空を仰ぎ、海を見つめ
私は、歩く
この青い海は、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか
この青い空は、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか
これから昇る陽の光に、私は何を見るのだろうか
私は、歩く
空を仰ぎ、海を見つめ
見渡す限りの青い海と、見渡す限りの青い空を眺めながら
真実は、何?
そう月に尋ねながら
自分が何者なのかを
自分が何処から来たのかを
そして、自分はどこへ行くのかを
それらを捜した旅路の果てに
私は何を見出すのか
空を仰ぎ、海を見つめ
私は、歩く
月の下
風が吹くたびに地形が変わり、景色が変わる
今まで山だったところに谷が、谷だったところに山が、という具合に
平らな砂地には吹き抜ける風の跡が、蛇の這い進んだあとのように刻まれていた
吹き抜ける風の声も、姿も様々
吹くときもあり、吹かないときもあり、砂を運び、舞い上がらせ、レイの身体に吹きつけようとする事もあった
まるで意思があるかのように
本当に「荒れ狂う」というその言葉がしっくりくるような気候の中、レイは自分の意思が介さないそうした現象の中にもう一つの影の存在を感じていた
でも、まだ感じるだけ
見られているような感じはあるものの、姿は見えない
沙漠という向かい合うための定めの場にあって、その存在は未だその姿を現さずにいた
いままで感じてきたのと同じ、それが纏う雰囲気が身の周りを巡るだけ
嫌な感じが全身を舐める
薄暗い闇の中で、隙のある背後を伺い、狙いを定め、自分の喉笛に爪をかけようとするかのようなものだった
殺意とは違う
でも、飲み尽くそうとするような気
それでもレイは足を止めず、前へと足を運ぶ
後ろは振り返らない
ミサトと加持がくれた言葉
後ろと前にある道、既に刻まれた過去と、まだ何も書かれていない真っ白な未来
立ち止まることは出来ない
このときの流れという支配下にある者として、時の壁が背中に迫る
それから、それぞれの使者がくれた言葉がレイを支えてくれる
後ろを気にすること、思いを止めること、固執すること、それらは罠になる
何をその心に止めておくか、そこに真実というものを導いてくれた人々に感謝した
そんな中でも、風は巡り、砂は流れる
沙漠、一つとして表情の一定がない
それは様々な場所に様々な表情を浮かびださせる
それは、揺れる、たくさんの揺れる青い藁人形たちのように表情を変えていく
無機質で皆が同じ表情に
そして風
それは四方八方から吹き付け、砂を運び、まるでクスクスと囁き笑うように音を重ねていた
あの場所を、自らの生まれた場所を思い出させ、レイの歩みを止めようとするように、効果的に、残酷に
クスクス
クスクス
風と砂は形を作り、レイを舐めるようにしては過ぎていき、レイの耳元に囁く
ナゼオモイダシタ?
ナゼオモイダシタ?
オモイダサナイホウガヨカッタノニ
オモイダサナイホウガヨカッタノニ
クスクス
クスクス
レイは表情を隠す
腕で覆い、進んでいく
その姿が、その雰囲気が、強く、具現化するのを待つために
その時、砂と風の藁人形の一つがレイに触れようとした
「止めなさい」
レイが顔を上げる
それと同時に赤い光が砂と風を切り裂いた
レイに触れようとした風が止み、砂が地に落ちる
他のモノたちもすぐさまレイから離れた
レイは息を吸った
「茶番はもうたくさん
何故そうやって私の意気を挫こうとするの
そんなものが何の意味も持たないことは、私の“心”に住むものとして知っているはず
沙漠
ここは向き合いのために定められた場
私はこの場所を進む
では、貴方は?」
澄んだ声が、沙漠に響く
囁き笑う声、無機質な笑みを持つ表情が一瞬で消え去った
そして、嵐の前の静けさのような沈黙が沙漠を覆った
それっきり風は止み、砂の凹凸も消え、沙漠は砂の平原となって落ち着いた
渦巻いていた意志が消える
そしてそれらが一つに収束していくのを感じた
陽炎が立ち、砂漠が揺れる
その中をレイは進む
さっきまでの渦は嘘だったかのように、周りは何もなくなっていた
逆に全ての動が吸い込まれてしまったかのような静寂
レイの進む後に出来る砂の足跡だけが唯一の変化だった
目も消えた…
手も消えた…
そして雰囲気も…
時が訪れる…
陽炎が地表を揺らした
揺れる陽炎の中、何もない
地平線が続く
陽炎が地表を揺らした
揺れる陽炎の中、何もない
ただ地平線が続く
だが、レイの紅い眸は姿ではなく、雰囲気を捉えた
あの感覚を
来る…
そして、陽炎が揺れた
その遠くの方に蒼銀の髪毛が輝くのがわかった
見えるのは髪だけ
その先には沙漠が地平線まで広がる
レイは歩を早めた
そして陽炎が揺れた
さっきより近くなったところで、顔の輪郭がわかり始めた
それから、首
近づくごとに、上半身
それから下半身
そして、陽炎が揺れる中で、その足が地に着いた
陽炎が晴れていき、その姿がはっきりとしていく
蒼銀の髪
紅い双眸
白い肌
華奢な体つき
そして、見覚えのある制服を身に着けた少女がレイの前に立った
その表情は昔のレイがしていたのと同じように冷たい無表情だった
数歩の距離を空けて互いに歩みを止めた
まるで鏡のような邂逅
レイはあの場所で、自分の原点となるところでの邂逅を思い出した
まるであの時のような対面
閉鎖的な空間と血のような水溜りの中という差はあるものの
あの時は何を感じていたのだろう…
「ただいま」と言葉を発した私の心は
あの時の私は何を考えていたのだろう
補完計画が交錯する中
自らの思いを解放しようとする中
今はどうなんだろう
この場に立ち、この場で向き合っている私は
…たぶん、なにも考えていないし、なにも感じてはいない
私の考えはここに留まっているわけじゃないから
レイは息を吸った
そして、名を呼ぶ
「お久しぶりね “リリス” 」
名が沙漠に響いた
この世界にあって、特別な名が
名で呼ばれた“彼女”は表情を変えなかった
ただ凍りついたような無表情
だが、あの雰囲気だけは隠していなかった
もはや隠す必要はないのだろう
“どちらにしても”、これが最後の邂逅なのだから
「何故? 何故、拒絶するの?
貴方は還ってくるはずの人
何故、この世界を壊そうとするの?」
彼女の唇から紡ぎ出されるのはレイの声と同じ
それは耳だけじゃない、心に直接触れてくる声
くっと唇を噛む
嫌な感じ
夢の中で槍を突き刺した時のように、言葉自体にも、声自体にも淡々とした雰囲気の中にえぐり取ろうとするようなものを感じる
やはり殺意ではない
それを遥かに越えるような残酷な欲求
レイは震えそうになる身体を必死で押さえた
カヲルの言ったように、目の前の等身は恐ろしく強大なもの、兄弟たちの母の座にあるものなのだ
そして自分の大いなる母でもある
でも、それは諦めには繋がらない
レイは意志を固めた
胸にある銀十字が支えとなる気がする
これが最後
これが終わった時にあるのは解放か無、どちらしかない
でも、私はもう無に還ろうなんて思わない
私は私を選ぶ権利がある
レイは彼女の眸を見つめた
その眸の奥には彼女の本当の姿を感じた
表層の無機質な冷たさを纏うその中に、もはや隠さないあの雰囲気の元凶を
「リリス…「何故?」その言葉を私はそのまま貴方に返すことにするわ
本当の貴方を見せなさい
もはや隠す必要もないでしょう
私にしても貴方にしても」
彼女はレイのその言葉に人間らしく俯き、溜め息をついた
それから肩を震わせた
最初は声にならない笑い、そして徐々に囁き笑う声がレイの心にまで響いてきた
砂までがその笑いに彼女から離れる
彼女が顔を上げた
その表情は醜い笑みに歪んでいた
「確かにそうね」
レイと同じ声
でも、レイの言葉に、明らかにその声の雰囲気も変わった
冷たさとは違う、強いていうなら闇、または絶対の孤独の風がレイの頬を撫で、沙漠に広がった
「…もはやオマエと私との間に覆いは必要無いか
オマエが全てを思いだし、全てを理解した今
既に幻影では、私の“腕”では、オマエに触れることはかなわない
時が過ぎ、知り、時が来たのだから
オマエの欠けた心が変わった
“ここまで着てしまったのだな”
ならば私は、直接求めることにしよう」
彼女が一歩、小さく足を踏み出した
地面の砂が恐怖したように退いた
逃れられなかった砂は、彼女の足の下に鳴き砂となるが、すぐにやんだ
音を出していいような場ではすでになかった
神聖なる神々の地、または虚無という地獄のように
「動かないで」
レイが静かに叫んだ
彼女が足を止める
二人の距離が沙漠の中、この世界にあって二歩縮まった
「何故?
終焉の日に「ただいま」と私を求めたのはオマエだったはずだ」
「ええ、リリス
確かに私はそういった
それから貴方に戻った
私の生まれたところである貴方の所へ
貴方の血と肉と心となり、私と貴方は元の姿に戻った
でも、それは私が無に還ることを望んだわけでも、藁人形として歩んだからでもない
そして、貴方と一つになり、存在も精神も共に絶対的な孤独の中で、あるいは滅亡した赤い海において過ごすことを望んだからでもない
あの時の私は、私が貴方から生まれ、二度の死を経験した短い人生の中で初めて望んだことを実現させるために貴方のところに戻った
それだけよ
貴方のためではない
あの「ただいま」は貴方のためのものではない
だから、“この世界”にあって、私に再び「何故?」と尋ねるのは的を違えた問いよ
“はじめから”違っていたのよ、リリス
貴方も他の使徒たちと同じように、私がこの世界にいる時点で貴方の存在は終わってしまっている
そして、そのことは貴方もよく知り、理解しているはずよ
だから、私をこの世界に存在させ、私の心と記憶とを封印した
違うかしら?」
目の前の彼女を見つめる
彼女の焦点はレイに向き、その表情は驚きに満ちていた
そしてレイを取り巻いていたあの雰囲気がその沈黙の間だけ途切れる
「オマエは私ではなく、私はオマエというわけか
オマエは変わった」
「いいえ、全て違う
貴方と私は違う
私は貴方だったもの、だけど、その後に続く路は私のもの
貴方の路とは違う
そして私は変わったんじゃない
いままで知ることもしなかった自分を知っただけ
いえ、教えてもらっただけよ
私は変わらない、私を形創る欠けた心は」
「いや、オマエは変わったよ
どうして現実を求めたりする?
そこに巡る人からの恐怖、人への恐怖があることはオマエが最もよく理解しているだろう
第壱拾八使徒リリン、群体を選んだ、知恵の実を食らった“人”
それは常に群体の隣人に怯える
そして同じ隣人を傷付け、時にはその命すら奪う
自らの安定をもたらすためという自己中心的な思いの中に
オマエが知らないはずはない
藁人形として歩いたオマエは、その残酷さ、醜さを見ている
幼いオマエを殺したものの顔を覚えているか?
その特異な容姿を見て遠ざけたものたちを覚えているか?
自分たちの代わりに残酷な生死をわける戦いに送り出した者たちを覚えているか?
群体全ての存在をその肩にかけた者たちを
憎しみに狂気し、目的のために存在から目を逸らし、オマエをただの鍵として扱ってきたものたちを
人は残酷で身勝手な使徒だ
利己的で欲望を膨らまし、ついには自らを飲み込んだ
何故それを、そんな現実を求める」
レイの表情が陰った
彼女の言葉が心をえぐると同時に、その言葉があの夢の映像をひっぱり出してきた
レイの顔に苦い表情が微かに現れるのを彼女は見逃さなかった
「それにオマエは人ではない」
そう、一つだけ彼女は呟いた
レイにかろうじて聞こえるほどの声量、でも確かに聞こえるようにはっきりと
その言葉はただ一言、小さく短い言葉で、レイに十分な衝撃を与えた
レイの眸が揺れ、視界がゆがんだ
その瞬間、風が舞い、砂が少しだけ舞い上がった
そして、レイが顔を上げると、そこに彼女はいなかった
「!?」
鋭いナイフを突きつけられたような感じが全身を走る
後ろからの手が、左はレイの肩を、右はレイの首元を回り、抱き寄せていた
レイは動かなかった、いや動くことが出来なかった
息が止まり、音も、感覚もが飛んだ
ただ、彼女に触れられているところだけが、氷を当てられたような冷たさと火傷するような痛みを感じる
時間が固まったような静寂の中で、リリスがレイの耳元すぐ近くで言葉を紡いだ
「オマエハ、ワタシダ」
闇がレイを舐めた
そして、闇はレイを包み、落とした
絶対の孤独という絶対的な安定の中に
レイが瞼を開けると、何も見えなかった
何も感じず、何も聞こえず、何も考えられず、ただ心に直接声が響く
『壊すことはない
ここは安息の世界
ここでは誰も裏切らない
誰もオマエを傷つけない
そして誰かを傷つけることもない
ここは恐れのない唯一の世界、不安のない唯一の場所
さあ、心を解き放て
ただ一言、「恐怖のない世界を」そう望むだけでいい
ワタシトヒトツニナリマショウ?』
闇の中、レイは両手で耳を覆い、猫のように小さく丸まった
…こ、心って、弱い
本当に、弱い…
なんで、なんでこうも簡単に諦めに傾くんだろう
据えたはずなのに、しっかりと決めたはずなのに
ただ一言一言の言葉に、過去の、過ぎてしまった言葉に、こんなにも揺さぶられるなんて
なんて脆い…脆い
リリスの言葉の力
彼女の言葉一つ一つはレイの定めた心を効果的に打ち砕く力を持っていた
彼女だから出来る、レイの生まれた所である彼女だから出来る鋭利で鈍重な言葉
そして人が言うのとは違う、第二使徒の重み
レイの心が軋む
きつく握り締めた腕に血が滲む
そこに添えられた手の主が囁いた
『もう傷付きたくないだろう?
もう苦しみたくないだろ?
もう、誰も傷付けたくはないだろう?
その二つの白い腕を、大切な者たちの真っ赤な血で染めたくはないだろう?
その二つの足で、大切な者たちの屍を踏みにじりたくはないだろう?
この世界はオマエにとっても“人”にとっても最善唯一の選択なのよ
もう傷付かなくていい、もう苦しまなくていい、もう誰も傷付けなくていい
心を開け
ただ一言、それだけでいい』
壊れる……!
欠けた心に亀裂が走った
『貴方は何を望むの?』
言葉が切り裂いた
闇に沈みゆくレイに添う彼女の影を
苦しむ間も、抵抗する間も与えずに、言葉はリリスを沙漠の場へと弾き出した
透き通るような力のある声
姿は見えない闇の中、どの方向ともわからないところからの決意に満ちたものだった
『貴方は何を望むの?
ここには貴方がもっとも恐怖していたもの、他人からの干渉、恐怖、不安はない
人を恐怖に落とすことも、他の人を傷つけたり滅ぼしたりすることもない
絶対的な平安の世界
でも、“何もない世界”
リリスから生まれ、リリスに帰るものにとっての究極の望みがここにある
使徒であるものの終着点
絶対的な孤独
貴方はそれを望むの?』
貴方は何を望む、その問いがレイの中でリフレインする
『貴方は何を望むの?』
「私は、私の望むものは……
青という希望」
『貴方は何を望むの?』
「現実、そして真実
そのために、私は、ここまで歩いてきた」
「貴方は何を望むの?」
「絶対的な孤独なんて、私は望まない
傷つけられたとしても
傷つけたとしても
欠けた心があったとしても
全て分かり合えないとわかっていても
私は無を望まない
傷つけられたとしても
傷つけたとしても
欠けた心と欠けた心とが人と人の間を隔てたとしても
人は本当の意味で分かり合える
私は、そう思う
だから、私は…」
「「“現実の世界で生きることを望む”」」
心に浮かんだ言葉が聞こえた、それが重なる
声はいつの間にか肉声になってレイの耳に響いていた
そして、心の中心から響いていた声は、いつの間にかレイの目の前で聞こえるようになっていた
レイの中に映像の断片が流れる
白く眩しい閃光の中で、自分に振り向いた微笑が
重なる
闇の中で
レイの目の前で
「貴方は……二人目の、私?」
闇が揺れた
そこに見たのは、微笑だった
蒼銀の髪を纏い、紅い双眸を持つ綾波レイが、レイの前で微笑んでいた
満月の下で、自分が見せたあの微笑を浮かべていた
「ありがとう」
彼女はレイにそう呟いた
リリスの纏う雰囲気でもない
そして、自分と異なる雰囲気を纏うわけでもない
自分自身の雰囲気を纏って
「やっと、貴方にたどり着けた
やっと、貴方に見つけてもらうことが出来た
やっと、貴方と向き合うことが出来た
そう、私は貴方
私は二人目の綾波レイ
いえ、二人目などと分け隔てる必要はない
貴方の、私の、途切れてしまった記憶が私
私は貴方がその後ろに刻んだ道
貴方は、私を見つけてくれた
貴方は私と向き合い、私を受け入れてくれた
私は私の元に戻ることが出来る」
彼女はレイに触れた
以前の冷たさは、なかった
「貴方の望み、それは私の望み
綾波レイ、その存在の望み
だから、貴方には挫けて欲しくない
ここまで、貴方は勇気を出して歩んでこれたんだから
貴方は、それに対する十分な報いを受ける権利がある
もう少し
もう少し
だから、押しつぶされてしまわないで
私が、記憶の断片、そして失われた力のピースを埋める
貴方の、そして私の束縛の終焉」
彼女はレイの前で手を広げた
そこに現れたのは本
見知る面影の本
夢の中、幻の中でレイに過去を、現実を、真実を見せた本が、死海文書が彼女の手の中にあった
彼女はそれをレイに差し出した
「これは…?」
「死海文書には全てが綴られている
でも、貴方は見たはず
死海文書の、補完計画遂行の跡に残された項に何があるか」
「何も、ない……白紙だった」
「そう、何も書かれていない、白紙の項が続く
死海文書は補完計画完遂でその役目を終えた
これは過去の道なのよ、その文章が綴られた項は
そして思い出して
後ろに刻まれた一本の道、それは」
「戻ることの出来ない過去
そして、目の前に広がるのは、まだ何の道も刻まれていない草原
それは未来を示している
まだ何も書き加えられていない
自分がそれを刻むことの出来る未来
ミサトさんと加持さんがくれた言葉」
レイは胸の十字架を握り締めた
彼女もそれに触れる
そして、柔らかい言葉を紡いだ
「よかったわね
山で碇司令
河原で冬月副司令
樹海で碇ユイ博士
小屋で赤木博士
草原で葛城三佐と加持一尉
林で弐号機パイロットとフィフス
みんな言葉をくれたのね
みんな貴方を支えてくれているのね
私も、とても嬉しい」
彼女の目から涙が零れた
「忘れていないわ
そして忘れない
みんな、私を求めてくれた
だから私も歩くことが出来る
人は、一人ではとても儚い
ただ一つの言葉でも、その足を折るのは容易い
人は、脆い
簡単にくず折れてしまう
でも、私は一人じゃない
だから、私は前へ進む
全ての障壁を拒絶して
私の願い、「現実の世界で生きることを望む」
それを果たすために
新たな白紙の項に、自ら道を刻むために
生きましょう」
彼女が頷いた
月の光のような光が闇を割った
リリスが感じたのはどんなものだったのだろうか?
驚愕か恐怖か、それとも安堵か、何にせよ、全てが終わるというものを感じたはずだ
自分の腕の中に置き、後少しでその心を永遠の孤独に共に長らえたはずだったものが、触れられなくなった
リリスはすぐさま腕を解き、レイから離れる
最初と同じくらいの距離がレイとリリスの間に戻った
リリスの表情が歪む
その瞬間、先ほどまでレイに触れていた手と腕が崩れ落ちた
肉の崩れる嫌な音とともにそれは落ち、地面にたどり着く時には赤い水に変わった
砂がそれを飲み、声にならない叫び声が沙漠の砂をわける
瞼を閉じて動かなかったレイがゆっくりと目を開け、リリスを見つめた
優しい眸で、たくさんの思いが渦巻く赤い眸を見つめた
「時が着たわ、リリス、死海文書に記された終焉の時が
貴方が、その指で止めてしまった時計の針を、正確な時間に進める
時を戻さなくてはいけない
本当は補完計画終了が全ての備えられたものの終焉になるはずだった
エヴァンゲリオン、アダム、ロンギヌスの槍、死海文書、黒き月、使徒達
そして貴方も
リリス、貴方を除いて全てはその時に従った
私自身がそれを見届けた
でも、貴方は違った
補完計画の遂行者として私と共にあった貴方は、時を止めるためにこの世界を造りだし、私の心を封じて私を、依代を止め置く形で時を止めた
貴方は時を拒絶した
でも、貴方の時は着たわ
そして私の時も
遅くはなってしまったけれど、受け入れなければいけない」
ゆっくりと、そして淡々と語るレイの表情にはもう迷いはなかった
レイはリリスに近づく
リリスの足がくず折れた
その足にはもはや支えられるだけの力がない
留置の、リリスの存在を繋ぎ止める箍が外れたからだ
「二人目が戻ったのか?」
絞り出すような声が尋ねた
レイは首を横にふる
「私は、はじめから綾波レイよ
二人目も三人目も関係ない
私の断片が私に戻っただけ
貴方が封じていた私の欠片が
私は生まれた瞬間から終わる瞬間まで綾波レイよ」
リリスは唇を噛んだ
既に崩れ始めた身体が、彼女の時の終わりを示している
「何故、私とともにこない
何故私を求めない
オマエの望みは私のもとにあるはずだ
虚無、それこそが他人による絶対的恐怖の領域からの解放になるのに
あの世界に戻るということは、オマエの最も恐れた他人からの恐怖が再び始まることになるのよ
それでも、オマエは」
「かまわない」
力強い一言が音を吸い込んでいくような静けさに大きく伝わった
レイはリリスの目の前まで歩を進めた
リリスがレイを見つめる中、レイは優しい表情を浮かべながら口を開いた
「私はかまわない
人は傷つきあいながらも、わかりあえることがわかったから
だから私はもう孤独を望みはしない
私は、現実の世界で生きることを望むわ
私が“人”として初めて望んだこのことを、私は望む」
「時が、着たわけね」
全てが吹っ切れたような表情で呟くリリスの存在が霞み始める
リリスは安堵したような表情で俯いた
存在意義の終焉、時が戻り始める
「私は、貴方に感謝している」
ほんの一つの沈黙をはさんでレイが言葉を紡いだ
リリスは顔を上げ、少し驚いたような顔でレイの眸を見る
レイはくず折れるリリスのすぐ前にしゃがみ、同じ高さで視線を返した
「私は、貴方に感謝している
どういう形であれ、私は貴方から生まれた
貴方がいなくては、私の存在はない
私がこうして歩くことが出来るのも、貴方の存在があったから
それに、貴方がいたから、私は望みをかなえることができた
大切なものを失わないようにすることができた
だから、私は貴方を憎むことはしない
恐怖があり、悲しみと苦痛があったけれど、私は貴方に感謝しているわ」
リリスは瞼を閉じた
もう何も言うことはなかった
リリスの閉じた眸からは赤い水が、その身体を、存在を構成していたLCLが涙のように流れる
そう、涙のように
その表情は今までにない、穏やかな、とても平穏なものだった
レイが彼女の頬に触れる
リリスの涙が、レイの白い手を濡らした
時がきた
「リリス、私は生涯で二度と使わないと決めた言葉を、貴方に送る
最後の言葉を、貴方に送る」
レイの声は震えていた
リリスは最後にその瞼を開き、赤い眸を向けた
そして頷く
その微笑みは、本当に美しかった
最後に彼女はレイの頬に触れた
「さようなら」
少女の前に鏡の自分はもういなかった
少女の言葉は止め置かれた時を直す時計のリューズと同じ
時が戻り、定めの時が遅れながらにして、沙漠を駆け抜けていく
少女の、触れる手の中で、彼女は消えた
赤い水は沙漠がゆっくりと飲み込んでいき、その姿は跡形もなく消え去った
死海文書に記された全ての文章が成し遂げられた瞬間だった
ここにして、白紙というスタートラインに立つ準備が整う
新しい時の始まり
でも、少女は暫くの間、その場所に立ち尽くしていた
回帰と解放、その両方がなされた場として、再会と永別の場として
雲が晴れ、闇が覆う空に輝く月の光が地を照らすまでの間
立ち尽くし、空を見上げる少女は泣いていた
穏やかな顔で、月の光を浴びながら
もう二度と使わないと誓った言葉を墓標として
月が少女を優しく撫でていた
真ん丸の月が天空の中心に輝いていた
息を吸った
冷たい空気が喉を流れていく
それから涙を拭った
濡れた掌が冷たさを感じると共に、自分の身体を流れる血の温かさも感じた
生きている証
「行こう」
そういって自分を奮い立たせる
目を前に向ける
砂と空とが二分する世界
沙漠は静寂の上に整っていた
高低差も、山も谷もない
平面に整えられた、風の足跡もない地
足元を見る
自重によって沈み込んだ足はくっきりとその窪みを作っていた
「新しい道に
自ら刻む道に」
それから足元にしゃがみ、砂の上に手を置いた
そして、言葉を残す
「ありがとう」と
それは、沙漠に向かってなのか、それとも消えた彼女に対する言葉かはわからない
レイは立ち上がり、まだ何も刻まれていない砂の地に足を踏み出した
月の光が降り注ぎ、石英質の砂が白く輝く地に
風はない
砂を踏みしめる音と自分の息遣いが聞こえるだけの静かな地がずっと広がっている
空には雲ひとつない中に月があり、それには自分に寄り添ってくれているようなぬくもりがあった
手を伸ばせば届いてしまいそうなくらい近く大きく見える
補完計画の時とは違って、この月は手を伸ばせば本当に掴めそうな感じだった
でも、あの時のことは後悔していない
あの時私は、私の大切なものを守るという望みを果たせたから
空を仰ぎながら、しっかりと大地を踏み締めて歩く
あの時の月も大きく白く輝いていたわね
記憶が目に映る景色と重なる
補完計画が敢行されたあの夜と
あの夜パズルのピースが全て揃い、サードインパクトが発動する
だが、誰の思惑もそれに干渉できなかった
ただ遂行者の意志、または願いだけが、サードインパクトを誘導した
何もない、“無”という完全な滅びから“選択”という道へ
あの時も、この景色とよく似ている光景の中にいた
整えられた静しかない砂漠と同じように、凪ぎの海、赤い血のような海の上
空には雲ひとつない、闇の中に輝く満月
360度何もない世界
違うのはぬくもりがあるかないか
あの時は何も無かった
ただ赤い、今までは生を保ってきた死の水が足元にあるだけ
歩くのを止めてしまった人間に、もう一度歩くことの出来る選択を与える、それがあの時の私の願いだった
リリスの力を使ってのサードインパクトに、自らの願いを入れた
一つの段階で終結するはずのサードインパクトを二段階のものへと変えた
全ての人のA・Tフィールドを取り去り、一つの状態へと還元する第一段階の後に、“選択”という第二段階を置いた
歩みを強制的に止められてしまった人間に、再び自らの足で地面を歩くという選択を
でも、あれは賭けだった
リリスの力と、自分の存在の全てをかけても、サードインパクトという儀式を捻じ曲げるのは難しい
“選択”というものを置くことが出来るかどうか、それを人類に結びつけることが出来るかどうか
そして、それを基に人類が再び立つことが出来るかどうか
最後までわからなかった
でも、レイはそこまでを見届けることが出来ない
遂行者としての権限は、サードインパクトの発動だけ
しかも、それを捻じ曲げるために使った力の責任を、自らの存在で返さなければならなかったからだ
でも、それでもよかった
自分は『GOAT for AZAZEL』
人々が犯した、人類補完計画という罪の贖罪
壱拾七の使徒という“焼燔”の犠牲と、綾波レイという放たれる犠牲によって、人類の罪への贖罪となるのなら
それで、人類が再び歩むという選択ができる場を設けることができるのなら
それで、『GOAT for AZAZEL = いなくなる山羊』という存在になってもよかった
それが、望みだったから
歩くのを止めてしまった人間に、もう一度歩くことの出来る選択を与える、それがあの時の私の願いだったから
そして、補完計画の第二段階が、“選択”というものが始まる瞬間に、レイは消えた
いなくなる山羊、それと同じように
それで、よかった、はずだった
私の、願いは、あの時に成されようとしていたから
私が消えても、それでも、よかったはずだった
でも、何かが、私を引きとめようとした
いまなら少し、わかるような気がする
選択がなされようとする、そこまで見ることが出来た
そして、それはレイの望みだった
あとは、人、それぞれが選択すること
そこまでの土台を据えられたことで十分、のはずだった
レイはあの時、気づいていない
声にはならない声を
そして、レイは忘れていた
エヴァンゲリオンという箱舟を
赤い海が選択を迎えようとしたとき、レイが贖罪のために消えようとしたとき、声は腕として、レイに伸ばされていた
絆、そしてそれを表わす意志
それが、レイの心に触れた
見えない、聞こえない、感じない、心の声
例え、それが届いたとしても、レイを贖罪から引き戻すことは叶わなかっただろう
サードインパクトの代償、リリスの力
でも、その声は確かにレイに触れていた
レイの心に、確かな破片として埋め込まれた
それが今に繋がるのだ
沙漠の上、レイは十字架を握りながらその胸に手を置いた
そして空を仰ぐ
あれが…
あれが、いまの道の始まり
今、私が抱く願い
「現実の世界で生きることを望む」
それを生み出したもの
絆…
如何なるものも断ち切ることの出来なかった絆…
さら…さら…さら…
レイの足元で、砂たちが囁く
静寂と整然を保っていた世界に、音が、そして動が生まれ始めた
そして、肌に空間が当たる
最初は僅かに、そしてしだいにはっきりと
風という動が、沙漠の上を駆け巡り始めた
それは、最後の壇上へとあがる変化の具象化したものだった
「ありがとう」そして「さようなら」という二つの言葉の意味がもたらす、最後の階段
自分というものとの邂逅の終焉と共に、最後の扉への鍵に変わった
整然と広がっていた砂の地形がうねりだす
バラバラに吹いていた風が一つの方向に集束していくのがわかった
自分の向かうほうから、自分の正面へと吹く風
荒々しいものではない
微風
優しくその頬に当たる風には、象徴的な証を乗せてレイの下に流れてきた
レイの鼻腔がそれを感じる
レイはそれを知らない
感じたことのないもの
でも、感覚的にそれが何を意味するのか、その未知なるものが何に繋がるのか、そのことだけは理解していた
湿気を伴う温かい風がレイの髪をなびかせ、足先の砂がレイの歩にあわせて、導くように、祝うように、小さく鳴き始める
私の求めてきたものが、この先にある
私の本来の心が求めたことだったけれど、旅の最初はわからなかった
“ただ与えられた記憶”をもとに、真に求めるそれの意味は隠されていた
でも、旅の途中のみんなが私に気づかせてくれた
そして、導き、勇気を与えてくれた
そして、私はいまここを歩いていて、私の進む先には真実がある
私の旅の終わり
“私の終わらないはずの旅の終わり”
レイは左手で自分の頬をなぞる
それは無意識のうちに
でも、終わらないはずの旅の終わり、リリスが最後に手を伸ばした手の感触、そしてそれが解いてくれた意味を身体の奥底では感じていた
「さようなら」「“ありがとう”」その言葉が、終わらない旅の終止符を告げる彼女の手に捧げられた
「さようなら」もう二度といわないと誓ったその言葉で送り出した時の、リリスの微笑をレイは一生忘れないだろう
それが、レイの世界の全てを変えたのだから
空には漆黒と静寂が広がり、しかしその中に一つだけ大きく白く、真円の月が輝いていた
それは沙漠の、石英の砂を青白く、明るく照らしている
朝が近い
でも、その朝は私の知る朝、私が見てきた朝じゃない
本当の意味での、私の知らない朝
私のこの世界での最初で最後の朝
空には雲ひとつない
とても澄んだ空が何処までも広がっていた
雲は何処にもなかった
朝を覆うはずの雲と霧はもはやない
それはレイの心だったから
二重の霞、その象徴となる雲は、二重の霞を払ったレイの心にあって晴れているから
月の白い光をドレスのように纏いながらレイは進む
胸にある銀十字が白き光を吸い込んで弾けた
光がレイを通り抜けていく
レイは胸に手をやった
トクン
触れた銀十字が鼓動した瞬間、レイの耳が聞いた
音を
規則的な音
今まで聞いたことのない音を
本当の意味で聞いたことのない音を
吹いてくる風が幾らか強くなり、その中に薫るものもはっきりと感じられるようになった
目の前にある一段高く堆積した砂丘がレイを待っていた
レイは歩の速度は変えずにゆっくりとそれに向かう
そこからは隔壁としての拒絶は感じなかった
急勾配に足を掛ける
足先を刺すように埋め、崩れやすい砂丘を上っていく
息が上がる
でも後ろから背中を押してくれる月光がレイを支えた
そして風と音が一瞬消えた時、レイは頂上に立った
強い風が一つレイに向かって吹き抜けた
広がっていた
漆黒の澄んだ空に輝く満月の下、広大に広がっていた
レイはゆっくりと膝を折った
砂がレイを優しく受け止めてくぼむ
レイの頬を、その薫りを乗せた風がかすめ、レイの耳に規則的に打ち寄せる漣が過ぎていった
白い固体の砂の世界と全く違う世界の広がりの境界がその漣とともに揺れている
レイが見つめてきた全ての広大な世界、山脈、河川、森、草原、林、そして沙漠
目の前を覆い尽くしてきた六つの世界
今、レイの前には七つ目の世界が広がる
いままでの中で最も広大で意味のある世界が
二重の霞の先、真実の象徴、求めてきたもの、レイの世界の境界線
レイの唇が震え、かすかな声が紡いだ
「 “海” 」
広がっていた
夜に覆われ、暗闇を内包する、でも天空の月光が揺れる波に光を映す
漣は白く輝く砂の世界と、広大な“始まりである海”の世界の境界をぼやかしながら、侵食し戻っていく
全体的な静寂の中に境界線の規則的な漣を聞き、レイの耳は心地よさを覚えた
レイは砂丘をすべるようにして降りていく
砂浜には、漣が作った波の跡が残り、レイはそこに足跡を刻んでいく
月の光の下、水で色を変えている砂地、波が寄せる境界線までレイは足を進めた
そしてしゃがみこみ、見つめた
レイの目の前に、海が会いにくる
それはレイの足先まできて、そして帰っていく
手を伸ばせば触れられる
でも、伸ばした手は、波の握手を握らなかった
その手は空を握る
触れられなかった
何故……?
レイは自分に問いかける
恐怖はなくしたはず
孤独はなくしたはず
碇司令に、冬月副司令、ユイ博士、リツコ博士、ミサトさん、加持さん、アスカ、渚君
みんなが私の背中を押してくれた
二人目の私に再会し、共に一人になった
リリスに、母に会った
そして、許してもらった、認めてもらった
真実を知り、現実を見、心を定めた
綾波レイとして、“人として”歩むことを決めた
そして、私は、私の世界と、“現実の世界”との境界線に立っている
ここまで来た
終わらないはずの旅
その終着点へと
なのに………
私はもう十分受けた
必要なもの全てはみんなが与えてくれた
私は歩けるはず
前へと
なのに………
なのに…………
『人の足は弱い
定めても、その道が、その人の道に属するとは限らない
でも二人で行くなら、二人で手を繋いでいるなら
片方が立ち止まっても、片方が道を示していくことが出来る
そして、二人で行くなら
真っ暗な道でも、朝日を見ることが出来る
赤い海でも、青い海にすることが出来る
僕は君の道を明るく照らす
君が立ち止まらないように、君の手を握って
君の目が闇にとらわれないように
君の足が暗い道に立ち止まらないように
君に道を示し、君と共に二人で行く
あの空に浮かぶ月のように』
月が微笑んだ
レイの心が鼓動した
その背中に感じる気配
月光が降り、砂浜を照らし、石英の砂が受け取り解いた光のカケラが集まっていく
レイは立ち上がり、降り注ぐ光のほうへと向いた
月の光が意志を持つように、きらきらと輝く粒子がレイの目の前へと集まり形を作っていく
最初はまばらで、細かかった光の粒子はどんどんと形を成し、
それはしだいに大きな光の粒子で密度が濃くなり、輪郭もぼやけたものからはっきりとしたものになっていった
そして、光の集合体は集まるほどに光を失っていき、人の形へと存在していく
レイは感じていた
この目の前に現れている月の光の雰囲気を
そして思い出していた
山頂の木々の上で涙を流したレイを、優しく包み込んでくれたあの月の雰囲気を
森で、草原で、いつも自分の眠る上で見守ってくれたあの月の雰囲気を
見ることが出来なくなった森の中で、狂おしいほどに求め、大切だと気づいたあの月の雰囲気を
立ち止まりそうになったとき、その思いを包み消し、背中を押してくれたあの月の雰囲気を
そして、幻の中で見た笑顔の少年の雰囲気を
レイの見守る中、月光は人型へと変わり、輝きが消える
レイの心の全ての伏せられていたカードが開いていく
夢の中、幻の中のすべてが
そしてレイの記憶の中、魂に刻まれた大切なものが、レイの心に蘇り、レイの目の前に蘇った
“月”が降り立った
「………碇…くん…………」
風が、波が、声を消した
ただレイの言葉だけが、世界に響いた
レイの世界に、レイのもっとも大切に刻まれた名前が
「…綾波…見つけられたんだね
真実を、事実を、現実を」
漆黒の瞳の少年は、天空から見守っていた月のような優しい雰囲気でレイを見つめた
レイはゆっくりと頷く
それから、彼のすぐ前まで歩を進めた
彼の背が自分よりずっと高くなっていたこと、自分の蒼銀の髪がいつの間にか長く伸びていたことが少しだけ悲しかったが、今はもう関係ない
レイはコツンとシンジの胸に頭を預けた
「ありがとう、碇くん…
貴方が月で、私を守ってくれたから、貴方があの空に浮かぶ月のようにいつも一緒にいてくれたから、私は見つけられた
“真っ暗で、何もない道でも、二人で行けば、何か見つかるかもしれない”
そして私は見つけた」
顔は見えない
でもシンジが頷いてくれてること、埋める胸に、確かに彼の鼓動が聞こえて嬉しかった
「よかった…
私の望みは確かにかなっていた
碇司令たちがいた
リツコさんたちがいた
アスカが、渚君がいた
私が望んだ通り、誰ひとり欠けることなく
そして、私はいま貴方の前にいる、貴方の心臓の音が聞こえる
碇くんが生きてる
私は、私の存在を掛けた意義があった」
レイは顔を上げた
涙を溜めたその紅い眸を向けてシンジに尋ねる
「碇くん、怒っている?」
シンジはレイの頭に手をまわして抱き締めた
そして首を振る
「綾波がいる
それだけでいいよ」
レイはその言葉に、シンジを掴んでいた手の力を強める
シンジも返すようにレイの華奢な身体をしっかりと抱き締めた
「……サードインパクトが発動した後、あの時生きていたほとんど全ての人々は赤い海から帰還した
生きるにしても消えるにしても一部の例外を除いてね
全て君の望み通りに
君が滅びを認めなかったから
失った者たちに選択と機会を与えたから
世界は、人々は、一旦動きを止めてしまった、人が人として歩む道という時計の針を再び動かすことができた
君の存在を犠牲にしてね」
シンジの言葉の一つ一つには淋しさの陰がある
それがレイの胸を締めつけた
「…ごめんなさい」
レイは小さくつぶやく
だが、シンジはレイを腕から解いてその目を見つめると優しく笑った
「いいんだ
綾波が謝るようなことなんてない
謝るのは補完計画を成立させた僕たちのほうだから
それに、君の力で贖いがなされたんだ
『Goat for AZAZEL』最後の使徒である君が使った最後の権威
そして君はいなくなった
贖罪のために放たれた山羊の如くに
滅びにつながる人類の罪を背負って、人類に新しい道を進む選択を与えて」
シンジは言葉を区切り、そして二人の存在に静寂する海を見つめた
「結局、サードインパクトは罪だったんだね
あの赤い海は、犯した罪に対する報い、人々の墓標
SEELEは、群体の使徒である人間を個体の完全な使徒にしようとしたわけだけど、
サードインパクトはそんな複雑なものじゃなくて、とても純粋なものだった
人が犯した第二の原罪
神聖な領域を侵した人間への罪と罰がそれだった
罪に対する報い、その罰は、永遠なる滅びだった
その罰を、君は背負ってくれた
『Goat for AZAZEL』がその背中に罪を背負って、荒野に放たれ消えていったように
人々に罪の刻印は残る
でも、贖罪は成され、赤き海という罰は消え、人々はいまの時間を歩いてる
……………
あの赤い海の上で、僕は見送る者となった
エヴァンゲリオンという箱舟の中からね
それから、その時から、僕は迎える者としての時が来るのをずっと待っていた
あの時、手を伸ばしても、声限り叫んでも、届くことのなかった大切なものが帰ってくるのを
そして、いま僕は迎える者としてここに立っている
それが例えようもないくらい、嬉しいんだ」
レイはハッとシンジのほうに向いた
自分が『Goat for AZAZEL』として消え行くとき、ひきとめようとしたあの微かな力はシンジから来るものだったのだ
リリスとともにあり、もはや人ではなく、強大な力を持って過ぎ去り行く自分に届いた微かな力
エヴァンゲリオンという箱舟の中にいた存在なら、干渉のもとにはいないのだから
「…そうだったのね……
私は、あの時わからなかった
でも、確かに届いたわ
貴方の声、貴方の伸ばした腕
去り行く私の権威の前で、微かなものだったけれど
確かに届いていた
いかなるものも連れてゆく事などできないはずだったのに
人の犯した罪に対する罪を背に乗せる以外できないはずだったのに
貴方の声は、私の心に届いていた
魂に刻まれたもの
やはり、それは碇くんだったからだと思う
……………
『Goat for AZAZEL』をその身としたあと、私はそれに対する執行と、選択に対する報いを受けた
記憶を封じられ、この世界に幽閉された
この世界、『Goat for AZAZEL』が彷徨うべき荒野としてのこの世界に
そして記憶を真っ白な紙に戻され、定められた記憶、定められた歴史、定められた世界に、いつの間にか立たされた
そこから始まった年月は、十数年に及ぶものだったはずなのに、まるで時計の針を指で進めるごとくに過ぎ去っていった
その期間は、私が、この世界をこの足で歩いていたという概念を刷り込むためだったみたい
私の身体が、心が、確かに記憶をはじめたのは、森の中、満月が輝く空の下を旅していた時から
私の身体が、心が、確かに自分を感じ始めたのは、あの夜から」
レイは言葉を一旦切ると、シンジの言葉を待たせて、足元の砂を一握り掴んだ
そして、それを目の高さまであげると、シンジの瞳を見つめて、問う
「碇くんは、もう知っているわよね
ここに立っているのだから」
シンジは言葉は出さずに、ただ頷く
レイはそれを見て、握られていた掌を開いた
砂が、目の高さからサラサラと重力に導かれて流れ落ちていく
が、それは地面に達してその流れを止める前に、レイの意志によって空に舞い上がり、きらきらと輝く光の破片となって消えていった
その光景を二人ともただ静かに眺めた
「現実の世界のように思える
見るものも、聞くものも、香るものも、味わうものも、感じるものも
それはたしかな現実のような姿を纏っている
でも、こうやって私が思うだけで、この世界の全ては従う
私の心が揺れれば、世界も歪む」
ミサトたちと共に過ごした朝、目の前の光景が歪んだ記憶が頭の隅に浮かんだ
「ここは、私の世界
私の心がリリスによって造りだした、もう一つの独立した世界
誰にも干渉できない、物質世界から完全に隔離され切り離されたフィールド
私が、『Goat for AZAZEL』として永遠に彷徨うために備えられた荒野
冬月先生の言った言葉がいまになってよくわかる
世界を変えるのは私の心だということに
“蒼は君の中にある”
山々から河に、河から樹海に、樹海から草原に、草原から林に、林から沙漠に、そして沙漠からいま立つこの場所に
全部、私の心が生み出した世界の形
私の意志が生み出した世界
みんなが教えてくれたことの一つ
私の心が一つの真実に気づくたびにそれは変わっていった
でも、私の世界は私の意志だけでは動かせなかった
私の心が未熟だったせいもある
でも、それだけじゃない」
「リリス、か」
「ええ
私の心は、リリスに縛られていた
身体を二人で共有したときから
私が彼女のもとに帰ったときから
だから、私一人の意志では、私の世界を動かせなかった
動かせたのは、私に教えてくれた人たちのお陰
でも、いまだによくわからないの
私の世界は干渉できないはずの世界
全ての物質世界から隔絶されたところのはずなのに
みんなは私の世界に足を踏み入れたし、いまここに碇くんがいる」
何故?という問いを、言葉ではなく首を傾げるしぐさにのせる
シンジは核心のピースからその問いの答えを始めた
「黒き月とロンギヌスの槍、そして死海文書が僕たちの手に残されていたんだ」
「えっ……!?」
レイは驚きを隠せなかった
手に残る感覚がその言葉を否定しようと声につなげる
「そんな…
確かに、その要たちがあれば、干渉できるかもしれない
でも、そんなことはありえないわ
儀式に関わった全ての要を私は滅ぼしたのだから」
儀式の役目を終えた要たちにもはや存在意義はない
それぞれが自ら終焉を迎えていくなかで、リリスに帰したレイ自身がそれらを砕いていったはずだったのだ
黒き月、ロンギヌスの槍、死海文書、エヴァンゲリオン、アダム
ただリリスだけが自らの時を止めることで滅びを免れていただけで、他の要は全て滅びに定めた
夢の中に死海文書が出現したが、それは自分の心が記憶から作り出したものだと思っていた
確かにあの時、それぞれの要を打ち砕いた感触を記憶から手繰り寄せられる
戸惑うレイにシンジは言葉を続けた
「確かに、使徒は全て滅び、エヴァもその役を終えて消えた
黒き月も死海文書も槍も尽く砕かれた
同時にそれは、君を繋ぐ橋の崩壊でもある」
「なら…」
「カケラだよ、綾波」
「カケラ?」
「そう、君が荒野へと消え去るために砕いて滅ぼしていった要のカケラ
黒き月の破片、死海文書の破片、そしてロンギヌスの槍の破片
それが、残されていた
それを、黒き月の破片を基礎に死海文書の破片で探し、槍の破片で繋いだ
ここは心の世界
本来は誰にも干渉できない領域だけど、それぞれのカケラを組み合わせれば難しいことじゃなかった
黒き月は場所を築く力を持つ、死海文書は指し示す力を持つ、槍は干渉する力を持つ
そして訓練用に残され、損壊を免れた二本のプラグと一個の訓練所が改造され、準備された
いままでのエヴァのデーター全てと松代を含めた六台のMAGIも導入された
プラグのコアに繋げるはずの神経を黒き月の破片に繋いで精神世界への基盤を作り出し、MAGIに接続した死海文書の破片で君の世界を探した
君の世界を特定すれば、エントリープラグに乗る使者に現実と精神世界とに干渉できる槍のカケラを身に付けさせ、送り込むことが出来る
僕をサルベージした時の逆をやればいい
送ることのできる限界は二人、それほど長い間送ることは出来なかったけど、それらがあれば可能だった
そうやってみんなは君に会い、僕もこの世界に、綾波の世界にいる
ただ、僕は最後の最後まで足を踏み入れることを拒絶されていたけどね」
「何故?私の心が…?」
「いや、違うと思う
やっぱり僕は見送る者になってしまったからだと思う
箱舟に乗った唯一の者だったから
その中にあって、唯一人として、第壱拾八使徒リリンとして、サードインパクトを迎えた者だったから
黒き月から死海文書を使って君の世界を見ることは出来たけど、君に直接会うことは今まで出来ずにいた」
「それで、月として私を…?」
「うん
でも、僕は何もできなかったよ
綾波が辛いときも、苦しいときも、ただこの世界の外、現実と君の世界との狭間から君を見ていることしかできなかった
せめて、君が安らかに眠れるように、君が一歩でも早く歩けるように月の光を、想いを乗せて降らすだけ
それだけだよ」
「そんなこと、ない
私の前に訪れたそれぞれの人達が、私を教え、導き、支え、言葉やぬくもりを与えてくれた
でも、もっとも私を支えてくれたのは、夜空に輝く月だった
碇くんのくれたぬくもりは、いつも私の心を支えてくれた
山頂の木々の上で泣いていた私の目から、涙を拭ってくれたのは碇くんの月の光だった
草原や森の中で、私が安心して眠ることが出来たのは、碇くんが見守ってくれていたから
立ち止まりそうになったとき、その思いを消して私の背中を押してくれたのは碇くんのぬくもりだった
貴方が、私の道筋を照らしてくれたから、私は歩いてこられたのよ」
「ありがとう、綾波」
レイはかすかに首をふった
シンジはレイの言葉と仕草に表情を和めた
それと共に、見守っていただけだった、それしかできなかった自分も、レイの歩みを支えることが出来たことが嬉しかった
レイはそんなシンジの表情に胸を撫で下ろすが、首を傾げた疑問にまだ納得出来ずにいた
そのことが自分にとってものすごく大事なことのような気がして
「でも、まだよくわからない
ここまで来た、海を前にしているいまだけど、そのことが最後のピースに思えるのよ
貴方がいる、みんなが私に訪れてくれた、それは紛れもない事実だし、
碇くんが教えてくれたシステムを使えば、精神世界に干渉することも可能だと思う
私が海にいることがその証
でもそれは基幹である黒き月、死海文書、槍の破片があってこそのこと
レゾンデートルを失ったはずのそれらが存在期限の時を過ぎてもどうして存在することができたのか、それが私の心に引っ掛かる
あの時、私自身がそれを許さなかったのだから
だから、知っておかなければいけないような気がするの」
シンジは少しだけ沈黙した
風や波もそれにならう
一呼吸して、シンジは言葉を紡いだ
「僕にはわからないよ
その答えは綾波にしかわからないものだから
でも、一つ言えるのは、破片は綾波がいったようにレゾンデートル失ったわけじゃないと思うんだ
あの時、確かに要たちはその存在意義を全うした
エヴァや黒き月、死海文書、槍の砕かれた多くの破片はレゾンデートルを失って消えた
実際、いくら探索しても、見つかったのはこの計画に使われたものだけ
でも、ずっと思ってたんだ
それらのカケラがあるのは偶然じゃなくて“必然”だって
残ったんじゃなくて残されたものなんだろうって
終わりを迎えた存在意義に、新しいレゾンデートルを与えられて存在している、そう感じたんだ
でも、僕が言えるのはそこまで
その先にある答えは、綾波にしかわからないはずだよ」
「…私にしか、わからない、こと
残ったものじゃない、残されたもの…」
レイは俯いて思いを巡らす
頭の中ではいくつものキーワードがパズルを組立てようとしていた
黒き月、死海文書、ロンギヌスの槍、失ったレゾンデートルに新しいレゾンデートルの付与
要に対する存在意義への干渉
何のため?
心に干渉するため?
人が精神世界に人を送り込むために絶対に必要な三種類の要が残されたこと
そして、その通りに使われ、レイを導く使者の通り道としての役を果たした
「まさか、私のため?」
かすかな声でレイは自らに問う
シンジは静かにそれを見守っていた
繋ぐ手をしっかりと握り締める
今までは見守ることしかできなかった
だから、最後のキーに手をかけるレイに隣にいる存在として支えたかったから
レイはそのぬくもりを感じながら、自分の記憶のプールへと潜っていった
私は『Goat for AZAZEL』として歩んだ
サードインパクト発動の時、リリスと共になり、赤き海から人の罪に対する罰を背負い、選択の種をまいて
そして荒野である自らの心の世界に消えた
それに対する代償として
私のそれまでの記憶は消され、リリスが作り上げた世界に留め置かれた
定められた過程を過ごして、森の中へとさまよい始める、永遠の放浪を果たすために
でも、私の中には“青”を求める心があった
あの時はわからなかったけど、それは私が現実で生きたいという望みの象徴であり、絆の象徴でもあった
それだけは消えなかった
いえ、消されなかったのかもしれない
みんなが訪れた時もそう
碇くんが拒絶されたように、他の人達が拒絶されてもおかしくなかったはず
この世界は何物をも、槍さえも拒絶するほどの巨大な欠けた心だから
でも、干渉を許した
順々に、私の歩みを導けるように
私の意志じゃない
何だろう、この感覚
とても大きくて、暖かい
記憶の探るレイの心にひっかかったもの
目の前に感じる大きくてあたたかい存在
頬に感じるぬくもり
レイはその記憶へと意識を向けた
月が柔らかく見守り、静寂が沙漠に広がる
自分を見つめる紅い優しい眸
頬に添えられた手
そのぬくもり
とてつもなく大きくて、優しくて暖かい
その存在が薄れゆき、大いなる余韻を残していく中で、その唇が声にならない言葉を紡いだ
“ 生きなさい 我が娘よ ”
瞼を開ける
涙が零れていた
「………リリス…母さん」
力が抜け、くず折れるレイの身体をシンジは素早く抱きとめた
レイはその胸に顔を埋める
それからシンジの背に手を回して縋りついた
「そう、そういう、ことだったのね
貴方が、私に選択をくれたのね」
シンジの胸の中で、レイは涙を流しながら小さく呟いた
シンジの耳にもそれが届く
その言葉の意味に、シンジはレイをしっかりと抱きしめた
「選んだんだね、綾波」
レイが小さく頷く
「……存在意義を終えた要に、新しいレゾンデートルを与える権限を持っていたのはあの時一人だけだった
私の心の世界に干渉を許す権限を持っていたのは、私の心に青の希望を残しておくことが出来たのは一人だけだった
そして、私に選択を与え、私の権威を取り去ってくれたのはただ一人
私を飲み込もうとしたのも、私の足を砕こうとしたのも、私がそれを乗り越えて、私に望みを、私に選択をさせるためのもの
全部、私が歩くために……
………………………
碇くん…
私は、リリスに、母さんに、「生きなさい」って言葉をもらったわ」
レイの声は微かに震え、シンジの腕の中でぽろぽろと涙を流していた
シンジはそんなレイの髪を優しく梳く
その感触とシンジの優しさの雰囲気を感じながら、レイの中では嬉しさと悲しみ、後悔と感謝とが巡っていた
母親としてのリリスの存在
母というものを知らなかったレイが触れた唯一の存在のぬくもり
それに一瞬ではあったが包まれたことからくる嬉しさ
次の瞬間にはすぐ目の前で母を失った悲しみ
自分はリリスを母としてちゃんと見送ることが出来たかどうかという後悔
そして、それらをも覆い勝る感謝の気持ち
あの日、レイと赤き海と要に対しての全ての権威を持っていたリリスが槍と月と本の破片に新たなる存在意義を植え、
それをシンジたちに与えたことで、レイと現実との間に掛け橋を保たせたこと
今までレイの世界での全ての権威を持っていたリリスが現実の世界からの使者たちの干渉を許したこと、
要のカケラを残して現実の世界からの使者たちを招くことで、レイの心を成長させ、強く進むことが出来るようにしたこと
そして、邂逅と別れの時、レイがその心に確固たる意志を持ち、それにともなう強さがあるのを確かめたリリスがレイに選択を与えたこと
レイの頬に最後に触れたその掌によって
全てレイのために
感謝しても感謝しきれないほど
これが親の愛というものなのだろう
リリスが、時の流れを止めてまで、レイの傍にいたのはこのためだった
レイだけでは、例え望んだとしても成し遂げる力はない
“現実の世界で生きる”その望みを
レイだけでは、永遠という荒野を、人の犯した罪に対する罰を背負い『Goat for AZAZEL』としての権威の下に彷徨わなければならなかった
それを取り去るため、レイが自らの望みを成し遂げる依り代としてリリスは残った
死海文書に刻まれた、自らのレゾンデートル終結が成され、時の流れの中に消え行く前に、自らの時を止めて
レイに対する『Goat for AZAZEL』として
「私は、『Goat for AZAZEL』を失ったわ」
レイの震える声が零れる
その言葉に、シンジはレイの耳元で囁いた
「綾波の心が、綾波の心に還ったんだね
束縛である『Goat for AZAZEL』を、リリスが自らに帰したから
綾波の望みをリリスが受けて、時の流れの中に消え行く自分の存在と共に綾波の権威を引き連れていった
綾波が選んで、リリスがそれを成した
僕たちに綾波がしてくれたように」
レイは頷き、言葉を紡いだ
「リリス母さんが、私の世界を私に還してくれた
私が、私の道を進めるように
私はそれを、『Goat for AZAZEL』に拘束されていた私の心を自分のものとして受けた
だから、私は私の意志で、私の心を決めることが出来るようになった
リリス母さんが還し、みんなが成長させ、碇くんが繋ぎとめていてくれたこの心を
私の望み、意志、「現実の世界で生きる」、それを基幹として」
レイの声の震えはいつの間にか止まり、確固とした決意の声に変わっていた
レイが顔を上げる
その紅い眸はこの世界の終焉と、新しい道に足を踏み出す準備が整ったことを証していた
闇に包まれていた世界に光が、夜だけだった世界に朝が来る
「ありがとう、碇くん」
レイはシンジの腕の中から一歩離れた
雲ひとつない空
主を砂浜に届けた月が、存在を薄れさせながら二人に手を振る
夜の闇が薄らぎ始めた
「私は、碇くんが結んでくれた絆を持って、この世界を旅した
貴方の絆が、私を導いてくれた
貴方の絆が私をここまで繋ぎとめていてくれた
そして、私はここに自ら歩くことを決めた」
一歩分離れた二人の距離
レイは手を伸ばした
「碇くん、これからも絆を繋いでいてくれる?」
シンジは微笑む
そしてゆっくりと手を伸ばし、レイの華奢な手をしっかりと握り締めた
言葉はない
その手のぬくもりと、その握る力強さが答えだ
広がる空に光が走る
そして水平線にも光が灯る
「ありがとう」
一つはこの世界とリリスに対して
「ありがとう」
もう一つはシンジに対して、そして導いてくれたみんなに対して
この世界との別れ
レイは海に対する沙漠に向いた
砂浜とそれに続く沙漠
その先にある林、草原、森、河、山々
自らが歩いてきた旅路
母の眠る世界
でも、さよならを言葉には出さない
それは、もう置いてきた言葉だから
ありがとうの感謝の言葉とともに
全ての想いを込めて、レイは頭を下げた
そして、前を向く
進むべき道、探し求めた海、現実の世界へと続く扉に
「さあ、行こうか
みんなが待ってる
そして、僕も」
シンジが囁く
レイは微笑みながら頷いた
あの月の下で見せた微笑を浮かべながら
しっかりと手を繋いで
「夜明けよ」
レイの言葉が世界を切り開く
水平線に光が走り、朝日が昇り始めた
光は海を走り、空を走り、青を生む
彼女の髪の色のように美しい青が広がっていった
この世界の終焉を表わす陽の光は全てを包み込んでいく
そして、青と光の中、二人は足を踏み出した
新しい道へと
絆を帯びて、手を繋いで、私は一歩踏み出した
たった一歩
でも、私にとっては大きな一歩
何も知らなかった私の心
孤独と闇しかなかった私の心
ただ一つ細く、でももっとも強い標を心に抱いて、私はこの世界に降り立った
どれだけ歩こうと、どれだけ進もうと、一歩にさえならないこの世界に
そんな世界で、私は学んだ
私は独りではないこと、自分の意志で全ては変わること、生きること、自分は自分以外ではないこと、
大切なのは目の前に広がる未来だということ、人とは何かということ
そして絆とは何かということを
今まで気が付かなかった、とてもとても大切な人達が教えてくれた
立ち止まったままでいる私に
そして私の心から一つずつ、一つずつ、孤独が消え、少しずつ、少しずつ、闇が消えていった
そして気付く、孤独などなかったことに、闇などなかったことに
全てにおいてそれらを統べるのは心であり、それに宿る意志だということに
そのことに導かれて、大切な人達に導かれて、私は立ち止まっているこの世界の中で心を進めた
母と邂逅し、自分を見つけ、私は選択した
私の望み、心に刻む意志、現実の世界で生きるということを
そしてその基幹は母によって備えられた
現実の世界で生きること、人として歩むこと
私は一歩踏み出す地に足を置いた
絆を帯びて、手を繋いで
見渡す限り広がる空と海とを目の前に
真実を、事実を、現実を刻んで
隣に月、私のもっとも大切な絆、このために『Goat for AZAZEL』となり、このために『Goat for AZAZEL』を失ったぬくもりを握り締めて
そして、全てが整い、日が昇る
この世界の終焉と別れ
限りなく広がる空と海に青を広げ、世界に光を降らせる夜明け
私を包み込む光と青の中に私は見いだす
大切な人達が待つ所を、母がかなえてくれた希望のある場所を、私が絆と共に、月と手を繋いで歩く世界を
私は一歩踏み出す
絆を帯びて、手を繋いで
限りない未来を描くことの出来る世界へと
絆を帯びて、手を繋いで、そして私は歩き出す
まだ何も刻まれていない、この世界の下にあって