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サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ―
日時: 2011/07/30 05:40
名前: tamb

月々のお題に沿って適当に書いて投下して頂こうという安易な企画です。作品に対するものは
もちろん、企画全体に対する質問や感想等もこのスレにどうぞ。詳細はこちらをご覧下さい。
http://ayasachi.sweet-tone.net/kikaku/10y_anv_cd/10y_anv_cd.htm

今月のお題は

・綾波レイの幸せ
・Over The Rainbow

です。

1111111ヒット記念企画に始まり、物議を呼んだゲロ甘ベタベタLRS企画を挟み、いよいよこの
企画も終了間近。ま、少なくとも私が全お題を書き切るまでは企画そのものは終わらないわけ
だが(笑)。

しかし企画が終わるってことはこのサイトが10周年を迎えるってことで、もちろんそれにはそ
れなりの感慨はあったりするわけだけれども、それはそれとしていつも通りぬるい感じでやっ
ていきましょう。ちなみに10周年の隠し球は、少なくとも今のところは無いっす。
メンテ

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Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.5 )
日時: 2011/08/21 22:09
名前: クロミツ

○ ▲ ○  ペンギンカフェ・オーケストラ  ○ ▼ ○ 


 古ぼけたクーラーが鳴らすカタカタと耳障りな響きに、レイは重い瞼を開いた。
 ここ最近は寝苦しい夜が続いていた。一年中夏なので暑さには慣れているつもりだが、連日の猛暑に、自分よりも
クーラーが先に参ってしまったようだ。気がつくと、ぐっしょり寝汗を掻いていた。シャワーを浴びて幾分さっぱり
したが、空調の設定温度は下がらず、また汗が吹き出した。
 濡れた身体を拭いたレイは、手早く服を着て外に出た。昼間、十二分に熱せられた空気はまだ冷え切っておらず、
室外も蒸し暑さが残っているが、夜風が吹くだけ部屋に居るよりはましだった。
 まるく浮かんだ月が投げかける光で、夜は意外に明るい。もともとレイは夜目が利くほうだ。外で涼をとるだけの
つもりだったが、マンションを降りて散歩する気になったのは、今夜の月が、いつか見上げた満月に似ているから
だろうか。

 当ても無いまま、知らない道に脚を向けた。この辺りの地理は頭に入っているようで、入っていない。レイにとって
必要な情報は、マンションと駅を結ぶ一本のルート、それだけだ。生活に必要なものは駅前で買える。近所を散策する
なんて、考えたことすらなかった。
 実際、変わった風景があるわけでもない。日本のどこにでも在るような住宅が建ち並ぶだけだ。だが、方向さえ知覚
していれば迷うことはない。振り返ると、目印となる自分のマンションが、夜景を切り抜いた影絵のように見えた。

 四つ角の交差点で、目の前を何かが横切った。人より小さなその物体は、ブリキ仕掛のおもちゃのような動きだった。
「…あれは、葛城三佐の?」
 葛城ミサトが部屋で飼っている、温泉ペンギンに似ている気がする。しかし何故、こんな所を歩いているのだろうか?
仮に逃げ出したのだとしても、慌てて走っている様子でもなかった。
 気になったレイは角を曲がった。闇に溶け込んだ黒い背と対照的に派手なトサカは、やはりあのペンギンのものだ。
捕まえようとすると却って逃げられる恐れもある。少し迷ったが、後を追うことにした。
 目の前を歩くペンギンは何も気付いてないのだろう。羽をぱたつかせながら、ひょこひょこおどけた足取りで暢気に
進む。しかし、ただの散歩だとしても、一羽だけでこんなに遠くまで来るとは考えにくい。ミサトか、ひょっとして
同居人の碇シンジが一緒かもしれないと辺りを見廻したが、誰の姿も見えない。
 そうしているうちにペンギンは脇道へ入り、更に細い路地へと曲がる。知っている道のように迷い無く進むと、急に
駆け足になった。意表を突かれたレイも走って後を追う。
 住宅街を抜け、やや開けた空き地にこじんまりと白い建物が一つあった。黒い影は、その建物の門をくぐった。

「ここは?」
 白い壁に囲まれた門のアーチに『Penguin Cafe』と看板が出ている。入口は開いており、南欧の町角にありそうな
洒落たオープンカフェの玄関には、ほの白い灯りが点っている。入ろうかどうか、大して躊躇しなかった。ここに
逃げ込んだペンギンを探すのが目的で、正直にそれを話せば不法侵入で咎められずにすむだろう。もっとも、こんな
真夜中に人に出会うかどうか怪しいが。
 アーチをくぐり、庭に脚を踏み入れようとしたとき、不意に玄関が開き、黒尽くめの影が姿を見せた。
「いらっしゃいませ。ペンギン・カフェにようこそ」
 タキシードに蝶ネクタイで身なりを整えた男が、うやうやしくお辞儀をした。
「本日はお一人様でいらっしゃいますか?お席は空いておりますので、どうぞこちらへ」
「いえ、私はペンギンを探しに来ただけで…」
「ペンギンならうちで間違いありませんよ。他に似たようなカフェもありませんからね」
 どうも話が噛み合わない。考えてみればこんな街中で『ペンギンを探している』などと云っても、言葉通りに受け
止めてもらえないかもしれない。『ペットが逃げてしまって』と云ったほうが良かっただろうか。
「本日は特別に、オーケストラの生演奏がございます。開演時間も迫っていますから、お早く」
 なおも男は店内へ入るよう促した。口調は丁寧だが、妙に押しが強く、何故か従わなければいけない気になってくる。
だが、レイは音楽に興味はないし、あのペンギンが気掛かりだった。
「本当に私、逃げたペットを探しているんです」
「ああ、あのペンギンでしたら大丈夫ですよ。演奏が終るころには、ひょっこり現れるでしょうから」
 男の言葉をレイは訝しんだ。捕まえたペンギンを返す替わりに、音楽を聴いてゆけと、そう云いたいのか?何が目的
なのか、皆目見当もつかない。
「ご心配はいりません。ゆっくりお寛ぎ下さい」
 男は玄関の扉を開け、左手をまっすぐ室内へ伸ばす。袖元の銀のブレスレットがちかりと光った。観念したレイは
カフェの中に入った。明るい照明で照らされたカウンター形式の店内には、バーテンダーも客の姿も見えない。
「こちらです。どうぞ」
 レイはL字に曲がったカウンターの奥の扉まで案内された。部屋に入ると真っ暗だったが、ステージを覆う大きな
カーテンの隙間から、ほんの僅か照明が漏れている。ステージに向かって並べたテーブルに、何組かの客が座っている
のがぼんやりと判る。レイは、唯一空いていた入口付近の円形のテーブルに座った。何も注文していないのに、男は
カクテルを置いて去った。洋梨にサワーをミックスしたような味で、アルコールは入っていない。
 周囲の客を見廻したが、部屋が暗すぎるうえ、全員がステージを向いているので、最後列のレイから顔は見えない。
ただ、なんとなく若い男女が多い気がする。光の無い部屋は開演前の独特な雰囲気、期待に満ちた静寂で包まれていた。
「皆様、お待たせいたしました。ペンギン・カフェ・オーケストラの開演です」
 どこからともなくアナウンスの声が響き、ざぁっと拍手が上がった。茫洋とした電子音の残響が空間を満たしてゆく
につれ、カーテンの向こう側の青白い光がだんだんと強くなった。演奏者のシルエットがカーテンに投影される。
その影の一人が動くと、オルガンの音が同じ旋律を繰り返す。更に別の影が動き、アコーディオンの響きを重ねる。
さぁっとカーテンが開いて顕わになった演奏者の面々に、レイは絶句した。

 十数人ほどのオーケストラは、有名な楽団のように統一された楽器ではなく、思い思いの楽器を各々が持ち寄った
かのような雑多な編成だった。主旋律を取る古いオルガンを演奏するのは伊吹マヤ。その隣で、同級生の洞木ヒカリが
アコーディオンを弾いてる。二人の音に追いつこうと、懸命に鍵盤ハーモニカを吹いているのが相田ケンスケと鈴原
トウジのコンビだ。
 シンプルなドラム・キットに座った日向マコトが、生真面目なリズムを叩き、エレキ・ベースを構えた青葉シゲルは、
長い髪を揺らせながら地味に低音を支えている。そして、最前列でゆったりと弦を動かしているのがチェロの碇シンジ、
その隣に座ってヴァイオリンを弾いているのが――。
「…わ…たし?」
 青い髪、赤い目、紛れもなく自分と瓜二つだった。いや、本当に自分なのかもしれない。あのプールで眠る綾波レイ
の複製が魂を得て、目の前に現れたのではないか…?
 混乱した思考が同じ場所を巡回している間に演奏が終り、再び起こった拍手に、ステージ上の全員が一礼して応えた。
ステージの上手から白衣を着た赤木リツコが現れ、博物館に展示されていてもおかしくないほど旧型のシンセサイザー
の前に座った。リツコが目の前のキーボードを操作すると電話のダイヤル音に似た、機械的で、だがどこか人懐っこい
音が響く。
 アスカ・ラングレーが握るピックが透明な音を爪弾くと、ついで隣に座る加持リョウジ、葛城ミサトが同じフレーズ
を紡ぎ出す。三本編成のギターは、アスカとミサトのエレキ・ギターが硝子のきらめきのように反射し、加持のフル・
アコースティック・ギターが温かみを加える。
 曲調が変わり、ウクレレの音が陽気に跳ねる。ステージの後方では冬月コウゾウが直立不動でウクレレを掻き鳴らし、
同じく最後列でパーカッションを叩いているのは、ネルフの最高責任者、碇ゲンドウその人である。
「碇司令まで…」
 賑やかな曲が終わり、不意に出来た静寂の隙間に、静かにピアノの音が滑り込む。ステージの下手で目を閉じながら
ピアノを弾くのは、自分と良く似た顔立ちの、銀髪の少年だった。レイはその少年の風貌も、ましてや渚カヲルという
名前など知る由も無い。それなのに、曲が終わったあと観客に向かって仰々しくお辞儀する赤い目の少年を、なぜか
知っている気がした。
 ステージの照明が拍手を贈る客席に向けられ、照らし出された観客の姿に、今度こそレイは言葉を失った。
 各々のテーブルでくつろぐカップル――何組もの碇シンジと綾波レイたちが、再び始まった演奏に聴き入り、音楽に
身を委ねていた。
 先ほど、ステージの上の綾波レイを見たときの考えが再び持ち上がる。だが、自分はともかく、シンジが何人もいる
筈はない。よく見ると、全員が同じではない。中学校の制服を着ている二人も居れば、大学生くらいや、中には長い髪
を束ねたレイの膝に赤ん坊を抱いている組もある。共通しているのは、どの席のシンジとレイも、楽しそうな笑みを
浮かべていることだ。
 夢かもしれない。自分は夢らしい夢を見たことがないが、この光景はそうとしか思えない。レイの頭の一部では冷静
に考えつつも、どうした訳か、この不思議なカフェが現実のものだとしても、すんなり受け入られそうな自分がいた。

 演奏が進み、幾人かは楽器を持ち替えて、ペンギンの行進のようなユーモラスな曲が始まった。トウジは授業で使っ
ている縦笛を吹き、ケンスケがトライアングルを叩く。相変わらずの仏頂面でマラカスを振るゲンドウが妙に可笑しい。
 一曲一曲は数分の短い曲ばかりで、殆どソロは取らず、聴いてすぐ耳になじむような覚えやすい旋律を繰り返す。
かとおもうと、呼吸するように規則正しいリズムが不意に表情を変え、単調なテンポに慣れた指先のステップを戸惑
わせる。落ち着いた曲、静かな曲、楽しい曲、様々に曲調が変わるが、指揮者がいなくても、アンサンブルに乱れは
ない。自分たちがどこで、何を演奏すればよいか、ちゃんと理解しているからだろう。
 「La La La ……」
 澄んだ声に導かれ、涼しげなギターの音色が部屋いっぱいに散りばめられる。軽快に踊るリズムの真ん中を、ヴァイ
オリンが駆け抜ける。知らず知らずレイは、音に合わせて僅かに身体を揺らしていた。

 曲間が空き、ステージの上のレイが立ち上がった。静かなピアノのイントロに合わせて、ヴァイオリンがそっと囁く
ように唄い始める。一小節終えたところで、ちらりと自信無さそうな視線を隣に流した。目を交したシンジは大丈夫と
云う代わりに微笑みを返すと、目を閉じて愛器を構える。チェロの太く厚みのある音がヴァイオリンに寄り添って、
ハーモニーを奏でる。地面すれすれを滑空するような低音を足掛かりに、レイはヴァイオリンの音色を高く飛翔させる。
二つの旋律は交わりつつも離れ、重なり、ピアノの音を道しるべに、ゆっくりと着地した。
 ピアノと二本の弦楽器だけで演奏されたこの曲に、今までよりも大きな拍手が降り注ぐ。ステージ上のレイの顔が
ほころび、何よりも嬉しそうな笑みを共演者に向ける。シンジも着席する彼女を笑顔で迎えた。
 次の曲ではシンジとレイが二人揃って小刻みに弓を動かし、アスカのギターが乾いたトーンを鳴らす。中間のソロ
を取るレイは、さっきよりも自信を持って演奏している。音そのものが楽しそうだ。冷静な表情でシンセサイザーの
ダイヤルを調節するリツコも、起動実験のときの張り詰めた感じは無く、和やかな雰囲気が漂っている。
 先程の曲が最後だったのだろう。演奏者全員が立ち上がってお辞儀をする。客席からの拍手は絶えない。アンコール
として、これも珍しくテンポの速い情熱的な曲を、全員で演奏した。すべてのプログラムが終了してフロアライトが
点いても、しばらく拍手は鳴り止まなかった。

 演奏者が去り、観客が徐々に少なくなってゆく光景を、レイは独り座ったまま見つめた。
 腕を組んで笑い合うシンジとレイ、まだ初々しく手を繋いでいるふたり、目を覚ましてむずがる赤ん坊をあやす大人
のレイ…。いまの自分とはまるで違う自分たちの姿を、最後まで見送った。
 辺りに誰も居なくなっても、まだレイは残っていた。じんわりと温かいものが心を包んでるようで、ここを去るの
が名残惜しかった。やがてゆっくりと身体を起こすと、部屋を後にした。
 カウンターの前に立っていた男がレイに気付き、笑顔で玄関の扉を開いた。
「ありがとうございました。次回は是非、御連れさまとご一緒にいらして下さい」
「あの、ペンギンは…」
 そう云いかけたレイの身体に、急激に眠気が襲ってきた。
「…なぁに、ご心配なく。もう店じまいの時間ですから」
 足下が覚束なくなったレイに、男が手を差し伸べる。左腕のブレスレットに『PEN 2』と文字が刻まれていた。


 レイが再び瞼を開けたのは、自分のベッドの上だった。服を着て眠ってしまったようだが、不思議と汗は掻いて
いない。むしろ、ぐっすり寝た後の心地よさが残っていた。昨夜のことは憶えていたが、考えば考えるほど、現実の
ものとは思えない。だが、どうしても気になって、レイは朝の授業には出席せずにマンションの周りを探索した。
 ようやく、記憶に残っている空き地まで出たが、あのカフェは影も形も無かった。

「綾波、具合悪いの?」
 昼休み、校舎の屋上の日陰で座っていたレイに、シンジが声を掛けた。
「何故?」
「今日は起動実験も無いのに、朝、来てなかったじゃないか。鞄を置いたらすぐ居なくなっちゃうし」
 独りになりたくてこの場所を選んだだけだが、どうやらあちこち探し回ったらしい。
「…そう。ごめんなさい、大丈夫だから」
「じゃあ、良かった」
 安堵の表情を浮かべるシンジに、レイはずっと気に掛っていたことを口にした。
「碇くん…。確かペンギン飼ってたわね、どうしてるの?」
「ペンペンのこと?ああ、このところずっと暑いから、家の冷蔵庫に篭りっきりだよ」
「もしかして、夜中に勝手に散歩する習性はない?…昨晩とか」
「さあ…?家のなか以外では臆病だし、外に出たがらないから、それは無いと思うけど。…どうして?」
「いえ、別に……」
 レイは口を噤んだ。昨晩の話をしても信じてもらえないか、夢だと云われるのが落ちだろう。
「ふうん…」
 やや釈然としない面持ちだったが、シンジはそれ以上訊ねないことにしたらしい。そこで会話が終ってしまった
ことが、レイは残念だった。知りたいことへの回答が無かったからではなく、仄かに願っていたシンジとの繋がりが、
断ち切られたような喪失感を覚えた。あのカフェで談笑していた自分たちのように、上手く話せればいいのに…
…そう思えば思うほど、云うべき言葉が浮かんでこない。ステージの上のふたりは、何も云わなくても笑顔だけで、
心が通じ合ってあっていた。あんな幸せそうな笑顔を、いまの自分は知らない。

 まだ心の底に残っている、微かなぬくもり。ステージの上の自分も、観客の自分たちもきっと一緒に感じていた
想い、それを『幸福』と呼ぶのだとすれば、この綾波レイもまた、幸せの一環に繋がっているのではないだろうか。

「あの…碇くん…」

 いつか、あのように笑えたら――。

「え?」

「……碇くん、楽器…教えてくれる?」


 綾波レイという少女の、幸福な物語。その始まりは、こんな言葉かもしれない。


Fin

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

タイトルについては、きっとtambさんはとっくにご存知でしょうから、解説などと野暮なことは致しません(笑)

改めて、十周年おめでとうございます。いままで素晴しい作品を読ませて頂いたことの感謝と、これからも
たくさん素晴しい作品が読めますようにとの願いを込めて――。
メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.6 )
日時: 2011/08/22 23:24
名前: aba-m.a-kkv







目を落とせば、幻のように赤くも、現実のように青くもない海。

磨かれた漆黒の大理石のように漣一つなく、硬質ともいえる感触と光沢を持つ。

時節、硬質な表層の下に鈍い輝きをもつ光の流れが走る。

そんな黒い海が世界の半分に広がっている。


目を上げれば、現のように青くも、幻想のように赤くもない空。

雲一つなく何処までも高い空は、空と宙の境目さえない。

とてつもなく濃い青闇色が溶け込み、月も星もないのにどこか明るく、夜のようで昼、昼のようで夜の下。

そんな黒い空が世界の半分に広がっていた。







この物語は、私にはまだまだ足りません aba-m.a-kkv







「ここは……私の世界じゃない」


世界を見回した彼女はそう呟いた。

気が付けばこの世界の中心に立っていた。

瞼を閉じ、そして開いた瞬間には世界が変わっていた。

この場所は彼女の現実の世界でも、そして彼女の欠けた心が生み出す世界でもない。

どちらと言われれば欠けた心が生み出す世界に似ている、けれど彼女のそれは紅く、穏やかではあるけれど漣を生まないわけでもない。

これはまるで最初であり最後のような凪ぎをたたえた世界だ。

でも彼女はこの世界の雰囲気を知っていた、覚えていた。

それは彼女の使徒としての核に刻まれた記憶。

その権威の始まり。

彼女が扉を開ける前に立っていた場所。


『ひさしぶりだね、綾波レイ』


背中に投げ掛けられた声、それは懐かしさを覚える声だった。

けれど時の経過を感じさせない声でもあった。

深海を沈みに沈みきったような落ち着きと空と海を支えるような重みのある声。

彼女は振り返り“作者”を見とめた。

変わらない姿がそこにあった。


「私を、リリスと呼ばないのですね」


以前のこと、始まりの前のことを思い出す。

でも、変わらない雰囲気の中にある小さな差違。

“作者”は小気味いいことを笑うような苦い笑みを浮かべる。


『あいかわらず、きついことを言うね』


それを聞いて彼女は力を抜いた。

ここが“作者”の世界で、相対するのが“作者”なら、気構える必要などない、意味さえもないだろう。

彼女は向き直り、小さく頭を下げる。


「おひさしぶりです。見にこられたのですか? 私が編み著した物語を」


“作者”がやわらかく頷く。


『君が私の前から出ていってから時が過ぎた。

 それは私にとっては短く、君にとっては長いものだったかもしれない』


“作者”の視線が彼女を撫でる。


『君は大きくなった』


「貴方にとってはつかの間かもしれませんが、私が大人になるには十分な時間ですから」


確かに彼女は成長した。

視線を落として見つめる自分の身体。

始まりの時の少女の雰囲気は消えて久しく、髪も長くなり、体つきも丸みを帯び、身長も伸びた。

でも彼女の答えに“作者”は頭を振る。


『否、外見の話じゃない。その器がだよ』


彼女は、はっと視線をあげる。

慈愛に満ちた深い色の眸がそこにあった。


『始まりにおいて君は独りだった。

 だが今では多くのものが君の周りにいる。

 それはただの人間ではない。

 想いを分けたもの、血を分けたもの、心を分けたもの、魂を分けたものだ』


彼女は聞きながら瞼を閉じる。

その裏側に思い浮かぶのは欠け換えのない人たちの笑顔。

家族と呼べる人たち、友と呼べる人たち、そしてかたく結び合い繋ぎあった人。

彼女の口唇が自然に綻びる。


『始まりにおいて君は何も持っていなかった。

 だが今は多くのものを君は持っている。

 それはただの物質ではない。

 感情、経験、知識、知恵、思い出、意思、希望、未来。

 私では備えることの出来なかったあらゆるものだ』


彼女は聞きながら胸に手を当てる。

井戸水が溢れ出るように、身体の内側に満ちるもの、あたたかいものを感じる。

それと共に“作者”が見つめていたものの意味を知る。


『君は本当に大きくなった。

 もはや私の作り出した名であるリリスとは呼べない。

 私が君を君の名で呼んだ理由はそれだ』


彼女は瞼を開き、顔を上げ“作者”を見る。

真摯な表情がそこにあった。


『だから尋ねてみたい、君は、幸せかね?』


別れ際に向けられた言葉がよみがえる。

手向けの言葉、願いの言葉が。

彼女は視線を落とし、全てが書き記された本を持って扉を開けたあの時から今に至るまでの出来事を巡らせる。


「私は、私には、辛いときも、悲しいときも、寂しいときもたくさんありました。

 けれど今、貴方に産み出されたことを感謝しないときはありません。

 でも……」


顔をあげる。

真っ直ぐな視線、意思の光をたたえる紅い眸が“作者”に向く。



「私の幸せは、この物語は、私にとってまだまだ足りません。


 私はもっと物語を紡ぐでしょう。

 もっともっと幸せになりたいですから。

 私にはまだまだ十分ではありません」


清々しいほどに毅然と言いはなった彼女に、“作者”は目を見開いた。


『貪欲だな』


「いいえ、ただ純粋な願いです。

 欠けた心が求めてやまない、無垢な想いです」


微笑みを浮かべる彼女を“作者”は幾許か見つめて頷いた。


『そうか』


噛み締めるように呟いた“作者”は少しうつむいた。

その影の下には込み上げる歓喜を隠しながらも抑えきれないような笑みがあった。

伝わる喜びに、彼女の心もあたたかく深まる。

暫くの静寂が世界を包んでいた。




幾許かの時を過ぎて、いままで大理石のように硬く光沢を持っていた黒い海に波紋が広がった。

彼女も“作者”も同時に波紋の生まれる場所に視線を落とす。

見ると彼女の足元を中心にして漣が、時を追うごとに強く広がっていく。

本来、波うつことなどないはずの世界に。

そしてその振動はまるで声のようだった。

彼女の名を呼ぶ声のように、波が広がっていく。


「……碇くん」


漣の向こう、波紋の奥、それを生み出しているだろう欠け換えのない存在、かたく結び合い繋ぎあったものの名を彼女が呟いた。

“作者”も感嘆の声を漏らす。


『すごいな、彼の存在は。

 本来干渉できないはずのこの世界にも、君がいれば彼の手は届くのか。

 流石は四番目の扉を超えたものたちというわけだね』


彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「私の自慢の半心なんです。

 ……もういかないと、彼が呼んでいますから」


“作者”は頷いた。

それにあわせて黒の世界が霞み始める、それはまるで夜明けのように。


『良いものを最後に見せてもらった。

 さあ、これを持っていくといい。

 新しいペンと新しいインク瓶、そして新しい本だ』


気が付くと彼女の手には本があった。

あの時と同じ、でも開いてみたそれは最初から最後まで真っ白だった。

彼女は驚いて顔を上げる。


『書き続けてくれ、君の物語を。

 楽しみにしている。

 “作者”てしてだけでなく“読者”としても』


慈愛に溢れる“作者”の表情を見て、そして新しい本に触れて、彼女の中に込み上げてくるものがある。

ここから先は編集でも編著でもないのだ。

彼女が描き綴る物語が始まる。

すべては彼女の意思の基に。


『その本が描き満ちたら、また会おう。

 代わりの新しい本を用意して待っているよ』


笑みとともに“作者”が別れの手を上げる。

黒の世界が白に染まって消えていく。

境界が彼女を越えて過ぎていき、彼女が生きる現実の世界へと移り変わっていく。

“作者”の部屋である黒い世界が消える瞬間、彼女の耳に“作者”の声が響いた。



『幸せに、綾波レイ』



彼女はその願いの声に深く深く頭を下げた。








改めて、綾幸十周年、おめでとうございます!!

いままでたくさんお世話になりました。

今後ともよろしくお願い致します。

そして、さらにLRS&LAKの素敵な作品が集まる場として発展していくことを願っています。





メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.7 )
日時: 2011/08/26 06:29
名前: tamb

■ペンギンカフェ・オーケストラ/クロミツ
( No.5 )

 古き良き、というとちょっと違うような気もするけれど、かつてごく稀にあったニューウェ
ーブ系の幻想SFみたいな香りがする。例えば山尾悠子なんだけど、村上春樹とか宮澤賢治でも
香りとしては同じ系統かと思う。乱暴だけど。実はaba-m.a-kkvさんもこの系譜に連なる。と
思う。たぶん。
 この系統の話っていうのはどういうイマジネーションを生み出すかにかかってる部分が大き
いような気がするので、きっとあんまり量産はできない。

 で、この話。イメージはかなり鮮烈かと思う。最初が現実だとして、徐々に幻想が侵食して
くる。ペンペンが夜道を歩く。ステージにレイがいる。客席に何組もの碇シンジと綾波レイが
いる。
 どこからかが夢であるとしても、どの時点からはっきりと夢であるとは言えない。こうなる
と夢とは何かという問題になる。
 たとえばどこかの時間軸に「現実」にこの店があり、「腕を組んで笑い合うシンジとレイ」
「まだ初々しく手を繋いでいるふたり」「目を覚ましてむずがる赤ん坊をあやす大人のレイ」
がそれぞれの時間軸で実際にその店に来て、演奏を見ていたのかもしれない。このレイはそれ
らのシンジやレイを重ね合わせて見ていたのかもしれない。これはある種幻想といえるのだろ
うけれど、夢とはいえないかもしれない。レイやシンジは「実際」にこの店に来ているのだか
ら。あるいはそうではなく、ペンペンの見ている夢の中に入ってしまったのかもしれない。た
だ、それがどうであるかっていうのはあんまり意味がない。問題は「実際」にこれを見たレイ
がどう思ったかということだと思う。

 文句なしにいい話でした。ありがとうございます。願わくばもっと頻繁に(笑)。

 それにしても、ペンギンってなんで蝶ネクタイをしてるんだろう。


 ペンギン・カフェ・オーケストラって、実はほとんど聞いてないんですよね。なんか環境音
楽みたいな先入観があって。というわけで見てみました。なるほど、「思い思いの楽器を各々
が持ち寄ったかのような雑多な編成」なんですな。私なんかは古いオルガンと言われるとハモ
ンドB3とかを思い浮かべてしまいますが、これはそうではないですな。リードオルガンってい
うんですかね。
 この話に出てくる楽団は、まさにペンギン・カフェ・オーケストラです。


■この物語は、私にはまだまだ足りません/aba-m.a-kkv
( No.6 )

 ある程度文章を書いたことのある人なら、物語が自走するという感覚を知っていると思う。
作者の思惑を越えて物語が走ってゆく。大抵は収拾がつかなくなるのだけれど(^^;)、面白く
なることもある。プロ作家はその辺の手綱の取り方がやっぱり上手いんだろうなと思うけれど、
物語のみならず物語を紡ぐという部分においてさえ物語の主人公が主体となる。つまり、その
人の人生においてはその人が物語を紡ぎその人が主人公である。
 だから私のするべきことは、ひとつには彼女が彼女自身で描いた彼女自身の物語を書き写す
ということなんだけれども、それがなかなか上手くいかないんだよ、これがまた。

 なんとか頑張ります(^^;)。

メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.8 )
日時: 2011/09/01 00:54
名前: クロミツ

>tambさん

 感想ありがとうございます。「ニューウェーブ系の幻想SFみたいな・・・」というご意見は意識して
なかったので新鮮でした。どっちかというと初期の阿刀田高にありがちな話だと思ってたので(笑)
「幻想SF」というと自分としてはフレドリック・ブラウンを連想します。

> ペンギン・カフェ・オーケストラって、実はほとんど聞いてないんですよね。なんか環境音
>楽みたいな先入観があって。

 リアルタイムの頃は流石に知らないけど、坂本龍一との繋がりからか勝手にテクノのイメージを
持ってました。自分も聴き出したのは割と最近で、紙ジャケで再発されたのがきっかけです。
「環境音楽」ってジャンルで括られると僕も敬遠したかもしれません。なんか聴き終えるとスーッと
忘れそうなあたりさわりのない音楽ってイメージ(偏見?)があるから。
 でもペンギン・カフェ・オーケストラの曲はシンプルだけどずっと残るし、繰り返し聴いても重く
ならないのですごく気に入っています。1stなんかは以外にプログレしてる曲もあるし。
メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.9 )
日時: 2011/09/08 05:39
名前: tamb

 実は阿刀田高って守備範囲外で、全く読んだことないんですよね。読みたいなと思ったこと
すらないという。でもこういう話なんだったら読んでみたいかな。
 幻想SFでブラウンっていう連想はたぶん正しい。宇宙ものが多いような印象はあるけど。
メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.10 )
日時: 2011/09/20 05:46
名前: tamb

 ***** 綾幸終了の危機 *****

 それは、とあるプロジェクトの打ち上げの席での出来事だった。

 プロジェクトの打ち上げというのはなかなか微妙なもので、とにもかくにも苦労させられた
仕事が無事に終了したという開放感がある一方、景気の悪い昨今、次の仕事のメドのたたない
おれのようなフリーランサーは人生の行く末について考えてしまうタイミングでもある。さす
がにこの席では口にしないが、プロジェクトの終わりが見えてきた頃、実家に帰って家業を継
ごうかと思っている、などと仲間に相談されたこともあった。おれには継ぐ家業なんてないよ
と答えておいたが。
 結婚して家庭に入ろうかと思ってる、と言った女の子もいた。女の子なのか女性なのかは微
妙、というより女の子と呼ぶとある意味失礼かと思われるような女性だったが――それはカミ
さんが子供連れて実家に帰ったっきり戻ってこないおれに対する挑戦かと答えておいた。笑顔
でだが。彼女は俄然興味を示し、身を乗り出さんばかりにしてあれこれ聞いてきた。おれは嘘
八百をペラペラと並べ立てた。

 もちろんこの席にはおれを筆頭としたそんなどんよりした中年男女ばかりだけではなく、ク
ライアントの偉いさんやデスクの女の子も来ていた。なんだかんだ言っても特別に有能でもな
いフリーランサーが仕事にありつくにはコネがものをいったりするわけで――誰でもよければ
知ってる奴を使うわな――おれは一応その辺にも如才なく媚を売って歩いた。プライドがどう
のとか言ってる場合じゃない。
 同じことはクライアントの方にも言える部分がある。同じ条件なら気持ちよく仕事が出来た
所の仕事をしてもらえるって寸法だ。あるいは今後のこともあるよと餌をちらつかせつつ安く
仕事をさせようとする。もちろんまともに仕事ができたという前提条件はあるが、おれたちは
その餌にまんまと飛びつくことになる。

 で、そのあたりの因果を中途半端に含まされたのであろうデスクの女の子が席に戻ったおれ
の所にも酒を注ぎにやってきたわけだ。

 メールや電話はもちろん、打ち合わせで何度も話はしていたが、プライベートな話をしたこ
となどなかった。そりゃそうだ。そんな機会などありはしないし、もうおれは若い女の子にな
ど特に興味はない。気は使うし話は合わないし、ちょっと下ネタ系の冗談を言えばセクハラだ
なんだと言われて面倒なだけだ。セクハラってのは何を言うかではなく誰が言うかにかかって
いるらしいが、そのあたりの様子を伺いながら話をするのも鬱陶しい。

 彼女は健気にも話の接ぎ穂を探し、映画や小説の話を振ってきた。仕事の話をしないだけの
センスはあった。当たり前のように共通項などなかった。いくら仕事だっていっても、無理し
ておれみたいなおっさんのところに来なくても他のもうちょっと若い話の合いそうな奴のとこ
ろに行っていいよとそんなセリフが喉元まで出かかったが、それも大人気ない話だと思ってこ
らえた。

 だが唐突に彼女は言った。

「エヴァとかどうですか?」
「おれ、エヴァおただよ」

 反射的におれはそう答えていた。

「あたしも!」

 彼女は瞳を輝かせた。妙な事になったが、こうなるとおれも止まらない。彼女は二十代の半
ばだろうか。まあまだ女の子と呼んでもいい年頃だろう。聞くと、高校生の頃にアニおたの友
達に無理やり見せられて以来どっぷりはまってしまったのだそうだ。シンジくんのお姉さんに
なりたい、いやむしろシンジくんを産みたいと叫んで周囲をドン引きさせたと言って笑った。
さすがにおれもドン引きした。シンジを産むってことはゲンドウと合体するってことだぜと思
ったが、それこそセクハラ発言のような気がして黙っていた。

 Bさん(おれのことだ)っていくつなんですか、と彼女が聞いてきた。

「おれ、十四歳」

 彼女はさすがに苦笑し、小さな声で言った。

「綾幸みたい」

 パワーショベルで横殴りにぶん殴られたような衝撃だった。

「綾幸って、サイトの?」
「ええ!? Bさん知ってるんですか?」
「おれ、筋金入りのおたくだから」

 おれがtambだとは口が裂けても言えない。
 サイトには閉鎖要件というものが設定してある。それはリアルな知り合いから感想メールが
来たときというものだった。
 閲覧してますよといきなり言われた場合はこの要件を満たすのだろうか。

「どう思います?」

 どう思うかといわれても困る。おれが管理人兼編集人なんだし。

「面白いと思うよ。あそこ、こないだ十周年だったんだよな。とにかく十年やってたっていう
のは評価してもいいんじゃないかな」

 おれは当たり障りのないことを言った。他に何を言えというのだ。ビールをバーボンのロッ
クに切り替える。こんな話、泥酔もせずにできるものか。
 彼女もサワーを日本酒に切り替えた。

「全部読んでます?」
「読んでるよ」

 そりゃそうだ。

「何が良かったですか?」
「そうだな……」

 おれは比較的王道と思われる作品をいくつかあげ、念のため自分の話もあげておいた。
 ひとしきりあの話はどうこの話はどうと、どこかで馬脚を露わしはしないかと半ば冷や汗を
流し半ばそのスリルを楽しみながら、FF談義は際限なくディープになって行く。このままでは
やばいかもしれん。ディラックの海に片足を突っ込んでいるような気がする。おれは軽くリセ
ットをかけるべく言った。

「君はどういうのが好きなの?」

 彼女は日本酒をぐびりとあおり、やはり王道系の作品と、そしてLAK作品をあげた。

「女の子って、なんでかLAKが好きだよな」

 あやうく「うちに来る女の子」と言いそうになった。
 彼女は笑顔でうなずき、また日本酒をあおった。というかごくごくと飲んだ。そしておかわ
りを頼む。大丈夫なのか?

「Bさん、秘密、守れるタイプですか?」
「おれ、口は堅いよ」

 彼女を見る。酔いで頬がほんのり染まっていてなかなか可愛い。

「あたし、投稿してるんですよね。綾幸に」

 なんだとー!?

 おれは思い切りのけぞった。パワーショベルがどうとかいうような気のきいた比喩も思いつ
かない。まさかこんな事態が訪れるとは。感想メールどころじゃない。投稿者だ。

 誰だ誰だいったい誰だ。
 他のサイトがどうかは知らないが、うちのサイトには女の子が結構いる。自分から明らかに
しているケースもあればメールのやり取りで判明した子もいる。たぶん女の子だろうと想像で
きる子もいる。むろん明らかに男だという奴もいる。会ったことのある奴もいるし。だが大部
分は性別不明だ。だから面倒なので全員十四歳の貧乳美少女処女などというふざけた設定にし
ているのだ。つまり会ったことのない奴には全員その可能性があるということだ。

 それにしても酔った勢いとはいえとんでもないことを口にする女の子だ。自分は廃人ですと
言ってるようなものではないか。

「……誰?」
「秘密」

 彼女はそう言って、少しだけ舌を出して笑った。

 実際、これはフェアではない。おれはそう思った。おれもカミングアウトするべきではない
のか。自分こそがtambであると。
 だがそんなことをしてもいいのか。投稿者と主宰者では重みが違う。クライアントのデスク
の女の子にわたしがtambですと告白したとして、おれのこれからの人生はいったいどうなる?
 終わったプロジェクトとはいえ、今後の付き合いは絶対にないとはいえない。むしろ今後も
仕事をいただきたい会社だ。
 彼女から仕事の電話がかかってくる度に、枕詞か季節の挨拶のように更新が遅いだのちゃん
と書いてるのかだのもっと頻繁に掲示板に登場しろなどと言われ続けることになるのだ。閉鎖
などしようものなら何を言われるかわからない。そんなことで仕事がもらえなくなることはな
いとは思うが、やりにくいことおびただしい。対応に苦慮してるうちに彼女から投稿があった
りするのだ。ダメ出しにも苦悩することになる。
 いっそサイトトップに書くか? 投稿者にリアルな知り合いがいるということが判明しまし
たのでサイトを閉鎖いたします。長い間ありがとうございました。Aさん、tambの中の人の名
前はBといいます。仕事回してください。それからメールください。Bとtambに。
 ダメだダメだ全然ダメだ。なんら事態は好転しない。というより悪化させる。なんでそんな
ことでサイト閉鎖なのよと罵倒されるだけだ。
 覚悟を決めるしかない。彼女も告白したのだ。秘密は共有すべきだ。

「Aさん、さ」
「はい」
「Aさんは、秘密は守れる?」
「あたしも口は堅いです」
「……おれ、tambなんだよね」

 彼女は丸い瞳をさらにまん丸にした。
 それから笑顔でこう言った。

「えっち」

 しまった! おれはエロ小説も書いてたんだった!

「それは認めよう」

 もう開き直るしかない。事実は事実だ。こうなったら行き着くところまで行くしかないのだ。
エヴァで人生を棒に振るのも一興だ。

「で、君は誰なの?」

 彼女は驚くべき人物の名前を口にした。
 だが彼女との約束でその名前をここに書くことはできない。


 てなことでAさん、こんな感じでいいすか? てゆーか、勘弁してください(泣)。

----------
作者注:当たり前ですがフィクションです。

メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.11 )
日時: 2011/09/30 11:17
名前: tomo

◆綾幸終了の危機

 えっと,このお話のお題はなんなんのでしょう?(笑)
 tambさんのこういうメタフィクション的な話は結構好きです。『Running On Empty』みたいな。
 
 Aさんが可愛くて好きになりました♪
メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.12 )
日時: 2011/10/01 02:10
名前: tamb

どもです〜。

> このお話のお題はなんなんのでしょう?(笑)

そりゃ「綾波レイの幸せ」ですよ(笑)。

> tambさんのこういうメタフィクション的な話は結構好きです。『Running On Empty』みたいな。

読み返してみた。なかなか良く書けてるジャマイカ(爆)。
メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.13 )
日時: 2011/10/25 00:54
名前: tamb

 ***** 綾幸終了の危機・2 *****

 仕事がなくて暇だった。

 もっとも仕事と仕事の間隔が開くのは――もちろん望ましい事ではないけれども――よくあ
ることで、そういう時にこそ営業活動やら勉強やらをしなければならないのだが、残念ながら
というか当然のようにというかそんなことをする気力は全く沸いてこず、おれはだらだらとサ
イト巡りをしたり2ちゃんを眺めたりして時間をつぶしていた。いや、たまには小説も書いた
りしてたんだが。

 知り合いから電話がかかってきたのはそんな気だるい午後だった。ちょっと古い言葉でいえ
ばアンニュイな午後ってやつか。書いてて恥ずかしい。
 それはともかく、そいつは電話の向こうで出し抜けにこう言った。合コンやるんだけど来て
くんない? なんじゃいそりゃとおれは思い、実際に口に出して言った。なんじゃそりゃ?
というか、合コンって言葉は今でもあるのか?

「いや、急にこれなくなったやつがいてさ。人数が足んないんだよな」
「いつ?」
「今日なんだけど。相手は看護婦。ナースだぜ?」

 おれに看護婦属性はないんだがな。しかも今日かよ。

「こっちのメンツは?」

 そいつは残る二人の名前をあげた。電話の主も含め、いずれも若くてイケメン揃いだった。
おっさんはおれひとり。それでわかった。おれは単なる頭数合わせだ。男女の数が合っていれ
ばいい。逆におれが女の子をかっさらうようでは困るのだ。それなら気が楽だ。要するに酒を
飲みにいくという、ただそれだけの話だ。
 おれは場所と時間を確認し、助かるよという声を聞いて電話を切った。


 というわけでおれはいま酒を飲んでいる。二十代前半と思われる女の子たちはみな可愛かっ
たが、身の程をわきまえたおれにイケメンの若者を差し置いて彼女たちをモノにしようという
気があるわけでもなし、かといって黙ってひたすら酒を飲んで場の空気を悪くするほど子供で
もない。適当にその辺にいる女の子とあることないことぺらぺら喋りながらそれなりに楽しい
酒を飲んでいた。おれ以外の男どもも、実際にはともかくさすがに飢えた獣のような雰囲気を
顕わにすることもなく、適当にコンパ向けの小ネタなど披露しながら、それでもしっかりとア
ドレスなど聞き出している。微笑ましいなとおれは思う。まあ男なら――女の子でもそうかも
しれないが――そういう季節というのは必要なんだろう。おれにもそういう時代があった。
 そのうちにみんな席を移動するのが面倒になったのか、あるいはお気に入りの女の子の隣を
確保したのか動きがなくなる。おれは最初から動いたりはしなかったが。員数外だし。
 だがそのしばらく前からおれの隣に腰を落ち着けている女の子がいた。ぶっちゃけおれの好
みのタイプで、とても彼女が員数外とは思われなかった。実際、彼女にさりげなく視線を送っ
ている男もいた。だが彼女がおれの隣から動かないのでそいつは早々に諦めたようだった。こ
ういうのは諦めが肝心だ。とはいっても、おれに彼女をどうこうするつもりはない。いろいろ
と面倒だし。

「BさんBさん」

 毒にも薬にもならない適当な話が途切れた時、彼女はおれの名を呼んで言った。

「アドレス、教えて下さい」
「お、聞いてくれるの?」

 おれはそう答えて携帯を出す。ここで断るのは失礼にあたるし、本来は男の方から聞くのが
マナーなのだ。だから聞いてくれるのかとフォローしたのだ。そもそも断る理由はない。

「聞いたからには出してくれないとだめだよ?」

 おれのセリフに彼女はにひと笑った。
 彼女はCちゃんといった。

「今日のこれって」とCちゃんはおれのグラスにビールを注ぎながら言った。「どういう企画
なんですか?」
「いや、おれも良く知らないんだけど。Cちゃん、看護婦さんなんでしょ?」
「違いますよ。看護師なのはあのこだけ」

 彼女はひときわ盛り上がっている女の子を指して言った。

「あとはいろいろ。高校のときの友だちだから」
「へえ、そうなんだ」
「やっぱり看護師さんが良かったですか?」
「いや、おれにナース属性はないよ」

 彼女は笑ってくれた。

「みなさん、職場の同僚かなんかですか?」
「うーん、同僚っていうか……」

 きちんと説明すると長くなりすぎる。

「簡単に言うと業界の仲間って感じかな。同じ会社にいるわけじゃないけど、一緒に仕事をす
ることもある、みたいな」

 彼女は不思議そうな顔をした。そりゃそうだろう。

「なんか楽しそう」

 だが彼女には深く突っ込まないだけのセンスがあった。

「Cちゃんは何してる人なの?」
「あたし、派遣社員。毎日たいくつ」
「そっか。……そりゃ困ったな」

 おれにはセンスがない。

「Bさんは、毎日楽しいですか?」
「楽しいっていうか、不安でいっぱいだよ。会社員じゃないしね。いつ仕事がなくなるかわか
んないし」
「……仕事に自信がないですか?」
「そうだね」
「だめですよ、そんなことじゃ。……ビールでいいですか?」
「あ、うん。ありがとう」

 彼女は飲み干したおれのグラスにビールを注ぎ、自分にはサワーを頼んだ。

「自信持たなきゃ。奥さんも応援してくれてるんでしょう?」

 おれの左手にちらりと視線を走らせ、彼女はそう言った。なるほどとおれは思った。彼女を
呼んだ子の意思はともかく、彼女の中では彼女自身も員数合わせなのだろう。断れない事情が
あったか友情を優先したか。でも何かの拍子で男につきまとわれるのも嫌だ。それで、なぜか
そこにいた既婚者を相手にしていれば話がややこしくならない、そう思ったのではないか。

「うーん、ま、別居中なんだけどね」
「……ごめんなさい」
「いや、いいよ」

 話が妙な方向になってしまった。正直すぎたかとも思うが、嘘をつくのも嫌だった。一気に
話題を変えるかフォローを入れるか、言葉に詰まった時にお開きの声がかかった。
 まあ仕方がない。こういう時もある。Cちゃんが嫌な気持ちになっていないかが気になった
が、もう会うこともないだろうし、明日になれば忘れているだろう。おれも、彼女も。
 階段を下り、外に出て立ち止まる。二次会に行こうという色気を見せているやつもいれば、
武運拙く諦めて帰ろうとしているやつもいる。おれの隣には彼女が立っていた。

「じゃ、気が向いたらメールでもしてよ」

 おれは社交辞令にそう言った。

「うん」

 彼女は笑顔で頷いてくれて、少しだけ救われた気分になった。手を振って歩き出すと、夜風
が気持ちよかった。
 とたんに携帯が震えた。

『気が向いたのでメールしてみました(*^-^)』

 Cちゃんからだった。
 振り向くと、彼女がすぐ後ろに立っていた。少し不安そうな笑顔。

「……もうちょっと飲んでこっか?」

 一瞬だけ考えてそう言ったおれに、彼女は黙ったまま頷いておれのシャツを掴んだ。
 それが彼女なりのおれに対するフォローだったとしても、気分は悪くない。


 おれは基本的にサービス精神が旺盛な方で、要は相手が楽しんでくれればそれでいい。だが
若い女の子をどう楽しませたらいいのかはよくわからなかった。そもそも、若いかどうかにか
かわらず女の子と二人だけで酒を飲むなんて何十年振りかわからなかった。他に誰かいるなら
適当に合いの手を入れるなり誰かが聞き役になるなりでどうとでもなるのだが。
 だがお互い初対面となれば失礼にならない程度に相手のことを聞くということはできる。お
れも自分のことを話せばいい。自慢話にならないように気をつけさえすれば。
 意外なことに彼女とは音楽と小説で趣味が合った。クラシックロックとSFが好きなのだ。
 RTFが再結成して来日。エリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドがツアー。ビー
チボーイズ『スマイル』リリース――。これを予想の範囲内だと言うやつは世界中を探しても
一人もいないと思うが、二人して驚きを共有することができた。
 NHKトリオ(野尻、林、小林)以降のSF作家についても教えてもらえた。おれはライトノベ
ル方面には疎いので、思わずメモを取ったりした。
 それなりに趣味が合うとわかるとそれ以外の話も弾むもので、近況やら子供の頃の話やらで
も話は盛り上がった。おれは油紙に火のついたごとくぺらぺらと喋りまくり、彼女はよく笑っ
てくれた。
 盛り上がると時間の進むのが早い。おれはさりげなく時計を気にした。おれはタクシーを使
うなり歩くなりすればいいが、彼女はそうはいかないだろう。親と住んでいるのかどうかは聞
かなかったが、高校のときの同級生と飲みに来るならやはり実家暮らしだろう。遅くに帰って
怒られたらかわいそうだ。終電を逃させるわけにはいかない。
 そんな気持ちが顔に出ていたのかどうか、彼女は唐突に言った。

「Bさんって、女の子はどういうタイプのこが好きなんですか?」
「Cちゃんみたいなこ、好きだよ」

 彼女はまたにひと笑ってあっかんべーをしたが、おれの言葉は本当だった。今日出合ったば
かりで何ともいえない部分はあるが、控えめでさほどうるさくなく、それでいて静か過ぎず、
頭がよくて人の気持ちをわかるセンスはいいなと思う。初対面とは思えないほど肌に馴染んだ。
おれはもはやルックス面には何のこだわりもないが、その点でも理想に近かった(ちなみにお
れのルックス的な理想は、残念ながら綾波レイではない)。
 実際おれは性欲を高ぶらせていた。近来稀に見る高ぶりだった。おれにはもう性欲なんてな
いと思っていたのだが。
 問題は、おれはあらゆる面で彼女とつり合いが取れないということだった。年齢もそうだし、
私生活の面でもそうだ。
 だからおれは彼女に、Cちゃんはどんな男がタイプなのと聞く勇気はなかった。

「さ、そろそろ電車がなくなるよ?」

 その話題を打ち切るようにおれはそう言った。彼女はまた黙ったまま頷いた。

 軽い押し問答の末、年寄りの言うことは聞くもんだという無茶な理由でおれが支払いをし、
ご馳走様ですの声を背中に聞きながら階段を上った。
 路上に出て、立ち止まった彼女を見る。
 問題はいくつもあった。
 そもそもこの二次会めいたものが彼女のおれに対するフォローであるという可能性。
 おれと彼女とのつり合い。
 そして、おれも彼女もそれなりに酔っているということ。
 自分の気持ちに正直になれというのは便利な言葉だ。だがそれは自分の欲望をそのままさら
け出すこととは違うはずだ。いったいどこが違うのだろう。彼女が今この瞬間何かを求めてい
るとして、明日になってそれを彼女が後悔しない保証はどこかにあるのか。確実な保証なんて
どんな瞬間にもどんなことに対してもありはしない。あるのは可能性だけだ。だが彼女が後悔
するとすればそれはおれの本意ではない。それは嫌だった。おれは自分の欲望を理性でコント
ロールできないような若造ではない。そしてそれほど泥酔しているわけでもない。彼女が求め
ているものを、彼女が求めているという理由で与えるのは残酷だし無責任だ。それはおれの為
すべきことではない。
 おれが為すべきだと思うのは、おれが求め同時に彼女もが本当に求めていることを、後悔し
ないような形にすることだけだ。たとえ二度と会うことがなくても。
 それがどんな形なのか、おれにはわからなかった。自信がなかった。それが進むことなのか、
それとも下がることなのか。
 自信持たなきゃ。彼女がそう言っているような気もする。だがそれは自惚れなのかもしれな
い。際限のない自問自答だ。結論など出るわけはない。
 うつむいていた彼女が顔を上げる。結局おれは、彼女の少し気弱そうなはにかんだ笑顔と揺
れる瞳に背中を押されることになった。

「Cちゃん」

 おれは彼女の名を呼び、手招きをしながら半歩近寄る。彼女も半歩だけおれに向かって歩く。
 二人合わせてようやく一歩。
 ここで少しキザでもセンスのあることを言えるようならおれも大したものだと思うが、やっ
ぱりおれの口から零れ出たのは冗談めかした言葉だった。
 断られても傷つかないように、断っても傷つかないように。

「お持ち帰り、しちゃおうと思ってるんだけど」

 彼女はまたにひと照れ笑いを浮かべ、そして顔を伏せた。

「持って帰っちゃってください」

 ささやくようにそう言って、彼女はおれの腕につかまった。柔らかく、暖かだった。


 ホテルの部屋に入り、おれたちは長い長いキスをした。背伸びをして口唇を寄せる彼女が愛
しい。あんなに飲んだのにどうして女の子はこんなに甘い匂いがするんだろうと不思議に思う。
 口唇を離し、おれは彼女を抱きかかえた。彼女は可愛らしい悲鳴をあげ、脚をばたつかせる。
そのままベッドに横たえた。

「シャワー、後でいいよね?」
「……うん」

 ホテルに入ってから初めての会話だった。

「あたしのこと」

 ベッドの上で繰り返しキスした後、彼女はおれの胸に顔を埋めて言った。

「あたしのこと、誰とでもこんなことする女の子だなんて、思わないでね」
「わかってる。おれだってそうだよ」
「Bさんとは初めて逢った気がしないの。こんなのって、初めてなの」

 おれはただ彼女の髪をなでていた。

 そしておれたちはお互いに対して夢中になった。


 おれの性技について深い関心のあるやつはいないと思うので簡単に書くが、女の子に触れる
とき、おれはひたすら丁寧に優しくする。もうおれも十四歳だし、自分勝手だったり我を忘れ
てがっついたりすることはない。ゆっくりと動くだけでもお互いの気持ちがこもっていれば女
の子は感じてくれるものだ。そして気持ちがこもっていなければ行為そのものに価値がない。
 ただ、丁寧で優しいというのは言い方を変えるとしつこくてねちっこいという、なんという
か粘り気のある中年男性そのものになってしまい、女の子によっては長すぎて疲れて大変なん
ていうことにもなりかねない。だが、彼女は十分に感じてくれた。

 長くて短い夢のような時間が過ぎ、おれたちは波間を漂っていた。おれに髪をなでられなが
ら、彼女は半ば失神に近い眠りに入っていった。おれも腕の中に彼女の細い身体の柔らかさを
感じながら少しだけまどろんだ。
 三十分も過ぎたろうか、彼女は顔を上げた。

「……あたし、寝ちゃってた?」
「寝てた。可愛かったよ」
「なんかまだふわふわしてる感じ」

 彼女はおれの頬をつつき、キスをねだった。
 ひとしきり口づけたあと、彼女はぱたりと仰向けになって言った。

「ね、タバコ、もらえる?」
「ああ、いいよ」

 おれはタバコに火をつけ、彼女の口唇に差し込む。

「飲んでる時は吸ってなかったよね?」
「こういうことの後にしか吸わないわ。……だから知ってるのはBさんだけよ」
「そいつは……光栄だな」

 おれはほとんど条件反射のように答え、そして戦慄した。まさか、まさか。

「で、人類補完計画、どこまで進んでるの?」

 やっぱり!

「ヒトを滅ぼすアダム。なぜ地下に保護されてるの?」

 彼女は半ば笑いながらセリフを続けた。おれはこう答えるしかなかった。こう答えるしかな
いじゃないか。

「それが知りたくて、おれと会ってるのか」
「Bさんって、やっぱりエヴァおただったんだー!」

 彼女はおれの頬をつまんでびーと引っ張りながら叫んだ。
 エヴァの話なんてひとつもしなかったはずなのになぜバレた!?

「なんでわかったの?」
「勘よ。女の勘」

 この子も相当の筋金入りだ。

「匂いがするの。なんとなく。エヴァおたの匂い」
「そっか。匂い、するか」
「うん」

 おれは彼女からタバコを奪い、口づけた。タバコを吸った後でもやっぱり甘い匂いがした。
 まあここまではいい。全くの予想外だが許容範囲ではある。だがおれは許容できない現実の
幻影に怯えていた。それが真に幻影であることを心の底から願った。

「Cちゃんもかなりきてるよね」
「うん。ほんと廃人に近いくらいエヴァに依存してるの。あたし、あの子達がいるから生きて
いけてるんだって思うもん」
「おれもそうだよ」
「あたし、負けてないよ。だって小説とか書いてるもん。エヴァの。わかる? エヴァの小説」

 おれはほとんど催眠術にかかったかのような状態で答えた。

「おれも書いてるよ」
「ホント!? どんなの書いてるの? どこに?」

 おれは後の質問にだけ答えた。

「綾幸」
「あたしも!」

 やっぱりこうなるのかー!
 なんてことだ! リアルな知り合いから感想メールが来るとかそんなレベルじゃない。投稿
作家を抱いてしまった! どーすんだよ! やっぱ閉鎖か!?
 というか、世の中は広いし綾幸の訪問者なんて取るに足らない数だし投稿作家なんて何十人
もいるわけじゃないのになんでどいつもこいつも作家なんだよ。
 こうなったら投稿作家を片っ端から呼び出して次から次へと手込めにするしかない。相手が
男なら逆に手込めにしてもらうか後方を使わせるかお好みで任意に選択してもらおう。いや、
男女差別は良くない。おれが女の子に手込めにしてもらってもいいのだ。いや待て。そういえ
ばおれは女の子だった。14歳微乳美少女処女だ。いつ貧乳から微乳に変貌したんだっけかな。
忘れた。まあいいや。だからおれが男性作家に手込めにされても何ら問題ないし、手込めにし
てもいい。女性作家を手込めにしてもいいし手込めにされてもいいのだ。
 しかるのちに男女問わず投稿作家全員を一同に呼び集め、一週間にわたって昼夜問わずの大
全裸祭りを繰り広げるのだ。ちなみにおれも投稿作家も全員14歳微乳美少女処女という設定で
あるが、14歳微乳美少女処女の男性作家がいても問題ない。論理的矛盾はない。実際にいるん
だし。というか設定だし。処女性も失われない。設定だから。そしてこの行為により投稿作家
はみな兄弟姉妹と化す。もうこれしかない。これでいくのだ。これでいいのだ。いいのか?

「BさんBさん」
「あ、ああ」

 ちょっと錯乱していたようだ。

「Bさんて、誰なの?」
「……そういうCちゃんは?」
「んー、Bさんから教えて」

 おれは彼女の瞳を覗き込んだ。

「管理人兼編集人、tamb」
「きゃああああ」

 彼女は絡めた足をばたつかせ、頬を真っ赤にした。

「で、Cちゃんは?」
「んー、どうしよっかなー。秘密にしとこっかなー」
「ずるいぞ」
「だってあたし、tambさんとえっちなメールとかしてたんだもん」

 おれは女の子女の子してる作家や読者とメールのやり取りをしているとなぜか必ず話題が下
ネタ方向になる。中年男性からセクハラパワーを除去したら後には何も残らないを地で行く。
 自分でもこれはいかがなものかと思い聞いてみたことがあるのだが、直接話すならともかく
メールならそんなに抵抗がないと言われた。そんなものかなと思う。もしかすると「そんなに」
というのがポイントなのかもしれないが、もちろんハードで直接的なことを書くわけでもない。
 それはそれとして、だが単なる下ネタではなくえっちなメールとなると話は別だ。思い当た
るのは一人しかいない。

「わかった」

 おれはひとりの作家の名をあげた。

「んふ」

 彼女は照れ笑いを浮かべ、またおれの頬をびーと引っ張って言った。

「あたり」
「……ある意味、今日出会ったばっかりってわけじゃなかったんだな」
「そうだね。……なんか恥ずかし」

 彼女は照れ隠しのようにキスをねだり、おれは彼女の背中に腕を回した。

 夜はまだ長い。


 明け方、少し歩きたいという彼女の言葉に、おれたちはホテルを出た。
 始発まではまだ少し時間があった。遠回りをして駅まで歩く。繋いだ手の感触が心地よかっ
た。会話は途切れ途切れだったが、その沈黙さえも心地よかった。
 駅から少し離れた、広域避難所にも指定されている大きな公園に入った。

「Cちゃん」

 おれは彼女の名を呼ぶ。

「Cちゃんって、かわいいね」
「……はじめてかわいいって言ってくれた」

 彼女は立ち止まり、はにかんだ笑顔を浮かべた。おれは彼女を抱き締め、その柔らかな口唇
を奪った。

「……またお部屋に行きたくなっちゃう」

 キスから逃れ、彼女はそう言った。

「行く?」
「ばか」
「おれ、バカだもん」

 おれは笑って、また口づけた。そのキスはやがて深くなり、おれの首に回された彼女の腕が
量感を増す。

「少し、座ってもいい?」

 彼女は甘い息を漏らし、おれを引っ張ってベンチに腰を下ろした。肩に首を預ける。
 おれには彼女を幸せにすることはできない。その事実がおれの肩を重くしていた。

「あたし、Bさんに幸せにしてもらおうなんて、思わないよ」

 まるでおれの心を読んだかのように彼女が言う。彼女のセンス。

「あたしが幸せになるの。幸せにしてもらうんじゃなくて、幸せになるの」
「……そうか」
「うん。……ね、また逢えるよね?」
「ああ、逢えるよ」
「エヴァストア、行かない?」
「お、いいね」

 おれの返事を聞いて、彼女はすっと立ち上がった。おれは彼女を見上げた。

「メールする。Bさんと、tambさんにも」

 おれは黙って頷いた。

「じゃあ、そろそろ行くね」
「送っていくよ」
「大丈夫。もう明るいし、ひとりでも」
「そうか」
「うん」

 彼女はおれに頬を寄せ、短いキスをした。

「じゃあね!」

 小さく手を振る。

「じゃ、また」

 おれはベンチに座ったまま、走っていく彼女の背中を見送った。

 彼女の背中がまるで真夏の蜃気楼のように揺れ、消えた。

 虚が実を侵食する。

 ひとり取り残され、天を仰ぐ。ビルに切り取られた四角い空に、息がかすかに白かった。



 おれは独りだった。

 これからどうしたらいいのか、わからなかった。

 水風船の弾けるような音は、いつまで待ってもおれの耳に響くことはなかった。

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 いくらなんでも当然ですがフィクションです。特に「女の子女の子してる作家や読者とメー
ルのやり取りをしていると、なぜか必ず話題が下ネタ方向になる」というような事実はないと
いうことは改めて付記しておきます。ただし、絶対に下ネタ方向になることはない、というわ
けでもないということも念のため付記しておきますw

 ラストの「水風船」は今は閉鎖してしまった某サイトの某作品から(水風船という単語その
ものは脚本にもあるようですが)。
 そのサイトの閉鎖理由は、自然消滅や更新ペースが遅い、あるいは飽きたというようなもの
ではなく、信念に基づくものでした。広い意味では卒業といえるでしょう。従ってサイト名や
作品名を明らかにするべきではないと考え、伏せさせていただきます。作品公開中に作者氏に
は絶賛するメールをいたしましたが、改めてこの場で感謝を。
 作者氏へのメールにも書きましたが、拙作「想い届かず」
http://ayasachi.sweet-tone.net/cgi-bin/bbs4c/read.cgi?no=420)のラスト「子供が戯れ
に水たまりに飛び込んだような音がした」は同作品へのオマージュです。

メンテ
Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.14 )
日時: 2011/12/25 19:24
名前: calu

 スイッチが入ったり切れたりする不規則な音。
 耳に覚えのあるその音が、計測器に連動したプリンターがデータを吐き出す際にラックの上で暴れる音だと
理解したのはつい最近のことだ。
 遥か俊嶺の向こうで何かが木霊している。それは天翔るハヤブサのようにすぐに枕元までやってくる。そし
て、まっ白な光が視界を覆い尽くすのだ。それが、ここ最近のわたしの目覚めのパターンだった。
 以前は、時間にして十分も経てば視力は回復したが、最近その時間が少しづつ長くなってきてると感じるの
は気のせいではないだろう。これは、検診の際に投与される薬剤が変ってきたからだと思う。効能がより強い
ものになっているのだと思う。その理由をわたしは聞かされてはいない。

 ぼんやりと天空に浮かんだ陽だまりが、天井の照明だと理解できるまでに視力が回復してくると、見慣れた
天井に少し安心する。そしてもう一つの安心を、わたしは無意識に探す。ゆっくりと頭を転がすと、前髪の狭
間に白い背中が見えた。身体の奥で冷えて凝り固まっていたものが、暖かく、そして緩く広がっていくような
感覚。朧に組み立てられていく現実の中で、例えようもない安心感が持ち上がってくる。
 そんなふうに感じはじめたのは、いつからなのだろう? 覚えていない。ただ、その白い背中から、わたし
は目を離せない。

 いつものように白い背中の持ち主は、机の上で項垂れていた頭を持ち上げ、わたしを振り返る。少し赤くな
った目に濃い疲労の色を宿して。そして、ゆっくり立ち上がると、わたしが寝ているベッドまで歩いて来てく
れる。

「レイ、目が覚めたのね」
「はい」
「気分はどう? おかしなところは無い?」
「大丈夫です。赤木博士」

 にっこりと微笑みかけるリツコに、柔かな表情でレイは応えた。

「そう…今日の検診の結果だけど、特に問題は無いわ。前回の使徒戦で負った怪我の回復状況も順調よ。たま
に頭痛に悩まされることもあるかも知れないけど、シンジ君のサルベージも成功したんだし、レイも元気でい
ないと、ね?」

 碇くんの名前を聞くと少し胸が熱くなった。わたしは小さく返事を返すと、ベッドから身体を起こそうとす
る。しかし直ぐに赤木博士に制止された。もう少し体を休めるように指示を受ける。そんな指示を受けるよう
になったのはごく最近のことだ。ふたたびベッドに横になったわたしの為にシーツを整えると、わたしの髪の
毛を撫でてから疲れた微笑を残し、赤木博士は部屋を後にした。
 後に残された静寂のなかで、届けられた忘れ物のようにプリンターの音が耳に蘇ってきた。

 検診の結果について、赤木博士は本当のことを言ってはいない。理由は解らない。
 ここ最近、体調が快方に向かうことは無かった。それでも第15使徒までを殲滅した今、身体の変調も相俟
って『その日』が近いことを本能的に理解している。そして、そんな時に、決ってわたしの胸を占めるのは、
自らの存在意義。わたしは、わたし自身の存在の意味を思い出す。わたしは、わたしが何故ここに存在してい
るのかを思い出す。わたしは、わたしが誰のために存在しているのかを思いだす。思い出す。思い出す。思い
出さない訳にはいかない。……あれほど、わたし自身が待ち望んだ『その日』。

 手を天井の照明にかざすと、壁紙よりも白い手にオレンジの血流が薄っすらと浮かび上がった。

「……わたし、生きてるのね」

 思い立ったように体を起してサイドテーブルの鞄に手を伸ばそうとした時、突然脊髄に電気が走ったような
激痛に襲われた。ふたたびベッドマットに沈ませた体を硬直させ歯を食いしばり、日に幾度か訪れるその激痛
をただ只管わたしは耐える。
 どの位の時間が経過したのか、ようやくそれをやり過した後、石のように固まった身体を少しづつ解きほぐ
し、ふたたびサイドテーブルへと手を伸ばしたわたしが取り出したのは、空色のB5サイズのダイアリー。
 残り少なくなった真っ白なページを開き、その右上にわたしは今日の日付を書きこんだ。






  ◇ second anniversary 前編 - 綾波レイの幸せ - ◇

                   written by calu






 大きく取られた窓いっぱいに陽光が波立っている。壁紙の幾何学模様の陰影までも飲み込んでしまうくらい
に眩い光が室内に差し込んでいる。その空間に浮遊する僅かな埃さえ見逃すことのない白く無機質な部屋の中
では、空調機器から事務的に排出される気流の間を縫って、計器の作動音だけが虚しげにその存在を主張して
いる。
 ネルフ中央病院。第一脳神経外科病棟の病室にその少女はいた。質素なパイプベッドの上。嘗て印象的に煌
めいていたその赤毛を純白のシーツの上に出鱈目に撒き、そして“動”の象徴そのものだった蒼い眸の輝きは
影を潜め、その焦点は現世に焦点を合わせていないように見える。

「……アスカ」

 アスカが倒れた。第15使徒アラエルとの戦い。衛星軌道上の敵。
 未知のエネルギー波による攻撃は、身体の内膜を剥離するようなダメージをその少女の精神に与えた。そし
て、時を同じくして明らかになった加持リョウジの死。半ば半狂乱の様相で加持を探し求めるアスカを見かね、
事実を伝えたのは他でもない、シンジ自身だった。
 重ねても。どれだけの言葉を重ねても、目の前の少女の眸がシンジに向けられることはなかった。ただ時を
削るようにベッドの脇に立ち尽くし、腐れ藻の絡み付く胸の中で悔恨の言葉を繰り返すことしか、今のシンジ
には出来なかった。

 エアロックの解かれる音が浮遊していた意識をシンジに戻す。定時回診にやって来た看護師のいつもと変わ
らない朗らかさが、乾いた室内に色を落とし始める。いつものように掛け時計で時間を確認すると、にこやか
なユキに会釈し病室を後にした。

(…どこで、いつから、おかしくなってしまったんだろう?) 

 存在を忘れ去られた時計の針が少しづつズレていくように、気がつくと取り返しのつかない隔たりとなっていた。

(…あれだけ、みんなで)

 互いの岸を隔てているものは、暗く底の見えない河。

(…同じ時間を過ごしてきたのに)

 離れ行く対岸から、アスカは必死になって手を伸ばしていたのだろうか。そんなアスカを、僕は気付かない
でいたのだろうか。

(…あれだけ…あれだけ…)

 それとも…ただ気付かないふりをしていただけだったんだろうか。

(…なんで…なんで…)

 怖かったんだ……気付いてたとしても…。

(…僕、僕には) 

 飛び込んでいく勇気なんて。

(…無かったんだ)
 
 心なしか、いつもより人の流れの濃い本部のエントランス。人いきれの中で、雪のように降り積る澱に喘ぐ
胸が小さな悲鳴を上げた。脇にある椅子に体を投げ出すように腰を降ろして浅い呼吸を繰り返す。目の縁には
不審げな視線を投げかける保安局員がいる。腕時計を一瞥したあと、鉛を貼られたような足をゲートに向ける。
IDを読みこんだシステムが一層機械的な音を響かせ僕を失望させる。

 今はただ会いたかった。一刻も早く会いたかった。綾波レイに。


                      ∞ ∞ ∞


 ようやく辿り着いた第七試験場には、レイはおろかリツコの姿さえ無かった。薄暗い管制室では、ただ一人
マヤが幾多のデータが流れるモニターを前にシステムのチェックに追われていた。そのマヤから受け取った伝
言に従い、技術開発部技術局にあるリツコの執務室へと足を向ける。思考力を半ば失い朦朧とした頭には、今
日ここに来た目的さえ不明瞭になり始めている。それでもシンジは決して遠くはないその部屋へと棒のような
足を動かし続けた。刹那、求める少女の背中を永遠に追い続けているような錯覚に襲われた。

「シンジ君、せっかく来て貰ったんだけど、今日のテストは中止よ」
「え? あ、はい」…でも、と一頻り辺りを見回したシンジ。「あ、綾波は? リツコさん」
「レイは検診が長引いて、まだ中央病院にいるわ」
「そ、そうなんだ……あの…綾波、どこか悪いんですか?」
「…それは、無いわ。…大丈夫よ。シンジ君と同じ健康体よ」
「そうですか……よ、よかった」 

 水面に揺らいだような表情を、小さな溜め息で打ち消したシンジに思わず頬を緩めたリツコ。ところでと、
おもむろに脇机に置いてあった黒い木箱を手に取り、シンジへと差し出した。条件反射的にそれを両手で受け
取ったシンジは、ワンテンポ遅れて、リツコに救いを求める目を向ける。

「生物よ」
「せ、生物、ですか?」
「そう、生物。シンジ君にはそれを明日ある場所に放してきて欲しいの」
「ある場所に明日って…そ、それに、これってエヴァにどんな関係があるんですか?」

 シンジの両肩に手を載せたリツコは、穏やかな微笑みを浮かべると、ゆっくりと首を左右に振った。

「明日でないとダメなの。そして、その場所に行く為には――」


                     ∞ ∞ ∞


 街を掃くように通りすぎた風が、地表に薄く敷きつめられた朝霧を薙いでいく。
 朝露に濡れそぼった街に、生まれたての暁光が命を吹き込もうとしている。あらゆるものが本格的な目覚め
を前に調整に追われるこの瞬間、清々しさが清流のように流れる車道の上を、碇シンジは快濶とは程遠い調子
で歩を進めていた。学校に登校する時と同じ制服に身を包み、背にはさほど大きくないリュックを背負ってい
る。そして、その左手には昨日リツコから託された黒い木箱が不自然に吊り下げられ、シンジの歩くリズムに
併せて振り子のように揺れている。  
 しばらく歩いてリニアの駅に辿り着くと、腕時計を一瞥したシンジは改札のある二階へと一気に階段を駆け
上がる。急いで抜けようとした改札のゲートが開かず、吐き出されたパスに目を凝らすとネルフのIDだった。
何を焦ってるんだ、と自戒する。それにしても、この中にはどんな生き物が閉じこめられているのだろう? 
ゲートに木箱をぶつけたときに鳴き声らしきものを確かに聞いたような気がした。しかし、その墨をぶちまけ
たような黒い箱は数えるほどの空気穴が開いているだけで、中を見ることは出来ないのだ。
 今度こそパスを通し改札を抜けると、朝の光でいっぱいのプラットホームにひと際鮮やかな配色のベンチが
目盛りのように行儀よく並び、そのひとつの上に陽光に縁取られた少女のシルエットが視界のなかに飛び込ん
できた。足早にベンチに近づくシンジに、少女はつつましく揃えた膝の上の文庫本からシンジへと顔を向ける。

「お、おはよう。綾波」
「おはよう。碇くん」

 朝靄に降り立った妖精さながらに、東雲の彩を横顔に残したレイのその優しげな表情にシンジは頬の緩みを
抑えることができない。
 いつ頃からだったろう。レイがこんな表情を浮かべるようになったのは。第14使徒との死闘、そしてひと
月もの間溶けこんでいた初号機から戻って来たとき、変わらぬ温かさでシンジを迎えてくれたレイ。ここ最近
に至っては、その少女との間に日ごと高まる一体感を感じずにはいられないのだ。そして、そんなシンジの周
りで、堰きとめることの出来ない陰惨な未来を暗示させるように、続々に事実として組み立てられていく現実。
加持リョウジの死、そして直近の第15使徒戦。ミサトはその姿を自室の奥深くその心と一緒に閉じ込め、加
持の死を知った――いや僕から知らされたのだ――アスカは、殆どコントロールが効かないまでに低下したシ
ンクロ率のままに、第15使徒に敢然と立ち向かい――。

「あ、始発が来たよ。乗るよ、綾波」
「うん」 

 車体を曙の色に輝かせたリニアが静かにホームに滑り込んでくる。にっこりと微笑むシンジに、柔かな表情
で応えるレイ。シンジの胸に深く喰い込んだ楔のような痛みが朝露のように消えていく。以前より少し長くな
ったふたりの時間が煌めきを放っている。そんな時間がシンジの心を絹のように優しく繕ってくれるのだ。


                     ∞ ∞ ∞


「う、裏強羅?」

 そう、裏強羅、と言ったレイは、視線を前に戻した。
 滑るように走るリニアのその車輌には、始発という事もあり、シンジとレイ意外に誰も乗客はいなかった。
何故かいつもは少なくとも隣の車両にはいる筈のガードさえも。まるで額縁のような車窓の中では朝まだきに
輝く建造物が映画の1シーンのように流れている。
 昨日リツコからこの木箱を託されるにあたって、シンジは何点かの条件を確認していた。ひとつは、箱の中
身――生物という事だけで詳細は教えて貰えなかったのだが――を開放するのが、ある特定の場所でなければ
ならないということ。そしてその生物を放つのは今日である必要があるということ。そしてもう一つ。今回の
ミッション(?)には、レイを伴う必要がある、というものだった。更にリツコが付け加えた、ソコでしか採
取できないハーブがアスカの容態を改善させる効能を持つとの情報が、シンジに今回の依頼を快諾させる決定
打となったことは言うまでもない。

「で、でも、聞いたこと無い地名なんだけど」
「そうだと思うわ」
「…え?」
「地図上には存在しない場所、だから」
「そ、それって…どうやって行くのさ?」
「行けば分かるわ」
「…そうなんだ」

 聞きたいことは山ほどあった。パイロットとしての任務でないのは明白だ。だが、作業指示以上に本質的な
部分で明されていないことがあまりに多すぎる。そもそも今自分が手にしているのは、何という生物なのだ? 
 そして解き放つべき場所である『裏強羅』とは、どこにあるのだ? 地図には無い場所だとレイは教えてく
れた。それは、どういう意味なのだろう? そして、わざわざそこで放たなければならない理由とは?

(……レイも一緒に行って貰うわ)

 沈思黙考に陥る寸前に、ふと持ち上がったリツコの言葉。最小限の言動の中に必要にして十分な情報を封じ
込めるのがリツコだ。幾多の疑問符で満たされたシンジの眼差しに応えるように放たれたその言葉から、レイ
との行動自体がシンジの内奥に付着する疑問への回答に繋がっているのだろうと肩の力を抜くことにした。

「綾波、あと、そこで取れるハーブのこと、リツコさんに聞いたんだけど……」

 これまでの雰囲気を断つようにシンジに流れた深紅の眸に、思わずシンジは言葉を途絶えさせてしまった。

「ローズマリーの亜種。特にあそこで採取されるものは特別な種のもので、他では取れないものだと聞くわ。
ただ…」
「え? な、なにかあるの?」
「簡単に取れるものではない。そして…危険が伴うものだとも聞いているわ」 

 そうなんだ、とシンジは正面に顔を戻した。東雲に染まった街並みが飛ぶように流れ行くさまを眺めながら、
レイの言葉の内容を反芻しようとしたが、直ぐに無意味なことだと思考を止めた。レイが一緒に行ってくれる
のだ。今はそれだけでいい。
 着いたわ、と鈴を一振りするようなレイの声に頭を上げたシンジは、眩しげな目を少女に向け、その背中を
追った。 


                       ∞ ∞ ∞


 駅舎を後にした二人は、山裾へと河のように伸びる道を歩きはじめた。
 小さな街を背にして、朝靄の立ちこめる道の先に目を凝らしても、綺麗に舗装された道路に車の往来は見ら
れず、人っ子一人その影すら見えない。そして、しばらく歩くと、より濃くなった霧に二人の視界は著しく奪
われた。不吉な雲の緞帳を降ろされたような視界の利く距離はおよそ十メートル。それまでの舗装道も砂利道
へと姿を変えた。 
 濃霧のなかでも歩調を落とさないレイに、若干の不安を覚えながらもシンジは必死になって前方に目を凝ら
した。道中で少しづつ質問しようと思っていた事柄をさっきまで頭の中で整理していたのだが、息苦しく感じ
るほどの濃霧にそんな余裕はどこかに飛んで行ってしまった。刻一刻と視界が悪くなる中で、いまはレイに付
いていくので精一杯だった。

「碇くん、こっちよ」

 どれくらいの距離を歩いてきたのだろう。実際に歩いているという現実感さえ薄れかけてきた頃、レイの声
が響いた。それは突然耳元で鳴った晩鐘のようにシンジの意識を深く貫き、レイに起き掛けの表情を向けさせ
る。シンジの視線を受け止めると、唐突に現れた狭隘な横道へと歩を運び始めたレイにシンジも慌ててその後
に続く。古い参道に見えなくはない。両側を背の高い木立に挟まれた道幅はとても狭く、レイと肩を並べて歩
くのは難しい。必然的にシンジはレイに引っ張られる格好になったが、目前に固定された少女の背は、小さい
ながらも無量の安心感をシンジに与えた。

「…綾波は、ここには来た事あるの?」
「どうして?」
「い、いや、地図も無いのに、この霧のなかでよく歩けるなあと思ってさ」
「以前、ずっと前のことだけど、一度来たことはあるわ」
「そ、そうなんだ」

 たった一度訪れただけで、こんなふうに歩けるものなのだろうか。前を行くレイは、世界中のスジャータを
溶かしこんだような霧のカーテンから唐突に現れる三叉路を難なく切り抜けていくのだ。白い霧のなかをひた
すら歩き進むレイとシンジ。呼吸の度に頭の中まで真っ白に染められていくような錯覚に陥り、薄まる現実感
がややもすると手足の感覚を鈍らせる。通りすぎた幾つかの分岐路に帰路が気になり始めた頃、突如、剥き出
しになった山肌が目の前に現れた。幾層もの岩盤が堆積した山肌に石窟が真っ黒な口を開け、その入口に張り
出した上がり框には、槍のような石柱が天に向かって一直線に伸びている。その先端がどこまで伸びているの
かは、乳白色の霧に阻まれ確認することはできない。
 石窟を覗きこむと、鍾乳洞のような洞窟が続いていた。風がレイの髪を撫でながら、洞窟の奥へと誘うよう
に流れこんでいる。暗闇の先を無言で見据えるレイは暫くの間何かを考えているようだったが、洞窟内に足を
踏み入れようとしたシンジを左手で制すと、右の掌を洞窟に向けて翳し――それはまるで洞窟と外界とを遮る
見えざる壁にその手を儀式的に添えるようにして――静かに目を閉じた。
 森閑とした空間のどこかで水滴の弾ける音がシンジの耳を打つ。

「…これでいい。行きましょ、碇くん」
「え? いま何かしたの、綾波?」
「禁則事項。だから、聞かない方がいいわ」
「う、うん…」

 洞窟内に足を踏み入れたレイにシンジも続く。さきほどのレイの不可思議な行動への疑問などすっぽり意識
から抜き取られるほどの暗闇がシンジの全てを覆った。白濁から漆黒へ。洞窟の入り口でレイが手を翳した不
可視の壁を境界とするように、世界が一変した。先を歩くレイの向こうに腸のように伸びる洞窟。その奥に目
を凝らすと、ここまで歩いてきた道よりも更に狭隘な洞窟が続いている。底の見えない暗闇にじわりと湧きだ
したのは本能的な恐怖とも言えるもの。レイに倣ってリュックからマグライトを取り出すと、左の壁面に埋め
られていた化石のようなランタンに淡い灯が一斉に点った。洞窟を二十メートル毎に目盛りをつけるように、
黄色い鱗ぷんのような光が奥へと伸びている。

「…碇くん」
「な、なに?」
「しばらくの間、洞窟のなかを歩いていくことになる。そして、洞窟の中では注意しなければならない事があ
るの」
「道が悪いってこと、かな?」
「洞窟だから、道は狭い。でも悪いわけではないわ」
「え?」
「わたしから離れないで。わたしの背中から目を離してはダメ。二メートル以上の距離を開けないで欲しい。
そして、ここでは足を止めてはいけない。これはとても大切なこと」
「うん、解った。…ところでさ」
「なに?」
「ここを抜けたところが、その、目的地なの?」
「そう。この洞窟を抜けたところに、裏強羅はあるわ」腕時計に視線を走らせたレイが言葉の穂を継ぐ。「た
だし条件があるの。十二時までにここを抜けなければならないわ」



                      ∞ ∞ ∞



 洞窟の中でも、それまでの雲海のような霧の中と同様、レイは歩く速度を落とさない。
 マグライトで足元を注意深く照らしながら、やはりシンジはレイについていくのが精一杯だった。途中、壁
面から湧き出した水が地面をぬめらせ、足を滑らせそうになる。反射的に木箱を抱きしめ踏ん張るシンジ。こ
こでは足を止めることがあってはいけないのだ。
 さらに歩を進めること半時間、突如として空間がひらけた。ライトで辺りを照らすと、直径十メートル位の
円錐状の宗教的な空間が広がっている。そして、その中心部分には、柱が切断されたような石台が空間のバラ
ンスを取るように据えられている。天井は途轍もなく高いのか、マグライトの光は、堆積する闇に吸い込まれ
その先は見えない。
 碇くん、と呼ばれた声に巡らせていた顔を向けると、レイが石台の脇でその天板を指さしている。

「木箱を、ここに」

 その天板は何の変哲もない陶板に見えたが、目を凝らすとマグライトの光の輪に儀礼的な紋様が浮かんだ。
レイの言われるままに木箱を置くと、中から何か音のようなものが聞こえた。旧式のラジオのチューニングを
合わせるようにレイが箱の位置を整えると、今度ははっきりと木箱の中から鳴き声のようなものが聞こえた。   

「碇くん、こっちよ」

 足を運び始めたレイに慌てて木箱を手に取ったシンジは、レイの足の先にぽっかりと口を開けている次なる
洞窟に不審げな表情を作る。この空間に足を踏み入れた際に見た記憶の無い洞窟だ。まるで、レイが足を向け
た瞬間に生まれた入口のようにさえ思われる。振り返ってみると、そこにはシンジ達がこれまで通って来た洞
窟が閉店後のレストランのように闇に同化している。ふと、次の洞窟にレイが入った瞬間に、その入口が閉ざ
されてしまうのではないかという不安に襲われたシンジは、レイに続いて慌てて中へと飛び込んだ。

 足を踏み入れた洞窟には前の洞窟にあった化石的なランタンさえ無く、一層の闇を張り巡らせている。闇の
底へと続く無限空間のように物理的な境界の判別つかない程に夜目がきかない。壁や地面を確かめようと向け
た懐中電灯の光は余りに脆弱で、ややもすると前方の暗闇にレイが飲み込まれるような錯覚にとらわれる。全
神経をレイの背に集中しようと気構えるシンジ。そんな矢先のことだった。どこからか流れてきた歌声がシン
ジの耳朶を突いたのは。レイの背中から顔を起こしたシンジの目に入ってきたのは、壁の両側に穿った幾つも
の横穴だった。そのひとつを通り際に覗くと、横穴の入口から数メートルのところに小さな木が薄明かりの中
にぼんやりと影絵のように浮かび上がっている。驚いたシンジが目を凝らすと、その木はいっぱいの見栄えの
良い果実を付けているようだった。何かに憑かれたように唐突に猛烈な喉の乾きに襲われるシンジ。駅を降り
てからこのかた、ほぼノンストップの強行軍で歩いてきたのだから無理は無い。リュックの中にはミネラルウ
ォーターの入ったペットボトルは準備してあるが、その瑞々しい果実をその樹からもいで齧りつきたい衝動が、
抗えない欲求のようにシンジの体を刹那支配した。

「碇くん、ダメ!」
「え!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げそうになった。頭の中を半ばその果実に支配されて半身を横穴に入れていたシン
ジの腕を、いつの間にかレイがしっかりと両手で掴んでいる。

「…ど、どうして?」
「アレは、果物では無いわ」

 えっ? とシンジがふたたび目を向けた先では、花が咲くように実った果実はその表面を目まぐるしく波打
たせ、一斉に人面へと変貌した。憤怒、絶望、憔悴、貼りついたような笑顔、そして空虚な表情が次々に浮か
んでは消えていく。驚くシンジの視界の中で、誘引の糸を送りだすように木からは青白い燐光が迸っている。
そして幾つかの燐光が蛍のようにシンジとレイに向かってゆっくりと近づいてくる。

「長い間、見ていてもダメ。すぐにここを離れた方がいい」

 ふたたび歩を進めたところで、シンジはレイとの約束を破り、自分が足を止めて横穴を覗き込んでいた事実
に改めて気が付いた。シンジに足を止めた記憶は無く、ただ通り際にチラと覗き込んだだけ、だった筈なのだ。
それにしても、衰えることの無いこの歌声は一体なんなのだろう。壁面に穿った幾多の横穴から溢れ出す歌声
は、世界中の洞窟を震わせているように思えた。

「碇くん。これ、飲んで」
「え、これって?」

 レイが小さなリュックから取り出し、シンジへと差し出したのは水筒だった。

「赤木博士が作ってくれたドリンク。飲んで」

 いいのかな、と思いつつも、シンジが飲んだドリンクはレモンと蜂蜜のフレーバーのとても美味しいジュー
スだった。張り付きそうにまで乾いた喉を押し広げ、爽快さが全身に染み渡ると、耳を覆いたくなる程の歌声
は消えていた。横穴から漏れていた灯も何事も無かったかのように消失している。

「綾波、有難う。お陰様で生き返ったよ」
「そう…よかった」
「…ところでさ、さっきのアレって、いったい何だったの?」
「この洞窟そのもの」
「え?」
「稀にここに迷い込んだ人間が、喉を乾かせて通りかかったところを罠に掛けるの。灯りと果実に似せたもの
で誘引し、その果実に人間が手をかけたところを絡め取るの」
「そ、それじゃあ、あの果実は…」
「捕食されたヒトの魂そのものと言っていいわ。木もこの洞窟がそれに似せて形を変えたもの」
「…そ、そんな」
「ただアレは人間の乾きにつけ込むから、その原因自体が消失すればいい。だから、碇くんの場合は水分補給
で足りたの。でも、乾きは言いかえれば欲求。その人間によって対象は変わってくるわ」
「つまり、金銭的に欲求が強い人間だったら…」
「あるいは、宝石や金が生る木が見えたかもしれない。アレはその人間の心を現す鏡のようなもの。そして、
大抵の人間、特に大人は、その誘引に打ち勝つことはできないわ。そして、ここで洞窟に絡め取られた魂は、
永遠に洞窟から出ることは出来ないの」
「…そうなんだ」

 もし一人でここに来ていたのであれば、やはり果実の生る木が見えたのだろうか。それとも……。前を行く
レイの小さな背に集めた意識の片隅で、シンジはそんな事を考えていた。



                           ∞ ∞ ∞



 その音は突然爆ぜるようにシンジの耳を蹂躙した。怒涛の如く押し寄せる水が地底深く落ちていく瀑布の音
だ。まるで悪魔がスイッチを入れたように唐突に唸りをあげた轟音に、シンジの脚はその意思に反し竦みそう
になる。

「碇くん、足を止めてはダメ。わたしの背中だけを見て」
「で、でも、どんどん音が大きくなってくるよ」
「大丈夫。すぐに消えるわ」

 降ってきた水しぶきに叩かれた頬を驚いて撫でるシンジ。マグライトの光の輪のなかで、前を歩くレイの髪
にもどこからか舞い上げられた霧雨が幻想的に降り落ちるさまが映画のワンシーンのように流れる。そして次
の瞬間、道ごと呑み込むようにレイの前に突如として獰猛な姿を現した滝が脆弱な光のなかに浮かびあがるや、
瞬く間にレイを呑みこんだ。

「綾波ぃ!」

 レイを追って怒涛の如く流れ落ちる水流に身体を突っ込ませたシンジは、木箱をひしと胸に抱え全身を打つ
であろう水圧に体を硬直させた。が、次の瞬間、何ら抵抗を受けることも無く、シンジの体はその瀑布をする
りとくぐり抜けていた。中腰のまま、そろそろと目を開けたシンジが出鱈目にマグライトを振り回すと、それ
までと同じ洞窟の闇の底。奥へと流れる冷気が汗の浮いた頬を撫でていく。失われた音と感覚に、ばら撒かれ
た現実感を拾い集めようとした時、それまで体の奥底で影を潜めていたパニックがシンジの体を駆け上がって
来た。

「碇くん」
「あ、綾波。どこ?」
「碇くんのすぐ前」

 暗闇を薙ぐように向けたライトに浮かび上がったレイの姿に喜び勇んで足を踏み出したシンジは、あろうこ
とかその足を滑らせてしまった。幸運にも尻餅をついただけで済み、反射的に持ちあげていた木箱も無事だった。

「大丈夫、碇くん?」
「ご、ごめん。なんか焦っちゃってさ、はは…」
「………」

 緩慢に身体を起こそうとしたシンジだったが、前に立つレイの視線を追った先で、マグライトを持っていた
筈の右手がレイのスカートの裾を掴んでいるのに気付くと、慌てて手を引っ込め、ばね仕掛けの人形のように
起き上がった。 

「ごご、ごめんよ! 綾波! わ、わざとじゃ無いんだ」
「……前にも同じようなことがあったわ」
「……へ?」

 …何でもない、と踵を返しふたたび歩を運び始めたレイに首を傾げたシンジだったが、慌ててレイの背を追
い始めた。
 暗闇がより深くなっていくような気がするのは、気のせいだろうか。一メートルと離れていないレイの姿さ
え、ひとたびライトの軸を迷わせてしまうと永遠に見失ってしまうような気がするのだ。そして洞窟を奥へと
歩き進めるほどに、マグライトが生みだす頼みの光さえ、刻一刻と濃くなっていく闇の粒子に削り取られ、彷
徨う侵入者の持つ現実感を一枚また一枚と皮のように剥ぎ取っていくのだ。
 僕は、本当に洞窟を歩いているのか。とうに肉体から遊離した意識という思念体だけが、この腸のような洞
窟の底を浚いながら彷徨っているのではないのか。実は、肉体も魂も既にあの木に取り込まれ、この洞窟の一
部になってしまっているのではないのか。思い出したように右手の甲で頬を拭うと、付着していた水滴が頬の
上で塗り広げられ、その感覚に、シンジの現実感は首の皮一枚のところでつなぎ止められた。 

「…綾波」
「なに?」
「さっきのさ、あの滝ってさ、何だったんだろう」
「あれは二番目の門」
「え? 二番目って…じゃあ、一番目の門はもう通過してたってこと?」
「一番目の門は洞窟への入口がそうだったの。そして、わたしたちが抜けなければならない門は全部で三つあ
るわ」
「でも、さっきの滝は何か変だったなあ……突然現れたと思ったら直ぐに消えちゃったし」
「あれも、この洞窟が見せている幻影なの。太古に存在した地底の滝だとも言われているわ」
「そ、そうなんだ…でも何だか妙にリアルだったなあ。その、音とか、水飛沫とかさ」
「水飛沫は本物なの。第二の門の側壁には地底湖に通う水流が凄い勢いで流れているの。若し滝の幻影に怯ん
で、側壁に身体を近づけたり、脇から滝の向こう側を覗きこんだりすると…」
「…そ、その水流に呑まれちゃうの?」
「そう。水流はこの迷宮のような洞窟の血液みたいなもの。水流に囚われた人間は一気に地底湖まで引き込ま
れて複雑に入り組んだ地底の経絡
を永遠に巡ることになるわ。その体が朽ちても魂は終わりなく水脈を彷徨い続けるの」
「……さっきの木と言い、何だかおっかないね」
「大丈夫。洞窟が罠に掛けるのは、邪な考えを持った人間だけ。邪な考えを持ってあの場所に踏み入れようと
する人間だけ」
「あの場所って、その、僕たちがいま向かっている…」
「そう。裏強羅よ」
  
 レイと言葉を重ねるたびに、体が再構成されたような、自分自身のはっきりとした輪郭を取り戻していくの
が解る。夢のなかで時に迷い込む迷宮の冒険にも似た体験と虚無とも言える暗闇に、自我を保てなくなってい
たということなのだろうか。今はさっきまでのような、魂が遊離したような――まるで肉体を悪魔の指先で削
ぎ落とされたような――心細さは、シンジには無かった。
 マグライトを持つ右手には、レイのスカートの裾を握りしめた感覚がまだ残っている。自分を碇シンジとい
う器に繋ぎとめるもう一つの要素が、他でもないその手に残る感覚によるものだと頭のどこかで理解する一方、
その感覚にはなぜかシンジ自身には覚えがあった。……いつ、どこで?
 少し考えたシンジだったが、少し離れたレイとの距離に、頭からその思考をふるい落とすと、その小さな背
中に集中しようと脚を大げさに動かし始めた。


                      ∞ ∞ ∞



 第二の門を通過し、三つめの三叉路が現れたところでレイの脚が止まった。背中のリュックから地図らしき
ものを取り出したので、シンジは慌ててライトの光でレイの手元を照らす。

「綾波、どうしたの?」
「…前に来た時は、この三叉路は無かった」

 ふたりの前で分水嶺のような三叉路で分かれている二つの洞穴の漆黒へと交互にライトの光を差し込むレイ。
その先の堆積した闇に視線を暫く留めた後、「碇くん、ここにいて」と、レイは言った。

「え?」
「先を見てくる。直ぐに戻る。だから、ここで待ってて欲しいの」
「あ、うん…」

 シンジが頷くのを確認すると、レイは躊躇う素振りを見せることもなく左側の洞穴へと姿を消した。恐らく
は、そちらが正しい道だということなのだろう。暫くのあいだ洞窟の中に反響していたレイの軽い足音が聞こ
えなくなると、押さえつけていた心細さが喉元へとせり上がってくる。が、それを封じ込めるようにシンジは
自らを強く戒める。得体の知れない闇の中へとレイは一人で足を踏みいれているのだ。恐らくはシンジにかか
るリスクを最小限にするために。踏み入れた洞穴がフェイクだった場合、何らかのブービートラップが仕込ま
れてないとも限らない。第三の門は近いのだ。

(…大丈夫かな、綾波)
(…でも、綾波なら平気かな。そんな気がする)

 ふと、以前にも同じようなことがあったな、と思い返す。いつものようにネルフに向かう途中、大規模停電
に遭遇した時の事。予備電源までも通電が途絶えた暗闇の底で、レイは進むべき通路を的確に選択し、シンジ
とアスカをリードしていってくれたのだ。まるで本部施設の隅々までも知悉しているように歩を進めるレイに
ついていくのが精一杯だったのだ。

(……だけど)

 あの時から、どの位の時間が経過したのだろう。長かったようでいて、実は半年と経ってはいないのだ。そ
の時に比べると、今はレイの背中がとても近くに感じる。後ろを歩くシンジから時折り垣間見るレイの白い頬
が後ろのシンジを気遣っているように感じるのは、ただの思い過しなのだろうか。まるで、もっと以前からお
互いを知っている二人がその呪縛を解かれ、失くした時間を取り戻すかのように、互いの距離を詰めてきたよ
うな気さえするこの半年間――。レイのスカートを掴んでしまった時から、シンジの意識から湧き立って止ま
ないデジャヴーに似た感覚が、碇シンジという個の輪郭を際立たせ、懐かしさに洗われた感情がシンジの心の
奥底に閉じこめられた記憶の扉を一枚また一枚と押し開けていくのだ。

(……?……)
 
 何かがシンジの耳を過ぎった。レイが戻って来たのかと左の洞窟へと目を向ける。しかし、そこにあるのは
依然底の見えない絶無の世界。シンジが手にするマグライトの光は、僅か十メートル程で暗闇を構成する粒子
に捕食されるように消え失せてしまう。ここは絶対的に漆黒と音の無い世界なのだ。
 釈然としない表情を滲ませたシンジだったが、目の縁に掛った違和感に、それまで気にも掛けずにいた右側
の洞窟に顔を向けるや、思わず目を凝らした。シンジが立っている場所から右の洞窟に二十メートルくらい入
った辺りだろうか、インクを滲ませたような光が点っている。今の今まで認知できなかったその光から滾る誘
引の意図を肌で感じ取ったシンジは身を強張らせた。ここまでに遭った二つの罠の件もある。レイに指示され
た通り、何が何でもここでレイの戻りを待つべきなのだ。木箱を持つ手に力が籠もる。
 
(…ま、まただ)

 今度ははっきりと聞こえた。さっきよりも明瞭に聞こえた音は、やはり光が点っている辺りからのように思
えた。そして、続けてシンジの耳を突いたその音に、シンジは瞠目した。

「あ、綾波!?」

 紛うこと無くレイの声だった。幾度となく頼りなくシンジの耳に聞こえた音はレイの声だったのだ。実は、
レイが侵入した左側の洞窟はその奥で右の洞窟と繋がっていて、そこから戻ってくる途中に転んで怪我でもし
たのではないのか? あの脆弱な光はレイが転倒した際に投げ出されたマグライトの光では無いのか? 脱兎
のごとく駆けだしたシンジは、マグライトなどほとんど何の役に立たない暗闇の中、湿った地面に幾度か足を
滑らせながらも、その光を一直線に目指した。レイの名を呼ぶ声が、狭隘な洞窟の中で終わりのない反響音を
響かせる。 
 
「あれえ?」

 バランスを崩しながらも急制動したシンジが見たものは、マグライトの光などではなかった。それは、そこ
の壁面に穿たれた横穴から漏れていた灯りだった。淡く照らされた横穴の入口には小さなベンチのような石台
が据えられ、その向こう側は下りの階段になっている。光はその階下から漏れていた。よく見るとその階段の
壁にはメニューらしきものも掲げられ、以前雑誌で見たことのある昔のバーのような佇まいを醸し出している。
 レイの声は階下から聞こえてきたのだろうか。シンジの思考に連動するように、階下から響いたレイの声が
シンジの耳朶を突く。やっぱりと、ベンチの脇に足を踏み出したシンジの耳に思わぬ声が飛び込んできた。

「ちょっとシンジぃ、アンタも早く来るのよ」
「あ、アスカぁ!? なんでアスカがここにいるんだよ?」
「あんたバカぁ? アタシを置いてきぼりにするから先回りしたに決ってんじゃないのよ」
「だって、アスカ、ずっとベッドで眠ってたじゃないか……そ、そうだ、体はもういいの? それに、勝手に
病院を抜け出しちゃマズイよ」
「体はもうダイジョーブよ。それに、そんなこと気にする必要は無いわ。リツコもミサトもみーんなココにい
るもん。ぐだぐだ言ってないで早
く来なさいよ」
「そ、それじゃ、やっぱりお店のなかに綾波もいるんだ」
「あったり前じゃない」
 
 いつの間にか階段の壁にはアメリカの古き良き時代を象徴するようなネオンサインが据えられ、原色を周り
に振り撒いている。階下からは、さながらパーティーでも催しているかのような雑多な生活音、そして聞き覚
えのある仲間たちの明るい話し声や笑い声で溢れかえっている。何もかもが、シンジにとって取り返しのつか
ないものだった。そんな総てのものに包まれて、シンジの胸は懐かしい温かさでいっぱいに満たされていった。

 アスカ…元気になって良かった。……本当に良かった。
 加持さんも…死んでなんかいなかったんだね……良かった。…良かったね、ミサトさん。
 ねえ、綾波。聞いてよ。みんな一緒なんだ。本当はこんなに近くに皆いたんだ。
 ねえ、聞いてよ、綾波。僕は……。
 僕は……。



                ◇ to be continued later ◇

メンテ

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