私は何を望むのか
2004.3.13(日記よりサルベージ)

 私は、自分探しとか、自分の居場所とか、そういうことには余り興味がなかった。今でもあまりない。本当の自分なんてどこにでもいるしどこにもいない、などという意味不明なことを書くつもりはないが、本当の自分はこれである、と規定する気がない。そもそも本当の自分って何だよ。規定できるような物なのか? 居場所なんて、そこにいたければいればいいし、いたくなければ行きたい所に行けばいいと思う。それは挫折感を味わったことがないからだ、と思うかもしれないが、本当に挫折したからこう思うようになったのかもしれませんよ(笑)。
 数年前、あるいは十数年前かもしれないが、名前も覚えていないある若い女性の映画監督がインタビューに答え、自分探しだの自分がここにいてもいい理由だのという言葉を連発していたのを聞いてびっくりしたことがある。もしかするとエヴァの影響下にあったのかもしれない(私自身はまだエヴァに出会っていない)。だとすれば十年は経っていないのかもしれない。最近はそんな小説もあったようだが、どっちにしてもぞっとしない話だなと思った。余談だが、「ぞっとする」というと普通は「背筋がぞっとする」ということだと思う。「ぞっとしない」というのは「それほど感心したり面白いと思ったりするほどでもない。」という意味だそうなので、両者の意味は近いというか、少なくとも逆の意味ではない。

 アスカやシンジは、ひたすら閉塞したり挫折したりしているが、少なくとももがいてはいると思う。だがレイは、もがいてすらいないように私には思える。
 解放、という言葉は微妙な言葉である。中国はチベットを解放したらしい。なんとか解放戦線、なんてのもあったような気がする。それを承知で書くが、私はレイを解放する物語を書いているつもりである。なぜそんなことをするのか。書きたいから。ではなぜ解放したいと思うのか。
 いうまでもなく、綾波レイというのはアニメーション上のキャラクターである。実在しない、とは敢えて書かないが、何か小説を書いたからといって実際に何かなるという物ではない(実際に、というのも微妙な言葉ではある)。だが、魂を吹き込むことは可能であると思っている。しかしこれは「なぜ解放したいと思うのか」という問いに対する回答ではない。
 困っている人に対して何とかしてあげたいと思う気持ちは、あるいは普遍的なのかもしれない。それは自己満足でも何でも良くて、感謝されないならしないというものではないだろう、というのは年頭に書いた通り。だからレイが何も答えなくても、それは書きたいと思う気持ちとは関連がない。まぁ私の脳内ではあれこれ答えたりするわけだが(爆)。しかし彼女は別に困ってはいない。こういうのはどうなの、と提示しても、恐らく「あなたには関係ない」と言われるであろう。まるで雪風(神林長平著)の深井零のようだが、実際に関係がないといえば関係がない。こっちが一方的に関係したいと「思う」だけである。話は袋小路でさっぱり進まない。身の毛のよだつような話だが、こういうことを書き記すということは、つまり自分を見つめ直すという作業に他ならない。あーやだやだ。

 仮に学園エヴァを庵野氏が「君たちの欲しているのはこういう物か」と提示した物だとして、安易に「はいそうです」と答えるわけにはいかない。だが、違いますと断言することも私にはできない。ごく普通に生きていけることが彼らに対する私の望みであり、学園エヴァは余りにも普通であるからだ。では、私が学園エヴァに興味を持たないのは、それが到達地点だからなのか。

 ループ。続くかもしれない。

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