投稿作品はあくまでもその作家の方の作品であって、私の作品ではない。当たり前である。色々意見を書いたり手を加えたりしているうちに、これじゃあほとんど俺の文章だわな、と思う時もあり、どうしたらいいものか困惑しつつ、これをこのままOKにするとモロに私の文章なんで書き直してください、などと書いたりする。なので、直接手を入れることはほとんどしない。
どこまで指摘するかというのは常に難しい問題で、モロに私の文章になるのは論外としても、その人の個性が失われるのは困る。これをオーバープロデュースという、てな話も前に書いたような気がするな。痴呆がはじまってるのか? しゃれにならんぞ。
名前は出さないが、私の敬愛するとあるプロ作家であまり文章の上手くない人がいる(別の作家との対談で、あなたはこんなに長いこと文章書いてるのにちっとも上手くならないのがすごい、などと妙な誉められ方をしていた)。ストーリーも含め、晩年は増々酷くなっていたのだが、数冊ほど異様にこなれた文章の作品がある。それでいてその作家のテイストは失われていない。これはもしかして編集者が有能だったのかなとも思うのだが、押しも押されもせぬ地位を築き上げ、その人の前にも後ろにも誰もいないという孤高の作家であるその人の原稿に手を入れるのは、ものすごい勇気がいるのではないだろうか。それとも単なるノーフィアー野郎か。文芸評論などには目を通さないし、その方面の裏話は全く知らないので、もしかすると賛否両論なのかもしれないが、本当に編集者の成果なのだとすれば、私的にはいい仕事だと思う。
この手の仕事(お仕事に非ず)は、自分では書かない人の方が本当は向いているのではないかと思う。有効な意見は言えるが自分では書けないというケースは間違いなくあって、有効な意見が言えるのだからそれ自体には何の問題もない。じゃあお前が書いてみろと言うのは間違いである。しかし私の場合は自分でも書いているのであって、投稿作品に意見など書きつつ、この人は間違いなく俺より上手いんだよな、などと思い始めると虚無的になる。そもそも自分の意見が有効なのかどうかも良くわからん。勝手に思ったことを書いているだけである。
だから、もし疑問を感じたら、そのようにおっしゃって頂きたい。意見を聞く素直な耳は持っているつもりである。最終的に決裂すれば、お互いに握手して別の道を歩んで行けると思う。言いたいことを言っておけば、いずれ向上して再び交わるときが来るかもしれないではないか。なんちて(爆)。
つまり指摘されたからと言って唯々諾々と従わないで下さいと言うことです(ちゃんと考えて欲しいけど)。結果的にボツにするかもしれんけど(爆)、またどこかで会いましょうと。