「久しぶり!」
かつて聞き慣れた、元気で、それでも記憶より少し大人びた声が、僕の背中越しに聞こえた。
振り向くと彼女の笑顔があって、僕は軽く手を上げてその声に応えた。
「変わんないね」
「やだ、変わったわよ。もうおばさんだもん」
彼女はそう言って僕の腹をぽんぽんと叩いた。
「このたるんだお腹と同じくらい、あたしも歳をとったのよ」
僕は苦笑するしかない。確かに彼女の言うとおりだった。僕も彼女ももう十四歳ではなくて、若さと引き換えに得た経験や苦労が顔に表れていた。
「いこ。コンサート、はじまっちゃうよ」
彼女はそう言って僕の腕をとった。十四歳の頃こんな風に出来なかったのは、お互いに意識し過ぎていたからなんだろうか。
あの頃、こんな風に自然にいられたら、僕たちはどんな風になっていたのだろう。
僕は彼女に引っ張られ、歩きだした。
ステージの上の、僕たちよりはるかに年上の彼らは、まだ充分に不良少年だった。
コンサートが終わって食事を済ませ、僕たちはホテルのバールームにいた。
「急に電話なんかくれるから、びっくりしたわ」
彼女は、何とかというよく分からない名前のカクテルを一口飲んで、そう言った。
「チケットが手に入ったんでね。プラチナだぜ」
僕はバーボンのロック。今日の音楽にはふさわしいような気がした。
「一人で行く気にはなれなかったし、無駄にもしたくなかった。相変わらず友達は少ないからね。それに……」
「それに?」
「いや、なんでもない」
会いたいと思った、とは言えなかった。
「あなたは、クラシックしか聞かないのかと思ってた」
「どうして?」
「……なんとなく」
沈黙が流れ、僕は何を言ったらいいのか分からなかった。
彼女と会うのは何年ぶりだろうか。十五になった時には、もう一緒にいなかったような気がする。
「何を見てるの?」
僕はじっとグラスを見てる自分に気づいた。こういう時は何か気の利いた、少し面白いことを言わないといけない。もういい大人なんだから。僕は前に読んだ本の中のセリフを記憶の中から手繰り寄せた。
「……永遠を見ていたんだ」
彼女は僕の顔をまじまじと見て、それから吹き出した。
「イタリア人かしら?」
その言葉で、彼女も同じ本を読んでいることが分かった。僕は苦笑いを浮かべてバーボンを飲み干し、同じものを頼んだ。彼女にからかって欲しかったのかもしれないと、ふと思った。
「結婚は?」
彼女の左手の薬指を視界の隅に入れ、僕はさりげなくそう聞いた。
「したわよ。一回」
「別れたの?」
「うん。一年と持たなかったわ」
「そうか……」
「つまんない話よ。一緒に暮らし始めると、付き合ってた頃とは別人のように思える。お互いにね」
「……」
「あなたは?」
「俺は独りだよ。ずっとね。ま、気楽なもんさ」
彼女は少し驚いた顔をした。
「あなたも自分のこと、おれ、なんて言うのね」
「普通だと思うけどな」
僕はポケットから煙草を出して、火をつけた。
「いいおっさんだからね」
「煙草なんか吸っちゃって」
「想像もつかない、か」
「そうね。……でも」
彼女は言葉を切った。
「いい年の取り方をしているような気がするわ」
僕はまた苦笑いで応えた。
「あの頃のあたしが今のあなたに会ったら、きっといちころよ。素敵なおじさまって」
「からかうなよ」
「ほんとよ」
僕は不意に、一人になりたいと思った。
手洗いに立つ振りをして取って来た部屋のキーを、ポケットの中で握り締める。彼女も気づいているだろう。もう子供じゃないのだから。
そして、そのキーが無駄になることにも気づいている。僕も、そして彼女も。