書評:「A.D.2016」/のの
2022.10.30

 この作品は、新世紀エヴァンゲリオンという映像作品の二次創作小説である。言わずもがなではあるが、その事実は強調しておきたい。
 界隈には、いまだにエヴァの二次創作など多数ある。だがその物語で描かれる人物がレイでありシンジでなければならない確固たる理由を持った作品は意外と少ないかもしれない。もちろんその作者には作者なりの思いがあり、結果的に比較的普遍的な少年少女の未来や想いを描くという選択をした作品もあるだろう。それはそれで、言うまでもなく価値がある。

 だが「A.D.2016」は、“あの”レイでありシンジを描かねばならなかった。あの二人の未来を、決して約束されているわけではない未来を描かねばならなかった。

 この作品での碇シンジは、意味のない焦燥感に駆られ、だが何をしていいのかわからず、どうしたいかもわからず、閉塞感に苛まれ、ひたすら屈託を抱えて、その場を凌ぎ、逃げ続けている。それは「シン」で描かれた一時のシンジそのもので、率直に言って蹴り飛ばしたくもなる。
 綾波レイは、直接的に彼を助けるわけではない。彼女は彼女で必死で、その分だけ前向きではある。それでもどうすべきかはわからない。
 だが生きていこうと思うなら前を向かなければならないし、そうでなければ価値も意味も見出せない。問題は、なぜ生きていこうと思えるか、壮絶な過去を乗り越えてなお自分の生に価値や意味を見出そうと思えるかだ。
 その未来は、明るい未来ではないかもしれない。だがその未来を切り拓くのは自分以外ではあり得ないし、自分の人生を照らすのは自分しかいない。誰かの力を借りてでも、という決意があればこそそれは可能になるし、その決意は誰かの未来を照らす力になる。
 結局それを引き寄せたのは、偶然を伴った一言と、祈りにも似た決意だったのだろう。それでいいと思う。前を向けたなら、ただ、それだけでいい。
 その意味で、この物語は旧エヴァが果たせなかった碇シンジのビルドゥングスロマン――成長物語ともいえる。別の言葉でいえば、もう一つの「シン」である。

 魅力的なオリキャラ――オリジナルキャラクターが多数登場する。例えば、既公開分のリレー小説(ポスターフレーム)でも出ているので名前を出しても良いと思うのだが、最上ハルは物語のキーになる。だが彼女とて何をどうすればいいのか、どうしたいのかわかっているわけではない。同年齢の少女であれば、それは当然である。
 蛇足だが、他のオリキャラ――大人を含めて、人物のキャラの書き分けは素晴らしいと思う。物語の推進に必要なキャラクター(性格)であり、ステレオタイプに陥っていない。ひたすら屈託するシンジを描き切った点も含め、この筆力は特筆に値する。
 だからこそ、このラストが生きる。
 彼はこの年月と文章量を必要とするだけの出会いと再会と、出来事と、回り道にも似た思考を経て、沢山の助けを借りて、行き止まりかと思えるような隘路をすり抜けることができた。自分だけの力では、もちろんない。だが彼はそれを誇りに思ってよいだろう。人は一人で生きているわけではない。

 この作品は、いわゆるライトノベル的な読みやすさのある作品ではない。それは公開済みの「夏の逆襲」を読めばわかる。萌えポイントも散りばめられてはいるものの、文章は重厚でフォントもそれなりに小さく、本もそれなりに厚い。要するにそれなりに長い。だが、あの二人の話を読みたいと思うなら、あの二人の未来を信じるなら、読む価値がある。これは断言できる。ここにはあの二人がいる。臆することはない。ゆっくり読むだけで良い。読了時には長さを感じなかったと思うだろう。同時に、物語が始まったのだと感じるだろう。
 そして、通奏低音としての重い空気感と、れい氏の手による表紙絵との違和は、その時に解決される。この物語はこの絵を必要としている。絵そのものの素晴らしさも含め、この点も特筆しておきたい。

 2022年という今、2016年という近未来を描いた作品がLRS文庫という形で世に出ることはある種の奇跡なのではないかと思っていた。その考えを改めよう。これは必然だった。エヴァンゲリオンという作品はそれだけの強度があった。偶然があるとすれば、ののという才能とエヴァが出会ったことだ。そして、その当然の帰結としてエヴァが、綾波レイが、碇シンジがののを選んだ。それを感謝したい。

「A.D.2016」特報

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