自分が他人と異なると思うということは、それ自体が恐怖でもあるし、ある種の優越感でもある。とはいえ、自分が他人と全く同じであると思っている人も少ないだろう。
自分は普通の人とは違うのかもしれないと言うと、みんな最初はそう言うんだよ、と言われたりする。そうなんだろうと思う。
何の話かというと、綾波レイという少女に取り憑かれてしまった人達(話がややこしくなるのを避けるため、アヤナミストをこのように定義する)の話である。
例えば宗教の場合、ある意味で救われてから伝導者になったりして、それはそれで迷惑だったりするのだが、少なくとも私の知る範囲ではこの人々にはそういう迷惑さはない。まぁ迷惑な人はアヤナミストだろうが使徒だろうが迷惑だと思うので、それは属する集団(アヤナミストの集団が属せる集団と言えるかどうかという議論はともかく)にはあんまり関係ないとは思うが。
解脱する(まぁ補完でも救われるでも思い出になるでもいいが)という状態がどういうものなのか想像もできないが、それが本当の意味で救われた状態なのかというと、やや疑問である。もしかすると取り憑かれる前に戻っただけ、つまり単に元に戻るだけなのかもしれない。
だとすれば、伝導者がいないのも当たり前である。
まぁしかし得るものが全くゼロということは有り得ず、逆説的だがたとえマイナスでもなにがしかは得ているとも言えるわけで、そうやって自分をごまかす事はできる。そもそも人間は常にプラスになることのみを追い求めて行動しているわけではなく、その意味で全てのことに意味性を求めるのは間違いであるとも言える。
仮に解脱した人がいたとして、どうやって解脱したか、あるいは思い出に変えていったかは人それぞれ違うはずだし、それは参考にはなってもそのまま万人にあてはめるわけにはいくまい。入り口はたくさんあるのだし、たとえ同じところから入ったとしても、出口が異なって何の不思議もない。
はっきり言えば、本当に救われたいと思っているのかどうかも定かではない。楽になりたいとは思うが。
文字通り憑き物が落ちたように、MLから抜け、ホームページを閉じるような日が私にも来るのだろうか。それは今は全く想像できない事なのだが、逆に70近くなってまだエヴァFFを書いているという姿も想像しかねる。しかしあり得ないとは言えない。
何回も書いていることだが、私にとっては小説を書くという行為は手段であって目的ではない。しかし物語を書くという行為そのものに全く楽しみを見出せないのかと言えば、そんな事はない。憑き物が落ちたとしても、書くという行為を楽しむために、テーマの一つとしてエヴァを選び、エヴァFFを書くということはあっていい。むしろ健全であると思うし、物語としては読み応えのあるいい作品が書けるかもしれない。いい作品を書きたいという欲は、私にもある。
確率論で言えば、解脱できるかどうかはともかく(諦めるのかもしれないし)、「もういいや」と思う瞬間が来るのだと思う。「もういいや」と思った時に、私はそれでもエヴァや綾波レイの話を誰かとしたいと思ったり、FFを書いたり読んだりしたいと思うのだろうか。
この日記を読んでいるあなたも、恐らくエヴァFFを読むことに何らかの楽しみを見出しているはずである。楽になりたいとか、自分の心の欠けている部分に気づいてそれを埋めるために読むとか、心の傷に引っ掛かって離れないとか言う人もいるだろうが、それも一種の楽しみである。
世の中には他にも楽しいことは沢山ある。私やこれを読んでいる人は、数多くの楽しみの中からエヴァを選んだのである。他の楽しみが全くないという人もそうはいないと思うが、必ず何かを犠牲にしているはずである。
なぜ私達はエヴァを選んだのか。あるいはこうも言える。なぜ私達はエヴァに選ばれたのか。
選ばれし者の恍惚と不安。
ただこれは心底思うんだけど、こんなこと考えていられるのって幸せなのよね、実際。