小鳥のさえずりが心地よく響く森の中

 森の木々の間から差し込む木漏れ日が温かい

 緑の木々に囲まれた林道を真っ直ぐ行くと、白い建物が現れてくる

 一階建ての広い建物

 白い外観と、ガラス張りで透明感のある雰囲気が特徴で、森の中に溶け込んでいる

 広く設けられた玄関には、木のプレートが掲げあげられていた

 漢字ばかりで文字数も多い名称なのに木製のプレートと、丸みを帯びた独特なフォントで、これもまた外観に合って柔らかい


 −第三新東京市国立図書館第零号分館−


 そう彫りこまれたプレートを横目に過ぎて、玄関を入る

 全自動化が進む近頃の建物にしては珍しく、これもまた木製の大きな扉が迎えてくれる

 扉には枝と葉がかたどられたガラスがはめ込まれて綺麗だ

 上部には来訪者を告げるための鐘が取り付けられている

 銅製の取っ手を押して中に入る

 ベージュの絨毯が廊下に沿って敷かれていて、初めて訪れた人間には土足で入っていいものかどうか迷うかもしれない

 はいってすぐのところには広いホールがあり、壁際にはベンチ、その上には自然を描いた絵画が飾られている

 名も知られぬ画家たちの作品

 空、森、海

 被写体は様々

 しかし、名画にも勝るとも劣らない温かさがそこからは感じられた

 ホールの中央の壁には鳩時計がかけられていて、分針が直上を指すのをいつかいつかと待っているようだ

 見回してわかるのは近代的な建物のような無機質なつくりではなく、木材や味わいのあるガラスなどを使った建物ということ

 全てが柔らかく、温かく感じられるようにデザインされていた

 そのホールを通り抜け、劇場のような扉を開くと、ふぅと本の匂いが感じられるようになる

 足を踏み入れたそこにはたくさんの本棚が並んでいる

 たくさんではあるけれど、それは狭さを感じさせるようなものではなく、広々といろいろな方向に

 窓ガラスが大きく多く使われているため、館内はとても明るい

 静かなカントリーを口ずさみたくなるようなそんな空間

 館内灯も自然光に近いライトを選択していた

 本棚はまるで木の幹のよう

 地面はベージュの絨毯で、天井は淡い緑

 ここは森の延長線上のような雰囲気を感じるほどだ

 そんな"木々"の間を縫っていくと、カウンターが見えてくる

 オープンな感じで、木製の囲いがされただけのような場所

 本棚が生える中でも違和感はない

 玄関のプレートと同じデザインで、「貸し出し」「返却」「相談」といったプレートが各カウンターに吊られていた

 デスクの上にコンピュータの姿はない

 その代わりにたくさんのファイルがうず高く積まれていた

 表紙には「あいうえお」「アルファベット」「数字」「記号」とそれぞれの順にマークされた貸し出しカード表と書かれていた

 今ではほぼ幻となってしまったカードのシステムが、未だにこの館では生きている

 そしてカウンターの奥には、古い本から新しい本まで様々な種類の本がまだ本棚に行き届く前のカートに積まれていた

 カウンターにはそれぞれの窓口、それと中にあるデスク用に椅子が幾つか設けられている

 革張りのちょっと高級そうな椅子

 ゆったり座れるようなつくりで、けっこう古い

 でもそこに座る人の姿はない

 というよりも、玄関を見渡してみても、ホールを見渡してみても、館内を見渡してみても、人の姿がない

 来館者も、館員の姿も

 ただ何処までも広い空間の中に、光が差し込み、遠くで小鳥たちのさえずりが響いてくるくらいの静寂

 もう一度カウンターを覗いてみる

 窓口の椅子には主はいない

 それから奥のほう、事務ディスクの椅子にも主はいない

 そしてその奥

 まだ本棚に納められていない本たちが待つところに置かれた一つのデスク

 その椅子の上に主はいた

 デスクの上にはたくさんの本

 古い本から新しい本まで様々

 そんな本の一つを取り、膝の上に広げる主は、革の椅子に深々と背を預けながら

 うたたねをしていた

 窓からそそぐ太陽光に、纏う蒼銀の髪の毛がきらきらと輝く

 年は二十歳を少し過ぎたくらいの若い女性

 彼女の印象的な紅い眸は、今は瞼の奥に隠されている

 服装は履き古されたジーンズと白いTシャツ

 胸には銀の十字架のペンダントが輝いている

 そのすぐ近くに、彼女のネームプレートがあった

 おしゃれな紙のプレートに、彼女の性格を表したような控えめの文字で


 −図書館司書 綾波レイ−


 膝の上の本には、ちょっと古い、でもシンプルで可愛らしい栞が挟まれていた

 それから、デスクの上に、たくさんの本たちとは少し分かたれて、やはり古い本が一冊立てられていた

 一冊だけ、デスクの小さな本棚に

 とても大切そうに

 昼下がりの、温かい木漏れ日がそそぐ館内

 その奥で静かな寝息を立てる人

 木と本の薫りと温かい光に包まれて

 彼女の膝の上には、ちょっと古い、でもシンプルで可愛らしい栞が

 彼女のデスクの小さな本棚には、ただ一冊だけ、やはりちょっと古い本がとても大切そうに立てられていた












本と絆                 aba-m.a-kkv










 首都機能分散計画の実践として科学技術、文部関係の中枢機関が集められた第三新東京市

 この街には五つの図書館が存在する

 市立図書館ではなく図書館庁直属の国立図書館

 科学技術、文部関係の中枢都市として、日本の国立図書館は第一東京からこの第三新東京市に移されることになったからだ

 そして、大量の蔵書を確保するために分野を分けて、市内の各拠点に分館が建設された

 第一分館から第四分館まで分けられたこの図書館群は、
 特殊な専門書から、一般の文庫本まで、それぞれの分野ごとに幅広い人に読むことが出来るようにされた

 日本のみならず各国の書籍もそろえられており、日本の各地からいろいろな職の人たちが訪れている

 第四分館は雑誌や子供向けの本も置いてあり、学校や仕事が終わった夕方、休日などにも賑わっていた

 空軍施設から民間に移行された第三新東京国際空港の開港で、海外の人の姿も多い

 四つの図書分館のそれぞれが世界最大級の図書館で、最先端都市であるこの街の名所になっていた

 人の数も、スタッフの数も多いし、設備も最新鋭

 いわゆる開かれた図書館、それが国立図書館第一から第四までの分館の姿だ


 さて、街の中心に移動してみると、第三新東京市のほとんど何処からでも見える、森林公園の入り口に辿り着く

 第三新東京市はこの森林公園を取り囲むようにして近代都市を形成している

 そしてここは誰もが入ることの出来る自然公園

 中は、国の環境省自然環境統制局の管理の下に綺麗に調整され、人々が自然を楽しめるようになっている

 最先端都市のもう一つの顔

 この森は、第三新東京市の自然との調和を象徴する自然公園として市のシンボルとなっていた

 ゲートを通り抜けるとまるで違う世界が広がる

 休日ともなると、ピクニックやサイクリングなどを楽しむカップルや家族の姿が見受けられる静かな公園

 緑も動植物たちも豊かで、河の流れも綺麗だ

 でも知られているのはゲートからそれほど遠くない公園の中までで、その奥を訪れる人はずっと少なくなる


 第三新東京市国立図書館第零号分館

 森の奥、この森林公園の中心に立てられたもう一つの図書館

 林道を抜けてたどり着く第零分館は、ほかの分館とは少し違う

 第一から第四分館を「開かれた図書館」とするならば、第零分館は「閉じられた図書館」となるだろう

 人の来館を考えたほかの分館は本を人々に提供するための図書館であるが、第零分館は逆だ

 書籍の公開は基本的にはしていない

 公開ではなく、所蔵

 それがこの図書館の持つ役割だった

 第零分館はほかの分館のバックアップのための図書館

 ここには毎月数回、各図書分館に送られてきた書籍と同じものが輸送されてくる

 送られてきた図書はきちんと保管される

 もし、ほかの分館で何か不足の事態が起きて特定の図書が公開できなくなったときなどには、
 所蔵している図書を回したりする

 でも、本来の第零分館の存在意義は、全ての書物の恒久的保存

 だから、ここには第一から第四までの分館に収められている蔵書の全てが保管されている

 大蔵書量を誇るほかの各分館と同じ量を、一階だけの第零分館にどうやったらそれだけの本が納められるのか

 それは地下が広いところにあった

 第零分館の地下は非常に深く、とても広い

 ジオフロントとも呼べるほどの広さで、今後の図書資料も安全かつベストコンディションで蔵書できる体制が整っている

 外見からは見えないが、意外と最新鋭の図書館だったりする

 でも、相手にするのは本だけで、本の保管体制もほとんどが機械管理なため、スタッフはほとんど必要なかった

 月に数回の図書搬入のときだけ、他の分館から特別司書がくるだけ

 でも、まったくスタッフがいないというわけにもいかない

 現に、公開は基本的にしていないものの、それでも訪れる人間もときたまいる、本当に稀ではあるが

 しかも、第零分館の表層一階部分は普通のローカル図書館といっしょなのだ

 そんな図書館の常任司書が綾波レイだった

 彼女のネームプレートには図書館司書の肩書きだけだが、第零分館長代理−特別司書が本来の肩書きだ

 この第零分館館長職は図書館庁参事官に当てられる

 あの『死海文書』も納められているというから当たり前のことではあるのだが

 逆に何故、まだ若い彼女がその代理なのかは皆目見当がつかない

 ただ、本好き、という彼女の性格は昔から誰にも譲らなかった

 それが、この職を選んだ理由でもあるし、この職に選ばれた理由であるのかもしれない

 第三新東京大学を出たとき、レイの進路は図書館司書に決まった

 長年の夢でもあり、約束でもあり、絆でもあった

 レイはとても小さいときから本が好きだった

 生まれつきの身体の弱さで、あまり遊ぶことの出来なかったレイの友達が本だったからだ

 両親もレイが幼い時期に他界し、本を読み聞かせてもらった記憶はあるものの、その声はもう覚えていなかった

 レイは孤独の影を纏いながら、いつも本を手にしていた

 その特異な容姿のせいもあったのだろう

 人という生き物は自分たち多数とことなる少数を特異視しがちになる

 それは人のもつ恐怖心の根幹からくるものなのだろう

 そのためレイへのコミュニケーションの環境はどこへいっても発展しなかった

 親戚や教師、クラスメート

 どの眼も普通とは明らかに違った視線だった

 最大の理解者であり擁護者であるはずの両親の急逝はレイを孤独への道へと進ませてしまった

 また元来のおとなしい性格も他者からの接触を少なくしてしまうことになった

 親を早くから失い、厳しい環境に幼く放り出されたレイは、ぬくもりやふれあいというものを忘れてしまっていた

 学校にいっても会話する友人はいないし、家に帰っても知り合いたちとの会話は必要最小限のものばかり

 しなければいけないことも、レイの持ち前の集中力ですぐに終わってしまう

 だから、時間はたくさんあった

 中学に入り、学校の通学関係や知り合いとの問題で第三新東京市に移り、独り暮らしを始めてからは尚更

 その時間がレイを本により深く結びつけた

 小さい頃から本が好き

 それが中学に入るころまでには生活の一部、生きている道の一つの支えのようになっていった

 学校での休み時間には持ってきた本を読み、帰りは必ずといっていいほど直接市内の国立図書館に寄った

 そこでまず宿題や予習復習をやり、それから本を探す、それが中学時代の日課だった

 そして借りた本は図書館で読むこともあれば、家や学校、
 それから休日には中央森林公園の静かなベンチで読むのもお気に入りだった

 いままで何冊の本を読んできたか、もう数を数えるのを止めてしまったからよくはわからない

 でも読んだ全ての本のタイトル、著者、内容を覚えていた

 レイはジャンルも幅広かった

 ほとんどが小説だったが、専門書から論文、雑誌、参考書、etc-etc

 興味をもったものならどれでも

 だから、市内の四つの図書館を行き巡る毎日だった

 でも、淋しさを感じないわけではない

 本は確かに支えになってくれた

 でも、レイの心の片隅にはいつも孤独という淋しさがあった

 何故そう感じるのか

 どうしたらそれを無くせるのか

 答えはわかっていた

 でも出来ない

 人とのコミュニケーションの仕方を知らない、人とのふれあいから来るぬくもりを忘れてしまったレイには、
 もはや人との接触は恐怖に変わっていた

 それはレイを取り巻く環境から考えれば仕方のないことだし、レイ自身もわかっていた

 でも、わかっていても出来ない

 それは苦痛だった

 そのためレイの本に対する割合は増えていき、人との接触はどんどん減っていった

 レイはそのことを極力見ないようにしていた

 それに向き合うことは非常に辛いことだから

 でも、淋しさは消えるはずもない

 そんな日々を過ごす、中学二年の夏だった

 あの時読んだ本もよく覚えている

 主人公が旅をしながら人々にであっていき、本当の自分を見つける、という本だった

 とても不思議な感じの物語だった

 そして、それをレイはお気に入りの場所である中央森林公園内円域部のベンチで楽しんでいた

 頭上を覆う緑からの木漏れ日が適度に温かく、木の下は微風がよく通り抜け、とても静かだ

 今日は朝からここに来ているが人の数は少ない

 森林浴をしながらのウォーキングを楽しむ人がちらほら

 気になるようなほどではなく、読書には最高の環境だった

 休日なのに人が少ないのは内円域部だからということだからだろう

 外周域部は観光やハイキングを楽しむ人々が多いが、内円域部まで足を伸ばす人は少ない

 その奥にある中枢域部になるともっと少なくなるがレイ自身もいったことはなかった





 風になびく緑の葉音

 野鳥たちの戯れる声

 その中にふぅという吐息が漏れ、ぱたんと紙の匂いを残して本が閉じられた

 蒼銀の髪が微風に揺れ、木漏れ日に輝く

 綺麗な紅い眸が緑の天井に向き、暫くの間、読んだ物語の余韻を楽しんでいた

 それから、閉じた本を自分の傍らに置いていた革鞄にしまう

 そこには同じような表紙の本が七冊入っていた

 それから左手首につけた小さな水色の時計の文字盤を見る

 それはちょうど二つの針が真上で重なるところから少し過ぎた時間だった


 さて…


 どうしようか、と一瞬迷ったあと、レイはベンチを立った

 革鞄を肩にかけ、大きく両手を伸ばしてみる

 それから、鞄に入れた七冊の本と弁当とアールグレイを入れた魔法瓶を確認して、
 いつも帰る道とは逆の緑の林道を歩き出した

 いつもならこんなに早くには終わらない

 作ってきた弁当をベンチで食べ再び読書をする、そのはずだったのだが、今日は違う

 いままで読んでいた本のせいかもしれない

 主人公の少女もこんな森の中を旅していたのかも、そんなふうにも思いながら

 それに久々の読書日和の森に何かいいことを感じたのかもしれない

 レイの第六感は森の奥に進む道に向いていた

 初めて進んでみる中枢域部

 ほとんど誰も足を向けない森の中心

 自分もここまでしか来たことがない

 なんでだろう? と今更ながらに思うが、答えはなかった

 でもアスファルト舗装されていた道が、途中から木枝と葉で舗装された道になってからは、
 レイのいつもクールな心にも高揚感が湧いてきた

 足の裏に感じる枝を踏む音が一つ一つどきどきする

 そんな感情が静かな雰囲気を終始纏う彼女の足を軽やかにさせた

 微風吹く緑の道に踊るような足音

 段々と緑は深く、樹木の数は多く、人の匂いが消えていく

 道はどんどん細くなっていき、天井には木々の葉をつけたアーチが揺れていた


 なんだろう、不思議な感じ

 この先には何かがある

 私にとってとても大切な何かが

 そんな気がする

 なんでだろう、そんな気がしてならない

 心が叫ぶ…


 いつのまにか景色ががらりと変わり、それにつれてレイの足取りも軽やかなものから、
 何かを切望するような早足に変わっていった

 周りが樹木で覆われていき、いつのまにか道と森との境界線が曖昧になってきても、レイは枝を掻き分けながら進んだ

 本来なら引き返して当り前のような道なのに、だ

 どれくらい歩いただろう

 地図から見る森林公園の規模や、森の緑の間からきらめく太陽の位置からだいたいここの中心へと来たはずだ

 そんな風に思ったときだった

 レイの足に何かがあたり、つんのめりそうになって身体が弾んだ

 転がり出るようにして飛び出したところでレイは固まってしまった

 森の中心、とてもとても広い空間

 空は緑のドームに覆われ、その隙間から白い雲と青空が、そして太陽の光が木漏れ日となって降り注いでいる

 その木漏れ日は空間内の緑に反射を繰り返し、この場所を明るく保っていた

 まるで自然のジオフロントのような

 そんな現実とは一線を画したような空間がレイの前に広がっていた

 そして、レイを固まらせる視線の先には、木で建てられた建物があった

 木製といっても、けっして小さなものではない

 この広い空間いっぱいに広がっている

 小鳥が鳴き、レイはハッと金縛りから解かれた

 その鳥たちは建物の屋根へと飛んでいき、そこで遊び始めていた

 見るとそのほかにも小動物たちが戯れる姿が見える

 レイはこの空間を囲む森の細道から抜け出して、草の絨毯の上を歩いていった

 足の裏の感触が柔らかい

 まるで本当の絨毯のようだった

 自然の真ん中のこの草原は庭園のようにきちんと剪定されているように感じた

 森のドームの天井部や外へ繋がる森の道から流れ込む微風が、草原の草を波のように揺らしている

 それがレイの足をゆっくりと建物のほうへといざなっていった

 建物の開け放たれた窓から淡い黄色のカーテンがなびいている

 建物を構成する木材は新しいものではなかった

 かなりの年数をつんだ、落ち着きのある木で建てられていた

 いまだに水をくみ上げているのではと思うほどの立派な木々たちの薫りが、レイの鼻腔に入り、
 ここがまだ自然森の延長線上のように思わせてくれていた

 レイはゆっくりと、建物の玄関と思われる広い入り口へと向かった

 その途中、ふと気がつく

 建物の玄関?から真っ直ぐ森に向かって草が道のようになっている

 一時的なものではない、何回もの積み重ねで草たちもそれに慣れたという感じだった

 その道をたどって森を見ると、自分が来た細道よりずっと広い道に繋がっていて、
 これがメインルートなんだということがわかった

 「帰りはここを通っていこうかしら……何処につながっているんだろう」
 そう思いながらも、レイの身体は既に建物のほうへ向かっていた

 一段少しだけ高くなっている入り口へと足をかける

 屋根を支える柱に施された彫刻が印象的だった

 扉のガラスには森をかたどった意匠が施されている

 そうやって入り口を見回しているときに、この建物の正体がわかった

 入り口の扉のすぐ隣に掲げられた木製プレート

 それなりに大きく重そうなそれは丸みを帯びて切り出されたもので、柔らかい字体でここの名称が彫られていた


 「第三新東京市国立図書館第零分館」


 レイは目を見開いた

 一瞬目に入った文字が、自分の中にあるイメージと結びつかなかった


 「えっ………?

  としょ、かん…?」


 レイは数歩下がり、建物を見上げた

 不思議な感じだった

 森の中心、深い森のドームの中、木々に囲まれた空間の中に建つ図書館

 街の図書館、いつも行っているそれとはまったく違っていた

 レイの心が動く

 高揚する気持ちとも、不安の気持ちとも違う

 興味をそそられる、それも違う

 確かに、自分の生活の中心となっている本の、知らなかったものが目の前にあるわけだが、
 レイの心を揺らすのは「何かが変わる」それだった

 「何かが変わる」

 かもしれない、などの不定形ではない

 まだ何かがということはわからないけれども、確信的なものがレイの中にあった

 もう一度図書館を見回す

 待っていてくれたような、包みこんでくれるような

 レイはプレートを通り越し、銅製の取っ手を握った

 扉のステンドグラス、森を模って描かれたそれが、もう一つの世界へのもう一つの森への入口のように感じた


 この先にあるのは…


 レイは取っ手を押す

 扉の上部に取りつけられた鐘がレイを歓迎して鳴った

 踏み入れた一歩を出迎え、レイの足を包みこんだのは入ってすぐのところから敷かれたベージュの絨毯だった

 もう数歩足を進め、扉から手を離した

 扉はゆっくりと閉まっていき、最後に鐘の音を短く響かせて閉じた

 音が消える

 時間が止まったような、すごくゆっくりと流れるようになったような、不思議な感覚だった

 とても広いホールがレイを迎えた

 正面の壁には大きな壁掛け時計が掛かり、ホールの側面には等間隔にソファーが置かれている

 その上には絵画がいくつか飾られていた

 そして地面はベージュの絨毯が広げられている

 レイは見入ってしまった

 あまりに整い、綺麗に保たれたこの空間に

 無意識のうちに足が動き、一つ前の絨毯に足が沈む感触が伝わってレイはハタと足元を見た

 それから慌てて玄関のほうを見回す


   なんで気が付かなかったんだろう

 こんなに綺麗な絨毯が敷かれてるんだもの、もしかしたら土足じゃいけないのかもしれない


 そう思ったのだが、玄関には靴を脱ぐような場所もそれらしいことが書かれたものもなく、レイはホッと胸を撫で下ろした


 よかった


 そう心の中で呟きながら、レイは近くのソファーの上に掛けられている絵画に近寄った

 様々な本で絵画を見てきたレイだが、ここに掛かっている絵画はどれも名前がない

 でも、その醸し出す力強さや繊細さは本の中だけの絵に勝るとも劣らないものばかり

 メンテもしっかりされていて汚れ一つない

 ほかのホールにある一つ一つのものも名前はないがとても素晴らしいものばかり

 そしてそれら、絵画やソファー、時計、などが壊れ物を扱うように大切にされていることもすぐわかった

 自分が踏み込んでもいいのかわからなくなるほどに

 それでもレイは奥に進んだ

 もちろんホールの様々なものを観賞しながら

 場違いなような自分の存在だが、ここにあるものは自分を拒絶してはいない

 レイはホールを進んだ先にある、玄関のように大きい扉に手を掛けた

 劇場に通ずるような扉だった

 扉の先は"森"だった

 木々の匂いの代わりに本の薫りが

 大地の代わりにベージュの絨毯が

 天井を覆う緑の変わりに淡い緑色の壁紙の天井が

 開かれた窓からは木漏れ日と微風

 天井部のライトは自然光に限りなく近いもので館内を明るく保っている

 そして、レイの目の前に広がるのは森を作り出す"木"

 たくさんの本を敷き詰めた本棚が森にある木々のようにレイの前に広がっていた

 自分の重さでゆっくりと閉まってゆく扉が音を立てても、それに気が付かないほどレイは目の前に広がる光景に見入っていた


 すごい…やっぱり、ここは図書館なんだ…


 そんな当り前のことも頭の中を巡っていく

 整然としながらゆったりと並ぶ本棚はベージュの絨毯から"生えて"いた

 本棚に近寄りそのフレームに触れてみる

 木で作られたそれはまだ生きているよう呼吸しているようなそんな感じもする

 そして、それらに包み込まれている本を見ていった

 自分が読んできた本、街の図書館で目にしたことのある本もある

 でも目にするほとんどはレイが読んだことも見たこともないものばかりだった

 ざっと目を通してみただけでも興味のある本が無数に見つかっていくような感じだ

 そんな本棚が木々のように並んでいる


 ほんとうに、ここは違う世界みたい

 そう、それこそ本の中に出てくるような


 そんなふうに思ってしまう

 明るくやわらかく保たれた空間、本の薫り、静かな世界、あたたかい雰囲気

 時間を忘れる

 レイは散索を早くに諦めて、設けられた読書用の椅子に向かい腰を下ろした

 背もたれが高く、柔らかいクッションはレイを包み込む

 読書のために低めにされたテーブルに鞄を置き、中から読みかけだったさっきの本を取った

 栞を挟んだページを開く

 そこには規則的に並んだ文字たちがレイを待っていた

 普段ならレイの視覚に入ってくるはずの活字たちが、今はそうではなかった

 レイが物語を取り込むのではない、物語に引き込まれる

 それがレイの周りを取り囲むまで、時間は掛からなかった

 この空間の為せるものなのかもしれない

 レイの心は森の中の図書館の椅子の上で、本の世界へと入っていった








 琥珀色の液体がカップの中をゆき巡る

 白磁に青い模様のティーカップに銀のスプーンが添えられる

 シュガーポットとミルクピッチャー

 それらが二組、トレイの上でかすかに音を立てる、運ぶ歩に合わせて

 足音はベージュの絨毯に吸い込まれて無くなってしまう

 受付カウンターから読書スペースまでの距離を進む姿が、窓からの光に影を作っていた

 その先には蒼銀の髪を輝かす少女が、紅い眸を本へと向けて世界を忘れていた




 ………カチャッ


 物語の中の少女が本を閉じてこの本の最後のページが終わり、レイが息をつきながら本を閉じようとしたときだった

 頃合を見計らったかのように、静かだった館内に陶磁器の音が響く

 音と共に、顔に当たる温かい湯気と大好きなアールグレイの薫りがレイの鼻腔に届いた


 「えっ…?」


 反射的にパタンと本を閉じて、ティーカップを置いた手の先を見上げた


 「どうぞ…」


 黒髪に漆黒で優しそうな瞳を持つ少年がレイの前のテーブルに紅茶とミルク、角砂糖を置いていった

 驚いた

 人がいない'なんてそんなことはありえないはずなのに

 この空間の中に人がいる、それはレイの心を動揺させた

 不意の出来事だからだけではない

 人がいる

 それが動揺の根源だった


 「あ、あなたは…?」


 この状況を理解できずに戸惑うレイに、少年は胸にかけたプレートを見せながら紹介をした


 「当館の館長代理を務めます、臨時司書補の碇シンジといいます

  ようこそ、第零分館へ」


 そう言うと、シンジと名乗る少年は彼女の前の席に腰をおろし、自分用の紅茶を入れたマグカップをテーブルに置いた

 確かにネームプレートには「第零分館臨時司書補 − 碇シンジ」そう書かれていた

 でも、彼の顔は見ることができない

 自分では立ち上がることもできない

 ただ、苦手な「人」のはずなのに、目の前に座る少年からは何も感じなかった

 いつも接する人たちが持つ、レイの恐怖するものが、この少年には無かった

 そして、目の前の少年からは何か違う、けっして嫌じゃない雰囲気を感じていた

 だから、レイはそのまま座って、二人の間には暫くの沈黙が流れていた


 「…………

  久々なんだ、この図書館に人が来るのは

  何たって、非公開の図書館だからね」

 「えっ

  じゃあ、私…」

 「あ、気にしないで、入っちゃいけないとかそういうことないし

  けっこう嬉しいんだ

  この場所で人と話が出来るっていうの

  しかも、同年代みたいだし

  こんな綺麗な…」


 そういいかけてシンジはハタと自分の言葉を止めた

 不思議そうにするレイの視線に赤くなる

 そのとき初めてレイはシンジの顔を真っ直ぐに見ることができた

 同じくらいの年齢の少年だった

 中性的な顔立ちで、黒い髪、漆黒の瞳

 その漆黒の瞳は、いままで見てきた目と違った

 その瞳に、レイは吸い込まれそうな感じがした


 「い、いや

  とりあえず、ようこそ

  ゆっくりしていってよ」

 「うん

   ありがとう

  ここは本当にいいところね

  私は本がとても好きで、こんな自然の中で本に囲まれて静かなところ、まるで本の中にいるような感じがするわ」

 「よかった、気に入ってもらえたみたいで」


 シンジは微笑んだ

 忘れることが出来ないほど優しい微笑を

 レイの心はその微笑みに揺れた


 「何かが変わる」それはこの人からはじまるのかもしれない


 それが彼らの最初の出会いだった














   「………………

  ………んっ…」


 革張りの椅子で転寝をしていたレイの意識が、気持ちのよい眠りの海から上がってくる

 開け放たれた窓から入ってくる光や微風が手をかして、彼女の瞼が開いていった

 蒼銀の少し伸びた髪が揺れ、紅い双眸が現れた

 身体を伸ばし、両腕を椅子に沿わせて大きく伸びをする

 そうしているうちにどんどんはっきりとしていって、レイは腕につけた時計の文字盤を見た

 最後に見たときよりも、針は一時間ほど先へ進んでいた


 「……私、寝ちゃってたんだ

  …………

  …………

  懐かしい、夢だったわ………」


 レイは膝の上に置いたままにしてあった読み掛けの本に視線を落とした

 そこにはさんである栞をつまみ上げる

 古くて使いこんであるがシンプルで可愛らしい栞

 それを顔の前でくるくる回してみた


 もう、こんなにも擦り切れてしまって…

 …何度、これを本の間に挟んできたのだろう

 何千、何万、数え切れない

 ………

 あの日からだものね……

 ………

 ……でも、絆


 不意に涙が一つこぼれた

 頬を流れる雫、でもレイは気にしなかった


 懐かしい、あの頃のことを思い出す……


 一番に思い出すのはやはり最初に会った時の優しい微笑み

 あの日のことはいまだに鮮明に覚えている

 初めて出会い、それなのに親しく会話した午後のひととき

 人との干渉を断ってきたレイが初めて自らの意思で触れ合った

 自分自身不思議だった

 他人との触れ合いを知らない、恐怖すら感じたはずなのに、あの時そんな壁はなかった

 忘れていた遅い昼食を二人で食べ、互いに読んだ本について語り合った

 あんな、あっというまの時間を過ごしたのは初めての経験だと思う

 覚えているのはそれだけじゃない

 それからのこの図書館で過ごした時間はどれもが大切で忘れられない思い出だ

 そして、レイはその日からレイの思い通り、徐々に変わっていく

 学校での生活、家での生活

 いままで白黒で熱のなかったレイの行動に、色が、温かさが現れ始めた

 学校ではクラスメートと事務的な会話以外なにも話さなかったのが、

 最初は挨拶から、そして徐々にコミュニケーションに発展し、ついには親しい友人が出来るまでになった

 もともとレイはおとなしいが優しい人間だから、クラスメートが再び受け入れてくれるのに時間はそうかからなかった

 そして、そこではレイの気づかない面もあった

 いままで、触れ合うことに恐れを感じていたのは他の人と自分との間にある壁


 「でもさ、自分が好きになろうとしなきゃ、他の人だって好きになったりしてくれないよ」


 彼のいった言葉

 その言葉どおりだった

 自分から動くこと、レイが教えてもらったたくさんの大切なことの一つ

 その言葉の通りに動いたとき、レイの中から、そして他の人との間から壁が消え始めた

 人とのふれあいの中にある、つらさ、痛みそれだけを感じてきたレイの心は、
 人とのふれあいの中にある暖かさや楽しさ、優しさを感じるようになった



   「だから、いまの私がいる」


 椅子から立ち上がり、新しく自分のマグカップに紅茶をそそぎながら、レイは呟いた

 久しぶりにあの当時の頃を思い出す

 淹れている紅茶もあの時と同じアールグレイ

 その薫りも、レイの思い出の一部だ

 湯気と薫りの立つマグカップを持って、レイは特等席へと戻る

 そして、アールグレイを一口含んで、また栞をくるくると回した


 今の私には、家族と呼べるほどの人たちもいる

 私が動いたから

 動くことが出来たから

 動けるように背中を押してもらえたから

 そう

 だから、今の私がいる


 机に積み重ねられた本の中に埋もれているような形で飾ってある写真には最近撮ったレイと親友たちの姿がある

 同年代から、年上の人まで

 どの人もレイと共に過ごし、レイにいろいろなことを教えてくれた

 レイの大切な人たち

 でも、レイにその始まりを教えてくれた人の姿は写っていない

 黒髪の、優しい笑顔が印象的な少年

 碇シンジ

 この図書館で、レイの心に触れた少年

 レイが進む道の後ろには、いつもシンジがいた

 いろいろなことを教えてくれたり、ともに考えてくれたりした

 そんなシンジとのふれあいがレイの心を解かし、レイが人々の中で自分で歩くことができるようにキッカケをつくってくれた

 第零分館の臨時司書補だったシンジと、土日この図書館で過ごした時間はかけがえのないもの

 それは学校や生活の中で友人たちができても変わらなかった

 そしてシンジの存在はレイの中で大きくなっていく

 レイは気づかなかったが、レイの中でシンジはもっとも大切な人だった

 でも、その彼の姿はこの写真の中にはない



 紅茶を一口含む

 口の中で広がり、喉を通って温かさが染み渡っていく


 「貴方といるときは、淋しさがなかった

  貴方といるときは、心が温かかった

  本で得られなかったものを、貴方は教えてくれた

  私が避けていたものの大切さを教えてくれた

  私が欲しかったものを気づかせてくれた

  そして、それを掴む方法も…


  いまなら、私は胸を張って「生きてる」って貴方に言うことができると思う

  あの時、言えなかった言葉と一緒に…」



 レイは、手を伸ばした

 ディスクの、一箇所だけ一つしか置いていない小さな本棚に

 そして指をかける

 たくさんの本たちとは分かたれて、本棚にただ一冊だけ立てられている古い本に

 壊れ物を扱うようにそっと優しく

 レイは手に取るとその本を開くことなく、自分の胸に持っていき、両手を添えた


 彼が最後に教えてくれたもの………







 シンジとの出会いから一年と半年が過ぎ、レイが中学を卒業する少し前のことだった

 人とふれあうことの術を知り、人とふれあうことからくる恐怖、不安を乗り越え、
 人とふれあうことからくる楽しさ、優しさ、暖かさがわかってきた頃

 レイは、もう一つのことにも気づき始めた

 それは、いつも後ろで支えてくれるシンジの存在へのことだった

 その自分の心

 キッカケは、レイが感じなかったシンジとの壁だった

 いままで出会ってきた人々に、レイは壁を感じていた

 それが、レイの人とのふれあいの文字通りの壁となってきたわけだが、シンジにはそれがなかった

 だから、初めて出会ったあの時、レイはシンジと話をすることができた

 逃げることも、無視することも、隠すこともすることなく

 何故だろう?その問いがキッカケだった

 その問いには、以外にも早くわかった

 レイが一年と半年、シンジとのふれあいを通してわかったのは、シンジの優しさ

 そして、シンジが自分を見てくれていること

 他の人は自分を見てくれていなかった

 容れ物ばかりに目を取られ、それが壁となった

 でもシンジはレイを見ていた

 綾波レイという人間の中を、その心を

 だから、レイはシンジの間に壁を感じなかった

 自分を見てくれている、それに気がついたことは、レイの気づかなかった心に光を当てるものになっていった

 人を想う特別な心

 自分の中で大きくなるシンジの存在

 それが抽象的な一言で表わすことができることに結びつくまでさほど時間はかからなかった

 いままで築いてきた心だったから

 そして、その心を明確に理解したとき、その心をシンジに伝えようとしたとき、シンジは姿を消した

 ただ一つ、森の中の図書館

 その中の二人がいつも過ごした場所のテーブルの上に

 ただ一言、「綾波へ」そう書かれた紙を添えて、一冊の本が置いてあった

 最初のページに、シンプルな栞が挟まれて

 そして、シンジはレイの前からいなくなった






   すぅーと息を吸い込んでレイは瞼を開けた

 腕の中にある本

 もう何度も読み返してぼろぼろになっている本

 もう何度も涙を流した本

 その最後のページに古くなったシンプルでかわいらしい栞を挟んだ


 「気づいてたんだよね、碇くん

  私の心に

  そして、貴方はいなくなった

     この本とこの栞を残して

  でも、わかってる

  貴方は私のために、姿を消したこと

  私の心が、貴方だけに向いて、また周りが見えなくなってしまわないように

  未熟な私の心が、また昔のように他の人たちとのふれあいを断ってしまわぬように

  貴方は優しいから、私がしっかりと自分で歩けるように

  私に必要なことを教えてくれた

  私の欲しかったものを気づかせてくれた

  そして私にかけがえのない心をくれた


  でも、やっぱり淋しい

  貴方が傍にいないのは


  でも、私は歩いてるわ

  貴方がこの本を私にくれたから

  貴方の想いを全て詰め込んだこの本を

  貴方が私に最後に教えてくれた"絆"

  最後に結んでくれた絆

  それで、私は歩いていくことができている

  挫けそうなときはこの本を読んだ

  歩くのに疲れたときはこの本を読んだ

  貴方の想いがこの本の中にあるから

  貴方が私に結んでくれた絆がこの本にあるから


  ねえ、碇くん

  もし再び出会えらなら、私に何を言ってくれる?

  あのときよりは、すこし成長した私に


  もし、再び貴方に出会えたなら

  私は伝えたい

  あの時言えなかった言葉を

  あれから時を進んで、自分の道を自分で歩いている私だから

  すこしは胸をはって言えるようになったから

  私は、今度こそ伝えたい


  貴方が好きです、って 」








 森の中にある図書館

 木漏れ日が暖かい午後

 図書館の中、カウンターの奥

 たくさんの本に囲まれて、革張りの椅子に深く背を預けながらうたたねをする女性

 窓からそそぐ光に蒼銀の髪の毛がきらきらと輝く

 彼女の印象的な紅い眸は、今は瞼の奥に隠されまま

 デスクの上に、たくさんの本たちとは少し分かたれて、やはり古い本が一冊立てられていた

 一冊だけ、デスクの小さな本棚に

 とても大切そうに

 その本の最後のページには、ちょっと古い、でもシンプルで可愛らしい栞が挟まれている

 昼下がりの、温かい木漏れ日がそそぐ館内

 その奥で静かな寝息を立てる人

 木と本の薫りと温かい光に包まれて


 遠くのほうで扉の鐘が鳴ったような気がした

 でも、レイは気持ちのいい眠りの海をただよったまま

 デスクの端に置かれたマグカップの中身はとうの昔に冷めてしまっている

 そんな静寂の世界の中

 琥珀色がカップの中に注がれ、薫りが広がる

 アールグレイの薫りが

 真っ白な二つのマグカップに

 足音はベージュの絨毯に吸い込まれて無くなってしまう

 二つのマグカップを持って近づく姿が、窓からの光に影を作っていた

 その先には蒼銀の髪を輝かす女性が、紅い眸を閉じて世界を忘れていた



 ………コトン






 紅い眸が、アールグレイの薫りと懐かしい雰囲気に瞼を開く

 優しい漆黒の瞳に見つめられながら


 彼女のデスクの小さな本棚には、ただ一冊だけ、やはりちょっと古い本がとても大切そうに立てられていた

 窓から微風が流れ込んできて、その本のページをめくっていった

 そして、ちょっと古い、でもシンプルで可愛らしい栞が挟まれた最後のページで止まった

 そこには、手書きの言葉が本のタイトルと共に添えられていた


 そこに書かれていたのは……………