知らない匂いをのせた風の中、ジャリジャリと足音をさせながら

私は、歩く



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、歩く

知らない匂いをのせた風の中、ジャリジャリと足音をさせながら


見渡す限りの林木と白と茶色の地面を見つめながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



知らない匂いをのせた風の中、ジャリジャリと足音をさせながら

私は、歩く

月の下








Goat for AZAZEL   aba-m.a-kkv

第六話 − 林












本は閉じられる瞬間、周りの闇も本を取り巻く明かりも頭の中を駆け巡っていたイメージも、全てを吸い込んで消えた

そこには何も残らなかった

ただ、レイの記憶に断片を深く刻み込み、彼女の真実への鍵をその心に挿した


っ!


激痛なのか閃光のようなものが走る感触に飛び起きる

その耳に、草原にも森と同じように鳥たちが舞い降りるのか、外では軽やかなさえずりが聞こえてきた


…朝………?


周りを見回すが闇の中ではなく、昨日横になった時のテントの中だった

テント内は薄暗いが、入口部の切れ目からは明るさがわかる

隣に目をやると無造作に脱ぎ散らかされた寝袋が置かれていた

感覚は鈍るものの身体もこれが朝だと告げている

身体が重く、額には汗がにじんでいた


………

私、いつの間にか眠っていたんだ

………

そうしたら、あれは夢?


思い出そうとすると何かが頭の中を走り、記憶の復活を邪魔する

だが、レイの中で真実にかかる霞がまた一つ晴れたように感じていた

寝袋を出て、綺麗に畳んで置くとテントから出た

外に足を踏み出した瞬間、レイの前髪を撫でるように風が吹いた

それは目の前に広がる草原の上を通り過ぎていき、朝露をたたえる草から水玉を零していった

その時、もう一つの風が吹いた


ぐにゃ


歪む

目の前の景色が

あの夢を見たせいかもしれないが、風が流れる草原の景色が歪んで見えるように感じた

レイは頭を振る

それから目を凝らすと、景色は曇り空の下の綺麗な草原の光景そのままだった


なんだったんだろう?


「レイ、おはよう」


振り返ると黒髪の女性がパンをかじりながら座っていた


「ミサトさん、おはようございます」

「俺もいるからな」


レイが起きたことから、テントの解体準備を始めようとしていた加持も声をかけた


「おはようございます、加持さん」

「おはよう

 朝食、軽く用意してあるから食べてくれ

 準備が整ったら出発しよう」


加持の指差したほうにはミサトの分と並んでレイのパンが用意されていた

ミサトの隣に座り、小さく「いただきます」というとパンをかじった

眠そうにしながらも「いただいてます」とかえしてくれたミサトに優しさを感じた

パンを咀嚼しながら顔を草原へと向ける

一瞬だけかいま見た歪み

あれは目の錯覚だったのだろうか

テレビが壊れる前の画面の歪みのような光景

目の前に広がる光景はさっき確かめたときと変わらない

そよ風が時々草原に波をもたらしている姿だけ

少しの間眺めていたレイだが、出発の準備のために朝食に集中した

加持はテントを解体して片付けはじめ、ミサトも食事を終えて荷物の片付けに入ったからだ

それでも、頭の中ではあの本の存在が赤く脈動していた

記憶の霞を流し去る序章を告げるように







今日は風が多いような気がする

それに、この二日間の風に比べ幾許か強く乱れているようだと肌が感じていた

それを感じたとき頭に浮かんだのが冬月の言葉だった

河がレイの考え、行動で変化しえただろう、という言葉

あの意味はいったいどういう意味だろう

自分の精神がこの自然とつながっているということなんて考えられないはずだ

それでもレイの頭の中では引っ掛かるものがあった

あの本の夢

それから草原の歪みの錯覚

既に周りのほとんど全てが何かに関連しているように感じてしまう

自分が足をつけている、ということだけではない、自分の探す自分の謎の真実に近づく鍵の一部のように

風がレイの身体をかすめていく

草原の波も早く、進んでいくのに幾らかの抵抗があった

そんなレイに合わせて前を歩む二人も少しスピードを落としていた

加持を先頭にミサト、レイという順の臨時パーティー

レイの進む「森を背に直線を進む」という指標が、彼等のポイントと同じ方向に向いていた

だから臨時のパーティーというわけだ


「そのポイントには何があるんですか?」


出発してから数時間

正午の時刻に近づいていた頃、レイは今まで気になっていた質問をした

出会った最初の会話では自然に流されていったものだったが、レイの中にはずっと引っ掛かっていた

それを今になってから尋ねたのは、レイの中での処理が少し落ち着いたからだろう

いろいろな引っ掛かることをもつレイの頭は、あの夢を頂点にオーバーヒート気味だったのだ

すこしの余裕が出来たあらわれだ

それでも全てが解かれた訳ではない

むしろほとんど全てが謎に包まれたままだ


「もう少しでつくわ、そこでのお楽しみ」


ミサトは笑顔で答える

が、レイは不信感をもった

ミサトは優しすぎるのか、正直過ぎるのか、顔はにこやかにしているがその目は笑っておらず厳しいものだ

しかし、それ以上聞くわけにもいかない

口調や足取りからするともう少しのようだったのでレイは口を噤んだ


「なあ、レイちゃん」


そんな時に加持が声をかけた

不意の呼びかけに返事が遅れるが、加持は気にせずに話を進める


「この草原を見て、どう思う?」

「えっ?」

「とても広いと思わないか?

 360度地平線が広がり、世界はこの曇った薄暗い空と、雄大な草原の緑に二分されている

 草原と空、変わることなく

 この二つの不変で構成されたこの地で一つだけ違うものがある

 なんだかわかるかい?」

「……………」


加持の言葉に草原を見渡す

緑が地平線まで続き、それに変化はない

風は彼等を揺らすが、それはすぐにもとの姿に戻っていく束の間の変化に過ぎない

加持のいっている質問はそういう事じゃない

そう感じた

だがその奥にあるであろう意味はわからない

草原を見渡し、空を見上げ、最後に足元に目を落とした

足の下には押し重ねられた草が寝ている

それは自らが確かに二本足での歩いている証拠


あっ…


歩みを止め、足元に向けていた視線を移した

自分が進んできた後ろに

そこにも地平線まで緑の絨毯が広がる

だがそこには“道”が伸びていた

自分が進んできたという証が

緑の一帯に一本真っ直ぐ、色のことなった道がくっきりと残されていた


「道、ですか」

「その通り」


加持は振り返り嬉しそうに言った

それに続きミサトが口を開く


「この道はね」


レイの前に立ち、後ろを振り返るように促した

レイは、促されるままに足先をいままで歩いてきた道へと向ける


「ただ、草原に刻まれた道じゃないの」

「…どういうことですか?」

「この道はね、貴方が歩いてきた道、貴方が進んできた道

 貴方の過去を象徴するもの」

「私の、過去…」

「そう
 
 でも大切なのは後ろに伸びた道じゃないの

 後ろに伸びた道、それは既に刻まれてしまったもの

 それは進む上ではもはや戻ることが出来ない

 それは自分が歩いたという証だけれど、それは進む上では大切なことではないの

 進む時に一番大切なことは後ろではなく“前”

 前に広がる、まだ何も刻まれていないフィールドが一番大切なのよ

 それは未来を表している

 貴方の未来

 まだ何も刻まれていない、まだ何も定められていない未来

 進むのは貴方、道を決めるのは貴方なの

 私たちは時間の流れという制約下にあって後ろを、過去を振り返らないわけじゃない

 でもね、それは過去から流れを学び、そこから教訓を得るためのもの

 けっして向かうのは過去じゃないし、思いを向けるのも過去じゃない

 私たちが向かうのは、何も刻まれていない前だけ、何も刻まれていない未来だけ

 それだけは覚えていて」


ミサトは振り返るレイの前から身体を退ける

レイの目の前に景色が広がる、レイの“前”に景色が広がる

それは今まで見慣れてきた、360度草原の景色と違っていた

目の前に広がるそこには、木が立ち上がり、草原の緑よりも濃い緑を持つ“林”があった


「えっ…!?」


草原の終焉

突然の変化にレイは言葉が続かなかった

いままで見渡す限りの草原だったところに、森、いや密度からすれば林と呼べる地帯が現れたのだ


嘘…


その言葉が頭を過ぎる

ミサトの背中についていたとはいえ、その変化は信じられないものだった

まるで画面を切り替えたかのよう突然に

冬月の言葉が頭を過ぎる

“君の心次第で変化しうる”

さらに、告げられた一言がそれを重ねた


「そしてここが、ポイントだ」

「!?」


レイの驚く声の後に加持が呟いた

加持のほうを振り向く

そこにはいままで隣に居たはずのミサトが寄り添っていた

二人はレイから少し離れた場所につき、言葉を紡いだ


「俺たちは君に最初にあったときに、嘘をついた

 人を待っていて、間違えたと

 本当はミサトの勘じゃなく、俺の方があってたわけだ」

「どういう、ことですか…?」


混乱するレイの問いに、加持は微かな優しい笑みを浮かべて答えた


「あの場所で正しかったんだ

 俺たちは人を待っていた

 ………

 待っていたのは君だよ

 綾波レイさん」 


加持とミサトの存在が遠ざかっていくように感じた


「これが新しい指標だ

 冬月コウゾウが河を指標として示し、赤木リツコが草原を指標として指したように、俺たちも君に示す

 “林”、これが君の目標と真実とに向く新しい指標だ

 君はまた新たな鍵を見つけた

 そしてそれを手に真実へ一歩近づき、その片鱗を見た

 この草原は、君が通ってきた河や森と同じ

 もう役目を終えた

 そして、君に指標を指した俺たちも」

「レイ、進んで

 立ち止まることなく

 貴方の前にはまだ何も刻まれていない未来が確実にある

 貴方の道を作っていって

 それと、一つだけ忘れないでいて

 過去は過去

 大切なのは過去じゃなく、目の前の、自分が刻んでいく道だってこと

 お願い、私やリョウジみたいに過去に引きずられるようなことにはならないように、いつも心を確固としていて

 貴方になら出来るはず」


二人は寄り添って微笑んだ

その姿に、レイの頭の中で映像が流れた

あの夢の中の映画館で流れた映像が、高速で

今まで霞が掛かっていた、登場人物の幾つかの仮面が晴れていく

巨大な施設で初めて顔を合わせたところから

彼らが死を迎える時の表情まで


「……加持一尉……葛城三佐」


レイの口から零れた言葉に二人の顔が苦く歪む


「レイ…貴方……」

「まだ……まだ全てが戻ったわけじゃありません

 まだほとんどに靄がかかったまま

 でも、あなた方には確かに会ったことがある

 この記憶、私のいま歩いている道とはすごく違う感じがする

 それにはすごく大きな事が隠れているような感じがする

 それはすごく怖い

 触れると飲み込まれてしまうような

 でも、貴方たちが私に言葉をくれた

 加持さん、ミサトさんだけじゃなくて、冬月さんやリツコさん

 貴方たちが何者なのか、何故私に言葉をくれるのか、今は尋ねない

 それは私の記憶と真実の中にあると思うから」


レイは荷物をかけ直した

それは、進む意志の表れ

加持はその姿をじっと見守る

ミサトは加持の腕を解くとレイの前に近づいた

それから服の中に隠れていた物を取り出す

一旦、離されたそれはミサトの胸で揺れて銀色に光った

ミサトは手を首に回しホックを外す

レイの前で揺れた、銀色の十字架のペンダント


「レイ…」


ミサトはそれをレイの首に掛けた

レイの胸で銀の十字架が輝く


「私の宝物

 貴方に預けておくわ

 貴方がたどり着けるように

 私達の存在の代わりとして持っておいてほしい」

「ミサトさん…」


ミサトはレイを強く抱き締めてから離れた


「さあ、お別れだ

 俺たちはここまで

 ここから先は君が歩むべき道だ

 君の前にある真実は、残酷なものかもしれない

 でも、それだけじゃないこと、忘れないでいてくれ」

「それから、その先にあるものに目を向けて

 振り返らないで

 また会うときまで」


レイは一歩足を踏み出してから、ミサトと加持のほうに向いた

寄り添い見守る二人に、深く頭を下げる

そして、方向を前に広がる林に定めた

後ろには振り向かない

彼らが言ったことを心に刻みながら

レイの姿は木々の姿の中に飲み込まれていった

新たなる壇上に上るために











森と草原が完全に境を分けていたように、草原とこの林も一つの線を引いて完全にわかたれていた

そしてレイは草原に別れを告げることなく、後ろを振り返ることなく、その境を越えた

足を踏み入れた瞬間、何かがレイの身体を取り巻くような雰囲気に包まれた

その空気は今までと違う、他の世界へ足を踏み入れたような感じにさせた

林の中はとても静かで、草原を撫でていた風はなく生き物たちの気配さえ読み取ることが出来ない

感覚を鈍らされるような環境

逆に普段持つ感覚を潰し、見えない何かを見るためにそうしてあるようにも思った

この場所ではレイの普段使う感覚が使えない

その中で感じたのは、この場所が今までの山や森や河、草原とは根本が違っているということ

胸にぶら下がる十字架だけが唯一確かな存在としてレイに重みを感じさせていた


ここは、違う

足を着きはするけど、それは別のものの上を歩くみたい

なんだろう

すごく不安定な感じがする


林の中、森のように全てが覆われているわけではない

空も垣間見ることも出来るし、まったく薄暗いわけでもない

また、木の生える密度もそれほど高くなく、いままでの森に比べると疎らだ

それだけに視界も広範囲に広げることが出来る

だが、レイを緊張させるのはこの林の浮遊感

目に見える地と身体が感じる感覚とが合わない

水の中をたゆたっているような、夢の中を漂っているような、そんな曖昧な雰囲気

不安、それは確かにレイの中で広がっているが、それよりもレイの中で膨らむのは「不安定」という言葉だった

後ろを振り向いて見る

まだ入ってから幾許も進んでいないのに、林の中心へと足を向けたような風景になっていた

草原と同じように自らを囲む木々の群れ

草原の草たちはどこか変化を感じさせるもので、そこには生きている気配を読み取ることができた

動物たちにくらべ、草木は生命の存在の感じ取り方が難しい

動の存在が薄いからだ

それでも草原ではわかった

また時々吹く風も360度視界を埋める緑に変化を、動を与えていた

でも、ここは違う

なんといえばいいのだろう

静物画の中を歩いているかのような雰囲気

近くにある木の幹に触れてみる


やっぱり、違う

“ここにあるけど、ここにはない”

“触れているけど、実体を感じない”

虚像のよう?

いえ、違う“夢”のような…


フラッシュバックのようにイメージが頭の中をよぎる

森、山、河、草原

それらは感じていたはずなのに、触れて、旅をして、過ごしてきたはずなのに、それら全てが遠ざかっていく

この林と同じように

目には見える、触ることができる

でも“ない”そんな感じの中に

虚像、または“夢”の中に吸い込まれていく

旅にでる前のことも、旅に出てからのことも

その風景全てが写真を見ていたような、“醒めて”しまうような気がレイの中をかけ巡っていた

ただ一つ、あの月を見上げた夜から出会ってきた人達の存在だけが、幻想の中の現実のように留まっている


おかしい

私はその中にいた

過ごしてきた

だけど…なに?

この感じ


レイの中に生まれた疑問よりかは疑惑

嘘というよりかは幻想

現実というよりかは夢

そしてミサトが言った「二重の霞」その言葉がふとよぎった


どういうこと?

あれは、ただ記憶の奥に更なる真実があることを忘れないようにという言葉じゃないの?

霞が覆うもの、それは記憶だけじゃないの?

私の中には、外にはまだ膨れ上がる何かがある


レイは木の幹から手を離し、また静の林の中を歩き回った

進んだことは間違いない

入った時は昼過ぎでまだ明るさがあった林が、今では暗闇が降りつつある

でも、真っ直ぐ前に進めたかはわからない

静物画のようで、また何の変わりもない林の中では目に映る風景がほとんど同じ

山岳帯でのリング・ワンダ・ルングに陥ったみたいに

だから進んだというより、歩き回った半日が終わる

今日も訪れる月の夜

月の存在は自分を暖める

あの柔らかい月光に包まれた時などは、まるで頭を優しく撫でられているようだ

この林の天井は今までの森より疎らだから、その姿を簡単に仰ぎ見れるだろう

レイは休み場を設けるために慣習の通り高い樹木に登った

思い返してみると、月の姿を見たくて、近づきたくて木の上に宿り場を構えてきたのかもしれない


月、不思議な存在

私を見てくれるもの

私が見つめるもの

あの白くて静かな存在、何故かとても愛しい

あの光には優しさを感じる

光が私の髪を頬を撫でていくのがとても心地いい


夕食とメンテナンスを済ませ、レイは毛布の上でゆっくりと月を見上げていた

でも、心を安らかにしてくれる月光の中でも、レイの紅い眸は揺れていた

その心は震える

夜、その内に膨れるものを感じて


今日は私に何を見せてくれる?


柔らかい月が絶えず見守る中、レイはもう一つの狭間に落ちていった

紐解きが始まる

二重の霞を断ち切るために








目が醒めた

いや、この世界を夢だとするならばその表現は正しくない

夢の中に醒めた

意識が夢の中に完全に潜り込んだようなものだろうか

レイは暗闇の中に横になっていた

瞼を開いた目には闇が見える


知らない天井

でも知らないわけじゃない雰囲気

本の世界とも映画館の中とも似ている雰囲気


身体を起こす

横側に支えでついた手は確かに固い感触を感じたが、そこも闇

見回すと天井だけでなく周り全てが闇の中

空間というものを認識できないほどに

これでは今まで横になっていたのが、本当にそういう姿勢だったのかもわからなくなるという少し不思議な気分だった

闇の中、仮に地面というのが足の下にあるものとしてレイは立ち上がった

それを待っていたかのようにレイの後ろに存在が現れた

それは風とも波ともつかない流れでレイのうなじを撫でた


今日は何を見せてくれるの?

今日は理解させてくれる、触れさせてくれる?

私の霞を謎を取り払い、私に真実の鍵を渡してくれる?

私は見れる、見れると思う

どんな残酷で苦痛な真実でも

私は閉じない、私の目も、そして、この本も


レイはゆっくりと後ろに身体を向ける

レイの目に入ってきた最初は赤い光

鈍く血のように輝くもの

レイはその光源に近づき手を伸ばしてそれを分けた

掌を上に向けると赤い光は重みを生み、レイの手の中に収束していく

光がレイの手に全て集まると辺りは暗闇に戻る

自分の手も見えないほどの濃い闇が

でもレイには見えていた、そしてそれを開く覚悟も決めていた


『死海文書』


光さえも包み込む闇の中、レイは本の表紙を開いた

重く堅い鈍重な音を立てて開いていく

そして暗闇の世界に、ヘブンズドアが開いたような音が響いた

開いたページの七つの目がレイの紅い眸を見つめ、レイを導く

二重の霞の奥、謎の先、真実へと



『ドクン』



何かが鼓動した



『シルナ』



その時、身体の中で何が這いずり回った

葉脈のようなそれはレイの身体を蝕んでいく


「くっ!」


激痛と快感が葉脈よりも早くに身体を行き巡り身体を麻痺させていく


「あっ、あう」


胸の辺りから派生したそれはレイの手足、そして頭へと伸びていく


か、影…


辛うじて動かせる首を動かし横目で振り向く

闇の中なのにそこには自分の形をした影が伸び、その表情は笑みに歪んでいた

それはレイの中に在るもう一つの存在の初めての直接的攻撃だった



『ワタシハオマエ
 
     コレハオマエニヒツヨウナイモノ』



それは、レイの手の先まで支配し、開いた本を閉じようとする

レイはその力に抗おうとするが、手は思うように動こうとしない

このままだと全てが終わってしまう、この本を閉じてしまったら全てが終わってしまう、影の笑みを見たときレイの直感がそういった

だが、本は徐々に閉じられて行き、パタンと乾いた終焉の音を立てようとした



だめ

そんなことはさせない



何かがレイの中で弾けた

レイの中心で赤い光が満ち溢れ、闇を飲み込んでいく

レイの身体を蝕んでいた葉脈は光に曝され、断末魔をあげるようにレイに激痛を走らせながら消えていく

そんな痛みの中でレイは身体の拘束が徐々に開放されていくのを感じた

そして、自分の中に在る、この光の中心に一瞬見えた人影も感じた

手に力が戻るのに合わせて、痛みの中、死海文書を開きなおす

光に包まれ消えようとする“影”は自らを消す光と再び開かれた本を見て、顔を歪ませながら引き下がっていった

痛みが消え、断末魔も途絶え、辺りが元の暗闇と静穏の状態に戻る

レイは本を開いたまま、くず折れそうになるのを必死でこらえていた

それから、震える手で次のページ、本編がはじまる項へと手を伸ばした

そのとき、レイは力ない足に支えを、そして震える手に添えられる何かを感じた

その力に支えられ、レイは死海文書のページをめくる

開いたページは光の海だった

レイの身体を包み込むように、その光は本からあふれ出し、レイを導く

書き記された世界へと

光の中に人影が再び見えた

一瞬、顔は見えないが、それは微笑を向け、その唇が動くのが見えた



貴方は見なくてはいけない

真実を

そして貴方は思い出さなくてはいけない

現実を

貴方が真実を見、現実を理解したとき

再び会いましょう



レイは光の中に落ちた











閉じた瞼からも光が差し込むのを感じる

外の世界は何故か暑い

そして耳には聞き覚えのない虫の声

でも、それが蝉の声だということにはすぐに気づいた

森では聞いたことない声なのに、そう思いながら

瞼を開く

眩しい

その向こうに、黒髪の少年が一瞬見えた


あの人は…


レイの心が揺れる瞬間、場面は変わった





瞼を開くと、巨大な施設の中だった

大きな音が断続的に響き、振動がひどい

誰かが駆け寄った瞬間、場面が変わった

目の端に見たのは、映画館のスクリーンに流れた紫色の巨人だった

頭の中に言葉が過ぎる

“エヴァンゲリオン”

頭の隅で何かが音を立てた





瞼を開くと、白を基調とした建物の中だった

自分はベッドの上にいる

それが病院の中だとわかるのに時間は掛からなかった

病院など知らないはずなのに

頭の中ではそう思うが、同じように頭の中では理解していた

そして場面が変わった

切り替わる寸前に誰かが顔を覗かせた

森の中で最初にあった人の顔だった

頭の隅で何かが音を立てた


碇司令…





瞼を開く

机がたくさん並び、同じくらいの人間が座っていた

部屋の前には何かが書かれた黒板がある

自分は制服をきて、腕には包帯、片目は眼帯をして見えていなかった

片方の目で窓の外を見ようとするが出来なかった

部屋の中、たくさんの人たちが座る中、一人の少年に目がいった

その瞬間、場面が切り替わった


学校…?


頭の中で何かが音を立てた





瞼を開くと、そこは部屋の中だった

コンクリートに囲まれた狭い空間

パイプベッドにチェストが一つ

ダンボールの中には血だらけの包帯

冬月の言った言葉を思い出す

『君の心を覆う血まみれの包帯は少しずつ解かれ始めている』

チェストの上には眼鏡ケースが一つ

あとは何もない、淋しい空間

同じような空間が片隅に現れては消えた

地下深くに設けられた、同じような空間が


知ってる…

これは私の部屋……


場面が変わった





瞼を開く

戦闘艦のセイルのような場所にいて、目の前にある大きな画面を眺めていた

自分の周りはとても慌ただしい

画面の中には不思議な形をした生き物が宙を浮かぶ姿が映し出された


…第四使徒、シャムシエル…


頭の隅で何かが音を立てた

近くに見覚えのある顔があった

赤い制服に身を包み、紫がかった髪を持つ女性


ミサト、さん?


場面が変わった





瞼を開けると液体の中に身を委ねていた


プラグの中…


ゆったりと流れる、微かな対流の抵抗を感じる

懐かしい感覚、心地いい感覚

生まれた場所をたゆたっているような

だが、それだけじゃない

気持ち悪い感覚、嫌な感覚

血の色、匂い、そしてその先に笑う影

吐き出し昇っていく息に乗せて振り切った


LCL…

命の源、血と同じ…


頭の中で何かが音を立てた


「どうかしら、レイ?」


プラグ内に響く声

聞き覚えのある声


リツコさん?


場面が変わった





瞼を開く

目の前に広がるのは灯火を消した都市

周りを山々に囲まれ、中心には八面体の要塞が浮く

見上げた空には、いままで見てきたよりも大きく、美しく輝く満月が微笑んでいた


「絆だから…」


言葉を紡ぐのは自分の唇

隣を見ることができない

ただ隣には温かい雰囲気があった


「私にはエヴァしかない」


ああ、私、こうだったんだ…


レイは立ち上がる



貴方は死なないわ

私が守るもの



場面が切り代わり、光の奔流が目の前を過ぎ、再び変わった

背負われていた

小さくも温かく、細くも優しい背中に


「今、僕たちには何もないかもしれないけど…

 でも、生きてさえいれば

 いつか必ず

 生きててよかったって思うときがきっとあるよ

 それはずっと先のことかもしれないけど…

 でも、それまでは生きていこう…

 真っ暗で何もない道でも

 二人でいけば何かみつかるかもしれない


 あの空に浮かぶ“月”のように」


頭の中で何かが声を上げた


絆…


場面が変わった





瞼を開く

目の前には湯気を昇らせ、コポコポと音を立てるケトルが火に掛かっている

自分の部屋、そのキッチン

住み初めていったいどれくらい使ったのだろうかというほど、そこには生活の色がない

そんなところで何をやっているのだろう?そう目を巡らすとシンクの上に四角い缶が一つとポットが一つ置いてあった


アールグレイ…

私の好きな薫り


ふと、後ろに人が立っているのに気付いた


「これくらいかな」


そう、後ろの人に聞く自分がいる

それからケトルに手を伸ばした

かすかに触れた表面の熱が手に痛みを走らせる


「大丈夫!?」


その人は手を握り、水道の流水にあててくれた

流水は冷たく、火傷した手を冷やしていく

でも、添えられたその人の温もりは暖かくて優しくて、そしてとても嬉しい

その瞬間、頭の中で何かが広がり、声を上げた

声は聞こえない

とても大切なことだということだけはわかるが、それでも耳までは届かない

自分の中に広がったのは何か

それもはっきりとはわからなかった

鎖のような、でも縛り付けるような強制の重みは感じない

何かと何かをつないでいるような紐


こぽこぽこぽ


白い紙カップにそそがれる紅茶

アールグレイの薫りが広がる

手を伸ばしそれを包み込むと、紅茶の温かさが手に広がっていった

一口、口に含む


「少し、苦かったね」


そう言葉が聞こえた


「でも、暖かいわ」


手の中に包まれている紅茶

それはとても暖かい

でも、私は知ってる

これは紅茶の温かさじゃない

これはぬくもり

あの月に包まれているような

あの月光に優しく撫でられているような

月のぬくもり

場面が変わった





瞼を開ける

身体は液体の中にたゆたう

だが、そこにプラグの壁はなく、目の前には広大な世界が広がっていた

薄暗い、塩の柱が織り成す世界

地球上ではないかのような環境

まるで、地獄、いや、裏を返せば天国なのかもしれない

そして、十字架

純白の十字架に磔刑にされた巨人

白い巨体

腰から下は途切れ、人の足のようなものが根のように生え出ている

そしてその顔は仮面

死海文書、自分をここへと誘った本と同じ徽章を持つ

だが目を向けていられなかった

それが中に入ってこようとするから


耐えられない……


自分の周りを覆う液体が赤く変わっていく

渦巻く思い

頭の中、強制的に表示される文字


同じ

同じ

人外

使徒

神々


オマエハ


手に持った槍が、レイの思考から闇をなぎ払った

槍が促す

手の中で螺旋に変化し、その頭を二又の矛へと変化させ


貫け

我、汝の手

薙ぎ払え

闇を


レイは槍を力強く握り締め、身体を反らせた

全身のばねを使って投擲する

槍がその白い巨体を突き破り、白い十字架に張り付けた瞬間、頭の中で何かが大きな音を立てて千切れた

場面が変わった





瞼を開く

欄干に手を掛け、寄りかかるようにして立っていた

ケイジ

神々の化身をつなぎ止めている場所

今は張られているはずの冷却水は引かれ、本来は広いはずの空間が手狭になっていた

包帯を巻かれたエヴァンゲリオン

それが目の前にあった

その表情は醜く歪んでいる

あの影のように

それを見ている自分

その心に渦巻くのは不安、心配、願い

初めて祈った

何に、と聞かれたらわからない

それは神様にだったのかもしれない

自分を変えてくれた人

自分を見つめてくれた人

その人と共に在るために


いま思えば

私は変わっていたんだ

あのときから既に

藁人形としての道を拒絶したときから

いえ、その前から

絆を結んだときから

私と、世界と、人とを結び、そして……


頭の中でぼやけた焦点が動き始めた

場面が変わる 





瞼を開くと、オレンジに輝く螺旋が回転していた

あの森の中、始めての不思議な感覚を察知したとき、頭の中に浮かんだ映像だった


繋がった

記憶の断片と映像とが

私は知っている

それだけじゃない、私は経験している

この流れを


目の前に浮かぶもの、それは不思議な感じ

敵意、殺意ではない、接触、それを感じた


「来る」


そう言葉がこぼれた瞬間、オレンジの螺旋は、その繋がりを離し迫ってきた

一瞬の出来事

攻撃も回避も出来ずに接触させられた

使徒が食い込む

それは攻撃でない接触、融合

影がしたように身体に葉脈が走り始める

あの時に似た激痛、快感が身体を走る

レイの視界が赤い水たまりに落ちた

水の中に半身漂いながら思った


鏡なんだ

私なんだ

私の心

私の求めるもの

この時、初めて具現化した

この鏡を通して

そして貴方、似ている

でも違う

あれは…


視界が戻る

葉脈は首にまで来て全身を覆っていた

目の端に現れる紫の鬼神

心の腕がそれに伸びた

求める心

それに気付いたとき、使徒を心の壁の中に引き込んだ

コーションマークのついたレバーに手をかける

ためらいのない手は、自らを焼き尽くす炎の引き金を引いた


悲しい心

気付いたのに、道をみたのに、自らを殺す

これも私の心

なんだろう?

この雰囲気…

…そう、貴方だったのね

私に真実を、と送った

ありがとう、私は思い出せるわ


白き光が身体を包み、莫大な閃光が弾けようとする中、彼女は微笑んだ

頭の中に真実という情景が、霞の中から姿を現し始める

場面が変わった





瞼を開く

そこは狭いガラスの筒の中

オレンジに浮かび上がる液体の中にたゆたう

水槽の外は薄暗い

頭上には脳の基底幹部に良く似た機械があった

身体を動かすには違和感がある

まだうまくシンクロしていないような

でも、それは今の身体だった

間違いない、今まで山を河を森を草原を歩んできた身体

心が冷たくなっていくのがわかる

身体を覆う“力”それを確かに感じるのだ

それまでの身体、本の中でいままで過ごした身体にはまだ感じていなかった

逆に自分の身体じゃないような微妙な違和感があった

それが今になって確かに感じる


そう…これが…私の身体

私の存在のルーツ

私の誕生のルーツ

ここにあったんだ

この“地”に

“黒き月”


瞼を閉じる

静かに、場面が変わった





瞼を開く

知っている天井

薄暗い部屋の中

ベッドに横になっていたレイは身体を起こす


自分の部屋

とても寂しい


ベッドを降りる

包帯が巻かれた腕や足

痛みはない

当り前だ

それは仮初のもの、本当は傷などないことは理解していた

冷たいタイルの上を歩き、部屋に一つだけある窓に向かう

その一歩一歩が重い

そして窓を覆っている厚いカーテンを両手で開いた


月…


窓から差し込む淡い光は薄暗い部屋の中を浮かび上がらせた

満月になる前の少し欠けた月

月が全ての姿を現す夜まで後少しの夜

自分の頬を流れるものを感じる

手を頬に持っていき、触れた

手を濡らすもの

月光の下でそれは淡く輝いていた


涙…


月がその身を包み込むように、白い光の手を向ける

それは優しくて暖かくて、そして似ていた


そうだったのね

私、もうこの時には決めていたんだ

もうこの時にはわかっていたんだ

魂に刻まれたもの…真実は、現実はここにある

甦った記憶

でも、私はどうしたらいいの?

これを知った私は、どうしたらいいの?


レイの唇が震える

その眸から大粒の涙が零れだした

真実、そして現実との邂逅

残酷でとても悲しい

月が揺れた


『その拘束はもはやない

 その大きな可能性という翼を拘束するものはもうない

 どうか、その大きな翼に気づいて欲しい

 そして、その翼を開いて欲しい』


『それは揺るがないだろう

 いきなさい

 もう迷うことのないように』


『生きていこうと思えば何処だって天国になるわ

 幸せになる機会は何処にでもある

 貴方にはその権利も力もあるんだから

 さあ、進みなさい

 私はいつでも貴方を見守っているから』


『さよならは言わない

 貴方も振り返らずに進みなさい

 真実を常にみて』


『レイ、進んで

 立ち止まることなく

 貴方の前にはまだ何も刻まれていない未来が確実にある

 貴方の道を作っていって

 それと、一つだけ忘れないでいて

 過去は過去

 大切なのは過去じゃなく、目の前の、自分が刻んでいく道だってこと

 お願い、過去に引きずられるようなことにはならないように、いつも心を確固としていて

 貴方になら出来るはず』


『君が歩むべき道だ

 君の前にある真実は、残酷なものかもしれない

 でも、それだけじゃないこと、忘れないでいてくれ』


レイの涙に合わせて巡りゆく言葉

それらが背中を押す、いや、レイの背に手を添えるように感じた


なんていうことだろう…

みんなが私の背中にかけた言葉、まるでこの時のためのものみたいに暖かい

私の背中を押してくれる


レイは空を見上げた

月に向かって声を紡ぐ


「ありがとう

 私は弱いわね

 決めたはずなのに、迷い

 見ようとしたはずなのに、曇らせようした

 でも、もう大丈夫


『気づくはずだ

 歩む道

 それは孤独の道ではないことに』


 その意味がわかったから

 だから、私は進む

 そして向き合うことにする

 だから、ありがとう」


月光がレイを包む

今度の涙は和やかに流れた

月が微笑む中、レイは瞼を閉じた





世界の終焉の日

空には満月、地には黒き月

レイは身を置き、その日の始まりを迎え、その日の終わりを送り出した

エヴァンゲリオン、使徒、ロンギヌスの槍、それらがセフィロトの木のもとに、そしてレイの意識と記憶の中に繋がった

ネルフとゼーレ、そして人々が甦る

夢の中の映画館で流れたフィルムに色がつき、音がのり、理解がともなった

真実にたどり着く

全てが頭の中に甦った時、レイは目の前の本、最後の文字の書かれたページが開かれた死海文書を閉じた

閉じようとしたときに見えた本の続き部分は白紙だった

パタンという小気味のいい音が静寂の中に響き、レイの視界に広がっていた映像は消え、闇の中に落ちた









目が醒める

それははっきりとした目覚めだった

ある世界からもう一つの世界へと投げ込まれたような

耳を澄ましてみる

音が無かった

静寂が辺りをつつみこんでいるらしい

ただ、あの闇の中のような無機質で、しかも生じた音さえも飲み込むような静寂ではなく、確かな実体が在る中の静寂だった

瞼を開く

緑の天井、あの林の中

風もなく、葉は揺れていない

少しの空気の流れを感じるだけ


私の世界


「私の…」


ふと浮かんだ言葉が唇から零れそうになる

でも、それは途中で途切れた


「起きれたのね…」


女性の綺麗な声が聞こえた

身体を起こす

そこは落ち葉が積み重ねられた自然のベッドの上だった

木の上に横になったはずなのに、でも、考えられない話でもなかった

準備ができたのだろう、最後の

荷物や銃が消えて、ただ胸にかかるミサトの銀十字が輝いているだけなのもその証だ

声の主は少女だった

亜麻色のロングヘアーが綺麗に輝いている

青い眸はレイの目を見つめ、そこには安堵と不安の色が混ざっていた


「起きれたのね…」


もう一度紡がれたその言葉は震えていた

そして、レイが口を開こうとしたのは再度妨げられた

レイは目を見開いて驚く

視界に溢れるのは亜麻色の髪の毛

ぬくもりを感じた

抱きしめられていたのだ


「ファースト…

 …いいえ、レイ…よかった…」


背中に掴む彼女の手の力がその気持ちを教えてくれるようだった

彼女のことをレイは知っていた

赤い鬼神を繰るもの

太陽のように明るくて、硝子細工のように繊細な心の持ち主

自分の気持ちを言い表せる彼女に憧れを持ったこともあったが、その性格、同じように他人を恐れるがゆえに言葉を交わしたのも少なかった

その彼女が自分を抱いて泣いている

でもそれは嫌な感覚じゃなくて、暖かいものだった

レイもゆっくりとその背中に手を回す


「…セカンド」

「お願い、名前で呼んで

 お願い…レイ」


消え入りそうな声

勇気がいった言葉なのはよくわかった

それは一歩

自分が同じようにしたとしても勇気がいったはずだ

それだけに嬉しかった

名前で呼んでくれたことに、名前で呼んで欲しいって言ってくれたことに


「…アスカ」


返事の代わりに背中の手に力が増した






幾許かの静寂が流れた

アスカの震えも止まり、二人の息使いが聞こえるだけ

その静寂を破ったのは、静寂をもたらしたのと同じアスカの言葉だった


「レイ、ごめんなさい」

「何故? 何故、貴方が謝るの?」

「私、貴方にひどいこと言った」

「…いいのよ、私のほうも貴方にひどいことをいったから」

「ううん、それが、貴方の足を鈍らせたなら、私は耐えられない…」

「えっ?」

「私は、私達は…」


「最後のシ者だから」


良く通る声がレイの背中に投げかけられた

アスカは腕の力を緩める

レイは声のほうに振り返った

足音の先、同年代の少年がこちらに歩いてきていた

レイは驚く

自分に似た容姿、雰囲気

銀色の髪、赤い瞳、薄い透き通るような儚い存在

レイと同じ、定めの日のために留め置かれた者


「フィフス…チルドレン……」


彼はすぐ近くまで寄るとアルカイックスマイルを浮かべた


「僕も、名字か名前で呼んで欲しいかな

 綾波さん」

「何故、貴方が…?

 …いえ、貴方もそうなのね、渚君」


カヲルもアスカも一瞬表情を固めたが、すぐにもとに戻った

アスカが腕を解き、レイの前に膝をつく

カヲルはそれを見てから自分もレイの前、アスカのすぐ隣に腰をおろした

足元の落ち葉はまるで意志があったかのように柔らかなカーペットに変わっていた

レイはそれを見て、二人に向かい苦笑を浮かべる

それから、息を深く吐き、そして深く吸い込んでから、言葉を出した


「最後のシ者…

 十七に与えられる称号

 でも、それはもうないはず

 なら、貴方たちの最後のシ者は何を意味するの?」


その言葉にアスカが手を向けた


「まず、まず確かめておきたいの

 レイ……貴方はもう全てを見て聞いて、思い出しているのね?

 私やカヲルのことを思い出しているから、もう全てを理解していると思うけど」

「私の記憶も、もう一つの記憶も、全て死海文書の中にあった

 私は見たわ、事実というものを」


アスカはレイの手を握った

力強く、アスカの中に表れる感情を伝えるように


「よかった…本当に、目が醒めてくれて

 アレを見たのなら、もう、目を醒ましてくれないかと思った

 起きているレイを見たときは、まだ知らないんじゃないかと思ったし

 思い出して、そして目を醒ましてくれてホントによかった

 …うれしい」


意外にも素直に感情を表せるようになっていたアスカの言葉はレイの心を温かくした

隣で銀髪の少年が和やかに二人を見つめる

レイにとって「うれしい」その言葉は何より足の重みを軽くした


「私は独りでそれを見たわけじゃない

 そこにはいろいろな人たちがいて、私の背に腕を、私の肩に手を添えてくれた

 決して押すわけじゃなくて、そっと支えてくれるもの

 その存在のお陰で、私は目覚めまで行き着くことが出来た

 この世界に

 ……でも、なんだろう…

 知る人たちの存在、それも大きかったけれど

 私が立ち止まりそうになったとき、その思いを包み消してくれたのは、月だった」

「月…?

 …それって…」

「だが…」


アスカの続く言葉はレイの耳に届かなかった

アスカの唇に指を置き、カヲルはその独特な笑みを消してレイに尋ねた

アスカは抗議をする前に、その纏う雰囲気に押し込まれてしまった

何かを探そうと意識を向けていたレイは顔を上げる


「それでも、まだ終わらない

 “ここからはじまる”こと

 全てを知った、思い出した今こそがスタートラインになること

 それは君が一番よく知っていることだろう
 
 序章までが長い、この世界という小説の中で

 むしろ本編はとても短いものになるはずだ

 どちらにいくとしても

 でも、それが二重の霞だ

 本を閉じるためには、向き合わなければならない

 “存在に”

 君が気づいているその存在に」 


レイの表情が暗くなる

カヲルの言葉、それがレイの心にある最後の扉への道明かりになった


「短い本編、でもそれは軽いものじゃない

 とても残酷で、過酷なもののはずだ

 …君の中にある“箍”もそれを過酷なものにするだろう

 君は僕と同じだ」

「!」

「カヲル!?」


レイの身体が一瞬震え、アスカが叫んだ

だが、カヲルはそれを柔らかく制した


「アスカ…

 僕たちは最後のシ者だ

 そのために僕たちはここに来た

 授けられた目的を達するためなら、どんな言葉も事実も選びはしない」


カヲルはアスカの肩を抱くと、レイのほうを向く

その紅い瞳が揺れた

レイの顔に驚きが表れる


「渚、君……貴方、コアが…」

「…そう、ダブリスは消えた

 そう選んだんだ

 渚カヲルと第壱拾七使徒ダブリスは一つの存在だ

 そして僕は自由を司るもの

 兄弟たちの中で、唯一自分の行く道を決定できる権威を与えられた

 そして向き合い、ここにいる

 その機会を与えてくれたのは君だよ


 …君は“母”だ

 その存在は大いなるものだ

 兄弟たち、そして僕の存在とは比べ物にならないほど」


レイは心の中に蠢くものを感じた

もう、それは何か?などと尋ねる必要はない

それは自分だ

それゆえの苦痛は前にも増す

カヲルの言葉、それが確信を裏付けた

アスカが、苦い顔で沈黙を解く


「ねぇ、レイ

 人は、人っていうのはどういうもの?

 人の定義っていうのは何処にあるの?」

「えっ…?」

「『私は一人じゃないから』『私は人ではないから』

 貴方の言葉、痛い痛い言葉

 人を形創るのは何か?それを教えてくれたのは貴方

 だから、レイに、その思いが足元の針になっているのなら

 いえ、そうなっている針を、今度は私が取り除いてあげたい」


レイは言葉を返せなかった

自分の中に巡る力



垣間見た、自らの出生、存在、目的だったもの

それらはアスカの言うとおり、レイの心に重圧をもたらしていた

レイ自身もわかっていた

心の重み、それがいつか、時が来たときに自分を喰らい尽くすものになることを

そんなレイの表情をみてアスカは続けた


「『あんた人形みたい』

 そう言ったの、私、すごく後悔してる

 なんであんなこと言ったんだろうって

 人を、人を形創るのはその心にあるのに

 レイは、静かだけど、確かに人の心を持っているのに

 身体なんてただの容れ物

 大切なのは心で、心が人を形創り、欠けた心が人々の中に人を存在させている

 私はレイにいて欲しい

 私たちの中に、レイの存在を

 ……

 レイはさ、みんなにあげすぎなのよ

 あれだけ与えたんだから、もう求めたっていいんじゃないの

 めーいっぱい求めたっていいんじゃないの

 レイには、その権利があるんだから」

「アスカ…ありがとう…」


自分とまるっきり正反対の性格

自分の思ったことを、行動でも言葉でも表すことの出来る人

レイが心のどこかで憧れていたものを持っていた身近な人間

そんなアスカの言葉だからこそ、レイの心に巣くうものを押しのけていく

相容れない存在、反発しあう存在だったけれど、そうじゃない

アスカの言葉だからこそ、最後に残されたつまずきのもとが消えようとしていた

レイの眸に光が戻る

今までになかった、眸に湧く光

レイの中で一つの区切り、でも大きな区切りがついた証だった

アスカはそれを見て安堵の表情を浮かべた

彼女の見たことのない、決意に満ちた表情のゆえに

カヲルも彼らしいアルカイックスマイルを浮かべる

身体を前に乗り出すような形でレイに向き、その口を開いた


「一つ安心した

 人の心は強いようで弱く、弱いようで強いものみたいだ

 僕とアスカは最後のシ者

 君の歩む道に対して指標を、そしてつまずくものがその道にあるなら、それを取り除くために“使わされた”者だ

 どうやら、最後の役目は全て終えたようだね

 あとは君が立ち、君が選び、君が進むだけ


 さて、君は全てを見た

 全てを身に過ごし、受け入れたはずだ

 そして、全てを理解しているはずだ

 現実、事実、真実

 自らのこと、他人のこと、そして向き合うものと、待つ者とを

 以前に君が出会ってきた者達

 彼らは君に全てを見せるため、そのための指標を示すために君の前に立った

 そして全てを理解した今、僕たちは最後のシ者として君に序章を終え、本編へと進むための指標を示す」

「私たちが最後に示す指標は“沙漠”よ

 そこで向き合うことになる

 そのために用意される場よ

 そしてその先にレイの目指すものがある

 私たちの存在はここまで

 この先はレイしか向かうことが出来ない

 当たり前のことだけど

 そこへの行きかたも貴方しかわからない

 いえ、貴方にしか見出せない

 この世界にあって」

「綾波さん

 人の心は弱いようで強く、強いようでとても弱い

 心の弱い部分、欠けた心は君を想うものたちが支えている

 もちろん僕もアスカも、そして“彼”も含めて

 欠けた心、A・Tフィールド、それには誰も干渉できない絶対領域

 でも不思議なことだね

 心のふれあいこそが、欠けた心を支えることの出来る究極の補完になるんだ

 君にもそれがある

 その存在を心に留めておいて欲しい」


カヲルの言葉に、レイの中に今まで出会い、言葉をくれたものたちの姿が、言葉が、情景が浮かび上がる

それから目の前にいる二人を見る

口を開こうとするが、もはや言葉が見つからなかった

紡ぐことも出来ないほど膨れ上がる想い

なんとかして表したいのに出来ない

そんなレイにアスカが近づき、強く抱きしめた


「レイ…

 言葉は要らない

 わかってるから

 ただ会うことが出来れば、全てを越えて会うことが出来れば

 私たちは、私は、それがうれしいんだから

 がんばってきなさいよ

 そして、絶対、絶対……」


アスカの言葉は最後まで続かなかった

でも、アスカの言ったように、それで十分だった

そして十分だということもわかった

その気持ちは、言葉じゃなくても伝わったから

レイは立ち上がる

装備はない

ただ唯一、銀の十字が胸に輝くのみ

でもそれは、欠けた心を支えるみんなの心のように重く、そして力強く感じた


「アスカ、渚君

 また、必ず」


送り出すアスカとカヲルを後ろに、レイは歩を踏み出した


さあ、私は向かう

そして私は向き合う

沙漠という指標の中にあって


レイの進む道に白い石英でできた砂が混じり始めた

葉の道の中で砂を踏む音が大きくなっていく

林の樹木が姿を消し始め、緑が消え始める

そして、レイが足を止め、深呼吸をして見渡すと、そこは360度全てが砂に覆われた地へと姿を変えていた

驚きはしない

“そう望んだのだから”

そして振り返りもしない

そこにはもう林の地はないことを知っているから


沙漠…


それはレイのための、向き合う場として定められた最後の指標

レイはそこに身を置いた

自ら望んで

そして進む

道のない道を

道を、レイ自身の道を見つけるために










<Prev[Goat for AZAZEL Index]Next>


ぜひあなたの感想をaba-m.a-kkvさんまでお送りください >[buthus-quinquestriatus@m6.dion.ne.jp]


【投稿作品の目次】   【HOME】