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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/07/27 17:07 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
確かに、いろんなところでいろんな人が書いてる(ような気がする)けれど、振り返ればQは良くできた作品でした。あれがあったから、という部分は確かにあります。しかし
>取り憑かれた者たちを解放するものではなかったかな、と個人的には感じます。
これなんですよ。解放されなかったし卒業できなかった。それは何故なのか。解放された人に聞いてみたい。なぜなのか、と。解放された人の方が多数派な気もしますが(笑)。というかなんで我々は卒業できなかったのか。
>人形に頭を撫でられているアスカの隣はやっぱりカヲル君だよなあ、とか。
それなんですよ!
>取り憑かれた者たちを解放するものではなかったかな、と個人的には感じます。
これなんですよ。解放されなかったし卒業できなかった。それは何故なのか。解放された人に聞いてみたい。なぜなのか、と。解放された人の方が多数派な気もしますが(笑)。というかなんで我々は卒業できなかったのか。
>人形に頭を撫でられているアスカの隣はやっぱりカヲル君だよなあ、とか。
それなんですよ!
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/07/25 23:12 |
投稿者 | : aba-m.a-kkv |
参照先 | : |
シン・エヴァ、本当は観ないまま終わろうと思っていたんですが、綾幸20周年に触れたことで心変わり。
最終週の地元の映画館はシン・エヴァを見届けたい人でいっぱいだったのか予約が取れず、
上映終了の21日を越えてやってくれていた新宿の劇場に足を運んで見届けてきました。
観終わった感想としては、見届けられたのかな、という感じ。
疑問形ではなく、落ち着いたというような、「見届けられたのかな」
エンドロール後の続報がない、終劇、というのがまた感慨深いものがあります。
ただ、個人的にエヴァが“終わった”という感触は全然なかったですね。
これもまた、エヴァという未完の物語の一つの終劇の形という感じでしょうか。
でも、庵野さんという人がバラまいたエヴァという物語は、庵野さんの終劇を迎えたのだろう、とも思います。
Qでどうなるかと思いましたが、うまく纏めてきた(というと高飛車というか本質を捉えてはいないような気がしますが)印象はありました。
ただまあ、凄まじい展開と設定でしたね。
逆に言えばここまでしなければ、本編だけでなくすべてのエヴァという物語全体を終劇に持っていくことは出来なかったのかなとも推察します。
(そう考えるとQはまあ納得、ですが、シン・エヴァの最初の五分的な位置づけだったのかなと(もともと3部作の予定じゃなかったでしたっけ))
しかして、その分大量の謎や解釈や物語をバラまいていったのですが、それもまた、エヴァという物語らしいのかなと思います。
「さよならすべてのエヴァンゲリオン」はエヴァに取り憑かれた庵野さんの別れの言葉あるいは願望のようにも聞こえました。
私は貞元版から入ったタイプなので、リアルで本編を見たわけではない後発組なわけですが、それでも20年以上接してきた物語の終劇に立ち会えたのは感慨深い思いです。
世の中に作品はたくさんありますが、「見届けられて良かった」と感じられる作品は多くないので、観に行って良かったなと思います。
しかして、内容は、取り憑かれた者たちを解放するものではなかったかな、と個人的には感じます。
長年見てみたかった表情とかが見れたのは僥倖でしたが、筆を置かせるものとは違うかな、と(9年も書いてないで何言ってんだという感じですが)
長い髪のレイが出てくることは事前に知っていたのですが、シン・エヴァでの登場は予想を超えるものではなくて、違う視点の話が書けそうだなあ、とか。
人形に頭を撫でられているアスカの隣はやっぱりカヲル君だよなあ、とか。
エヴァにはまだまだ取り憑かれています。
最終週の地元の映画館はシン・エヴァを見届けたい人でいっぱいだったのか予約が取れず、
上映終了の21日を越えてやってくれていた新宿の劇場に足を運んで見届けてきました。
観終わった感想としては、見届けられたのかな、という感じ。
疑問形ではなく、落ち着いたというような、「見届けられたのかな」
エンドロール後の続報がない、終劇、というのがまた感慨深いものがあります。
ただ、個人的にエヴァが“終わった”という感触は全然なかったですね。
これもまた、エヴァという未完の物語の一つの終劇の形という感じでしょうか。
でも、庵野さんという人がバラまいたエヴァという物語は、庵野さんの終劇を迎えたのだろう、とも思います。
Qでどうなるかと思いましたが、うまく纏めてきた(というと高飛車というか本質を捉えてはいないような気がしますが)印象はありました。
ただまあ、凄まじい展開と設定でしたね。
逆に言えばここまでしなければ、本編だけでなくすべてのエヴァという物語全体を終劇に持っていくことは出来なかったのかなとも推察します。
(そう考えるとQはまあ納得、ですが、シン・エヴァの最初の五分的な位置づけだったのかなと(もともと3部作の予定じゃなかったでしたっけ))
しかして、その分大量の謎や解釈や物語をバラまいていったのですが、それもまた、エヴァという物語らしいのかなと思います。
「さよならすべてのエヴァンゲリオン」はエヴァに取り憑かれた庵野さんの別れの言葉あるいは願望のようにも聞こえました。
私は貞元版から入ったタイプなので、リアルで本編を見たわけではない後発組なわけですが、それでも20年以上接してきた物語の終劇に立ち会えたのは感慨深い思いです。
世の中に作品はたくさんありますが、「見届けられて良かった」と感じられる作品は多くないので、観に行って良かったなと思います。
しかして、内容は、取り憑かれた者たちを解放するものではなかったかな、と個人的には感じます。
長年見てみたかった表情とかが見れたのは僥倖でしたが、筆を置かせるものとは違うかな、と(9年も書いてないで何言ってんだという感じですが)
長い髪のレイが出てくることは事前に知っていたのですが、シン・エヴァでの登場は予想を超えるものではなくて、違う視点の話が書けそうだなあ、とか。
人形に頭を撫でられているアスカの隣はやっぱりカヲル君だよなあ、とか。
エヴァにはまだまだ取り憑かれています。
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/06/19 15:11 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
見てきた。特典もらえた。
初見時よりも、作品として遥かにちゃんとしているという印象。泣いてしまうシーンが減ったからかな(笑)。
新宇部川駅に喫煙所があった。ということは、時間軸的には何年くらいなんだろう。どうでもいいか。
アスカがむちゃくちゃ頑張ってる。彼女が報われないのは理不尽である。
ラストシーンも普通に乗り越えられる。
特典の例の絵も、実物を見るとそれなりのインパクトはある。でもやはり、だから? という話ではある。
また後で何か書くかも。
初見時よりも、作品として遥かにちゃんとしているという印象。泣いてしまうシーンが減ったからかな(笑)。
新宇部川駅に喫煙所があった。ということは、時間軸的には何年くらいなんだろう。どうでもいいか。
アスカがむちゃくちゃ頑張ってる。彼女が報われないのは理不尽である。
ラストシーンも普通に乗り越えられる。
特典の例の絵も、実物を見るとそれなりのインパクトはある。でもやはり、だから? という話ではある。
また後で何か書くかも。
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/06/18 00:27 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
tambさん、有り難うございます!
やっとの思いでシンエヴァを観てきました。
終劇まで残すところあと僅かというタイミングで取得できた久しぶりの休日。
巷に聞く噂もあり、果たしてどんなふうに終わらせてくれるのかなーと、
然程ワクワク感を感じることもなく、清々しいほどに落ち着いた気持ちで
劇場に向かいました。
そして怒涛の如くの165分が過ぎ観劇終了。
映画としてはとても楽しく観劇させていただきました。
一貫して流れるテーマは成長と進歩でしょうか。
総監督がすべての観劇者にとても分かりやすくアプローチしているようにも。
そしてその中枢で当然に主人公たるシンジくんは成長を遂げていくことになる訳ですが、
彼の著しい成長へのトリガーが黒波さんの死というのは正直こたえました…。
黒波さんは前作のQでMark09から脱出したくだりから自我の発露が見て取れたと記憶しているのですが、
最期のステージで彼女にとって大きなお役目があったってことなんですね…。
シンエヴァで、あの村で色々な人との関わりや体験を経て、花が咲いたように普通の女の子になって、
そして自分の居場所を見つけることができた黒波さん。
生体維持の限界まで懸命に生きた彼女の生き様を目の当たりにして、シンジくんは彼女が愛した村を
守るためにも向き合う心を取り戻したんですよね。
でも、黒波さんの最期のコトバはホントに効きました。
「稲刈りやってみたかった。ツバメをもっと抱っこしたかった。好きな人とずっと一緒にいたかった…さよなら」
もう涙腺崩壊です。(こんなんアカンやん、反則ですやん)
直近に完結させたpiece to Peaceという拙作で黒波さんが主人公だっただけに感情移入が
半端なかったかもです。
ここからは半ば憔悴状態で記憶も断裂気味ですが(笑)、初号機のエントリープラグでレイに再開できた
時には大いに歓喜した訳ですが、アッサリめの絡みでガッカリ。
シンジくん、ニアサを起こしてまで助けようとしたポカポカレイちゃんだよー。
君がエヴァに乗らなくていいようにするって髪も切らずにずっとエントリープラグを温めてたんだよー。
LRS人は破の続きレベルのハグを妄想し補完されたに違いありません。
ラストの各々登場人物へのテンポの良い総括は、一切の妄想を公式では否定するからね、
さあみんなこれが最期だよみたいな明快なる庵野さんのメッセージ。
そのための卒論だったのでしょうか。
劇場を後にする時にはもやもやとした熱量の上昇とともに、終わらせて貰ったとは程遠い実感が…。
あと衝撃的だったのは、サードインパクトを止めたのは加持さんだったということ。
piece to PeaceもQ準拠でしたので妄想と次回予告編の画像などで色々と仮説を立てたのですが
見事に外れていました。加持さんはやはりカッコいい最期だったに相違なく、その妄想だけでFFが書けそうです。
そして驚いたのは渚司令。仮説が的中したわけですが、サードインパクトに至る第11使徒戦と第12使徒戦では
渚司令は心身共に苦しんだ筈、なんてこちらも公式に反し妄想が膨らんできます。
それにしても、シンエヴァ観る前に拙作を完結させてホントに良かったです。
やっとの思いでシンエヴァを観てきました。
終劇まで残すところあと僅かというタイミングで取得できた久しぶりの休日。
巷に聞く噂もあり、果たしてどんなふうに終わらせてくれるのかなーと、
然程ワクワク感を感じることもなく、清々しいほどに落ち着いた気持ちで
劇場に向かいました。
そして怒涛の如くの165分が過ぎ観劇終了。
映画としてはとても楽しく観劇させていただきました。
一貫して流れるテーマは成長と進歩でしょうか。
総監督がすべての観劇者にとても分かりやすくアプローチしているようにも。
そしてその中枢で当然に主人公たるシンジくんは成長を遂げていくことになる訳ですが、
彼の著しい成長へのトリガーが黒波さんの死というのは正直こたえました…。
黒波さんは前作のQでMark09から脱出したくだりから自我の発露が見て取れたと記憶しているのですが、
最期のステージで彼女にとって大きなお役目があったってことなんですね…。
シンエヴァで、あの村で色々な人との関わりや体験を経て、花が咲いたように普通の女の子になって、
そして自分の居場所を見つけることができた黒波さん。
生体維持の限界まで懸命に生きた彼女の生き様を目の当たりにして、シンジくんは彼女が愛した村を
守るためにも向き合う心を取り戻したんですよね。
でも、黒波さんの最期のコトバはホントに効きました。
「稲刈りやってみたかった。ツバメをもっと抱っこしたかった。好きな人とずっと一緒にいたかった…さよなら」
もう涙腺崩壊です。(こんなんアカンやん、反則ですやん)
直近に完結させたpiece to Peaceという拙作で黒波さんが主人公だっただけに感情移入が
半端なかったかもです。
ここからは半ば憔悴状態で記憶も断裂気味ですが(笑)、初号機のエントリープラグでレイに再開できた
時には大いに歓喜した訳ですが、アッサリめの絡みでガッカリ。
シンジくん、ニアサを起こしてまで助けようとしたポカポカレイちゃんだよー。
君がエヴァに乗らなくていいようにするって髪も切らずにずっとエントリープラグを温めてたんだよー。
LRS人は破の続きレベルのハグを妄想し補完されたに違いありません。
ラストの各々登場人物へのテンポの良い総括は、一切の妄想を公式では否定するからね、
さあみんなこれが最期だよみたいな明快なる庵野さんのメッセージ。
そのための卒論だったのでしょうか。
劇場を後にする時にはもやもやとした熱量の上昇とともに、終わらせて貰ったとは程遠い実感が…。
あと衝撃的だったのは、サードインパクトを止めたのは加持さんだったということ。
piece to PeaceもQ準拠でしたので妄想と次回予告編の画像などで色々と仮説を立てたのですが
見事に外れていました。加持さんはやはりカッコいい最期だったに相違なく、その妄想だけでFFが書けそうです。
そして驚いたのは渚司令。仮説が的中したわけですが、サードインパクトに至る第11使徒戦と第12使徒戦では
渚司令は心身共に苦しんだ筈、なんてこちらも公式に反し妄想が膨らんできます。
それにしても、シンエヴァ観る前に拙作を完結させてホントに良かったです。
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/06/15 21:50 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
上げとくー
caluさん用に(笑)
caluさん用に(笑)
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/03/17 22:43 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
画像が表示されない。どこかのパスとかパーミッションとか、要するに設定が間違ってるのか。うーむ。
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/03/17 22:15 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
オフィシャルで公開だけど一応こっちに。
田植えレイちゃん。この破壊力。ぶっちゃけ、こんなにべたなシーンはあの頃でも書けなかったと思う。
https://twitter.com/evangelion_co/status/1371234691504861186
田植えレイちゃん。この破壊力。ぶっちゃけ、こんなにべたなシーンはあの頃でも書けなかったと思う。
https://twitter.com/evangelion_co/status/1371234691504861186
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/03/16 01:15 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
わたしはテレビ本放送は通っておらず、いわゆる旧エヴァ――春エヴァの直前になされた三夜連続再放送から入ったクチで、つまり97年から参戦したことになる。それでも実に24年。あまりに長い。サイト開設からでも20年(!)だ。
こういうことは意図してあまり語らなかったのだが、当時から家に帰るとアスカ様がとか言ってたように、同伴者がいた。今もいる。わたしも五十半ばを過ぎた。子供はこの4月に高校生になる。彼とも妻ともこの数年まともに口をきいていない。当時経営していた会社はディラックの海に飲み込まれた。妻から投げつけられた言葉は忘れる事はないだろうし、忘れるつもりもない。
24年というのはこういう歳月だ。
こんなことはどこにでもある、ありきたりといってもいいくらいの良くある話で、例えば十年以上も音信不通だった親が生活保護を申請して扶養照会が来て困惑しているとか、扶養照会されたことを知って自殺したなんて地獄もある。
庵野秀明が壊れていたというのは、ある意味では壊れていてもいいくらいの経済的成功に恵まれたからであり、それはもちろん優れた才能ととてつもない努力があったからだろうが、言うまでもなく運もある。才能のあるなしは本人にはコントロールできない。率直に言って、こっちは壊れてる暇なんかなかった。
そして彼が壊れた状態から回復できたのは、ひとつには「みんな優し」かったからというのもあるだろう。恵まれていたとしか言いようがない。
結局、シンエヴァが庵野秀明の私小説であるとか、安野モヨコ≒マリだとかいうのは、ある意味ではどうでもいいことに過ぎない。彼が自分の中のエヴァンゲリオンにケリをつけたからといって、わたしもまた卒業する――卒業できるかどうかは全く別の問題だ。
わたしはレイを指して「グレた妹」と言っていた。この表現が適切かどうかは難しいが、つまり恋愛対象ではないが放っては置けないし幸せになって欲しい人物、という意味だ。
年齢的にはミサト、リツコ、加持のラインに近かったが、その三人を含めて登場人物にシンクロしたり自己を重ねたこともなかった。そう考えると、なぜこんなにハマったのかが不思議ではある。ただ、レイは幸せにならねばならんと強く思ったのは間違いないはずだ。それがなぜなのかはわからない。
エヴァとは、虚構から離脱して現実に帰る、ということを結果的に強く意識せざるを得なかった物語だと思う。ある意味で偶然に出来てしまった、あまりにも強度の高い虚構。囚われてしまった者たちはそこから離脱するためにあがき、独自の物語を構築し、あるいは壊れてしまった。
だがパートナーを選びあるいは選ばれて虚構から離脱し現実に帰るという、あまりにも、あえて言えばありきたりな結論は、わたしたちが20年以上前に立っていた場所ではないのか。ヒカリのセリフを借りるまでもない。今日と同じ明日が来るということの幸せはよくわかる。だがわたしたちはあの時すでにそこに立っていたのではないか。
だからこそ、現実に帰り、虚構の中に閉じこもって――現実逃避という力で対抗するのではなく、パートナーと共に――人は一人では生きられない――社会と接続されるべきなのだ、というメッセージは受け止めつつも、シンジはなぜエヴァに乗り、そして降りたのかを考えるべきなのではないのか。エヴァに乗らなければ価値がないとまで信じていた彼がなぜエヴァを降りたのかを。そして登場人物――綾幸レイの幸せの形とは何なのかを。
社会とは他人の存在を認めるということだ。他人の瞳に映る自分の姿。他人の中にいる自分。自分の中にいる他人。あり得る自分の姿というのは社会の中にしかない。その中で作り上げていくものだ。自分の中にあるものを、社会の中で構築して行くものだ。
それが始まりで、わたしはそこから一歩も動いてはいないのだ。電車から降りたその先に、立ち向かい生きてゆくべき現実はある。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
さようならは、また会うためのおまじないだ。
まとまらなかったし言葉足らずで意味不明だが力尽きた。
こういうことは意図してあまり語らなかったのだが、当時から家に帰るとアスカ様がとか言ってたように、同伴者がいた。今もいる。わたしも五十半ばを過ぎた。子供はこの4月に高校生になる。彼とも妻ともこの数年まともに口をきいていない。当時経営していた会社はディラックの海に飲み込まれた。妻から投げつけられた言葉は忘れる事はないだろうし、忘れるつもりもない。
24年というのはこういう歳月だ。
こんなことはどこにでもある、ありきたりといってもいいくらいの良くある話で、例えば十年以上も音信不通だった親が生活保護を申請して扶養照会が来て困惑しているとか、扶養照会されたことを知って自殺したなんて地獄もある。
庵野秀明が壊れていたというのは、ある意味では壊れていてもいいくらいの経済的成功に恵まれたからであり、それはもちろん優れた才能ととてつもない努力があったからだろうが、言うまでもなく運もある。才能のあるなしは本人にはコントロールできない。率直に言って、こっちは壊れてる暇なんかなかった。
そして彼が壊れた状態から回復できたのは、ひとつには「みんな優し」かったからというのもあるだろう。恵まれていたとしか言いようがない。
結局、シンエヴァが庵野秀明の私小説であるとか、安野モヨコ≒マリだとかいうのは、ある意味ではどうでもいいことに過ぎない。彼が自分の中のエヴァンゲリオンにケリをつけたからといって、わたしもまた卒業する――卒業できるかどうかは全く別の問題だ。
わたしはレイを指して「グレた妹」と言っていた。この表現が適切かどうかは難しいが、つまり恋愛対象ではないが放っては置けないし幸せになって欲しい人物、という意味だ。
年齢的にはミサト、リツコ、加持のラインに近かったが、その三人を含めて登場人物にシンクロしたり自己を重ねたこともなかった。そう考えると、なぜこんなにハマったのかが不思議ではある。ただ、レイは幸せにならねばならんと強く思ったのは間違いないはずだ。それがなぜなのかはわからない。
エヴァとは、虚構から離脱して現実に帰る、ということを結果的に強く意識せざるを得なかった物語だと思う。ある意味で偶然に出来てしまった、あまりにも強度の高い虚構。囚われてしまった者たちはそこから離脱するためにあがき、独自の物語を構築し、あるいは壊れてしまった。
だがパートナーを選びあるいは選ばれて虚構から離脱し現実に帰るという、あまりにも、あえて言えばありきたりな結論は、わたしたちが20年以上前に立っていた場所ではないのか。ヒカリのセリフを借りるまでもない。今日と同じ明日が来るということの幸せはよくわかる。だがわたしたちはあの時すでにそこに立っていたのではないか。
だからこそ、現実に帰り、虚構の中に閉じこもって――現実逃避という力で対抗するのではなく、パートナーと共に――人は一人では生きられない――社会と接続されるべきなのだ、というメッセージは受け止めつつも、シンジはなぜエヴァに乗り、そして降りたのかを考えるべきなのではないのか。エヴァに乗らなければ価値がないとまで信じていた彼がなぜエヴァを降りたのかを。そして登場人物――綾幸レイの幸せの形とは何なのかを。
社会とは他人の存在を認めるということだ。他人の瞳に映る自分の姿。他人の中にいる自分。自分の中にいる他人。あり得る自分の姿というのは社会の中にしかない。その中で作り上げていくものだ。自分の中にあるものを、社会の中で構築して行くものだ。
それが始まりで、わたしはそこから一歩も動いてはいないのだ。電車から降りたその先に、立ち向かい生きてゆくべき現実はある。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
さようならは、また会うためのおまじないだ。
まとまらなかったし言葉足らずで意味不明だが力尽きた。
件名 | : Re: 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を語るスレ/ネタバレOK |
投稿日 | : 2021/03/14 16:26 |
投稿者 | : のの |
参照先 | : |
本日、としまえんIMAXで2度目を見てきました。
そろそろ、少し言語化しておいた方がいいのかなと思いました。
碇シンジ=庵野秀明、という補助線を引けば、大量のリファレンスとハイコンテクストな構成だというのは比較的よくわかる。
「エヴァに乗る」=「エヴァを作る」だと捉えれば『序』におけるヤシマ作戦でのシンジの意志は、再びエヴァを作ることを決めた庵野さん自身の姿であると理解できる。
こうした補助線と同じ引き方をすれば、おそらく眼鏡っ娘は安野モヨコさんなのだろう。
新劇場版を作ることを決め、その成果とバックラッシュと未達成な感覚(エヴァが本質的に95年の『本編再構成』である以上、いくら作っても理想的結末を描こうとも飢餓感が満たされない気持ちは、エヴァの二次創作をし続けていた自分にもよく似た感覚があったので、ささやかながらに理解できる気がする。聖典化された26話を脱構築するために、重要な分岐である19話にて主人公をヒーローにしたのも含めて)と日本に起きてしまった3.11(加速するグローバル化の中で急浮上したローカルな課題)といったものがごちゃ混ぜになった2012年の『Q』は『破』どころではないバックラッシュを引き起こした。
ちなみに同年、僕自身は結婚した。様々な意味で状況が変わっていって、生きていく方向性を模索しはじめた中でしっちゃかめっちゃかな『Q』は、自分自身の志とまったく異なるため、急速にエヴァへの熱が冷めていったのをよく覚えている。
あれから8年。
2015年という特別な年に、自分に娘が生まれた。その2年後には息子も。
今だから言うけれど、僕は心の中で『娘だったらレイじゃだめだろうか』と何度も思っていた。
でもきっと、それをしたらいけないと解っていた。妻と二人で定期開催したわが子の命名会議は第5回くらいで2つまで絞られて、生まれた日に顔を見て決めた。
2021年。
娘と息子が5歳と3歳になって、僕は36になっている。
13歳だった子供が中間管理職になって毎日ヘトヘトになって働いている中でエヴァンゲリオンが終わるという。
コロナという停滞を経て、2020年の庵野秀明がどういうモードなのか?
その興味だけで劇場へ向かった。ストーリーはどうでもよくなっていた。
なぜならそれは『Q』で監督自身が匙を投げたものだからだ。だから関心は監督がエヴァにどう向き合おうとしたのか、ということだった。
作品としてのそれは、碇シンジがエヴァとどう向き合うのか、ということでもある。
155分を見終えたとき僕は率直に、良かった、と思った。
エヴァのない世界を選ぶ。碇シンジが幸せになるゴールがそれしかないことは、貞本エヴァでもそうだった。
97年でもそうだった、そういう意味では確かにこの物語は『新劇場版』とはいえ『エヴァンゲリオン』で、まさしく本編再構築の二次創作だった。
作者本人による二次創作だ、と2007年の時思ったそのままだ。
予想外でもなんでもない。強いて言うなら「マリが安野モヨコで、シンジ君のミューズだったのか」ということだけは意外だった。
でも綾波レイではないことはわかっていた。
この物語には最初から、彼女と渚カヲルが生きる世界が用意されていない。
それが用意されただけで、庵野さんは綾波レイと渚カヲルに対する落とし前をつけたので、提示してくれた物語は十分すぎるほどだ。
僕は13歳に彼や彼女の物語を垣間見て、その不幸せと憤りと焦りと不安と怒りと悲しみを、僕は僕の手でなんとかしたかった。
いろんな形をとった。
自分が知るほかの物語と組み合わせて、強さを持たせてこねくり回してどうにか幸せの形を作ったこともある。
『ささやかで、大それた幸せ』を味わってほしかった。
あなたも死ぬ必要はない。
あなたにいてほしいと思い続けたのも、それはどこかで自分の存在に対する不安や焦りを解消したかったのかもしれない。
あれから23年たって、僕は36になっている。
妻も娘も息子も、あきれるほど存在している。
自分が存在していることも、その人たちの瞳に移る自分でわかる。
エヴァンゲリオンは『瞳』の物語だ。ことあるごとに登場人物の瞳だけが現れる。
『シン・エヴァンゲリオン』の少年少女には、重ねるべき自分はいなかった(いたのは碇ゲンドウだけだ。社会の中でもがく姿に驚くほど自分を重ねてしまった)。
シンジもレイもアスカも、驚くほど自分にとって他人で、自己に重ねる対象ではなくなっていた。
ただ、彼らの瞳を見つめる時、彼らの瞳に自分が映っている。
だから、彼らの瞳を見つめる時、僕の瞳に彼らが映っているはずだ。
娘や息子の瞳に、泣いたり笑ったりする自分がいるように。
君たちの幸せをただただ願う。
そう願うことができたことが、なによりも嬉しい。
シンジ君、レイ、あなたたちは僕とは違う他人だね。
だからこそ、愛してるよ。
そろそろ、少し言語化しておいた方がいいのかなと思いました。
碇シンジ=庵野秀明、という補助線を引けば、大量のリファレンスとハイコンテクストな構成だというのは比較的よくわかる。
「エヴァに乗る」=「エヴァを作る」だと捉えれば『序』におけるヤシマ作戦でのシンジの意志は、再びエヴァを作ることを決めた庵野さん自身の姿であると理解できる。
こうした補助線と同じ引き方をすれば、おそらく眼鏡っ娘は安野モヨコさんなのだろう。
新劇場版を作ることを決め、その成果とバックラッシュと未達成な感覚(エヴァが本質的に95年の『本編再構成』である以上、いくら作っても理想的結末を描こうとも飢餓感が満たされない気持ちは、エヴァの二次創作をし続けていた自分にもよく似た感覚があったので、ささやかながらに理解できる気がする。聖典化された26話を脱構築するために、重要な分岐である19話にて主人公をヒーローにしたのも含めて)と日本に起きてしまった3.11(加速するグローバル化の中で急浮上したローカルな課題)といったものがごちゃ混ぜになった2012年の『Q』は『破』どころではないバックラッシュを引き起こした。
ちなみに同年、僕自身は結婚した。様々な意味で状況が変わっていって、生きていく方向性を模索しはじめた中でしっちゃかめっちゃかな『Q』は、自分自身の志とまったく異なるため、急速にエヴァへの熱が冷めていったのをよく覚えている。
あれから8年。
2015年という特別な年に、自分に娘が生まれた。その2年後には息子も。
今だから言うけれど、僕は心の中で『娘だったらレイじゃだめだろうか』と何度も思っていた。
でもきっと、それをしたらいけないと解っていた。妻と二人で定期開催したわが子の命名会議は第5回くらいで2つまで絞られて、生まれた日に顔を見て決めた。
2021年。
娘と息子が5歳と3歳になって、僕は36になっている。
13歳だった子供が中間管理職になって毎日ヘトヘトになって働いている中でエヴァンゲリオンが終わるという。
コロナという停滞を経て、2020年の庵野秀明がどういうモードなのか?
その興味だけで劇場へ向かった。ストーリーはどうでもよくなっていた。
なぜならそれは『Q』で監督自身が匙を投げたものだからだ。だから関心は監督がエヴァにどう向き合おうとしたのか、ということだった。
作品としてのそれは、碇シンジがエヴァとどう向き合うのか、ということでもある。
155分を見終えたとき僕は率直に、良かった、と思った。
エヴァのない世界を選ぶ。碇シンジが幸せになるゴールがそれしかないことは、貞本エヴァでもそうだった。
97年でもそうだった、そういう意味では確かにこの物語は『新劇場版』とはいえ『エヴァンゲリオン』で、まさしく本編再構築の二次創作だった。
作者本人による二次創作だ、と2007年の時思ったそのままだ。
予想外でもなんでもない。強いて言うなら「マリが安野モヨコで、シンジ君のミューズだったのか」ということだけは意外だった。
でも綾波レイではないことはわかっていた。
この物語には最初から、彼女と渚カヲルが生きる世界が用意されていない。
それが用意されただけで、庵野さんは綾波レイと渚カヲルに対する落とし前をつけたので、提示してくれた物語は十分すぎるほどだ。
僕は13歳に彼や彼女の物語を垣間見て、その不幸せと憤りと焦りと不安と怒りと悲しみを、僕は僕の手でなんとかしたかった。
いろんな形をとった。
自分が知るほかの物語と組み合わせて、強さを持たせてこねくり回してどうにか幸せの形を作ったこともある。
『ささやかで、大それた幸せ』を味わってほしかった。
あなたも死ぬ必要はない。
あなたにいてほしいと思い続けたのも、それはどこかで自分の存在に対する不安や焦りを解消したかったのかもしれない。
あれから23年たって、僕は36になっている。
妻も娘も息子も、あきれるほど存在している。
自分が存在していることも、その人たちの瞳に移る自分でわかる。
エヴァンゲリオンは『瞳』の物語だ。ことあるごとに登場人物の瞳だけが現れる。
『シン・エヴァンゲリオン』の少年少女には、重ねるべき自分はいなかった(いたのは碇ゲンドウだけだ。社会の中でもがく姿に驚くほど自分を重ねてしまった)。
シンジもレイもアスカも、驚くほど自分にとって他人で、自己に重ねる対象ではなくなっていた。
ただ、彼らの瞳を見つめる時、彼らの瞳に自分が映っている。
だから、彼らの瞳を見つめる時、僕の瞳に彼らが映っているはずだ。
娘や息子の瞳に、泣いたり笑ったりする自分がいるように。
君たちの幸せをただただ願う。
そう願うことができたことが、なによりも嬉しい。
シンジ君、レイ、あなたたちは僕とは違う他人だね。
だからこそ、愛してるよ。