第弐拾六話、其乃伍

箱根町の歴史は古く、千年以上前から利用されている。平安時代には合戦があり、江戸時代は関所が設けられるなど山に囲まれた地形は交通の要であった。温泉地としての評判はその頃からあり、名だたる武将を始め多くの政治家も訪れる日本屈指の名所であり観光地だ。温泉番付なるものまで存在していれば、いかにひとびとから親しまれていたのかが窺えよう。一般的に泉質は神経痛や関節痛、冷え性などに対して効能があるが、やはり風光明媚な景観を眺める内懐こそもっともひとを癒した。

創業数百年を誇る老舗旅館は山の中腹にあり、芦ノ湖まで遮るものがひとつもない絶景を拝める。そしてすぐ傍には霊峰が(そび)えていた。使徒の侵攻および最終決戦の際にも被害がおよぶことなく昔年(せきねん)の面影をそのままに、いまなお訪れる湯治客を迎えている。

「いや……こんなの映画でしか見たことないよ」

玄関に入る前から尻込みしているシンジが旅館の外観を見あげて言った。建築様式などさっぱりだが彼の目には神社仏閣と変わらない。敷地の入り口からしておかしいと思ってはいたが、ここは本当にひとが入っていいのだろうかとあたりを窺う。拝観料などという言葉が脳裏を掠めた。

「とても歴史ある建物で、文化財にも指定されているそうよ」

いっぽう、隣のレイは堂々としている。高いところから見下ろしているかのように足を竦ませている彼とは対照的に背筋を伸ばし、早く中へ入ろうと言わんばかりにシンジを目線で促す。

「ここで間違いない……んだよね?」
「ええ。問題ないわ」

シンジは黒塗りにスモークフィルムの貼ってあるセダンを振り返るが、さっさと駐車場へ向かってしまった。車そのものはパイロットであるときから何度も乗ってるが、今日この場所という状況が芸能人を彷彿とさせてなにかのドッキリ企画ではないかと疑いたくなる。

「な、中に入ろうか」
「ふふっ、緊張しなくても平気よ。案内されるままにしていればいいわ」

そうやってレイに手を引かれ玄関をくぐればくぐったで、ずらりと仲居が並び深々と頭をさげるものだから、シンジはいそいそと靴を脱いでへこへことさげ返す。帳場までの距離すら遠く、彼女がチェックインの手続きをしている間も居心地が悪い。

外は雲ひとつない快晴だが、中は直射日光が入りこまないような造りで廊下はべつ世界のように落ち着いた照明が光を放っている。大きな窓の外は日本庭園があり、小川が流れ山肌がすぐ近くにあって芦ノ湖側ではない。床が(うぐいす)張りなのは戦国時代の名残で当時のセキュリティシステムであるとの説明を仲居から受けつつ部屋にとおされる。

「ドラマの撮影みたい」
「実際に使われているらしいわ」

部屋も和室であり、二間続きだった。隣の部屋とは襖で遮られている。部屋の中央には掘り炬燵(ごたつ)式の食卓があり、壁面は違い棚とかけ軸だ。見事な床の間に感嘆の声をあげていると仲居が正面の障子戸を開く。広縁(ひろえん)を挟んで現れたのは雄大なパノラマである。

「うわぁ……なんか凄いぞこれ」
「見慣れた景色なのに、不思議ね」

隅に立つ庭木が絶妙なアクセントとなって芦ノ湖と富士山の景観をいっそう引き立てていた。夕方というのもあって、富岳三十六景はここから見た景色を描いたのかと思わせるほどの絶佳だ。景色も宿もすぎ来しかたを思い返させる中に復興中の町があればアナクロニズムである。

しばし見とれていたシンジは計ったように仲居から茶を入れたと声があったので、食卓へと移動した。レイが正面に腰を落とすと静々と仲居はさがり、ふたりだけとなる。あまりの壮麗な雰囲気にお互い微笑んだ。

「僕たち私服じゃなくて正解だったね」
「ええ。ドレスコードがあるわけではないのだけれど、制服ならどこへ行っても失礼にならないわ」

アスカが帰国して十日、ようやく落ち着きを取り戻したネルフより慰労という名目でこの宿へ訪れていた。おもにシンジのための、である。彼の傷心は癒えず、夜の営みにおいてしばしば不能に陥ってしまったのだ。カウンセリングを受け、漢方などの治療も試み始めようかという中での湯治である。ちなみに、超高級旅館を手配したのはレイから相談を持ちかけられたゲンドウであるのを彼は知らない。

「それにしてもこんな贅沢いいのかなぁ」
「惣流さんもいれば、って思ってた?」
「あ、うん……ごめん……」
「なぜ謝るの? その話はあなたも納得したのでしょ?」

レイからあの夜についての説明は受けたし、彼の中でも一応の区切りはついた。ただ浮気がしたかったという話でもないのだと彼女に指摘されたくらいだ。かけがえのない大切なひとであり、戦友でもある。アスカに抱いた気持ちは本物で拒絶してはいけないとも言われた。レイは決して怒ることなく、また突き放すこともしないでひたすらシンジの傍に寄り添い続けた。ふたりは現在も睦まじい恋人同士であり、なんら亀裂は入っていない。それは当人たちもまったく疑ってはいないのだが、三人ですごした時間が失われたことはとりわけシンジの心に深い(とばり)を落としていた。

「そうだね……うん」
「あなたはすぐそうやって否定するからよくないの。もっと胸を張って。ふたりの女性に愛されたのよ? そしてあなたもふたりを愛した……ただそれだけ。私はなにも気にしていないし、よかったと思ってるわ」
「ごめん、何度も同じこと言わせちゃって……」
「いいの。いいのよ、碇くん。私の気持ち、たくさん受け取って。声が枯れるくらいあなたへ愛を届けるわ」

湯呑みを手にして俯いたシンジへレイは慈愛の眼差しを向けた。彼に求められ傍にいることだけが彼女の存在意義である。最初の浮気こそ複雑な心境を抱いたものの、彼を知れば知るほどあの夜の選択はただしかったと確信した。もしここへアスカが来たとしても心からの笑顔で迎えられるし、同じ夜が訪れても立腹しない。レイはシンジによって心を補完したが、多くを失ってきた彼の場合さらに求めてしまうのだ。

「本当にありがとう。きみがいてくれるから、僕は踏みとどまることができる」
「もうどこへも行かせないわ。だから、私の前から二度と消えないで」
「うん、約束する。ずっと一緒だよ、ずっと」
「ええ、ずっと一緒よ。私とあなたは永遠に一緒」

繰り返されてきた一連の流れに、レイは飽きるという感情を持たない。食事や遊戯に倦怠を覚えてもシンジにだけは不変の想いを寄せた。

少し冷めた茶を飲んだシンジは備えつけられた露天風呂の存在に気づく。湯が満々とたたえられており、すぐさま入浴が可能だ。小ざっぱりとすればいい気分転換になる。そんな彼女の言葉を受けて振り返ったときはレイが制服を脱いでいるところだった。

「その縞々パンツ、初めて見たよ」
「ヒロインの定番ってあったわ」

ここのところすっかり漫画に嵌っているレイはエヴァでの戦闘経験から戦うヒロインを自認している。いつかコスプレもしてみたいと、さまざまなジャンルを開拓中だ。水色と白のボーダー柄があしらわれた上下を脱げばなんら変わらない肢体がシンジの眼前に晒される。筋トレやストレッチも継続しておこなっているからとても健康的に引き締まっていた。もちろん彼だって見とれている場合ではないので制服を脱ぐと全裸になる。行為中でなければ元気に起立するものだ。

「露天風呂ってなんか緊張するよね」
「そう? 鳥くらいしか見てないわ」

つい前を隠しぎみに浴場へ入れば広々とした檜の湯船を中心に三方が間仕切りされており、風景を遮るものがない。椅子に腰かけ互いに身体を洗っての入浴はまことに極楽であった。湯は熱すぎずぬるすぎず、じっくりと浸かれる適温だ。常夏であっても日本人であれば心癒される瞬間である。

ただ、シンジは目に映る赤富士を見て浅間山の作戦の折に入った温泉を想い返していた。あのときもいまのような時刻でレイは本部待機だった。衝立(ついたて)一枚隔てた女湯から発せられるアスカとミサトの黄色い声が、昨日のことのように耳に残っている。こうしてどこへ行ってもエヴァのパイロットであったという事実が栗毛の少女を忘れさせない。そんな自分が嫌で、彼はまた目を逸らすように恋人へ話を振った。

「綾波の髪、少し伸びたね」

右隣で白い肩を覗かせるレイは長くなった髪を後頭部で小さくまとめている。ほどけば鎖骨ほどあり、さらさらのストレートだ。着飾る楽しみを覚えてから美容院にも通い、イメージチェンジを兼ねて伸ばしていた。そんな彼女はシンジの表情からなんとなく心中を察しつつも、あえて気づかないふりで応じる。

「そう? 少しは変われたかしら?」
「うん。学校が再開されたら、きっとみんな驚くと思うよ」

まだ時間がかかると思われていた学校だが、二学期から再開される運びとなっていた。シンジは友人たちに逢うのがとても楽しみだ。全員が疎開から戻って来たわけではないにせよ、学校があっての日常である。とくに親しくなくても互いに知った顔であれば相手の変化に驚くものだ。ましてや顔立ちはすこぶるいいのに無愛想と言われたレイなら髪型ひとつでも目を惹くだろう。

「碇くん人気があるって聞いたわ」
「いやいや僕なんかより、きみのほうが絶対モテるって」
「そう? 自分ではわからない」
「たぶん、下駄箱とかラブレターで溢れると思うよ?」
「保安部に言って排除してもらおうかしら」
「ええっ、いきなり実力行使するの?」

もちろんレイとしても冗談であるし、仮にひとりふたりくらい絡まれたところで幼少から対人戦の訓練をやっている彼女ならば殲滅も充分可能だ。とはいえ、シンジに外見を褒められるのは喜びであっても他人となると極端に不快と感じるため、なかなか困った問題である。だが、彼女はとある雑誌から対処法を得ていた。自分のためではなく、シンジのためである。

「ちらっ……ちらっ……」
「なになに? その効果音と露骨な目配せは」

レイは左手で髪をかきあげるしぐさをしながら秋波を送るがシンジは唇や鎖骨、水面下の胸元を見てくるばかりでまるで気づかない。目をぱちぱちさせて首をかしげ、鼻の下を伸ばすだけだ。なぜ太ももを揉む。どうして指を見ているのに察しない。つまるところ、彼女はペアリングを求めていた。これならば誰も彼に寄りつかないはずだ。デザインや価格などどうでもよくて、同じものを身に着けたいのである。ハンカチやパスケースといった小物ではなく、四六時中互いの絆が確認できるものがいい。なのに手を開いたり閉じたりしても綺麗な指だね、としか返されなければ口も尖るというものだ。

「知らない。碇くん、ゆっくりしていって。私、さきにあがるから」
「あ、えっ? そんなぁ」

ざばりと立ちあがり艶やかな肢体を翻すと、レイは脱衣所へ向かってしまう。桃のように色づいた尻がぷるぷるとおいしそうに揺れてても、なんだか深追いしてはいけない気がしてシンジは手を伸ばせない。

「はぁ……」

正面のパノラマを眺めながら溜息をつく。レイはかつての彼女とはまるで別人のようにさまざまな表情を見せる。拗ねる、笑う、むっとする、照れると多くの顔を向けられてきた。とても愛されているというのは充分に理解している。けれども、いっぽうで自分はどれだけ返せているのか自信がなかった。たくさん触れあっているし、好意も伝えている。料理もおいしいと言ってくれるし、ふたりですごしてても退屈している素振りはいっさい見られない。むしろスキンシップは彼女のほうから頻繁にしてくるくらいだ。デートの際も腕を組むのではなく手を繋ぐほうを好み、町中でさえ人目を盗んでキスしては嬉しそうに微笑まれれば可愛くてしかたがない。だからこそ悔やまれる。

「いつも駄目だな、僕は……」

レイが本気で怒ったのは中庭での平手打ちくらいだ。いまもそこまで立腹していたわけではないだろう。なにかを欲している、というのはわかるが、めったにないことだけにそれがなんなのかがわからない。

「せっかくなのに……」

そう、彼女は夜の行為以外あまり要望を口にしない。食事のメニューを訪ねても栄養のバランスを考えると、という言葉がだいたい頭につくし、洋服にしても好みにあわせようとしている節がある。最近でこそそれも少しずつ変わってるし不満があるわけでもない。ただ今回のように日頃から取りこぼしている気がしてならなかった。

「名前、呼んだら喜ぶかな……」

いつまでも苗字で呼びあっているのはどうかとこの頃思う。たいていのカップルは名前に愛称をつけている。とても恥ずかしいし自分が呼ばれたらくすぐったいが、女性はこういうところも大切にするらしいから勇気は必要だ。

「レイちゃん? レイたん? レイさん? ううん……呼び捨てってなぁ」

アスカに対しては本人の要望もあって呼べたのに、いざ恋人となるとなかなか難しい。レイの性格や容姿が関係しているのか。上下関係が強いわけでもないのに凛として儚い雰囲気の彼女を名前で呼ぶとまるで〝所有権〟を主張するヤンキー漫画に出てくる男のようだ。

「愛してるよ、レイ……なんて、はははっ」

自分で言ってて恥ずかしい。決戦のときは咄嗟に出てしまったが素面では言えない。結婚しても綾波と呼んでしまいそうだ。いや、まてまて、とシンジは小首をかしげた。もしかして彼女はプロポーズを期待しているのだろうか。まだ中学生だし結婚はできないが、婚約者という位置になりたいのかもしれない。なんとかクラブという雑誌を読んでいたような気もする。

「プロポーズってなに言えばいいんだ?」

さりとて、どうすれば婚約者になれるのかがわからない。婚姻届を書いて持ち歩くのか、なにかの儀式でもするのか。今度トウジから連絡先を訊いてヒカリに相談してみるのもいいかもしれない。そんな思考とともに湯船の縁に頭を預けた。仰向けになって、黄昏どきの空でも眺めようと。遠くの母なら教えてくれるのだろうかと。

「って、綾波ぃ!?」

ところが、視界に現れたのは跪座(きざ)で見下ろすレイだった。まだ全裸なことから脱衣所へ行くふりをしてずっと背後で聞き耳を立てていたに違いない。照れた笑顔を見れば、顔が赤いのはきっと温泉による血行促進だけではないだろう。

「どうしたの? 碇くん。私のことを考えていたのでしょ?」
「い、いやっ、そのっ……いまのはね、シミュレーションと言うか……」
「そう?」

レイはゆっくりと上体を倒して唇を重ねてくる。それはとても濃厚で、ともすればなにかが勃発するのではないかというくらいの意地悪だ。このまま続けられてはのぼせてしまう。どこかに血も集まってきた。そう思っていると彼女は名残惜しそうに唇を離し、もう一度微笑んでから今度こそ脱衣所へ向かった。

「やばい……のぼせる前に出ないと……」

こういうときはとても元気になる某所を見て今夜はどうなのかと考えた。重度でないにせよ、それでもせっかくの営みが中断されるのは精神的にもかなり参る。それが悪化に繋がるから気にするなと医者から言われてても原因を理解しているだけに割り切れない。レイと結婚すれば治るのか、時間が解決するのか。なかなか出口が見とおせなかった。

「碇くん、考えごとはまとまった?」

ドライヤーで髪を整えているレイが鏡越しに言う。浴衣を着てうなじがとても色っぽいと思いながらシンジもタオルで身体をぬぐいつつ口元をまごつかせた。どうしようかと妙に緊張してくる。自身も浴衣に袖をとおし、右が前だったか左が前だったか混乱してわからなくなってきた。それでも鏡像から目を逸らして言うのだ。

「あ、愛してるよ、レイ……」

果たしてレイはまばたきを繰り返したあと必死になって顔の筋肉を動かすまいとしているが明らかに喜んでおり、赤面までしている。櫛で丁寧に撫でつけているが、手元はほとんど適当だ。それでいて昔のような無感情と声を装って答えてきた。

「ごめんなさい。ドライヤーの音で聞こえなかったの」
「えっ、ええっ? 嘘でしょ? 絶対に嘘だよね?」
「いま止めたから、もっとはっきりと言って欲しい。できれば鏡越しではなく、肩を抱いて、キスしたあとならさらによく聞こえると思うわ」
「し、知らないよ。もうっ」

こうなるとシンジは途端に以前の彼へ戻ってしまう。戦いのときはあんなにも勇ましかったし心を打つようなすてきな言葉もさらっと投げてくれるのに、隠れてキスするといつも恥ずかしがる。だからレイは余計に楽しくなるのだ。

しばしそうやって笑いあうふたりだが、隣の床の間へ戻れば一転シンジは驚きの表情を浮かべた。まさかこんなところに、と彼は言葉が出ない。

「シンジ。座れ」
「ああ、うん……」

なんと、あろうことか父ゲンドウが食卓を挟んで座っていたのだ。恐怖はないが、しかし予想していない人物の登場にシンジはただ言われるがまま腰を落とすと正座になった。隣にレイが続く。

父は変わらず黒い士官服を着て片肘を突き、掘りごたつに脚を伸ばさず胡坐(あぐら)だ。そんな姿すら見るのは初めてである。なによりこの距離でこの場所などいままで一度もない。テーブルを挟んでおよそ2メートルか。メガネの奥の瞳がじっと射抜いてくる。無言のまま、壁かけ時計の秒針だけが鳴った。まだ父とは一度も食事をしていない。それが今日このような形で実現したのは間違いなく理由があるはずだ。そう考えたシンジはさきに口を開く。

「あの、今日って……僕の誕生日だから来てくれたの?」

野暮なことを訊いたと思いつつも、やはり嬉しかった。去年までは形ばかりの誕生日を叔父夫婦が祝ってくれた程度だ。長らく疎遠だった父が急に、とは感じてもようやく二歩目が踏み出されたとあって胸が熱くなる。

「いや。出張の途中に立ち寄っただけだ」

新生ネルフの所長として多忙なのは理解しているので言葉も本当だろう。所長という立場がどのような職務なのか見当もつかないが、ただ座って命令だけすればいいのではないことくらいわかる。本部が停電した戦いのときも、自ら作業員に混じってエヴァを動かそうとしていたのだ。エヴァなくとも父の役目は続くのである。

「そう……でも、ありがとう」

ゲンドウはそうか、とだけ返す。相変わらず言葉は少なく笑顔もないがいてくれるだけでシンジには嬉しい。そんな心が彼の口を滑らかにした。

「前に言われたんだ。誕生日って自分を祝うんじゃなくて、両親と先祖に感謝を伝える日だって。家族の絆をたしかめる日……僕は、僕と父さんはずっと離れてたけど、でも……家族だから。たったひとりの親だから……この日を迎えることができて、それで、うん……ありがとう。父さんと母さんがいてくれたから、僕も綾波もこうしていられるんだって」

俯きぎみでひと言ひと言噛みしめながら伝える。見あげて父を見ても黙ったままだ。けれど眼光は鋭くない。前に倒れたときと変わらない歳相応の疲れがあるだけである。多くのことを抱え背負ってきた父はこれからも戦うのだろう。べつの形で人類の未来を模索するのだ。いったいどれだけの重責か。そう思うと視界が滲んでしまう。

「あのさ……こんなこと言うのもなんなんだけど……」
「シンジ」

言葉を遮ってゲンドウが低いバリトンを響かせる。決して威圧するわけではなく、さりとて立腹しているわけでもない。たださきに言う必要があるから告げるだけ。そう察して彼は口を噤む。

「お前たちが二十歳になるまでは私が力を貸す。だが、そこからは自分で歩け」

やはりそうなのか、とシンジは理解した。なぜ学校が再開されていないのにレイと同じクラスであることが決まっているのか。ふとしたときに感じる保安部の存在も同じような理由だ。

「お前がレイを守れ。いいな?」

シンジは父の目線を受け止めてしっかり頷き返す。たしかに一生涯セキュリティに守られている人間などそうそういないし、ましてやエヴァもなければ利用価値は限りなく低い。ただ、いまでもテレビでは第三新東京市の〝災害〟について報道しているから、それらから守る意味もあろう。放り出すのではなく、自立しろと促されている。

「私は今日、それを言うためにここへ来た」
「うん、わかった……」

目にいっぱいの涙を溜めてシンジは唇を震わせる。普通の家庭ならば小言に面倒だ、鬱陶しいと思うのかもしない。だが、彼はそう感じなかった。どんな言葉であれ父から授かる訓示は喜び以外のなにものでもなかった。

じっと動かないゲンドウはやがて立ちあがる。シンジは一緒に食事するものだとばかり思っていたので驚く。もっと話がしたい、声が聞きたいと思ってても父は忙しかった。

「時間だ」

それだけを言い残して出口へ向かってしまう。シンジはたまらず立ちあがってあとを追うと、咄嗟に袖を掴んだ。腕のない、ただの布。それでさえこうして父に触れるのは記憶にある限り初めてのことである。対するゲンドウは振りほどかずに見下ろすと苛立ちにも似た声を発した。

「なんのつもりだ」

拒絶しているのか、それとも叱責か。いかに多忙とはいえ、これだけで去られてしまうのは寂しい。言いそびれていた不安が脳裏をよぎる。また倒れやしないか、事故にでもあうのではないか。いましがたの光景がまるで最期の言葉に感じて声を荒げた。

「少しくらい触れたっていいじゃないか!」

ぼたぼたと涙を流して肩を震わせる。半身をシンジへ向けたゲンドウは無言のまま、それでいて目をわずかに細めた。ややあってためらいながらもゆっくりと左手をあげると、俯いた息子の頭に手を乗せる。

「大きくなったな……シンジ」

初めて耳にする優しい声にシンジは号泣した。ゲンドウが撫でたのはただ一度だけ。それでも父の手は大きく、とても温かかった。ともすれば膝を突きそうになる気持ちを奮い立たせ、泣きながら頷く。何度もありがとうと声にならない言葉を返した。自然と袖を掴む手が離れ、やがてゲンドウは(きびす)を返す。そこへふたたび待ったをかけたのはレイである。

「あのっ、お父さん……今日はありがとうございます」

レイは基本的にゲンドウを所長と呼ぶ。食事のとき何度か父と口にしたが複雑な表情を浮かべていたため、遠慮していた部分があった。しかし、今日は違う。靴を履いたゲンドウは肩越しに答える。これもまた優しい声だった。

「ああ。気にするな」

扉に手をかけるとゲンドウはそのまま去ってゆく。彼女は姿の見えなくなった父に深々と頭をさげた。ネルフからの指示だとばかり思っていたが、帳場で手続きをしたときに気づいたのだ。息子の誕生日にと、せめてもの親心だった。

振り返ったレイは、立ち尽くしたまま涙をぬぐうシンジを抱き締める。出逢った頃より背が高くなった彼はこれからも大きくなるのだろう。やがてはゲンドウと同じくらいの長身になるのかもしれない。父と息子が積日(せきじつ)の溝をようやく埋めることが叶った。こうして一歩一歩進むごとにまだ見ぬ明日へ想いを馳せ、安堵する。背中にまわされた彼の両手を感じながら、ずっと憂いていた雲が晴れて彼女もまた涙を流すのであった。

ややあって、仲居から食事の用意ができたとの声がかかったのを機に、ふたりは席へ戻る。互いに目を赤く充血させていたが、運ばれてきた料理に今度は丸くした。

「なんか、豪華だね……」
「ええ」

鉄の鍋の中には鶏肉を思わせるなにかの肉が入っている。春菊や椎茸、長ネギ、白菜など見たところすき焼きか水炊きだが、副菜などの小鉢はどれも知らない食材だ。一年中夏というのもあって鍋を目にする機会が少ないだけに、ふたりとも興味が惹かれた。

「味は……うーん、ありって言えばありかな。綾波は平気?」
「味が濃いから大丈夫そうよ。薬膳かもしれないわ」

なんとも不思議な味つけとやたら濃厚な副菜を食べ終えるが、床につくようになるとどうにもシンジの様子がおかしくなってくる。並んだ布団の上で向かいあって他愛もない雑談をしている中、彼は鼻息を荒くしてやたらとレイの胸元やうなじに視線を飛ばした。彼女はこっそり検索した献立の内容からこのあとの展開に胸を躍らせる。スッポン、オットセイ、高麗人参、マカといった単語が脳内でちらつき、血走った彼の眼に頬を染めた。

「あ、あ、あ、綾波ぃぃ!」
「きゃっ」

辛抱たまらんとばかりにシンジはレイを組み伏せると、激しい情動を滾らせた。彼は浴衣を脱がせることなく獣になると、彼女の全身にかぶりつく。シンジは暴君になり、レイは囚われの姫よろしく蹂躙される。彼女はあられもない嬌声をあげながら父の過剰とも言える配慮に感謝し、着衣という新しいジャンルを開拓するのであった。


ベルリンの南に位置するその町は他国との国境近くにあり、豊富な緑に囲まれた古の都だ。音楽、芸術、建物に歴史の面影を残し、壮麗な雰囲気がそこかしこで見られる。

人口の急激な減少により過疎化が進むのは世界共通で、郊外に建つ一軒の家もどことなく寂しげな印象がある。だが、ゆっくりとした時間の流れこそいまのアスカには必要だったのかもしれない。広い庭に、ふたりで住むには大きすぎる家。家政婦を含めて三人でいても部屋はあまっている。窓から外を見れば遠くの山々は白く、道路や家の屋根にうっすら積もる雪があった。空は蓋をしたように暗い。車の数が少なく、喧騒も聞こえなかった。

「ううっ、さぶっ……」

日本語で呟いてカーテンを閉めると椅子に腰かける。セカンドインパクトの影響で、いまは少ないながらも積雪の季節だ。窓が白くなるほどの気温の低下に腕を擦った。

パソコンは起動中で、相手からの連絡待ちだ。昼食を終え、日本でも夕食が済む頃だろう。そろそろかな、と思っているとチャットアプリが着信を告げる。インカムを装着して緊張しながら通話ボタンを押した。

『久しぶり、アスカ。元気してた?』

耳に聞こえるのは懐かしい溌剌(はつらつ)とした少女の声だ。相手の姿も映っており、小麦色の肌に半袖である。やっぱり向こうは常夏なのかと温度差を感じながら少し大人っぽくなった友人に挨拶を返す。

「Hello, ヒカリ。感度良好よ」

インターネットを使っていても相手との通話には若干のタイムラグがある。いままさにヒカリのほうへ映像が届いたのだとアスカは表情でわかった。だからなにか言われる前に自分から話す。

「ちょっと痩せちゃったわ」

頬はこけ、首も細くなってしまったのは自分が一番よく知っている。ヒカリからは見えないが腕も脚も細くなって、せっかく大きくなった乳房も縮んでしまった。なにより髪の毛をベリーショートにしたのを見れば驚きだろう。それだって乱雑に伸びてきている。最近は身なりにもあまり気を使わない。

『うん、さっぱりしていいじゃない。私なんて暑っ苦しいわ』

そんな友人の気遣いに感謝してひさびさの近況報告をおこなう。アスカは日本の友人と誰とも連絡を取るつもりがなかった。すべてあの場所へ置いてきたと、髪を切って心機一転に生活を始めたのだ。けれどもやはり寂しさはぬぐえず日を追うごとにやつれ、溜息をつくのが日課となった。食事も満足に喉をとおらず、また大学を卒業している身としては気晴らしになにかできるような場所もない。街をぶらついてもあの戦いなどなかったかのようなひとびとの生活があるだけだ。

アスカの母はそんな彼女を心配した。血は繋がっていなくとも愛した男性の子供とあれば母性も生まれるというものだ。かつては苦手としていた娘が日本から傷を作って帰って来るのを見れば痛ましさに顔を歪めるのは当然だった。毎夜部屋から漏れ聞こえるすすり泣きが耳に残り、日中も窓の外を見てはぼうっとしてばかりだ。初めこそ実父の死を悼んでいるものだと思っていたが、どうやらそれだけではないのがすぐにわかる。あるとき部屋に飾ってある写真を見て気づいたのだ。

娘に対し、いまこそ母親らしいことをしてあげようと努めて明るく振る舞い、傷を癒そうとした。しかしアスカの心は冷えたままで雪解けにはほど遠く、ますます彼女を苦しめる結果に終わってしまう。どこへも行かず、誰とも逢わず、想いびとの名前を呼ぶ毎日だ。

アスカは母の優しさを拒絶しているわけではなかった。ただあまりにも心に深く根ざしているためどうにもならなかったのだ。ドイツへ戻ったのは後悔していない。父の最期もしっかりと病院で看取れた。少なくなってしまった親戚と家族に見守られ、手を握って見送れたのは本当によかったと思う。哀しいことに違いはないけれど、それでも充実した気持ちがあったのだ。

だから余計に日本ですごした日々が頭の中を支配した。シンジの笑顔、困った顔、頬を染めてムキになる顔。温かい手と熱い抱擁、優しい感触。必死な表情と声で助け出された光景。そして、愛を交わしたあの夜。もうキスマークや筋肉痛はとっくの昔に消えてしまったしなにも身体の中には残っていない。純潔を捧げたのが妄想ではないかとさえ思えるほどに、彼の痕跡は失われてしまった。まだ一年も経っていなければ忘れられないのは当然としても、自分が思っていた以上に心の傷は深く抉れている。

そんなとき、以前ヒカリと交わしたチャットのIDが目についたのだ。日本を発って何度かメールはしたが父のことがあるからと言いわけして交流を断っていたのに、繋がりたい誘惑には勝てなかった。彼はどうしているのか、ちゃんと眠れているのか、己を責めてやいまいか。なんらかの情報が得られればと気づいたときにはパソコンを立ちあげていた。今日が友人や恋人とすごす大晦日であるというのも背中を押した。

疎開から戻って学校が再開されたことやペンペンがミサトの許に帰ったことなど互いの時事ネタを交わすものの、シンジの話題は出ない。ヒカリと話すのは楽しいけれど、やはりどこか落胆してしまう自分がいた。訊いてどうするのか、伝言でも頼むのかと馬鹿な考えを振り払うように相手の恋愛事情へ踏み込む。まるでなんら失恋なんてしてないと虚勢を張って、からかい混じりだ。

「で、結局のところ、ジャージとはどうなったのよ?」
『う、うん……そのね、言いづらいんだけど……』

と、頬を染めて声まで潜めるとヒカリは口を開く。なんとつい先日、彼の誕生日に彼女のほうから告白したと言うのだ。高校へ進学する彼女はやがてトウジと逢える時間も口実もなくなってしまう。そう危惧して想いを伝えていた。彼としても予想外だったらしく、かなり動揺してしどろもどろで可愛かったとのろけながらも結果は保留と返されてしまう。曰く、就職も決まってないのでふさわしくないとのことである。家事は助かってるが、あくまでも親友として接する。しっかりと自分の脚で立てるようになったら迎えに行くと言われて号泣したと涙を滲ませながら語った。そんな経緯もあって、キスすらしていない清い関係である。

「まぁったく、ピュアすぎでしょうが」
『だって、そんな……ふ、不潔よっ』

あんな汗だか汁だかよくわからないほど絡みあった自分たちの夜はとても口にできないアスカだが、ヒカリの嬉しそうな表情には心からの祝福を送った。少々堅物なジャージ男ではあるものの、高校卒業したら即結婚だろうと冷やかす。

「でも、いい奥さんになりそうね。ふふっ」
『そ、そんな子供とかまだ気が早いわよっ』
「なにも言ってないじゃない」

やがてのろけも一段落し、互いにひと笑いしたところでここからが本題だと言わんばかりにヒカリは言葉を捜している。アスカもすぐに察するが、話題を変えることも通話を切ることもできずに鼓動を早くした。

『あの……い、碇君のことなんだけどもね……』
「う、うん……」

ヒカリもトウジ経由であり詳細はわからないとしつつも、アスカは話の内容からどうやらシンジが心療内科に通っており、男性特有の病になっているのだと理解する。

『あのさ、アスカはまた日本に来ることはないの、かな?』

しばし絶句しているとヒカリが訊いてきた。それこそ腫れものに触るように、まるでシンジのようにわずかな表情も見逃すまいとじっと視線を向けてくる。アスカは震える息をなんとかごまかして、しかし見返せずに睫毛を伏せた。

「あたしが行ってどうするのよ。ママだっているのよ? それにシンジのことは……」

なんでもない、とは絶対に言えない。あの夜は気まぐれで、ただセックスがしたかっただけだなどと魂に誓って否定する。どれだけの涙を流し、眠れぬ夜をすごしたか。あんなにも励んでいたのに性欲さえ激減した。さまざまな想い出を必死になって掻き集めて何度枕を抱いたかわからない。どんなに名を呼び焦がれてもそこに彼はいないのだ。結ばれた後悔は微塵もないが、一生分の愛を受け取ったと思ったのはあまりにも浅慮(せんりょ)だった。心はとうの昔に渇き、血を流し続けている。彼が恋しくて死んでしまいそうなくらい苦しいのだ。

『どうして? どうして意地張るのよ。いまでも好きなんでしょ? 綾波さんがいたって告白してもいいじゃない。そんなになるくらい、いまでも好きなんでしょ?』
「じゃあ話してあげるわ」

この姿でどれだけ言葉を返したところで説得力はない。だからアスカは勢いに任せてすべてを伝える。想いのまま馬鹿みたいに肌を交えた、レイのためにもシンジとはいられないと。いつの間にか感情が爆発し、号泣していた。もう充分だ、たくさんもらったと声を荒げて顔を覆う。

『そう……なの。そんなことが……』

ヒカリも、よもやそんな関係だったとは思わなかっただろう。顔を赤くしながら口元に手を当てて驚いている。軽蔑するか、哀れに思うか、どちらでもいい。もう自分の恋は終わったのだとアスカは言い聞かせる。そのうち彼の姿も声も忘れられるはずだ。案外、ゆきずりの相手に抱かれるか適当な相手とつきあえばきっぱり断ち切れるかもしれない。そんな、心にもない愚考をした。

「あたしの出る幕じゃないわ。シンジには……レイがいるから」

男性特有の病気とは言ってもいろいろある。断片的な又聞きで早合点しているだけかもしれない。遅い早い、多い少ないなど巷では聞く。ただ、間違ってもほかの女性に浮気している可能性はゼロ以下だ。彼はそんな男ではない。それは抱かれたからこそわかる。

だがどれもレイが支えなければいけない。ひょっこり余計な異物が現れれば納まるものも納まらず新たな火種を生むだけだ。ミサトあたりに聞けばもっと詳しくわかるかもしれないが、知ったところでやはり出番はない。もしそれが男性機能の不能であるとするなら間違いなく責任はあるだろう。申し訳ないと思うし悔やみきれないが、どう控えめに言っても訪日する正当性はないのだ。彼女はそうやって心に蓋をする。まるでかつてように、自分を偽った。

『じゃあさ、アスカ。私と遊ぶために日本へ来ない?』

なんという方便だと目を丸くした。どう見ても罠に決まっている。空港へ到着したらヒカリはさっさと退場して代わりにシンジが出迎える光景がありありと浮かぶではないか。もしかしたらレイに内緒でそのままホテルへ直行などとなりかねない。そのとき果たしてなんと返すか。きっと突き飛ばして馬鹿と罵り、それでいて肩を抱かれれば涙を流しながら顔をあげてしまう。キスだっていっぱいするし、背中を強く抱き締めるだろう。言ってはいけない台詞を何度も口にして、彼にもせがむに違いない。駄目だ最低だなどとは口ばかりで、結局は甘えて最後に笑顔を向けるのだ。隣に並び、腕を組んで微笑みながら街を歩きたい。背はどれだけ高くなったか、声も低くなったかもしれないし、筋肉だって前よりさらに逞しくなっているかもしれない。片や自分はガリガリで、胸も尻も小さくなってしまった。あんなに喜んでいた彼はなんと言うか。これでもいいよ、などと優しく言いそうだとさんざん妄想してから現実に帰ると涙をぬぐって否定した。

「じょ、冗談じゃないわ。吊るしあげられるのがオチってもんよ」

今日こうして通話したのが失敗だったと後悔する。少しでもシンジの現状を耳にしただけでこの有様だ。一瞬でも名案だと思ってしまった自分の弱さが嫌になる。日本での滞在中ヒカリの家にお邪魔するかホテル暮らしだとして、じっとしているなんてできないのだ。

『そうよね、うん。わかったわ。でも……来るときは言ってね。迎えに行くから』

そして、ヒカリは決して強く押してはこなかった。あくまでも念のため、という雰囲気を出して訪日の際のことを言うだけだ。危なかった、とアスカは思った。所詮この程度の女なんだと自分に憎悪を向ける前で助かったところでいくつか挨拶を交えると、早々に通話が終わってしまう。

「だいたいどんな顔をして逢えって言うのよ」

インカムを置いてパソコンの横にある写真を眺める。夕日に照らされた三人の姿。あのときの自分よりずっと痩せてしまったと溜息を漏らした。ここへ帰れば過食に太るとばかり思っていたのに、まったくの逆だ。肌だって酷いし髪も枝毛が目立つ。唇はかさかさで目の下にも濃い隈だ。外見の変化は隅に置いたとしても、彼になにを言うつもりか。

「嫌われるだけだわ……」

レイだけを愛して、自分のことは忘れないでといま思えば矛盾した願いを言ったかもしれない。彼が患った病がなんであれ心に傷を与えたのは確実だ。わかっててそうしたのだから、本当に酷い女だと自分でも思う。誓いと純潔というふたつの重いものを背負わせ、別れを言わずに捨てたのも同然の醜くて卑怯で想い出に浸る女なのだ。それがシンジに逢うなど厚かましいにもほどがある。泣くとか甘えるとか、女の腐ったような存在ではないか。

「それに、止まれないから」

仮に日本へ行ったとしよう。シンジと逢い、彼も変わらない気持ちでいてくれたとする。そうなれば、もうレイを想って身を引くなどということはできない。結婚は無理だとしても愛人として死ぬまで人生を捧げてしまうだろう。それはあまりにも外道だ。ひとの家庭を壊してしまうとんでもない話だし、こんな重い心を抱えた爆弾のような女が隣にいていいわけがない。

「だったら、このままで……いいじゃない……」

互いの心の中に生き続ける不変の関係。三人ですごしていたときと同じ、余計なことさえしなければ崩れない。夢と妄想の中のシンジはいつだって微笑むし、優しい。あの頃のままなにも変わらないでいてくれる。アスカはそう結論づけた。

だが、部屋の外で一部始終を聞いていた母親の存在は想定外である。日本語が理解できないなりに涙を浮かべ、唇を震わせた彼女はなにを想うのか。娘の嗚咽(おえつ)が聞こえると扉をノックすることなく制止も聞かずに入室するのであった。


かつてミサトは生態系が戻ってきていると言っていたが、煩い蝉の鳴き声を聞く限りそれは違うとシンジは思う。セカンドインパクトによって生じた地軸のずれは巨大な振り子のように数千年単位で徐々に修正されると学校でも習った。子供や孫の世代程度ではこの夏に変化はない。だが、そのとき人類は果たして存在しているのか。日本にせっかく四季が戻ったところで花鳥風月を愛でるひとがいなければ寂しいだろう。

影響はなにも動植物だけではない。温暖になった気候が台風を昔より強力な勢力で上陸させるし病気の種類にも変化が出ている。かつてネルフで食べられていた食堂のメニューも贅沢な品は数を減らしてゆくいっぽうだ。他国ではこれに加えて内戦も起こっているのだから未来は決して明るくない。

「朝から暑いなぁ……」

年も明け、二月も二週の終わり。公園のベンチで空を見あげたシンジは汗をぬぐう。町はまだ復興の最中だが少しずつ以前の形になってきているようだ。三人で写真を撮った公園もかつての姿へ戻り、週末ともあって何組かの母子が遊んでいる。マンションも数が揃ってきたというのもあってミサトも宿舎暮らしからようやく地上へ戻れると先日耳にした。大穴は健在だが数年もすれば埋まるだろう。疎開から戻って来るひとも多い。あれからもう一年かと数日後に控えた終戦記念日に昔を想い白い雲を眺めていれば、背後から声がかかる。

「碇くん、おはよう」

もちろん相手は見なくてもわかる。月に一度おこなわれる定期健診を終えたレイが立っていた。野球帽を被り、ゆったりとした白いポロシャツにデニムのショートパンツ、スニーカーという服装だ。髪は変わらず伸ばしているが屋外では馬の尻尾にしているときが多い。アメリカナイズな格好はなにに影響されたのか。彼女の心理もモニタする観点から最近は検査中にアニメを見ているらしい。きっといろいろ話したくてしかたがないのだろうと笑みを浮かべて挨拶を返す。

「おはよう、綾波。お疲れさま」
「ありがとう、お腹空いたわ」
「じゃあ、いつものパン屋さんに行こうか」
「そうね。私、あの店のコロッケパン好きよ」

彼が立ちあがるとレイはすぐさま手を繋ぐ。汗をかこうが暑かろうが彼の左手の感触が彼女はとても好きだ。絡めた指に当たる金属はシンジがようやっと気づいて去年のクリスマスに買ったペアリングである。結婚前に薬指へ嵌めるとしあわせになれない、というジンクスなどお構いなしにふたりとも肌身離さずつけていた。

「今回の検査も変わりなかった?」
「それがじつは、重大な発表があるの」

レイはそう言うが明らかに深刻な声色ではない。見あげた顔をわずかにほころばせ、あまつさえ頬まで染めている。これはもしや懐妊か、と彼はどきどきするが彼女の報告はその数歩手前であった。

「なんだろう……体重とか?」
「酷いわ、碇くん。私にパンを食べるなと言うのね」

唇を尖らせたレイだが目線は試しているようにも見える。近からず遠からず、なのかもしれない。出逢ったときから髪の長さくらいの変化しか感じられない彼女だが、体重の増減は当然ある。ただそれは発育と無関係であり身長や月経などに変化はない。少なくとも彼はそう認識していた。

「べ、べつに太っただなんて言ってないよ? なんとなくさ」
「あれだけ毎晩私と仲良くしておいて、気づかないなんて哀しいわ」

よほど嬉しいことのようだ。ずいぶんと答えを先延ばしにするなとシンジも心が浮き立つが正解を当てられない悔しさもあった。とくに化粧をしているようには見えないし、髪の色も変わらない。マニキュアのたぐいはつけないし、アクセサリーも指輪と腕時計くらいだ。そもそも彼女は夜と言っているのだから、それは裸体か営みだろう。体型に少しだけ丸みが出てきたことか、それとも感涙が減ったことだろうか。どれも自覚があるはずなので気づきにくいところかもしれない。

「なんだろう……け、毛とか?」
「私に植毛しろと言うの? 時代はつるつるよ」

シンジはますます混迷を深めた。もう少し生々しい話かと考えたが、仮になにかあったとしてもレイが嬉々として報告するとは思えない。同棲してても放屁や噯気(あいき)を耳にするのは皆無だし、所作はいつだって丁寧で上品だ。下ネタを言うときもいまのように表現するのが常である。

「ホクロ……いや、違うな。ごめん、本当にお手あげだよ」
「しかたありませんね、教えましょう」
「う、うん……なんのキャラかわからないけど、教えて」
「正解は……」

レイがはたと立ち止まったのでシンジもあわせる。手招きするので耳をそっと近づけた。うふふっ、と嬉しそうな声を漏らした彼女は囁くように言った。

「胸とお尻が大きくなりました。あと、身長も伸びたのよ?」
「ええっ!? そうなの?」

ぱっと顔を離してレイを見るともじもじと俯いて赤面している。爪先立ちになったり踵をつけたりと珍しく落ち着きがなかった。ちらちらと上目で表情を窺ってきてはぎゅっと手の力を強める。

「碇くん、嬉しい?」
「あ、いや……そう言われると……」

まったく気づかなかったシンジだが、数ヶ月ほど前から少しずつ大きさが増していたと言う。誤差か、体重の増減に影響されただけで乳房の成長ではないのか断定できなかったが、今日ようやくリツコから確実であるとお墨つきをもらったのだ。聞いたレイは思わず二度訊きするほど驚いたが言った本人もずいぶん高揚していたと状況を説明した。

「嬉しくないの? 私は嬉しいのに」
「う、嬉しいけど、僕はべつにきみの胸が目当てで……」
「前から赤木博士とか葛城部長とか……お母さんとか、そうり……」
「わかった、わかったよ、綾波。なんかさらっと言いかけたけど、僕はたしかにおっぱいが好きです」

なぜ脂肪の塊に男性は惹かれるのかレイは不思議でならないが、学校内では誰それがどうだとかああだとか耳にするし、雑誌でも女性はアピールポイントにしているのだ。夜だって彼は熱心に触ってくるのだから素直に喜べばいいのである。

「いいでしょう。では、今夜もしっかりとマッサージをお願いします」
「はい。謹んで承ります、ってなんのキャラなの?」
「それは内緒よ。でも今夜は鶏肉にしましょ」
「だったら豆乳鍋がいいね」

かくして成長の兆しが見えたレイであるが、月経はまださきであろうとはリツコの見解だ。なにが発育の再開を促したのかはわからないものの、シンジとの交際が好影響であるのは間違いないと言う。いままでどおりの生活を続けていれば成人する頃にはあるいは、との話だった。

「ところで碇くん、知ってる?」
「いや、もう僕にはわからないことだらけだから」
「あなたに横恋慕している女子が二桁になったそうよ」
「はい?」

レイはなにを言うのかとシンジは眉をあげ、口までイの字にした。モテるのは彼女のほうであって自分は絶対にありえないと強く否定する。ペアリングを買ってから多少は攻勢も落ち着いたようだが、いまでも机の中や下駄箱には謎の手紙が投函されているようだし町中でも振り返るひとは多い。最近では高校生の間でも噂になっていると小耳に挟んだ。このままでは芸能界から本当にスカウトが来るのではないかと気が気でない彼は、そういった経緯もあって地上に住むのを長らく迷っていた。

それがここへ来てなぜ自分が、と驚きを隠せない。母はたしかに美人でスタイルもよかったが父は無愛想なオジサンである。誕生日の一件以来、月に一度レイと三人で食事をするようになったが愛想笑いすら浮かべないのだから遺伝子的にも難しいと思っていた。科学者の両親から頭脳も引き継がず残念な息子であると常々感じていたのだ。

「とくに隣のクラスの淡路さんと近江さんが熱心なファンみたい」
「誰それ? 僕知らないよ……」

シンジはどちらの女子も知らない。レイ曰く、学校でも屈指の美人な上に某所も大きく主張しているとのことだ。愛想がよくて芸能界入り間違いなしとは男女共通の意見である。ほかにも幾人かの人物を列挙されるが彼はピンとこない。どうせからかわれているだけだと思っている。

シンジは無自覚であるが、これはエヴァで戦いレイと交際するようになってから性格が少しずつ明るく外向きとなったことに起因していた。自信と言い換えてもいい。また、誕生日に父から授かった言葉を自分なりに解釈し、保安部と対人戦の訓練をしているのも手伝っている。彼の目は周囲ではなく恋人を守る一点に注がれていた。筋トレも毎日おこなっており、そこはかとなく精悍な顔立ちだ。さりとて物腰は柔らかく、いわんや、全身の傷跡を水泳の授業で見れば、である。にもかかわらず泳げないとくれば女子の心中は推して知るべしだ。

「碇くんたいへんね。ヴァレンタインはトラックを用意しないといけないわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、綾波ぃ」

つん、と顔を背けるレイだが彼女なりに喜びがあった。シンジが自身とアスカ以外の女性に心を寄せないと確信している上での冗談だ。つまるところ、鼻が高かった。とはいえ、彼に鼻の下を伸ばされては面白くないからこうして釘を刺しているわけである。

「べつに、私怒ってないもの。ただ言ってみただけよ」
「よかったぁ……ほんと、心臓がばくばくしたよ」
「でもね、碇くん。私がよくても気をつけないと……」
「気をつけないと?」

言葉を区切ったレイはさっと手を離すと逃げるように数歩さきへ走った。蒼銀の髪をなびかせてくるりと振り返っては空をつんつんと指差す。顔を少しあげ、見下ろすような目線でぽつりと言うのだ。

「槍、飛んで来ますよ?」

よもや母が地球に帰還したのかと天を仰ぐシンジだが、見えるのは目の醒めるような晴天と外国の飛行機くらいである。初号機の姿は見当たらない。これは一杯食わされたなとレイを窺えば、きゃっきゃと楽しそうな声をあげて駆けてゆくうしろ姿だ。

「言ったなぁ……今日はパン抜きだぞお」

シンジはすかさずレイのあとを追う。炎天下の中でふたりは笑いあい、最後にじゃれあう。それがたまらなく楽しくて、互いにしあわせを感じていた。つらいこと失うこともあったけど、自分たちはこうして生きている。あの夏からすべては始まり、それはこれからもずっと続く。かけがえのないあなたとともに、愛しき日々をすごしてゆくのだ。