イリュージョン・ハッピーライフ=ドリーム


 眠たい。

 目を閉じると、そのままうつらうつらと深く沈む。眠るわけにはいかないので、無理矢理目を開く。
 頭が重い。ふらふらと揺れる。目の奥に柔らかな眠気。抑えられない欠伸の衝動。

「……ふぁ」

 口を手で覆って、大きな欠伸。にじむ涙。はしたない。

 ……眠たい。

 我慢するのをやめて、寝てしまおうか。机の上に腕を置いて、頭を乗せる。窮屈な姿勢だけれど、圧倒的な眠気が閉塞感を誤魔化す。

 目を瞑る。再び欠伸。もう眠ってしまいそう。我慢しなくちゃいけないのにな、と頭の隅で考えてみるものの、もう駄目かもしれない。眠たすぎる。
 目が覚めるような話題を探す。早くしないと思考が眠ってしまう。早く、早く。

 ……。

 ああ、もう駄目。おやすみなさい。

「……ぐぅ」



 夢の中は世界が軽い。きっと重力が弱いのだろう。上を見上げると、顔のある三日月と太陽が世間話。そういうのって、陳腐でチープだと思う。

「おいあんた。学校に遅刻しちまうんじゃあないのかい?」ペンペンが首から下げた時計を見せてくれる。

 その時計には文字も針も無かったけれど、すごくギリギリな感覚を私に伝えてきた。それで私は、本当に遅刻するかもしれないと思った。

「……ありがとう」と私は言った。

「よせやい。照れちまうぜ」とペンペンは無表情で言った。私にペンギンの表情を区別できないだけかもしれない。

 歩いて学校に向った。振り向くと、ペンペンは土に穴を掘り始めていた。もう冬眠の季節なのかもしれない。


 草原を通って、橋を渡って、坂を上りきったところに学校はあった。何人かの生徒が中に入っていった。

 私の通っている学校とは少し形が違っていたけれど、下駄箱に私の名前と上履きがあったので気にせず中に入った。教室に向う。……たぶんこっち。

 2−Aを見つけた。生徒で賑わっている。何人かの生徒が教室から出て、何人かが入る。窓を開けて、廊下の人と会話をしている人。開いたままの扉から中に入って、自分の席にカバンを置いた。

 私が席に着くと、すぐに先生がやってきて、授業が始まった。

 起立、礼、着席。

「おはようございます」と先生は言った。「それでは授業を始めます」


 みなさんが空を飛ぶときに現れる輝く翼についてお話します。

 それはみなさんが心に持つ幻想を凝縮したものだ、ということは前回お話しいたしましたね。翼には色々な種類があって、形は一人一人違う、とお話しいたしました。

 幻想の定義はなんだったか、覚えていますか? そうです。幻想とは、直接手に触れる想像上の物を言うのでしたね。

 たとえばみなさんが使っていらっしゃる机と椅子ですが、それは私の幻想です。反対に、こうして皆さんにお話している私はみなさんの幻想です。

 ほんなら、私の翼は机と椅子が凝縮されたものなのでしょうか? それは違いましたね?

 翼を持てるのは幻想ではない存在だけです。

 そんなら、みなさんの翼は私を凝縮したものでしょうか? それも違いましたね?

 凝縮して形を作るほどの量は私には無いからです。

 みなさんが普段意識せずに使っている翼を覗き込むと、そこには凝縮した幻想が見えます。それは大抵の場合みなさんの両親で出来ています。たまに両親の幻想以外で翼を作る人達がいますが、それらはとても大きく美しい翼であることが多いようです。
 だからと言って、美しい翼を覗き込むことをしてはいけません。それは大変失礼な行為であるとともに、大変危険だからです。

 美しい幻想は、現実を侵食するからです。

 ごっめーん、みんな! 遅れちゃった! ……あれ? 根府川先生、どうしてここにいらっしゃるんですか?
 おや、葛城先生こそ。今日は出張のはずではなかったのですか?
 ……あ。
 ……みなさん、今日は自習にしますので静かにしていてくださいね。号令はかけなくてよろしい。葛城先生、ちょっと来なさい。今日という今日は……。
 え、あ、ちょ、……。


 自習の合間に、教室の窓から空を見上げる。いくつもの幻想が、割れて散らばった鏡のように空一面に輝いていた。



 軽く頭を叩かれた。目を開ける。

「おはよう、綾波さん」と葛城先生が怖い笑顔で言った。「よく眠っていらしたわよ?」

「ふえ?」と私は言った。

 パコン。丸めた教科書でもう一度頭を叩かれた。今度はちょっと強めだった。

「いった〜い」と私は言った。ほんとはあまり痛くない。

 アヤナミは学校来て寝とるだけやな〜。そりゃトウジもだろ。わいは昼飯も食うてんで〜。

 ぼんやりと眠ったままの頭で、皆の笑い声を聞いていた。

「綾波、疲れてるの?」と隣の席から碇くんが話しかけてきた。

「眠たかったの。それだけ」と私は可愛く言った。

「そう」と碇くんは言った。いつものようにちょっと控え目な笑い方。

 素敵な笑い方だった。


 玉子焼きを飲み込んだ後、ふと夢を見たことを喋った。

「あんた、授業中に夢見てたの?」とアスカが言った。アスカはタコさんウィンナを口に放り込んだ。

「見てたの」と私は言った。

「どんな夢だったの?」とヒカリが聞いた。ヒカリはほうれん草の黒胡麻和えを小さく口に運んだ。

「学校の夢」と私は言った。「根府川先生の授業を受けてた」

 ちょっと迷って、意を決して、小さなハンバーグをさらに小さく切って口に運ぶ。

「真面目なのか、不真面目なのか分からない子ね」とアスカが言った。

 私は肉の味と戦うのに精一杯で、気の利いたセリフを返すことが出来なかった。味を誤魔化すために御飯を口に含む。

「お肉、まだ苦手なのね」とヒカリが言った。

「いらないなら私に頂戴」とアスカが言った。「ハンバーグ」

 冷たいお茶を飲み干して一息つく。

「アスカもハンバーグ入ってるじゃない」と私は言った。「碇くんが作ったやつ」

「そうなのよ。学園設定のはずなのに、なんでかシンジだけは本編設定の優等生なのよ」とアスカは意味の分からないことを言った。「寝坊はしないし、料理は作るし……」

「夢の根府川先生はおもしろい授業だった」と私は言った。話の流れを元に戻す必要が有ると思ったから。なんとなく。

「あの人って、根府川が苗字で、先生が名前よね?」とヒカリも訳の分からないことを言い出した。

「眠たい」と私は言った。



 空を眺めている。キラキラと光を反射する幻想を眺めている。自分の翼を覗き込むと、アスカやヒカリが見えた。

 なぜだか恐ろしくなって翼を覗き込むのをやめた。

 どうして夢の私はあまり喋らないのだろう、と思った。どうして表情がないのだろう。

 まるで人形みたい。


「遠くへ飛ぶには大きな翼が必要だ」と渚カヲルは言った。「そう思わないかい、綾波レイ?」

 渚カヲルの翼はひどく大きかった。黄金色に輝く翼の先端は成層圏を突破していたし、横に伸びた部分はこの星を一周しても少し余っていた。渚カヲルの翼は空一面を覆っていた。

「……どこまで行くの?」と私は聞いた。ゆっくりと低く、無愛想な声だ。自分の声じゃないみたいだ。「遠くって、どこ?」

 渚カヲルはニヤニヤ笑ったまま、右腕を空へ向けた。人差し指で空を指した。

「さようなら、綾波レイ」と渚カヲルは言って、そして一瞬で消えた。

 渚カヲルが立っていた場所には、翼の羽が一枚落ちて輝いていた。

「さよなら」と私は言った。



「レイー、レイー、起きなさーい」とアスカが言った。
「……犯すわよ」と小さな声でヒカリが呟いたので飛び起きた。
「ほえ?」と私は言った。われながら凄まじく可愛い言い方だった。

 机の上を見ると、私のハンバーグは無くなっていた。別にどうでも良かったのでそのまま何も言わなかった。
 お弁当の残りをパクパクと食べた。食べている途中、渚くんが教室から出て行くのが見えた。もうすぐ昼休み終わるわよ? とアスカが声をかけたけれど、渚くんは「かまわないさ」と言ってそのまま消えた。
 そのまま一生会えないんじゃないかと思わせる消え方だった。


 眠たい。

 今日最後の授業は、根府川先生の音楽だった。先生は子守唄がバツグンに上手い。
 なんとか起き続けようとするのだけれど、圧倒的な眠気がその意思を根こそぎ持っていく。

「綾波、眠たいの?」と碇くんが隣の席から話しかけてきた。

「うん。すごく」と私は言った。

「そう、僕もだよ」と碇くんは微笑んだ。参ってしまう笑い方だった。

「でも、眠るわけにはいかないの」と私は言った。

「どうして?」

「さよならを言われるのが怖いから」と私は答えた。

「そう」と碇くんは言った。「じゃあ、がんばって起きとかないとね」

「うん、がんばる」

 机の上に腕を組んで、頭を乗せた。もう眠たすぎる。

「おやすみ、碇くん」と私は言った。
「え、あ、うん。おやすみ」と碇くんは言った。

 戸惑った言い方がすごく可愛かった。

 そのまま眠った。









感想はこちら

戻る