死んで花実が咲くものか
2003.1.28(日記よりサルベージ)

 歳を取るということは、色々な形で受け取って来た恩義の総量が大きくなっているということである。様々な形の恩は、今でも変わらずに受け取り続けているわけだが。
 で、受け取った恩義がそれなりに大きくなったとき、それを全て自分の中にためこんでおくと太る一方なので、何らかの形で掃き出さなければならない。具体的には、いわゆる「恩を返す」ってことになる。

 例えば自分が親から受けた恩を子に返す。直接親に返してもいい。今回は“親の面倒は見なければならない”的な話をするつもりではないので、全然関係のない第三者に返してもいい。そもそも受けたものを返すのであるから、この“返す”という行為に見返りを期待するのは間違っている。
 私には子供がいない、などと言うと、老後はどうすんの、という声があったりするが、子供に自分の老後の面倒を期待するのは間違いであろうと思う。まぁ私は親の面倒は見なあかんかなとは思っているが、それとこれとは話が別で、自分がそう思うから子供もそう思うべきであるという期待はするべきではないし、だいたいそんなことを言ってたら一生独身の人はどうしようもないじゃないか。だから福祉っていうのは大事なのです。人は誰しも老いて行くのだから。

 私はまだ生物学的な意味での寿命を向かえる歳ではないが、ある瞬間に突然死ぬ可能性は、私に限らず誰にでも一定の確率でありうる。例えば交通事故とか。死ぬときにはあれやこれやを処分しないといかんなぁと常々思っているのだが、交通事故とかで急に死ぬと、そういった類いのブツを処分することは出来ない。これは困る。生き恥ならぬ死に恥を晒すことになる。だから死ねない。死に恥という小説を書いたのは、かんべむさしだったかな。あれやこれやのブツを遺族が見てどう思うかを考えると既に発狂寸前になるが、今はまだ生きているので処分はしたくないのである。生きるということは、この一点のみを取っても、かように難しいことなのである。

 虎は死して皮を残す、あるいは、虎は死して皮を留め人は死して名を残す、などと言うが、私が死んだら何か残るだろうか。まさか名は残らんだろうな。作品が残る、などと思ったら大間違いで、サーバ契約期間が満了して振り込みがなされなければ、即削除されるであろう。何人かの方はローカルなハードディスクに保存して下さっているのではないかと期待するが、それとていつまでも残っているわけではない。
 無料ホームページなどに入れておけば少しは持つかもしれないが(うちのミラー、ちゃんとしとかないとなぁ)、それとていつまでもというわけにはいかない。
 歴史的に見ても、大多数の人は記憶以外の何も残さずに時間の流れに埋没してゆく。そして記憶はいつか失われる。

 そうなると、あとは遺伝子に頼ることになる。子供がいないと言っても悲観的になる必要はない。親が同じであれば、その兄弟は遺伝子の半分を共有している。いとこなら1/8。直接の子供でなくても、自分の遺伝子の一部は残るのである。つまり竹内久美子の読み過ぎなのだが(^^;)、まぁ少なくとも読み物としてはおもろいので、いいのではないだろうか。

 個人的には何かを残したいという意志はあまりなく、あとは野となれ山となれ、である。自分が、あるいは人間が生きたという証しを、いわばヴァーチャルな形で残しておいてもしょーもないかなと思う。忘れてくれればそれでよい。遺伝子の意志など知ったことではない。死んだらそれでお終い、勝手にやってくれ。どうせこっちはしょせん遺伝子の乗り物にすぎねぇんだ。と、これも竹内女史の読み過ぎ。

 この日記というのは、ちょっとした隙を突いて書いているのだが、実は隙なんてなかった、ということもままある。今日の日記は、なんと三日にわたって書いている。既に日記ではなく、コラムである(と言うほどまとまった事は書いてないが)。更に言うと、何を言おうと思って書き出したのかすら憶えていないのである(爆)。俺はアホか? これは老化のはじまりだろうか。
 とか書きながら、今回も曖昧に日記を終えるのであった。atuさんを見習わないといかんな。

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