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なごり雪
日時: 2015/01/10 03:16
名前: tamb


***** なごり雪 *****


 サードインパクトを越え、初めて経験する秋と冬を過ごした。そして春を迎え、もうすぐなじみ深い夏がやってくる。

 その日、いつもより早くに目覚めてしまったレイは、シャワーを浴びて学校に行く準備を整え、ベッドに寄りかかって本を読んでいた。学校に行くにはまだ早い。
 彼女は学校が好きだった。学校に行けばシンジに会える。
 自分がシンジにどう思われているのかを考えだすと、本のページは少しも進まなくなる。確かにシンジは誰にでも優しい。だがレイは、他の誰かに対するのとは別の種類の優しさをシンジから感じていた。もしかするとそれは自意識過剰、単なる自惚れなのかもしれない。そうでなければ、かつてはヒトですらなく、シンジの願いによってヒトになれたレイに対する同情、あるいは責任感のようなものなのかもしれない。

 彼の気持ちはわからない。だが彼女はシンジのことが好きだった。シンジがそこにいることで、彼女は人を好きになることを知った。人を好きになるのがこんなにも切ないことだとは、想像すらできなかった。

 でも、好きになってしまった。

 自分の気持ちを彼にどう伝えたらいいのかわからない。伝えていいのかどうかもわからない。彼の気持ちを知るのが怖い。彼の中で自分が特別な存在ではないとわかってしまうのが怖い。だから彼女は、自分の気持ちを表に出さないようにしていた。
 ただ見ていてくれればそれでいいという気持ちもある。でも、見ていてくれたなら傍にいて欲しいと思うし、傍にいてくれるなら――。

 ため息をひとつ漏らし、本を閉じて窓から外を見る。今日は暑くなりそうだった。

 チャイムが鳴った。もしかするとシンジが迎えに来たのかしれない。彼が不意に迎えに来るのは珍しいことではなかった。メールくらいすればいいのに、少し照れたような笑顔で、一緒に行こう、と言って。
 レイは小走りに玄関に駆け、ドアスコープから外を見る。無警戒に開けるとシンジに怒られるからだ。だが人の姿は見えなかった。見えないところに立っているのかもしれない。シンジはそういういたずらを時々する。どうせシンジだろうと無警戒に開くとやっぱり怒られるので、チェーンをかけたままゆっくりとドアを開いた。

「おはよ」

 雪だるまが立っていた。
 身長は50センチほど。頭には三角帽子を、首にはマフラーを巻いている。どちらも赤の毛糸編みだ。
 現実離れした光景に彼女は声を失い、忙しげな瞬きを繰り返した。

「えーと、レイちゃん、だよね?」

 雪だるまの声に、彼女は我に返った。だが我に返ったとして、普通に日本語を話す雪だるまに対して何と答えればいいというのか。

「あ、えと、はい。そうです……」

 とりあえず彼女はこう答えた。

「あぁ良かった。間違えたかと思ったよ」雪だるまは少し安心したような調子で言う。「今日は暑くなりそうだね」
「……」
「ぼく、溶けちゃいそうだよ」
「……」
「ね、部屋に入れてもらってもいいかな。ここは陽があたるからさ、ちょっと危険なんだよね」

 雪だるまが部屋に入れてくれと言っている。とても現実のこととは思えなかった。

「だめ?」

 小首をかしげてそう言った雪だるまは、レイが部屋に入れてくれることを信じて疑っていないようで、無邪気な笑顔で彼女の瞳を見つめた。

 見つめ合うレイと雪だるま。

 夢だ。彼女はそう結論づけた。あり得ないことだからだ。現実にあり得ないのならそれは夢だ。自分はまだベッドの中で眠っていて、奇妙な夢を見ているだけだ。だが夢だとしても、このまま雪だるまを追い返すのもかわいそうな気がした。玄関先で溶けられても後味が悪い。

「ちょっと待って」

 レイはドアを一度閉じてチェーンを外した。

「どうぞ」
「ありがと」

 ぺこりと頭を下げ、玄関で器用に長靴を脱ぐと、雪だるまはとことこと部屋の中に入ってきた。

「素敵な部屋だね」
「あ、ありがと」

 彼女の部屋はもうあの殺風景なものではない。きちんと壁紙が貼られ、床にはクリーム色のカーペットが敷かれている。掃除もしっかりと行き届いていた。

「かまくらもいいけど、こういう部屋も素敵だなぁ」

 部屋の中を見回しながら雪だるまが言う。悪い気持ちはしなかった。だが雪だるまに誉められていい気分になっている場合ではない。とにかく夢から覚めることだ。学校でシンジにこの奇妙な夢の話でもすれば、きっと笑ってくれるに違いない。だがどうすれば夢から覚めることができるのだろうか。

「ぼくね、たくさん歩いて、疲れちゃったんだ。レイちゃんが学校に行っているあいだ、寝ててもいいかな」
「……」
「いいこにしてるからさ」

 雪だるまと一緒に眠ってしまおうか、とレイは思った。目が覚めた時にはいくらなんでも現実だろう。ナイスなアイディアかもしれない。

「いいわ。わたしももう少し寝るから。一緒に寝ましょう」
「うん!」

 雪だるまは元気に返事をすると、よっこらしょとベッドによじ登り、布団にもぐりこんだ。レイも雪だるまの隣に横になる。制服のままでは皺になるかと思うが、どうせ夢だから関係ない。

「おやすみ、レイちゃん」
「おやすみなさい」

 涼しくて気持ちいいと思いながら、レイは目を閉じた。



 あまりの寒さに目が覚めた。身体を震わせながら時計を見ると、針は三時を指していた。外は明るい。ということは、午後三時だ。
 寝坊した。
 飛び起きようとした次の瞬間、ぐーという軽いイビキが聞こえた。レイは硬直しつつもゆっくりとその音のした方を向く。思った通り雪だるまが眠りこけていた。
 まだ夢の中にいるのか、それとも現実に雪だるまが寝ているのか。レイはどう対処していいかわからず、思考停止状態に陥った。

 チャイムが鳴った。だが、また雪だるまが来たらどうしようと思うと動けなかった。雪だるまが十人二十人と次々に押し寄せ、部屋の中が雪だるまで一杯になったらどうすればいいのか。雪だるまならまだいい。雪女やら雪男が来たら目も当てられない。たとえこれが夢だとしても、黙ってやり過ごした方が無難なような気がした。やり過ごしたらシャワーを浴びて、とりあえず身体を暖めよう。先のことはそれから考えればいい。
 ひたすらじっとしていると、こんこん、とノックの音が聞こえ、続けて「綾波、いないの?」とシンジの声がした。

 ――碇くんだ!

 もう夢でも現実でもどっちでもよかった。現実なら助けて欲しい。夢なら起こしてもらおう。レイは飛び起き、玄関に走ってドアを開けた。

「碇くん!」
「どうしたの。学校休んで。風邪でもひいたの?」

 シンジが心配そうに聞く。

「あの……」

 雪だるまが来ていると言っていいものかどうか迷った。たとえ夢の中だとしても、頭が変になったと思われるのは嫌だった。だがこれは現実で、実際に変になっているのかもしれない。だとしたら早めに病院に連れて行ってもらった方がいい。手遅れになる前に。

「雪だるまが……その……来てるの……」
「……え?」

 レイが視線を落とす。その先には小さな黄色い長靴があった。シンジもそれを見る。

「……あがるよ」
「うん……」

 シンジが部屋に入ると、雪だるまは相変わらず布団にくるまってぐーぐーと眠っていた。シンジもさすがに硬直する。

 レイは事の顛末を説明した。

「歩いて来て……喋った?」
「うん……」
「……リツコさんの所に行こう」シンジは少し考えてから言った。「困ったときはリツコさんだよ。もしかしたら僕たち、エヴァの乗り過ぎで神経がおかしくなってるのかもしれない」
「……わかった」

 とにかくこのまま放っておくことはできない。リツコのところに行くのは妥当な線だろう。

「ね、ちょっと。起きてよ」

 シンジが雪だるまを揺するが、目を覚ます気配はない。

「ちゃんと冷たいや。どうなってんだろ……。ちょっと、起きてってば」
「ん……」

 少し強めに揺すると、雪だるまは目をこすりながら起きあがった。

「……あ。シンちゃん……だよね? はじめまして。ぼく、雪だるまです」
「あ、えーと、はじめまして。碇シンジです」

 ぺこりと頭を下げながら自己紹介する雪だるまに、シンジもつられて頭を下げた。その光景がおかしくて、レイは小さく笑った。
 シンジが気を取り直して聞く。

「君は、雪だるまっていうの?」
「そうだよ。ぼく、雪だるま」
「なんか……すごいなぁ……」
「でしょ? かっこいいでしょ?」

 雪だるまは胸を張った。

「ちょっとさ、一緒に来て欲しいんだけど」
「どこに行くの?」
「赤木博士のところだよ」
「あかぎはかせ? こわくない?」
「怖くないよ。ちょっとマッ……すごく優しい人なんだ」
「ふーん、じゃあいいよ。でも……そと、暑くない? ぼく、暑いのにがてなんだ」
「もう夕方だから大丈夫だよ」
「うん。わかった」

 雪だるまはぴょんとベッドから降りた。

「じゃ、おいで」
「うん」

 シンジの声に、雪だるまとレイは同時に頷いた。



「わーい!」

 自転車の前カゴに雪だるまを入れ、後ろにはレイを乗せてシンジは走る。

「気持ちいいー!」

 雪だるまはカゴから身を乗り出し、帽子とマフラーを風になびかせながらはしゃいだ。

「あんまりはしゃぐと落ちるよ!」
「へーきへーき! だいじょぶだよ!」

 雪だるまは振り返りもせずにそう言った。


 気持ち、いい。
 右手でシンジに掴まり、左手でスカートの裾を押さえながらレイはそう思った。目を閉じ、髪の毛に風を感じながら頬をシンジの背中に押し当てる。

「あ、綾波もちゃんと掴まっててよ!」

 背中にひんやりとしたものを感じ、シンジが少し自転車をふらつかせながら言う。
 レイは言われた通り、右手にしっかりと力を込めた。


────────────────────────────────────────


「そろそろ来る頃ね」
「本当に来るでしょうか」
「来るわ。間違いなくね」

 疑い深げなマヤに、リツコは自信たっぷりに答えた。

「雪だるま型ロボットに仕込んだ完璧なプログラム、そしてレイとシンジ君の性格を考えれば必ず来るわ。今頃は雪だるま型ロボットにそそのかされて、いちゃいちゃしながらこっちに向かってるはずよ。お互いの気持ちに気づいてぽっとかほっぺを赤らめたりなんかしちゃったりなんかしちゃったりしてこの!」
「先輩」
「何よ」
「お聞きしたいことがあるんですが」
「言ってご覧なさい」
「どうして無理矢理シンジ君とレイちゃんをくっつけなければいけないのですか? 自然に任せるのが一番いいような気がします。あの二人なら、ほっといても自然といい感じに――」
「甘いわね」

 リツコはきっぱりと言い放った。

「サードインパクト以降、どいつもこいつもカップルカップル……」
「……」
「カップルカップルカップルカップルカップルカップルカップルカップルカップルカップル!!!」
「わわわわかりましたっ! 先輩っ! わかりましたっ!」
「何がわかったのよ! あなただって青葉君と上手くやってるじゃないの! アスカだって渚カヲルと四六時中いちゃついてるわ! 渚カヲルは現役の使徒なのよ! 現存する唯一の使徒なのよ!」
「現役使徒だからといって人間と恋に落ちて問題があるとは――」
「問題ないわよ! そんなことを言ってるんじゃないの!」
「……」
「あたしはね! 使徒ですらアスカを口説く世の中だっていうのに、いつまでたってもうじうじと煮え切らないあの二人が気に入らないだけなの! くっつくならさっさとくっつけばいいのよ!」
「そ、そうですね……」
「だからこそ! だからこそ私が苦労してこの計画を立案したのよ! なんとしてもレイとシンジ君をくっつけるのよ! その名もラブラブ・レイ・シンジ計画! コードネームはズバリ、LRS計画よ! 目的のためには手段を選ばないわ!!」
「……」
「マヤ」
「は、はい」
「あなた、今、人の心配をする前に自分がいい人を探せばいいのにって、思ったわね?」
「い、いえ、まさかそんなこと――」
「いいのよ。そう思うのが自然だわ」

 リツコは妖艶な笑みを浮かべた。

「あなた、自分が青葉君にはもったいないなんて、思ったことはない?」
「ひっ!」

 優しく肩に手を置かれ、マヤは小さな悲鳴を上げた。

「自分の魅力や将来のこと、よく考えた方がいいわ。マヤ」
「あ、あの……わたし……」

 マヤはどうしたらいいかわからず、がくがくと身体を震わせた。その時、ドアが小さくノックされた。

「はい」
「ちっ」

 マヤはほっとした声で答え、リツコは小さく舌打ちをした。

「あいてるわよ」

 静かに扉が開くと、そこには雪だるまが立っていた。

「おかえりなさい。……ひとりなの?」
「あの……ボク……」
「どうしたの? レイとシンジ君は?」
「ボク……レイちゃんのうち、一生懸命探したんだけど……見つからなくて……それで……」

 リツコは目を見張った。雪だるまのこの動作は何だ? こんな切なげな口調で話をするようなアルゴリズムを設計した覚えはない。

 雪だるまは目に涙を一杯にため、うつむいて言う。

「お昼になって、すごく暑くなってきて、おなかもすいてきちゃって……コンビニのお姉さんにお願いして、少し充電させてもらったんだけど……」
「先輩っ! かわいそうですっ!」

 マヤが雪だるまを抱き上げ、ぎゅっと抱き締めて叫んだ。

「少し休ませて……レイちゃんの部屋に行くのは、また明日にさせてあげてくださいっ!」
「マヤ」リツコはため息を漏らしながら静かに言う。「腕をあげたわね。あなたの仕事でしょ?」

 基本設計をしたのはリツコだが、実際にコードを書く作業はマヤにまかせた。マヤがアルゴリズムに変更を加えたのだろう。

「は、はい……」
「こういうことは勝手にやらないできちんと報告をなさい。当然のことよ」
「申し訳ありません」
「いいわ。その子、今日はあなたの部屋で休ませてあげなさい。もう夕方だし、レイの部屋に行くのは明日でいいから」
「ありがとうございます! ほら、あなたもお礼を言って!」
「あ、ありがとうございます」
「今後、その子に関してはあなたが全責任を持つこと。それから、変更したアルゴリズムに関するレポートを明日の朝までに提出すること。いいわね?」
「はい!」
「過度な感情移入は禁物だけど、ちゃんと面倒は見てあげなさい。あなたの仕事なんだから。……あんまり甘やかさない方がいいわよ」
「わかりました! 先輩!」
「下がっていいわ」
「失礼します!」

 マヤと雪だるまはリツコの部屋を辞した。リツコは大きくため息をつく。あの雪だるまはもう使い物にならないだろう。マヤのペット、いや、新しい家族として幸せに暮らしていくことになるに違いない。また新しい手段を考えなければならないだろう。今度はあんまり可愛らしくない、マヤのツボにハマらない方向で。

 再びドアがノックされた。今度は誰だろう。

「あいてるわよ」
「失礼します」

 シンジとレイだった。レイは雪だるまを抱いている。

「リツコさん、あの、実は、綾波の部屋に雪だるまが、その、歩いて……」

 シンジが雪だるまを指さして言う。

「え?」

 リツコは驚きを隠せない。

「なーんだ。あかぎはかせって、りっちゃんのことだったんだ」

 雪だるまはレイの腕から飛び降り、手を振りながらやけに馴れ馴れしい口調で言う。

「りっちゃん! 久しぶり!」
「……マヤは?」

 リツコは気を取り直して言った。いったい何の冗談か。マヤと雪だるまとシンジとレイと、みんなで自分をからかおうとしているのか。

「マヤちゃん? だれ?」
「……マヤさんには会ってませんけど」
「……」

 手の込んだ冗談だ。

「りっちゃん。ぼくのこと、覚えてないの?」
「古い知り合いに雪だるまはいないつもりだけど」

 リツコはそう答えながら、内線でマヤを呼んだ。

「はい、先輩」
「あなたの雪だるま、そこにいる?」
「はい。ごはんを……充電しながら絵本を読んでますけど」

 予想外の返事だった。目の前にいる雪だるまの手を取り、横を向かせて腰部を見る。そこに電源コネクタはなかった。

 目眩がした。

 この雪だるまはいったい何だ?

「ねえ、りっちゃん」雪だるまが気楽に割り込んで言う。「ぼく、おなか減った」
「……何が食べたいのよ」
「かき氷! イチゴ味がいいな」

 リツコは声が震えそうになるのを堪え、受話器の向こうのマヤに言う。

「……悪いけど、充電は一時中断して雪だるまと一緒に来てもらえる? 絵本も持って来ていいから」
「どうしたんですか?」
「その子の……雪だるまの友達が来てるの」
「……え?」

 マヤも絶句する。

「それから、イチゴ味のかき氷、忘れずに買って来て頂戴」

 リツコは返事を待たずに受話器を置いた。

「ぼくの友達がいるの!?」

 雪だるまが大喜びで言う。リツコは投げやりに答えた。

「そんな気もするわね」
「やった!」

 雪だるまは小躍りした。
 レイとシンジは話が見えず、呆然と突っ立っている。

「あの、リツコさん……」
「何よ」
「雪だるまの、その、友達って……?」
「聞かないで」

 リツコは頭を抱えた。そもそもこの気温で雪だるまが普通に存在しているべきではない。だいたい雪だるまが喋ったり歩いたりするはずはないのだ。ということは、誰かに作られたのだ。リツコが作ったのと同じく、ロボットであるに違いない。

「あなた、誰に作られたの?」
「りっちゃんだよ。ねえ、ほんとに覚えてないの?」
「だから雪だるまに知り合いは――」
「失礼し――」

 ノックもせず、マヤが雪だるまと手をつないで入ってきた。そこにもう一人の雪だるまがいるのを見て絶句する。

「あっ、雪だるまだ!」

 まさに瓜二つ、ほとんど双子状態の二人の雪だるまは同時に叫び、駆け寄った。一瞬だけ見つめ合うと、部屋の隅に行って何やらひそひそ話をはじめる。

「マヤ」
「は、はい」
「呆然としてる場合じゃないわよ。その子、検査にかけて頂戴」
「雪だるまの検査、ですか?」
「そう。CTでもレントゲンでもエコーでも何でもいいわ。とにかく内部構造が知りたいの」
「わ、わかりました」

 マヤは雪だるまの方に歩きかけ、振り返って言う。

「あの、どっちがどっちでしたっけ?」

 リツコはこめかみを揉む。

「二人とも連れて行きなさい」
「は、はい。……ね、ちょっとこっちに来て」
「かき氷、買ってくれる?」
「うん、いいわ。買ってあげる」
「わーい!」

 雪だるまたちは元気に答え、とことことマヤについて部屋を出た。

「綾波!今すぐ君を抱きたい!」
「・・・ええ、いいわ・・・・来て・・・」

 リツコが顔を上げると、二人の雪だるまを目の前にして現実逃避中のシンジとレイが意味不明な会話をしている。

「コーヒーでも飲む? カフェラテでもいれるけど?」
「いえ、結構です」

 シンジがやけにキッパリと断った。

「そう、残念ね。じゃあ、あたしだけ――」
「り、リツコさん、いつもコーヒーじゃ身体に悪いですよ」

 シンジが慌てたように言う。レイも心なしか青ざめている。

「た、たまには日本茶でもどうですか。僕、いれてきますよ」
「そう? じゃ、お願いしようかしら」
「わかりました。じゃあちょっと行ってきます。綾波、一緒に行こう」
「うん」

 二人が給湯室に去り、一人になったリツコは考え込む。

 あれが本当に雪だるまだとしたら――。

 誰かが作ったロボットなどではなく、本当の雪だるまであることを先に考えてしまう。

 局所的にエントロピーを減少させるのは難しいことではない。例えば冷蔵庫やエアコンがそうだ。もちろん大きな系で見れば熱力学第二法則に反しているわけではない。熱は必ず発生する。発生した熱は系の外に排出しなければ温度は上昇することになる。エアコンの室外機を部屋の中に設置するのと同じことだ。
 例えばリツコの作った雪だるまは体内に液体窒素を貯蔵し、それに加えてペルチェ素子、高効率のヒートポンプを組み合わせて身体全体を冷却しつつ、カカトの部分から排熱している。液体窒素を使い切ってもバッテリーが切れるまでは雪だるまの姿で行動が可能だが、バッテリーの消耗もカカトからの熱風も激しくなる。だが液体窒素を節約するためにはそれなりにバッテリーを使わなければならない。そこはバランスの問題になる。雪だるまがコンビニで充電させてもらったというのは、炎天下での行動で液体窒素及びバッテリーの残量に不安があったということだ。
 だが、単なる雪だるまであればそんな構造を持っているはずはない。あの雪だるまの熱収支はいったいどうなっているのだろうか。

 レイとシンジがお茶を持って戻ってきたことにも気づかず、リツコは考え続ける。

 完全に断熱してその姿を保っている可能性は、電源コネクタを確認したときに触れた手が冷たかった事実が否定している。
 では、雪だるまの中にマックスウェルの悪魔でもいて、内部に熱を溜め込んでいるとでもいうのか。だとすれば中心部はかなりな高温になっているはずだ。いずれは何らかの手段で排熱する必要があるだろう。そうしなければ際限なく温度が上昇することになるからだ。だがどうやって? 動力もなしに?
 リツコは考えるのをやめた。情報が少なすぎる。これでは考えていても仕方がない。まず内部構造を知って、話はそれからだ。誰かが作ったロボットであれば何の問題もない。

 問題は、雪だるまの姿をしていることよりも、感情を持っているかのように思える部分だ。このクラスのアルゴリズムを構築できるのは、日本ではおそらくリツコとマヤくらいしかいないだろう。世界を見渡しても五人はいるまい。それにあの雪だるまはリツコを知っていた。
 であるとすれば――。
 結論はひとつしかなかった。
 機密漏洩の可能性がある。
 だがいったい、誰が何のために? 他の何かならいざ知らず、雪だるまなど作って何になるというのか。

 ノックの音がしてドアが開く。

「失礼します!」

 マヤが戻ってきた。双子用のベビーカーに二人の雪だるまを乗せて。

「名前をつけました!」

 マヤが満面の笑顔で言う。

「こっちがゆきちゃんで、こっちがだるちゃんです!」

 雪だるまはそれぞれ首から名札をぶら下げ、こぼれそうな笑顔でイチゴ味のかき氷を食べている。

「……で、どっちがどっちなの?」

 リツコはこめかみにバツ印が浮かびそうになるのをこらえ、無理やり作った笑顔で聞いた。

「先輩の作った方がゆきちゃんで、レイちゃんの部屋に現れたのがだるちゃんです!」
「……それで?」
「なんでしょうか?」
「分析の結果は?」
「あ、はい」

 マヤもさすがに冷静さを取り戻した。

「結果的には、完全に、全く普通の雪だるまです」

 プリントアウトされた書類と数枚の画像をリツコに渡しながら言う。

「表面温度は−2度から−4度で非常に安定しています。部分的に熱を照射すると数秒間は温度の上昇が観測されますが、すぐに回復します。かなり高度なフィードバックシステムです。中心部は若干温度が高いのですが、それでも+1度は超えません。……あ、熱照射の前にはちゃんとだるちゃんに大丈夫かどうかは確認しました。へーきへーきって言ってました」
「……」
「構造的にも全くの雪だるまです。空気を多く含み、手で固めたような痕跡も見られます。動力源らしきものは見当たりません」
「……」

 リツコは絶句するしかなかった。

「ごちそうさま!」

 かき氷を食べ終えた雪だるまたちは、目と目を合わせて頷きあうとベビーカーから飛び降りた。絶句するリツコを尻目に、お盆にお茶を乗せたままひたすら突っ立っているレイとシンジのところに駆け寄る。

「ねーシンちゃん、最近、レイちゃんとはうまくいってるの?」
「……へ?」
「うん、ボクも心配してたんだ」

 LRS計画が発動したようだった。喋っているのはゆきちゃんだけではないが、移動中にでも打ち合わせをしたのだろう。漏洩して困るような機密は雪だるま自身は知らないはずだから、両者を会話させても不都合はない。雪だるまの存在そのものは機密と言えなくもないが。

「いや、うまくいってるって言うか、その……」
「どうなの?」
「なんていうか、その……」
「レイちゃん、どうなの? やさしくしてもらってる?」
「碇くんは、優しいわ」
「ちゅーはしてもらった?」
「ななななんてことを!」
「どーなのさ?」
「まだ……なの……」
「シンちゃん、どうしてちゅーしてあげないの?」
「いや、どうしてって言われても。困ったなぁ」
「こまることなんてなんにもないじゃん」

 雪だるま二人組が笑顔で責め立てる。リツコがいくつか用意した手法の中から、雪だるまは「うまくやってるのか聞きまくる戦法」を選択したようだった。

 リツコはその会話をぼんやりと聞きながら、はしゃぐ雪だるまたちと困り果てているシンジとレイを見るともなく見る。シンジは動揺を隠し切れていない。レイは頬をかすかに染め、それでいて少し不安げだ。かわいい、と思う。あのくらいの年頃の女の子はこうあるのがナチュラルだ。使徒戦のことを思えば奇跡に近い。本当に良かったと思う。リツコは知らず笑顔になっていた。

「ねえ、シンちゃんはレイちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「好きって言うか……まぁ……その……ははは」
「はっきりしないなぁ、もお」
「レイちゃんは? どうなの?」
「あたしは……その……」
「ほら。やっぱり男の子が先にはっきりしなきゃダメだよ」
「そ、そりゃそうだけど、こ、ここじゃ、その……」

 シンジは、にこにこと笑いながら聞いているマヤとリツコの様子を伺う。
 無理もない。こんな衆人環視の中で告白でもしようものなら、後になってどんなにからかわれるかわかったものではない。ミサトにも知れたも同然だ。

 リツコにもこんな年の頃があった。一昔以上前だが、忘れてしまうほどではない。だがセカンドインパクトで恋愛どころではなかった。生きて行くだけで必死だったのだ。あのくらいの年の頃に、可憐な、淡い恋をしてみたかったとリツコは思う。もしかすると、自分のできなかったことをシンジとレイに映しているのかもしれない。

 リツコはふと我に返った。LRS計画もいいが、今の彼女には解明しなければならない謎がある。レイのところに現われた雪だるま――だるちゃん――のことだ。場合によっては防諜システムを抜本的に見直す必要がある。機密が筒抜けになっている可能性があるのだ。
 だが、この雪だるまがどうやって動作しているのかわからない以上、手掛かりはゼロだ。動力源も見当たらず、どうやって熱収支を均衡させているのか、全くの謎だ。これでは永久機関が実現してしまう。それはありえないことだ。
 内部構造を秘匿する方法はいくつかある。例えばA.T.フィールドのようなシールドを展開して、分析機器に虚像を映し出すといったような。A.T.フィールドを人工的に展開する方法はまだ世界中のどこでも確立されていないはずだが、いずれにしてもマギの目を欺くのは並大抵のことではない。
 まずテューリングテストをするべきだと考えた。まさか知性があると判定される可能性はないだろうが、マシンであると判定される過程に、何かヒントがあるはずだ。

「だるちゃん、ちょっといいかしら?」

 リツコは、今はシンジをつんつんしている雪だるまに声をかけた。

「なに?」
「ちょっと調べたいことがあるの。付き合ってくれる?」
「かき氷、買ってくれる?」
「……よく食べるわね。いいわよ。買ってあげる」
「やった! 何でもてつだうよ! でも、なにをしらべるの?」
「あなたの内部構造。それから、誰に作られたのか」
「りっちゃんに作ってもらったんだよ。さっき言ったじゃん」
「知らないわよ。しつこいわね」
「ホントに覚えてないの?」
「覚えてないんじゃない、最初っから知らないの」
「さみしいなぁ。これでも思い出さない?」

 雪だるまは後ろを向いて背中を見せた。

「なによ、いったい」
「よく見てよ、ここ」

 短い手を伸ばし、雪だるまは背中の一点を指した。
 汚れか、手で雪を固めた跡かと思った。
 そうではなかった。

 そこには相合い傘と、小さな拙い字でリツコ、そしてアキラと書いてあった。

 リツコの頭の中で何かがスパークした。

 まさか、あり得ない。でも……。

 あれはもう二十五年も前、小学校に上がるか上がらないかの頃の話だ。
 その年の春、季節外れの大雪が降った。幼なじみのアキラと一緒に雪だるまを作った。

   ねえ、りっちゃん。
   なぁに?
   おおきくなったら、ぼくとけっこんしてよ。
   あきらくん、あたしのこと、すきなの?
   うん。ぼく、りっちゃんのこと、すきだよ。
   しあわせにしてくれる?
   ぜったいぜったい、しあわせにするよ!
   あたしも、アキラくんのこと、だーいすき!

 二人は雪だるまを作りながら誓った。幼い誓い。でも本気だった。
 相合い傘を書いて、二人の名前を刻んだ。アキラ、リツコ。

 小学校四年の頃だったろうか、アキラは転校した。しばらくは手紙のやり取りをしていたが、やがて年賀状と暑中見舞いだけになり、リツコの中でも幼い頃の思い出に変わって行った。
 そして訪れたセカンドインパクト。
 アキラは、もう生死すらわからない。

 そして、二人の誓いを刻んだ雪だるまも、あの日から一週間も経たずに溶けたはずだ。

 だがこの雪だるまには二人の誓いが刻まれている。そして、リツコに作られたと主張している。

「思い出した?」
「……アキラ君……は?」

 雪だるまは目を閉じ、しばらくしてから少し悲しそうに言った。

「わかんない……」

 リツコは目を閉じた。
 やはりセカンドインパクトで……。

「アキラ君には会えないけど、でもぼくは、りっちゃんに会いたかったからここにいるんだ」

 リツコは目を閉じたまま、その声を静かに聞いた。
 サードインパクト。
 人が自らの姿をイメージできれば、誰もがその姿に戻れる。疑いようのない事実だった。だがそれは科学の及ぶところではない。世界中の科学者は、すでにサードインパクトの解明をほぼ諦めていた。天地創造となれば宗教学者か哲学者の出番だろう。基本的な情報を記憶に頼るしかないのでは、客観的な判断は下せない。

 だが事実は事実として受け止めなければならない。雪だるまが自分の姿をイメージして還ってきたとして、何の不都合があるというのだ。この雪だるまは、もう一度リツコに会いたいと願ったのだ。この雪だるまは、あの頃のリツコの希望なのだ。

「りっちゃんもさ、いい人さがしなよ。レイちゃんとシンちゃんが結婚する前にさ」
「大きなお世話よ」
「いたっ!」

 リツコはあふれる涙を隠そうともせず、それでも笑顔で雪だるまの頭を小突いた。



 レイとシンジは毎日手を繋いで学校に通うようになった。キスはまだらしいが、互いの想いくらいは伝え合ったのだろうか。

 雪だるまたちは、ゆきちゃんはマヤの部屋で、だるちゃんはリツコの部屋で暮らしている。ペンペンと三人で毎日のように互いの部屋を行き来しては、公園で遊んだり冷蔵庫の中で昼寝をしたり、ミサトのビールを冷やしたりしている。
 そして、ゆきちゃんはかき氷の食べ過ぎでお腹を壊したり(そもそも何かを食べるようには出来ていない)、だるちゃんはゆきちゃん用の充電プラグを無理やり腰に差し込んで感電したりして、その度にリツコに世話を焼かせていた。

「無茶しないで。まったく」
「うー。だって、ゆきちゃん、気持ち良さそうだったし」

 氷嚢をあてがい、少し溶けてしまった腰部に自家製のかき氷――無論、シロップなどかけていない――を擦り込みながらリツコは思う。

 夏が来れば、この子はいなくなってしまうかもしれない。時の流れは幼子を大人に変えるものだ。
 でも冬になればまた帰って来るに違いない。だってこの子は、私とアキラの願いなのだから。願いは消えることなどないのだから。

 科学者としての幸せ。
 母親としての幸せ。
 女としての幸せ。

 自分はすべてを手に入れようと、彼女は誓った。


メンテ

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Re: なごり雪 ( No.1 )
日時: 2015/01/10 03:17
名前: tamb

2005年7月に赤幸に投稿したもの。様々な事情により今回が初出。しかし十年前だよー。
加筆修正は一切なし。なんかお題みたいなのがあったような気がするけど忘れた。

メンテ
Re: なごり雪 ( No.2 )
日時: 2015/01/11 04:07
名前: tamb

ちょっと思い出したので補足。
本文中一部元ネタはパッケラさんの「リツコさんの『おもてなし』」から。
http://ayasachi.sweet-tone.net/cont/pakkera/omotenashi_mod.htm

オリンピックが絡みでおもてなしブームですが、このパッケラさんの先見の明はどうだ!
これも2005年5月の作品だぞ!

ちなみに「赤幸」とは「赤木リツコの幸せ」のことです。
http://ayasachi.sweet-tone.net/cont/pakkera/neta/rituko.html
メンテ
Re: なごり雪 ( No.3 )
日時: 2015/01/11 13:16
名前: のの

ちゃんと正式公開すれば良いのに!

もちろん動く雪だるまというお話は古くからありますが、ここまでアナ雪のオラフに似てると驚きを通り越して笑えてきますね。
ちなみにオラフは「無垢だけど声がおっさん」というところに「このキャラクターは成長しない」という意味が込められていると思います。プ
ーさんもそうだから、多分ディズニー的には珍しい手法ではないはず。

でもでもなんにせよ、tambさんのお話を久々に読めてよかったです。
今年もよろしくお願いします。
メンテ
Re: なごり雪 ( No.4 )
日時: 2015/01/14 10:55
名前:

ネルフに着いてから、シンジと綾波とゆきだるまが並んで歩いていたのを妄想してほのぼのとしつつ、この世界でのリツコさんには誰かと一緒になれるもう一つの幸せな未来が来たらいいな、と思いました。

あと、エヴァのゲームでマヤの補完EDが、青葉といい雰囲気になるものだったな、と思い出したり、現役使徒という文字の並びに笑ってしまったりと色々と楽しませていただきました。


個人的にとても気に入ったお話でしたので、コメントを寄せさせていただきました。
素敵なお話をありがとうございます。
メンテ
Re: なごり雪 ( No.5 )
日時: 2015/01/24 04:21
名前: tamb

ありがとうございますー。

これはあれですね、やっぱ十年前に書いた話なんで、投稿ものだったということを別にしてもなかなか今更正式ってのもね(笑)。
アナ雪ってのは実は全然知らないんですが、外見的には違うみたいなんで、似てるというのはキャラのことだと思うんですが、ぶっちゃけこの話の雪だるまのキャラ設定なんてステレオタイプ以外の何物でもないぞ、と思ったがつまりこういうキャラのルーツがディズニーだということか! さすがディズニー、恐るべし。


> シンジと綾波とゆきだるまが並んで歩いて

雪だるまはきっと歩くのが遅いです。足が異常に短いので(笑)。

> 現役使徒という文字の並びに

私も結構好きなので(笑)、かなり多用してます。
メンテ

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