何を書いたらいいのかよく分からなくなる瞬間がある。などと書き始めると、こんな話は前にも読んだな、と思われる方が何人かはおられるはずで、痴呆の初期症状のごとくであるが、まぁ気にせず書く。
よく分からなかったり書くことがなかったりするのなら書かなければいいのである。とって食われるわけじゃなし、書けないものは書けない。別にスランプってわけじゃない。スランプという言葉は平均して好調だったり一定のレベルにある人が使う言葉であって、常に低調な人がまたかって感じで書けなくなっても、それは日常茶飯事なので、改めてスランプなどという言葉を使うまでもない。まぁ無理して書くと書けるようになったりするのだが、かように私の作家性は低いと何度も言っておろうが。
ネタはいくらでもある。それを書きたいと思うかどうかは別問題であるし、更に言うと、書けるだけの筆力があるのかという大問題もあるが、まぁ書きたいネタはある(ついでに書くと、それが面白いネタなのかどうかもまた別問題である)。だが、私にはそれを次々とこなして行く力は、まだない。ばんばんネタを思いついてばんばん書ける筆力とスピードを持っている方々はうらやましい限りなのだが、うらやんでいても話は進まないのでひたすら書くだけである。書けなくても無理して書く。別に書けないんなら書かなきゃいいじゃんという気楽な気持ちで無理やり書く。楽しいからね。
楽をして生きると楽なのだが、無理をしないと進めないと思っている。無理をすると後でもっと楽しくなる。何でもそうでしょ? まぁこれも程度問題で、無理し過ぎて嫌いになるってケースもあるので、ほどほどに無理をするのがいいと思う。そのうち無茶も出来るようになる。無理し過ぎて嫌いになるような奴は最初から芽がないと言えばそうなのかもしれないが、それは才能のある人の言葉であると思う。金は問題じゃないんだよ、なんてのは金持ちの言うセリフである。
他に該当する作品はないと思うので「Running On Empty」だと思うのだが、たとえ流して読んだにしても、これを「俺」とアスカ様のラヴラヴな話と読まれると、これはなかなか厳しいものがある。さっぱり受け手に伝わっておらん。自分の余りの文才のなさに愕然とするばかりであるが、再読してもどうしてLAO(ラブラブ・アスカ・オレ)に読めるのかさっぱり分からぬ。自分で書いたのだから当たり前である。しかしこういう人間が投稿作家の方々に「これじゃ伝わらねぇ」だの「この日本語は変」だの言ってるのだから笑止千万である。やめてしまえバカモノ。
書くのは純粋に楽しい。だから書いている。同時に読むのも楽しい。だから読む。どっちかを選ぶのは無理である。カレーかライスかどっちか選べと言われているようなものだ(そうか?)。こういうたとえを出すと好戦的な感じだが、こんなのは趣味の問題なので、ひたすら読者に徹しようが作家に徹しようがそんなのは自由である。エヴァFFなぞ読まなくとも良い。読みたければ読めばいい(逆に、何か書いてる人間がエヴァFF以外は読まないってのは相当問題があると思うが)。私はロックは好きだがフリージャズはほとんど聞かないし、パンクも好きじゃない。別にバンドやってるからって他のアマチュアバンドのライブを見に行かなあかんということもなかろう。それと同じである。
後出しジャンケンはさらに続く。
綾波レイに対する立ち位置というのも人それぞれなのだが、その余りの違いに驚愕する時がある。いつもは気にしていないだけに。共通項などないんじゃないかとさえ思う。だがここで「俺はみんなとはちょっと違って」などと言うと「誰でもそう言うんだよ」と嘲笑される。しかし考えてみるまでもなく、みんながみんな同じ立ち位置というのもいかがなものかという気もする。こうなると言葉遊びである。
綾波レイは確かにかわいい。それは否定しない。というより、否定する気はさらさらない。私がここにいるのはそれも理由の一つであるのは事実だと思う。だがそれが主な理由ではない。アスカだってかわいいし、最初にエヴァを見たときに「あ、かわいいな」と思ったのはマヤぽんである。ミサトさんなんてかわいくってしょうがない。だからかわいいってのは前提としてあって、その上でなぜレイなのかという話だと思うのだが、これも純粋に私の問題で、レイが一番可愛いからここにいるってもの問題なくアリだ。
私は妹萌えだと言われている。発端は私の「レイのことをグレた妹のごとく見ている」という発言で、私もそれに対する反応に悪乗りしたのだが、まぁ妹萌えでも十四歳萌えでも何でもよろしい。マジレスすれば、なんでもかんでも「〜萌え」と規定するのはいかがなものかと思うがどうか? 分かって書いてるんだとは思うけど。
急に思ったのだが、娘のように思ってる人は娘萌えか? 母親のように思ってると母萌え? 女神だと思ってると女神萌えか? 恋人のごとくだと急にLROになるのは、恋人に萌えるのは当然という解釈がされているからではなかろうな。好きとか愛してると萌えとは違うぞ(違うよな?)。
まぁなんでもいいんだけど。
私が綾波レイを見るとき、悲しい、という感情を持つ。これは何とかしてあげたいという衝動に結び付く。具体的に何かするのはシンジだったりするのだが、まぁそれはちょっと置いておく。「悲しい」というのと「かわいそう」というのは異なる感情なのだが(当たり前だ)、この違いを文字にして示すのは難しい。どちらも何とかしたいという衝動に結び付くので、共通項はある。
「かわいそう」あるいは「悲しい」から「何とかしてあげたい」に結び付く場合、これは見下していることにならないのか、という話がある。そんなことはないと思うのだが、明確な反論はしにくい。心の奥底で弱者を助ける快感を味わっているとすれば、それは見下していると言えるのかもしれない。
私は偽善でも何でもOKと思っているクチで、すべて自己満足でいいんじゃないかと思う。災害ボランティアでも足の弱っているお年寄りをおぶって階段を上がるでも、感謝されている自分に酔っていようが、ここで何かしないと後で後悔するという強迫観念だろうが、何でもよろしい。結果オーライである。自分に酔うのが嫌だから何もしないよりはマシなんじゃないかと思う。やるにしてもやらないにしても自己満足には変わりがない。だから、仮に見下しているとして、それがどうした、という気もある。
急に話があれだが、例えば自分の年老いた親を介護するとき、そこに見下しているという感情はあるだろうか。「かわいそう」で「なんとかしたい」と思うのは事実なんだと思うのだが。私は見下しているという感情はないと思う。従って、かわいそう=見下している、のようには一般化できないと考える。まぁだからどうだということもない。
何とかしたいというのは、幸せになって欲しいということである。幸せの形は色々あるべきで、無論シンジといちゃつくだけが幸せではない。が、彼女の選んだ幸せをすべて無条件で受け入れる気にもなれない。例えばだよ、色々あれしてヤク中になって結局あれ、という形を彼女が選択して、これが私の幸せ、とか言われても、それは受け入れられない。ぶん殴ってよく考え直せと怒鳴りつけるって話になる。何とかしたいってのはそういうことだ。
アヤナミストと呼ばれる人達は理屈っぽいんだそうである。私はアヤナミスト属性以外の人はあんまり知らないので比較はできかねる。そうかいな、と思うだけである。
私個人の話をするが、私は元々理屈っぽい方である。エヴァ関連の話になるとそれに拍車がかかる。これをもって理屈っぽい人間がアヤナミストになりやすいなどという傾向を読み取ることは、当たり前だが無理である。
正常異常を多数決のみで決めるのなら、自分は正常な場所にはいないとは思う。ただこれは、正常異常を多数決のみで決めるという部分に問題があるのであって、そういう決め方をして細かい部分まで見て行けば、たいていの人は異常である。単にアニメファンということで言えばそうそう少数派でもあるまい。
まぁしかし自分でもどうかなと思う瞬間はあるので、理屈をつけて安心したいのである。理屈が付くと安心するのが理屈っぽい人なのかもしれない。理屈が付いていかんということもなかろう。反面、理屈の付かない快感もあったりするのだが。そんな分類なんてどうでもいいんだけど。
とまぁこのように――とはストレートに続かない脈絡のなさなのだが――ここ十年くらいの私は何かを否定することはほとんどなくなっている。何に対しても、それはそれでアリ、である(例外はある。CCCDなどは明確にナシだ)。
ただ、自分を否定されると徹底的に争う。他人を否定はしないかわりに自分も否定されたくない。これは相当自閉的なのではあるまいか。
今年は喧嘩を売って歩く年にしようかと思っている。弟子と称する人物も切りかかってくるようだし、防戦一方では面白くない。返り討ちにしたうえで再起不能なまでにずたぼろにし、返す刀で師匠筋に戦いを挑む。ざっと数えて、ターゲットは四人いる。もとい、四人いらっしゃる。マジでお世話になったA氏、度々実のある話を聞かせていただき、この人はほんとに凄いと思っているB氏、会ったこともなければメールを出したこともないC氏、この人がアマチュアなのは日本文学界の大いなる損失なのではないかと思われるD氏(もしかすると私が知らないだけでプロなのかもしれんが)である。
だが、戦いを挑むと言っても、具体的に何をしたらいいのかさっぱり分からぬ。麻雀でもするか? 仮に作品で挑んで、例えば読者投票とかで勝てる可能性は万に一つもない。それほどまでに高い壁なのである。それに、読者投票で勝って何になるというのだ。結局、基準は自分にしかなく、俺が自分で勝ったなと思えば勝ちだ。ということは、一人でこっそりと人知れず孤独に戦いを挑むことになる。挑まれた方は挑まれていることすら知らないのである。不毛である。
つーか、この方々は尊敬すべき対象であって、倒すべき敵ではないというのが偽らざる感情である。まぁなんでもいいか。