河を下り、岩を越え

私は、歩く



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、歩く

河を下り、岩を越え


見渡す限りの白い河原と流れる河を見つめながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



河を下り、岩を越え

私は、歩く

月の下








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第弐話 − 河原












水の流れが奏でるせせらぎが耳に心地いい

森の匂いとはちがう、水の雰囲気

蝶たちが憩う姿や、小動物たちの水のみ場なっている風景に心が和む

まだゴツゴツと角ばり、削り取られていない大岩には緑や苔たちが無機質なキャンバスに彩りを加えている

倒れた樹木からは、水流の助けを借りて新たな芽が明るい緑を伸ばしていた

いま歩いているのは、源流に近い上流

水量もさほどなく、サラサラと流れる程度の速さだ

この山林にはたくさんの源流が存在し、山の谷間でもそれらが集まってそれなりの河になっているものもある

ただ、どの河も直接海には繋がっていないし、どの河も中流という規模にステップアップはしない

必ず繋がっているはずなのだが、途中、湖や地下水流に飲み込まれ、海への指標となるものは無くなってしまう

河を下るという海への最も単純な道標もこの山林樹海では意味を成さない

逆に道を惑わすものにもなりかねないのだ

まるで海への接触を妨害するよう組まれているように

人の手から海を守るかのように

レイの目から海を隠すかのように

そんな人間の知識への裏切りに落胆するものも多い

レイは最初から河を指標とは見なかった

風の吹くまま気の向くまま、そんな旅路

ただひたすら進む

ただそれだけ

曖昧な指標への落胆を覚えたことはないが、あとどれくらい?と呟いたのは数限りなかった


ちゃぷ  ちゃぷ  ちゃぷ


足音の代わりの水の跳ねる音がリズミカルで心をほのかに躍らせる

水流の中を見ると、小さな魚やトンボの幼虫たちが動き回っていた

すこし足を止めるとその小魚たちがレイの靴を這うように通り過ぎていくのが見える

源流に近い綺麗でミネラルを豊富に含む水はもう確保したのだが、レイの気分はこのまま河沿いを進もうと思っていた

踏み台にする石たちが、大きな岩からそれらに比べて少し小ぶりな岩に変わってくる

すこしグラグラするが歩きにくいというわけではない

それにともなって河の水量も流れの速さも大きくなってきた

どこかの支流が混じりこむ中継点なのだろう

幾許か歩くうちに横に聳え立っていた山や岸壁が自分から徐々に遠のいていくのに気づいた

自分の向かう河の向こうに、大きな水の流れる音が聞こえてくる

その音にかきたてられるように、導かれるように、自分よりも大きい岩たちをトントンと飛び越えながら向かう

そして階段状になった一つの大きな岩の上にのぼって、その歩みを止めた

そして周りを見渡す

レイは広い場所に出た

山々は横へと広がり、いままでで始めて見る大きな谷に出た

そこは大きく開けた河原が広がっている

そして、その中心には中流と呼べるような大きな河の流れがあった


…すごい


レイは見入った

いままで見てきた河というものは横断できるくらいの速さで流れ、水深も深くて膝がつかるくらいのものだった

流れる音もサラサラと静かなものだったし、水の中に生きる生き物たちもそれほど大きいものはいなかった

だが、レイの目の前に流れるこの河はどうか

横断できるなんて、そんな考えは浮かんでもこない

河幅は十数メートルはあるだろうか

水の流れも速く、渡ろうなどしたら引き込まれてしまいそうな勢いだ

河底は覗き込んでも暗くて見ることが出来ず、水の深みは自分の身長よりもはるかに深いように見えた





これが、河の流れの、音…


それは雄大だった

いままで見てきた山景、山頂から見た限りなく広がるように見える森、朝霧、そして夜の支配者である月

レイが知る自然の雄大な象徴

彼女の中にもう一つものが加わった

河に沿って、石の上を跳ねながら走る

それでも河の勢いは自分の足よりはやい


すごい、まるで狼の群れみたい


あの入り組んだ森の中を疾走する狼のようで、いや、それよりもすごいものだった

タッ、タッ、タッ、と駆ける足が、トンと止まる

河の中に動くものが見えたからだ

河の流れの近くまで身をもっていき、河の中を覗き込む

そこには大きな魚たちが群れていた

こんな姿も初めてだった

腕を伸ばし、河の流れに手を入れてみる

水の流れの重みが冷たさと共にレイの手を押した


やはり、いままでと違う


はじめてみる現象への純粋な好奇心とともに、レイはこの旅の一つの行程が終わったような考えを抱いた

深呼吸をするとその鼻腔に河と緑の薫りがいっぱいに入ってくる


一歩、近づいた……


そう、いままでたくさんの河を見てきた

しかしどれも源流に近い上流、またはそれらが寄り集まったような小さな河

そして、それらのどれもが、大きな河へと成長する前に湖か沼か地下水流へと消えていった

それで終わりだった

だが、目の前に流れる河は違う

これは明らかに幾つものの上流が折り重なって流れる河だ

この河も、もしかしたら湖や地下水流に飲み込まれてしまうものかもしれない

それでも、ここまで大きく成長した河は自分が山岳地帯から上流地帯へ、そして中流域に近いところまでたどり着いたことの証だ

それは、彼女の目指すものへ、少しだとしても近づいたということだった


河の流れにそって目を走らせる

河はまるで生き物のように自身の身体をくねらせていた

その流れは大きく蛇行しながら山と谷に隠されるまで続いていた

そんな時だった

河が大きくうねり他の進路へ移動しようとするところにかすかに動くものがあった

この距離からあの大きさだと、1メートル以上はあるだろう

レイはとっさに身体を低くした

動物じゃない

レイの直感がそう言った

あれは人だ

白っぽい岩の上、河にもっとも近づいたところにあるもの

白系の服らしきものが保護色になっていて判りにくいが、それは確かに座っている人の姿だった

しかもこの河辺にただ独り

他に大きな生き物の気配はない

これだけ広がる河原の白い岩たちの上

自分を攻撃するような罠も存在も感じられなかった

それでも、人の存在はレイの苦手とするものだった

自分を依り代として放ったからでも自分の存在を避けたからでもない

レイ自身が彼ら“人”とは異なる存在を持っていたからだ

自分は人とは“違う”と

だから、これから行く先に座る人を避けて通っても良かった

森の中を少し迂回するだけでいい、時間もそれほどたくさんに失うわけじゃない

以前のレイならばそうしていただろう

でも、レイはそうしなかった

レイの心の中に巣くう、自分は人とは違うという感覚、それがレイの行動を拘束するほどまで強くならなかったからだ

あの森の中の人の言葉が、自分の心にある拘束を、あの人が言った言葉のように解かれているような感覚

身を低めていたレイは、スクッと立ち上がった

だたし、銃をその胸にしっかりと抱えて

レイは真っ直ぐ進むことにした


自分が迂回する必要なんてない

あの人の後ろをただ通り過ぎればいい

そう、ただ通りすぎるだけ…


レイは歩を進めた

本人は知らない、その一歩がどれだけ大きいものか

そしてその一歩を踏み出せる心のベースが出来ていたからこそ、この河にたどり着けたことを

レイはそんなことは知らない

ただ、前に進むだけ

だが、河縁に座る初老の人はその事を知っていた

彼女がここを通ること、そして自分を避けずに歩いてくること

そのことをほぼ確信的に

彼女が現れるずっとまえから

「彼の言った通りだ」、そう呟いたその人の表情は深く被った帽子の影に隠れてわからない

でも、その口元は穏やかな笑みを浮かべていた





がら、から、ごと


レイが足を進めるごとに下の石たちが鳴く

河の流れの音が隣を走る中、それほど大きくない音なのだがレイは静かにしてほしいと感じるくらいだった

これでは気配を希薄に保っても河の人の気を引いてしまう

レイは近づくとフードを深くかぶった

狭くした視界から河の人の様子を伺う

帽子のからのぞく髪の毛は白髪だが老人というには若い、細身の初老の男だった

じっとして動かない河の人の手には渓流用のバンブーロッドが握られており、その視線は糸の先の水流に向かっていた

白い帽子にベージュのジャケット

その姿が河の人をこの河原に同化させているようだった

レイは少し安心した

この釣り人は釣りに集中している

自分の存在に気を乱すようなことはしないだろう

自分にも経験がある

周りに気を使うとはいえ、釣りには集中力がいる

さほどのことがない限り、こちらに向かってくることなどはないだろう

レイ自身、出来るだけ気配を消しているのだから

しかし、そんな考えと共に不思議にも思った

なぜこんなところに?そういう疑問だった

こんな自然界の奥地で、しかも旅する自分がようやくたどり着いたような中流域に人がいるという事実

でも、そんな考えも早く通り過ぎようとする気持ちにどんどん小さくなっていった

そんなレイの気持ちも、レイが朝から休憩を取っていないことも、河の人にはわかるようだった


もう少し


レイの足がちょうどその人を通り過ぎようとしたときだった


「お嬢さん、そろそろ休んでもいい頃だろう」


レイは驚いた

一番望まない展開の上に、過ぎる瞬間に高められた神経へ突き刺さる言葉だったからだ

それで思わず振り返ってしまった

そこには優しい表情でこちらを見つめる瞳

どこか気品のある穏やかで紳士的な人だった

ピタッと動きが止まり立ち尽くす彼女に河の人は促した


「違うかね?」


初老の河の人は悪戯っぽい笑みを浮かべてレイの返事を待っていた

レイは混乱した


何故自分は振り向いてしまったのだろう?

何故、いま立ち止まったままでいるのだろう?

この人のことは気にせず前に進もうと思ったのに


いまだにレイは考え込んだまま立っていた

河の人の言葉を無視して進むか、それとも

そうやって迷いながらもレイはこのまま進む気になれなかった

レイの人への拒絶がとても小さくなったからだろう

そんなレイの姿を一瞥すると、河の人はロッドを揚げ、腰を上げた


「少し待っていてくれないか?

 私も昼食をそろそろ食べようかと思っていたところだから」


キュッポっという小気味良い音を立てながら、河の人はロッドを分解し、釣り道具を片付けていく


この人は何かちがう…

…静かな中に大きな雰囲気をもっている

何だろう?

この感じ

私が"動かない"のは、私が知っているから?


その人は釣り道具を仕舞い終えると、岩陰に置いてあったバックを取り出した

それからレイの近く、そしてちょうど座りやすい石の上に腰掛けた


「さて、君は?」

「え、あ、はい」


レイは習うように慌てて座り込む

河の人はバックから金属製のポットと二つのカップを取り出した

そして、青い布に包まれた箱を取り出す


「君もどうかな?

 今日は作り過ぎてしまってね、私一人では多すぎるくらいだから」


そういってその人が開けた箱の中にはサンドイッチが詰められていた

タマゴやレタス、トマト、ハム、チーズと色とりどりの食材が挟まれていて、とても綺麗なものだった

レイは一瞬ためらったが、その言葉に甘えることにした

なにせ、目の前にある食べ物は初めて目にするものだったからだ

レイは箱の中を見回して苦手な肉類が入っていない野菜サンドを一つ取り出した


「い、いただきます」


戸惑いながらもひとくち、口に含む

口に含む前の匂いにおかしなところはない

口に含んで最初のほうは違和感がないかと探っていた

隣に置いた銃にも意識を配りながら

でもすぐその考えはどこかにいってしまった

自然そのままの食材を食べてきたレイにとって、それは驚きだった

食草や種子類もおいしいのだが、この食べ物はまた違うものでとてもおいしかった


「おいしいです」


少し驚いた表情のまま呟き、ふたくち目を食べる

河の人は嬉しそうに言った


「どうやら、君の口にあったようだね、なによりだ」

「これは貴方が?」

「ああ、一応独り暮らしだからね

 まあ、彼ほどはうまくはないが、これくらいは出来るものだよ」


河の人はレイにしきりに勧め、そして自分もランチをとった

レイは今日の昼の分の食料が浮いたことに感謝した

二人が満足出来るほどの量で、まるで作り過ぎたというよりも、最初から二人分を作ってきたようだった






コポ…コポ…コポ

冷たい金属のカップに、注がれるコーヒーの熱がパァッと広がっていく

立ち上る湯気に顔を近付けると温かいそれが頬を過ぎる

二、三回息を吹きかけて口に含んだ

ほどよい酸味が伴う苦みが口の中に広がる

でも、それは美味しく、そしてなにより暖かかった

カップに添える手から、それを飲んだ身体から熱が広がっていく


ふと景色が広がった

冷たい無機質な部屋

コンクリートの壁、無骨なパイプベッド、タイルばりの床

血塗れの包帯が入ったダンボール、ただ一つのタンスの上に置かれた眼鏡ケース

壁にはハンガーにかけられた青い制服が一着

開散とした台所、無音で冷たい部屋の風景

ゾクっという震えと共に我に帰った

手には温かいコーヒーのカップ

周りは白い岩の広がる河原

目の前を流れる河は水の音を絶えず響かせていた


今のは…?


「どうかしたかね?」


河の人が揺れるレイの眸を覗きこんでいた


「い、いえ

 大丈夫、です」


動揺を隠すようにコーヒーを喉に流しこんだ

それはさっきより苦いように感じた

それから俯いて空になったカップの底を見つめる

温かいコーヒーが無くなり冷えていく金属のカップ

いまの景色がそこに見えるような気がして


「冷たい心、かね?」

「えっ?」


河の人は驚くレイを見てから、最後の一口を飲み干し自分のカップを片付けた

レイに二杯目を勧めるが、彼女はそれを断りカップを返した


「昔、私は教師をしていてね」


彼は仰ぐように雲の支配する空を見上げた


「その頃、教え子の中に君に良く似た男がいた

 今の君のように寂しい顔と何かを恐れるような顔をしていたよ

 彼は優秀な人間だったが不器用だった

 生きることに、自分の気持ちを理解すること、そしてそれを他の人に伝えることに

 私は教師で彼は私の生徒

 もちろん私の方が歳を経ている

 本来なら私は彼に教えなくてはならない

 だが私はそれをしなかった

 そのかわり私は彼の傍に付き、彼がどう進むのか見届けようとしたんだ」


そこで河の人は言葉を切った

レイは心に渦巻く感情が何を表すのかわからないが、彼の話の続きを静かに待った

自分に関わること

聞かなくてはいけないと感じたからだ

空から目を落とした河の人はそんなレイを見て話を続けた


「私は、その時

 語ることを止めたとき、教師を辞めた

 私は彼の後に付き、何も語らずにその道に着いた
 
 私は黙して深みに足を進めた

 その心に何も持たずに、ただ見届けるということだけを胸に

 何故語ることを止めたのか

 それは実に愚かなことだった

 何故ときに応じて語ることを思いの中に刻まなかったのか

 私は教師としても、年長の諮問者としても失格だった


 ……昼の空は雲に、霧に覆われている

 この河の水も空を写し取り、暗く深い色を含んでいる………


 私は語ることを止めてはならないと思った

 全てを失ったときに

 私はもはや語ることを止めない

 私が知り、他の人が知らないときには…


 君は私の問いかけに答えた

 驚きや不安、混乱を共にするものではあったが

 それでも、君は今私のそばに座っている

 君は私を避けずに、私の後ろを通り過ぎようとした

 森に入れば私が君を見ることなく、さほど遠回りもせずに進めただろう

 だが君はそうしなかった


 君の心を覆う血まみれの包帯は少しずつ解かれ始めているんだよ」


河の人は真摯な目でレイを見つめた

レイの心が揺れた

自分の考えたことがこの人にはわかっている

自分の心の中が

何かが心の中で示されたように感じた

レイは目をそらさずに河の人の言葉を聞いていた


「君がもし私を避けて森に入っていったのなら、君はこの河を二度と見つけられなかっただろう

 もし君が、私の呼びかけに答えずに進んでしまっていたなら、この河も他の河のように飲み込まれてしまっていただろう」


河の人は釣り道具とバッグを持って立ち上がった

レイは座ったまま、その人の顔を見上げる


「君は海をさがしているのだろう?

 この河は君の求めるものへの唯一の指標となる河だ

 この河はもう裏切ることはない

 少し離れたとしても君はこの河を見つけられるはずだ

 そして新しい導も

 その基礎が定まったからだ

 それは揺るがないだろう

 この河を下っていきなさい

 その先の、更なる導を見ることができるはずだ

 もう、迷うことのないように」


そういうと河の人は帽子を深々と被り森に向かって歩き出した

レイは立ち上がる

その心の中は驚きでいっぱいだった

疑問と聞きたいことでいっぱいだった

でも、それを彼に尋ねたところで、その答えが返ってくることがないこともわかっていた

だから、一つだけ尋ねた


「…貴方は?」


河の人は足を止めてレイのほうへと向いた

そして、帽子のつばを上げてレイの顔を見る


「私は君に語ることが出来てよかった

 私は冬月コウゾウ

 いまだに教師と名乗っているものだ


 …君の名は?」


「……綾波…レイ、です」


「よい名前だ

 その名前を忘れることのないように

 
 …君は青を探しているのだろう?

 だが、忘れないでいて欲しい

 “青は君の中にある”

 
 レイ君が青にたどり着けることを祈っておるよ」


レイは深く頭を下げた

冬月は目を細めてその姿を見、それから森の緑の中に消えていった










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