素顔のままで

written by tamb   


 やっとの思いで大学生になった。受験勉強はたいへんだった。
 初めて大学に行った日、私たちは自分たちがいかに有名か、いかに世間に知られているかを痛感させられることになった。
 髪の毛を私のような空色やアスカのような亜麻色に染めている女の子がとても多いのだ。亜麻色ならともかく、青く染めるのは意味がわからない。金髪や紫の子もいるのは、赤木博士や葛城さんの真似だろうか。カラーコンタクトを入れている子もいる。
 男の子たちはそうでもなかったけれど、やっぱり碇くんや渚君の真似をしている子がいた。何を考えているのか、中には明らかに碇司令を意識した子もいた。冬月副司令は見当たらなかった。学生の中には。つまり教員らしき人にはほぼコスプレ状態の人物がいた。教授なのか准教授なのか、助手あるいは院生なのかはわからない。副司令はある意味では研究者にとって憧れの存在なのかもしれないけれど、でも例えばアインシュタインやホーキングやジャック・クストーや、学者ではないけれどジャック・マイヨールの格好をした人は見当たらなかった。
 高校生の頃は、壱中から進学した生徒が多かったこともあってか、そんな私たちの真似をするような子はいなかった。もちろん先生にも。確かにインタビューや雑誌の取材も受けたし、ドキュメンタリーやアニメも制作されたけれど、プライバシーへの配慮から顔は出されなかったし、同世代の間にこんなに影響を及ぼしてるとは思いもしなかった。
「……どうなってるんだろう」
 碇くんも半ば呆れたようにそう言った。
 でもそれは私たちが必要以上に目立たないということでもあって、それはそれでいいのかな、とも思った。



 指定された教室を探し当て、戸惑った気持ちのまま適当な席に座ると、アスカ派らしい女の子が話し掛けてくる。とてもフレンドリーに。
「ねえ、髪の毛がすごいナチュラルね。瞳もまるで本物みたい」
 私はどう答えたらいいかわからず、曖昧に微笑んだ。
「あたし、マスミ。府川マスミっていうの。あなたは?」
「綾波レイです」
 彼女はのけぞり、絶句した。
「……本物?」
「うん」
 周りにいた女の子や男の子たちが一斉に振り返った。
「綾波レイ?」
「マジで?」
「きゃあかわいい!」
「マジで実在するんだなぁ」
「想像以上に可愛いな」
「いや、そうでもない」
「憧れちゃう!」
「アスカはいねぇの?」
 みんな勝手なことを言う。
「ね、ねぇ。もしかして、シンジ君……は?」
 府川さんが上ずった声で聞く。気安い呼び方が少し癇に障ったが、私は少し離れた所に座っている碇くんを見た。苦笑を浮かべてこっちを見ている。
「シンジ君なの? ほんとに?」
「はい。本物です」
 碇くんが笑顔で言う。私はまた少し苛立つ。
「シンジ君かわいい!」
「シンちゃんって呼んでもいいかしら」
「俺、ホモになりそうだぜ」
「お前は俺か」
「あんま特徴ねぇな」
「レイちゃんと付き合ってるの?」
「キスとか、した?」
「おい、アスカ様はどこにいるんだよ」
 アスカがここにいれば、と私は思う。みんな蹴っ飛ばしてくれるのに。



「きみって、思ってたよりずっと繊細な感じなんだね。綾波レイさん」
 碇くんの所に移動した府川さんにかわって私の前に座った男の子がそう話しかけてきた。
「……もっと武骨な感じだと思ってた?」
「思ってたよ。正直ね」
「ありがとう」
 私は意図的に曖昧な返事をする。
「僕は棚橋っていうんだ。棚橋ケイジ」彼は爽やかに笑いながら言った。「お昼でも一緒に、どうかな?」
 初対面からものの三十秒でお昼に誘うのはすごいとは思ったが、拒否する理由もない。碇くんとは、少なくともしばらくの間はあんまりべたべたするのはやめようと話をしてあった。いつも一緒にいると新しい友達もできないだろうからだ。
 実際、もう碇くんには飽き飽きしていた。私より料理が上手で、優しくて、大切にしてくれて、二人きりの夜には私のことをいともたやすくめちゃめちゃにしてしまう碇くんには。そんな私自身にも、もう飽き飽きだった。
 でも、ひとつ聞いておかなければならないことがある。
「……どうして?」
「どうしてって?」
「どうしてわたしを誘うの?」
「綾波さんが素敵だからだよ」棚橋君は当然だという顔をした。「きみが、今まで僕が出会った女の子の中で、一番素敵だからね。素敵なものは手に入れたくなるんだよ。男っていう生き物はね」
 こいつは結婚詐欺師か、と私は思った。だが彼の次の一言が私の胸を突いた。
「きみは他の女の子とは違うんだ。僕にはわかる。一目見ただけでね。きみは特別なんだよ。それがとても魅力的だ」
 私は今までずっと普通でありたいと願ってきた。生まれも育ちも他の人とは異なる私にとって、普通であるというのはとても大きな魅力であり、目標だった。サードインパクト以降、碇くんとともに過ごした四年間は普通になるための歩みだった。碇くんはいつも、綾波は普通の女の子だよと言ってくれた。それが嬉しかった。
 でも棚橋君は違った。彼は私を特別だと言う。だから魅力的なんだと言った。
 棚橋君はたった一言で私の今までの全てを肯定した。こんな経験は初めてだった。
 隣をうかがうと、碇くんは女の子たちに囲まれてにやけていた。
「シンジ君、お昼でも一緒に、どお?」
 府川さんのその言葉に、彼はちらりと私を見た。私は目を逸らし、棚橋君に答えた。
「いいわ。ご馳走してくれるなら」
「もちろんだよ。ちょっと遠いけど、美味しいサラダを食べさせる店があるんだ。案内するよ」
 私はうなずいた。碇くんを見ることなく。



 その日は、必修科目がどうとか選択科目がどうとか、ゼミの説明会がいついつで応募期間がいつまで、応募多数の場合はレポートの提出、学籍番号がログインIDが仮パスが、みたいなブリーフィングが一時間くらいあって、それから山のような書類を受け取って終わりだった。これに全部目を通して提出すべき書類を提出して、と思うとうんざりする。オンラインでやるものがほとんどだと思うけれど、めんどくささは変わらない。あとで碇くんと一緒にぶつぶつ言いながらやろう。

「さ、行こうか。レイちゃん。レイちゃんって呼んでいいかな」
「かまわないわ」
 考えてみると私をそう呼ぶ人はあまり多くない。碇くんは綾波だし、アスカはファーストかレイかあんたと呼ぶ。ヒカリも呼び捨てでレイだ。
「僕は割と普通の人生を歩んできたと思うんだけど」
 それはそうだろう。普通の人は普通の人生を歩むものだ。
「なんかみんな、コスプレっぽいだろ? これはなんなんだろう。僕の中の普通っていう概念が崩れそうだよ」
「わからないわ」
「本家って感じの発言だね」
 棚橋君に連れられてキャンパスを歩く。並んで歩きながら意味のない会話を続ける。陽差しが優しく、穏やかな気持ちになれた。
「棚橋君の高校には、コスプレっぽい子はいなかったの?」
「いなかったな。もしかすると校則のせいかもしれないけど。でも、街中でも見かけた気がしないんだ」
「そう」
「レイちゃんの高校は?」
「いなかったわ。だって本人たちがいるのに」
「それもそうか」棚橋君が笑い、そして続けた。
「でも、もしこれがこの学校に特異な現象だとしたら」
 棚橋君の話し方は少し変わっていて、気になる感じだった。今までに出会ったことのないタイプで、興味をひかれた。私が出会ったと言える男の人なんて、ほんのわずかしかいないけれど。
「僕たちが出会ったのは偶然じゃないかもしれないよ」
「……どういう意味?」
「出会うべくして出会ったってことさ」
「だからどういう意味?」
「お腹が減ったな」
 会話が噛み合っていない気がする。でもそれが少し楽しい。
「その美味しいサラダの店、ピザもいけるんだ」
「太るわ」
「レイちゃんは少しくらい太っても大丈夫だよ。逆にこれ以上痩せたら消えてなくなりかねない」
 変な言い方。思わず笑ってしまった。
「初めて笑顔を見せてくれた」棚橋君は笑顔を浮かべた。「かわいいや。やっぱりかわいい」
「ありがとう」
「どうしたら笑ってくれるかなって、ずっと考えてた。下らない冗談でも言えば付き合いで笑ってくれるんだろうけど、それじゃあやっぱりね」
「うん」
「お腹減ったな」
「さっきも聞いたわ」
「きみを食べたくなった」
「お腹いっぱいにはならないわよ」
 私もいつのまにかこういう会話ができるようになった。男の子はこういう話が好きだ。調子に乗せてはいけないことも知っている。
「試してみないとわからないさ」
「わたしたち、出会ってから何時間もたってないの」
 私は怖い顔を作って言った。
「いろんな人がいるとは思うけど、わたしは食べられたいとは思わないわ」
「思った通りだ」棚橋君は引き下がらない。「そう言うと思ってたよ。ますます好きになりそうだ」
「……好きに?」
「そうだよ」
 私は思わず立ち止まり、隣の彼を見上げた。申し分なくかっこいい。いわゆるイケメンに属するだろう。背も高いし足も長いし、タレントやモデルでも通用するかもしれない。率直に言って素敵だった。話をしていても楽しい。私を見つめる笑顔は爽やかで、目を逸らすのも難しい。女の子からはさぞかしモテるだろう。
「どうして?」
「なにが?」
「どうしてわたしなの?」
「さっきも言ったろう?」
 棚橋君は私の瞳を覗き込みながら言った。
「レイちゃんは特別なんだ。今までに出会った誰よりも魅力的だ」
 今まで誰もそんなことは言ってくれなかった。誰もだ。碇くんでさえも。
「綾波」
 その時、その人の声が聞こえた。よく知った声だ。
「探したよ。どうしたの?」
「……女の子に、お昼に誘われてなかった?」
「うん。でも断ったよ。普通に。なんで?」
 彼が私の隣に立つ。そして、穏やかな瞳で棚橋君を見た。
「ぼくの彼女に、何か用?」
 碇くんがそう言った。ぼくの彼女。頬が一気に熱くなった。
 思わず碇くんを見上げた。棚橋君に負けないくらいの爽やかで素敵な笑顔だった。
「碇シンジ君? 僕は棚橋って言います。棚橋ケイジ。綾波さんをお昼に誘おうと思ったんだけど」
 棚橋君は碇くんに手を差し出し、私をちらりと見て言った。
「さすがに分が悪いかな。今日のところは引き下がるよ。じゃあ、また」
 碇くんが握り返した手を離し、棚橋君は私と碇くんに軽く手を振って、軽やかに颯爽と歩き去った。

 取り残された私は、もう一度隣に立っている碇くんを見た。背は棚橋君ほど高くない。着ている服はもう一つダサい。顔ももう見飽きた。
 でも、なぜか輝いていた。特別だった。
 私は彼から数歩離れ、そっぽを向いた。
「綾波、お昼食べに行こう?」
 私はそっぽを向いたまま答えない。
「綾波?」
 碇くんが困っている。もっと困ればいい。
「綾波、おいでよ」
「行かない」
 言い方が違うもの。
 彼は少しだけ考え、それから手を伸ばして言った。
「来い!」
 私はためらわず数歩を走って彼の胸に飛び込んだ。彼は特別だった。理由なんかいらない。私にとって唯一の、特別な人だった。

 二時間で終わった私の二度目の恋。
 初めての失恋。
 でも、それで良かったと思う。
 やっぱり碇くんが素敵だって、わかったから。

「碇くん」
「うん?」
「わたし、特別?」
「もちろんだよ。だって綾波は、世界にたった一人のぼくの彼女だろ?」
 私は碇くんを木陰に引っ張った。いつもはこんなことはしない。したことがない。私は彼の両腕を掴み、上を向いて背伸びをして目を閉じた。
 彼が私の背中と頭に腕を伸ばし、二人の身体が密着する。そして口唇が触れ合った。舌先が少しだけ絡み合い、それでおしまいだった。ここは自分たちの部屋ではない。それでも私は、すっかり溶かされてしまっていた。
 碇くんはそんな私を見て、笑顔で頭をぽんぽんとしてくれた。そして私の手を取って歩き出した。
「お昼、何にしようか」
「んー、たぬきそば」
「たぬきは入ってないよ?」
「入ってないの?」
「入ってない」
「たぬきそばなのに?」
「入ってないんだ」
「じゃあ、きつねそば」
「きつねが入っているね」
 私たちは笑う。下らない会話。下らない冗談。でも幸せだった。たぶん、世界でいちばん。
 私は碇くんの手をぎゅっと握り、彼を見上げた。

 ――離さないでね。


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