壱拾弐の羽が世界を覆う      滅びた世界を  数億の光の墓標を  赤い海を

壱拾弐の羽が世界を抉る      要を      罪に対する罰を   死と滅びとを

壱拾弐の羽が世界を飛び立つ    罪を背負い   罰を刻み      月を帯びて


そして消える  世界から


贖罪のための放たれる山羊の名を、その心に冠して




















山を登り、森を降り

私は、歩く



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、歩く

森を登り、山を降り


見渡す限りの深緑と山々を眺めながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



山を登り、森を降り

私は、歩く

月の下








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第壱話 − 山












見たことのないものを想像することはとても難しい

当たり前だ

なにせ見たことがないのだから

起伏の激しい山々と巨木が群れる深緑の森林

空は分厚い雲に覆われ、霧が山々を、森林を包んでいる

太陽と呼ばれた星があるという話は既に伝説になってしまった

この地に光をもたらし、空を支配しているのは、月

夜を司る月だけになってから、もう千年を数えるらしい

昼と呼ばれる時間には、雲と霧が空と大地を覆い、夜と呼ばれる刻には月が空を司る

もうあたりまえになってしまったサイクル

木々達も太陽光からの光合成を諦め、月光から得られる光を基にした新たな光合成システムに適応していった

何故そうなったのか、今では誰にもわからない

ただ、架空の島といわれる“極東”に巨大な孔があるという

そして現存する古代文献から想像されるのは、地球規模の何らかの衝撃が世界を変えたということだった

火山の噴火か隕石の衝突か、いろいろな諸説の中に、神々の領域を侵した儀式の影響だとの説もあった

語りつがれていくサードインパクトという事変

それについて詳しいことはわからない

ただその事変が世界を変え、太陽を昼を司る座から引きずりおろし、月を唯一のものとしたのは事実だ

そんな世界で青い空、青い海は幻になってしまった

太陽光の消失で、水はそれによって青を屈折する光を失ってしまった

そして雲と霧が覆う空にはもはやその影もない

サードインパクトによる太陽の消失はこの世界から二つの青を永久に消し去ってしまったかのようだった


そのように、世界は“定められていた”

今も、歴史も





この世界、人間が栄華を誇った世界は飲み込まれ、自然界が世界を覆った

人は絶滅を免れたものの、衰退していくことになる

ようやく減少率が平坦になったこの頃、人は自然界の一部に融和し、小都市規模の集合体を形成して暮らすようになった

これが本来あるべき人の生活なのかもしれないが

だが、そんな小都市集合体も見あたらない自然の真中で、一人の少女が月を見上げていた

しっかりと造られた革製の肩掛けバック

長距離散策に耐えられるタイプの登山靴

雨や寒さを防ぐ加工が施されたコート

その裾下から厚手のデニム生地ズボンが見える

しかし、丈夫につくられたそれらも長い旅路のゆえにすり切れたり、すり減ったりしてしまっている

それらを纏う彼女の雰囲気もか細いものだ

コートからわずかに見える肌は透き通るように白く、その腕はとても華奢だ

頭を覆うフードからは蒼銀の髪毛が見え隠れし、月の光に揺れて輝いている

そんな出立ちの少女の眸はピジョンブラッドルビーのような紅色

無垢なその眸は、奥を伺い知るにはとても難しいほどに深いものだ

彼女は独り、広大に広がる山々の真中にたたずんでいる

周りに人の気配は感じられない

孤独な旅に身を置く少女

彼女は依り代とされた存在だった

彼女のその特異な容姿のために

彼女の持つ特別な力のゆえに

人というものは自分たちと少し異なる者には、拒絶や敬遠といった行動、態度をとる

彼女に対しても同じ

ただ、彼女の場合はそれが神格化の対象だった

太陽の消失、月と霧が地を司る世界において太陽の存在は幻影にして人々の精神的希望になっていった

そんな世界に生まれた少女

そんな彼女が太陽と人とを結ぶ巫女として神格化されたのも不思議ではない

それに加え、彼女は自分の生まれを知らない

文字通りいつのまにか、この世界に立ったのだ

そんな彼女の不可思議な出生も人々の行動に拍車をかけた

彼女が身に纏うそれらの装備は、この世界においてとても貴重なものばかりだ

これらは都市集合体がかき集めたもの

通常なら揃うことのないもの

それらが揃ったというのは、それだけ人々の求めるものの大きさ、重大さを現している

彼女はスケープゴート

この言葉の由来になった、贖罪のための砂漠に放たれた山羊のように、彼女も太陽を求めて人の住む地から放たれた巫女なのだ


そのように、彼女は“定められていた”

彼女を取り巻く環境も、その記憶をも







月を見上げる

涼しく静かに輝く夜の空の支配者は、どこか哀愁を漂わせているような表情をしていた


「私は、どこからきたのかしら?」


月に問いかける

いままで何度となく自分に言い続けてきた問いかけを

ある雨の日は森の木々に、ある霧の日は降る岩塊に、あるうす暗がりの日には山々に

そして、大地に空に

そして月に


「あと、どれくらい歩かなくてはいけないのかしら?」


顔をすべる冷たい空気の流動を感じながら

なにも答えてくれないそれらを見回しながら

人という存在と触れ合ったのはいったいどれくらい前だろう?

いや、思い返してみると人という存在と触れ合った記憶はなかった

どの人間も自分の心までは手を伸ばさずに自分の周りを掠っていくだけだった

まるで“幻影のように”

いつも自分は動かない

いつも自分は佇んだまま

周りだけが忙しなく、人も時も動いていく

そして、いつだったか、私は人の世界から、この自然の真ん中に放り出された

身に、いままで使ったこともないようなものを纏わせられて、何も知らない世界へ連れ出された


でも…

私にとってはあまり変わるものではなかった

あの世界でも、いまの世界でも、私は独り……

放り出されたわけでも、連れ出されたわけでもなく、人の住む世界を、別に何も掠らずに過ぎていったようなもの

だから、別に何か変わったわけではない

立っているところと見える景色が変わったに過ぎない

それは、私にとっては別に気を止めるようなことじゃない



「私は、誰?」


夜空に向かって問う

月の光に隠されて、シリウス位の明るい星以外は目に見えない夜空に


「私は、何処から来たの?」


自分でもわからないものを、あの大きな月ならば答えてくれるかもしれない、そんな風に思いながら



月は哀愁漂う光を彼女に向けていた







今日も幾つの山を登り降り、越えてきたのだろう?

そろそろ疲労も空腹感も高まってきた

正確な時がわからないいまの状況で、時を知る手立ては月の位置と自分の体内時計の二つしかない

それによると、そろそろ一日が終わるころだ

休まなくてはいけない

レイは山頂の山林の、密集率がそれほど高くない場所の木の下を今日の宿営地に選んだ

一畳ほどのビニールシートを広げると肩掛けの革鞄を下ろす

それから周りに散らばっている適当なサイズの枝を拾い集めてくる

腰につけたシースから5インチ程度のハンティングナイフを抜き、それで地面に軽く穴を掘る

一旦ナイフを地面に刺して、そのくぼみに集めてきた枝を格子状にかさねていき、間に油を多く含んだ枯れた松の葉を詰めていく

それから鞄から取り出した木の塊をナイフで棒状に裂いた

俗にマッチの木と呼ばれるものだ

一年を通して低温な特定の森林に生息し、リンを主成分にする低温着火火薬分を含む

着火を妨げる皮膜を削り落として、摩擦が集中しやすいように先端を細く削る

それから背中に聳える大木にこすりつけ摩擦をかけると、ボッ、と先端部に火が灯った

そしてマッチの木のスティックごと薪木の中に放りこむ

最初は松の枯れ葉に、そして薪木に火が上がった

山頂の冷えた空気の中に暖かな気流が昇り始める

パチパチと音を立てて揺れる火が安定したのを見てから、レイは鞄を大きく開いた

そこから簡易の調理器具を出し、旅の途中で取った種子や食草を調理していく

清流で汲んだ水、釣った魚の干したもの、果実なども使う

調理にはハンティングナイフを流用するが、肉を食すのが苦手なレイはもっぱら採集で食料を集め、狩りはほとんどしなかった

それでも菜食主義の食材で十分な栄養、エネルギーをまかなうことが出来ている

マメ科の植物や、時たま釣り上げる魚からたんぱく質も脂肪分も得られるからだ

一日のほとんどを歩くことに使う旅路だが、一日三回の食事を取るサイクルで十分だった

夕食を食べ終わり、片付けを済ますと、装備品の手入れを始める

コートや鞄、靴の汚れを落とし、破れていたりほつれていたりしたところを直したりする

行動に欠かせないナイフも錆びないように手入れをし、砥石で研いでいつでも切れるようにして仕舞っておく

それから銃のメンテナンスだ

いままで十数発を撃ってきた

主に防衛用にと持たされたレイのもう一つの武器だ

今まで狩りに使ったことは一度もない

そのかわり道中で遭遇した猛獣を撃退するために使い、ほとんど威嚇だったが、射殺したこともあった

また、この山林には略奪隊が出るという話もあり、獣だけでなく人にも警戒しなくてはならないこともある

レイは一旦弾を全て出し、分解しながら不具合はないか調べていく

各部品を丁寧に拭き、グリスを塗る

組み直すと動作部を確かめて弾を込めていく

レイの持つ銃は攻撃用の散弾銃、弾丸は単粒弾

中短距離での高い攻撃力と命中精度を持つものだ

カーボンファイバーなどの軽くて丈夫な特殊材料を使っていて、レイでも取り回すことの出来るものだった

銃弾を込め終えるとセーフティーをかけ、シートの上に広がった備品を鞄にしまっていく

それらを終えると火に土をかけて地面に敷いたシートを畳む

消した焚き火は煙を吐き出す

煙は木の間を抜ける間に薄まっていき、周りからは見つからない

さて就寝の時間だ

だがこの森の中では地面に直接寝床を構えるのは危険な事だ

だから木の上に登り、大振りの枝の根元で寝る用意を整える

寝る用意をしながら周りの木々のつながり具合を覚え、万一の時には木々を伝って逃げられるように把握しておくことも怠らない

そして全てがすむと、厚手の毛布を取り出して身体を包む

このとき、コートも靴も着たまま、鞄も肩に掛け、ナイフも腰に刺している

そして散弾銃を抱くようにして丸まり、毛布の中で眠る

こうしておけば何か起こったときにすぐに動けるし、毛布をすっぽり被っておけば山頂も寒い空気からも木を這う虫たちからも身を守れる

最初は冷たい毛布も、次第に体温で暖かくなっていき、ぬくぬくとした中でレイは睡魔に襲われていった

一日の疲れと、食事の満腹感も重なって、何の抵抗もなく瞼を閉じた



















… … … …


月が世界を支える夜の世界

時たまフクロウやオオカミたちが声を上げるくらいのもので、静寂が世界を包む

そんな動物たちの声くらいではレイの夢の世界は解けないようだった

静かな寝顔

そんな彼女が何の夢を見ているのか、それは月にしかわからない

柔らかな光を彼女に降らせ、優しく見守っていた


… … … …


静かな山の中、薄暗い森の中

別に何の音も響かない

時たま、虫たちがせせらぎ鳴く声が聞こえるくらい

それくらいの声ならばレイが目覚めることはない


… … … …


静寂が世界を包む

レイの身体がピクっと反応した、前髪が揺れ、紅い眸が開いていく


… … … …


何の音も聞こえない

それでも彼女の感覚は何かを捉え、それが何かを探索していた

いままで遭遇したどんな動物とも違う

人のような気もするが、感じたことのない雰囲気だ


… … … … … カサッ カサッ カサッ


音が聞こえた

遠くのほうに規則正しい足音が

毛布をガバッと剥ぎ取り、肩にマントのように羽織る

ガシャッ!

散弾銃のフォアグリップをスライドさせ銃弾を装填させた

コートについたフードを深くかぶり、銃の照準を音のするほうの森へと向ける

臨戦態勢まで五秒とかからない

茶色の毛布と黒いフードに包まれた身体は、闇と木の色とに紛れてちょうどよい迷彩となっている

指先はセーフティーにかかり、いつでもはずして引き金を引ける状態にする

木の上の暗闇で紅い眸が銃身の先を狙っていた


… カサッ … ガサッ … ガサッ …


音が距離を縮めてきた

明らかにこちらに向かっている

セーフティーにかかる指に力が入る

だが先制攻撃は出来ない

相手の情報が全くないからだ

このままこっちまで近寄ってくるのか?

相手はこちらに気付いているのか?

相手は人なのか獣なのか、単体か複数か?

普通なら雰囲気や足音などでわかるものだが、今回の雰囲気や足音はいままで感じたことのない異質なものだった


感覚が惑わされているような…


こちらに気付かないで過ぎ去ってくれたらそれに越したことはない

だが相手が近づいてくるのなら、そして何らかの敵意を示してくるのなら攻撃を含めて対応しなくてはならない

そうすると相手の数や装備が問題になる

しかしこの相手からは何か違う雰囲気をレイは感じ取っていた


…これは、なに?

……憂い?

…この感じは、知って、いる?


… ガサッ … ガサッ ……

…………………………


足音がやむ

だがレイは警戒を解かなかった


「来る」


そう呟いたときに、同じ事を言ったような感覚、そして脳裏にかすめたオレンジの螺旋状の輪はなんだったのだろう

暗闇の森から月明かりが注ぐところに影が現れた

カチッ

レイは躊躇なくセーフティーを下ろし、引き金に指をかける

そしてその照準は近づいてくる影へと合わされた

影が光を浴びて足が見えてくる

レイは気配を断ち闇に同じた

ゆっくりとその全体が見えてくる

人だった

しかもこの危険な森の中に独り、その人以外の気配はない

その人は手袋をはめ不思議な服に身を包んでいた

そして月光が相手の顔を浮かび上がらせた

その瞬間、レイは動揺した

何故動揺したかは自分でもわからない

ただ引き金にかかった指がパッと外れた

その人は髭をたくわえ、この暗闇の中なのにサングラスをかけていた


…司令………


そんな言葉が無意識に流れた

しかしすぐにハッとして再び相手をとらえる


…いまのは、何?

…私はこの人物、知らないはずなのに……

…私の、知らない、記憶?


相手はこちらに気付いているとも気付いていないともとれる雰囲気で近づいてくる

そしてレイが潜む大木の前まで来て足を止めた

レイのほうはもうどうしていいのかわからなくなっていた

知っているらしい人物

でも誰だかはわからない

敵なの知り合いなのか、それともただの旅人なのか?

警戒は解けなかった

引き金から指を外してはいるものの、レイの紅い眸と散弾銃の照準は真下のその人へと向かっていた

その人は手袋をはめた手を伸ばす

レイの身体が震えた

幹に触れるか触れないかというところでその人は手を引いた

まるで、過去のことを後悔するかのように

闇の中、サングラスに隠された表情は読み取れないが、その雰囲気は一瞬陰りを見せた


…闇を、いまだ背負っているのね……


レイは照準をその人から下ろす

それはレイの、いまの自分の知らない奥底の許しでもあった

何故かいたたまれない気持ちになる

その人の悲しい姿を見るのが痛かった

存在は闇に同化させたまま、その人が過ぎ去るのを待った


…危険な人じゃない

…でも、すごく、悲しい……


力を抜いて木に身を預ける

そのまま丸くなった

チラッと下を見ると、その人は黙ったまま静にたたずんでいた


「……私が、言うことのできる言葉ではない、か………」


えっ?


閉じかけた瞼を開ける


「…だが………済まなかった…」


耳に入ってきたそれは、とても重たい言葉だった

何故か耳を塞ぎたくなるほどに

自分に語りかけているわけではないはずなのに

こちらに気づいている感じはしないのに

自分の心の中にじっくりと染み渡っていく言葉


「…私は

 …私は、ただ一つの目的のために

 自分の自己中心的な希望を成し遂げるために

 夥しい人の命を奪い、多くの人の人生を踏みにじってきた


 そして…

 …そして、自分の息子を、そして“娘”を依り代とした

 本来なら、私が守ってやらなければいけないはずなのに


 …済まなかった


 一つ

 ただ一つだけ

 最後に伝えたい


 私は拘束した

 娘の魂を、命を、未来を、希望を

 だが、その拘束はもはやない

 その大きな可能性という翼を拘束するものはもうない

 どうか、その大きな翼に気づいて欲しい

 そして、その翼を開いて欲しい


 そうすれば見えるはずだ

 自分の歩む道というものが

 そして気づくはずだ

 歩む道

 それは孤独の道ではないことに

 そして、必ずたどり着けるということに


 失われたものは遠くない

 確実に近づいている

 それは幻想ではない

 確かにそれは存在し、それはお前のもとにある


 待っている…」


その人は言葉を吐き出すと、もう一度幹に手を伸ばす

だが、それが触れることはなかった

血塗られた手で触ってはいけないというように

そして、その人は煌々と輝く月を一瞬見上げて何かを託すように呟いてから、森の闇の中へと姿を消した

優しく包み込む月の光

レイの紅い眸からは涙が溢れていた

何故かはレイにはわからない

自分だけど自分ではない自分が涙を流しているようだった

溢れる涙の雫に月の白い光が移りこむ

それはとても暖かかった

あの人の言葉のように、この森に独りだけれど独りじゃない、見守られている

月を見上げる

それは煌々と輝く


「ありがとう」


レイは月に呟いた

哀愁を帯びていた月が、かすかに微笑んだ気がした

涙が止まらなかった











とはいっても、それと夜の境とは非常に曖昧なものだ

日の出という明確な朝の始まりというものがないからだ

月がその司の座を降りるのは地平線や水平線ではなく、雲か霧の中になる

もし、以前のサイクルに生きるものがここに居たのなら朝の目覚めは大幅に遅れることだろう

太陽という指標のないこの世界で朝の時を知るのは非常に困難なことだ

この世界に生きる小都市集合体の人々は、温度をエネルギー源とする時計を昼の時間帯の指標としているらしい

しかし、旅するレイにそういったものはない

彼女の体内時計こそが、朝、そして昼における時間の指標だった

逆に彼女の朝がこの世界にあって朝であり、彼女の夜がこの世界にあって夜なのかもしれない

時の流れは、彼女の周りにあって拘束するような正確さで流れているわけではないのだ

毛布を纏って丸まり、幹に身体を預けた彼女の体内時計が起きる時刻を指した

それをきっかけに彼女の意識が眠りの深層から覚醒の表層へと上がってくる

瞼に隠された綺麗な紅い眸が徐々に現れていった

その目に映る外の朝の世界はいまはまだ暗い

毛布の隙間から流れ込んでくる空気は湿気を帯びた冷たいもので、レイは身震いをした

毛布と身体の間を巡るぬくい空気が外の冷気と混じりあって段々と温度を下げていく

眠気を誘う暖かい空気が消えていくにしたがって、身体の細胞たちも目覚めていった

森には木々の境界線をぼやかすかのようにベールが巡る

その薄いベールの正体は、朝にこの森や山々を覆い尽くすこの山岳森林地帯特有の朝霧だ

最濃度の朝霧では有効視界数cmという世界に変えてしまう

今日は…と樹海を見渡して見たが、数本先の樹木まで見ることが出来た

今日はそこまで深い霧ではないようでレイは胸を撫で下ろした

これならそれほど時間を食わずに歩けるほどには晴れていってくれるはずだ

耳を澄ますと樹海のあちらこちらで小鳥たちの囀る声が聞こえてくる

それら美しい歌声はレイの体内時計の正確さを補助するものでもあり、山々を響き渡る自然の朝の目覚ましでもあった

鳥たちの囀りを聞きながらレイは身体を起こす

木の幹にはレイの寝床を避けるように働き蟻たちが列をなしていた

木の葉の表面には朝霧を浴びて細かい水滴が光っている


ふと、頬に違和感を感じた

彼女には見えない涙の跡

レイは泣きながら眠りに落ちたから


レイは鞄から水筒を取り出すと木の枝から顔を出した

下には自分が昨日作った焚火を隠した跡とかすかな足跡が残っていた


あれは、夢じゃなかったのね…


水筒の蓋を回す

流れる水の下に手をもっていき、手の器に溜った水で顔を洗う

冷たい水がレイの最後の眠気を吹き飛ばした

数回顔を洗うと毛布で水を拭い水筒を片付ける

そのとき水筒に道中の水分補給分くらいの水を残しておいた


今日は川沿いを進まなくてはいけないわね


食料、そして水は三日分ほど携帯できる

そのためその日の旅の行程はどちらが底をつくかで森の中をいくか、川沿いを行くかに分かれるのだ

今日は川のほうだ

途中清流から水を汲まなくてはいけない

鞄から乾した木の実が入った袋を取り出しささやかな朝食を取った

途中リスたちが遊びにきてレイに食べ物をせがんだ

レイはいくつかの木の実をあげ、かりかりと食べるリスたちの背中を撫でて楽しんだ

何故か小鳥たちや小動物たちは彼女を恐れない

そのためレイも一時の和やかな時間を過ごせていた


「ごめんね

 もういかなくてはいけないの」


荷物を片付け、出発の準備を整えながらそういうと、彼等は承知したように森の中に消えていった

出る準備が出来ると、木の上から周りの気配を探る

散弾銃の有効射程圏内に危険な影は感じなかった

装備を持つと、スルスルと幹をつたって下に降りた

地面に着くときの衝撃は、腐葉土の柔らかい土に吸収され、足の裏にふわっという感じが伝わる

後ろを向くと自分の休息の場所となってくれた木

手を伸ばして触れる

ひんやりとした感触と共に木特有のぬくもりが感じられた


「昨日はありがとう」


そう泊めてくれたことへの礼をいって身を翻した

今日は川沿いへ

そして海に向かって

青を目指して

意識的にか、無意識的にか、あるいは自分の知らない自分が導いてか、昨日の人が消えていった道へと進んでいった

その先に、その人の言った自分の求めるものがあるような気がして

そうして彼女は霧の中に消えた










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