いつまでも


 猫の額ほど、とまでも狭くはないが、小じんまりとした日本庭園が目の前にある。木造平家のあまり広くない敷地に無理を承知で池まで作ったので手狭にはなったのだが、僕はそれに満足していた。妻のレイは洗濯物が干せないと文句を言ったが、たった一度のわがままだと言って意地を通した。
 四季折々に様を変える景色は、仕事で疲れた心を落ちつかせるのに最適だった。何も考えず、こうしてぼんやり眺めているだけで精神的な疲れが癒されてゆく。
 僕の理想をできうるかぎり実現させた、すべてにおいて完成されていると言いたい自慢の庭なのだが、実はたった1つだけ失敗しているところもある。それは池に作った獅子脅しだ。
 カコーンと響く音は確かに風流ではあったのだが、風鈴の音でさえ煩わしく感じる寝苦しい夏の夜にうつらうつらとしたところをカコーンと音をたてられては眠れたものではなかった。だから今は水の流れを止めてただの飾りになっている。

「本当にいい天気だ、気持ちいい」
 誰もいない縁側でひとりつぶやき、ウ〜ンと伸びをする。

 少し肌寒い秋の乾いた風に、ほかほかとした陽射しが眠気を誘う。

「おそいぞ! さきいっちゃうぞ!」
「まってよ、おにいちゃん!」
 玄関から子供の声。2人仲よく、いつも一緒に遊んでいる兄のシンヤに妹のレミ。

 シンヤはしっかり者で、妹の面倒をよく見てくれるので僕も助かっている。
 多少、無鉄砲なところがあって、近所ではガキ大将を気取っている。今日もこれから子分共を引きつれて、どこかへ遊びに行くのだろう。たまにイタズラが過ぎて僕が謝りに行く事もあるのだが、男の子なんだから仕方がないか、と多少の事には目を瞑っていた。
 しかし近頃では落ちつきが出てきたようで、そんな事もめっきり少なくなった。きっと、リーダーシップを取っているうちに責任感を持つようになったせいだろう。
 レミはお兄ちゃん子で兄の影響を受けてだろうか、少し男の子っぽくて擦り傷などを作ってくる事もしばしばで、もう少し女の子らしくして欲しいとは思っているのだが、元気に育っているのでそれもいいかと自由にさせている。対して妻のレイは「あなたも少し言ってあげて下さい、私が言っても聞かないんですよ」と怪我をして帰ってくる度に怒っていた。そのくせ、お淑やかに、と躾けている割に男の子っぽい格好を好んでさせたりしているのは面白いところで、先日なんかは2人お揃いのオーバーオールを買ってきて着せていた。だからといって無理に着せている訳ではなく、ボーイッシュなレミにはなかなかよく似合っていて、レミも気に入ったらしく「おにいちゃんといっしょ!」と御機嫌だった。買ってきたその日は枕元に置いて寝たほどで、今日も、夕べ洗濯をしてまだ乾いていなかったのを泣きながらレイに頼みこんで乾かさせてまで着ているくらいだ。

 子供達が外へ遊びに行ったので、我が家は急に静かになった。縁側から庭をぼんやりと眺めるのが好きな僕には願ったりの状況なんだろうが、普段騒がしい家庭の喧騒がなくなってしまうのもそれで淋しいものだ。

「まっ、たまにはこうやってのんびり過ごすのも悪くないか…」
 僕は気持ちを切り替えて、今の贅沢なひとときを存分に楽しむ事にした。

「よっこらしょ」
 腕を投げ出し仰向けに寝転ぶと、高くなった空にひとすじの雲が流れていた。

「アスカ…ずいぶん会ってないな…」

 目を瞑り、空の向こうにいる懐かしい友人を思い出していると、床がキシキシと音をたてた。足を忍ばせてくるのがわかり、狸寝入りをしてみる。
 普段ならシンヤかレミのしわざだろうが、2人とも出かけたのでレイだとわかる。

「あなた…?」
 顔を覗き込んでいるのだろう、閉じた瞼の向こうが暗くなった。

「風邪ひきますよ?」
 こんな、妻のちょっとした気遣いが嬉しくて僕は寝たふりを続けた。

「…しょうがないわね」
 レイはそう言うと立ち上がり、僕を置きざりに部屋から出ていった。
 ちょっとがっかりしたが、相手にしなかった僕も悪い。なんだかなあ。

「ふわーぁ」
 本当に眠くなってきた。まあいいや、このまま寝てしまおう。


「ん…?」

 どれくらい寝たのだろう。寝そべったまま辺を見渡すと、高かった日は既に落ちかけていて遠くに見える山並の際を薄紫色に染めていた。
 上体をおこし伸びをすると、いつの間に掛けられていたのか体からタオルケットが、パサリと落ちた。レイが掛けてくれたのだろう。

 板の間で寝ていたせいで、体のあちこちが痛かった。

「ただいまー」
「たあだいまあー」
 ちょうど子供達も帰ってきたようだ。怪我してないとよいのだが、またレイに怒られてしまう。
 僕は、おきたばかりでハッキリとしない頭でそんな事を考えながら生あくびをひとつして、玄関に向かい子供達を迎えた。

「おかえり。おっ! また真っ黒になってきたな。そのままお風呂に入っておいで」
「うん」
「ハーイ」
 素直に言う事を聞いた2人は廊下を走って風呂場に向かった。
 お揃いのオーバーオールは本来持つ作業着としての実力を十分に発揮したようで、怪我もなかったようなのでホッとした。生地が丈夫なので怪我には強そうだしあれだったら汚れもさほど気にする必要もなさそうだ。
 レイの事だから単に自分の趣向じゃなくて、こうなるのがわかってて着せたのだろう。洗い替えにもう一着づつ買う必要がありそうだ。
 いかにもイタズラっ子といった感じのシンヤはもちろん、顔に泥を付けたレミにも妙にしっくりと似合っていたのを思い出し、僕は少し笑った。さっきの泥まみれの格好をそのままレイにも見せてあげたいような気もするが、やっぱり怒るだろうか。

 あぁ、そう言えばレイの姿が見えないな。夕食の買い物にでも出かけているのだろうか。着替えとタオルを用意しないと。廊下も…拭いておくか。

 子供達が泥まみれになって帰ってくるのはいつもの事だけど、今日はまた一段とどろどろになっていた。脱いだ靴の中まで真っ黒だった。



 玄関に置かれたバケツには、ザリガニが2匹はいっていた。


「おなかすいたー」
「わたしもー」
 茶の間でテレビを見ていたシンヤとレミが、僕の書斎の扉を開けて空腹を訴えた。

 時計を見ると、もう7時半ばを過ぎていた。読んでいた本に気を取られていた僕は、時間を忘れるほどすっかりと熱中していた。いつもだったら夕食の時間にはレイが呼びにくるはずなのに、まだ帰っていないのだろうか。買い物にしては時間がかかり過ぎている。

 ひとまず茶の間に集まり、どうしたものかと思案していると、スッと奥のふすまが開き不機嫌そうにしたレイが入ってきた。理由はわからないが、とにかく挨拶くらいはしておくべきだろう。

「おかえり…、遅かったね」
「…どうして」
「えっ?」
「おこしてくれなかった…」
 レイは色の違うタオルケットを抱えていた。1つは僕に掛けられていた物で、もう1つは。

「いっしょに寝てたのに、いつのまにかいなくなってた」
 今にも泣きそうな顔をしている。

 しまった! あの後、レイは添い寝をしていたのか!
 寝ぼけていたのと子供達が帰ってきた声に気を取られて気がつかなかったとはいえ。あぁ、これはマズイ事になったぞ。

 レイの寝おきはいつもこうだった。おきてすぐは無性に淋しくなるようで、2人きりで暮らすようになってからは、それが特に顕著になった。
 家族も増え、最近はこのような事も少なくなっていたのだが、それでも僕が先におきる時には必ずレイも一緒におこすようにしていたのだ。

「ご、ごめん。気がつかなかったんだ」
 とは言ってみたが既に遅かったようで、レイの瞳からは大粒の涙がボロボロと。

「あ〜、いっけないんだ〜。おじいちゃん、おばあちゃんなかしちゃったー」
「おじいちゃん、あやまって!」
 慰めるどころか子供達にも責められて、いったい僕はどうすればいいのさ。

「と、とにかくさ。うん、僕が悪かったよ、どこにも行かないからさ。ねっ機嫌直してよ」
 子供が3人になったようでまったく困ったもんだ。
 でも、そんなレイだから、そんなレイが大好きだから今まで一緒にいられたんだよ。そしてこれからも。

 僕はそんな思いを込めて、こぼれる涙をすくうように瞼にそっとキスをした。

「ヒュウヒュウ、おあついおあつい」
「おあついおあつい」
「こら、大人をからかうんじゃない」
 冷やかされて、つい年がいもなく怒ってしまった。こんな事はずいぶんと久しぶりのような気がする。結婚した当初はこんなふうにしょっちゅうミサトさんにからかわれたっけ。それも今となっては懐かしいな。
 流石のミサトさんもよるとしなみには勝てないようで最近リツコさんと同じ施設に入ったって聞いたけど、あの2人の事だから喧嘩ばかりしてるんじゃないだろうか。まぁ、当分ボケる心配はなさそうだ。
 前に会ったのは…ええと確かレミが生まれる前だったよな。ごぶさただし近いうちにたずねてみようか。そういえば施設の名前、何ていったかな。

 年がいもなく怒っただけでなく照れてもいたようで、そんな考え事をしていた僕はシャツの裾を掴まれた感触でふと我に返った。すると目の前では赤い瞳を更に真っ赤にさせたレイが上目使いで僕を睨んでいた。ちょっとビックリしたけど、顔まで真っ赤にしちゃって頬まで膨らませていては子供達を叱る時みたいな迫力なんてまったくなかった。

 だけど僕にはこれが一番恐しく、ここ何十年と勝てた試しなどない。いつまでたっても可愛らしくて愛おしくて…

 精一杯「愛してるよ」と伝えたくなって、昔っから変わらない細い肩をだきしめた。

「…ばか」
 僕の腕の中でモジモジとしながら少し拗ねたような笑顔をやっと見せた。

 どうやらレイの機嫌も直ったようで一安心だ。

「じゃあ、今日はラーメンでも食べにいこうか?」
「わーい」
「ぼくチャーシューめん」
「わたし…「い・つ・も・の。だよね」
 言いかけた唇を人指し指で塞いでそう言うと、レイはいつもの笑顔でコクンとうなずいた。

 家を出て、近所馴染みの店まで夜道を並んで歩いた。街灯に照らされた僕達の影は、手を繋いだまま地面に長く伸びていた。

 僕は店に着くまで、今と同じように、レイと娘の3人で手を繋いで歩いた頃を懐かしんだ。


 その頃、誰もいなくなった家に一通のファックスが届いていた。

お父さん、お母さん、お変わりありませんか。私は元気にやっています。
昨日初雪が降りました、例年より2週間も早いそうです。そろそろそちらも寒くなる頃でしょうから、体にはお気をつけて下さいね。

シンヤとレミは元気にしているでしょうか。
シンヤは片親のせいか結構お兄ちゃんしてくれて安心できるけど、レミはまだ小さいから少し心配してます。
でも、お父さんは優しいし、お母さんは躾は厳しいけど、お父さん以上に甘いところがあるから大丈夫でしょうね。
子供達をまかせっきりで母親失格でしょうけど、来年初頭には帰国できそうですので帰ったら存分に甘えさせてあげるつもりです。

それでは引き続き、子供達をお願いします。


おかあさんより、だいすきなシンヤとレミへ。

シンヤくん、レミちゃん、げんきにしてますか。おかあさんはげんきでおしごとがんばってるよ。
おかあさんがいなくて、さみしいおもいをさせてごめんね。もうちょっとでかえれるからがまんしてね。
かえったらみんなでどこかにあそびにいこうね。もちろん、おじいちゃんとおばあちゃんもいっしょにね。
どこにいきたいか、かんがえておいてね。

おみやげいっぱいもってかえるから、それまで、おじいちゃんとおばあちゃんのいうことをよくきいて、いいこにしててね。
じゃあ、またおてがみかくからね。げんきでいてね。

以上
カレンより、愛する家族へ。

P.S
そうそう、あんまり子供達の前でイチャつくのはやめてね。私でさえ、あてられるんだから。











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