命にかかわる病気よ――。
リツコのその言葉を聞いて、レイはもう何も考えられなくなった。
夢中で部屋を飛び出し、走り出していた。
せっかくヒトになれたのに。碇くんに会えたのに、もう死んじゃうなんて――。
どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか。レイはその理不尽さに泣いた。こんなことならあのまま無に還っていれば良かった。そうすればこんな悲しみなど知らずに済んだのだ。
レイは世界を、そしてどこにもいるはずのない神を恨んだ。
サードインパクトは、すべての人々の元に全く公平に訪れた。あらゆる人々がそのままの姿で還って来た。病気も、怪我も、傷痕もそのままに。
だがレイだけは違った。
今の彼女を構成している体細胞は間違いなく十四歳という年齢にふさわしい物であり、クローンに特有のそれではなかった。遺伝子レベルでもユイのクローンなどではなくなっていた。確かにユイと共通する部分は残されていたが、それとてシンジとの子供をもうけるのに何の支障もないレベルだった。髪の毛と瞳の色が人間の平均値からはほんのわずかに外れているだけで、全くの人間、完全なホモサピエンスだった。
リツコはその解析結果を見て、半ば呆れた。
全くの御都合主義。お伽話もいいところね。まさに神様。いえ、元神様というべきかしら――。
「胸が、苦しいのです」
レイはリツコの元を訪れ、そう言った。
「胸が?」
「はい。呼吸が苦しく、痛みもあります」
レイの身体にどんな障害が、と一瞬緊張したリツコだったが、レイは今や全く普通の人間であるということを思い出した。ならば、まず風邪等の一般的な病気を疑うべきだろう。
「熱は?」
リツコは机の引き出しを開き、しばらく使っていなかった聴診器を探しながら聞く。
「時々、頬が熱くなるときがあります」
「ほっぺが?」
「はい」
彼女は聴診器を探すのをやめた。
「どんな時に胸が苦しくなるの?」
「碇く……サードチルドレンのことを考えたり、セカンドチルドレンとサードチルドレンが仲良く話をしているのを見たときに、苦しい感じになります」
「……」
「病気……でしょうか……」
「まずね、あなたたちはもうチルドレンじゃないの。エヴァもないしネルフも事実上ないんだから。だからシンジ君やアスカのことをサードとかセカンドとか言うのはやめた方がいいわね」
リツコは微笑みながら言った。
この娘も普通の女の子として必死に生きている。今までは碇司令の目的を果たすことが人生そのもので、その先には無しかなかった。だが今は違うのだ。本当のことを教える前に、少しからかってみたくなった。
「胸の痛みのことだけど」
「……」
「病気ね。間違いなく」
リツコは一転して真剣な声を作り、だが笑っている目を隠すために机の方を向いて言った。
「この病気は体温の上昇や胸の痛みの他に、進行すると視野狭窄を引き起こすことがあるわ。つまり周りが見えなくなるってことなんだけど」
「……」
「ウイルス性の疾患で、命にかかわる病気よ。残念だけど特効薬はないわ」
「……」
「ウイルスの種類はわかってるの。恋ヘルペスって言うのよ。病名は恋患い」
「……命に、かかわるのですか?」
「そうよ」
「……」
「確かに特効薬はないけど、でも自然治癒は期待できるわ。それはあなたの心がけ次第。つまりあなたはシンジ君が好きだってことで、うまくシンジ君のハートをゲットできればばっちり幸せに……レイ?」
すでにレイの姿は室内になかった。
「シンジ君のところに行ったのかしらね……」
リツコは微笑みながら独りごちた。
「人の話は最後まで聞くって、教えとかないとダメね」
気がつくと、彼女はシンジの部屋の前に立っていた。やはりシンジに会いたかったのだ。涙を拭いて呼吸を整え、インターホンのチャイムを押した。残り少ない命。シンジにはせめて笑顔を見せたかった。
「はい」
シンジの声が聞こえた。彼女はあふれそうになる涙を必死に堪える。
「綾波、レイです」
「ああ、綾波。ちょっと待って。すぐ開けるから」
すぐにドアが開いた。目の前にはシンジの笑顔。
「宿題やってたんだ。入ってよ。……どうしたの?」
レイはもう涙を堪えることができなかった。
「わたし……死んじゃうんだって……」
「……え?」
いったい何を言っているのか。シンジはレイの言葉に戸惑う。目の前で涙を流している彼女は健康そのものにしか見えず、とても死に直面しているとは思えなかった。
「どうしたの?」
「わたし……病気なの……死んじゃうの……」
それだけ言って、彼女はシンジにすがりついた。
「と、とりあえず中に入ろう」
シンジは泣き崩れるレイを抱きとめ、引きずるようにして部屋の中に運び込んだ。
「病気……なの?」
リビングに座らせ、甘いミルクティーで落ち着かせてからシンジが聞く。
レイはこくりとうなずいた。
「胸が苦しいの……」
「……」
「命にかかわるって……ウイルス性の疾患だって」
「お医者さん、行ったの?」
「赤木博士のところに」
「リツコさんに? 病気の名前とか聞いた?」
「うん」
「なんていう病気?」
「恋患い……」
一瞬、シンジの頭は真っ白になった。
恋患い? ウイルス性の病気? 命にかかわる?
冗談にも程がある。
「ちょっと待ってて」
シンジは憤然と立ち上がり、受話器を取った。
「碇シンジと申しますが、赤木博士を……」
――あたしよ。
「あ、リツコさんですか。綾波に訳の判らないこと言わないでもらえませんか。本気にしてますよ。何ですか、恋患いで命にかかわるって」
――失恋の痛手で自殺ってこともあるわ。
「何をバカなこと言ってるんですか。僕が自殺なんかさせませんよ」
――あら。それはシンジ君がレイのこと、好きだっていうことかしら?
「え? いや、それは、その……それはともかく、なんで恋患いがウイルス性なんですか」
――ウイルス性なのよ。恋ヘルペス。レイに感染させたのはあなたよ。
「は?」
――あなたも恋ヘルペスのキャリアなの。まだ発病はしてないみたいだけどね。
「何を言ってるんですか?」
――とにかく、レイの病気を治してあげられるのはあなただけだから。よろしく頼むわよ。
「よろしくって言われても……。いったい何をどうすれば」
――ばかね。好きだって言ってあげればいいのよ。男らしく、はっきりとね。あの娘もそれを待ってるの。一発で治るわ。
「そんな。何を根拠に。それに綾波の気持ちだって……」
――あなたのところに一番に駆けて行ったのが何よりの証拠よ。人の話も最後まで聞かないで。もう切るわよ。あたしも忙しいの。恋愛相談なんかに乗ってる暇はないんだから。
「ち、ちょっと待ってくださ……切れた」
シンジはラインの切れた受話器を見つめる。
綾波が、待ってる? 綾波が僕のことを好きだってことか?
シンジはレイを見つめる。彼女はうつむき、泣き続けていた。その姿を見ているだけで頬が熱くなり、息苦しくなった。彼女を何とかしてあげたい。何も心配しなくていいって教えてあげたい――。
潜伏期間が過ぎ、恋ヘルペスが活動を開始した瞬間である。
シンジは彼女の隣に座った。レイの細い指先がシンジの手にそっと触れた。可愛い。むちゃむちゃに可愛い。
「ねえ、綾波……。僕は……」
でも言えない。好きだなんて言えない。勇気がない。
「リツコさんが言ってたんだけど……」
「……」
「その、僕と一緒にいれば、とりあえず病気の進行は抑えられるらしいんだ」
レイが静かに顔を上げる。
「でも一緒に住むのはミサトさんが何て言うかわかんないから、だからその、週に三日くらい、泊まりにおいでよ」
「うん……」
レイはまたうつむいた。
「の、残りの四日は僕が泊まりに行くよ。綾波の部屋に」
「ほんと?」
ぱっと顔を上げるレイ。
「ほんとさ。僕も恋ヘルペスのキャリアらしいんだ。二人で一緒に治そうよ」
「うん!」
涙は止まり、明るい顔になっていた。
「もうさ、胸、苦しくないだろ?」
「苦しくない」
レイは間違いなく自分の隣にいるシンジに額をくっつけ、彼のシャツの袖で涙をぬぐった。
互いの部屋を行ったり来たりしながら暮らし初めて一ヶ月。まだシンジは告白できないでいた。もう言わなくてもわかっているはずだ、とも思う。だが抜本的な治療のためには告白しなければならない。
シューズを履いて学校に行く仕度を整えてドアの前で大きく息を吸う。
気持ちを落ち着かせて右足から外に踏み出す。
今日こそは言おう。好きだって――。