漆黒の髪を持つ中性的な容貌の少年がこちらを見詰めている……。
あなたは誰?
少年は私が持っていない様々な表情で私に話し掛けてくる。
『……綾波が生きていたから……嬉しくって泣いてるんだよ』
『別れ際に…さよならなんて悲しい事言うなよ』
『……そういう時は…笑えば良いと思うよ』
『綾波って主婦とかが似合ったりして…』
『…また裏切られるんだ。祈りみたいなものなんだ……』
「………――
くんっ!?」
目の前の少年の名前を呼ぼうとして、なぜかその名前を思い出せない自分に気が付いたとき目が覚めた。
「……今のは何? ……あれが夢? ……私…夢を見たのね……」
生まれて初めて見た夢を思い出し、なぜかそこに登場した少年を自分は知っていると思った。
会ったことなど一度も無いはずなのだが……。
頬を何かが伝う感触に、虫でもいるのかと動かせる方の手を使ってそれを排除しようとする。
だが彼女の予想に反し、指先はなぜか濡れていた。
「……これは…涙? …泣いてたの、私?」
これまで泣いた事など無い少女は戸惑ったような声音でじっと自分の指先を凝視する。
「……あなた誰?」
すでにぼんやりとしたイメージでしかない少年の事を考え、目の前にいないはずの相手に質問する少女。
それは彼女の無表情さと相まって、どこか奇妙な印象を与えた。
そして彼女の眼が再び閉じられるまでには、かなりの時間を要したのだった……。
蒼銀の髪に赤い瞳の少女がこちらを向いている。
無表情にも見える少女の口が開き、僕に向かって言葉を紡ぐ。
普通のヒトにはわからないだろうが、自分は少女の表情の微かな変化を見逃さなかった。
『なに泣いてるの…?』
『ごめんなさい……こういう時、どうしたらいいのか…わからないの…』
『そう…良かったわね…』
『なに言うのよ……』
『これは私の心……。碇くんと一つになりたい…』
『あなたは何を望むの…?』
「綾波っ!!」
ベッドで眠っていた青年は自分の声で目が覚める。
そして見慣れたはずの天井をぼんやりと見詰め、放心したように脱力する。
「……夢か…」
そう呟いてゆっくりと体を起こすが、その顔にはほとんど表情の変化が見られない。
だが自分の頬の上を動くものを感じ、無意識に指でそれを拭った。
「これは……涙か…。ふっ…この僕がまだ流す涙を持っていたとはな……。僕の失った部分を再び揺り動かすのは綾波、やっぱり君だけだよ……」
どこか寂寥感を感じさせる青年は、そう呟くと暗い室内で姿勢を崩さずに何もない空間に視線を彷徨わせる。
「だが……いつか必ず……必ず見つけて見せるよ、綾波………」
決意を込めた言葉は、他に聞くものも無く闇へと消えていった。
ここは異界空間にある古城。
周囲はこの世の果てとも言える不気味な景色を提供している。
強いて言えば、昔のホラー映画に出てくる吸血鬼や悪魔が住んでいる不気味な森の中の城といった感じだ。
「ご主人様〜! ご主人様〜!」
パタパタと駆けてくる足音で、書斎で常人が全く読めないような不可思議な文字で書かれた古書を読んでいた青年が顔を上げる。
肩まで伸ばした柔らかくストレートな黒髪、ややほっそりとしているが美形と言って良いのだが、冷たい印象を与える容貌。
だが何より違和感があるのは、彼の双眸が紫がかった黒であることだろう。
魔術師の着るようなゆったりとしたローブを着た青年はゆっくりとドアの方を向く。
「ご主人様、入ってもよろしいでしょうか?」
ノックに続いてドアの向こうからかけられた声に、穏やかな口調で答える青年。
「お入り」
青年の了解を受けてドアがゆっくりと開けられる。
そして姿を見せたのは、なぜかメイド服に身を包んだ少女。
その頭に見える猫耳を除けば、やや茶色がかったショートヘアにまず美人と言える容貌。
そして大きくもなく小さくもない、スタイルに合わせたようにバランスの良い胸。
どこから見ても獣っ娘というかメイド娘というか………。
なかなかに正体不明である。
「随分急いでいるようだが、何があったのかというのかね、マナ?」
顔の筋肉を動かすのも面倒なのか、無表情で尋ねる青年。
だが口調はひどく穏やかだ。
元々こういうタイプなのだろう。
「あっ! は、はい……。昔々のご主人様が居た場所に近い所から召喚がありました〜」
青年の無表情だが優しげな瞳に、主人が怒っていないと理解した少女はポカンと見惚れていた自分を無理矢理現世に復帰させて返答する。
「あの世界? ああ、10年前に行ったあそこか。へぇ……。召喚にしてもこれは珍しい形だな」
青年から返ってきた言葉はそれだけだったが、本来今は彼女の主人にとって貴重な研究(読書)の時間である。
その間、普通なら邪魔する事は厳禁なのだ。
しかしここ10年ほど、あの空間からのコンタクトなど皆無であったため珍しい事もあるモノだと好奇心に負けて主人の下へと馳せ参じたのだった。
それ故、先程はかなりビクビクしていたのである。
スッと優雅に伸ばされたその手に、恭しく手紙を乗せる。
ゆっくりと引き戻された手は、たかが手紙の封を開けるのになぜそんな手つきを……と言うほど艶めかしかった。
「ふうん………。」
中から出した手紙を一瞥した青年は、興味を失ったかのようにデスクの上にそれを放り投げる。
主人の雰囲気が一瞬変化した事を、獣特有の鋭さで察知したマナは怖ず怖ずと口を開いた。
「あ…あの……ご主人様? どなたからだったんですか?」
「ああ、名字は知らないがゲンドウっていう人みたいだよ」
そう言ってデスクの上に放り投げた手紙をスッとマナの方に投げてよこす。
まるで誘導されているかのように、手紙はマナの差し出した手の上に落ちる。
そして見開かれるマナの双眸!
「ご、ご主人様! これって一体!?」
「ふむ、マナでもやっぱり意味が分からないか? 確かに召喚っていうのはそういうことだけど、シンプルだよね」
驚愕に彩られたマナの声に、のんびりと言って良い程平坦な声で答える青年。
「中身はこれだけなのでしょうか?」
「他にはこれ」
そう言っていつの間にかマナの手には一枚の写真とチケット、そして何かのカードが……。
「むっ! これって風俗関係者でしょうか?」
「さあ、少なくとも記憶にはあまり残っていない人だね。察するにあまりまともな頭脳は持っていないようだけどね。まあ僕を召喚しようと言うその願いの
大きさは驚きだよ」
僅かに首を傾げると、青年はわかるわけないだろう、といった風にマナという少女を見つめる。
いかに見慣れているとはいえ、青年に正面からジッと見つめられたマナは頬を真っ赤にし、モジモジと身体をくねらせる。
彼女にとって青年の視線は一種の媚薬のように作用するようだ。
「おや、どうしたんだマナ? ああ、当てられちゃったのか……」
「にゃ〜ん……ご主人様〜〜」
猫耳がピンと立ち、いつの間にか現れた2本の尻尾がぴょこぴょこと動いている。
そんなマナの方に腕を伸ばす。
マナの方でも、青年の意図を察してピョンと擦り寄り膝の上に乗る。
優しく喉を撫でてくれる主人に、ゴロゴロと喉を鳴らしながらとろけるような悦楽の表情を浮かべているマナ。
「全く……こう言うところはいつまでたっても元のままだなぁ……」
そんな事を呟いた青年は、彼の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしているメイドと共に日向ぼっこへと行動を修正したのだった。
「ふーん……それで昼間からご主人様に可愛がって貰ったと……」
その夜、食卓で並べられていた料理を食べている青年を前にして、ストレートの黒い長髪に眼鏡をかけた美貌の少女が、やはり美貌を持つ猫耳少女を冷たい眼差しで見つめていた。
「マ、マユミちゃん〜! あ、あれは不可抗力だったんだってば!」
マユミと呼ばれたメイド服姿の少女に射すくめられるかのように身を縮めたマナが反論する。
だがその声は弱々しい。
よく見れば二人ともメイド姿であり、マユミの方は背中に小さな一組の翼が存在している。
「ええ、マナさんの言うとおり、確かに不可抗力だったんでしょう! それは認めてあげます! でも、問題はマナさんが昼間ご主人様に可愛がってもらった
という事実なんです!」
妙に物わかりはよいのだが、きっぱり、はっきりと事実関係のみを焦点に絞って責めてくるマユミにタジタジのマナ。
「にゃ〜ん……マユミちゃん怖い〜〜」
さらに身を縮めて萎縮するマナ。
「全く……私がお庭の掃除をしている時にそんな事をしていただなんて! 羨ましいです! 贔屓です! 私だって……」
すでにマナを責めるのではなく、目に涙を溜めて拗ねているようだ。
「やれやれ……マユミもそんなにマナを責めてはいけないよ。僕だって不注意だったんだから」
見かねて青年が仲裁に入る。
「で、でもご主人様! マナさんばっかり狡いです!」
涙目で青年を見つめるマユミ。
今度は対象が青年へと変更になったようだ。
「しょうがないね。じゃあ明日の昼は食事の後ずっとマユミを胸に抱いて日向ぼっこしてあげるから拗ねないように」
「ほ、本当ですか!?」
今泣いたカラスが何とやら……。
顔に喜色を浮かべてご主人様を見つめるマユミ。
余程嬉しいのか、背中の翼がさっきより大きくなっている。
「うう……マユミちゃん狡い〜。私せいぜい2時間ぐらいだったのに〜〜」
今度はマナが涙目になって抗議の視線を青年に送る。
「そんな事を言ったって僕の身体は一つしかないからね。それにやっぱり1対1の方がいいでしょ?」
そう言われてしまい、俯くマナ。
耳は力無く垂れ下がり、まるで捨てられた子猫のようだ。
「仕方がないな……。じゃあ明日の夜は二人とも一緒に寝てあげるから、それで我慢するように」
それが最大の譲歩だと言う事を、長い付き合いで理解しているマナは嬉しそうにコクコクと頷く。
というよりその方が何倍も嬉しい事なので文句などあるはずがない。
「えっと……それで……その変な召喚というのはどうなったんですか?」
あれから2日後、妙に生き生きとしたマユミが青年に尋ねる。
前の晩、愛しのご主人様と一つのベッドで就寝したために今だ夢心地だったのだが、その原因となった出来事を思い出したのだろう。
無論、やはり青年を挟んで反対側で眠ったマナもご機嫌であり、こちらは未だ意識がアッチへと逝っていた。
「ああ、何やら呪いの類かと思ってスキャンしてみたんだ。この手紙に触った人間の事をね」
パチンと指を鳴らして空間から手紙を取り出すと、何やらよく分からない事を述べる青年。
「呪いでしたら身の程を弁えない行為です。ご主人様にそのような事をすれば確実にその身を滅ぼされるでしょうに……」
マユミがやれやれと言った風に頭を振る。
「それがねぇ……呪いじゃなかったのよ」
漸く現実に戻ってきたらしく、その場に同席していたマナが口を挟む。
「ではこの巫山戯た手紙と写真は何なのでしょう?」
「ふむ、僕もすっかり忘れていたのだがね、どうやらこれは僕の人間だった時の遺伝子上というか血縁上の父親に当たる存在からの手紙らしい」
微かに困ったというか呆れたような表情で、どうでも良い事のように答える青年。
「はあ…? ということはご主人様のあの世界にいた時の名前が『碇シンジ』ですから………差出人は碇ゲンドウというのですか?」
「どうもそれが僕の父親だった存在の名前のようなんだが……。まあ、厳密に言えば僕の親ではないんだろうけど。
どちらにしても、もう僕の主観時間では500年以上も前の事だからねぇ。覚えてなどいないのだよ。
それにしても余程の執念というか欲望というか…、こんなに強い欲望が染みついている人間は久しぶりだ。
あの世界の10年前に、一人の少年の願いを叶えてあげたから、それによって引きずられたのかもね」
こんなやり取りをしているにもかかわらず、青年、碇シンジの表情は一見微動だにしていない。
本当は微かに表情が変わるのだが、それが分かるのは長年(ここ20年ほど)一緒に暮らしているこの二人ぐらいだろう。
ここで種明かしをしてしまえば、既に読者の皆さんもお気づきの通りこの二人のメイド少女は人間ではない。
マナはその外見から想像できるように化け猫であり、マユミは人面鳥パーピーである。
元々はシンジが旅した異世界の住人なのだが、シンジに助けられて懐いてしまい、彼と契約して眷族というか使い魔のような存在となってここにいる。
この二人から主人と言われている『碇シンジ』。
尤も、この二人はすっかりメイドさんになってしまっているのだが……。
彼はこの空間に居を構える魔神といって良いほどの力を持っており、かつてふとした事が切っ掛けでその身に眠っていた前世の記憶、知識、人格が蘇った青年である。
そう、かつての彼は一人に飽きて、たまたまある世界に生きる人の中に自らの魂を封じ込め、何世代にも渡って転生を繰り返してきた。
そこで彼がそれまで持っていなかった様々な感情を手にしたのだ。
すっかり元が魔神であったという記憶を失い、人間として輪廻を繰り返していた彼だったが、サードインパクトによってかつての自分が何であったかを思いだした。
そして人間の心を持ったはずの彼は、その中のある部分を失ったまま新たな人格を作り上げこうして暮らしているのである。
自らの能力に目覚めた彼は、自分が置かれた面白くもない境遇を捨て去り魔神であったころに暮らしていたこの異空間の城へと戻ったのだった。
そして自らの能力をせっせと向上させて、異なる時空世界を旅してまわり、さらなる力を手に入れた。
この段階で既に不老不死の存在となっているシンジは、旅の途中で手に入れたマナとマユミと共にこの城で暮らしている。
普段はある目的のために、魔術をさらに極めんと様々な勉強や実験をしているが、気が向けばどこかの異世界へと旅するのである。
ちなみに彼が暮らすこの空間は、あらゆる次元や時間に通じる回廊のような所だ。
行こうと思えばさまざまな世界や時間の流れに行く事が出来る。
「それでどうなさるのですか、ご主人様?」
「僕が昔いた世界はそれ程面白いところじゃなかったからね。あの世界もほぼ僕がいた世界と同じだ。今更行こうとは思わないよ」
淡々と返答するシンジ。
彼の判断基準は、彼が追い求める存在がいるか、好奇心を惹くモノがあるかどうかである。
今回召喚があった世界は、すでに近い世界で何世代にも渡って生きてきたため、今更行く価値を見出していないのだ。
「それに、この父親とか言う人間がこれじゃあね……」
そう言って手紙に残存する残留思念というか残滓を増幅して空間に浮かび上がらせる。
彼の掌の上で浮いている手紙は、何やら光り輝く魔法陣の中に置かれており、それによってこのような事を為し遂げているのだろう。
「ひっ!? な、何ですかコレは?」
マユミが妖魔のくせに、現れた妖怪じみた顔に小さな悲鳴を上げる。
「ねっ! これって凄いでしょ? 私もコレを見た時呆れちゃった!」
「ご主人様は本当にコレと血が繋がっていたのですか?」
なにげに酷い反応な二人の少女。
まあ、サングラスに髭、さらに陰惨な雰囲気を醸し出している男、碇ゲンドウの姿を見ればやむを得ない反応だろう。
「この辺は生命の神秘というか、遺伝の妙という奴だろうねぇ」
さすがに感慨深いのか、シンジの表情が動き苦笑する。
「でもあの世界はここしばらく覗いていませんでしたね。今はどうなっているんでしょう?」
純然たる好奇心から紡ぎ出された言葉……。
実際、何かが動く時など発端はそんな些細な事なのだろう。
「マユミの言うとおりだね。ちょっと覗いてみようか?」
そう言ってシンジは何やらブツブツと呟くと、右手を上げてスラスラと空中に何かの文様を描いた。
すると空中に光り輝く直径2m程の魔法陣が現れる。
「さて、どこを眺めようか?」
「このチケットの行き先であった第3新東京市がいいんじゃないですか〜」
主人の呟きにマナが提案する。
「ふむ、マナにしては良い選択だね。ではそうしよう。向こうの世界の約束の時間に繋げるか……」
目を瞑り、何やら精神を集中させて再びシンジがその双眸を開いた時、魔法陣の上に揺らぎが生じてどこかの風景が映し出される。
それは退屈とは無縁だが、彼の好奇心をくすぐるにはまだ弱い光景だった。
3人が見た光景、それは特撮映画と思えるような巨大怪獣対防衛軍の激戦だった。
さらに映像は進むが……途端にそれまで無表情だったシンジの目が細く引き締められる。
彼がここまでの表情変化を見せる事は珍しい。
「まっ!? まさか……そんな筈は……」
信じられないモノを見たという口調で言葉を紡ぐシンジ。
そして彼は手紙という奇妙な形の召喚に応じる事を決意した。
船の艦橋を思い起こさせる空間をぶち抜いた発令所。
そこに電話のベルが響き渡る。直通のホットラインだ。
それを取る将校。
「………はっ、わかりました。」
受話器を苦苦し気に置くと、国連軍将校は後ろに控えていた髭面と老人の方を向く。
「碇君、たった今から指揮権は君たちに移った。
我々の武器が敵性体に通用しなかったことは認めよう。だが君なら勝てるのかね?」
「ご安心ください、そのためのNERVです。」
ニヤリと笑みを浮かべ、サングラスを押し上げて答える髭面の男。
名前は碇ゲンドウ。国連非公開組織NERVの総司令である。
隣に立つ老人は冬月コウゾウ。NERVの副司令だ。
その答えを忌々しく思いながら、国連軍将校達はデスクごと下に降りていった。
「国連軍もお手上げか………。だが一体どうする気だ、碇? シンジ君は10年前に行方不明のままだぞ。
一応預け先に手紙を出したのだろうが、諜報部の話ではあそこには10年前から一度も戻っていないようだしな……」
冬月が淡々と事実のみを告げる。
「問題ない……。所詮予備がいなくなっただけだ。レイを使って初号機を出す」
「ほう……だが耐えられるのかね?」
「問題ない……。死ねば3人目になるだけだ」
「だが初号機が動かなければどうしようもあるまい?」
「………………」
何やら端で聞けば問題だらけの会話だが、これが組織のトップの間で話されている内容だと知れば、部下は逃げ出すかもしれない。
「冬月……私はケージに行く。後は頼む」
そう言い残すと、ゲンドウは立ち上がり己の人形を戦いへと送り出すために初号機の眠るケージへと向かった。
ゲンドウが黙って冷却用のLCLに浸かった初号機を見上げていると、突然目の前に光り輝く何かが現れた。
「むっ…! 何事だ?」
珍しくゲンドウが驚きを見せながら呟く。
光が収まると、そこには異様な風体の3人組が立っていた。
「ふむ……。どうやらここに召喚者がいるようだな」
「あ〜! ご主人様〜。あれが碇ユイが取り込まれたエヴァンゲリオン初号機ですか〜?」
ピコピコと猫耳と尻尾を動かしながら、紫色の鬼を見上げて楽しそうに尋ねるマナ。
相変わらずメイド服だ。
「はあ……こんな物を15年もかけて造ったんですねぇ……」
こちらは呆れ顔のマユミ。
マナと違って完全に翼を隠して人間形態を保っている。
まあ、メイド服なのは同じなのだが……。
「貴様ら……何者だ? どうやってここに侵入した?」
後ろからドスの利いた低い声で誰何されたため、シンジは漸く後ろに人がいる事に気が付いたように振り向く。
「ふむ……。この僕を自分で呼び出そうとしたくせに礼儀を知らぬ奴だな。外見通り大した男ではないらしい。僕の名は、かつて碇シンジと呼ばれた者。
お前が碇ゲンドウだな?」
ゲンドウが発する陰惨なプレッシャーを、青年はそよ風でも吹いてきたかのように受け流して気にしない。
自らの威圧感を物ともしない事に苛立ちを覚えながら、表情一つ変えずにそう言い放った黒いローブを着た青年を凝視するゲンドウ。
だが目の前の青年が言い放った固有名詞に気が付き、思わず惚けたような表情で口を開く。
「な、何……? お前がシンジだと?」
予想外の出来事に、頭は悪くないが現実主義者のゲンドウは混乱する。
「そうだ。今の名前は……ルイス・サイファーという。
しかし、僕はかつて碇シンジであり今では碇シンジと同一な者、それだけでお前には十分だろう。
さて、僕を呼びだしたのは何の願いがあっての事だ?」
自らの問いに肯定の返事を返してきた青年に、さらなる混乱を与えられるゲンドウ。
「その前に……どうやってここにやって来た?」
さすがはNERV総司令、混乱しつつも現実に戻ってきて尋ねるべき事(?)を口にする。
「それは我が魔法によって……。僕は外の状況も知っているし、このエヴァンゲリオンとやらが何なのかも知ってはいる。お前の思惑も大体はわかって
いるつもりだ。だがここで問おう。お前の本当の願いは何だ? 今回呼び出されたから一つだけ叶えてやるぞ。無論、対価は貰うがな」
それに対して返ってきた答えは、自分をバカにしているとしか思えない内容だった。
それはゲンドウによって招集された保安諜報部の黒服や、起動準備をしていた赤木リツコも同じだった。
ゲンドウの後ろにたむろしているが、話がわからないため参加できない。
ちなみに葛城ミサトは未だ姿を現していない(理由は不明)。
「ご主人様〜。予想通り、碇ユイの魂はあの人形の中に眠っています〜」
「でも完全に融合しているわけではないので、レベル5の魔法で分離可能です」
そこへ、さらに訳の分からない事を言いながら青年に近寄るメイド二人。
『あら……あの娘、猫の格好が似合っているわね……』
マナを見て、リツコが密かに可愛いと思っているのは内緒だ。
「ふん……貴様がシンジであるなら簡単だ。シンジ、お前がこれに乗って使徒と戦うんだ」
そう言ってシンジの後ろに鎮座しているエヴァ初号機を指差すゲンドウ。
「僕は別にそれでも構わないが、お前の真の願いはそうではないだろう? 先程言ったように、叶えてやる願いは一つだけ。
よく考える事だ。僕の前で自分の願いを偽る事は愚かだぞ。
お前はこの木偶人形の中に取り込まれている碇ユイに再び逢いたいのではないのか?」
目の前の青年が発した言葉に驚愕するゲンドウとリツコ。
その事を知っている者はNERVでも極めて少数なのだ。
それを目の前にいる怪しい青年は呆気なく口にした。
「貴様……何を知っている? 何者だ?」
ゲンドウは威圧するように声を低くして尋ねる。
だがそんな事はシンジに通用しない。
「僕は大抵の事は知っていると言っただろう。僕の力を使えば、この場で碇ユイを復活させる……お前達の言葉で言えばサルベージする事ができる。
だがお前がそれを望まないというならば、僕は別に構わないぞ」
先程から何ら表情を動かさずに淡々と言葉を発する青年に、なぜか圧倒されるゲンドウ。
漸く気が付いたのだが、身体から発するプレッシャーが桁違いなのだ。
そして本当なら今の重要事項は使徒撃退であるにも関わらず、自らの裡からふつふつと湧き上がってくる本当の願いを抑える事ができなくなっていた。
「本当に貴様はユイをサルベージできるのか…?」
しばしの睨み合いの後、ゲンドウは遂に己の心の奥の願望を口にした。
「し、司令!?」
その台詞を聞き狼狽するリツコ。
今はそれどころではないのだ。
使徒がすでに第3新東京市に入ろうとしている。
その時、ケージのドアが一つ開き、そこから医療用キャスターに乗せられた少女が運び込まれる。
ファーストチルドレン、綾波レイだ。
「ふむ、役者が揃ったようだね。まずお前の問いに答えよう。僕の力を持ってすれば造作もない事だ。ただ、報酬は高いぞ?」
「そんなものは問題ない。もし本当ならお前が望むものを与えよう」
ゲンドウは即答した。
彼は妻であるユイが戻ってくればそれで良く、他の事に一切の関心など持ってはいない。
それにもし駄目なら、計画通りレイを乗せるか、目の前のシンジと名乗る男を初号機に乗せればいいのだから、と瞬時に計算する。
「そうか。では報酬だが、そこにいるアルビノの少女を貰い受けよう。それでも構わないか?」
「なっ!? 司令、そんな男の口車に乗ってはいけません!!」
シンジの言う報酬の中身を聞いて叫ぶリツコ。
だがゲンドウにとって、レイは所詮ユイを取り戻すための道具に過ぎない。
ユイが戻って来さえすれば、レイなど用済みなのだ。
「…お前が本当にユイをサルベージ出来れば、レイなどお前にくれてやる。……役目の終わった道具など不要だ」
傲慢に言い放つゲンドウ。
その言葉を聞いて、グッタリと横たわっていたレイの身体が微かに反応する。
その言葉はゲンドウから二人の絆を切り捨てるモノだったから……。
「よろしい。契約は成立した。ではこれからサルベージを始めるが、その前に一つ用意して貰いたいモノがある」
「何だ……言って見ろ」
ゲンドウの後ろでは、既に蚊帳の外に置かれたリツコが悔しそうに俯いている。
「何、簡単な事だ。碇ユイは眠っている。したがって自分の肉体をイメージできない。だから魂の依り代となる肉体が必要なのだ、そこで、綾波レイの素体
を一体持ってきて貰おう。綾波レイの遺伝子は、その大部分が碇ユイのものだから修正も簡単だし、何より肉体を殆ど変化させなくていいからね。
特別に最終調整で完全な人間の遺伝子配列に変えてやろう」
シンジを名乗る青年の口から飛び出た言葉は、リツコに心臓を鷲掴みにされたような恐怖を与えた。
なぜこの青年はそんな機密事項を知っているのだろう?
スパイ等というレベルでは無い。
何やら人間とは思えない得体の知れなさを感じる。
だが現実はリツコの恐怖などとは関係なく進む。
「赤木博士……。すぐに素体を持ってくるんだ。…………早くしろ!!」
動かないリツコに声を荒げるゲンドウ。
一瞬、憎しみを表情に浮かべるも、命じられたままにその場を後にする。
「どうでもいいけど、この保安諜報部だっけ? いいのか、この場に居させて? ユイは裸でサルベージされるんだぞ」
シンジの揶揄するような言葉にハッとするゲンドウ。
それにレイの素体をこの連中に見られるわけにはいかない。
「貴様ら……俺が命じるまでケージの外で待機しろ」
どう聞いても理不尽な命令なのだが、黒服達は黙ってケージの外に出ていく。
さらにゲンドウはリツコがターミナルドグマから戻ってくるルートを隔離し、一般職員に見られないように処置をする。
その手際はなかなかに素早い。
「ご主人様……。何か手際いいですね」
「そうだね。やはり一番欲しいモノが手にはいるとなると、人間はそれを全てに優先させるんだね」
「でも、完全に使徒とかいう存在を忘れていますね」
「フフフ、それは言ってはいけないよマユミ」
「ご主人様、奥様にご挨拶しなくてよろしいんですか〜?」
シンジに口止めされてマユミは慌てて口をつぐむ。
一方シンジは、マナの一言に頷くとストレッチャーに乗せられた蒼銀の髪を持つ少女に視線を送る。
シンジはまだリツコが戻ってくるまでには時間がある事を知っているので、ゆっくりとストレッチャーに寝かされているレイに近付いた。
だが彼女は何の反応も見せない。
シンジは横に立つと、レイの虚ろな紅い瞳を覗き込む。
おそらく、ゲンドウによって呆気なくシンジへと譲られてしまった事に絶望を感じているのだろう。
その表情からは生気が感じられない。
「やあ、君が綾波レイだね。地下にあるリリスを元に造られたエヴァ初号機と、碇ユイから創り出された禁断のヒト。
いや、リリスの魂と言うべきか? 随分久しぶりになるけど、今の君は覚えていないだろうね」
いきなり視界に入ってきて自分を見つめる黒髪の青年を無視していたレイは、かけられた言葉に驚愕の表情を浮かべ視線をシンジに合わせる。
シンジは敢えて最もレイが反応するであろう事柄を口にして、彼女の注意を自分へと向けさせたのだ。
だが青年の事を認識したレイは奇妙な既視感を抱いている自分に気が付く。
「…あなた誰? なぜその事を知っているの?」
「それはこの世界の事を調べたからだよ。君という存在を含めて全てをね。そして碇ゲンドウの願いを叶える対価として、君の身柄は僕のモノになった。
これからある儀式を行えば君は僕、碇シンジのモノだ。いいね、綾波?」
自分と同じように無表情で言葉を発する青年と、初めて見た夢に現れた表情豊かな少年には大きな差があるのだが、その容貌が何となく一致する事に気が付いたのだ。
それに青年が自分の秘密を知っている事にも驚いたのか、レイはいつもの無関心が嘘のようにジッと青年・碇シンジの事を見つめる。
これは良い兆候かもしれないと思ったシンジだったが、その時レイが瞳に微かな悲しみを浮かべて居る事に気が付く。
「大丈夫。絆なんてモノはいくらでも作る事が出来る。君さえその気になったらね。君は人間でない事を気にしているようだけど、
僕も、それに一緒に来たあの二人だって人間じゃない。3人とも種族が違うしね。でもそれでも絆なんてモノは作れるのさ」
そんなシンジの言葉に瞳に浮かんだ哀しみが揺らぎ、微かに生気を取り戻したのか意志の力を感じさせるようになるレイ。
「もう一度尋ねよう。君は再び僕のモノとなる。それでいいね?」
今度はコクリと頷くと、口を開く。
「……それが命令なら従うわ」
「命令というわけではないが、君は唯一の絆だと思っていた碇ゲンドウに捨てられたと思っているんだね? まあ、ゲンドウにとって、妻である碇ユイ
が戻ってくれば君はいらないらしいけど、僕は君が必要だ。一緒にいたいと思っている」
「そう……貴方は私に絆をくれるの…?」
そう呟いたレイは、まるで捨てられた子猫のようだった。
まあ、唯一絆があると思っていたゲンドウに、こうも呆気なくいらないと言われるとは思わなかったのだろう。
そんなレイに力強く頷くシンジ。
「君は覚えていないけど、僕と君の間には古からの絆があるのさ。ああ、その前に君の怪我を治しておこう。少しじっとしていたまえ」
そう言ってスッと右手を掲げると、掌に光が集まってくる。
それはスーパーボール大の光の珠となって宙に浮いていた。
「…それは何?」
「これは魔術球。僕の念を込めて解除すれば、予めインストールされている魔術式が発動されて魔法を行使する事が出来る。
これには君の身体と魂を治癒し、制約を解くための術式が入っている」
シンジに言われてよく見ると、宙に浮いている珠は暗い紫色に輝いている。
だがいくら見てもそれが何なのかわからなかった。
「この世界にいる僕という存在は、本来の世界にいる僕の一部というか端末だ。だから大きい魔法を触媒も無しに使うと大変なんでね。
こうやって予めこれに魔術式を込めておくのさ。こうすればこの世界でも僕は強力な魔法を使う事が出来る」
シンジの言葉を理解できないレイは、不思議そうな表情でその珠を眺める。
「まあ効果は体験してみればわかるさ。ほら」
そう言ってシンジが魔術球を手に握ると、レイに軽く押し当てて魔法を発動させる。
その瞬間、冷たいモノが身体を駆けめぐったような感触があったが、珠が発した光が収まるとレイは自分の身体の痛みが無くなっている事に気が付いた。
そして何かが……頭の奥から何かが湧き上がってくる感覚を覚える。
先程から感じている既視感もずっと強くなっている。
「……痛くないわ。…これが魔法なの?」
「そうだよ。これが魔法だ」
理解する事は出来ないが、事実は事実として受け入れる。
身体の傷は治ったのだから……。
「貴様……レイに何をした?」
目の前の出来事が理解できないゲンドウが尋ねる。
「何、彼女の身体を治しただけだよ。それぐらいはサービスさ。それよりさっきの人、遅いねぇ……」
ゲンドウの威圧感など露ほども感じずのらりくらりと答えるシンジ。
そんな彼の姿に苛立ちを覚えるが、ゲンドウとしてはここで打てる手はない。
さらにはレイがこれまでと異なり、絶対零度の拒絶を込めた視線を送り込んでくる。
そんなレイの視線に思わず視線を逸らすゲンドウ。
絆をあっさりと捨てたゲンドウである。
拒絶されて当然だろう。
だがこの小心な男はそれを許容できなかった。
即座にレイを意識の外へと追いやる。
そんなゲンドウを、シンジは無表情に見つめていた。
「ご主人様、どうやら戻ってきたようです」
人間などより遙かに鋭敏な感覚を持つマナが、こちらに急いで向かっているリツコを捉えた。
「そう、じゃあ魔法陣を展開させようかな」
頷くとシンジは目を瞑って精神を集中させ、その手に幾つもの魔術球を創り出す。
そして次々に起動させるべく念をを込めていく。
『分離』『集束』『誘導』『憑依』『復活』『調整』のための魔術式が込められた魔術球は初号機へと向かって宙を飛び、その周囲を囲むように滞空している。
「あれは何だ?」
次々と眼前で起きる理解不能な出来事に、かつて科学者だった頃の好奇心を刺激されたのか質問してくるゲンドウ。
「あれにはそれぞれ今回のサルベージに必要な魔術式が圧縮してインストールされている。素体が届けばいつでも開始できると言う事だ」
何でもない事のように答えるシンジに目眩を覚えるが、過程などどうでも良く、ユイと再会できる事しか考えていないゲンドウはそれ以上の質問をしなかった。
そこに漸く綾波レイの素体をキャスターに乗せたリツコが、息を荒げて入ってくる。
「ご苦労様。では素体を初号機の前のLCLに投げ入れてください」
リツコとしては全然納得できなかったが、ゲンドウに睨まれてシンジの指示通り連れてきたレイの素体をLCLの中に投げ入れる。
「さて、全てのパーツは揃ったね、では始めようか。"解除"!」
シンジの言葉を合図として、空中に浮かんでいた魔術球が次々と光り輝き、初号機を包み込む積層魔法陣を形成していく。
そして魔法陣に描かれた文字らしきものが光り輝くと、各層の魔法陣が回転を始める。
その光景は科学者であるリツコの常識を根底から覆すものだった。
「混じり合った二つの魂よ……今ここに元の姿に戻る時が来た。我が命に従い、全ての状態を始まりの時へと巻き戻せ」
シンジの発する言葉によって、魔法陣の発する光が青から赤へと変わる。
魔法陣に包まれた初号機に、雷撃のようなモノが何本も突き刺さる。
そして全ての積層魔法陣から初号機へと雷の槍が突き刺さり、一際激しく魔法陣が輝いた後、回転を止めると同時に全ては跡形もなく消し飛んだ。
光が収まると、後にはコアが剥き出しとなったエヴァ初号機が寂しく佇んでいる。
「ユイは、ユイはどうなったのだ!?」
呆気にとられ立ち竦んでいたゲンドウは、我に返るとシンジに食って掛かる。
だがシンジは少しも慌てはしない。
「よく見る事だ。ほら、あそこに浮いているだろう」
そしてシンジの指差す方を見ると、確かに先程投げ入れたレイの素体より成長し、髪の色が黒く、肌の色も普通の日本人にしか見えない成人女性がプカプカと浮かんでいた。
仰向けに浮いているためその顔を見る事が出来る。
それは確かにゲンドウがこの10年、取り戻そうと躍起になっていた大事な存在だった。
「ユイ! ユイ!!」
叫びながら冷却槽へと駆け寄るゲンドウ。
「やれやれ、少しだけサービスしてやるか」
そう言うとシンジはスッとユイを指差した腕を上へと上げる。
するとユイの身体は淡い光に包まれて、ゆっくりとアンビリカルブリッジへと運ばれた。
尤も、彼女を持ち上げているモノなど見えはしなかったが……。
「ユイ! ユイ! 眼を開けてくれ!!」
必死に叫ぶゲンドウ。
その声が届いたのか、ユイの目がゆっくりと開き始める。
「……あ…あなた?」
目の前にいる少し老けた夫の顔を見たユイがゆっくりと口を開く。
「ユイ! ユイ〜〜〜!!」
しっかりと妻を抱き締めて涙を流すゲンドウ。
それは補完計画を行わなければ二度と会えないと思っていた妻と、普通に再会できた事への喜びからだった。
そんな男をリツコは憎々しげに睨む。
手をきつく握りしめ、そこからは血が滲んでいた。
「ささ、奥様こちらです〜」
「ええ……わかったわ」
「さあ、帰りましょうご主人様」
「マユミ、焦ってはいけないよ。さあ、綾波。自分を解放してごらん。先程の治療によって君を縛るモノは全て排除した。そうすれば僕と君に絆がある
と言う事が理解できるよ」
「ええ。さっきから…何かぼんやりと………………………そう!? そういうことなのね! ああ……奇蹟ね。…じゃあ……あなたは…私の知っている
碇君?」
「思い出したみたいだね、綾波。その通りだよ。やっと会えたね」
「嬉しい…。でも…この世界の碇君は?」
「彼は10年前、僕を召喚して安らぎを求めた。今では僕と同化している」
「そう……」
目の前で繰り広げられる愛人たる男と妻の再会に心を奪われていたが、ケージの一角から穏やかだが異質な会話が聞こえてくる。
ふとリツコが顔を上げてそちらを見ると、シンジと視線が合う。
そしてリツコは恐怖する。
シンジの瞳が紫色に輝いており、自分達を見据えるそれには一欠片の暖かさも存在しなかったから……。
さらには先程までは感じられなかったが、シンジが空気が歪むのではないかという程の強烈なオーラ(プレッシャー)を発している。
そしてレイのあの姿は……。
「あ…あ、あなたは………何者…?」
ガタガタと震えながら尋ねるリツコに見向きもせず、その能面のような表情からゲンドウに向けて口を開く。
「さて、お前の願いは叶えてやった。これで契約は完了した。綾波レイ、いやリリスは貰っていくぞ」
突然聞こえた臓腑を抉るような冷たい声に、ハッとして後ろを振り向くゲンドウ。
ユイはシンジの放つプレッシャーで気を失っている。
そこには人間大ながらもリリスの姿(6組12枚の羽を出している)に戻ったレイが立っており、シンジを名乗った黒衣の青年が闇の光翼を背負い、彼と共に現れたメイド娘が妖魔の本体(妖猫とハーピー)に戻って立っていた。
彼等の足元にはまたもや魔法陣が描かれている。
「ま、待て! 外には使徒がまだ居る!! アレを倒さなければ人類に未来はない!!」
「そ、そうよ!待ってシンジ君!」
慌てて叫ぶゲンドウとリツコ。
シンジが放つプレッシャーの中、恐怖を振り切って言葉を発したのは大した物だ。
リツコなど、これだけの事を見せられてなお、目の前の青年をシンジと認識しているのだろうか?
まあ、単に他に呼び方がないからかもしれないが……。
ゲンドウにとってユイを取り戻した以上、サードインパクトなど起こすわけにはいかない。
それには、とにかくまず使徒を倒さなければならないのだ。
「最初に言ったはずだ。僕を召喚したことで叶えられる願いは一つだけだと。お前は真の願いを叶えられ契約が完了した以上、僕にお前達に力を貸す
理由はない。それに碇ユイをサルベージした初号機は、もはや動かす事などできない筈だろう? 無論、僕はコイツに乗る気はないし、必要もない」
嘲笑うかのようなシンジの台詞を聞いて青ざめるゲンドウとリツコ。
その容貌は彼等人間の根元にある恐怖心を刺激する。
そう、まるで悪魔にまんまと騙されたかのように……。
ユイと会えるという希望に全てを捨てて縋った結果、愛しい妻は確かに帰ってきた。
この事については些かの後悔もしていない。
だがその結果、眼の前には誰ともシンクロしなくなった初号機が残されただけ。
綾波レイはすでにリリスとして覚醒しており制御不能。
ゲンドウは使徒を倒す全ての道具を失ったのだ、と気が付いた。
「では、後は自分達の力でせいぜい足掻くがいい。僕も久しぶりにこの世界に来て、長年の目的であった、古に失った半身を手に入れる事ができた。
いや、有意義だったよ。
すでに滅んだ世界の過去に行く事は僕でも難しい。まあ、その世界で僕を召喚するに足る大きな力があれば可能だけどね。今回はご契約ありがとう」
「そうね。さよなら碇司令。再び私を創り出した事だけは感謝しておくわ」
レイの言葉が終わるのを待ってから、片手を高らかに上げるシンジ。
それを合図に魔法陣は光を発し、収まった時には彼等の姿は消えていた。
「ルイス・サイファー? ………ま、まさか…ル、ルシ……………」
その光景を見て、さらに青年が名乗った名前を検証して一つの推論に辿り着いたリツコは、その名前全てを言えずにそこで絶句する。
人類はアダムに引き続き、最強の力を、神に等しい存在をまたもや無くしたのだ。
「碇! 一体どうしたと言うんだ!? 使徒がジオフロントに侵入したのだぞ!!」
「リツコ! エヴァの発進準備はどうなってるの!?」
声を荒げてケージへと入ってきた冬月と葛城ミサトが見たものは…………。
ペタンと床に座り込み絶望に打ちひしがれたリツコと、なぜか裸のユイを抱き締めて呆然としているゲンドウだった。
「さて、あの世界はあれからどうなったんだろうね? 綾波は興味ない?」
ここは異界空間にあるシンジの居城。
自分がかつて人間として過ごした世界と極めて近かった世界の事を思い出したシンジが尋ねる。
あの日から新たに家族となり、シンジと結ばれた綾波レイは小さな6組12枚の羽を背中に畳んでシンジの方へと顔を向ける。
「無いわ……。あそこにはもう絆は無いもの…」
特に表情を変えることなく答えるレイ。
相変わらず表情は乏しいが、冷たい雰囲気は纏っていない。
それどころか、その表情は穏やかで安らぎに満ちている。
それも当然であろう。
ここはシンジの寝室である。
大きなベッドに横になっている二人は何ら身に付けてはいない。
「そう、でも驚いたよ……。完全に戒めを解かれた綾波の力がこんなに大きいとは思わなかった。単純に出力だけ見れば、僕の半分ぐらいの力
を持っている」
そう言いながら優しくレイの髪を撫でるシンジ。
レイは気持ちよさそうに目を細める。
「一応…リリスだから……。ここでは自分の力を隠す必要はないわ。誰もそれによって私を恐れたり排斥したりしないもの……」
「そりゃあそうさ。マナやマユミだっていわゆる妖魔と言う奴だしね。僕だって本来の姿であるこの回廊の管理人兼魔王という存在だし…。
でも意志を伝えあい、お互いを分かり合おうと努力すれば絆は作る事が出来る。そうすれば永遠の寿命も苦じゃないよ」
「……いいの。碇くんは私という存在が必要だと言ってくれたわ。……私はそれでいい、それだけで嬉しいの……。それにやっと、……やっと
会えたのだから……」
そう言ってシンジの胸に顔を寄せるレイ。
「綾波の存在を、あの世界からの召喚を受け取った時にスキャンして見つけたんだ。びっくりしたよ、僕の経験した時間の流れで消滅してしまい、
二度と会えないと思っていた綾波があの世界に転生していたんだからね。僕があの世界に行き、影響力を行使するためには、召喚者と契約す
る必要があった。だからあの髭の願いを叶えてやったのさ。
まあ、あれ程上手くいくとは思っていなかったけどね。あの契約で僕も綾波も、そしてあの髭も幸せになれたんだし」
そう言ってレイと再会するまで一度たりとも見せなかった、穏やかな笑みを浮かべるシンジ。
彼はかつて失ってしまった心、他人を心から愛する気持ちを取り戻す事が出来たのだ。
最愛の人である綾波レイと再び逢い、共に生きていく事によって………。
そして少しだけレイがいたあの世界のその後に思考を向ける。
彼が干渉した事によって変化した未来………。
ゲンドウはユイを連れてさっさと逃亡した。
冬月も一緒だった。
そのためネルフ本部は使徒に蹂躙され多くの職員が殉職した。
さらに、リリスが居なくなった事で使徒を引き寄せる波動が消え去り、サキエルはあの世界を彷徨う事になったのだ。
しかし彼にとってそんな事は些細な事だった。いや、どうでも良いと言ってよい。
最悪でも彼と関係ない一つの世界が滅びるだけなのだから……。
「綾波と再び逢えた事によって、僕は失ったと思っていた心を再び持つ事ができたんだ。僕の心を満たしてくれるのは綾波だけだ」
「私もそれは同じ……。今度こそ碇くんと一つになれたから………」
そう言ってしっかりと抱き締め合う二人。
まるで相手がどこかに行ってしまわないように繋ぎ止めようとするが如く………。
「綾波と二人っきりでいる時だけ、僕はかつての人間だった時の自分を見せる事が出来る……。綾波とこうしていると、忘れ去っていた表情を出す事
が出来る……。僕が安心して自分を見せ、求める事が出来るのは綾波だけなんだ……」
「碇くんが私にだけ見せてくれる姿……。それはとてもとても嬉しい事……。私も碇くんと一緒だと自分に心がある事を実感できるの……。
私は碇くんが好き……」
「嬉しいよ綾波。この500年間、二度とは会えないだろうと思いながらも諦められなかった。ようやく僕が知っている綾波と一緒になる事ができたね。綾波
の瞳は最上級のルビーよりも綺麗だと思うよ。綾波という存在自体が僕の大事な、何にも代え難い宝物なんだ。でも再び逢う事が出来るなんて、
世界も捨てたモンじゃないね。綾波、二度と離さないよ」
「な、何を言うのよ…………バカ………。でも…私も嬉しい。碇くん、ずっとずっと一緒にいてくれる?」
「うん。ずっと一緒にいよう、綾波……」
シンジの言葉に顔を赤くし、はにかみながら答えるレイ。
そんなレイを愛しく思い、シンジは再び彼女を抱き寄せる。
レイも照れながらも逆らわない。
ここは地獄と人間達が言う場所の最下層。
あらゆる空間、あらゆる時間に通じる最果ての空間。
それを管理する青年、碇シンジ。
彼こそかつてとある世界でサードインパクトによって力を得、様々な時代、世界に召喚によって姿を現した事で人々が神話で伝えている地獄の君主ルシファーなのだ。
この500年間、自分の心の一部と共に失った彼の最愛の半身ともいうべき存在を探し続けた。
そして今、ようやく巡り会えたかけがいのない存在たる綾波レイ、リリスを再び妻に迎えた事で神話の世界が蘇る。
今は4人(メイド2人を含む)しかいないこの世界も、やがて彼等の子供であるリリムによって賑やかになるだろう。
唯一の相違点は、彼は別に人間の世界にそれ程興味を持っていないと言う事か……。
人間を堕落させようなどと考えてもいない。
ただただ、彼は自らの好奇心を満たそうとするのみ。
「この世界は僕の心のあり方が反映される。今までは綾波を失った哀しみからこんな荒涼とした世界になっていたけど、これからは綾波と二人で生命
の満ちあふれる世界にしていこう」
シンジの言葉の通り、レイが来てからは少しずつ闇の森が明るい本来の森へと変わり始めているのだ。
「……私も碇くんと再び出会ってから、前より表情が出てくるようになった……。こうやって二人で心を取り戻していくのね……」
「そうだね。ところで……さすがにマユミやマナの前ではこれまで通りマスターとして振る舞わなけりゃいけないだろうけど、綾波の前なら時には泣い
たっていいかな?」
「……構わないわ…。でも……私も泣いていい?」
「笑顔の綾波も綺麗だけど、泣いてる綾波も見てみたいな……。うん、僕は全然構わないよ」
そう言ってお互いに見詰めるとニコリと笑みを浮かべる。
太古の縁を復活させた前の世界では最後に再び引き裂かれる事となった二人だが、あれから500年の時を経た今回は邪魔する者など存在しない。
しっかりと抱き合う二人の姿はルシファーとリリスなどではなく、あの苦しかった世界の碇シンジ、綾波レイにしか見えなかった………。
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