は一晩中付いてることにするよ、……うん、…僕? 僕は元気だよ、…うん、…じゃ、仕事頑張ってって、父さんにも伝えておいてよ」


こんなときくらい、仕事を中断するとかできないのかな。

そう思いながら、僕は誰もいない家へと戻っていった。


「あれ? アスカ」


玄関のところに、アスカが座っていた。
傍らには見慣れた僕の鞄とレイの鞄が置かれている。


「遅かったわね。ほら、あんたと女の荷物」

「ありがとう、随分待ったよね」


僕が帰ってくるのをどのくらい待ってたのか気になるけど、アスカはそんなことをおくびにも出さなかった。


「あいつ、大丈夫なの?」

「うん、全身に傷がついたから包帯でぐるぐる巻きにされてるけど、一つ一つの傷は軽いものだから。念のために、一週間くらいは入院させてもらえるって」

「…そ、…よかったじゃない」


アスカは少し複雑そうな表情で微笑んだ。
アスカと二人きりで話すのは、久しぶりだった。
久しぶりに二人で話す会話は、少しぎこちなさを感じるような気がする。

今思えば、アスカはこの頃にはすでに気がついていたのかもしれない。

家族だからという言葉とは裏腹に、レイに向けられる僕の想いが、すでにそれを越えていることに。
気付いてなかったのは、僕自身だけだったのかもしれない。


「うん、…立ち話もなんだし、中に入る?」

「いいわ、また病院に戻るんでしょ?」

「まあそうなんだけど、……じゃあさ、家まで送っていくから、中でちょっと待っててよ。すぐ準備するから」


レイの着替えを何着か袋に詰め込み、明日の授業の準備と、着替えの制服を用意すると、僕はアスカを家まで送っていった。
二人で歩きながら、救急車で運ばれていった後のことを話した。


「あの後、あんたの話で持ちきりだったわよ。いつも冷静沈着な碇シンジが取り乱したって」


冷静沈着…、いつからこんな自分を学校で演じるようになったのかは覚えていない。
両親に誉められたいために一生懸命勉強して、いつの間にか人から優等生扱いされるようになったんだ。

だから、他者が思う僕と、自分の思う僕では、随分と温度差が生じている。
でもそれは、自分だけではなく、他の人だって多かれ少なかれそうであることを僕は知ってる。

他でもない、今僕の隣を歩いているアスカだってそうだ。


「……はは、アスカは別に驚かないだろ?」


僕の問いに、アスカは『まあね』と少し笑った。


「レイって愛想なんて全くないけどさ、大切な家族なんだよ。僕にとっては」


笑顔が消えたのが分かった。


「シンジ」


急に、アスカが立ち止まった。
僕は振り返る。


「あたし、あんたのことが好きよ」

「…え……」


アスカの言う『好き』が、これまでのものとは違うことは雰囲気で分かった。

今までちっとも気がつかなかった僕は、鈍感なのだろうか。
それとも、アスカの隠し方が上手かったのだろうか。

僕らは心許せる幼馴染だったはずで、僕はその関係が別のものに変わるなんて、考えたことがなかった。

『どうせ気がついてなかったんでしょ』とアスカは冗談っぽく笑うけれど、僕は笑い返すことはできなかった。

心臓が張り裂けそうなほど、バクバクと伸縮を繰り返す。
ただ単に告白されたことに対するドキドキか、それとも、僕もアスカが好きだからドキドキするのか、自分でもよく分からない。
もちろんアスカのことは好きだけれど、今まで異性として意識することはほとんどなかったのに。


「ここで良いわ、…返事考えといてよ、バカシンジ」


僕の手から自分の鞄を奪うと、アスカはスカートを翻して駆けていった。
僕は、その姿を呆然と見送った。

今まで何度か、同級生とか下級生に告白されたことがある。
僕なりに一人一人真剣に考えて、そして全部断った。

でも彼女たちと、アスカでは、重みが全然違う。


頭も心臓も、おかしくなりそうだった。





病室の中に入ると、まだレイは眠っていて、スースーと柔らかな寝息を立てていた。

個室の中は冷蔵庫、テレビ、ソファー、窓ガラスを覆うカーテンは薄いブルーで上品なものが使われている。
きっと病院の部屋のなかでも良い部類の部屋を用意してくれたのだろう。

部屋の隅に置いてある椅子をベッドのそばまで持ってくると、僕はそれに座った。
起こさないようにそっと手を取ると、僕の両手で包んだ。



レイが目覚めたのは翌日のことで、手を取ったまま、ベッドに上半身を預けるように、僕は眠っていた。


結局、レイはひとつの学校行事も体験することなく、学校に通わなくなった。


僕の予想は、最悪の形で的中した。






Y.男の約束



日曜日、僕は少し遅めに目を覚ました。
一階の洗面所に行こうとすると、母さんがリビングで掃除機の音を響かせている。
家でこういう光景が見られるのは、何週間ぶりかのことのような気がする。


「おはよう母さん、今日は休み?」

「ええ、たまには母親らしく家事しなくちゃね」


と言葉を交わしながら、僕はコップに牛乳を一杯注ぐと、ゴクゴクと飲み干した。


「レイは? まだ起きて来てない?」
「ええ、さっき見てきたら、よく眠ってたわ」

「そっか、寝ぼすけだなぁ」


自然と顔の筋肉が綻んでいく。
レイの存在は、僕の心の中に家族としてすっかり受け入れられている。

母さんと同じように、部屋に行って寝顔を見たいような衝動に駆られるのを一歩手前で抑えて、僕はオーブントースターの中に食パンを一枚セットした。


「レイちゃんの様子、どう?」

「ここに来た頃とあまり変わってないと思うよ。僕が学校にいる間はどうしてるのか分からないから、少し心配だよ。ちゃんと昼御飯食べてるかなとか」


そう言うと、『きっと、何もしてないんでしょうね』と母さんはポツリとつぶやいた。
仕事にかまけてるように見えて、ちゃんと僕たちのことも考えてくれているのかなと、少し安心した。


「ねえシンジ、あなたはレイちゃんのことが好き?」
「ぶっ、突然なんでそんなこと聞くんだよ」

「だから、好きかどうかを尋ねてるの」
「……嫌いだったら、とっくの昔に音を上げてるよ」

「一緒に住んでれば分かると思うけど、あの子普通と違うでしょう?」


なにを基準に普通かどうかを決めたらいいのかは分からないけど、レイは僕の考える常識からはかけ離れている。
必要以上に言葉が少ないことも、髪の毛や瞳の色も、不思議な力を持っていることも、…すべてが他の人と違う。
だから母さんの同意を求める問いに、『うん』とためらいもなく答えた。


「レイちゃんってね、家に来る前は少し特殊なところにいたから」


『特殊なところって?』と聞き返す僕に、母さんは『そのうち分かるわ』と言葉を濁す。
母さんは、レイの何を知っているんだろう。
なぜ僕の家でレイを引き取らなければならなかったのか、レイに意思がない理由とか、あの力の正体はなんなのかとか、……母さんも父さんも全部知ってるのだろうか。

知らないのは、僕だけなんだろうか。
レイと暮らし始めて一ヶ月以上たつと言うのに、僕にはまだなにも教えてくれない。

教えてと言っても、教えてくれるような雰囲気ではないことも僕にはよく分かっていて、それが歯がゆかった。


「シンジには本当に申し訳ないと思ってるのよ、…でも、優しくしてあげてちょうだい」


そんなこと、母さんに言われるまでもなかった。


「うん、レイは妹みたいで可愛いし。大切にするよ」


僕がそう言うと、母さんは安心したように微笑んだ。


「……話は変わるけど、今日はあの人も帰ってくるから、久しぶりに家族団らんしましょ、シンジ。今日は夕飯も母さんが作るから」

「あ、うん。分かった、……じゃあ、レイが起きたらその辺散歩にでも出てくるよ」


洗濯物も干さなくていいし、朝ごはんも作らなくて良いし、久しぶりにゆっくり過ごすことができた。
朝10時ごろ、ようやくレイが目をこすりながらリビングにやってくる。


「おはようレイちゃん、顔洗ってらっしゃい」

「…………。」


寝ぼけた顔で母さんを見た後、そばにいた僕にも目を向ける。


「おはよう、レイ」


何も言わずに身を翻すと、のろのろとした足取りで洗面所に消えていった。
後ろ頭の寝癖が今日は一段と激しく、それもまた微笑ましく思う。
そして、レイが見せる、数少ない人間らしさ。

軽めの朝食を終えたレイを散歩に誘うと、彼女は僕に付いてくる。
退院して数日、ところどころに残る傷の手当ての跡と、体のあちこちにある'かさぶた'があの日の痛ましさを思い起こさせる。
隣で歩くレイの横顔を見ながら、一体何を考えながら生きてるんだろうと、考えても答えの出ないことを思う。


「傷はどう? まだ痛む?」
「………。」


返事はない。


「ね、校舎裏でなにがあったの?」
「…………。」


何度か聞いたことのある問い、返事は一度ももらったことがない。


「…僕は、レイのこともっと知りたいよ」
「…………。」

「一緒にいるのに、僕はレイのことなにも知らない。でも、父さんと母さんは僕の知らないことたくさん知ってる。…なんか、寂しいじゃないか。僕だけのけ者みたいで」
「……よく、分からない…」


僕の気持ちに対して返ってきた言葉は、レイの決まり文句だった。
返事を期待してたわけじゃないけれど、僕の気持ちは少し沈む。


その横顔は、僕が入り込む隙を与えない。
この距離感は、一体いつになれば縮まってくれるのだろう。


それともこの先ずっと、これが続くのだろうか。
そう思うだけで、胸が締め付けられるようだった。


その夜の夕食は、久しぶりに家族全員が揃った。


「父さん、仕事は順調?」
「まあまあだ」

「たまには家族で出かけるとか、……」


言い出して後悔した。


「……できないよね。ごめん」

「…シンジ」

「なに? 父さん」

「お前が持っておけ」


父さんに渡された一枚の小さな封筒。
中を開いてみると、一枚のディスクと、どこの部屋なのかよく分からない鍵だった。


「なに、これ」

「持っていれば良い。それを持ってれば、いずれお前の欲しいものが手に入るかもしれん。誰にも渡すんじゃないぞ、分かったな」

「あ、…うん」


なんなんだろう、突然。
どういう意味があるのかもっと聞きたかったけど、父さんと僕の会話はそれだけで終わった。

母さんの顔を見てみると、『困った人ね』といってるみたいな顔で父さんを見てる。

そして、父さんは、今度はレイの方をじっとみていた。


「レイ、大丈夫か」

「………。」


父さんの問いに、レイは何も答えない。


「…そうか」


レイの表情から、なにかを読み取ったのだろうか、再び僕に顔を向ける。


「シンジ、頼むぞ」


何を頼まれたのかは、すぐに分かった。
僕よりもレイのことを心配する父さんに、少し嫉妬めいたものを覚えるけれど、でも、一人の男として認めてもらえたようで、少しだけ嬉しかった。


「分かってるよ、父さん」


男同士の約束って、こういうものなのかな。

レイのことで少し弱気になっていたところを、父さんの一言で救われたような気がする。

もう少し頑張ってみようと、僕は思った。




Z.感謝の言葉



それから文化祭も無事終わり、さらに数週間たったある土曜日、レイが家に引き取られてから初めて、家に友達がやってきた。
ケンスケ、トウジ、洞木さん、アスカの四人だ。

結局学校にも行かなくなったわけで、だからと言って、休日にいつも僕と二人では淋しすぎる。
だから、友達を家に呼んだのだ。

ケンスケは、ミリタリーおたくで、カメラ好きの変な奴だ。
一度、自分はカッコイイつもりで迷彩服を着て学校に登校してきて、女子に不評を買ったことがある。
そして、可愛い女子の写真を撮って売りさばいている。これも女子に不評だ。
それでも挫けない男、それがケンスケ。

トウジも少し変わっている。
『男はジャージや!』と言っては、毎日ジャージで登校してくる。
最初の頃は浮いてたジャージ姿だけど、今となってはトウジが学生服を着ている方が目立ってしょうがない。


「こっちの眼鏡をかけたのがケンスケ、こっちのジャージの人がトウジだよ。数少ない僕の友達なんだ、顔くらいは覚えてるかな」


と話しかけても、レイの表情は動くことがない。


「鈴原トウジや、久しぶりやな」
「相田ケンスケ、よろしくな」


と手を差し伸べる二人だけれど、


「……………。」


握手に答える気はないようだ。
もっとも、握手なんて知らないのだろうけど。


「ごめん、相変わらず人見知りが激しくて。…僕に対してもこんな感じだから、あまり気にしないで」

「おう」
「分かってるよ」

「みんな、適当に座ってよ。なに飲む? えっと、コーラ、オレンジ、…コーヒーに、紅茶ってとこかな」


僕はみんなにソファーに座るように促すと、冷蔵庫を開けた。
それぞれ、コーラ、ミルクティーと飲みたいものを言ってくれ、『オッケー、レイは紅茶で良いよね』と告げたあと、食器棚からコップを取り出していそいそと用意をした。


「えっと、トウジとケンスケはコーラだよね」
「おう、悪いな」「サンキュ、シンジ」

「アスカはミルクティ」
「悪いわね」

「洞木さんは、オレンジで良かったかな」
「ありがとう」

「はい、レイは紅茶」


それぞれの注文どおりに、僕はテーブルに飲み物を置いていった。
みんなから『ありがとう』といった言葉は返ってくるけれど、レイの口からその言葉が聞けることに全く期待はしてなかった。

今まで一度もレイが口にしたことのない言葉だったからだ。

でもこの日は違った。
皆が"サンキュ"とか"ありがとう"と言ったことに対して、なにか感じるものがあったのだろうか、しばらくの'ため'の後、レイはその言葉をはじめて口にした。


「……あり…がとう」


たった5文字の言葉なのに、言い難そうで、とぎれとぎれだった。
僕は驚き、そして自然と顔がほころんでいた。


「……うん……、砂糖は?…」

「…ひとつ」

「オッケー」


彼女の口から出たものでなければ、こんなに胸が温かくなることはないだろう。
今日一日は、その一言を思い出すだけで幸せな気分に浸れそうだった。

僕はレイの隣に腰を下ろすと、自分のカップとレイのカップに一つずつ角砂糖を落として軽く混ぜ、それを口に運んだ。


「なんや、…おまえら、新婚夫婦みたいやな」


トウジの口からおもむろに吐き出された言葉に、僕は口に含んだ紅茶を『ぶっ!』と吹き出してしまう。


「な、なに言い出すんだよ」
「お前、一緒に暮らしてるからって子供はダメだぞ、まだ中学生なんだからな」


ケンスケまで、なにを言い出すんだ。
なにもやましいことはないのに、全身から汗が噴出しそうだった。


「そ、そんな関係じゃないよ、僕たちは家族なんだから」
「だから、夫婦だろ? まさか、そのお腹の中にもういるんじゃないだろうな」

「こ、子供なんていないよ!」


本気で言ってるわけじゃないのは分かるのだけど、ムキになって言い返す。
滅多にない僕の取り乱しっぷりに、トウジとケンスケはおもしろがり、洞木さんとアスカはあきれた顔で、そしてレイは黙って僕らのやり取りを聞いていた。

そして話が小康状態になったころ、問われてもいないのにレイが話し始めたのだ。


「……子供……。男と女がいたらできるもの…。女のおなかにできるもの……」


ポツポツと確かめるような口調でレイはつぶやいた。
まさかこの年にもなって、子供のでき方を知らない人なんていないとは思うけれど、そうつぶやくレイの姿は少し切ない感じがした。


「? どう思ってたの?」


僕の顔を見上げると、何かを言いたそうに口を開きかけた。
でもそれは、洞木さんの言葉によって遮られてしまった。


「コウノトリが運んでくると思ってたとか? 私も小学校の頃はそう思ってたの」

「いや、きっとキャベツ畑だな」


結局、レイが何を言いたかったのか分からぬまま、話題は次へと移っていった。

取るに足らないことと、僕も忘れていた。





「レイも行こうよ。いつも家にいてばかりだから、たまには外に出よう」


家にいてもすることがないからと、みんなでボーリングに行くことになった。
緊張したのは久しぶりだった。

まず玉は一番軽いのを選んで、玉の転がし方を教えた。
無表情のレイが、玉を手にぶら下げているというような構えで、レーンに立った。

残りの5人が、それぞれにつばを飲み込む。

そして、ゆっくりと玉を転がした。
それはコロコロとゆっくりとピンに向かって転がっていき、レーンの半分くらいまで転がったところで曲がり始めた。
誰もがガーターだと疑わなかった。

ボーリング初体験なんて、こんなものだ。

だがそのとき、玉が再びレーンの中央に戻り、まっすぐ進み、コン、コン、コン、と小さな音を立てながらピンを一本ずつ倒していったのだ。

場内を流れる有線放送の音と、他のレーンのピンが倒れる音、他のお客さんの喜ぶ声、ガッカリする声。
いつもはやかましいほど五月蝿く聞こえるすべての音が、遠くに聞こえるようだった。

僕には何が起こったか分かった。

『要するに、玉を転がしてピンを全部倒せばいいんだよ』と、僕の言葉どおり、彼女は玉を転がして、ピンを全部倒したのだ。

自分の力を使って。


「す、すげぇ、あんな曲がり方、はじめて見たぜ」


幸い誰も疑わなかったようだけど、僕は変な汗をかいた。
初体験でストライクを出したにもかかわらず、彼女は相変わらず無表情だった。

当たり前だ。
これで楽しいわけがない。

僕は彼女の力が皆にバレてはいけないと、レイとお菓子を買ってくるふりをして、耳打ちをした。
「ボーリングはまた今度しよう」と。

その後は、怪我をした腕が痛むというもっともらしい理由をつけて、レイは見学ということにした。

ボーリングを、素直に楽しむことはできなかった。

無表情に座っているレイのこと。
また、僕は自分の人形のように扱ってしまったこと。
自分の考えで、レイの行動を制限してしまっていること。

そして彼女は僕の言うことを無条件に受け入れている。

こんなことで、良いわけがないんだ。





ボーリングをして、その後ゲームセンターで遊んで、それで僕らは家路についた。
アスカが僕に話があるとかで、僕とアスカとレイと、3人で家に帰った。

3人で歩いていても、アスカの話がどんな話なのかは予想が付いてて、だから何も言えなかった。
アスカも何もしゃべらない。
レイがしゃべるわけもない。
重苦しい空気を漂わせたまま、家の中に入った。
『レイ、ちょっと向こうに行っててくれる?』と言うと、レイは黙って僕の言うことに従う。

二人っきりの空間に、静かで重たい空気が流れ、そしてしばらくの後、アスカは重々しく口を開いた。


「なんなのよ、あの女」

「あの女って、誰のこと?」

「あのレイって女よ、あんた、学校以外はずっとあの女と一緒なわけ?」

「…うん、まあ、そうなるかな」

「なんでよ」

「なんでって言われても、一緒に住んでるんだから、一緒にいるのは当たり前じゃないか」

「あたしの誘いを断っても、一緒にいたい相手ってわけ?」

「……それは…」


確かに、僕は逃げていた。
アスカを避けていたことは事実だし、アスカの想いに答えられない自分がいることも事実だった。

それをどう伝えていいのか分からなくて、後回しにしていたんだ。


「シンジのこと好きだって言ったこと、忘れてないでしょうね」

「…憶えてる」

「考えておいてって言ったわよね」

「……うん。…でも、レイのことでなにか言いたいなら、お門違いだよ。レイのことは女として意識してるわけじゃない、アスカは勘違いしてるよ。……だから、……」

「だったら、今返事を頂戴」

「……ごめん、アスカのことは好きだよ。だけど、今の僕にはアスカをそういう対象として見ることはできない」


もし、レイがいなかったら返事はどうだったのか、もしかしたら僕たち二人は幼馴染じゃなくて、恋人になっていたのかもしれない。
でも、今はアスカよりも、レイの方が僕の心の中の大部分をしめている。
レイを放っておいて恋人と仲良くするなんてこと、僕にはできない。
そのことを、否定はできなかった。

アスカがレイのことを気にしていること、お門違いとは言えないのかもしれない。


「本当のこと言いなさいよ、今はあの女のほうが大切だって」

「…ごめん」


なにも言うことができない。
ただただ、僕は謝るしかなかった。


「あんたは昔からそう! 人のことばっかり考えて、自分のことを考えてない。あんた、あの両親を恨んだことないの? 小さい頃からこの家にいつも一人だったじゃない。いつも仕事仕事でほったらかしにされて、遊ぶ相手もいなくて、…いい成績を取れば両親の気を引けるかもしれないって、いつも優等生で、…迷惑かけないようにって、全部一人でできるようになっちゃって、…それで、今度はなに!? 理由も説明されないで、あんなわけの分からない気味の悪い女を押し付けられて、今度は父親代わりにでもなって、親の期待に答えようとか思ってるわけ? あんたそんなんでいいの!?」

「……アスカ…」


幼馴染だから分かる、僕のこと。
アスカの言葉は、痛烈に僕の心に響いた。


「あんな女、ほっときなさいよ」

「……………。」


「シンジのことを一番理解してるのはアタシよ。あんたのことを一番好きなのもアタシなんだから」


少し震えている声が、痛いほど僕の心臓に響いた。


「…ごめん、でもほっとけないんだ」


バシッ!

左頬に、強烈な痛みが走る。


「…ごめん、アスカ」


何も言わずに、アスカは帰っていき、僕はその背中を見送ることもできずうつむいていた。

一番大切な幼馴染を、これでなくした。
きっと、僕とアスカの関係は、修復はできないだろう。
できても、時間がかかるだろうと思う。

僕を一番理解してくれていた、10年以上も一緒に過ごした幼馴染よりも、まだ知り合ってひと月半ほどのレイを選んだ僕は馬鹿なのだろうかと、自問自答する。
でも、レイを放っておけないという自分の気持ち、今はレイのことしか考えられない、…この気持ちに嘘はない。

レイには僕しかいないんだから。


僕にもきっと……。


(そう言えば、レイ、どこに行ったのかな…)


そう思い、僕はレイの部屋の前まで行ってノックをした。返事がないからドアをあけてみると、そこにはいない。
お風呂とか、キッチンとか、思い当たるところを探してみるけど、どこにもいなくて、外にでも出たのだろうかと、名前を呼びながら庭に出てみた。

でも、庭にもいない。
もう一度家の中を探してみようと身を翻したその時、僕の頭上の方に人影が見えた。

探していたその人は、屋根の上に座っていた。


「レイ、危ないから降りておいでよ」


一体、どうやって登ったんだ?
彼女は、飛ぶことまでできるって言うのだろうか。

僕の呼びかけに、レイは答えることはなかった。
レイの意志で、僕の呼びかけに答えなかった。


「じゃあ、僕がそこに行くよ」


僕は物置にある梯子を取り出すと壁に立てかけ、屋根によじ登った。


「アスカ、今帰ったよ」


僕の言葉に、『…そう』と一言だけつぶやく。


「なんだか人間って難しいね。いろんな感情が混ざり合って、なにも分からなくなってくる。本当に難しいよ」

「…よく、分からない」


頭上に輝く三日月を見上げながら、レイは言った。


「……僕も誰かに心が曝け出せたら、もう少し楽に生きられるのかな。…ね、どう思う?」


それは、レイからなにかしらの答えを期待してるわけではなくて、自分に向けられたもの。
いつも強がって大人ぶって背伸びをしている僕が、弱い部分を見せられる人、そんな人がそばにいてくれたら良いのにと思う。

今僕の隣に座っている人がそうであったら良いけれど、レイは僕にとってはそういう相手ではない。
レイは、僕が守らなければいけない人だから。


「レイはこの家に来る前はどんなところにいたの?」

「……………。」

「レイがどんな生活してたのかよく分からないけどさ、…僕もレイも、損な生き方してるよね。そんな気がするよ」


レイは僕よりも辛いんだ。
僕には家族がいるし、友達だっている。

でもレイにはお父さんもお母さんも、血の繋がった人間が一人もいない。
僕がいなければ、一人ぼっちになってしまう。

僕がレイの支えになってあげないといけない、…父さん母さんともそう約束した。
弱気になっちゃいけない、僕は、もっとしっかりしなくちゃ。


「……"好き"、とは、なに?」

「え?」

「…………。」

「…もしかして、さっきの話、聞いてたの?」

「…………。」


レイからこんな質問をされるとは、思ってもみなかった。
『好き』ってなんなんだろう。

嗜好ではなくて、人に対する好きってどういうことなのかな。


「…言葉では上手く説明できないよ。きっとレイにも分かる日がくるから、大丈夫だよ」


手のひらで、レイの頭を僕の肩に寄せた。


「……シンジ」

「なに?」


「…ありがとう」



彼女がどういう想いを込めてこの言葉を口にしたのかは分からない。

だけどそれは、僕の心にあたたかく沁み込んでいった。

僕も、自然に口からこぼれ出た。


「僕の方こそ、ありがとう」


この日からだった、少しずつ、レイの様子がおかしくなっていったのは。






[.さざ波





ある日僕が学校から帰って来ると、庭でレイが倒れていた。

それが始まりだった。



「どうしたの!? レイ、レイ!!」

「………」


何度か呼びかけると、ゆっくりと目を覚ます。


「脅かさないでよ、死んでるのかと思ったじゃないか」




そして数日後、


返ってくると庭の木の枝が数本折れていた。
その一本がレイの腕に刺さっており、血が流れ出しているのだから驚く。


「レイ、なにやってるんだよ!」

「………。」


救急箱を取り出して、ハンカチで止血をし、包帯をぐるぐると腕に巻きつける。

それ以後、食器棚のガラスが割れていたり、コップが割れていたり、庭の木が倒れていたり、…そしてそれらはことごとく、レイの体を傷つけていた。

レイの力が暴走していた、そしてそれが全部レイ自身に向かっている。
放っておけば、レイ自身の命も奪われかねない状況だった。


原因も何も分からない僕は、自分だけではどうしようもなくて、母さんに相談した。


「……力が抑えきれないみたいなんだ、…ねえ母さん、僕にはどうすることもできないよ。母さんはレイのことよく知ってるんでしょう? なんとかしてあげてよ」


母さんは、『シンジ、少し冷静に考えてみなさい』と、穏やかな口調で僕をさとすように言う。


「…レイちゃん、どういう気持ちなのかしら。…よく考えてみなさい、シンジ。あなたが一番そばにいるんだから」
「分からないんだ、僕には何も言ってくれない、なにを考えてるのかも分からないのに」

「力を使ってるのはレイちゃんでしょう? 力が暴走してるわけじゃないわ。あの子はそんなに弱い子じゃない。なのに力がレイちゃん自身に向かってしまうのは何故?…分かることは一つ。そうじゃない?」
「…わざと自分に向けてる、…」


そうだ、校舎裏でガラスの下敷きになっていたときも、木の枝がレイに突き刺さったことも、…レイが自分で自分を傷つけたんだ。

自分が嫌い、死にたい、……もしかして、そういうことなのか。


「……そうだね、ありがとう。母さん」



僕はレイを探した。

レイに一歩近づけたような気がした。

レイは、屋根の上に座っていた。


「またここにいた」


レイがここにいることが増えて、屋根にかけられた梯子は、ずっとその場所に置かれている。
僕はよじ登ると、レイの隣に腰掛けた。


「…………。」

「僕さ、レイが家に来てくれて本当に良かったと思ってるんだ。精神的に随分助けられてるって思うし、家に帰るの楽しみになってきたしさ。…だからってわけじゃないんだけど、もっと僕を頼ってくれないかな。そりゃ、僕ってまだ子供だし、頼りないかもしれないけど、…でも、レイの力になりたいんだ」


返事は返ってこなかった。


「……シンジ…」

「ん?」

「…帰ってくる?」


抑揚のない言葉だけれど、その言葉に、レイの感情が込められているような気がした。


「……毎日、帰ってくる?」


レイの気持ちが分かったような気がした。
いつも母さんと父さんの帰りを待っていた、幼い頃の僕の気持ちによく似ていた。


「当たり前だよ、僕の帰る場所はここしかないんだから。…どこにも行ったりしないよ」

「……………。」



表情からは分からないけれど、レイも苦しんでいる。

でも僕は嬉しかった。
少しだけだけど、レイのことが分かったから。



「レイ、もし僕が必要になったら、雪を降らそう」

「……ゆき?」

「うん、雪が降れば僕はすぐ気がつくことができる。レイが呼んでるって」

「…………」

「淋しいときとか、つらいときとか、雪を降らすんだ。僕とレイだけしか知らない、二人だけの合図だよ」



僕がそう言うと、空からしんしんと雪が降り始めた。

それがレイからの返事。

月明かりに照らされる雪は、僕の隣に座る少女の髪の毛と同じ色に輝き、世界を作り出した。
僕は着ていた薄めのパーカーを脱ぐと、レイの頭と僕の頭にかぶせた。


『なにやってるの、二人とも危ないから降りてらっしゃい』と、下から母さんの声がかかるまで、僕らは時間を忘れてその場に身を寄せ合っていた。



この日、僕が感じていたレイとの距離を少し縮めることができた気がする。

なんの解決にもなっていないかもしれないけれど、少しでもレイに近づけたこと、そして、レイも僕に歩み寄ってくれたことが、僕に自信を与えてくれた。





それから数ヶ月、家の中のものが壊れたり、木が倒れたり、…雪が降ることもなかった。

レイが学校に行くことはなかった。
学校に楽しみも見出せない、本人が行きたいとも言わない。

僕はどちらがいいのかはよく分からなかった。
僕が決めてはいけないと思ったし、彼女がなにか言うのを待っていた。

それもあった。








\.すべてがなくなる日



冬休みが過ぎ、3学期、…そして、僕は中学3年生に進級した。


レイの僕に対する言葉数は、この期間さほど変わることはなかった。
「ありがとう」「おかえりなさい」「おはよう」「おやすみなさい」、といった言葉が増えたぶんだけ口数は増えたのだけど、それでも単語的だし、言葉で意思表示をすることもなく、相変わらず僕たちの間に会話らしい会話が成立することはなかった。
表情もほとんど読み取ることができなくて、なにを考えてるのか掴めないことも相変わらず。

でもそのぶんだけ、少しずつ態度に表れてきたように思う。

僕が家に帰ってくるのが分かると、玄関まで出てくることも増えるようになった。
ソファーに座ってうたた寝をしてるとき、いつの間にか隣に座り、僕にもたれ掛かるようにして眠ってることもある。

表情も言葉もほとんどないけど、僕を頼りにしてくれてることは、態度で感じることができた。

休みの日には一緒に出かけたり、家の中でなにをするわけでもなくぼーっと過ごしたり、年末年始は家族揃って過ごすこともできた。

家が僕の安らぎの場所となり、レイの世話をあれこれと焼くことが僕の存在意義であると思うくらいだった。


レイに対する僕の気持ちが、家族とは別のものであることを自覚したことも、さほど時間はかからなかった。


その気持ちは、僕を一層幸せにしてくれた。










そんな平和な日々を過ごしていたのが嘘だったかのように、ある日突然悲劇が起こったんだ。

あれは、午後の授業を受けている頃だった。
5月、半袖で過ごしてても汗が流れてくる季節。

セミが、みんみんと鳴り響き。

鋭い太陽の光に熱せられたアスファルト、アスファルトから立ち上るもやもやとした空気。

外はそんな天気で、僕はエアコンの効いた教室の中で退屈な授業を聞いていた。
そんな時だ、窓際に座っていた生徒が立ち上がったのは。


「ねぇあれ! 雪じゃない!?」

「ほんとだ、雪が降ってる」



雪?

どうして雪が……。



「先生! 早退します!!」



先生の制止も聞かず、僕は家まで走った。

外はものすごい雪だ。

それも僕の体に降る頃には、雨に変わる。


僕の体に降ってくる水滴が、とても冷たい。


レイが呼んでる。


僕を呼んでる。




家までの距離が、いつもの何倍にも感じた。



「レイ!」



玄関の扉を開けると、飾っていた花瓶、観葉植物が倒れ、水と土が散乱している。

ところどころに、どす黒い血のような跡が見える。



「な、なんだよ、なにがあったんだよ」



僕は、恐る恐る中へと進んだ。

進むにつれ、自分の体が異常なほど震えていることに気がつく。

そこにあったいろいろなものが散乱して、単なる空き巣ではないことは、僕にでもすぐ分かった。


中に入ったリビングで、血の塊を見つけた。

淡いブルーのはずだった絨毯が、真っ赤に染まっている。



「か、母さん! 母さん!! かあさん!! どうしたの!? 母さん!」


目を開いたまま、母さんは息絶えていた。
母さんの体を支える僕の手が、真っ赤に染まる。

僕の両手が、大きくぶるぶると振るえ、僕の目は瞬きを忘れ、得体の知れない恐怖感と嫌な予感に襲われる。


「……し、しん…じ」


すぐそばから、声が聞こえた。


「父さん? 父さん!! 父さん、いったい何があったの、父さん!」


父さんの体を抱き起こす。
ぬるっとした感触がし、父さんからも大量の血液が流れ出ていた。


「……す…まん、…」

「父さん! しっかりしてよ、父さん!」


尋常でないほど取り乱す僕の手を握り、父さんは苦しそうに言葉を残す。


「……よく聞け、シンジ。…レ、レイ、…を、…しあわ…せに、…してやれ。……ゲホッ、ゲホッ」

「もういいよ! 父さん!! しゃべらないで、すぐ救急車呼ぶから!」


すぐに電話しようと、立ち上がろうとする僕を、父さんの手が止める。


「…ユイと、しなせてくれ……、最後まで父親らしいこともできなかった、……すまなかったな」


父さんの目から一筋涙が流れ、そして父さんも……。


「父さん!!…とうさん……、レイは? レイ! レイ!! どこにいるの!? 返事をしてよ!」



血の塊が、そこにあった。



「……あ………」



言葉なんか、出なかった。
涙も、出なかった。

学校の校舎裏でガラスの下敷きにされてたあのときとは違うことが、一目見て分かった。




僕の体は、その場で崩れ落ちた。


つい数時間前まで感じていた幸せは、僕の手の平からぱらぱらと一粒残らず零れ落ち、跡形もなく消えた。



一瞬で、なにもかもなくなった。



……僕を呼ぶために力なんて使わないで、自分を守るために力を使えばよかったんだ。











犯人はほどなくして捕まった。

後で分かったことだけど、犯人はレイの出生に大きく関与している人物だと言うことだった。


後の裁判で、極刑となった。




あの日から、雪が絶え間なく降り続けている。

世間は、この異常気象に大興奮している。



僕たち二人にしか分からない、雪の合図。


降り積もることはないけれど、真っ白な雪の世界。



彼女の魂が、死んだ今も雪を降らせている。


でも、どこに行ってあげたらいいのか、僕には分からなかった。

どこで助けを求めているのか、どこで僕を呼んでいるのか、僕にはなにひとつ分からなかった。



魂がどこかでさまよってるなら、せめてそれを僕のものにしたい。




魂にすら逢うことを、神様は許してはくれなかった。




雪は、僕の涙とともに雨に変わり、



渇いても渇いても、



尽きることがなかった。











].結末



「それで、その人はどうなったの?」


息子の瞳からは涙が流れている。
いつかは話す機会があるだろうと思ってた僕の体験談、まだ幼い息子には少し重たい話だったかもしれない。

ベッドの中で、頭だけを覗かせる息子の頭を優しく撫でた。


「もちろん、幸せになったよ」


僕の言葉に、息子は救われたような表情をする。


「どうしてパパは、そんなに詳しくしってるの?」

「それはね、…パパが体験したことだから」

「もしかして、その話で生き残った中学生って、パパなの?」

「うん、そうだよ」

「パパ、その人のこと愛してたの?」

「うん、とっても」

「………じゃあ、ママのことは?」

「もちろん、大好きだよ」


(あれ?)


「……見てごらん、窓の外」

「どうしたの?……あ、パパ、もしかして…」

「うん、雪が降ってるね」


窓の外に、世界が広がる。
地面に落ちるところで雨に変わってしまうそれは、あの頃僕が見たものとひとつも変わることがない。

彼女は自分のことが嫌いで、だからもう何年もこの光景を見ることができなかった。

それなのになぜ、今雪が降ってるんだろう。


僕を呼んでるんだろうか。



「…綺麗だね、パパ」


「ママが呼んでるみたいだから、もう下に行くよ。お前も、早く寝ないとサンタクロースが来てくれないぞ」

「え?…でもパパ」


「ママは魔法で生き返ったんだよ。パパがもう一度会いたいって神様にお願いしたんだ」



父さんが死ぬ数ヶ月前、僕に渡したディスクと鍵。
あれが、僕たちを再び逢わせてくれた魔法だった。

鍵は家の金庫の鍵で、中には分厚い実験報告書が入っていて、そして僕はそれにわずかな可能性を見出した。

そこには、レイの出生の秘密。
様々な実験データ。

ディスクは、実験室の鍵となっていた。

世界的コンピューターを開発した夫婦が殺されたことで、あの事件は大々的に報道された。
やがて、会社の一部で人間によるクローン実験が行われていたことが発覚した。

でも、成功はしなかったと、発表された。
死ぬ前に、父さんが情報操作をしていたようだった。
それが、事実となった。

父さんと母さんは何年も前からプロジェクトチームを組んで動物のクローン実験に携わっていたらしい。
それは、まだ治療法の見つからない難病治療に役立てるための研究だったそうだ。
しばらくはスーパーコンピューターの開発で実験から遠ざかっていた二人に隠れて、その研究チームの一部の人間が、人間のクローンを生み出していた。
父さんと母さんが気が付いた頃には、非自然的に生み出された命は、もう10歳を越えていた。

二人は分かっていたんだ。
最悪、ああなること。

僕がレイに対して特別な想いを抱いていたことなんて、自分で気付くよりも早く気が付いていたんだ。
彼女がまた生き返ることも、分かっていたんだ。

レイが家に来てから、父さんと母さんはますます忙しくなっていた。
それは他ならぬレイのためだったのではないかと、僕は思っている。

ディスクを誰にも渡すなと言った父さん、それは僕とレイのためなのだ。
レイが犯罪の生み出した命だと、他の人間に知れてはいけないと。
彼女がどういう存在か世間に知れることになれば、最悪、再び実験体としての日々が訪れる。

そうでなくても、世間の好奇の目にさらされることは容易に想像できたことだった。


僕とレイが幸せになることを、普通の生活を送ることを、彼らは望んでいてくれたのだ。


「ママ、怒ってないかな」

「大丈夫だよ、ちゃんとあやまっておくから。……おやすみ」


「おやすみなさい、パパ」


部屋のあかりを消すと、僕は最愛の人の待つテラスへと階段を降りていった。











〜エピローグ〜



あの日、久しぶりに見たシンジは背が伸びて、少し痩せていた。

実験室の扉が突然開いて、そして現れたのは少しやつれたシンジだった。

私を見るなり抱きついて、そしてキスをされた。

『逢いたかった』

涙をいっぱい瞳にためてるシンジに、私はどうすれば良いのか分からなくて、どうしてシンジがここにいるのかも分からなかった。


私が無意識に雪を降らせて、シンジを呼んでいたのだということをこの日初めて知った。


私を育てた人間に殺されて、私は実験室に戻されてしまった。

突然引き離されて、会いたくて会いたくて仕方がなかった。
思い浮かぶのは、シンジのことばかりだった。

人を好きになるという感覚は、どういうものなのかと言うこと。

シンジに抱きしめられて、私はそれを知った。


『……シンジのことが好き』


自然に口からこぼれ出ていた。


『僕なんて、ずっと前から好きだったよ』





「ごめん、やっと寝てくれたよ」


約束の時間を、もう30分も過ぎている。
『今日は僕が行くよ。レイにまかせておくと、いつまで経っても子供のところから帰ってこないんだから』とブツブツ言ってきかなかったのはシンジなのに。


「…遅い」

「ごめん、どうしても雪の話が聞きたいって言うもんだから」


バツの悪そうな顔で、いい訳をするシンジ。


「でも、どうして雪を?」

「……あの子が、一度見てみたいって。あのときのシンジと同じことを言うものだから」

「はは、そうだったんだ。レイが雪を降らす理由がひとつ増えたわけだ。……二人だけのものだったのに、少し妬けるな」


シンジは子供にやきもちを焼く。
シンジへの愛情が変わったわけじゃないのに、愛情の半分を子供に取られたと思ってるから。

でも分かってる。
小さい頃から忙しい両親のもとに育って、大好きだった両親をまだ中学生のときにあんな形で失ったシンジは、誰よりもさみしがりやだから。

私のために強くなくちゃいけないって、精一杯虚勢をはってることも。



「…私、これで良かったのか分からない」

「どういうこと?」

「死んだ瞬間、思ったの。これで、シンジの重荷にならなくてすむって」


あの頃の私は、何もかもが初めてのことで、身の回りに起こることをただ流されるままにしていた。
指示がなければ動かなかったし、なにもなければじっと座っていた。

シンジがいなければ私は生きていけなかったと思うし、私のためにあれこれ動き回ってくれるのはシンジだけだった。
だけど、シンジの迷惑になってるとは思っていなかった。

善悪とか、道徳とか、好き嫌い、綺麗汚い、羞恥心、そういう基本的な感覚すら私には分からなかったから。

でも、シンジとは違う存在であることに、私は自分に対して言い知れない嫌悪感を覚えるようになった。
人間でないことが当たり前なのに、自分が人間ではないことに嫌悪して、この世からいなくなりたいと思ったとき、力が抑えきれなくなった。

彼女もシンジのことが好きだと言っていた、シンジも彼女のことが好きだと言っていた。あの頃の私には好きということがどういうことなのかよく分からなかったけど、人間にとって大切な感情だと言うことは理解できた。
その感情は、私からシンジを奪っていくものではないかと、そう思えた。

そしてシンジは、私がいるから、彼女とは恋人同士になれない、……そういう内容の話をしていたのを聞いた。

あれからだった、私の心は時々乱れるようになった。

毎日学校に行くシンジ。
あそこにはシンジを好きだという人間が多い。
私からシンジを奪って、シンジはもしかしたら帰ってこないかもしれないこと。

私の中に芽生えた得体の知れない感情が暴走し始めて、それをコントロールすることが難しくなってきていた。

自分の力が嫌だった。自分が嫌だった。


「あの実験室で目が覚めて、もう一度死んだ、……でもまた別の体で目が覚めた。………気がついたら、シンジを呼んでた」


何回死んだら私は本当に死ねるのか、よく分からなかった。
私を何人も作って、不死身にしようとしていた彼ら、でも、あの実験を成功させる前に彼らは実験室から消えた。

きっと、お父さんとお母さんが完成させてくれたのね。

いつか言われたことを覚えてる、『お前にはつらい思いをさせるかもしれない、だが、シンジに希望を残してやりたい』って。


今なら分かる、あの日お父さんが言った言葉は、今日の日をこうしてシンジと過ごすためのものだったって。

でも、それと引き換えに、私はシンジからいろんなものを奪ってしまった。


「シンジのお父さんとお母さんが死んだのも………」


これは言ってはならない言葉。
言ってしまったら、私もシンジも傷つくから。


あの日、私を実験体にしてた人たちが、私を取り返しに来た。

彼らはもう気が狂っていた。
私がいなければ、彼らは神様ではありえなかった。神様から犯罪者に堕ちることに、彼らの精神は耐えられなかったのかもしれない。

最初に死んだのは私。
二人が死んだことを知ったのは、シンジに再会してからだった。





「何度言ったら分かってくれるんだよ。僕は今が一番幸せなんだ」





人工的に生み出された私。


人間ではない私が、人として幸せになってもいいの?


人間ではない私が生んだ子供は、人間?





それとも、私は人間になることができたの?




「レイは難しいことを考えすぎだよ。僕たちは愛し合ってるし、かわいい子供だっている。…それで、幸せじゃないか」




それは、私だけじゃなく、言ったシンジにも向けられた言葉。





「ほら、あの子が欲しいって言ってたクリスマスプレゼント、僕たちが幸せじゃなきゃプレゼントできないよ。そうでしょ、レイ?」




そう言うシンジに、私は微笑む。



そして私はシンジに身を委ねる。




あの子がサンタクロースにお願いをしたクリスマスプレゼント。




あの子に弟が生まれたら、シンジはまたやきもちを焼くかもしれない。









Fin.


あとがき

僕のほかの拙作を読んでくれている方こんにちは。そうでない方はじめまして。大丸でございます。
書いてる時は、短編としては渾身の一本になりそうな予感がしたんですが、読み返してみると疲れる・・・。ま、所詮は素人、全然設定が生かせておりませんが、こんなものでしょう。
シリアスものはもちろん好きなんですけど、やはりラブコメの方が書いてておもしろいです。ああ、しんどい。
ってわけで、ながながと読んでいただいてどうもありがとうございました♪
綾吉さん、もらっていただいてどうもありがとうございました♪
でわ〜            大丸





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