無防備。
綾波レイは無防備な少女だった。
あまりにも無防備な少女だった。
ぽて。
かわいらしい音を立てて、綾波レイはベッドから落ちた。
――もお。
彼女は頭を上げ、すやすやと眠る同室の少女――アスカ――を見上げた。この部屋にベッドを二つ置くスペースはなく、必然的に同じベッドで眠ることになる。寒いだのなんだの言いながら毛布を引っ張り合ったりはするが、それなりに仲良く暮らしている。問題は、レイがやたらとベッドから落ちることだった。アスカがけっ飛ばすから落ちる、とレイは思っている。実際にはレイの寝相が悪いだけなのだが、自分の寝相を把握するのはなかなか難しいものがある。
――碇くんのとこ、いこ。
彼女は枕を持って部屋を出た。
葛城家で暮らし始める前、独り寝の寂しさに耐えかね、リツコの部屋に泊まりに行ったことがあった。人間らしく暮らすのもそれはそれで難しいものだ。リツコのベッドは暖かく、涙が出そうだった。優しい声で「どんな気持ち?」と聞かれ、感じた通り「お母さんと寝てるみたいです」と答えたら首を締められた。お姉さんと言いなさい、と。
行き場をなくして途方に暮れていた彼女に、一緒に暮らそう、と言ってくれたのはシンジとアスカだった。アスカにそう言ってもらえたのは嬉しかった。だがレイはひそかに、シンジと自分の部屋で二人きりで暮らしたい思っていたので、シンジにそう言われたのは少し複雑な気持ちだった。が、葛城家とはいえ一つ屋根の下で暮らせるなら一歩前進には違いない。時々シンジを連れてレイの部屋に行けば、二人だけの時間は過ごせるのだから。
レイの同居については、ミサトも諸手をあげて賛成した。ただし。
「アスカの部屋で寝るのよ。シンちゃんの部屋はダメ。いい?」
もしかすると毎晩シンジの腕に包まれて眠ることができるのではないかと期待に胸を膨らませていたが、その野望はあっさりと打ち砕かれた。だが要はバレなければいい、とレイは思う。もしバレても、時々なら構わないのではないか。だって二人は愛し合っているのだから。
中学二年にして「愛し合う」などという言葉をいとも容易く使うところが実に全く何というかあれな感じのレイである。
静かにシンジの部屋に入ったレイは――もちろん深夜なのでノックなどしない――シンジを起こさないようにそおっと毛布の中に潜り込み、ついでシンジの腕の中に潜り込んだ。シンジの腕枕があれば持ってきた枕は必要ないから、ベッドの下に置きっぱなしである。
碇くんの匂いがする、とレイは思う。優しい気持ちになれる。ぐっすりと眠れそうだった。
柔らかな気配に目を覚ましたシンジは、自分の腕の中にレイがいるのを知って驚愕した。
レイがシンジのベッドで眠るのはこの日が初めてではない。少なくとも週に一回、多ければ三回はあることなのだが、そのたびにシンジは律儀に驚愕する。ミサトもレイの行動は知っているが、微笑むだけで何も言わない。黙認である。
叩き出すことなど出来るはずもなく、シンジは身を硬くする。いつからここにいるのか、レイはもうすーすーとかわいらしい寝息を立て、ぐっすりと眠っている。シンジの葛藤など気づくはずもない。眠っているのだから。
シンジはため息をついた。もう眠れそうになかった。
明日の夜は、レイもアスカと一緒に眠るだろう。そうすればシンジもぐっすりと眠ることができる。わけではなかった。シンジのベッドにはレイのミルクのような甘い匂いがたっぷりと残されているのである。悶絶せざるを得ないのである。布団を干せば済むことであるが、シンジはそのあたりにも葛藤があった。つまりレイの匂いに包まれていたいという、何とも青春な想いもあるのである。だがいつまでもこれではいけない、と逡巡の末に決意して数日後に布団を干すと、その晩はレイがやって来るという寸法である。にっちもさっちもいかなくなってるシンジなのである。
――綾波……無防備すぎるよ……。
男として見られていないのか、それとも信用されているのか。
あるいは何らかの期待があるのか――。
レイの思惑がどこにあるにせよ、シンジに何かできるはずもない。それでこそシンジである。髪を撫でることもできず、レイが身じろぎするたびにシンジはいちいち硬直する。レイが身じろぎすると密着度が上昇するのである。
やがて足が絡みだし、あろうことか胸が押しつけられる。もはやシンジは発狂寸前だった。意を決してレイに話しかけた。
「あ、あの……綾波さん……」
「……」
「あの、すいません……」
「……」
すやすやと眠る彼女は何も答えない。肩を揺すって起こすべきかどうか、悩み続けて三十分ほど経った頃、急にレイが言った。
「碇くん……」
「は、はい」
シンジは硬直したまま答える。だが、レイの呼吸は眠っている人のそれに思えた。寝言なのか、それとも寝言のフリをしているのか、シンジには判断がつかない。
「碇くん。ちゅーして、ちゅー」
「……は?」
ちゅー? 綾波がちゅー?
これがあの綾波なのかとシンジは耳を疑う。人間らしく、生きる喜びを教えるためにアスカが大量に読ませた少女小説のセリフが寝言になっているのか、それともアスカにそそのかされているのか。もしかするとアスカとミサトが襖の向こうで聞き耳を立てているのかもしれない、と思うと迂闊な行動は取れなかった。だがこれはチャンスなのかもしれないのだ。しかし万一アスカとミサトが襖の向こうにいたとしたら。それにもしこれが単なる寝言で、レイの本心でないとしたら。しかしチャンスなのかもしれず、だとすればそれは彼女の決意であって、それに応えることは男の義務でもあり……。シンジの葛藤は果てしなく続く。そして追い打ちをかけるように、
「碇くん、好きなの。ね、ちゅーして。ん〜」
彼の頭は完全に真っ白になった。本能に身を任せ、口唇を寄せようとする。だが、レイはシンジの腕に包まれ、その胸に顔を埋めているのである。この体勢でキスをするのは無理である。
「くくっ」
苦しげな声を上げ、何とか近づこうとする。だが、いかにシンジがあらぬ角度で首をねじ曲げようとも、彼女の口唇に届くはずがない。人体の構造上、絶対に不可能である。
だがシンジは諦めない。
そっとレイに上を向かせ、必死に口唇を寄せた。だがその時。
「んん〜」
レイが可愛らしい声を出したかと思うと、大きく寝返りを打った。シンジがしっかりと抱き締めていれば問題はなかったのだが、レイに上を向かせるため、手は離れていたのである。
ぽと。
まんまとレイは落下した。だが置きっ放しにしていた枕があったため、頭部を痛打することは避けられた。落下時の音がさっきと異なるのはそのためだが、目を覚ますこともなかった。
「綾波! 大丈夫!?」
ベッドから降りたシンジが肩を揺すっても目を覚まさないほどレイの眠りは深い。まさに爆睡である。
とりあえずベッドに引きずりあげ、毛布をかけた。かわいい寝顔だな、と思う。
「碇くぅん……」
レイがまた寝言を言う。今は寝言だとはっきりわかる。
「ちゅーしてよ。ちゅー」
「はいはい」
シンジは微笑み、そのまぶたにそっとキスをした。
どうせ今夜は眠れない。それなら、朝までずっと彼女の寝顔を見ていようと思う。目が覚めたときの彼女の驚いた顔を想像し、シンジはまた微笑んだ。怒られるかもしれない。
でもシンジは、レイにはいつまでもずっと、少なくとも自分の前では無防備な女の子でいて欲しいと思った。