Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・十月 ( No.2 ) |
- 日時: 2010/10/02 08:02
- 名前: Seven Sisters
- お題:わたしのお尻は喋らない
冷え冷えとした、剥き出しのコンクリート。 窓際に置かれたベッドと、その脇の小さな整理ダンス。 一人で、長い時を過ごした空間。 けれどその部屋との別れの時が、間近へと迫っていた。
思えば、引越しをするというのは初めての経験だった。 以前よりずいぶん物が増えたとはいえ、未だに質素な私の部屋。 それなのにいざ整理を始めると、思ったよりもずっと時間がかかる。
こんなことなら、全てを彼に任せてしまえばよかっただろうか? 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。 けれど種々の手配で多忙な彼に、必要以上の負担はかけたくなかった。
薬指で密やかに光るのは、プラチナのエンゲージリング。 彼と初めて出会ってから、もうどれほどの月日が経つだろう。 もうすぐ私の姓は碇に変わり、二人での新しい生活が始まる。 そして私は、新居へと移る準備に追われているのだった。
「懐かしい」
言葉と共に、思わず手にとって眺めてしまった。 それは、傍目には何の変哲もないジーンズ。 値段も、さほど高価な物ではなかったはずだ。 けれど今でもよく覚えている。 それは、彼に初めて買ってもらった洋服だった。
どうして、私はこのささやかな贈り物のことを忘れていたのだろう。 どうして、この宝物はタンスの奥底に長く眠っていたのだろう。
生まれかけた小さな疑問の数々は、長く私の中にとどまることはなかった。
それを初めて手にした時の幸福感。 浮き立つような高揚感と、これ以上ないくらい満たされた心の器。 そうした当時の感情が、私の中ですぐに蘇ってきたからだ。
「そう、そうだったわね……」
嬉しくて、嬉しくて。 本当に嬉しくて。 普段の生活でそれを身につけるのは、どうしてももったいない。 そんな気持ちが先に立ち、それが外の空気に触れることは多くなかったのだ。
そこまで大事にするほどの物じゃないのに。 そんなふうに言って、苦笑する彼。 でも私は、これを身につけるのは特別な時だけと決めていた。
碇くんは、今でも覚えているかしら。 間もなく手伝いに訪れるはずの、彼の顔が浮かぶ。 私の心を満たすのは、二人で共有した様々な思い出。 そして懐かしさに流されるまま、私は着ていたジャンパースカートの下から、ジーンズに足を通していた。
(きつい……)
思わず苦笑してしまった。 足は何とか入るのだが、お尻の部分がどうしても入らない。 身長は昔から変わっていないし、体重も……まだそれほどは変わっていないはず。 ということは、私のお尻が大きくなったせい? 少し困惑したけれど、それも仕方がないと気持ちを切り替えた。
これをもらったのは、もう何年も前のこと。 当時の自分の状況や、食生活。 それを思うと隔世の感がある。
初めて出会ってから、長い時が経って。 幸せなことがたくさんあって。 悲しいことも少しだけあって。 そして二人、ずっと一緒に生きていこうと決めたのだ。
(いいえ、二人だけじゃないわね)
そっと、自分のお腹をさする。
少しずつ、丸みを帯びる私の体。 一人の女から、一人の母親へ。 私の体は、新しい家族を迎える準備を、少しずつ進めているのだろう。
「そうよね、私、お母さんになるのだもの」
自然と私は、自分の体に語りかけていた。 湧きあがるのは親愛の情。 今までどうもありがとう。 そして、これからもどうかよろしく。
わたしのお尻は喋らない。 けれどそこには、二人で紡いだ絆の証が、確かにあった。
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