レイはキッチンでお湯を沸かしている。いつもなら軽く手など繋ぎながらシンジと一緒に帰り、部屋の中で一時を共に過ごすのだが、今日は一人で先に帰って来た。シンジにお帰りなさいを言うために。今日は二人に週に一度だけ許された外泊オーケーな日なのである。
夕食を共に食べ、他愛もないおしゃべりをして、眠る。他に何もない、ただ同じ時間と空間を共有するだけなのだが、それはレイにとっては充分すぎるほど甘い夜だった。レイはそれを想うだけで頬が熱くなり、心臓がどきどきするのを自覚した。
そんな夢見るレイの視界の片隅を、黒いものが横切った。
――くわがたさん?
レイはそう思う。この部屋にゴキブリなど出るはずがないのである。
部屋は雨風しのげればそれでいいというものではないとアスカに怒られ、綺麗に整頓されたヒカリの部屋を見学し、ミサトの部屋の、これは宇宙の熱的死かと目を見張るほどエントロピーの増大した状態――つまり散らかっている――を見せられ、最終的にヒカリの「碇君に嫌われるわよ」という一言がとどめとなった。無論、ゴキブリが自由に徘徊しているようでは衛生面での問題もある。
今の彼女の部屋は、主にマヤとヒカリの指導の下、シックに落ち着いた感じに、しかしその年齢にふさわしく可愛らしくまとめられている。この人選は適切であったと思われる。ミサトは論外にしても、アスカに任せると、落差をつけて周囲を驚かせることに主眼を置き、パステルカラーなどに走る可能性がある。リツコに頼めば、ずばりラボと化すであろう。
それはともかく、部屋の中は当然ながら清掃も行き届き、チリの一つも落ちていない。これがあの部屋かと思うほどである。
だからゴキブリなど出るはずがない。レイはそう信じていた。
しかしそれは間違いなくゴキブリだった。いかにキッチンを清潔にし、そしてマンションの四階だといっても、完全にゴキブリをシャットアウトすることは極めて困難なのである。
出た以上は退治しなければならない。
レイは冷静にその昆虫を目で追いつつ、手探りで殺虫剤を取った。だがノズルを向けようとした瞬間、ゴキブリは動きを止め、レイの方に振り向いた。
目が合った。ような気がした。
気丈なレイも一瞬失神しかけた。だが危うく踏みとどまる。シンジと二人っきりのはずの甘い夜にゴキブリを参加させることなど許すわけにはいかないのである。
だがゴキブリは、あろうことかレイの方に向かって軽快に前進を始めたのである。
「きゃっ!」
彼女は可愛らしい悲鳴を上げて後じさった。怖い、と初めて思った。その禍々しさは使徒の比ではない。ゴキブリはレイを嘲るかのように方向を変え、そのまま冷蔵庫の下に消えた。
――碇くん!
レイはシンジの言葉を思い出す。
綾波は僕が守るから――。
守ってもらおう、とレイは思った。部屋を飛び出して走りかけ、あわてて戻ってドアにカギをかけた。カギをかけ忘れるとシンジに怒られるのである。シンジに怒られると凹む。
念入りに施錠の状態を確認した彼女は、やにわにA.Tフィールドを展開し、高速で走りだした。100mを5秒で駆け抜けるという驚くべき速度である。オリンピックに出ろって話である。シンジには日頃からA.T.フィールドをみだりに展開してはいけないときつく言われているが、今は緊急事態である。何しろシンジと二人っきりの甘い夜の危機なのである。
A.Tフィールドの不思議な作用でシンジの居場所を探る。彼は家に戻るところだった。外泊に必要な着替え等を用意するためであろう。だが彼の隣にはアスカがいた。カヲルまでいる。アスカはまだわかる。シンジと同居しているのだから。姉弟みたいなものだ。それはいい。だがなぜカヲルまでいるのか。またシンジに手を出そうとしているのか。レイは逆上し、その速度は音速を突破した。瞬時にシンジを捕捉し、A.Tフィールド内に取り込むと部屋にとって返した。
後年、アスカは述懐する。その時、青い炎が駆け抜けたと。アスカは更に続ける。シンジの背中が炎に焼かれ、煤けているのをはっきりと見た、と。
「あ、綾波、いったいどうしたの?」
A.T.フィールドの中でシンジが戸惑ったように言う。音速を超えているのに普通に会話などできるはずがないと思われるであろうが、A.T.フィールドの中は、いわば二人だけの世界であり、快適そのものなのである。急激な加減速や方向転換を行っても不快なGなど一切感じることはない。登場人物にとっても、はたまた書き手にとっても非常に便利なアイテムなのである。
「ゴキブリが出たの」
ほとんど一瞬のうちに部屋に到着したレイは、A.T.フィールドを解除してシンジに言った。
「退治して」
「……悪いけど、僕、虫とか殺せないんだ」
レイは一瞬殺意を覚えた。
守ってくれるって言ったのは嘘だったの!
二人っきりの甘い夜はどうなってもいいの――!
「その、カヲル君を握りつぶした時のこと、思い出しちゃってさ……」
それとこれとは話が違う、とレイは思う。二人っきりの甘い夜は何よりも大事なのだ。二人っきりで甘い夜を過ごせば嫌な過去など忘れられるではないか。
現にレイは惑星規模にまで巨大化した暗い過去などすっかり忘れている。その際、あられもない姿を衆人に晒したことも、である。だがそれは忘れてもいいと思われる。人は忘れることで生きて行ける。周囲もその話題に触れるとレイが異様にご機嫌斜めになることを知っているので、一切触れない。何の問題もない。
それはそれとして、シンジが頭をかきながら続ける。
「あ、だ、だから、例えば罠を仕掛けるとか、薫蒸剤とか燻煙剤を使うなら僕にもできるけど。もちろん後かたづけもやるよ」
もしかすると商品名を使ってはいけないのかもしれないと考えた作者も必死であるが、シンジもレイの冷たい視線を受けて必死である。つまりシンジとしては自分の手を汚さなければいいのである。なんと偽善的なことか。だが人間なんてそんなもんである。ニワトリを締められなくても鶏肉は食う。植物にも生命はある。人間とはかように罪深い生き物なのである。
レイは納得できない。罠では即効性は期待できないし、燻煙剤を使うのでは、その間は部屋にいられない。後かたづけにも時間がかかる。それは二人っきりで過ごす甘い夜の貴重な数時間が失われることを意味する。到底承伏できることではなかった。
シンジに内緒でA.T.フィールドを使えばゴキブリなど簡単に退治できるだろう。なにしろ便利なアイテムなのだ。やったことはないが。だがA.T.フィールドなど使うまでもなく、シンジにもゴキブリくらい退治することは可能なはずだ。その時だけでもカヲルのことを忘れればいいのだ。レイはシンジにゴキブリを退治して欲しかった。守って欲しかった。
「碇くん、あたし――」
ゴキブリが怖いの。だからあたしのこと、守って欲しいの。
二人っきりの甘い夜を守って欲しいの――。
そう言おうとした時、アスカとカヲルが駆け込んできた。
「いったいどうしたって言うのよ!」
「ゴキブリが出たらしいんだ」
シンジは事情を説明する。
「ふーん」
アスカはレイの目をじっと見つめる。
「あんたの考えることくらい、だいたい想像つくけど……」
意味ありげな微笑を浮かべてアスカが言う。
「そのゴキブリを退治しただけじゃ意味ないわね」
「どうして。碇くんと二人っきり――」
「には、なれないのよ。一匹殺しただけじゃね」
「……わからないわ」
「ゴキブリは一匹見つけたら30匹はいると考えるのが常識よ」
30匹のゴキブリ。レイはそれが一斉に自分の方に向かってくることを想像し、またも失神しかけた。シンジの腕にしがみついて何とか意識を保つ。
「やっぱり燻煙剤を使おうよ。それがいいと思うよ」
それしかないのだろうか。だがシンジと二人っきりの甘い夜はどうなるのか。順延か?
レイは突然思いついた。ホテルに行けばいい。大人の隠れ家とも言える都心の高級ホテル。自分たちはまだ子供だが、この際そんなことは関係ない。百万ドルの夜景を見下ろしながら、シンジと二人っきりで甘い夜を過ごすのだ。ほんの少しだけならお酒を飲んでもいい。饒舌な夜の静寂に包まれ、無口な二人も少しだけお喋りになるだろう。そして静かに夜の明ける頃、柔らかなベッドの中で、シンジの腕に包まれて眠るのだ。
なんて素敵なアイディアだろう、とレイは思う。
「碇くん――」
シンジが振り向いてレイを見つめる。だが彼女には「ホテル」という単語を口にすることができなかった。シンジの全く青春そのものとも言える葛藤など知るはずもない。だが「ホテル」という単語からシンジが何を連想するか、いかなレイといえども容易に想像がついた。はしたない女と思われたくない。ではどうするか。シンジに言わせるしかない。
「あの、どこか別の……」
「今日は燻煙剤炊いて、僕の部屋に来る?」
そうじゃない! と心の中で叫んだ。あのマンションにはミサトも、そしてアスカもいる。あの部屋では二人っきりにはなれないのだ。
「そうすれば? 今日はアタシもカヲルの部屋に泊まるし」
「え? アスカ、カヲル君の部屋に泊まりに行ってるの?」
「そうよ。知らなかったの?」
アスカが僅かに頬を染めて言う。
それは好都合だとレイは思う。残るはミサトだ。ミサトをどう排除するか。
「じゃ、じゃあやっぱり、ぼ、僕の部屋においでよ」
「なに声を上擦らせてんのよ、バカシンジ」
「いや、僕の部屋で二人っきりかと思うと、ちょっとどきどきして。あはは」
「変態じゃないの? それにミサトがいるでしょ?」
「ミサトさん、今日は当直だって言ってなかったっけ?」
「当直は明日じゃなかった?」
「そうだったっけ?」
「あんまり気にしてないから良く覚えてないけど」
なぜ同居人のスケジュールくらい把握しておかないのかとレイは絶叫しそうになる。だがシンジに嫌われるのはいやなので我慢する。なにせ物静かな少女で通っているのだ。
なにはともあれ、これでシンジの部屋に行く線は消えた。いつ帰ってくるかわからないミサトを気にしながらでは二人っきりの甘い夜もへったくれもない。近い内にMAGIをクラックしてミサトのスケジュールを割り出し、その日にアスカをカヲルの部屋に追っ払って、存分にシンジの部屋で甘い夜を過ごせばいい。とりあえず今夜はホテルだ。
「まぁいいわ。人のこと気にしててもしょうがないし。行きましょ、カヲル。まずあんみつね」
「君は本当にあんみつが好きだね」
「何よ。文句ある?」
「いえいえ。とんでもございません」
二人は笑顔を交わしながら去っていた。レイは二人のことが心底羨ましかった。カヲルならゴキブリくらいややこしいことを言わずに退治してくれるのではないだろうか。
「じゃあさ、とりあえず燻煙剤を買いに行こうよ」
「……うん」
屈託なくそう言うシンジに、レイは仕方なく頷いた。人を好きになるのはロジックではない。好きになってしまったものは、もうどうしようもないのだ。
差し出された手を握り、薬局へ行こうとした瞬間、二人の足下をゴキブリが通過した。
「きゃっ!」「あっ!」
二人は同時に叫んだ。レイは「助けて」という目でシンジを見る。だがシンジはひたすら硬直していた。
もしかしてコイツは――。
レイは思う。もしかするとカヲルがどうのこうのというのは言い訳に過ぎず、単にゴキブリが怖いだけなのかも。
ゴキブリは二人をからかうように徘徊を続ける。シンジは硬直したままだ。レイは決断した。何としてもシンジに守ってもらうのだ。
彼女は履いていたスリッパを脱ぎ、シンジに無理やり持たせる。
「あ、綾波、何を――」
「黙って」
彼女はスリッパを持ったシンジの腕を取り、ゴキブリに向かって思いっきり振り下ろした。何とも言えない嫌な音がして、ゴキブリは見事に殲滅された。レイは自分の所行を忘れ、シンジに言った。
「ありがとう、碇くん」
シンジはゴキブリを潰した体勢のまま失神していた。
レイは大きくため息を漏らし、失神したシンジを小脇に抱えてリツコの所へ向かった。
リツコの診断では単に失神しているだけのようだった。それを確認したレイは冷静沈着にホテルへ電話をかけ、最上階のスイートルームを予約した。リツコのカードを使って。
失神から覚めないシンジを再び小脇に抱え、彼女はホテルに向かう。もう夜は始まっているのだ。
シンジが目覚めると、腕の中にレイがいた。
「うわっ!」
とりあえず叫んでみた。
やっと起きたかとレイが不機嫌に答える。
「おはよう、碇くん」
「こ、ここは?」
「ホテ……部屋を取ったの。碇くん、あたしの部屋じゃ落ち着けないと思ったから。ゴキブリが出るから」
「ゴキブリ!」
シンジはその単語を聞いただけで失神した。
レイの予想は大正解で、シンジは単にゴキブリが怖かっただけなのであった。
この事件をきっかけに、シンジのゴキブリ嫌いはエスカレートした。ゴキブリ嫌いどころの騒ぎではない。昆虫全体がダメになったのである。耳元を蚊が飛べば絶叫し、目の前を蝶が横切ると白目をむく。セミの声が聞こえただけで目は虚ろになる。これでは日常生活に支障を来す。週に一度の、甘いはずの夜を失神したシンジと共に過ごさざるを得ず、せっかくの百万ドルの夜景をちっとも楽しめなかったレイの怒りは、やたらと絶叫したり白目をむいたりするシンジを前にしてついに爆発した。シンジを動物園の昆虫館に叩き込んだのだ。荒療治である。
レイに昆虫館で放置されたシンジは、無数の昆虫を前にひたすら失神と覚醒を繰り返す。十数時間後に帰還した時、彼はある意味スーパーシンジと化していた。彼は半失神の、ある種のまどろみの中で気づいたのだ。自分が怖がるということは相手も怖がっているということだ。自分が怖がらなければ、自分が心を開けば虫たちも心を開いてくれるに違いない。エヴァに乗るのと同じである。シンジは虫たちと会話ができるようになったのである。ナウシカである。
今、レイの部屋にゴキブリが出ることはなくなった。シンジがゴキブリによく言い聞かせているからである。だが二人で部屋にいると、時々ほとほととドアがノックされる時がある。そっとドアを開けると、そこには腹を空かせた虫たちが――それはゴキブリの時もあれば、ゲジゲジやシロアリ、テントウ虫やセミのこともある――たたずんでいるのである。いくばくかの食料を与えると、彼らはぺこぺこと頭を下げ、静かに去ってゆく。
「世の中には害虫なんていないんだ。そんなのは人間が勝手に決めたことなんだよ。それに――」
シンジは微笑みながら言う。
「いつかさ、虫たちが僕らのこと、助けてくれる時が来るよ」
もしかするとそうかもしれない、とレイは思う。確かにこんなの普通じゃないけど。でも。
碇くんと二人っきりの甘い夜を過ごせるんなら、なんでもいいわ――。
夢見るレイちゃんは、シンジ君の匂いに包まれながら静かに目を閉じたのでした。